九、「石岡老人の告白」

 あれから数日が経過した宮川家も、一応の落ち着きを見せてはいる。いや、落ち着いたと言うよりは、沈んでいると表した方がより正しいかもしれない。香奈子は少し表情が暗くなったが、それでも努めて明るく謙人と接している。謙人も香奈子の前では明るく、以前通りの様子でいる。しかし渦中の人物である佳之の側には寄ろうとせず、佳之自身も抜け殻の様に一人自室で呆けている事が多い。ただひたすらに、虚ろな眼差しで窓の外の変わらぬ景色を眺めている。
 謙人と真一に直接の関係が無いと知ってからの佳之は、傍目から見ても急激に老け込んだように見える。実年齢三十一で、今までは二十代に見られる事も少なくは無かったけれど、今では四十代に見られる事もしばしば。仕事に対しても覇気が無く、以前より業務も遅れがちになり、どこかしら秋月館の雰囲気も曇りがちになってきていた。
 そうした佳之に香奈子は支えになろうと、かいがいしく慰めたり、積極的に他愛も無い話をしたり、とにかく触れ合いでもって気を紛らわそうと試みた。けれど、いずれも今の佳之の前では効果無く、やがて香奈子もこれはしばらく一人にさせ、時間で解決させるしかないと考え始めるようになった。
 静かな海のような時の流れだが、陽の当たる水面ではない。光射さぬ海底の土と同種。ゆっくりとどこかへ引きずり込まれて行く感覚が佳之にまとわりつき、佳之もそれに抗おうとしない。ひたすらに暗い流れだが、乱されるのを恐れている。香奈子もそんな佳之を察しているからか、可能な限り謙人を連れて佳之の側から離れるようになった。今日も多分に漏れず、二人で買い物に出かけている。
 これから俺はどうすれば良いのだろうか。最後に頼るべき自分が偽りだったなんて、あんまりじゃないか。これからどの面下げて、生きていけばいいのやら。自殺も考えたが、どうしても最後の一歩がもう踏み出せなくなってしまった。死そのものより、そこに至るまでが怖い。緩慢な死でしか、今は受け止められない。情けない。
 胸の内に蛆が這うかのような感覚が訪れる。正体はわかっている、けれどそれを形だけでも振り払う気力も無く、ただじっと奥歯を噛んで黙るしかない。何もかも終わった、何もかもわかった。真実の先は不毛だ。
 目を閉じ、半ば眠りの世界へと入り込んでいると、不意に玄関のチャイムが鳴った。こんな調子だから香奈子に全ての応対をさせたいが、今はいない。居留守を使おうにも、それは心の片隅にしっかりと残っている責任感が許さず、重い腰を上げながら心中悪態をつき、やや小走り気味で玄関へと向かった。
「やぁ、こんにちは」
「こんにちは、石岡さん。どうかしましたか」
 ドアを開ければ、石岡老人が立っていた。いつもの好々爺然とした表情ではなく、どこか疲れ切った印象を与える。こんな石岡老人は佳之の記憶にもそうそう無く、我が身の上を一瞬忘れ、心配そうに見詰めた。
「佳之君に話があってね。時間はあるかな」
「えぇ、それは大丈夫ですが。一体何を?」
「佳之君が以前ワシに教えてくれと言っていた、真実とやらを話そうかと思ってね」
 言い出しにくそうにしながらも何とか言葉を吐き出した石岡老人に対し、佳之はどこか呆れた眼でその様子を映している。
「真実、ですか。もういいんです、僕は全てを知った。何もかもを、知ったんです。だから今更、鮮やかな真実なんてもう無いんですよ」
「君の知っているだろう真実は」
 意を決したかの様に石岡老人が顔を上げ、先程よりもしっかりした表情で見詰める。
「ワシが知っているものの、断片でしかないだろう。もしワシの知っているもの全てを知っていたとしても、哀れな老人の懺悔として是非聞いて欲しい。いいかね?」
 懺悔とは一体何だろうか。まだ何かあるとでも言うのか。ともかく話だけでも聞いてみようと頷けば、石岡さんも安心した笑みを返してきた。
「ここでは何だから、ワシの部屋ででも」
 石岡さんの部屋に案内されたが、以前と変わらず小綺麗に整頓されていた。勧められるがままにちゃぶ台の前に座ると、そっとお茶が差し出される。軽く会釈し、石岡さんが向かいに座るのをじっと待つ。
「こんな所まで来させて、すまないね。ただ、そこらで話しても良い内容じゃないのは、佳之君も承知してくれているだろう。いやね、先日断っておいてどうして今になり話そうかと決心したのかと言えば、ワシなりにあれから色々考えたんだよ。本当は墓まで一人で持って行けば、余計な過去について思い悩む人も現れないかもしれない。しかし、それを踏まえて新しい道を造る事が、佳之君にできるかもしれないと思ったんだ。そう考えると、ワシももう年だ、いつどうなるかわからないから、しっかりしているうちに伝えておこうと思って、こうして呼んだんだよ」
 佳之は重苦しい溜め息をつく。
「石岡さん、石岡さんが話す前に僕から話しておきたい事があります。僕は妻から、全てを聞きました。あの日、親父をこの手で突き落とした事。それを妻が隠した事。事件のショックで僕が心因性健忘症になった事。きっと石岡さんが話そうとしてくれているのは、これらの事でしょう。だったら、今更話してくれなくとも」
「まぁ佳之君、落ち着きたまえ。確かにワシもそれらの事を話そうとはしていたけど、それだけじゃない。まずは詫びたいんだよ、あの日の事を」
「詫びる、とは」
 訝しげな視線を不躾にぶつけ、佳之は身を乗り出す。
「あの日、あの場にワシもいたんだ。いや、君達の隣にいたわけじゃない、あの屋上入口のドアから、そっと覗いていただけなのだが、それでも君を止めず、真一君を見殺しにしてしまった」
「なんですって」
 あの場に、いやあの事件にはもう一人目撃者がいたと言うのか。
「あの日、見回りをしていた佳之君を見付け、声をかけようと思ったら屋上への階段を上っていってしまわれた。最初は後で挨拶をしようと思い、引き返そうとしたのだが、佳之君が急いで階段を駆け上がる音にただならぬものを感じ、遅れてついていってみたんだよ。そうしたら、佳之君と真一君が掴み合っていてね。ワシはしばらくドアの隙間からその動向を見守っていたのだが、やがて佳之君が真一君をフェンス際まで追いやり、落そうとしていた。香奈子さんは泣き叫んで、とてもじゃないが止められそうにはなかった。そうなればワシしかいない。あの時点で止めに入るのも、助けを呼びに行くのも、ワシには可能だった。だが、あえてそれをしなかった」
 押し黙ったまま、佳之はじっと石岡老人を見詰めている。石岡老人はやや興奮したのを鎮めるかの様に、一口お茶を啜った。そうして熱い息が吐き出されるなり、佳之にまた視線を戻す。
「ワシはこの忌まわしい連鎖を止めたかったんだ、昔から続く、悲しい連鎖を。少し抽象的過ぎるな。具体的に言うなら、真一君と佳之君の関係で君達の家系に続く憎しみを終わらせたかった、だから止めなかったんだ」
「僕の家系に続く憎しみとは、もしかして」
「君は真一君を憎んでいただろう。真一君もまた、君のお爺さんにあたる金吾を憎んでいた。そして金吾もまた、自分の親を憎んでいたのだよ。こうした憎しみの連鎖とも言えるものが代々続いてきて、それを見続けていたワシとしては、終わりが見たかった。親兄弟で争って、どうなるものか。佳之君、君なら、君ならば冷静に将来を見据え、生きていけるだろうと思ったからこそ、あの時止めに行けなかったんだ」
 やはり俺と親父、そして謙人と続いた憎しみの連鎖はもう何代も前から続いていたと言うのか。誰もそれを絶てないと言うのか……。
「前に君のお爺さんである金吾と真一君について話したが、彼らもまた佳之君と真一君との様な結末を迎えてしまったんだ。金吾は心臓発作で亡くなったが、それは真一君がそう仕向けたのだとワシを含め、当時の住人の一部はそう思った。よく発作を起こしていた金吾はその度に薬を飲んでいたのだが、どうやらいつもの場所に無かったらしい。その場に真一君はおらず、薬もどこか見付かりにくい場所に隠されていたと言うわけでもなかったから、警察は真一君に対して軽い取調べをしただけだった。結局金吾が薬の保管場所を間違えてしまったための事故と片付けられたのだが、あいつは割と几帳面な男だったからそんなミスはしないはず、ならばと。まぁ、今となってはそれが本当かどうかなどわからんがね」
「親父も、祖父を殺していたと言うんですか……」
「そして、金吾もまた自分の親を手にかけたフシがあるんだよ。けれど、表沙汰になった覚えは無い。金吾の時はわからないが、真一君や佳之君の場合はワシを含めた住人が新しい管理人に期待していたから、それらを完全な事故と見なそうとしたんだ。管理人が失われてしまっては、ワシ等の生活もどうなるかわからない。他所へ移るより、何だかんだあってもここは魅力的な場所だからな」
 そうか、そう言う事か。全て隠蔽されていたのか。互いの利益が合致し、かつ波風立たないような生活を望んだから、この地は代々安定していたと言うのか。ははは、俺達は代々親殺しの犯罪者、この地の傀儡だったんだな。
「佳之君、君ならば終わらせてくれるとワシは信じている。この憎しみの連鎖を終わらせ、新しい秋月館と宮川家を築けると、必ず信じている。だからこそ、今こうして話そうと決意できたんだ。謙人君との親子愛を忘れず、家庭の円満を守りつつ、頼むよ」
「残念です、本当に」
 ふっと佳之が自嘲気味な笑顔を浮かべると、石岡老人がやや慌てた感じで頭を下げた。
「すまない、本当に。だがワシ等にはワシ等の生活と言うものがあってだな」
「いいえ、石岡さんの言葉に失望したわけじゃありません。その期待に応えられなくて残念だと思ったんですよ」
 訝しげに石岡老人が佳之を見る。
「僕は先日、謙人を殺そうとしていたんですよ。親父の姿と重なり、あと一歩のところまで行ったんです。幸い、妻が止めてくれましたけど、僕達もまたそうした運命から逃れられないんでしょう。もし謙人が大きくなり全てを話したとしても、きっと解決には至らない。どうにもならないんですよ、この一族は」
「馬鹿、な」
「逃れられないんです、一生。親父も祖父もきっと気付いていた、だからこそ子ができると同時に怖かったんでしょう。育つ嬉しさと、奪われるだろう恐ろしさ。僕もそうだ、普通の家庭ならばなんて事の無いいがみ合いなんでしょうけどね。抱えるものが大きすぎる」
 胸の内にあった想いを全て吐き出すと、後に残ったのは落魄たる気持ちだけだった。子を持って知る親の気持ちとは少し違うが、謙人が成長するにつれ、俺の中で見えない焦りが生まれてきていたのかもしれない。そしてこの関係は親父と俺、祖父と親父も同じであった。その前も、その前の前も、連綿と続いている。俺もいつか、殺される。そして謙人も、だ。俺達は逃げられないんだ。逃げようとしても、できない環境なのだ。
 既にぬるくなったお茶をぐいと飲み、大きく息を吐くと同時に湯飲みを置く。その瞬間、俺の中で大切な何かが、最後まで大事にしていた何かが、音も無く崩れてしまった。頼り無くも優しい老木が、儚くも美しいガラスが、まるでそれが当然かのごとく根本から砂の様に崩れ、消えて行く。さよならも言えずに、無くなる。その代わりとして、今までおぼろげながらもあった哀しい諦めがはっきりと生まれてきた。

「そろそろ出るけど、用意はできたのか?」
 佳之はネクタイを今一度整えると、振り返る事も無く背後にいる香奈子と謙人に問いかける。
「私も謙人ももうできたわよ」
 化粧を終えた香奈子はガスなどの閉め忘れがないか点検しながら答えた。謙人の方も既に準備が終わっており、手持ち無沙汰と言う様子だ。
「そうか、ならあと五分したら出るぞ」
 今日は百合の結婚式。佳之にとってかけがえのない家族の婚礼なだけに喜びもひとしおの様子で、今日も朝一番に目覚めている。と言っても喜びだけでなく、親族代表としてのスピーチをしなければならないために幾ばくかの緊張もあるらしく、先程から胸ポケットにしまわれてあるスピーチの内容を書いた紙を取り出しては、復唱している。
「貴方、あまり緊張していたら上手くいかないわよ」
「わかってるってば」
 苛立ちげに佳之が足を組み直す。
「お父さんってそう言うの見ていても失敗するだろうから、別にいいんじゃないの。僕達は恥ずかしいんだけどね」
 そう口出しする謙人はテレビを見ながら、やや皮肉っぽく口を歪める。
「この前たった一回失敗しただけでこうだ。なぁに、今度はちゃんと上手く行くさ」
「どうだか」
「お前だっていざそう言う場に立てば、できないもんだよ」
 佳之も謙人も表情を互いに見せ合わないものの、そこには決して逃れ得ぬ血族特有の笑みが張り付いていた。やはり二人は親子だ、よく似ている。けれど同じ顔をしていながら、誰よりも牽制し合っている。それでも今はまだ表向きだけでも平和なままだ。ならば今ここにある幸せを噛み締めておこう。それが偽りだったとしてもいい、最後まで私を騙してくれれば。そんな事を考えながら、香奈子はふうと息を吐く。
「百合さん、幸せになるといいわね」
 香奈子はぽつりとそう呟くと、疲れた笑みを人知れず浮かべ、テレビへと視線を向けた。

                       ─了─

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