九.

 いつ寝てしまったのか、よくわからなかった。目覚めれば七海と同じベッドで寝ていたことに改めて気付く。そう言えば、ずっと一緒にいたんだったな。あぁ、色々考えてしまい一睡も出来なかったような気もするし、何か夢でも見ていたような気がする。曖昧な境界を行き来していると、いつの間にか隣にいるはずの七海の気配が無いことに気付く。寝てる間に連れさらわれたとは思わない、先程まで側にいたのだから。ついと窓辺に目を向ければ、そこに七海はたたずんでいた。
「おはよう。ちゃんと眠れたかい」
 ゆっくりと七海は振り向き、自嘲気味な笑みを浮かべる。
「ううん、全然眠れなかった。側に修治君がいてくれても、何だか怖くて。あ、でも一人でベッドに入っていたら、どうにかなっちゃいそうだったかも。側にいてくれて、ありがとう」
「そっか、七海もか。いや俺もね、起きているのか寝ているのか、よくわからないまま朝になった感じなんだ。どうも疲れが抜けないけど、あと四日だ、このまま行けば何とかなるだろうさ」
「そうだね」
 カーテンを開け、窓から差し込む陽光を浴びれば、寝惚けている頭も目覚めていく。何をしていても、きっとこの逃亡生活の最中に心が晴れることは無いだろうが、やはり太陽を見れば活力が湧く。明日もまた同じ陽を見るため、今日も無事に逃げ切りたいものだ。そう切に思う。
 顔を洗い、朝食は昨晩コンビニで買ったものを食べるなどして身支度を整える。食欲はさして無いけれど、食べておかないと逃げる体力が生まれない。半ば詰め込むように食事を済ませ、時計に目を遣ると、チェックアウトまであと一時間。ここに長く留まる必要は無いが、早く出たところで向かう先が無い。
「今日はどこに行こうか」
「どこと言われても、どこへ行っても同じような気がするんだよね。いっそ、昨日タクシーのおじさんが言っていた場所にでも行こうか?」
「どうせどこへ行っても同じなら、そうしてもいいかもしれないけど、なるべくなら交通機関の整っている場所がいいな。いざとなったら逃げ易いだろうし」
「じゃあ、もう少し大きい街かな」
「そうなるな。まぁ、時間まで休んでおこうよ」
 やたらに動き回るよりも、休める時に休んでおいた方がいい。ベッドに寝転がりつつ、折れてしまいそうな心を繋ぎ止めていると、不意にドアがノックされた。俺も七海も慌てて起き上がり、身を強張らせる。もしドアの向こうに河口家の息のかかった人間がいるならば、どうしようもない。
「はい、何でしょう」
「お客様にお届け物がございますので、お持ちいたしました」
 届け物とは一体何だろうか。そもそも、どうして届け物がここに来るのだろうか。ここは偶然決めて泊まったホテルで、当然誰にも何も言っていないのだから、俺達がいることを知り得るはずがないじゃないか。
 不気味な不安を抱きつつ、ドアを開けるとボーイが一通の茶封筒と小包を差し出してきた。それが何かはまだわからないが、とりあえず礼と共に受け取ると、ボーイは一礼して去って行く。俺は再び鍵をかけ、テーブルに封筒と小包を置いた。
「どうしてこんなものが」
「認めたくはないが、多分俺達がここにいると知られているのかも。いや、それにしてもどうやってこれをここに贈ってきたんだろう。予測できるとは思わないから、きっと」
「そんな……」
 七海の顔からは血の気が引いてきていた。きっと俺もそうなっているのだろう、僅かに視界が白んでいる。
「でも、もしそうだとしても、これは一体何だろうね」
「わからないけど、開けてみるか。とりあえず封筒からだな」
「何があるかわからないから、危ないよ」
「でも、だからと言って無視できないな。それに封筒はペラペラで、別に何か危ない物が入っているとは思えないし」
 太陽に透かせば、封筒の中には一枚の便箋だけが入っているように見えた。振ったり、上下逆さにしたりしても特に妙な音や感じはしない。それでも俺は恐る恐る、僅かに震える指先で丁寧に開封した。
 中に入っていたのは、白い便箋一枚だけだった。他には何も入っていない。俺は七海の方を向き、瞳で確認し合うと、そっとそれを広げた。
『おはよう、よく眠れたかい、可愛い娘よ』
 青褪めた。戦慄、恐怖、疑問などと言った感情が急激に溢れ出し、パニックを起こすよりも先にそうしたものが爆発し、意識を遮断しようとする。そこに書かれていたのは、紛れも無い栄一さんの字。巧く出し抜けたとばかり思っていた。ここがどこかすら見知らぬ遠くの土地に逃げ、偶然決めたホテルへと入った。一応用心のため、偽名を使ってチェックインをしておいた。なのに何故、どうしてここに栄一さんからの物が届くのだろうか。どうしてここだとわかったのか
 冷たい汗が止まらない。既にシャツはびっしょりと濡れているが、気持ち悪いと言う余裕も生まれない。早く短い呼吸を繰り返しながら、今にも泣き出しそうに周囲を見回す。すぐ側に河口家の息のかかった人がいる。まるでそれはすぐ背後にいて、監視されていたかのようだ。耐え難い恐怖を感じているのは七海も同じようで、小刻みに唇はおろか体が震えている。
「修治君……」
 そっと七海が俺の背後に回り、ひしと腕を掴む。しっかりと感じる七海の心を何とか落ち着かせてあげたいが、情けないことに俺も怖くて、どうしていいかわからず、便箋を手にしたままじっと小包を見詰めている。何の変哲も無い三十センチ四方の白い小さな小包。見慣れたとは言い難いが、特別な感情を抱かずに接してきた何でも無いものが、今はひどく恐ろしい。
「開けてみようか」
 七海は何も応えない。ただ俺を掴んでいる手に力を込め、更に体をすり寄せてくる。これは災厄しか詰まっていないパンドラの箱、開ければ間違い無く絶望が降りかかるだろうが、開けないわけにはいかない。俺は意を決し、留めてあるガムテープをはがした。
 中には純白の綿が、ぎっしりと詰まっていた。思いもよらなかった光景に、しばし呆然とする。一体この綿は何を意味しているのだろうか。
「何だろうな、これ」
「もしかして、中に何かあるんじゃないかな」
 その可能性は大きい。俺はしばしこの純白の綿を見詰めてから、そっと上に綿を指先で摘み、外へ出す。二度三度と繰り返していると、何やら褐色の物体が見えた。何だかよくわからないが、猛烈に嫌な予感がし、血の気が引いていく。もうこれ以上綿を取りたくない。けれども、もう前へ進むしか道は無いんだ。大きく息を吐き、一度手を固く握り締めてからそっと最後の綿を摘み、引き剥がした。
「ひぃ」
 情けない叫び声を上げつつ、俺は後ろへと飛び退いた。後ろに七海がいることをすっかり失念していたため、もつれるように倒れてしまう。幸い怪我は無かったものの、俺はもう立ち上がることができず、固く目を閉じて今見たものを必死に忘れようと、激しく首を横に振る。
「何、どうしたの、何が入っていたの?」
 ただごとではないと感じた七海が、俺の肩を掴んで見詰めてくるが、俺はすっかり混乱してしまっていて、呻きながら首を横に振ることしか出来ない。やがて七海は俺から離れると、小包の方へと歩み寄った。
 悲鳴が響いた。もう先程までの清々しい朝日を前にした気分なんて、欠片も思い出せない。当然だ、あんなものを見れば誰だって我を失う。泣き出しそうなのを何とか堪え、俺はゆっくりと立ち上がると、震えている七海を、同じように震えている腕で抱き締めた。
「指……これ、お母さんの、薬指」
 その中には指があった。赤褐色になっているそれには確かに見覚えのある指輪がはめられており、丁度付け根から切り離されていた。よく見れば薄らと綿に血が滲んでいる。
「ねぇ、お母さん、どうなっちゃったの?」
 どうなったのと言われ、どう答えようかと恵子さんへの想像を巡らせれば、麻酔無しで薬指を切断される姿が思い浮かび、想像なのにそれが明確な現実であったかのように見えてしまい、歯を食い縛り恐怖に耐えることしかできなくなる。現実を見せ付けられると、膝が震えて進めなくなるのは、俺の悪いところだ。それを克服したくもあった今回の逃亡だけれども、流石にこれには無力の自分へと引き戻された。
「やだ、やだよ。ねぇ、お母さん死んでないよね? 修治君、もし捕まっちゃったら」
「出よう。ここがバレている以上、すぐ逃げるしかない」
 それ以上言わせたくなかった。言われると否定できそうもなかったからだ。それは即ち俺もこうなってしまうのかと、この指に自分の未来を重ねてしまいそうだったから。
 すぐに支度を整えると、手紙は粉々に破り捨て、指は残しておくと騒ぎになるだろうからティッシュにくるみ、七海がハンドバッグの中に入れた。そうして逃げるようにチェックアウトを済ませると、タクシーで昨日のスーパーへと向かった。
「もしかしたら、服かそのバッグに発信機か盗聴器でも仕込まれているのかもな」
「そんなはずは」
 そこで七海は口を噤んだ。無いとは言い切れないのだろう。
「服もバッグも、買い換えてしまおう、今着ている服やバッグは捨てて。金は恵子さんから貰っているから、心配無い。そうと決めたら、すぐ動こう」
「お母さん……」
 洋服売り場で二人共全て一新した。下着から靴下、バッグなど全て買い換え、持ち物を移すとそれまでの物は全てゴミ箱に捨てて、駅へと向かう。河口家のことだ、これで万事安全とは言えないのが怖いところだが、不安の芽は摘み取っておくに越したことは無い。
 西へ西へと逃げてきたが、もう先回りされているかもしれない。今度は少し南の方へと行ってみようかと、電車に乗り込む。車内には他に乗客が数名いる程度で、簡単に腰を下ろすことができたが、それがまた怖かった。身動き取れない満員状態よりも、見ればすぐにわかられてしまう方が、不安を掻き立てられる。それでも空いている車内で立っていたりしていると、逆に怪しまれてしまうので、空いているボックス席に向かい合うよう座る。もし追手が来られたら逃げ道が無いけれど、電車の中ではどこも同じだ。
 流れる景色はどこかノスタルジックで、住んだことの無い古ぼけた家、歩いたことの無い色褪せた小道、さして整備されていない川にちらほら咲く花々。そんな体験したことの無い故郷の風景を見ていると、何故か胸にそよ風が吹いてきた。こうした風景が知らないうちに求めている憧れ、とでも言うのだろうか。いいや、違う。これは俺よりも上の世代が作り上げた幻想や甘い思い出を、人々の共通認識であるかのごとく刷り込まされただけだろう。絵としてならいいが、実際に住むとなればきっと嫌がるに違いない。
 七海の儀式にしてもそうだ、実際は存在していないかもしれない『災厄』に命を捧げようとしている。飢饉や不況などの見えない不安のために死ぬことは、幻想に殉ずる滑稽な大人達の哀れな犠牲者にしかならず、非常に馬鹿げている。彼らが作り信じている常識は必ずしも正しいものではないのだ。
 電車はトンネルへと入る。途端に暗くなったからか、互いに窓から視線を外し、見詰め合っては唇を真一文字に結び、けれど何も出来ず大きく肩を落す。色々言いたい、何でも言いから言葉を交わしたくて堪らないのだが、それが答えの出ない問い掛けになると知っているので、迂闊に口を開けず、黙って目線を下げていた。
「やっぱり、逃げられないんだよ」
 先に静寂を破ったのは七海だった。
「諦めるなよ、大丈夫だって。きっと逃げ切れるはずだ」
「でも、知られていた」
「あれはきっと、そう、発信機か何かあったんだよ。だからすぐ、居場所が知られてしまったんだ。でもほら、今はすっかり全部新調したからもう大丈夫。どこへ行くかなんてわからないんだ、見付かる心配なんてもう無いよ」
「だけど、お母さんが……」
 涙声はそれ以上紡がれることが無く、同時に俺も簡単に励ますことができなくなり、視線を再び足元に落した。恵子さんがどうなってしまったのか、ある程度の想像はつく。俺にとっても味方であり、優しくしてくれた人だ、無事でいて欲しいとは思うものの、そうもいかないだろう。ましてや実の母子である七海なら、何倍もその辛さを覚えているだろう、きっとどうなっているかも知っているだろう。そんなことを考えてしまうと、もう何も言えず、再び窓の外へと目を向けては代わらない闇を眺めている他無かった。
 乗り継ぎを繰り返し、しばらく南下を続けた後に一旦移動を止めようかということになり、たまたま停まった駅で下車した。二階建ての駅舎は割と清潔で、建物の造りからこの辺りが少し開けた場所であるとわかる。昼時でも下車する人はそれなりで、流れに乗って改札口を出るととりあえず出口を目指す。
「昼メシは何にしようか」
「何があるかな。ファミレスみたいなのが近くにあればいいけど、無かったらラーメンでいいかな。ちょっと寒くて。それに、ラーメン屋なら大抵の駅前にあるだろうし」
「ラーメンいいな。じゃあそうしようか」
 正直、そんなに腹は減っていない。けれど何か食べておかないといざと言う時に困るだろうし、それに食べることにより生まれる安心感を得たかった。どこへ逃げても、河口家の息のかかった人間がいるような気がしてならない。ならば、角に焦ったり不安がったりしても意味が無い。マイナスに働くばかりだ。そうならないよう、なるべく日常を繰り返した方がいいだろうと、先程二人で約束したんだ。
「あの、すみません」
 不意に呼び止められ立ち止まると、年の頃二十代半ばくらいの男性が俺達を不安げに見詰めていた。当たり前だが、知らない人だ。何の用だろう、道を訊かれても困るだけだ。それとも、何か落しただろうか。
「これ、渡してくれと頼まれたんですけど」
 男が手にしていたのは見覚えのある忌まわしき小包と茶封筒。それを差し出された途端、時間さえも凍り付いた。どうして俺達がここにいると、何故先読みされているのか、いつから彼はこれを持っていたのか、もう全く考えることができず、呆然とそれを見詰めるばかり。
「嘘、何で……」
 七海もこの現実を信じられないようで、魂の抜け殻のようにそれを見詰めつつ、震えていた。忘れもしない、今朝見た物と同じ物を見知らぬ土地の見知らぬ人が手渡そうとしている。悪夢としか言い様の無い現実が、目の前でおいでおいでをしながら不気味に笑いながら誘う。お前達は逃げられない、全て予定調和の範疇での行動、そう言われているような気がした。
「あの、これ」
 差し出しても受け取らない修治に、男は困ったような目を向ける。男も何か厄介事に巻き込まれたのではと、眉根を寄せては訝しげに箱と手元と修治達とを見比べていた。
「あ、すみません、ありがとうございます」
 我に返り、力無い笑みを浮かべながらそれを受け取ると、男はようやく面倒事を終えられたと安心したのか、そそくさと逃げるように去って行った。俺はその姿を最後まで目で追うこと無く、ただじっと今朝より幾分か重い小包を密かに冷や汗を背に流しながら凝視しては、自ずと奥歯を食い縛る。
「修治君」
「わかっている」
 朝のよりも少し重たいこの小包に更なる絶望が入っていることくらい、開けなくてもわかる。見ればきっと立ち上がれなくなり、この逃亡生活さえも茶番に思え、何もかも投げ出して諦めの笑みを浮かべざるを得なくなってしまうかもしれない。それでも、見なければならない。どんなに目を背けたい現実がそこにあろうと、向き合わなければいけない。一つでも目を背けて成し遂げられる程、楽な道ではないだろうから。
 小包の向きを変えず、俺と七海は駅舎を出ると人気の無い路地へと足を踏み入れ、周囲の安全を確認してから互いに顔を見合わせた。それなりの覚悟はあるけれど、決心のついていない七海の眼差し。きっと俺も同じような顔をしているに違いない。
「じゃあ、封筒から」
「うん」
 小包を七海に手渡すと、薄っぺらな茶封筒を恐る恐る開封してみる。そっと中を覗けば、またも便箋が一枚だけ。おもむろにそれを取り出すと、俺はゆっくりとそれを広げてみる。
『そろそろ帰る時間だよ。二時にそこへ迎えを遣るので、大人しく待っていなさい』
 栄一さんの達筆な文字が、息をすることすら忘れさせられたような気がした。どうして本当に居場所が知られているのだろうか。一応の方向だけ決めて、あとは気の向くままに進んでいると言うのに、服装や髪型だって変えているのに、何故わかるのだろうか。釈迦の掌の上で踊らされている孫悟空、ふとそんなことが頭に浮かんだが、とても今は笑えるものではなかった。
「じゃあこの箱、もしかして」
 差出人が確定した以上、中に入っている物は明白だった。開けたくないと心が開封を強烈に拒むが、もしかしたら中に別のメッセージがあるかもしれないと思うと、そうもいかない。俺は七海から小包を受け取ると何度か深呼吸をし、七海が側にいることを改めて確かめてから、そっと開けた。
「うわぁ」
 思わず叫び声と同時に、小包を投げ捨ててしまった。小包は鈍い音を立て、路地を吹き抜ける風に撫でられる。目を背け、今しがた見た物を考えまいとするが、どうしても鮮明に思い出され、呼吸が荒くなっていく。周囲がぼんやりと暗くなり、嫌な汗が背筋を伝い、全身総毛立つ感覚と共に胃酸が込み上がってきたのか、ひどく胸が悪い。
「修治君、まさか……ねぇ、そうなの?」
 誤魔化しても無理だと思い、俺は力無く頷いた。七海の顔を見なくても、どんな表情をしているのか手に取るようにわかる。それに今は、何も見ていたくない。
 小包の中身、それは手だった。手首から上のそれは一見すると誰のかわからないが、この奇妙な特徴を持つそれが修治と七海にとって、見覚えのあるものに間違い無かった。いや、見覚えと言うよりも、確信を抱かせる大きな特徴のせいだ。奇妙な左手、そこには薬指が無かった。赤褐色になっている左手は細部を確認するまでも無く、恵子のそれだと断定できる。
「お母さん。ねぇ、修治君、お母さん一体どうなっちゃったの?」
 力無く問い掛けるその姿は、泣くことに疲れた迷子の様であった。そんな七海に俺は何も言ってやれず、ただ体を掴まれて揺すられるがまま。口を開けば最悪の事態を告げてしまいそうで、幾ら直感的にはわかっているとは言えども言葉にしてしまうと、七海も俺も駄目になってしまうだろう。だけど、こうして手を切り落とされて無事だなんて思えるわけが無いのも、また確かなこと。
「もう駄目、無理だったのよ、やっぱり。逃げられるわけなんて、無かったんだよ。帰ろうよ、ねぇ。逃げていたら、どんどんこんなことが増えるばかりだよ……」
 瞳から滲んだ涙が赤い頬を濡らし、可憐な顔を崩していく。抱き付き、ぐずぐずと鼻を鳴らしながらしゃくり上げている七海の髪を撫で、少しでも落ち着かせようとするが、そうすることによって一番落ち着きを取り戻しているのは他でもない自分だ。情けないくらいに膝が震え、心はそよ風が吹いても折れてしまいそうになっている。
 やっぱり無理だったのだろうか。たった五日間とは言え、河口家から逃げることは無謀だったのだろうか。遠くへ逃げれば幾ら何でも追手だって散り散りになるだろうから、見付かりにくくなるはずだとばかり考えていたのが、甘かったのかもしれない。俺が考える以上に河口家の力は強大だと、改めて思い知らされた。どんなに逃げても、見知らぬ土地でさえも見張られており、そして逃げる程に周囲に危害が及んでいく。
 自分が傷付くのは当然嫌だが、自分のせいで誰かが傷付いてしまうのは尚更嫌だ。七海を生かしたく思うけど、その陰で誰かを犠牲にしていいだなんて思えない。そうか、これは儀式をしないとこういう事になると言う見せしめか。今は恵子さんだけだが、儀式を行わなければこうした人間が増えるのだと、そういうことか。犠牲者は増やしたくない。でも、あぁ、俺にはわからない。もうどうすればいいのか、わからない。俺もあぁなってしまうのだろうか。失敗の果ての現実を見せつけられ、俺は自分の手をじっと見ては天を仰いだ。
 二時まであと三十分に迫った。俺も七海も壁に凭れながら座り込み、何をも見ていない眼をさまよわせている。この二日で互いに痩せたような、いや、やつれたかもしれない。時間にしてまだ二十四時間少々。ずっと逃げているように思えても、まだこれだけだ。
 どうするべきなのか。そう先程からずっと考えている。もう逃げ切れるとは思えない、どこへ行ってもどう逃げても、先回りされている。けれど、逃げるのを止めてしまえば七海は死ぬ上に、俺もどうなるかわからない。可能性が僅かでもあるならばそこに賭けてみたいが、それが万に一つも無いと動く気になれず、ただ足元ばかりを見詰め、時間を食い潰していく。
 やらなければ死ぬ、だがやっても無駄。このどうにもならない状況に、どう立ち向かえばいいのだろうか。きっとこれが外に出て自由に動ける最後のチャンス、でも完全に手詰まりとなっている。わからない。諦めの疑問だけが渦を巻き、次第に俺を闇の中へと引きずり込む。
 仮に屋敷に戻ったところで、一体なにができるだろうか。屋敷で何もできずにいたから、こうして外へ逃げたんじゃないか。追手が迫ることくらい、わかっていた。相手が河口家だから苦しい逃亡になるなんて、予測していたじゃないか。そうだ、ただ少し思っていたよりも早く現れたから、戸惑っているだけなんだ。きっとどの道を選んでも辛いことがある。何故なら、俺はそういう選択をしたのだから。犠牲が出るのは仕方無いなどと思わない、けれどこの連鎖を一刻も早く断ち切るため、動かないといけないんだ。
「七海」
 低く小さく、それでいて優しい呼び掛けに、膝を抱えうつむいていた七海が顔を上げ、僅かに光を宿した瞳で修治の方を見る。
「逃げよう、できる限り逃げよう。こうした事態は予測していたじゃないか。確かに今は見付かっているかもしれない。でも、逃げているうちに見失うことだってある。相手がまだ目の前に現れていないうちは、チャンスがあるってことだよ」
「無理、だよ。もうわかったの、逃げられないんだって。どんなに逃げても目の前にいるし、どんなに隠れていても見付かっちゃう。いけすの中にいる魚をどう捕らえようかと、そういうのに近いんだと思う。修治君が一生懸命になってくれて、すごく嬉しい。けど、やっぱり諦めるしかないんだよ」
「待てよ、そうして一体何になるんだ。諦めたら死ぬんだぞ。このまま捕まったら、何のために逃げたのかわからないじゃないか。何のために、その、恵子さんがあぁなったか、わからないじゃないか。生きるためだろう。恵子さんは俺に言ったよ、儀式で殺すために七海を産んだわけじゃない、辛くとも生きて幸せを見付けて欲しいために産んだと。その意思を無駄にしていいわけない。もう一度、生きるために逃げよう」
「お母、さん……」
 子供の様に顔を崩し、七海は流れる涙をそのままにゆるゆると首を横に振る。彼女が最も信頼を寄せていたであろう母親が、無残なことになっている。誰のせいでもないのかもしれないが、責任を感じてしまう。逃げたからこうなったことは否めないし、まだ逃げるとしたら、更に悲惨な物が手元に届くかもしれない。けれど、もしかしたらそれにより一歩でも動いてくれるかもしれない。そうなれば、恨まれてもいい。例え恨まれても憎まれてもいいから、生きて欲しいんだ。
「無駄にしたら駄目だ、逃げよう。そりゃあもう駄目かもしれないけど、何もしないよりいいと思う。何はどうあれ、俺は七海に生きて欲しい。そして俺も生きたい。もっと一緒に色々な世界を見ていたいんだ」
「あのさ、修治君。一つ訊いても、いいかな。こんなこと訊いたら今更かと怒るかもしれないけど、どうしても答えて欲しいの」
 真剣な眼差しに対し、厳粛な頷きでもって応える。
「私は誰かを犠牲にしてまで、生きる価値があるのかな」
 遠くで風が吹いたように思えた。近くで鼓動が渦巻いたように感じた。呟き程度のそれは強く心に響き、上辺だけの言葉を遮る。生きるために生まれる当然の疑問、俺だって心の片隅でそれはある。けれど、いざ言葉にされると納得していたと思っていた自分の心すらも、曖昧に思えた。
「比べられるものじゃないけど、俺にとって七海はかけがえのない人だ。そう考える人が確かにいる。想われているからには、きっと応えなければいけないんだろう。勝手な押し付けなのかもしれないが、きっと世の中そんな勝手で成り立っているんだ。巧く言えないけど、そういうことなんだよ。七海にはそう思える人がいないのか?」
「そんなことない」
「なら、その人を悲しませないよう、生きるべきだ。生きるために今必要なのは、逃げることなんだよ。可能性が僅かでもあるなら、それに縋ってもいいんじゃないかな」
 立ち上がり、七海に手を差し伸べると、しっかりと握り返してくれ、俺はゆっくりと引き起こした。そうだ、これでいい。きっかけは出来る限り与えよう、だから最後は自分の力で起き上がって欲しい。
「修治君はすごいね。私、年上なのに何一つ決められないよ」
「俺だって、一人じゃ何も決められないよ……いや、一つだけ決めておこう」
「何を?」
 訝しげな七海の肩をしっかりと掴み、俺は一つ頷いた。
「もしバラバラになるようなことがあったら、ここに戻ってこよう」
「一人じゃ無理だよ。私には、できないよ」
 視線を下げる七海に合わせ、片膝をついた。そうしてもう一度、しっかりと目を合わせ手に力を込める。
「できるさ。それにもしも、だよ。簡単に離れようなんて、思っちゃいないさ」
「……わかった。じゃあもしバラバラになったら、ここにだよ」
 小包を拾い上げ、封筒を乱暴にポケットへねじ込むと、表通りへと出た。駅前だが人通りはあまり無く、もしも誰かが見張っているならば、筒抜けだろう。けれど、今はあれこれ考えるよりもとにかく動き、少しでもこの不安と恐怖を忘れたい。
 適当なタクシーに乗り込むと、鮎川方面へと行ってもらうことにした。この辺の地理はさっぱりわからないけど、隣の駅が鮎川とあったので、とりあえずそこへと向かう。タクシー独特のどこかツンとした匂いに緊張しつつ、そっと手を握り合いながら窓の外へ目を向ける。
 タクシーの運転手にも色々な人がいるけれど、この運転手は一言も喋らず、黙々と運転を続けている。普段ならばこの沈黙が気まずくて、一言二言声を掛けてくれる方が嬉しいのだが、今はこの沈黙に感謝した。仮に何か話し掛けられたりでもしたら、どもったり声が裏返ったりなどして、不審人物だと思われる恐れがある。けれど、自分達から話し掛ける必要など無い。黙って目的地まで座っていればいいだけだ。
 十分程走ったところで、ちらほらと鮎川の文字が見えてきた。このタクシーにはここらで降ろしてもらい、別ので駅へ向かおう。駅から駅へタクシーで移動するなんて、怪しまれても仕方無い。
「すみません、ここで」
 だがタクシーは停まることなく、どんどん先へと進む。聞こえなかったのだろうか、それとも意味が通じなかったのか、どちらにせよ停まってくれていないのだから同じだ。そろそろ降りなければならないのに。
「すみません、ここで降ろしてもらえますか」
 大き目の声でそう言っても、運転手は無言で走らせ続けている。ふと気付けば、先程通った道をどうやら引き返しているようだ。七海もこの異変に気付いたらしく、不安げな眼を向け、手に力を込めてくる。
「おい、どこ行くんだ。停まれって言っているだろ。何で戻るんだよ」
 怒声をぶつけるが、運転手は無言のまま来た道を引き返していく。何を考えているのかわからないが、戻ってはいけないんだ。あそこ今戻ると、河口家の者がいる。
「おい、聞いているのか」
「お客さん」
 ようやく運転手が口を開いた。その声はとても淡々としており、まるでこれが何でも無い世間話の途中かのような雰囲気ですらある。
「二時までに戻らないと、駄目でしょう」
 それを聞いた途端、もう何も考えることができなくなり、ただ糸の切れた人形のように呆然とする他無かった。虚ろな眼差しを七海に向ければ、彼女ももう流す涙は無いのか、うなだれていた。
 丁度二時頃、先程の駅に戻ってきた。駅前には豪奢なリムジンが停まっており、周囲の様相とは不釣合い甚だしく、一際目立っている。ふらふらとタクシーから降りれば、リムジンの前にいた敏雄さんがこちらに気付き、うやうやしく頭を下げた。
「お迎えに上がりました、七海様、修治様」
 返事をする気力も無く、俺達がのろのろとリムジンに乗り込むと敏雄さんも続き、そうして出発した。心地良い造りのリムジンだが、何も感じない。ゆったりとした空間が逆に寒々しく、心が音も無く崩れていくのを感じ、次第に外の景色はおろか七海すら見ていられなくなった俺は思考を停止し、ただのガラス球となった瞳に見慣れた足元を映すばかりだった。
 何もかもが、予測の範疇だったのだろう。しばらくすると大きな駅前に停まり、俺達は降ろされた。リムジンが敏雄さんからそこで待機していた黒スーツの男に渡されると、予め用意されていた新幹線の切符を敏雄さんから受け取り、乗車させられた。俺と七海が共に座り、通路を隔てて敏雄さんが座っている。
 逃げようなんて、もう思えなかった。また敏雄さんを出し抜き、逃げられたとしても、すぐに捕まるだろう。いや、そもそも出し抜けたのかどうかすらも、今となっては疑わしい。それにきっと、敏雄さん以外にも河口家に関わる人間がこの車内で何食わぬ顔をして見張っているだろうし、仮に途中下車できたとしても、停車駅の先々で待ち構えられているだろう。
 今更と言うか、改めて七海が逃げられないと頻りに言っていた訳を理解できた。幼い頃から嫌と言う程に知っていたであろう河口家の力、確かにこれだけのものだと、そう諦めてしまうのも無理は無い。俺だって度々そう思っていた、認めたくなかっただけかもしれない。けれど、それでも七海を何とか助けてあげたかったんだ。
 新幹線から降りると、新たなリムジンが停まっていた。黒塗りのそれは先程のよりも少し大きく、豪奢な感じを与える。促されるがままに乗り込むと、中には栄一さんが悠然と座っており、俺たちを見るなり微笑みかけてきた。太陽の様な笑顔、そう形容するのが適当に思えたけれど、どうしてもそう思いたくなかった。どんなに必死になっても、この人の掌の上で踊らされていたのだと思うと、悔しくて堪らなくて、でもそれを表に出せず、俺は人知れず奥歯を噛んだ。
「旅行は楽しかったかね。若い時は色々な物に触れておくべきだ、吸収も早いからね。でも、無断外泊は感心しないなぁ。修治君と一緒なら大丈夫だとは思っていたけれど、それでも可愛い一人娘だからね、父さんのことも少し考えてくれよ」
 どこまでも明るく、楽しげに話し掛けてくるが、俺も七海も黙っていた。明朗であればある程、哄笑が愉快そうである程に、言い様の無い絶望感と虚無感が広がっていく。涙すら出てこない。ただ、胸がひどく重い。その重みが苦しくて、全てを投げ出してしまいそうになる。
 市街地を抜け、車は河口家へと続く山道へ入った。日が傾きかけている以上にうっそうと繁る木々のせいでとても暗く、不気味な印象を強めている。いや、そんなことはこの車内に比べれば、些細なことかもしれない。七海の隣で機嫌良く顔を崩している栄一さんが、何よりも異質に見えた。何だか別種の人間、実際にそうなのかもしれないが、それでも自分とはかけ離れた人を見ていると、嫌悪と恐怖が胸を悪くさせる。
「ねぇ、お父さん」
 うつむいていた七海が突然顔を上げ、栄一を見た。どこか悲壮な決意すら窺える瞳。だが栄一は泰然と七海を見、何を言われても動じなさそうな雰囲気を崩さない。
「お母さんは、どこにいるの?」
「あぁ、そんなことか。母さんは泳ぎに行ったよ」
 まるで本当に遊びに行ったかのような軽い口調で言い放たれたが、その本当の意味は俺も七海もすぐに察知できた。あってはならないこと、してはいけないことが平然と行われてしまう力の前に、どう立ち向かえばいいのだろうか。この人にとって、他者は全て利用すべき道具なのかもしれない。
 しばらく耐えていた七海もやがて膝に顔を埋め、泣き出してしまった。声を出さないようにしているが、どうしても時折漏れてしまうのは、それだけ恵子さんを慕っていたと言う表れだろう。慰めてあげたい、抱き締めてその悲しみを僅かでも減らしてあげたい。けれど、この状況でそれは思う以上にならなく、俺はただ黙って自分の足元を悔しげに見詰めることしかできない。
「何を泣くことがあるんだい。あぁ、疲れているんだね。旅行は楽しいものだけれど、やはり我が家が一番落ち着くものだ。帰ったらゆっくりしなさい。風呂に入って、さっぱりした方がいい。あぁ、それとも食事が先かな」
 どんな言葉も今は疑わしく、憎かった。
 河口家に着くと、各々自室へと向かった。途中、七海と二人きりで廊下を歩いていたが、互いに口を開けず向き合えず、足音と視界の端に映る姿だけが隣にいることを実感させてくれた。
 自室は出て行った時と何ら変わっていなかった。小綺麗に整頓され、ベッドメイクもされていることから、いない間も普段通り沙弥香さんか和巳さんが掃除してくれていたのだろう。そんな普段通りの部屋を見ていると、無性に腹が立ってきた。
 馬鹿にしやがって。俺と七海が一大決心をして、色々なものに押し潰されそうになりながら必死に逃げていたのに、ここの人達は何でも無いことのように思い、普段と変わらぬ生活をしていた。きっと、子供の家出のように思われていたんだ。すぐに帰ってくる、すぐに見付かる、大した知恵も力も無いだろうから、と。そう馬鹿にされていたに違い無いだろう。
 あぁ、何よりも悔しいのが、実際すぐに連れ戻されたことだ。あの逃亡は一体何だったのだろうか。いたずらに恵子さんを殺してしまっただけじゃないか。三十時間にも満たない逃亡劇で得たものは、絶望と無力感だけじゃないか。結局、俺は七海を助けられないのだろうか。期待されたりもしたが、やはり始めから無理だったのかもしれない。
「俺が思っていたより、遥か上だったんだな」
 考えることすら面倒臭い。何だか、もうどんなにがんばっても無駄な気がしてきた。溜め息にはまだ多少の期待があるからこそ、辛い現状のカタルシスを迎えようとするのだ。それすら今は迎えられず、上着を脱ぎ捨てるとただぼんやりとベッドに寝転がり、何の意味があるのかと呼吸を繰り返す事につい自問してしまう。
 不意にドアが二度ノックされた。慌てて跳ね起き、体を強張らせながら返事をする。
「和巳です、紅茶をお持ちしました」
 いつもより丁寧な言葉遣いと共に、ドアが開かれた。和巳さんはそっと紅茶とシュガーポットをテーブルに置くと、何か言いたげな眼差しを俺に送ってくる。言いたいことは大体わかる、無駄なのにそんな馬鹿なことをしなくとも、などだろう。確かに敵わない相手に歯向かう俺は馬鹿なのかもしれない。けれど何もせずに俺のやることを馬鹿だと思い、自分は変わらない日常を送っていたのだと思うと、無性に腹が立ってきた。出来るならば今すぐにでも追い出したいのだが、訊きたいことがあるため無下にそうもできない。俺は砂糖を一匙入れ、よく掻き混ぜながらゆっくりと和巳さんへ目を向けた。
「ちょっと訊いてもいいですか」
「何ですか」
 微笑みを浮かべているものの、どこか青褪めて見える和巳さんはきっと、何を訊かれるのか大体予測がついていることだろう。
「昨日、何か変わったこととかありました?」
 和巳の眉根が僅かに動き、そっと視線を落した。
「奥様が、いなくなられました。昨日の夕食後から、お姿が……」
 どうなったのか、和巳さんも知っているのだろう。もしかしたら、手伝わされたのかもしれない。多くを語らずとも、その様子が雄弁に物語っている。恵子さんは確かに死んだのだ。そうして、海に。
 人は必ずいつか死ぬ。それは当然のことで、誰にでも平等なもの。けれど一ヶ月前までそれを知っていても、理解できていなかった。自分の親しい人はいつまでも側にいる。そんなことありえないのだが、どこかで頑なに信じている俺がいた。現実から目を背けていたわけじゃない、触れなかったから都合良く取り扱っていただけ。誰かが死ぬ、そんなこと遠い世界の出来事のように思っていた。決して入ることの無い、ガラス越しの世界。
 けれど、一ヶ月前に両親が死んで、初めて死を身近に触れた。最初は信じられず、他人事のように思っていたものだ。まず考えたのが、その日の夕食を自分で作らなければならないのか、と言うこと。それでも親戚が集まり、格式張った葬式を行っていると、考えるより先に涙が溢れた。悲しいだとか、寂しいだとかなんてものはいつも心を揺り動かしてから溢れてくる。あぁ、もう会えないから寂しい、声が聞けなくなって寂しい、そう思ってから大抵泣くものかもしれないけど、誰かが両親の思い出話をしているのを耳にするとそう考えるよりも先に、訳もわからず涙がこぼれた。
 寂しさに塗れ、俺はここに引き取られた。申し分の無い生活なのだが、七海が両親と接している姿を見るのは辛かった。もういい年になる、女々しく感傷に浸ってはいけないと思いつつも、つい現実に負けてしまいそうになる夜もあった。そんな俺を察したのか、恵子さんはまるで実の息子のように接してくれた。そうした気遣いが申し訳無く、また恥ずかしかったけれど、とても嬉しくもあった。この人とは上手くやっていける、もう一度家族の暖かさを抱かせてくれるかもしれない、そんなことを思っていたらいつの間にか笑顔を取り戻せるようになってきていた。
 なのに、何でこんなことになるのだろうか。俺を大切にしてくれていた人が、どんどん死んでいく。特に恵子さんは俺が殺したも同然だ。あの時、逃げるしか他に道は無かっただろうが、それでも何故もっと別の道を探そうとしなかったのか、自分に腹が立ってくる。おまけに逃げられず、あっさりと捕まってしまい、こんなところでのうのうと生きている。俺は何だ、いてはいけない人間なのだろうか。そうじゃなく、もしも運命と言う物が本当にあって、何らかの役割を与えられているとしたら、それは一体どんなものだろうか。過ぎ去った後に気付いても、遅いんだ。
 いや、それよりも何故俺の親しい人ばかり死んでいくのだ。どんなに辛い試練も、その人が登れるであろう高さしかなく、それを乗り越えられるかどうかで輝きが違うとは誰の言葉だったろうか。高ければ高い程に素晴らしい景色が見えるらしいけれど、誰かの死を踏み台にしてまで見るべき価値のあるものが、果たしてあるのだろうか。全ての命は地球より重い、なんてことは言わないし、信じない。それでも、こうも死を身近に感じてしまうと、生き残っている俺は何なのかと思ってしまう。
 がっくりとうなだれていると、和巳さんが近寄り、心配そうに覗き込んできた。
「無理なんですよ、どうしても」
 小声でそう囁くと、和巳は踵を返す。
「紅茶のおかわりが必要なら、いつでも言ってね、すぐ持ってくるから。それじゃ」
 いつもの口調に戻るなり、和巳さんは出て行った。一人残された俺は先程からスプーンで紅茶を回すばかりで、他に何も、和巳さんに反駁することすらできないでいた。無理なんですよ、そう言われても返す言葉が見付からない。悔しいが、どうにもできないんだ、どうにもできなかったんだ。
 目の前の紅茶、これすら毒が盛られていそうだ。大事な七海を連れ出した者への制裁、恵子さんと同じ道を辿らされるかもしれない。そう考えると何もかもが疑わしく思え、この紅茶のみならず食事、一人でいる時、就寝時などいつ死が訪れるかわからない恐怖にいつも怯えることとなる。あぁ、この目の前の紅茶をどうするか、それで運命が決まるだろう。向かうか、逃げるか。
 しばらく考えた後、えいと意を決して一口飲んでみた。鼻から柔らかく抜ける甘い芳香に、しっかりとした味わい。普段飲んでいたものと変わらない美味しい紅茶に、思いがけず心が安らぐ。茶葉が何かはよくわからないのだが、これだけの家だ、高価な物を惜しげなく使っていることだろう。
 そうだ、いつ殺されるか何をしてもわからないし、防ぎようが無いんだ。両親が死んだ時点で、逃亡が失敗した時点で死んだようなものだ。いつでも死ぬ気でいられれば、多少は余裕が生まれるかもしれない。心構え一つで、物事どうとでも捉えられるものだ。なんて、あぁ、そんなことが簡単にできたなら苦労しない。死の危険に晒されて、開き直れるものか。俺はまだ、そこまで満足のいく人生を送ってなんかいない。
 二口飲んで、それきりカップから離れると再びベッドに寝転がった。一口も二口ももし毒が盛られているならば同じだろうけど、どうも飲む気がしない。一人寝転がって、ぼんやりとしていても、どうにも不安と恐怖が湧き上がり、そっと体を丸めては頭を抱え込み、一人震える。それが何かははっきりわからないが、確かに心を蝕んでいくものがある。抗えず、されるがままに逃げることもままならぬ苦しみが溢れ、ともすれば気が狂ってしまいそうな程に心乱れていた。
 やり切れなさと無力感に身を焦がされ、七海の姿を思い浮かべては燃え上がるような申し訳無さで胸が張り裂けそうになる。なんだ、色々と体の良い言葉を並べ立てていただけじゃないか。恵子さんによろしく頼まれ、俺は頷いてみせただけだ。沙弥香さんに頼まれた時も、同じだった。
「そう言えば」
 頭の中の靄が一気に晴れていくのを感じると同時に、俺はベッドから跳ね起き、脱ぎ捨ててあった上着の内ポケットを弄る。途中で買ったグレーの上着、だけど始めから持っていたサイフ等は全て移し替えてある。そう、俺はサイフと共にもう一つ大事にしていた物を、すっかり忘れていた。今こそ再び手にする時だろう。
「あった、これだ」
 手触りで頬が緩み、取り出して安心した。それは一通の封筒、逃げる前日に恵子さんから受け取ったものだ。確か逃げることに失敗した時か、全てが終わった時に開けろと言っていた。まだ全てが終わってなんていない。けれど逃げるのに失敗してしまった今こそ、見るべきものだろう。もう今の俺にはどの道も見えない、何をどうすべきなのかが、さっぱりわからない。だから俺はこれに縋るしかないんだ。
 周囲を見回し、耳をそばだて、人気が無いことを念入りに確認すると、一呼吸置いた後、丁寧に開封した。中には便箋が一枚入っている。

前略
修治さん、貴方がこの手紙を読んでおられると言う事は、私はもうこの世にいないでしょう。けれど悲しまないで下さい、これはなるべくしてなったことであり、私は最後に海江田修治と言う、全てを任せられる人に出会えたので、そう心残りはありません。誰もが役割を持って、この世に生を享受するものです。私の役割は新たな命を育み、それを相応の人物に託すことだったのでしょう。押し付けに思えるかもしれませんが、どうか私が育んだ命を貴方に大切にしてもらいたいのです。
 前置きが少々長くなりましたが、ここからが本題です。修治さんは河口家に来て日が浅いにもかかわらず、ある程度のことを知るまでになりました。けれど、それは秘密とされておりながらも、使用人達の間ですら知れ渡っている事。私がこれから伝える事は、七海ですら知らない河口家の最重要機密です。
 申します。七海には双子の姉がおります。名は未玖と言い、七海の映し鏡の様な姿形でありながら、人知れず生きているのです。未玖は訳有って、一階書庫の地下で幼い頃から監禁されております。そこへは、一階書庫の左端奥の棚、最上段左から八番目の本を押し込み、それから棚を押せば地下への階段が現れるでしょう。突然の事に驚いているかもしれませんが、未玖も私の子、何卒よろしくお願い致します。
 七海と未玖、そして修治さんに幸あらん事をいつまでも祈っております。
                                     敬具
  三月十六日
                                  河口 恵子
 海江田 修治様

 一通り読んでみてもよく理解できず、二度三度と読み返してみたが、それでもこの手紙のないように現実味を抱くことができず、しばらく内容をまとめられなかった。書いてあることは、至ってシンプルだ。七海に未玖と言う姉がいて、彼女は訳有って書庫の地下にずっと監禁されている。その子に会ってくれ。たったこれだけの短い文面なのだが、俺はなかなか受け入れられず、整理が覚束ないでいた。
 しかし、よくよく考えてみれば、夜に度々会っていた七海は未玖なのではなかろうか。だとすると、七海そっくりだが異なる雰囲気を有していたことに、説明が付く。いや、憶測で物事を判断してはいけない。会う方法が示されている以上、実際に会って真偽を確かめるべきだ。今は他に道が無い。既に死を迎えるだけになった俺だ、彼女に会えば、何かしら道が見えてくることだって充分ありえる。
 だが、一体幼い頃から人知れず監禁生活を送っている未玖とは、一体どんな人物だろうか。もし夜に会っているのが本当に未玖だとしても、俺は彼女のことを何も知らない。未玖は何かしら色々と知っているみたいだが、ずっと監禁されていると言うのに、どうして俺のことを知りえたのだろう。いや、俺だけではなく、何故あんなにも色々知っていたのだろうか。そして、河口家の人間であり、七海の姉であるのに監禁しなければいけなかった理由とは一体何だろうか。どうして存在を秘密にしなければいけなかったのだろうか。
 考える程に謎を呼ぶ。すぐにでも会って話をしたいけれど、今動いたら誰かに見付かってしまうかもしれない。深夜一人で行ってみよう。今はまだ、七海にも秘密にしておいた方がいいかもしれない。もし七海に言ってしまうと、彼女のことだ、猛烈な罪悪感に苛まれてまた一つも二つも悲しみを背負うかもしれないし、何よりどんな人間か知っておいてから会わせる方がいいかもしれない。
 俺は封筒を机の中に入れておいた雑多なノートの間に挟むと、もう一つ紅茶を口に含んでから、再びベッドに寝転んだ。

 毎夜不安と恐怖が布団の安楽をも奪っていたが、今日はそれが好都合だった。電気を消して布団に入ってから、結構な時間が過ぎているけれども、一向に眠くならない。まぁ、負の感情よりもこれからやろうとしていることに、興奮しているからかもしれないが。暗闇にすっかり慣れた目で時計を見れば、午前一時四十分。そろそろ動いてもいい頃合だろうと、物音立てぬように気を付けながら、俺はベッドから降り、そっと部屋を出た。
 暗くてよくわからないが、二階廊下に人気は無さそうだった。耳を澄ましてみても、聞こえてくるのは風の泣き声だけ。それでも足音は当然のこととして、呼吸すら気を配りながら一階書庫を目指す。いざと言う時に言い訳ができそうなトイレのあるルートを通り、そこから階段へ向かう。これから先、もし見付かったならば言い訳なんてできない。呼吸をある程度抑えているせいか、それとも緊張のためか胸が少し苦しいけれど、ここで深呼吸してしまうと危険だ。まるで深海、暗闇と無音に怯えつつ、まともに息ができない。溜まった唾を飲むことすら、大いに躊躇してしまう。
 それでも何とか一階に下りると、特に敏雄さんの部屋から死角になるよう、ゆっくりと書庫へ近付く。広い屋敷が更に広く感じ、豪奢なホールがこんなにも殺風景だったのかと思えてくる。この跳ね上がる心音が響いていないだろうか、無意識のうちに荒い呼吸になっていないだろうか。この暗闇はカンナの様に俺の精神を削っていく。
 どこかでドアの開いた音がした。刹那びくりと体が震え、血の気が引いて行き、心臓が止まりそうな程驚いたが、必死に何もかもを抑え、音のした方へ意識を向ける。足音が無遠慮にこちらへと向かっていたので、俺はその足音から死角になるよう、柱の陰にそっと身を潜め、息を殺す。そうしてその足音、歩き方から誰なのか、静かに記憶と照らし合わせる。
 和巳さんだ。多少安心したものの、やはり見付かるわけにはいかない。じっと柱の陰で闇と一体化するようにしていると、和巳さんはトイレへと向かった。どうやら気付かれていないみたいだ。しばらくそのままでいて、和巳さんが部屋に戻るまで待ってから、再び書庫を目指す。
 何とか書庫に入ると、静かに一つ深呼吸した。昼間のこともあり、ひどく疲れている。眠くはないのだが、横になって休みたい。けれど折角ここまで来たんだ、もしかしたらもうこんなチャンスは無いかもしれないんだ。萎えそうな心を再び引き締めると、明かりを点けるわけにはいかないくらい書庫を、壁伝いに手探りで進む。不意に何かにぶつかって音を立てないよう、左手を壁に、右手を前方の暗闇に差し出しながら歩く。
 暗くて確認できないが、指定されてあった左奥端の棚の前まで来ることができた。左手を壁に添えて、一度角を曲がり、突き当たりに来たのだから間違い無いだろう。本棚はかなり高いが、背伸びすれば何とか最上段に手が届く。周囲に気配が無いか今一度確かめた後、精一杯背伸びして、左から一冊二冊と数え、八冊目を数えると指先でそれを押し込んだ。確かに奥へと本は沈んだけど、押しが足りなかったのか、本棚を押しても引いても動かない。この暗さではどこかにあるだろう踏み台を見付けることが難しいと判断し、俺は下段とその上の境に足を掛け、飛ぶようにして八番目の本をより奥へと押し込む。本が奥まで入ると、何か変わった感触が伝わってきた。心なしか本棚が動く感じがする。俺は静かに下りると、恐る恐るそれを押してみた。すると、僅かな抵抗があったと思うが早いか本棚は右奥へと動き、その先に薄ぼんやりとした間接照明に照らされた階段が現れた。
 こんなところに、こんなものがあったなんて。隠し部屋があるとは手紙で知っていて、そのためにきたのだが、実際に目の当たりにすると、我が目と常識を疑ってしまう。何だか別世界に紛れ込んでしまったかのような錯覚を覚えたが、この河口家自体が別世界なんだ、今更隠し部屋の一つや二つで驚いていられない。階段はどうやら螺旋状になっており、先々に仄かな間接照明が足元を照らしている。当然窓なんてものは無く、換気が悪いせいか、息苦しくカビ臭い。本当にこの先に、未玖と言う女がいるのだろうか。
 暗くて距離感が掴めないからか、妙に長く感じる。音を立てないように歩いていても、一歩一歩が吸い込まれるように響いてしまう。そのせいか、奥で待っているであろう未玖が、まるで忌まわしい悪魔に思えてくる。俺はどうなるのだろう、会って何を話せばいいのだろうか。そんな不安も最奥の扉の前に立つと、息と共に呑み込んだ。
 重厚な木製のドアに小窓は無く、何者をも立ち入らせない雰囲気がある。きっとこのドアの先で待っているのだろう。けれど逸る気持ちが起こらず、どこかこの丸いドアノブを回せずに躊躇してしまっているのは、畏れがあるからかもしれない。いや、もう何も考えるな。今考えたところで、良い結果にはならない。どんなに不安があろうとも、会わなければいけないのだから。俺は冷やりとしたドアノブをしっかりと握り、静かに捻った。
 鍵はかかっていなかった。そっと重いドアを押し開き、中を覗き込む。けれど、ドアの先は暗闇ばかりが広がっていて、何も見えない。何もかもを呑み込んでしまいそうなそれは、本能的な恐怖を呼び起こし、足を固められてしまった。自分の呼吸しか聞こえない程の静寂だが、その先には確かに気配がある。行くべきなのだが、意思に反してもう一人の俺が強く引き止めていて、戻るも進むもできずにしばらく立ち尽くしていた。
 不意に奥から金属の絡み合う、そう、鎖の動く音が僅かに聞こえると、びくりと肩を震わせ、体を強張らせながらも目を皿の様にし、正面の暗闇をじっと見詰める。
「来てくれてありがとう」
 俺はこの声を知っている。いつも聞いている声とそっくりだが、月明りに照らされて煌いていた、どこか妖艶な響きの彼女のそれと同じだ。驚きつつも、多少安心した。やはり俺の予想通りだったのだ。けれどまだ、この闇に身を投じる気にはなれない。
「明かりは入口左手側の壁にあるわ。別にここに危険は無いから、安心して」
 言われるがままに一歩踏み込み、壁を弄っているとスイッチらしきものがあったので、押してみた。すると四隅の間接照明が闇を拭い、室内が見渡せるようになった。河口家の中にあり、誰かが過ごすには驚く程殺風景で、独房としか思えない造りである。どこよりも硬い絨毯の中に右隅に便器、左側に平べったい布団、その近くに幾枚かの衣類が並べられてあるだけの、何も無い部屋。当然窓も無いが、空調がしっかりしているおかげで暑くも寒くもない。けれど、それにしてもこの待遇は何なのだろう。仮にも娘であるのに、こんな最下層の囚人同様の扱いは理解を超えている。そんな部屋の中央に、後ろの壁から伸びた鎖を手足に繋がれた、七海と見紛う程にそっくりな河口未玖が、こちらをじっと見て鎮座していた。
 見覚えがあった。記憶そのままの姿で、彼女はそっと微笑んでいる。少し痩せ気味で、でもしっかりとした輝きを持つこの人が、河口未玖。七海の姉であり、河口家の中でも最重要人物なんだ。俺は後手でドアを閉めるとゆっくりと近付き、三歩分の間合いをもって目線を合わせた。
「夜に会っていたのは七海じゃなく、君だったんだね」
「そう、私はここから出られないから、私の想念を形にして貴方と話していたの。信じる信じないはどうでもいいわ、話したのは事実であり変わらないのだから。ほぼ毎晩貴方に呼び掛けて、ごめんなさい。でも、どうしてもお話したかったのよ。貴方が必要だから」
 想念を形としただとか、確かに今はそんな超常的なことはどうでもいい。問題は何故俺が必要とされているかだ。そこに一連の鍵があるような気がする。
「前にも訊いたけど、どうして俺なんだ。誰でもよかったのか。この家に俺じゃない誰かが来たとしたら、その人に頼んでいたのか。それに、何故こんなところにいるんだ。何かこの家の秘密に詳しいみたいだけど、それは何なんだ。一体何を知っているんだ」
 溢れる疑問を抑えることが出来ず、思うがままにぶつけるけれど、未玖は別段動じず、涼しい顔で一つ一つに頷く。そうして俺が一通り言い終えると、一際大きく頷いてから口を開いた。
「誰でもなんてことは無い、貴方は運命の輪の中にいる人間。七海の心を動かし、やがてそれが古から縛られたこの家を動かすこととなった。それは偶然ではなく、必然。貴方はここで、そうした位置にいるの」
「何だと。じゃあ、俺が七海と親しくなったり、恵子さんが死んだりしたのも、全て運命の必然だとでも言うのか」
「そう、決まっていたことなの。だけど、その必然はきっかけ。そこからどうなるかは、その人次第なのよ。それでもどちらに進みやすいかと言うのは、確かにあるわ」
 きっかけ。もしそのきっかけが必然と言うならば、意思によって変えられない出来事がそうなのだろう。それは考えるまでも無い、俺の両親の死、これこそが未玖の言う必然に当たる。河口家の歴史にとって、俺の両親の死は水面に投げる小石程度のものなのか。何だよ、いつか人は死に別れるだろうが、こんな風に決まっていたなんて納得できるか。この怒りさえも、必然だと言うのか。何が運命だ、何が必然だ、その先はこれ以上の価値があるとでも言うのか。七海に生きるべきだと話したし、生きて欲しいとは今でも思うが、俺もわからなくなってきた。
 震える拳をどこにもぶつけられず、ただ歯噛むしかなかった。今更ながら、我が身の運命を呪いたくなったけど、嘆いてもしょうがない。いや、本当はそんな言葉で片付けたくないのだが、そう無理にでも納得しておかないと未玖を殴ってしまいそうだ。俺は深呼吸を数度しながら、未玖の言葉を待つ。
「悲しく呪われた運命の連鎖は、河口家の歴史でもあるの。河口家が昔から退魔の家系として存在し、河口大和と言う天才が『災厄』を封じ込め、その子孫が現在まで死を賭して押さえ込んでいる。ただ年々封印の力が弱まってきたために、今回の儀式で河口大和以来の力を持つとされている七海を生贄にしようと、この家が動いている。ここまでは知っているでしょう」
「あぁ、知っている」
「ただ、七海も知っているのはここまで。もちろん、使用人達の大半もそう」
「まだ何か知っているのか?」
 未玖は静かに頷き、まるで眠るかのようにそっと目を閉じた。その顔は遠い過去を懐かしむようでもあり、また涙を堪えているようでもある。
「天才の子は必ずしも天才ではない。河口大和の血が時を経て薄れて行くのと同時に、能力も衰えていったの。そこで河口家はその血と力を残すため、近親の者と縁を結び、子の中でも女を特に大事にし、複数いればその中で力の強い者を跡取りとしてきた。女は子を産むことから、血を直接受け継がせられると信じられてきたのが理由の一つ。もう一つは、古来から産むと言う行為が大地の力と同じものとされ、女の方に力があるとされてきたからなのよ。こうした女性主体のシャーマニズム信仰は日本のみならず、世界各地で信仰されてきているのは厳然たる事実」
「じゃあ何で、君はこんなところにいるんだ。君だって七海の姉なんだろう。それに、俺と想念だかで話せたと言うことは、それ相応の能力を持っていると思われても不思議じゃないと思うけど」
「女を大事にする河口家にも、例外はあるの。それは双子の存在。双子は力を分断されると、昔から忌み嫌われていたの。私と七海は一卵性双生児、本来ならばどちらかが死に、その血をもう一人に飲ませて力を一つにしなければならない運命。けれど、生まれつき私には霊を引き寄せる力、七海には霊を見て封印する力が、凡百の能力者のそれを上回っていたらしいの。それを知った父は殺すのが惜しくなり、私をここへ幽閉し、七海を跡取りとして育てたの」
「跡取りって、七海が死んだらこの家も絶えるんじゃないのか。それに、女が能力者でありながら跡取りって、どちらか一方しかできないじゃないか」
「説明不足だったわ。正確には男が対外的な跡取りとしてその座に着き、女が能力者としての系譜を絶やさないようにするのよ。ただ、母に能力は備わっていなかった。逆に父が先祖帰りで、男でありながら強い能力を持っている。だから父が全てを取り仕切っているわけ。それに、本来河口家では子を産んでから、儀式を行うもの。しかし今回の『災厄』は既に子を待てない程大きくなってしまっているから、七海を儀式の舞台へと上げたのよ。父はこれを予見していたんでしょうね、だから私と七海を残したのでしょう」
 まるで道具として生かされていた二人、特に未玖はこんなに暗く粗末な所でずっと生かされてきた。辛くなかったのだろうか、なんて質問は愚問かもしれない。七海が知らないと言うことは、生まれてからずっとここで過ごしていたのだろう。どうして耐えてこられたのだろうか。正に人知を超えているとしか思えない。
「なぁ、どうしてこんな生活に耐えられたんだよ。俺だったら、きっと発狂するか、七海を殺したい程恨むだろう。一体そうまでして生きる価値は何なんだ。家のため、儀式のためだけなのか?」
「私の周りをよく見て」
 言われて初めて気付いたが、硬い絨毯をよく見てみれば、何やら様々な模様が描かれていた。これは曼荼羅とか言うものだろうか、河口家の歴史書に同じようなものが描かれていたような気がする。
「この真下に『災厄』が封じられているの。それは封印をしていても、徐々に外へと漏れ出していた。年々強くなる『災厄』に対し、術者の力は衰えていく一方。だから、ここから外に出さないよう、私が全てを引き受け、蓋の役目をしてきたの。こんなこと言うのも何だけど、辛いわよ。今こうして話していても、心を蝕んでいる。けれど、私はこんな自分の運命に悲観なんかしていない。そして、私は七海を恨んでいない」
「俺には、わからない。もし俺は君の立場なら、そんなこと思えない。教えてくれ、どうしてそう思えるんだ。妹のためか、それとも自分に諦め切っているからか?」
「さっきも言ったけど、七海の方が私よりも封印の力が強いから、この苦しみを終わらせてくれると信じているの。七海はもう一人の私。あの子が楽しそうにしていたり、嬉しそうにしていると、私までそうした気分になれる。逆もまた然りよ。七海は私の希望、誰もが別の誰かに憧れると共に、もう一人のより良い自分を思い浮かべるけれど、私にとって七海がそうなの。それを失ったら、今の自分が消えてしまう。貴方と七海が逃げた時、無事に逃げて欲しいと思った反面、戻ってきて欲しいとも思ったわ。七海のことを考えるとそんな自分はいけないと知りつつ、そうなる運命なのだと自分に言い聞かせ、耐えていた。私の幸せは七海の幸せだと信じて今まで生きてきたのに、どこかでまだ自分だけの幸せを願っていたなんて、気付かなかったわ」
 かける言葉が見付からなかった。何を言っても未玖の想いに届かず、全て陳腐に聞こえてしまうだろう。そして、この湧き上がる自分の気持ちすら、説明できない。ガラスを掻きむしるのにも似たもどかしさ。顔を顰め、歯噛み、何をどうすればいいのかわからずまごつき、だけどじっとしていられず、ただ未玖を少しでも慰めてあげたい、気休めでも何でもいいから、どうにかしてあげたい。気付けば俺はそっと未玖を抱き締めていた。見栄や体裁、照れなど浮かぶ間も無く体が勝手に動いて、そして、なぜか視界が僅かに揺らいでいたけれど、今はそれも含め黙ってこうしていたい。
「泣かないで。貴方が流す涙は、私に向けるべきじゃない」
 そっと未玖が修治の背と頭に手を回し、撫で擦る。
「私はずっと暗闇の中にいたから、この目で物を見ることはほとんどできない。けれど、心で見える、はっきり見える。そうして暖かい……。でもそれは、後ろにいる七海に与えて。私はこの一度で充分だけど、七海にはまだ必要だから」
 振り返れば、七海が涙を流して立っていた。
「七海、どうしてここが」
「眠れなかったの。すっと起きていて、一人で色々考えていた。そうしたら部屋の外に気配を感じて、そっと確かめてみたら修治君がいて、どこかへ向かっているようだったから、それで」
「じゃあ、ずっと」
 七海は静かに頷いた。
「えぇ、後について、ドアをそっと開けてずっと聞いていたわ。でもまさか……」
 七海はゆっくりと歩み寄り、そうして俺と未玖の横にしゃがむと、両手を大きく広げ、しっかりと抱き締めてきた。俺も未玖も片手で七海を抱き、そのまま三人、互いの温もりを確かめ合う。
「姉さん、ずっとこんなところに一人で。私、何も知らなかった。何も知らないまま、こうして生きて、私だけ……ごめんなさい、ごめんなさい」
 しゃくり上げながらも必死に言葉を紡ぐ七海に、未玖はまるでずっとそうしてきていたかのように優しく頭を撫で、そうして七海の背負っている物を少しでも和らげるかのように、ゆっくりと首を横に振る。
「いいのよ、私はこうなる運命だと決まっていたのだから、七海がそのことで気を病む必要なんて何も無いの。それにね七海、貴方は私の希望。何度だって言うわ。貴方の影は全て私が引き受けてあげるから、だから泣かないで、謝らないで。私は七海に生きて欲しい、私が手に入れられない幸せを、私の分まで手に入れて笑って欲しいの」
「そんな、姉さんだって幸せになる権利はあるよ。何で私だけって言うの」
「幸せの定義は人それぞれで、私の幸せは七海の幸せ。そこに何故なんて疑問は無意味よ。幸せに理由なんて無い、ただそうしたいから、そうすることで快楽を得たいからと言う、抗えない欲求。それだけ」
 何も見えない、だけど心地良い。違う体が三つあるが、不思議と一つに感じる。ずっとこうしていられたら、どんなにいいだろうか。涙を流し、笑い合ってなんかはいないけれど、いつまでもこのままでいたい。それこそが、今の俺が願う幸せなのかもしれない。
「姉さん、こうして会うのは初めてだし、姉さんのことを今日初めて知ったけど、私は姉さんをずっと知っていたような気がするの。何でだろう、血の繋がりなのかな」
「七海、私と貴方は二人で一人、いつも私は貴方の傍にいたわ。だって私達は離れていても姉妹でしょう。それも元は一つの。それに私達は通じ合える力を持っているのだから」
 いつまでもこの再会を祝してあげたい、ただの傍観者などであったなら、涙が枯れ果てた末に起こる笑いを見るまで、ずっとこうしていたい。けれど、今はそうしていられず、どうにかしてみんなが生きる術を考えなければならない。その先に抱き合えてこそ、本当に笑い合え、喜べるのだろうから。俺はそっと立ち上がると二人から距離を取り、しかつめらしく腕を組んだ。
「あと儀式まで、三日だったかな。逃げるのに失敗し、正直どうしたらわからない。なぁ、その三日で何ができる、何か方法は無いか。俺はどっちにも生きて欲しいんだ」
 二人は目を伏せていたが、やがて未玖が悲しそうな瞳をしながら、ゆるゆると首を横に振った。
「わからない、他の方法で『災厄』を封じることを私は知らないし、手掛かりもわからない。それに、ここに戻ってきた以上、もう外へ逃げられる機会も無ければ、儀式を壊す事も難しいでしょうね。そう言うことに対して、父が何の用意もしていないとは考えにくいから」
「やっぱりその儀式とやらは、生贄しか方法が無いのか。そもそも儀式の手順とか、どういう流れなんだ。知らないことには対策を立てられないから、教えてくれないか。そこから何か見付かるかもしれない」
 大まかな流れと言うか、何をやるかは知っているけれど、どういう流れで行われるのかを詳しく知らないのは、流石にまずかろう。敏雄さん達がいるから、安易に邪魔はできなさそうだけど、必要な物や場所、そして何らかのタイミングなど参考にできるかもしれない。とにかく今は、何でもいいから情報が欲しいんだ。
「儀式は」重々しい口調で未玖が話し始める。「かの天才が強大な『災厄』のために、その身を犠牲にしたことから始まるの。他の方法も考えられてきたけれど、やはり河口大和の方法が最も封印の力が強いと信じられているわ。それは河口家に根強く残っている、奉命退魔の精神に拠るものかもしれない。生命のエネルギー全てを使えば、それだけ強力だと言う発想は何も河口家だけじゃなく日本各地、いえ、世界各地で広く信じられている。そのため、何人もの能力者がその命を捧げてきたわ」
 未玖はそっと七海を抱き寄せる。
「さて長くなったけど、儀式の説明をするわね。儀式の前に巫女と祭司がその身を清め、白装束をまとい、満月を六度映した水で清めた刀剣、勾玉を身に付けるの。六は完全数と言って最も美しい数であり、神聖な数字。約数と総和が同じだからそう言われているの。つまり六の約数は一、二、三ね。それら三つを足すと六になる。一は神、二は男、三は女を示し、その統合である六は世界を表しているの。少々話が逸れたわね。ともかくその清めの水を祭司から振り掛けられ、河口家独自の成身会曼荼羅に足を踏み入れる。そこの外四供養菩薩と呼ばれる塗、香、華、燈と四摂菩薩と呼ばれる鉤、索、鎖、鈴、次に内側の四天と呼ばれる地、火、水、風に、それからまたその内側にある西の阿弥陀如来、南の宝生如来、東の阿閃如来、北の不空成就如来に巫女の血で、梵字を曼荼羅に描かれている神仏に書くの」
 菩薩だの如来だのと言われてもよくわからないが、ともかく内側に向かって徐々に血で何かを書くと言うものだけは、何となく理解できた。
「そして最後に、曼荼羅の中心に位置する大日如来の上で、その身を奉げるの。言ってしまえば祭司の清められた刀剣でもって貫かれ、その血で大日如来を染め上げるのよ。これが儀式の全容」
 やはり死しか結末は無いのだろうか。改めて聞かされると、到底信じられないような出来事なのに、生々しい現実感を伴ってこの心に迫り来る。前も思ったが、そんな不確かな存在のために死ななければならないのだろうか。迷信や幻想のために死ぬなんて、幽霊や宇宙人を信じている俺からしてみても、馬鹿げている。七海や未玖は確かにここにいる。その命をそんなもののために捨ててはいけない。
「まぁ、君にも訊くけど一体『災厄』って何なんだ。ただの迷信や、幻想のために死ぬなんて、どうかしている。目を覚ませよ」
「迷信や幻想、確かにそうかもしれない。そうしてこの儀式は狂っているのかもしれない。でも、そういうものは普通の人達が見えず、感じずだからそう思うだけ。私や七海ははっきりとそれがわかるの。何故なら『災厄』とは人々から生まれる負の想念の集合体、それが世の中を負の方向へと導いていくのよ。悪い事は続けて起こる場合が多いけれど、それは偶然では無く、必然。『災厄』によって、負の連鎖が生み出されているからよ。人は希望を抱き、支えにする力を持っているけれど、ほとんどの人が負の感情を強く抱いている。本能としてプラスよりもマイナスを強く抱いていないと、不意の危機に強いダメージを受けてしまうから。そうした想いは力となり、集まると世の中を動かすほどとなる。『災厄』は各地にその集合体があるけれど、特に河口家が封じているのは力が強いの」
 人々の意識一つが世界を動かす、か。確かにそうかもしれない。気の持ちよう一つで世の中の見え方が違う事は多いし、負の感情を強く抱いて生きていると言うのにも、納得できる。良い事が多数あっても、悪い事の方が目立って見えるのは、そのせいなのだろう。
「儀式はその負の連鎖を断ち切り、世界を動かそうとする力を封じるためのもの。それを行う場所はここ、この私がいる真上で行われるわ。この上は丁度一階ホールで、そこの階段手前に大きな赤いカーペットがあったでしょう。あの下にはここに描かれているのと同じ、河口家独自の成身会曼荼羅があるの。そこが儀式の場よ。普段はここで私がほとんどを引き受け、この上の曼荼羅で残りを防いでいるわけ。ただ、それでも抑えられなかった想念が、七海に引き寄せられ、時に苦しめる事となった。七海、ごめんなさい。私がもっとしっかりしていれば、辛い思いをさせずに済んだのに」
 未玖が七海をより抱え込み、撫で擦ると、七海も強く抱き締め返し、その胸元に顔を埋めた。
「そんなことない。姉さんの方が私よりもずっと辛かったのに、私は私一人が辛いとばかり思っていた。世界中の不幸を背負っているんだ、そしてそれは私にしかわからないものだから、誰にも理解できないんだって、一人殻の中に閉じ篭っていたけど、姉さんの事を知って、自分がどんなに浅はかだったか」
「七海、貴方が感じていた苦痛や苦悩は比較できるものじゃない。苦しかったのなら、それでいいじゃない。それで自分を卑下する必要なんて、どこにも無いのだから。私も貴方も辛く苦しい、それでいいのよ」
「姉さん」
 何とかこの姉妹に生きて欲しい、こんな人達こそ死んではならないんだ。このままあと数日で死ぬなんて、そんなの嫌だ。何が儀式だ災厄だ、わけのわからない幻のために生死を決めるなんて。だけど、どんなに間違ったことでも、強い力があればまかり通ってしまう。弱者はどうにもできないのか。
 恵子さんの手紙で未玖がいると知った時、再び閉ざされた道が開けた気がした。会えば何とかなるだろうと思ってここに来たが、特にこれと言って手掛かりが得られなかったことに、多少の落胆を隠せない。運命を動かす人間だと未玖は俺に言ってくれたけど、何だよ、俺が望む結末は叶えられそうにもないじゃないか。運命なんてそういうものかもしれないけど、でも、こんな……。
「そろそろ、戻った方がいいわよ」
 七海を引き離し、未玖が俺に神妙な面持ちで見詰めてくる。何だか未玖と接していると、本当に不思議な力があるのかもしれないと、そう思えてしまう。
「そろそろ誰かが起きてくる。朝が近付くと見付かり易くなるから、早く」
 時間の感覚はよくわからないが、未玖の言う通りここはそろそろ戻った方がいいかもしれない。
「姉さん、また会えるよね」
 涙を拭う七海の頬に、未玖がそっと手を添え、優しく微笑みながら頷いた。
「当然よ。私は常に貴方と共にいるんだもの。それに、修治君とも」
 別れたくなかった。もっと一緒にいたかったし、七海とも一緒にいさせてあげたいのだが、そうも言っていられない。この別れは再会のための別れ、別れを惜しんでいつまでも一時の喜びに溺れていると、それきりになってしまう。七海に手を差し出し、辛くとも立たせると、瞳で再会を誓い合いながら互いに頷き、未玖の部屋を出た。
 暗い階段を静かに上り、隠し扉の前で気配を探る。誰もいなさそうだと思うと、素早く抜け出し、壁伝いに来た道と逆の手順で戻る。とりあえず七海が先に書庫から顔を出したのは、七海ならば書庫から出てきても怪しまれないだろうから。七海が廊下へと踏み出したので、俺も続こうかと思ったのだが、まだ書庫に残っていた彼女の右手が俺の方へ突き出され、足を止めさせられた。
「どうしたんです、お嬢様。こんな時間に」
 敏雄さんだ。俺は右手の意味にようやく気付き、廊下から突然差し込んできた光を避けるよう少し離れると、壁に背を付け息を潜め、外の会話に耳を済ませようとしたが、やがてドアが閉められた。
「ちょっと気になった事があって、調べ物していたの。儀式も近いから、ちゃんとできるのか不安で」
「なるほど。ですが、あまり無理をされぬよう、お体の方にも気を付けて下さいませ」
「ありがとう。敏雄さんだって、毎日大変でしょうから、もう少し寝た方がいいんじゃないかな」
「お気遣いありがとうございます。ところで、目が赤いようですが」
「あ、うん、やっぱりその、覚悟していても、わかっていても、どこかでまだ未練があるのかも。ふとした瞬間に、つい。でも大丈夫、儀式までには何とかするから」
「わかりました。それでは、お休みなさいませ」
 敏雄さんが去ったのか、七海が連れられて戻ってしまったのかわからないが、そこで会話は終わり、不気味な静寂が重く圧し掛かってきた。廊下がどうなっているのかを確かめたいが、もし誰かいたらどうしよう。いやしかし、ずっとここにいるわけにもいかない。そして、あまり悩んでもいられない。夜が明けるにつれ、見付かり易くなるのだから。
 一体どのくらいそんなことを考えていたのだろう、不意にドアノブが静かに回る音がした。俺は身構えつつ、じっとそこへ目を向ける。やがてドアが申し訳無さそうに開くと、ひょっこり七海が顔を出す。
「もういいよ」
 七海の手招きに誘われ、俺は書庫を出るなり、足音を立てないよう細心の注意を払いつつ、七海の部屋へと向かう。幸い、その間に何事も無かったけれど、運命だ運命だとやたら聞かされているので、これももしかしたらなんて考えが浮かび、一人苦笑していたら訝しがられてしまった。
 部屋の明かりは間接照明に抑えられていた。七海は自分のベッドに腰掛け、うつむきがちに何か考え込んでいる。俺はソファに座ったが、声も掛けられず、じっと様子を見ては歯噛んだり、唇を悔しげに引き締めるだけ。こんな時、他の人ならばもっと気の利いたことができるのかもしれないが。
「私に、姉さんがいたんだね」
 不意の呟きに俺が目を向けても、七海はうつむいたまま言葉を紡ぐ。
「最初は信じられなかったけど、でも何だか、巧く言えないけど、やっぱりそうか、みたいな気持ちがどこかにあったんだ。それで実際会ってみて、私そっくりな姿にびっくりしたけど、でも、あぁこの人がそうなんだ、なんて納得できたの。そうしたらね、自然と姉さんって」
 つい先程のことなのに、遠い過去を楽しそうに、寂しそうに懐かしみながら語る七海に、俺はどうしようもない哀れみを感じざるを得なかった。
「本当に私、姉さんに悪い事していた。どんなに謝っても、足りないくらいに。姉さんに触れた瞬間、わかったの。姉さんはずっと一人で、凄まじい負の感情を背負ってきていたんだって。あの時も、ずっとそれを受け続けていたみたいだけど、姉さんはおくびにも出さず、私を抱き締め微笑んでくれたの。私も幼い頃から、度々そうしたものを受けていたから、ある程度の耐性はあるけれど、でも姉さんのそれは耐えられない。あんなの一晩でも感じていたら、間違い無く発狂するわ。私はそれを沙弥香さんか母さんなんかに、よく愚痴っていた。でも姉さんは誰にも言えず、一人暗い部屋で更に辛い思いを……私、本当に恥ずかしいよ」
「なぁ、悪いけど一つ訊かせてくれないか。その負の感情を受けるって、一体どんな感じなんだ?」
「そうね、例えるなら色々な人の声で嘲笑され、罵倒され、呪詛の言葉を延々と言われながら、他人や自分への憎しみ、殺意、疑惑、軽蔑、嫉妬、絶望などが際限無く膨らみ、心が壊れてしまいそうになるの」
 確かに、そんなものが昼夜問わず襲ってきたら、どうにかなってしまいそうだ。俺は俺一人の事すら耐えられなくなりそうで、いつも苦しんでいるのに、大勢の人間のそんな声を聞かされたりでもしたら、あぁ、考えることすら恐ろしい。
「姉さんはそんな中、私を希望だと言い、幸せになるよう願ってくれているけれど、私そんな期待に応えられない。だって私はあと少しで死んじゃうんだよ。生贄となるんだよ、生きられないんだよ。それにもし、どうにかして儀式から逃げられたとしても『災厄』が消えるわけじゃないから、姉さんが苦しみ続けてしまう。私、どうしたらいいの、何が一体幸せなの。教えてよ、ねぇ」
 縋るように泣き崩れた七海を見かね、俺はそっと隣に座ると、包み込むように抱き締めながら、頭を撫でた。
「絶対、何とかする。何とかして、死ぬ事から逃がしてみせる。儀式を壊しても、怖いけれど俺がどうにかなろうとも、七海や未玖を生かしてみせる。生きてさえいれば、どうにかなるかもしれないんだ。可能性が生まれるんだ。二十年考えてわからないことだって、二十年と一日目でわかるかもしれない。何か不意にわかるかもしれないじゃないか。何が運命だ、そうして自分の意志を投げて、どうせだなんて。俺は何度でも言ってやる、お前と未玖に生きて欲しいんだ。三人で、一緒にメシ食って笑い合うとか、俺はしたいんだ。七海だって見てみたいだろ、そういうの」
「姉さん、私は、私はだって……でも」
 嗚咽交じりに聞こえるのは、迷い。一度は固く決めたものが崩れてしまわないよう、最後の抵抗なのか首を横に振り、修治から逃れようとする。まるで、それを認めてしまうと封じていた等身大の心が溢れ、立てなくなってしまうかのよう。自分を守ろうと優しさから逃げるけれど、修治は更に七海を抱き寄せ、逃がさない。しっかりと、ようやく見付けた宝物のように、大事に七海を抱き締める。
「わかんなくなっちゃうよ、私」
 くしゃくしゃになった顔をそのまま、七海は修治の胸に押し付けた。そうして七海も、遠い昔に捨てや憧れをもう一度、今ようやく手にしたかのように、しっかりと抱き締め返す。手にしているのは、憧れ。いつか夢見たそれが、ここにある。二人は一つになるよう、強く固く抱き締め合った。
 今だけはこれが運命だとしても、許せた。都合が良いと言えばそれまでだけど、俺には都合の悪い事も含めて運命だなんて、今は、今だけは絶対に考えたくなかった。

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