一、「悪魔の鼓動」

 S県のベッドタウンとして近年開発が進められているK市、その中心部から少し外れた住宅街の中にある秋月館を地元住民で知らぬ者はいない。いるとすれば、ここ二、三年内に越してきた比較的新しい住人であろう。では何故にこの秋月館が知られているかと言えば、第一にどこよりも歴史あるマンションなのである。秋月館の歴史は周囲のマンション群よりも古く、今から六十年くらい前に初代秋月館が建てられた。初代というのは、現在の秋月館が三代目だからである。時代の変遷と共に増改築が行われてきたのだ。
 第二の理由がそこである。秋月館は時代と共に増改築を行ってきたが、それは常に周囲のマンションよりも大きく高くしてきた。そのため、秋月館は長きに渡りその地域において威風堂々とその姿を誇示してきたのである。ただ、ここ数年に関して言えば、この辺りにも高層化の波が押し寄せてきたため、十二階建ての秋月館より高いマンションもちらほら目立ち始めている。
 そして知る人ぞ知る第三の理由こそ、この秋月館を地元住民に知らしめる最大の要因と言っても過言ではない。最近入居した人々は総じてこの秋月館を歴史があり、大きく美しい建物で素晴らしいと評するだろう。無論それは地元住民だって感じている。けれど、もう少しここに長く住んでいれば、その内部事情にだって知る事となるだろう。現に秋月館を有名としている第三の理由は公然の秘密であり、そしてその事が歴代の悲劇を生み出しているのだ。
 長くやっていれば不穏な噂の一つや二つあるもので、それが評判、しいては経営にまで影響を及ぼすけれど、こと秋月館においてはそれを差し引いても、時代との調和や賃料、そしてネームバリューと言う点で高い評価を内外からされていた。
 もう少し秋月館について述べておこう。秋月館が建てられたのは今からおよそ六十年前、初代管理人である宮川金吾が戦後の復興景気に乗じて、このK市に秋月館を創設したのだ。宮川家はY県で農業を代々営んでいたのだが、金吾の代になってこれからは人に住居を貸す時代が訪れると、ここS県K市の土地を買い叩き、三階建ての秋月館を建て、美しい外観からは似合わぬ程の低賃料で部屋を貸し始めた。
 上向きになる景気と熱気に乗じ、秋月館も二号館、三号館と増えた。建物自体もそれに合わせ、三階から七階へと建て増したのだが、その外見から高級志向を目指す中流より少し上の住人、低賃料故に取り入れられた中流より少し下の住人など幅広い支持を受け、絶える事無く人が集まっていたのだった。
 金吾の跡を継いだのは佳之の父である真一だった。真一はやや強引で独善的な人間で、彼を知る住人からは今もあまり良い顔をされないが、経営手腕は確かなもので、バブル期に乗じて更にこの秋月館を拡大させた。ただそれは決して先の収入や永続的とさえ思われた景気に頼ったものではなく、堅実な部分を基盤として七階建てから十二階建てへとし、また内部や周囲に緑を多く配置して安らぎと同時に、秋月館自体の価値をも上昇させていった。
 そのため、バブル景気が終わっても秋月館の経営は揺るがず、むしろ蓄財を怠らなかったために、佳之の代になっても順風満帆な経営を存続する事ができたのである。このように歴代の管理人は時代の機微に敏感であったため、秋月館を安定して繁栄させてこられたのであった。これは周辺のマンション群とは違って、非常な成功を収めていると言っても過言ではない。と同時に、その安定した経営と初代から続く比較的安価だが高級感抱ける安らぎのここに、住人の人気は高い。満足感を常に得られているためか、住民間のトラブルは極僅かで、人々にとってある程度の理想を叶えているマンションだとも言えるのだ。
 現在管理人を務めている佳之は妻の香奈子と、一人息子の謙人との三人暮らしを営んでいる。香奈子の両親は健在だが、佳之の父である真一が七年前に秋月館の屋上から転落死、母の葉子が佳之中学生の時に病死と、宮川家には凶事が多い。また祖父の金吾とその妻も既に亡くなっており、宮川家を佳之が一身に背負っていると言えるだろう。
 しかし、だからと言って佳之だけが宮川家の血を残していると言うわけではない。祖父の金吾は真一しか子を残さなかったが、真一は佳之の他にもう一人子を残した。それがもう一人の宮川家の血を受け継ぐ佳之の妹、百合である。百合は佳之の四つ下である二十七歳であり、現在婚約者と同棲中。これは佳之が結婚をしたからそうしたと言うわけでなく、父の真一から一刻も離れたい思いから、百合が二十歳の時に家を出たのだ。ただ、七年前に真一が死んでからは、度々この秋月館に帰ってきたりもしている。
 さて先程少し述べたように、佳之の父である真一は屋上から転落したとあったが、それは対外的な言い訳のようなものであり、少しでも内情を知るものならばそれが自殺だと理解していた。それについて、ここでは地域住民が知り得る限りの情報を紹介しておこう。先代の秋月館管理人であった真一は経営の才能に溢れていたものの、住人からの評判がさして良くなかった。それと言うのも、一つ気に障る事があれば当事者のみならず、周囲にまでその事に対し愚痴をひたすら垂れ流し、他人の意見をほとんど耳に入れず、自分の言に少しでも異論があると感じれば猛然と怒鳴り散らす、そんな人間だったからだ。
 それは家庭内においても変わらないどころか、むしろ外よりも酷かった。何かとあれば同意を求め、頷けば他者を攻撃しようと躍起になり、首を横に振れば自分の正義を朝から晩までわめき散らし、いつしか頭のおかしな人と思われるようになった。
 そうした噂は真一の耳にも当然入ったらしく、事ある毎に彼は自分を頭のおかしな人間だからと卑屈になるのと同時に、それを盾にして自分の正義を一切曲げようとせずに、ひたすらわめき続けたのだった。
 そんな真一はある日突然、屋上から飛び降りた。けれど住人や地域の人々はそれに対し、さして悲しみはせず、むしろ弱冠二十五歳の新管理人を歓迎した。佳之もこれから訪れるであろう管理人の立場と言うものを自覚し、勉強もしていたので、経営が迷走する事はほとんど無く、住人が思っていたよりも安定した。むしろ以前の管理人よりも温厚な性格のため、容易く人気と信頼を得られたのも、また大きな要素である。
 佳之が生活しているのは一階の管理人室であり、賃借人に貸している倍の広さがある。貸している広さが一番低額なもので2LDKなため、管理人一家の居住スペースは充分だと言えるだろう。本来は六人家族が住む事を想定していたらしいのだが、今の三人暮らしでは余裕があると言うよりも、どこか寒々と無駄に広い感じを受ける。けれど佳之も香奈子も、居住スペースを狭める事により、広さはあるが暖かい家庭の調和をしっかりと保っていた。
 次に彼の仕事について述べておこう。管理人として集金、掃除、補修や住民間のトラブルに対する仲裁などやるべき事は多岐に渡るが、東奔西走の忙しさと言うわけではない。むしろ先代である真一の時には真一自身がよくトラブルを撒き散らしていたため、その火消しとして佳之が頭を下げ、日々腐心していたが、もうそう言った事も無いため、割とのんびり見回りをしたり、掃除をしたりしている。
 主にそれをやるのは佳之だが、香奈子の方もできる限りは手伝っており、時折佳之を心配させている。それと言うのも、香奈子は謙人に対して教育熱心であり、家事の合間に読み書きや簡単な計算、そして礼儀や作法など同年代の子供より数段上の教育を行っているのだった。香奈子はそれに加え、謙人を塾へと行かせようとしているのだが、まだそれは早いと佳之が止めている。
 そうした家事、育児、教育だけでも並々ならぬ力を注いでいるのに、時間が僅かにでもできれば佳之の仕事を手伝おうとする香奈子に、佳之はいつか過労で倒れてしまうのではないかと常に心配している。実際に香奈子はまだ二十九だと言うのに、三十半ばに見えても不思議でないくらい疲れた顔をしていた。
 それでも普通にしている分には何ら問題無く、むしろ所謂一般家庭よりは気楽に生活していられるのだが、一つだけ佳之の気を重くさせる事がある。それは見回り。週に三度の点検業務に、佳之は苦手意識を抱いていた。
 見回りは別段難しい作業ではない。単に何が不足しているか、どこか破損は無いか、誰か不審人物はいないかと目を配る程度の事なのだが、佳之にとってたった一点だけが強烈な苦手意識を抱かせるのに充分だった。
「それじゃ、ちょっと見回りに行ってくる」
「気を付けてね」
 一階にある管理人室から出るなり、まずは外へと出る。この辺も一昔前より大分土地開発が進んでいるので、車通りも建物も増えたと常々実感するのと同時に、幼い頃の景色と重ね合わせてしまう。年を取ったのだ。三十一と世間的には若いが、平穏なマンション管理人をしていると隠居した老人みたいな心持ちになる事も多い。さしたる刺激の無い日々の連続はきっと、心に耐え難い程の退屈を覚えさせるため、幼き日の刺激にまみれていた自分に思いを馳せてしまうのだろう。事実、最近とみに覇気が無くなってきていると自分でも思う。
 そんな事をぼんやりと考えつつ、敷地内をぐるりと回り歩く。一周するのにおよそ十分弱と言ったところだろうか。備え付けてあるベンチや簡易公園では何人かの住人が雑談を交わしているらしく、談笑が耳に届く。腕時計に目を落せば九時を少し回ったところなので、大方朝の家事を一段落させ、こうしているのだろう。
 それに今日は天気も良い。見上げれば六月の太陽がやや強く輝いているが、しばらく雨続きだったため、どこかそれすら心地良い。時折頬撫でる風に心を脱力させ、感じるがままの平和を味わう。世界とは結局自分に直接関わりを持つ範囲でしかないので、これでも自分の周り全てが頬緩む時間を共有しているのだと思えば、何だか嬉しくなってくる。
 敷地を大回りすると、三つあるうちの一番新しい三号館に足を踏み入れた。全館同じ造りだけど、やはり新しさと言うものはそこかしこから滲み出しているもので、何だか見回りをしていても他の二つより新鮮味がある。本来、自分はこの三号館を見回らなくてもいいのに、つい仄かに残る新しさに触れたくて訪れる。
 秋月館は全部で十二階建ての三棟構成である。三棟を佳之と香奈子だけで管理するには厳しいし、何よりそうした体制ならばずさんになりがちなので、宮川家が住んでいる一号館以外は人を雇って管理していた。そのため、本来は何か問題があった時にだけ赴くようにしているのだが、あまり顔を見せないのもどうかと思い、時折こうして佳之自身でも二号館や三号館の見回りをしている。
「あ、これはどうも」
 そう言って頭を下げてきたこの初老の男は、三号館管理人の鳥羽道伸である。豊かな白髪に年不相応なしわだらけの顔は、見る者によって七十過ぎに思っても何ら不思議ではないが、実際鳥羽は五十少し過ぎたくらいだ。
「どうも。今日はいい天気ですね」
「えぇ、ここ数日の雨も嘘みたいで。今日は気持ち良く晴れていますな、おかげで心も晴々とします。宮川さんもこの陽気に誘われたんですかね」
「まぁ、そんなところです」
 この陽気がそうさせるのか、何気無い挨拶でも自ずと笑顔になってくる。
「しかし、幾ら私にここを任せてくれているとは言え、こうして定期的に見回りをするのも大変でしょう。一階一階見回っているみたいですし、本当に感心します。まったく、先代とは……っと、まぁ、宮川さんもお若いとは言え、無理をしないで下さいな。何だか若くても、いつどうなるかわかりませんし」
「えぇ、どうも。でもこうして散歩がてらの見回りなので、そう大変というわけじゃないですよ。僕の年代だと、社会でもっともっと揉まれている人が多いでしょうから、僕なんて楽をし過ぎているくらいです」
「いやいや、実際に宮川さんはしっかりして-いますよ。そう自虐せんでも、もっと自信を持って胸を張ってもいいと思いますがね。おっと、これ以上ここで話していると邪魔になりそうなので、この辺にしておきますわ。あぁ、そうそう、後で新しく必要な蛍光灯などの雑費を伝えておきますね」
「わかりました、それでは」
 互いに頭を下げ、別れる。そして溜め息。確かに自分でも言ったが、俺は楽をし過ぎているだろう。こうしてのんびり散歩をしているだけで、日々生きていける事に何の意味があろう。たまに友人に電話をすれば、もっぱら仕事の愚痴ばかりで、生活の楽しみが聞えてこない。やれ上司に怒られた、やれ出向先の人に嫌われただの、泥を舐める様な努力をしている事がよくわかる。それを聞く度に、申し訳無さで胸が潰れてしまい、世の中に頭を下げたくなってきてしまう。
 また一つ大きく溜め息をし、ゆっくりと歩き始める。どう嘆こうが、俺はこうしなければならない。こうして家族を守り、住人から嫌われないようにしなければ、俺の居場所は消えてしまう。そうした強迫観念が、こうして時折俺を苦しめる。気分転換のはずなのに。
 しばらくして佳之は最上階に着いた。三号館の屋上は立ち入り禁止にしてあり、鍵も宮川家しか持っていない。そのため屋上への扉が施錠されてある事を確認するなり、佳之は踵を返し、エレベーターで一階まで戻る。三号館には今日も何ら問題無さそうだと判断するなり、佳之はすぐ隣の二号館へと向かう。二号館は三号館よりも古いとは言え、数年前に外壁工事をしたり、内部もその時々に応じて改修しているため、そう古さを感じさせないでいた。
 建物の新旧に違いはあるけれど、住人の質自体にはさほどの変わりは無い。見回りをしていても特に破損や汚れなど目立たず、秩序の良さを実感し、どことなく誇らしげな気分になってくる。二号館は三号館と同じで、どちらかと言えば最近越してきた人が多く、俺の顔を知らない人もいるけれど、そんな事は問題じゃない。管理人としては規則正しく暮らしてくれさえいれば、それで充分なのだ。自分の顔を知るとか知らないなんて些細な事、親父とは違う。
 密かに握り締めた拳に、今一度決別を誓う。亡父に対し絶大な憎しみを抱いている佳之によって、憎んだ行動には一つたりとも同じでいたくないのだ。それと言うのも、真一は自己顕示欲が非常に強い方で、住人が自分に挨拶をしなければ怒鳴り散らしたり、家族に対して不平不満を所かまわず時刻も無視してぶちまけ、常に自分の存在と言うものを目の前に置かせようとしていた。
 そんな真一が、佳之には堪らなく嫌だった。人に幾ばくかの不快感を与えてまで己の立場を誇示する必要が、一体どこにあるのか。佳之はその信念を持って真一を事ある毎に諌めたけれども、柳に風、いや馬耳東風、聞く耳を一切持たなかった。何か言えば真一は「お前にはわからないだろうが」との前置きと共に詭弁を労し、それでも何か言えば「お前らみんな狂っている」と罵り、自分の考えを微塵も変えずに、管理人として統べていた。
 思い出しても怖気が走る。もう死んでから七年も経つのに、未だ嫌な記憶が時折鮮明な映像として脳裏に浮かぶ。一体いつになればこの呪縛とも言える嫌な記憶から解放され、ここにある幸せを感じるだけになれるのだろうか。……ははは、こうして事ある毎に思い出してしまうから、いつになっても忘れられず、縛られては苦しんでいるんだろうな。
 人知れず苦笑しながら廊下を歩いていると、中年の女性に軽く会釈された。この人は名前こそすぐに思い出せないが、会えばこうして挨拶をしてくれる。何気無い事なのだが、このように大勢を管理しているとそれすら嬉しく思え、笑顔でこちらも会釈する。こんな触れ合いが積み重なり、人生が彩り溢れてくる。
 前を向いているのに、心に冷たい風を感じてしまうのは何故だろうか。
 薄く青みがかったドアにオフホワイトの壁、子供の頃からずっと慣れ親しんできた配色に、今更ながら感慨を覚えてしまう。どうも謙人が産まれてから、それまで当然の様に接してきた全ての物に、もう一度新しく触れた気になって仕方無い。子は親の成長を後押しする。俺は謙人が産まれ、様々な事を学び、また考えさせられ、そして思い出させられる。そう、いつの間にか俺は子供の時に抱いていた疑問、発見、感動をすっかり忘れてしまっていた。あの時、世界の全ては光り輝いていた。何もかもが新鮮で、一歩進めば驚きと発見の連続、明日が楽しみだった。
 しかし今はどうだろう。テレビや雑誌、または人づてから聞いた話などで世界の全てを知った気になり、例え目の前に驚きがあっても既に知っているかのような顔をしていなければ、世間から無知な奴だと蔑まれるのではないかと恐れ、それ故に限られた世界の中で物知った大人として振舞ってきた。そう言う事が大人になるものだと周りを見て思っていたのだが、謙人の時折ぶつけてくる純粋な疑問が、昔を思い出させる。
 あの頃の自分にもう一度会いたくて、今こうして触れ直しているのかもしれない。改めて壁やドアの色に思い馳せて、遠い過去の驚きと発見の一端を今に生かしたい。そんな事ばかり考えているから、年寄り臭いと友人に言われるのかもしれない。
 三号館と同じように屋上へと通じるドアの前に立ち、鍵がしっかりかかっているのを確認するなり、半ば逃げるようにその場を離れる。何も無い、例え鍵を解いて屋上へ上っても、澄み渡る青空と貯水塔があるくらいだ。まさか合鍵を作り、俺に知られないようそこへ行き、何かしているとは思えない。いや、思いたくない。何も無い、何も無いんだ。
 エレベーターで一階へと向かっている途中、七階で一旦扉が開いた。十二階建てでそこそこ住人もいるのだ、珍しい事ではない。だが乗り込んできた人に、幾らか驚いた。それと言うのも八十歳を超えた老人、二号館管理人である山口恒久だったからだ。
「どうも、いつもご苦労様です」
 先に頭を下げたのは佳之からだった。自分よりずっと年上と言う事もあるだろうが、それよりも祖父の金吾からの友人であり、何かとこの秋月館を支え、二号館創立当時から運営に関わってきた人間だ、自ずと佳之の方から敬意を払う。
「お体の方はいかがですか」
「あぁ、これは佳ちゃん、ご苦労さん。いや、体の方は大丈夫よ。ちょっと前は心臓にきてたが、今の医者はすげぇからな、薬飲んでいたら大分良くなったわ。佳ちゃんはどうよ、自分の体の事もあるだろうが、今や妻も子もいるから健康にゃ気を付けんといかん立場だからな」
 やや活舌が悪いものの、高齢ならば仕方無い程度である。腰も大分曲がっており、先日は心臓を悪くして一ヶ月程入院していたものの、同年代と比べると頭の方はまだ聡明なままだ。
「そうですね、もう少し前と違って、僕だけの体じゃないですからね。息子が産まれてからと言うもの、ようやくそんな意識が芽生えてきましたよ」
「ははは、佳ちゃんは子煩悩だからね、そこからそう言う意識も生まれるか。ところで佳ちゃん、今は見回りかね」
「えぇ、そうですけど」
「大変だねぇ。本来ならわしがもっとしっかりしていれば、週に一度や月に一度でもいいだろうに。本当に年は取りたくねぇもんだ」
 苦笑する山口さんが不意に掌に目を落す。その眼差しがとても寂しげで、何だか意味も無く罪悪感が胸を衝く。
「いえいえ、山口さんには随分お世話になっていますから。それに見回りと言っても、そう大したものじゃないですから、散歩がてらやっているようなものです。管理はお任せしていますが、無理しないで下さい。山口さんに万が一の事があると仕事としても、個人的な思いとしても困りますしね」
「そう言えるくらい、佳ちゃんも成長したんだな。まぁ、成長してもらわんと困るから、ここは喜ぶべき事なんだろうな」
 やっぱりいつまで経っても山口さんからは子供扱いされるが、そんな事が僅かながら心をなごませる。祖父の事はほとんど知らないし、親父からは恨みや嫉妬ばかりを浴びてきたため、父性と言うものをよく知らない。いや、知らないと言うのは父性の温かさだ。親父からそうしたものをあまり感じず、大人の男性と言うものに子供の時は幾らかの恐れがあったけれど、山口さんなどはまるで我が子同様にそうするかのよう、包み込むような温かさで俺に接してくれた。もちろん怒られるべき時には怒られたけれど、それも子供ながらに納得できたから、嫌いになんてなれなかった。
「それでは、わしはこれで。あぁ、何だったら少し寄って行くかね」
「すみません、まだちょっと見て回るところもありますので、今日のところはこれで」
 頭を下げる佳之を山口は手で制す。
「あぁ、いいんだ、いいんだ。忙しいのを無理に引き留めるだなんて、これっぽっちも考えちゃいないよ。まぁ、暇があったら寄ってくれ、いつでも相手にするからさ」
「どうもありがとうございます」
 一階にエレベーターが到着すると、山口は二号館の管理人室へと向かった。その背を見送り終えると、佳之も最後にと一号館の方へ歩き出す。腕時計に目を落せば、もうすぐ十二時になる。早く見回りを終えて食事にしようと、その足取りはやや早まった。
 秋月館の一号館は一階に管理人室兼自宅がある以上に、感慨深いものが佳之にある。幼年期の思い出はほとんど自宅とその周囲で作られるものであり、佳之にとってそれがここなのだ。マンションは遊び場でもあり、様々な人間との社交場でもあり、そして決して離れる事ができないため、墓場の様なもの。喜びや憎しみに彩られたこの場を一生の土地と決めたのは、他ならぬ佳之の決意である。
 けれど、決意だけで全てを愛す事はできない。辛く苦しい思い出から目を背けたり、耐えたりなどして、目も前にある幸せばかりをじっと見詰める。それだけが自己防衛。佳之にとって、この一号館はそれが最も顕著な場所なのだ。
 見回りをする際、一階から十二階までの各階への移動手段に階段を使う。なるべく意識して歩かなければ、どうも運動不足になりがちだからとそうしているけれど、さすがに二号館三号館と歩き回っていれば疲れも溜まってくる、階段を一歩上がる毎におもりが加わっていくかのようだ。学生時代は運動部に入っていて、それなりに汗を流していたけれど、卒業してからと言うもの、これと言った運動もしていないし、俺も三十代になった、これからどんどん体力が落ちていくんだろうな。そんな切ない思いを、人知れず溜め息に乗せる。
 八階辺りで足が痛くなり、十階で柵に手をつき一休み。風を感じ、ゆったり流れる雲を眺め、心にぼんやりとこのままこうしていてもいけないなと言う危機感が生まれたとほぼ同時に、あと少しだと自分を奮い立たせ、また見回りを続ける。十一階で休んだ分の体力がまた無くなりかけ、十二階の階段を上りきった時には、いつもながら達成感ばかりが胸を占めてしまう。けれど、俺にとってここからが本番だ。
 十二階をざっと見て何も無いと確認すれば、最後の個所、即ち屋上へのドアだ。二号館三号館のを嫌がっている原因に、ここ一号館の屋上で起こった事件がある。七年前、このドアの先にある屋上から、親父が飛び降り自殺をした。しかも俺の目の前で。憎んでも憎み切れない最低の人間でも、目の前で死なれると一生の傷を心に残してしまう。なるべくならば、思い出してしまうから近付きたくないのだが、例え嫌でもやらなければならないのが仕事だ。胸に渦巻く汚らわしい記憶を堪え、ドアノブにゆっくりと手を伸ばす。
 期待通りの抵抗が手に響く。鍵は今日もかかっている。僅かにひやりとしたドアノブと自分の心が重なった気がしたけれど、それもすぐに滝の様に流れる安堵によって、どこかへと消えてしまった。
「さて、帰るか」
 安堵の残滓を言葉にして吐き出すと、佳之は踵を返した。胸にある思いは一つ、一刻も早くここから立ち去り、そうして香奈子の料理をみんなで食べる事だけ。
『お前は何もわかっていない』
 不意に聞こえたその言葉に、俺は足を止め、咄嗟に辺りを見回した。けれど人影はどこにも無く、聞こえる音は風が運ぶ生活音ばかり。話し声は聞こえない。いや、聞こえるはずが無いんだ。どうして七年前に死んだ親父の声が、今聞こえてくる。
 疲れているんだ、だから余計なことを考えてしまうんだ。先日不覚にも謙人があんな腐れ親父に似ていると思ってしまったし、それにここは親父と縁深い場所だ、つい記憶に強く残っている忌まわしい言葉が浮かんだのだろう。
 強張っていた肩の力を抜き、また歩き出す。早く離れないと、また何か思い出すかもしれない。まったく、生きている時には煩わしいから早く死んでくれと願っていたけど、死んでからも嫌な気分にさせられるとは思っていなかった。一歩踏み出せば、自ずと苦笑いによって頬が緩む。もう死んだ人間なんてどうでもいい、ましてや親父ならば尚の事。
『お前なんかにわかるわけが無いんだ』
 またも突然脳裏に響く親父の言葉。振り払おうとしても、生前言われ続けた理不尽かつ腹の立つその一言が、今なお心乱す。あぁ、無視するんだ、意識を向けるな、例えそれが自分の内面からだろうが、見るな、見るな、耳を、心を傾けるな。振り返ろうとせず、疲れからだと自分を納得させて、早足でエレベーターへと向かう。カゴが来るまでの間すっかり背筋が冷たくなってしまったが、すぐさま乗り込んで一階へのボタンを押す。これでいい。
『いつもそうだ、お前は何でもかんでも目を背ける。自分が気に食わないもの全てを、害悪だとかと気取って批判して』
 エレベーターのドアが閉まる直前、またもすぐ側で言われたかの様な親父の言葉に、軽い身震いを覚える。確かに見回りのために歩き回ったから、疲れているのは事実なのだが、何故こんな。今までこんな事など無かった、時に何かのはずみで思い出し、一人記憶の中にいる親父に嫌悪や苛立ちを覚えたりもするけど、こうして屋上のドアの前でこうも切迫したものを感じる事なんて。早く帰りたい、帰って香奈子や謙人の顔を見て、安心したい。
 いつもより一階に着くのが長く思えた。ともすれば、永遠にエレベーターの中に閉じ込められ、一階に着かないのではないかとすら考えてしまった。途中で何人か乗り降りしたけれど、正直その誰もが恐ろしく、色の無い人達に見えた。けれど彼らがいなくなれば、それはそれで寂しさから親父の幻影が側にいるような気がして、生きた心地など無かった。ひたすらに、ただひたすらに、太陽が恋しくて堪らなかったのだ。
 一階に着き、ドアが開くなり俺は外へと駆け出し、恋焦がれてさえいた太陽を全身に浴びた。暖かく、眩しく、やや埃っぽくて、あぁそれだけだ。けれど、安心した。何でも無い事の日常が平和ですらある。なんて、一体何を考えているんだろうな。馬鹿馬鹿しい。もう死んだ人間より、今ある生活だ。親父が生きていた頃は悪夢としか言えなかったが、いつまでもそんな事に縛られていたら駄目なんだ、俺の毎日は変わった。
 わかり切っている事なのに、またつまらない疑問をループさせ、一人煩悶する自分に苦笑しつつ、佳之は自宅へと戻った。帰宅すれば香奈子が謙人と一緒にやきそばを食べており、佳之を確認するなりねぎらいの言葉をかけ、皿によそい始める。
「何だか元気無さそうだけど、どうかしたの?」
 黙々とやきそばを頬張っていると、香奈子が顔を覗き込んできた。
「いや、別に」
「そう、ならいいんだけど。ほら、最近何かと物騒でしょ。この前も放火事件があったし、高校生数人が強盗したり中学生がひったくりしたりと、何が起こるかわからないから、もしかしたらそう言ったトラブルでもあったのかなって」
「そんな事、全く無いよ。あったらすぐ話しているだろうし、警察だって呼ぶさ。いつも通り特に何か壊れていたりとか、汚れていたりとかだなんてところ無かったし、不審な人物とかもいなかったなぁ。鳥羽さんと山口さんにも会ったけど、二人共相変わらずだったよ。それよりお茶をくれないかな」
「煎茶とほうじ茶があるけど」
「ほうじ茶で」
 香奈子が席を立つなり、佳之はまたやきそばを食べ始める。謙人はと言えば、テレビの教育番組に夢中になっており、時に笑ったり時に感嘆したりしている。佳之も香奈子もそんな謙人をちらちら見ては、頬を緩ませていた。
 佳之の食事が終わり、香奈子が食器を洗い終えてからしばらくすると、夕食の材料を買ってくると香奈子が告げた。佳之はテレビから香奈子へ目を移し、ついでにタバコを一カートン買ってきてくれと頼む。
「あら、誰かしら」
 不意に鳴り響いた玄関チャイムに、香奈子はいそいそと買い物に行くための支度を中断して、玄関へと赴く。忙しい香奈子に代わって俺が応対すべきなのだろうが、どうにも最初の一歩が遅れてしまったのだから仕方無いと、自分に言い訳をする。
 玄関から途端に賑やかな声がし始めた。これは訪問販売員の類ではないなと思うが早いか、足音がこちらへと近付いてきたため、慌てて俺は崩していた姿勢を建て直し、来訪者に備える。
「お邪魔します。って、自分の家だったはずなのに、何か変だね」
 居間に現れたのは茶髪が背中まで伸び、目鼻立ちがどちらかと言えばはっきりとしないが、美人と言うには充分な女性だった。佳之は彼女を見るなり、溜め息一つ漏らし、また体を元の様に崩す。女性はそんな佳之を何だか微笑ましげに見ている。
「なんだ、百合か。久々だな、お前が帰ってきたのはいつ以来だ?」
「三ヶ月ぶりくらいじゃないかな」
 佳之の四つ下の妹である宮川百合は手提げのバッグを置くなり、ソファに腰掛けた。
「百合お姉ちゃん、こんにちは」
「はい、こんにちは。謙ちゃんも元気そうね」
 謙人の元気な挨拶に、百合も頬が緩む。
「本当に可愛いね、謙ちゃん。こんなに可愛いのに兄さんの子だなんて、今でも信じられない。やっぱり義姉さんの血が濃いんだろうね。鼻筋とかすっと一本通っているしさ」
「久々に帰ってきたと思ったら、これか。そんな事ばかり言う奴には、茶もやらんぞ」
「ごめんごめん、お茶くらいちょうだいよ」
「しょうがないな、ほうじ茶でいいだろ。おい、俺のも頼む」
 香奈子に茶を淹れてくれるように頼むと、俺と百合は脱力した笑みを交わした。長年共に歩んできた肉親だけが交わせる安心感に、どこか嬉しさにも似たものも湧き上がる。昔から仲が良く、これと言って喧嘩などした事が無い、評判の兄妹だ。好みや性格などは違うけれど、不思議と気が合う仲である。
「それで、どうしたんだ。彼氏に飽きられて戻ってきたのか」
 彼氏と言うのは百合の同棲相手である増畑延照の事である。百合とは既に婚約を済ませており、近々結婚する予定もある仲だ。
「違うよ、延照が出張中だから、たまには実家に顔を出そうかなって考えただけ。それとも何さ、用が無かったら帰ってきちゃ駄目なの?」
「ただ訊いただけじゃないか、まったく」
「本当に仲が良くって、羨ましい」
 香奈子が二人の前に湯気立ち上るほうじ茶を差し出すと、百合は軽く頭を下げた。
「それでは、ちょっと買い物に行ってきますね。謙人はどうする、お母さんと一緒に行く?」
「うん、お母さんと一緒に行こうかな。それじゃあ、お父さんに百合お姉ちゃん、行ってきます」
 百合の近くに座っていた謙人はぴょこんと立ち上がるなり、香奈子の手を握った。香奈子はもう一度頭を下げ、謙人と共に近所のスーパーへと向かっていった。二人の気配が完全に消えた頃、百合がお茶に手を伸ばす。
「謙ちゃん、ちょっと見ない間に大きくなったね。兄さんも親として嬉しいでしょ」
「そりゃ嬉しいさ、特にあのくらいの頃はどんどん大きくなるし、色々覚えるから目が離せないよ。まぁ、苦労させられると言うか、困らせられたりする事も多いけどね」
「でも、同年代の子と比べて大人しいよね。やっぱり香奈子さんがしっかりしているから?」
「だろうな、俺と違ってあいつは教育熱心だから。簡単な礼儀作法や文字の読み書きはもちろん、足し算引き算、九九、時計の見方とか色々教えているみたいだよ。その上、英会話やら習字やらを教えたいから、これから塾やお稽古教室に通わせた方がいいのかとも相談されたけど、それはさすがに反対したよ。まだ遊びたい盛りなのに今から勉強ばかりしていたら、中学入ったくらいで嫌になるだろうからね」
 佳之の言う通り、家のそこかしこに香奈子が買ってきたり、また自作した教材が貼られていたり、置かれていたりする。絵本はもちろんの事、遊び道具も創造性を刺激すると謳われている物がほとんどで、キャラクター物の人形などの類は少ない。
「でも今は幼稚園に入る前からお受験するのも、珍しくないからね」
「そうらしいが、昔よりも学歴と言うものが薄っぺらくなったからね、そこまでしなくてもいいと思うんだ。俺達が子供の頃は勉強して、少しでもランクの高い大学に入れば、一生を約束される社会が待っていると言われたものだが、いざ大学を出てみればそんな事は無く、それどころか就職難となっていた。勉強した奴も大してしていなかった奴も、大差無かった。そんなものを見ていたら、あまり勉強ばかりさせるのも可哀想でね。人間何の才能があるかわからないだろう、勉強ばかりしてそれを潰すのは子に対して悪いと思うんだ。成長すれば、必要に応じてやるようになる。やらなければ、それまでさ。まぁ、手助けはするけどね」
「確かにね、私も今の会社に入るまでかなり落されたし。でもさ、それだったら兄さんは内心、香奈子さんの方針に反対なわけ?」
「いや、反対なんて思ってないよ。むしろ、賛同しているね」
「何で、矛盾してない?」
 やや眉根を寄せ、百合が身を乗り出す。
「子供が勉強嫌いになるのは何でだと思う。それはわからないまま、次々進んでいくからなんだよ。学校とかだと、基礎をいまいち理解出来ないまま、応用に移る事もあるだろう。わからないものを展開していく授業なんて退屈極まりないから、段々と嫌になる。中学高校くらいになれば、得手不得手と得意科目が分かれても大した事は無いが、小学生だと少しでも躓けば、いじめられたりするだろうからね。それに、入学してすぐに勉強が嫌いにでもなれば悲惨だぞ。義務教育で九年、高校まで行くのが普通だから十二年は退屈な時間を過ごす羽目になるんだ。だったら、少しでも楽しいと思わせたいからね」
「へぇ、なるほどね。そう言うのって、何か教育本とかで知るわけなの」
「そうだな、俺は色んな本とか経験とかで、そう思うようになったな。ほら、母さんは俺の場合、思春期に亡くなったし、親父を見ていたらあんな風にはなりたくないと思っていたからさ、まかり間違って謙人があぁならないよう、俺も香奈子も勉強しているわけ」
 苦笑しつつお茶を口に運ぶ佳之を見て、百合もそれに倣った。
「お父さんの様には、ね。確かにあんな風になったら謙ちゃんが可哀想だし、周りからも何言われるかわからないよね。ほら、お父さんてば、自分が偉いとか一番だと言うのに凄くこだわっていたからさ。あぁなったら、もう周りが見えなくなって、人間として駄目なんだろうね」
「まったくだ。子供の頃は俺達を小馬鹿にし、俺達が家の事とかに真剣に考える様になったら、自分の立場だとか役割とかを必要以上にアピールして、家のためだとわめき散らしていたよな。もうあれが嫌で嫌で」
「そうそう、お前等は何もわかっていない、俺は家の事を誰よりも考えているんだってね。兄さんなんて、事ある毎に張り合われたり、嫉妬されたりと大変だったもんね。親の事を悪くなんて本当は言いたくないし、死んだ人を悪く言うのも何だけど、どうもねぇ」
「苦労させられたよな、お互い」
 佳之は湯飲みに口を付けたが、お茶は既に冷たくなっていた。
「そうだね、本当に苦労させられた。誰も彼も信じないから、話し合いなんてできなかったし、自分の非を認めず、思い通りに事が運ばないと癇癪起こして……。でも、今はもうそんな事に頭悩ませる心配なんて無い。やっと兄さんも私も、自分の生活を邪魔されずに送れるようになったね。当たり前の事なんだろうけど、幸せなんだって実感するよ」
「そうだな。しかし俺達、顔を合わせればいつもこんな事ばかり言っているな。一体いつになれば、こんな話題しなくなるんだろうか」
 哄笑が居間に響き渡る。逃れられぬ業を諦観する様な、それでいて全てが馬鹿馬鹿しいとでも言った底抜けの陽気を持った笑い。佳之と百合は一頻り笑った後、ふっと目を細め、遠い思い出に心馳せていた。
「それじゃ、そろそろ行こうかな」
「何だ、泊まっていかないのか」
 百合はバッグを手元に引き寄せる。
「暖かい家庭に長居するのも何だしね」
「何言ってるんだ、お前の家でもあるだろ。遠慮なんてする必要無いってば。たまには泊まって、ゆっくり謙人と遊んでいけよ。飯だって香奈子が作ってくれるから」
「いいよ、そんな。それにこれから、友達と約束があるの。時間はまだ少し余裕があるけれど、ちょっと買う物もあるし、また今度ね」
「そうか」
 嘘か本当かわからないが、気を遣ってくれている事だけは確かだ。百合は立ち上がると、挨拶もそこそこに玄関を出て行ってしまった。一人残された俺はしばらく玄関に立ち尽くしていたが、香奈子が帰ってくる前に片付けでもしておこうと、居間に踵を返した。
 しばらくして、再び玄関のドアが開いた。小気味良い足音がしたかと思うが早いか、まず謙人が居間に飛び込んできた。やや遅れ、ビニール袋がこすれる音と共に香奈子が居間に入ってきて、辺りを見回すなりどこか残念そうな面持ちをし、佳之の顔を覗く。
「あら、もう帰ったの?」
「あぁ、何でも友達との約束があるらしい」
 謙人にうがいと手洗いをするように促しつつ、香奈子が買い物袋をテーブルの上に置き、食材を冷蔵庫に詰める。
「そう、残念。ごはんでも食べてもらおうと、少し多めに買ってきたのに」
「あいつは昔から俺と違って、あっちこっちと出歩くからな。まぁ、いずれ飯を食いに来る事もあるだろう。それより謙人、今日は何のお菓子を買ってもらったんだ?」
「ビスケットだよ、ほら」
 買い物袋から取り出し、俺に見せてくるそれは、いつも香奈子が謙人に買い与えている、チョコレートやサワークリーム等が使われていない、いたってシンプルなやつだ。虫歯にならないためだとか、子供の頃からでも糖分を摂り過ぎないためにと香奈子はビスケットのみならず、他のお菓子でもなるべく同じ様な物を買い与えている。その努力の甲斐もあり、謙人に虫歯がほとんど無いのだが、同時にそれらあっさりした味に慣れたためか、チョコレートなどがふんだんに使われたものをたまに食べさせようとしても、あまり好まない。
「ビスケット好きなんだな。お父さんが子供の頃は、まんじゅうとかケーキとか、甘い物が大好きだったものだが、謙人はあまりそう言うの食べないな」
「そう言うのって、甘すぎて気持ち悪くなるから、好きじゃないの。それに虫歯にでもなったら、歯医者行かないとならないし、やだなぁ」
 なるほど、子供にとって歯医者は恐怖の対象だから、虫歯にならないよう甘い物を控えるのも一つの選択ではある。けれどこの年でしっかりと我慢できるのは、我が子ながら感心してしまう。自分が子供の時は親に隠れて甘い物を食べ、よく虫歯になって苦しんでは歯医者に泣きながら連れて行かれ、それでも甘い物を食べ続けてはと繰り返していたから、余計に。
「虫歯にならないようにしているのは、偉い事だ。お前は賢いな」
 掌に感じる小さな頭と柔らかな髪が、俺の胸を仄かに締め付ける。目を移せば、香奈子が微笑んでいる。これが俺にとって守るべき家庭であり、誇るべき家庭なんだ。それを実感し、大切にしようと誓う度にある種の喜びが力となる。
 佳之がにっと笑えば、謙人も香奈子も同じ様な笑顔を向けた。

 その夜は静かな、けれど妙な夜だった。雨が降る音がうるさかったり、湿気がすごかったりと言うわけでもなく、また暑過ぎずと言うわけでもなく、いたって特筆すべき事の無い環境であったのだが、居ても立ってもいられない胸騒ぎがしたのか、不意に目が覚めた。
 真っ暗な部屋の中で豆電球の明かりのみを頼りに、寝惚け眼で枕元の時計を見ると、午前二時過ぎ。いつもならばこんな時間に起きる事はまず無いのだが、どうしてだろう、誰かに起こされた様な気がする。ただ、そんなわけのわからないものをいつまでも思い悩むより、明日のための睡眠の方がずっと大事だ。まだ半分寝ている感覚を大事にし、目を閉じてそのまま夢の続きへと身を委ねる。
 だが、眠れない。幾ら気持ちいいようにと寝返りをして眠れる位置に収まろうとしたり、体の力を抜いたり、夢の続きを見ようとしたりしても、意識がどうも緊張してしまい、まるで眠りを忘れてしまったかのようだ。あぁ、きっと小便でもしたいのかな。あまり尿意を感じないけれど、そう言う事もあるだろう。
 隣に寝ている香奈子と、その側で寝ている謙人を起こさないよう、静かに布団から出ると、佳之は電気も点けずに便所へと向かった。
 外から差し込む明かりはほとんど無く、慣れ親しんだ間取りなのにゆっくりと、手探りで進む。曲がり角などで壁が途切れると急に心細くなるが、家の構造を思い出し、またそろりそろりと手をつき歩く。そうして便所の前に着き、明かりを点ければ、内側から広がる光に心細さも大分消えていった。
 用を足すとついでに喉の渇きも潤そうと、台所へと向かった。同じく手探りでコップを掴み、蛇口を捻る。ステンレスと水のぶつかり合う音で二人を起こしやしないかと、戦々恐々としながら水を汲む。特に美味しくもないのだが、渇きかけていた喉が潤う感覚に何とも言えぬ安らぎを感じた。
『なんだ、怖気付いているのか』
 どこからともなく闇に響いた親父の声。さっと血の気が引き、また同時に憎しみが急激に湧き上がる。あの時の言葉、そう、もうずっと昔の言葉なのに、肉迫する響きが暗闇の恐怖を際立たせ、怯え眼で周囲を凝視するが、薄ぼんやりとした視界に映るものに違和感は無い。
『俺に何か言いたいんだろ、クズが。ほら、かかってこいよ』
 疲れているんだ、そうなんだ、だから昔の嫌な記憶が思い出されるんだ。幻聴だ、気のせいだ、まだどこかで頭が夢心地なんだ。コップに僅かに残っていた水を飲み干すなり、俺はぶつからないよう、また手探りで寝室へと戻る。
『腰抜けが、逃げるのか。まぁ、お前にはお似合いの姿だろうな、無能め』
 佳之の神経を逆撫でするそれらの言葉は、十五年前に実際やり取りしたものだ。当時真一が百合の態度に腹を立て、彼女が泣き喚いても尚怒鳴り散らしていたのを、佳之が敢然と立ち向かった際、真一と激しくやり合ったのだった。真一が散々そうした言葉で佳之を罵倒したけれども、佳之の方はじっと耐え、百合の部屋から真一を追い出した。殴り合ったところで何の解決になろうかと我慢した佳之に、真一が事ある毎にそれを持ち出しては罵り続けていたからか、今も佳之はそれについて不意に思い出しては苛立ったりもする。
 しかし、思い出すのは他のそれら同様に何らかのきっかけがあった時で、こうして思い出す事は稀有である。ましてや、何らかの胸騒ぎを事前に感じてからなんて、これまでの佳之にはありえなかった事で、ひたすらに自問を繰り返してしまう。
『物知った様な態度をしているが、結局お前は逃げているだけよ。情けないとわかっていても、何する度胸も力も無いから、そうして体裁だけ整え逃げているんだ。ほら、来いよ。かかってこいよ、こねぇのかよ、弱虫』
 寝室へのドアを開け、そろりそろりと布団に向かう。今なお響く呪詛にも似た忌まわしい親父の言葉が、出口を見付けられずに自分の中でぶつかり合い、脳を今すぐにでも掻き毟りたい衝動に襲われる。心と体のバランスが僅かに崩れ、何も無い所で躓き、側で寝ている二人を踏まないよう、壁側に体を傾けつつたたらを踏む。大きな音を何とか立てる事無く、体勢を落ち着かせるなり、静かにまた布団に潜り込んだ。仄かに残っていた温もりに、どこか安心してしまう。
『俺はずっと生き続ける』
 布団をかぶって枕にしがみ付き、寝よう寝ようとする中で脳裏に煌いた一言に、俺は言い知れぬ新鮮な恐怖を味わった。声はそれまで何度か聞こえてきていたが、そんなものなど全て過去の遺物。今確かに聞こえたものとは、明らかに違う。
 何故なら、今聞こえた親父の言葉は、今まで一度も聞いた事の無い言葉だったから。
 悪い夢を見ているに違いない。こんな事で苦しむなんて、もうありえない。七年以上も前の事なのだ、すぐ側に迫る様な感覚なんて夢の他に無い。記憶は風化するのだ、どんなに嫌な記憶だって徐々に薄れる。それなのに、新たな言葉が浮かぶなんて……。
 悪夢を見ているに違いないと思えば思う程、佳之は夢の世界から拒まれ続けていた。

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