二、「あの日とこの日の邂逅」

 幼稚園から帰ってきた謙人はさして疲れを感じさせず、奥の居間で遊んでいる。宮川家には二つ居間があり、一つは玄関のすぐ側にある客人を迎えるためのもので、もう一つはそこから少し離れた寝室の側にある居間で、玄関から見えない位置にある。その居間は主に家族がくつろぐ場所であり、玄関側のそれよりもずっと謙人のおもちゃや教材が所狭しと置かれており、家の中で謙人の主な遊び場となっている。どうやら今のお気に入りは積み木のようで、何やら積み上げては壊して、また積み上げてと繰り返していた。
 そんな謙人の背を佳之は微笑ましそうに眺めつつ、再びペンを握り直す。テレビの近くで遊ぶ謙人の後ろの方にテーブルがあり、そこで佳之は子守り兼帳簿の整理をしている。本来帳簿に関しては香奈子の仕事なのだが、週に二度のカルチャースクールに通う日なので、本日は佳之が一切を任されているのだ。
 昔は子供嫌いだったが、今はこの背をこうして見ているだけでも幸せだ。楽しそうにしている謙人を見ていると、仕事の意欲も湧き上がってくる。色々な事があるだろうけど、家庭の幸せと言うものを強く求め続けていたい。
 ついと謙人から視線を外し、窓の外を見遣れば、緑深くなった街路樹に目を細めさせられる。今ある緑なのに、何故か遠い過去へと運ばれていく感覚に、首の後ろがくすぐったくなってしまい、笑いがつい漏れてしまう。穏やかな一時、こんなのがずっと続けばいいのに。
 あの強烈な幻聴から、一週間が経っていた。あれからあんなにもはっきりとした親父の声は聞こえてこないが、毎夜妙な雰囲気を感じたり、以前よりも屋上に対して恐怖を感じたりする様になってきている。もう忘れたかったのに、徐々に思い出してきてしまい、今ではふとしたはずみであの顔、あの声を思い出す。その度に暗い気分になり、全てが憎くなる。
 だから極力、思い出さないように決めた。それは現実からの逃避なのかもしれないが、ありもしない声が聞こえてくるのもまた、現実ではないだろう。記憶はやがて薄れて、消える。親父が生きていた頃は殺してやるだとか、自殺でもして楽になろうかと言う考えが強烈に肉迫していたけれど、今となっては思い出したからと言って、そうした気分にはならない。
 逃げて成り立つ人生だって、あるさ。
 帳簿の整理が一通り終わると、佳之は大きな伸びをしてから、立ち上がった。首や肩をゆっくりと回しながら、謙人の側に寄る。
「ちょっとお父さんタバコ吸ってくるから、大人しく良い子にしているんだよ」
「わかった。いってらっしゃい」
 謙人は一瞥しただけで、また積み木と向き合った。余程夢中になっているんだなと納得して、佳之は外に出る。多少風が強いものの、砂埃が舞い上がる程ではない。ゆったりとした足取りでベンチに腰を下ろすと、タバコに火を点けた。
 煙が色を見せる前に、風に流されて行く。家の中では香奈子が汚れや匂いが染み付くし、謙人の健康に悪いからと、外で吸うように言われている。肩身が狭く感じるが、これも謙人と家庭の円満のためだ。それに、外で吸った方が美味しく感じる。煙を深々と吸い込み、肺に満たしてから、青空に向かって吐き出す。紫煙が目の前で巻いたかと思えば、すぐ消える。何とも言えない心地良さだ。
「隣、いいですかね」
 ぼんやりとしていた佳之に声をかけてきたのは、やや腰が曲がっているけれども年の割にはしっかりとした口調の石岡達夫だった。石岡老人は秋月館創立時からの住人であり、その温厚な性格と立ち居振舞い、また歴史を良く知る人物として住人の多くから一目置かれている。また、立派な白い鼻ヒゲからも仙人然と見える一因でもあると言えよう。そんな石岡老人は穏やかな笑顔で佳之を見ていた。
「えぇ、どうぞ」
 動く必要は無いのだが、気持ち端の方へと体を寄せ、佳之が頭を下げる。佳之も石岡老人には昔から世話になっていれば、相談役にもなってもらっており、頭が上がらないでいるのだった。
「佳之君は散歩かい、それとも休憩かい」
「休憩です。帳簿の整理も一段落したので、まぁ一服しようかと」
「三代目もしっかりしていて、結構。ここはワシにとっても思い出深いから、つい心配してしまうのだが、佳之君からすれば余計な事かもしれないな。こんな爺が心配ばかりしていたら、必死にやっている佳之君に対しての冒涜なのかもしれないから」
「そんな事無いですよ」
 タバコの灰を灰皿に落としつつ、佳之は首を横に振る。
「冒涜だなんて、とんでも無い。むしろ石岡さんがいなければ、ここだってどうなっていたか、わかりませんよ。親父が亡くなって僕が全てを受け継いだ時、まだ若輩の僕を盛り立ててくれたじゃないですか。会議とかでも舐められがちな僕をかばってくれ、色々助けてくれたからこそ、今の秋月館と僕があるんですよ」
「いやいや、ワシは何もしていないよ。ただ、強いて言うならばだけれども、ちょっとした贖罪意識からかもしれないな」
「贖罪意識?」
 訝しげに石岡さんを見遣ると、俺はタバコの火を揉み消した。贖罪意識とは、一体何だろうか。俺が石岡さんにされた事はと思い返しても、援助しか思い浮かばない。では俺の知らない所で何かしたのだろうか。マンションの世界と言うものは意外と狭く、何かあればすぐ噂になるものだ。本人の耳に直接入らなくとも、完璧に隠したつもりでも、どこからか漏れてくる。しかし、俺は全くそんな事を耳にしていない。では石岡さんの言う贖罪意識とは何なのか。
「そう、そうしたものからワシは動いたのかもしれない。ただ、それが何かと訊かれても、答えはしないよ。人間はね、知る事全てが幸せに繋がるわけじゃない。例え偽りでも、幸せならそれでいいと思うんだよ」
 どこか寂しそうに達観した微笑みを見ていると、もう何も言えなかった。人には言えない過去が、誰しもある。それは誰かに対してのものであってもだ。ならば無理に訊き出さない事も、大人の付き合いなのだろう。
「では、僕はそろそろ戻ります。家に息子が一人でいるもので」
「そうかい、そうかい。それではワシはもう少しここにいるとするよ」
 優しく微笑んでいる石岡老人に一礼すると、佳之は来た時と同様にのんびりと家路を辿りながら、次の仕事をしようか、それとも謙人と少し遊ぼうかと幸せな悩みに考えを巡らせていた。
 奥の居間では謙人がひたすらに高く、積み木を積み上げていた。それは謙人の身長を優に超えており、謙人は椅子の上に立って真剣な眼差しでもって作業をしている。けれど積み木の数はそう多くないため、土台に用いる数も少ないからか、右に左に揺れており、それを支えるので手一杯なため、なかなか次の積み木を置けないでいる。
「ただいま。なんだ、随分高く積み上げたな」
「うん、もう少しで完成なんだ。こんなに高いの、もうできないかも」
 謙人は周りの子供達よりも大人びているが、同時に限界を作るのが早過ぎるようにも見える。挑戦はするのだが、失敗をした後に再挑戦をする気概があまり無いのだ。先日も香奈子が折り紙を教えていたのだが、真似てもできないからとものの十分で投げ出してしまった。上手く自分の指先が動かなかったからなのだろうが、それにしても見切りが早過ぎると後で香奈子と話し合ったりもした。もしかしたら謙人は落ち着く事が諦める事と同じに考えているのかもしれない、このままではすぐに挫折をして先に進まなくなる人間になってしまうと危惧し、それから熱意の大切さを説いたものだ。
「もうできないって諦める事は無いだろう」
「でも、今はこれが大事だから。これをすごいのにしたいから」
 大人から見てどうでもいい事であっても、熱心に物事に取り組む姿勢は良い事だ。そしてあの日から説き始めた熱意の大切さを理解してくれたんだと嬉しくなり、頬を緩ませながら俺は開き戸にタバコをしまい、また仕事でもしようかとテーブル近くの椅子を引いた。
「あっ」
 きっとそれが引き金だったのだろう。なるべく静かに引いたつもりだったのに、椅子の脚が床を擦ったため、謙人が積み上げている積み木が風に吹かれた柳の様に、先程よりも激しく右に左に大きく揺れ始める。慌てて何とか揺れを抑えようとするものの、力を必要以上にかけてしまったため、積み木は中程から分解し、大きな音を立てて散乱した。謙人は呆然と両手の中に僅かに残った積み木と、辺りに散らばったそれらを見詰めている。しまったと思った時にはもう遅く、謙人は肩を震わせて、床に叩きつけた。
「わ、悪かった。気を付けたつもりだったんだけど、崩しちゃって」
 椅子から下りてうつむいている謙人に、佳之が後ろからそっと声をかけた。
「あんなにがんばって、高く、すごく作ったのに。折角あんなに……」
 そこらにある積み木を憎々しげに、謙人は蹴飛ばした。何事にも八つ当たりをするのはよくない事だと叱ろうと思ったが、今怒っても逆効果だろう。あれは自分が悪い、子供に対しても素直に謝るべきだ。そうした姿を見て、謙人もまた一つ成長して欲しい。
「本当に悪かったよ。でもお父さんだって、わざと壊そうとしたわけじゃないんだ。だから今度はお父さんも一緒に作ってやるからな、機嫌直してくれよ」
「もういい、飽きた」
「まぁまぁ、そんな事言わずに。もっと高いやつを一緒に作ろうな」
「もういい」
 強い口調で佳之から背を向け、謙人は近くのソファにうつぶした。佳之は気付かれないように苦笑すると、散らばっている積み木を寄せ集め、先程謙人がやっていたように高く、ひたすら高く積み上げる。そこは大人と子供の経験差、土台になるべく大きな物を使い、しっかりと高さを伸ばしていく。
「ほらほら謙人、どうだ、高いだろう。お父さんがさっきまでの高さにしてやるから、謙人はその続きをやってくれよ」
 謙人は体を起こし、ソファからそれを覗き込む。やや赤く腫れぼったい眼でしばし見詰めていたが、また目を逸らした。佳之はそれを視認すると楽しげに微笑し、謙人の腕を引っ張って、積み木の前に立たせる。
「ほら、謙人。もういいだろう、そんなに意地張らずに許してくれよ。おわびに高く作ってやったんだからさ。すごいだろ、これ」
「……すごくない」
「どうして? ほら、とっても高いだろう」
「こんなのすごくない、ちっとも高くない。僕のがずっとずっと、もっとすごかった。何だ、こんなの、こんなもの」
 声を荒げ、泣きながら謙人が積み木を蹴り飛ばすと、数個の積み木が窓ガラスに当たり、その一つが亀裂を走らせた。俺はガラスの割れる音を耳にすると、そこと謙人を交互に見遣る。謙人はガラスを割った事に気付いていないのか、それとも気付いているが気にしていないのか、積み木を当たりかまわず蹴飛ばし続け、癇癪を起こしていた。
「謙人、幾ら気に食わないからって、物を蹴飛ばすな。おまけにガラスまで割って、何をやっているんだ」
 怒鳴れば謙人はびくりと身を震わせ、蹴る事を止めたが、涙混じりの眼で睨みつけている。小さな体での必死な抗議なのかもしれないが、おもちゃを粗末に扱ったり、ガラスを割ったりした事に怒らないと、親としての立場も無いし、この子のためにもならない。
「自分の気に食わないからって、そんな事をしたら駄目だろうが」
「だって、違うから。僕が作ったのと違うし、格好悪いし、変だし、それに」
 謙人は涙を手の甲で拭うと、再び佳之を睨んだかと思いきや、鼻で一つ笑い、そうして呆れたような苦笑を浮かべ、ついと視線を外した。
「……いいや、もういい、勝手にすれば」
 刹那、体の中に凄まじい電流にも似た痺れが走り、頭の中が真っ白になった。そして数瞬遅れて耐え切れなくなった憎悪が爆発し……。
 遠く、どこか遠くから聞こえてくる声。ぼんやりと、遥か彼方にぼんやりと見える人影。その全てがおぼろげで、蜃気楼の様に揺らめいている。けれど、見覚えがある。誰だろう、一体何を言っているのだろうか。目を凝らしても、見えない。ならば何を言っているのか聞いてみよう。そんな思いから耳を傾けるが早いか、それは一気に耳元へ迫り、瞳を覆っていた白い幕が取り払われていった。
「謙人?」
 何がどうなったのか、すぐには把握できなかった。僅かに痺れた感じのする右掌、床に倒れ臥して泣き喚く謙人。この繋がりがいまいち頭の中で噛み合わず、何度も俺はそれらを交互に見遣り、ようやく恐ろしい考えに至った。そんな事、決して認めたくない。認めてしまってはいけない。あぁ、けれどどうしようもない状況証拠が逃げる事を許さず、見詰める他無い。
「だ、大丈夫か、おい」
「痛い、痛い、うわああああぁ」
 喉が潰れんばかりの大声で泣き喚く謙人を、佳之は呆然と見下ろしていたが、やがて思い出したかのように謙人を抱き締め、目頭を熱くさせた。
 絶対に香奈子や謙人に対して手を上げないと密かに、けれど強く深く、人生のタブーとも言えるレベルで誓っていたのに、まさかこんな。あぁ、どうしてだろう、どうしてあの時、謙人の中に親父を見てしまったのだろう。あの仕草、表情、台詞とどれを取っても、親父と瓜二つだった。あの瞬間、親父が生前よく俺を小馬鹿にし、それを論破した後に負け惜しみとも取れる、嘲り笑った姿が重なった。途端、もう何も考えられずに謙人を平手で叩いていたんだ。
 それからしばらくの間、謙人は俺の顔を見ようとせず、ソファでうつぶしていた。俺はそんな謙人に詫びたり、機嫌を直してくれるよう懇願したりしたが、そのどれもが成果無く、やがて気まずさから自室に入った。自室で気分転換にと仕事を始めようとしたが、先程の事で頭が一杯となり、何も手につかない。タバコを吸っていないのに口の中に苦々しさが広がり、雨雲のような頭痛が覆う。気付けば俺は、一人頭を抱えてうずくまっていた。
 香奈子が帰ってくると、謙人はまた泣きながら駆け寄るなり、抱きついたらしい。自室から出てきた悲しげな俺と泣きつく謙人に、香奈子は自分の留守中に一体何が起きたのかわからず、ただただ狼狽するばかりだったので、俺は血を吐く様な思いの中で事の顛末を語った。ただ、親父の幻影云々は伏せたままにしておいたが。
「そんな、嘘でしょ」
 やはりすぐには信じられず、香奈子は力無く首を横に振る。だが、事実なんだ。俺は謙人をこの手で、叩いた。それまで妻や子はおろか、友達なんかも叩いた事が無いのに。それを知っているからこそ、香奈子は動揺しているのだろう。当然だ、俺だってまだ動揺しているのだから。
「いや、本当だ。それでさっき、ガラスについては業者を呼んだから、間も無く修理に来るだろうけど、俺はちょっと出かけてくる。考えたいんだ、一人で」
 神妙に頷く香奈子の脇をすり抜け、俺はまたタバコを手にすると外へ出た。弱まりつつある日差しに己の心の弱さも投影し、うつむきながらベンチに腰掛けるなり、タバコに火を点け、中空に向かって紫煙を吐き出した。今はもう、ひどく汚れた煙に見える。
 これじゃあ、親父も俺も変わらないじゃないか。子供に恐怖を与え、心に傷を残す事がどれだけ苦しいのか嫌と言うほど知っているはずなのに、俺は……。あんな父親になりたくなくて、色々な育児書を読み、できる限りの努力をしてきたつもりなのに、所詮それらはつもり止まりであり、実を結ぶには程遠かったと言うのか。
 佳之はもう一度煙を吐き出すと、幾らも吸っていないタバコを苛立たしげに揉み消した。そうして肩を力無く落とし、虚ろな眼差しで周囲を見遣る。当然だが、先程の出来事や佳之の苦悩など誰一人知らぬ顔で、ある人達は談笑を、ある人は散歩を、またある人はよれたスーツを小脇に抱え、重い足取りで一号館から出て行く。
 きっとみんな色々な悩みを抱えているに違いなく、こうした人々の中には自分よりも深い傷を負っている人だって、当然いるだろう。そう、誰かにこの事を真剣に相談したところできっと、みんな辛いんだ、なんて曖昧な言葉で無理矢理納得させられるだけで、何の解決にも至らない。頼れるのは最終的に自分、けれどそれまで培ってきたものが霧となって消えた今の俺は、一体何を頼ればいいのだろう。今は何も見えない。ただひたすらに謙人の泣き顔と香奈子の力無い瞳が思い出され、泣きたくても涙が出てこず、胸の中で暴れ狂う感情に押し潰されそうだ。

 室内には掛け時計の規則正しい音だけが、訪れかける静寂を許さないでいた。寝息もさして聞こえず、電気を消してカーテンを閉めているため、目を開けていようが閉じていようが、さして変わらない世界が広がっている。
 今、何時だろう。
 不意に意識が覚醒し、佳之は徐々に夢から現実へと向かって行った。けれど、本当に現実なのか今一つ判然としないでいたのは、この暗闇のせいだろう。どうでもいい、夢だろうが現実だろうが、日の昇るまでしっかり寝ておかないと、一日辛くなってしまう。そうぼんやりと頭の片隅で考えつつ、佳之は再び闇の中へと意識を委ねる。
『お前も、俺と変わらないんだ』
 重いまぶたが反射的に開き、苦々しげに眉根が寄る。ふとした瞬間に嫌な記憶を思い出すのは、悪い癖だ。けれど……ふとした疑問が急激に広がっていく。
 あんな言葉、言われた事があっただろうか?
 言われたような気もするし、そうでないような気もする。いやいや、何も今そんな事を深く考えなくてもいいだろう。いずれ考えればいい。ぼやけた頭で、わざわざ苛立つ事に気を回す必要は無い。仰向けになっていた体を妻のいる右方向へと向け、一切の思考を消そうとする。
『逃げられないんだよ、お前は。自分の背負っているものから、逃げられない。そうして繰り返す。お前が今日した事も、どこかで望んでいた事なんだよ』
 夢だ、幻聴だ、気のせいだ。余計な事を考えるな、リラックスして寝てしまえば何もかも忘れられる。それに、俺が謙人を殴りたがっていたなんて、そんな馬鹿な事あるはず無い。あれはただの……そう、ただのはずみだ。叩いた事は深く反省すべきだが、あれを俺の本性や願望だとするのは早計だ。
『逃げようとしても、無駄だ。あれは紛れも無くお前だ、お前の本性なんだよ。それにこれは夢でも、幻聴でも、気のせいでも無く、現実だ。目を背けようが向けていようが、れっきとした現実なんだよ。俺はお前の側にいる、お前は俺に似たガキを憎む。ちょっとばかり奇妙だろうが、これも家族の絆ってやつだろうよ』
 確かに血は繋がっているが、それだけが全てじゃない。人格は教育や環境によって変わる。親父に幼少期関わっていれば、謙人に何らかの悪影響を与えていただろうが、親父が死んでから謙人が産まれたので、親父と似るわけが無い。知らないものに似るわけなんて無いんだ、似ているだなんて、思い過ごしも杞憂もいいところだ。
『思い過ごしなものか、馬鹿め。あれは確かに俺の血を受け継いでいるんだよ。環境とか教育だとか、そんなもので上辺を取り繕っても無駄だ。お前はいつもいつもそうだ、都合の悪い事はそうやって逃げ回る』
 あぁ、あぁ、もう何がなんだかわからない。何が原因で俺をこう苦しめるんだ。どうして死んだ親父の声が、こうもはっきりと聞こえるんだ。もう終わったんじゃなかったのか、あの日に飛び降り自殺をして、それでもう忌まわしい親子関係に終止符を打てたんじゃなかったのか。どうしてしばらく忘れかけていた親父を、また近頃よく思い出すようになってしまったのか。
『親子だろ、俺達。仲良くしようじゃないか、な』
 脳裏に響く言葉と共に真一の歪な笑顔が目の前に浮かぶなり、佳之は布団をかぶると、枕に顔を押し付けた。強く枕に目を押し付け、息苦しささえ感じる布団の中で、無理矢理にでも意識を飛ばそうと念じ続けているうち、佳之は次第に何もかもが闇の中へと吸い込まれていくような感覚を抱いた。

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