プロローグ「それは一葉の」

 全ての始まりは一葉の写真からだった。そこには七五三の祝いを記念した男児が、普段着慣れていない羽織袴姿で笑顔を強張らせている。黒と青のグラデーションが美しい鷹に松、小槌に几帳の羽織はレンタル物ではなく、母の要望により記念だからと購入した代物である。
 その羽織袴がしまわれてある押入れを一瞥するなり、宮川佳之と妻の香奈子は微笑みを交わし、再び一人息子である謙人の写真整理をし始めた。
「もう謙人も六歳か。何だかついこの間まで赤ちゃんだった気がするのに、早いね」
「そうだな、謙人が産まれてからもう六年か。産まれた時はどうしようか、これからしっかり育てられるのか不安だったけど、謙人を見た途端に何て言うんだろう、責任感にも似た自信が生まれてきたんだよな」
 感慨深く中空をぼんやりと眺める佳之に、香奈子が頷く。
「そうね、私もそうだった。自分が一つの新しい命を産んだ時に、言葉では言い表せないくらいの感動があったわ。でも同時に貴方の言う通り、育児への不安と母親としての自覚みたいなものが生まれたのよね。感動ばかりじゃいけない、守っていかなきゃと」
「母として、父として謙人には色々と教えられっぱなしだな。子は親を見て育ち、親は子に接して育つのかもな」
 自分達で撮った写真、友人に撮ってもらった写真、写真館で撮ってもらった写真、精度は違えども、どれも愛しい。アルバムを少し前に捲れば、今よりも幼い謙人がそこかしこにいる。赤い顔をして公園で泣いている謙人、誕生日のケーキを嬉しそうに頬張っている謙人、どこか不貞腐れている謙人、そのどれもが自分達の記憶の一部であり、また人生の糧なのだ。
「俺はお前と結婚して謙人が産まれるまで、耐える事の多い人生だった。振り返ることも辛い。だからあいつにはそんな思いをさせたくない、同じ人生を歩ませたくないんだ。できるなら、いつ振り返っても楽しいと思わせられる人生を送って欲しいし、またそうなるよう俺達もがんばらないと」
「そうね。でも」
 香奈子は僅かに口を噤んでいたが、やがて重苦しいものを吐き出すかのように、言い放った。
「まだ、お義父さんの事を?」
 途端に佳之の顔が曇り、視線を下げながらうつむいた。
「あんな親父だったもの、忘れたくても忘れられるものじゃないさ。確かに自殺した時は哀れに思えたけど、結局それまでの事があったから、今でも」
「もうその話はよしましょ。今は謙人の話」
 そう、香奈子だって思い出したくないのだ。親父は俺のみならず、香奈子や周囲の人々など誰彼かまわず迷惑をかけていた。自分の道理を信じて疑わぬ人であり、また間違いを指摘すれば狂った様にわめき散らし、そうして過剰に自分を卑下しては周囲を異常者扱いしていたので、家族や親戚一同はおろか、少しでも親父を知る人々からも一種のタブーとなっているところがある。そうした話はするだけ気分を暗くさせるので、妻の言う通りここまでにしておいた方が良いだろう。提言を無視したところで、愚痴の垂れ流しにしかならないのだから。
「そうだな、ごめん。さて、ちょっと手が止まっちゃったけど、また始めるか」
 止まっていた手を動かし、また写真の整理を始める。香奈子も俺もそれほど写真好きと言うわけじゃなく、むしろ互いにそう写真を撮ろうとせず、旅行をしても撮らなかったり、また撮ったとしても数枚程度なので、二人きりの写真は案外少ない。友人達は思い出を写真に残しておけば後で楽しむ事もできるから、非常にもったいないと言うけれど、別にそうした気にもならないし、互いに楽しめているので何ら問題無いのだが、謙人が産まれてからは事情が変わった。香奈子や俺は出会ってから旅行をしたり誕生日を迎えたりと、写真に収めるような出来事を記憶している。けれど謙人はどうだろうか。幼い謙人はきっと旅行をしても誕生日などの記念日を迎えても、あまり覚えていないだろう。そうした謙人のため、よく写真を撮る事になった。今までほとんど撮っていなかった反動からか、一旦何かあれば四十枚でも五十枚でも撮ってしまうので、整理するのも一苦労となっている。けれどそれも、また一つの幸せの形。
「ねぇ、見て見て、この謙人の顔。ちょっと困った風なのが可愛いよね」
 お宮を後ろに撮った写真なのだが、普段と違った服装と景色にやや怯えて、どうしたらよいのかわからず戸惑っている様子の我が子を見て、二人その時を思い出してくすりと笑う。白石の照り輝く眩しさが、どこか幻惑的にすら見える。
「こっちのもいい顔しているぞ」
 佳之が指し示したのは、お宮へ行く前に駐車場で撮った一枚。これから出掛ける事を知った謙人が期待に胸膨らませ、香奈子と手を繋いで満面の笑みを向けている。
「可愛い顔しているよね」
「そうだな、こっちまで何だか嬉しくなってくるよ」
 謙人が産まれて、俺は変わった。以前は子供がそう好きじゃなく、いや、むしろ嫌いで堪らなかった。道理を言っても通じず、話し合いになる事無く泣き出し、天衣無縫と言えば聞えがいいが、実際は自分勝手。結婚をしても子供が欲しいとは思わなかったし、そう公言していたのだが、結局周囲からの後継ぎ問題や妻の嘆願により産ませる事を決めたのだった。そんな俺だったから出産には立ち会わなかったし、産まれたとの報告を聞いても何ら感慨など生まれなかったのだが、我が子と呼ばれる赤ん坊を見ているうちに不思議な気分へとなっていった。
 そう、それは何とも言えない気分だった。俺は特に苦しんでもいないし、何ら期待を抱いていなかったのに、謙人の顔を見た途端、涙が溢れるような感動が胸をきつく締め付けた。か弱く、今にも泣き出し、何かあれば終えそうな儚い命ながらも確かに生きていると知った時、それまで抱いていた嫌悪が急速に薄れ、同時に愛情が芽生えた。言い知れぬ繋がりを感じ、また責任感がどこからともなく生まれ、血と言うものを強く意識したりもした。
 血、それは繋がりであり、確かな絆。はっきりと見えないのだが、確かに俺と謙人は親子として繋がっている。そうした事がひどく嬉しくて、欲しがる物はなるべく買い与え、どこか行きたいと言えば休みを作って旅行し、昼夜頻繁に遊び相手になるあまり、周囲からは子煩悩だの親馬鹿だのと言われている。けれど別にそれに対して気を揉みはしないし、それどころかそう言われる度にどこか誇らしげな気分にすらなっている。
「ねぇ、これもいいね」
「どれどれ」
 香奈子が差し出した写真に対し、不意に違和感を覚えた。それは七五三を終え、自宅で撮った謙人の写真。紺のジャージ姿でお気に入りの犬の人形を持った笑顔の謙人は、一見すれば年相応の可愛らしさがあるのだが、どうもそれまでのとは違って愛らしさを見出せない。どうしてだろうか、何がそう思わせているのだろうか。届きそうで届かない不快感にじりじりと身を焦がされている様な思いだ。
「この謙人の笑顔を見ていたら、心が洗われるよね」
 笑顔……そうだ、笑顔だ。このどこか全てを自分だけが知っていると言う笑顔に、俺は見覚えがある。あぁ、そうだ、思い出したくも無いが、間違い無い。あの忌まわしい親父の笑顔に似ているんだ。口元の具合が良く似ている。その雰囲気が堪らなく似ている。
 何を馬鹿な事考えているのだろうか、俺は。あの忌まわしい親父とこんなに可愛い謙人が似ているだなんて、どうかしている。きっと先程親父の話をしたから、どこかでそれが残っていただけだ。下らない。
 けれど、何故だか浮かぬ顔をしている佳之に、香奈子が訝しそうに顔を覗き込み、写真と見比べる。
「どうかしたの」
「あぁ、いや、何でもない。ちょっと別の事について考えていただけだ」
「お仕事?」
「うん、まぁね。でも本当に大した事じゃないんだ、何気無く浮かんだだけでね」
 慌てて微笑む佳之に香奈子が呆れた様に笑い返す。
「そう、ならいいんだけどね。でも大した事無いのなら、今はこっちに集中してよ。仕事熱心なのはわかるけど、切り替えが大事だよ」
「そうだな」
 微笑みを交し合い、互いに写真へ目を移すけれど、佳之はもう先程までの幸せを感じられないでいた。不意に浮かんだあまりにも馬鹿げた共通点、しかしそれはある種の力を持って佳之の胸へ訴えかけている。もう香奈子の笑い声が白々しく、煩わしいとすら感じている。そんな自分に嫌悪してか、佳之はついと人知れず視線を落した。
 こんな事を感じるのは初めてだ。どうして強くそう感じるのかわからないが、気の迷いとしてそんな事を考えたりする時もきっとあるのだろう。もしかしたら、親父の話をして謙人の事を考えた後に、血の繋がりなんて事思ったから、恐ろしい妄想として心に残ったのかも。そう、こんなもの一時の気の迷い、気紛れ、すぐに忘れるさ。
 一人納得し、再びその写真に目を落したけれど、やっぱり不穏な気分が拭い切れず、佳之は窓の外へ目を遣った。上を見れば六月の風がゆったりと雲を急かし、下を見れば柔らかな日差しがタンポポを撫でていた。

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