十.

 針のむしろで行われているような朝食である。栄一さんを始め、一応全員揃っているのだが、栄一さんの側にある主無き椅子について誰も何も言わない事に、底知れぬ恐怖を抱いた。ここでは例え身内が死んでも、何も思わないのか。そして最も恐ろしいのが、今までと何ら変わらず、普通に朝食が行われていることだ。栄一さんは悠然と食事をし、敏雄さん以下の使用人達が何事も無く料理を出したり、皿を下げたりと黙々と仕事に従事している。
「まだ長旅の疲れが残っているのかね」
 一口も食べていない俺と七海に、栄一さんが微笑みかける。
「若いからすぐ疲れが取れるものだと思っていたのだが、そうでもないのかな。それとも、今日の食事は口に合わないのかな」
「いえ、そう言うわけじゃ」
「なら食べた方が良い、食べないと力が出てこないものだ。おや、七海、本当に食べなくていいのかね。体を壊すぞ」
 七海は席を立ち、無言で一礼すると食堂を出て行ってしまった。当然だ、自分の母親が殺され、それを手掛けた人達と一緒に食事なんてできるはず無い。栄一さんは薄笑いを浮かべて首を捻り、敏雄さんと何やら目で会話している。その仕草に言い様の無い怒りが込み上がってきたが、今はどうすることもできず、人知れず拳を握り締めた。
「すみません、僕も」
「修治君もか。まぁ、いい。時にそんな日もあるものだ。後で何か食べたくなったら、遠慮無く言ってくれたまえ。すぐ作らせるから」
「はい、ありがとうございます。では」
 食堂を出ると七海はいないかと廊下を見回してみたけれど、多少間が空いたためか、見付からなかった。もう部屋に戻ったのだろう。俺もいつまでも栄一さん達の近くにいたくなかったので、気持ち早足で自室へと戻った。
 自室に入り、ようやく息をする事ができた気がした。昨日からほとんど何も食べていないせいもあってか、妙に疲れている。こんなことは慣れるものではないし、慣れてはいけないものだ。それでも椅子に座っている事さえも辛く、倒れるようにベッドへ寝転がると、また一つ大きな溜め息をついた。
「溜め息ばかりで、何も浮かばないな」
 逃亡はもう、チャンスが無いだろう。あんな事があったし、それに儀式まで日も無いから、例え何があろうと外出許可は出ないだろう。おまけに目的地など特に決めもせず逃げ回ったのに、あんなに簡単に捕まるようでは逃げても無駄かもしれない。全国どこへ逃げようが、河口家の力が及ばないところなんて無いのかもしれないと、本気で思い知らされた気分だ。
 戦う、しかないのだろうか。だが戦うと言っても、何も持たない俺が正面から立ち向かったところで、どうにもなるわけがない。力も無ければ武器も無い。俺ができることと言えば、せいぜい儀式をどうにかして邪魔し、あわよくば中止にさせることくらいだ。しかし、どうそれをやればいいのだろう。最も大切な七海を逃そうとして失敗し、未玖をあそこから出すのも難しい。
 できる事と言って思いつくのは、儀式に使う道具を隠したり、壊したりするくらいだろうか。そうだ、確か未玖が清めた剣だかを使うと言っていたな。そうした道具が他にもあるかもしれないし、それに何かいざと言う時に役立つ物が見付かるかもしれない。
「探してみる価値はあるかもな」
 寝転がってああでもない、こうでもない、結局何もできないと溜め息や愚痴を吐くよりも、今一度屋敷を見回り、新しい発見の可能性を求めた方がいいに決まっている。俺はベッドから跳ね起きると、一つ深呼吸をしてからドアを開けた。
 午前十時の廊下はひどく静かで、時折窓の外から鳥の鳴き声が届くだけ。特に珍しいものでもないのだが、こうして何らかの目的を抱いていると、何でも無い日常の一つ一つがひどく意味深に思え、怖くなる。けれど、過剰に警戒していても、その雰囲気から怪しまれてしまうだろう。今の俺は散歩をしているだけで、目を付けられかねないのだから。なるべく普段通りにしつつ、最初に向かった先は二階の書庫だった。
 もしかして、ここにも何か隠し部屋があるかもしれない。そう思い、とりあえず何十もある壁際の棚を一つ一つ押してみたが、動く気配はまるで無く、疲労しか得られなかった。しかし、ここで諦めるわけにはいかない。何しろ俺も含め、三人の命がかかっているのだ。顔の見えないみんなより、絆を実感できる隣人の方が大切だ。次に俺はそれぞれの棚に不自然な個所は無いかとじっくりと見て回り、何か僅かながらでも気になった個所を徹底的に調べてみた。その本を取り出してみたり、押したり、引いたり。けれど、それも徒労に終わった。考えてみれば、隠し部屋なんてそうあるものでもないし、それにこの下はホール、両隣が客間と小ホール、裏が沙弥香さんの部屋だ。隠し部屋など造る余地など無いだろう。
 次に小ホールへと向かったが、そこにはテーブルと椅子が数組、そして食器類を収納してある調度品が幾つかあるだけで、特に何も無さそうだ。一応絵の裏側や、食器棚の中などを見てみたが、やはり何も無かった。小ホールの向かい側にはバルコニーがあるが、そこも簡易カフェテラスの様になっているだけで、何も無い。その先はうっそうと繁る森があるだけ。
 客間、キッチン、各人の部屋、バスルームなどには無いと決め、その他の部屋、特に物置部屋とされている所を中心に見て回ったが、やはりどこにも鍵がかかっていた。鍵のかかっていない部屋も幾つかあったが、そこは不要な家具や寝具があるくらいで、特にこれと言うものは無い。鍵のかかった部屋にきっと何かあるのだろうけど、鍵を手に入れる術が見付からないままだ。仮に和巳さんや沙弥香さんが持っているとしても、使わせてくれるはずなど無いだろう。
「またも八方塞、か」
 寝転がっていても、必死に動き回っていても、同じ結末にしかならないのが腹立たしい。手掛かりも、方法も、縋る希望すらも何もかもわからないことが、焦りや恐怖を生み出し、泣いてしまいそうなパニックが心を蝕む。いいや、まだそれに負けてはならない、まだ、もう少しだけ前に進めるはずだ。辛くても、苦しくても、まだ動ける。限界はいつでも自分で決めてしまうものだ。それに従っていると、足を止めてしまいがちになってしまう。
 和巳さんにでも会いに行ってみよう、今の時間ならば調理場で昼食の支度をしているだろう。鍵を借りられるのならば貸してもらいたいが、それはきっと無理で、よくて何か儀式について情報を引き出せる程度かもしれない。ともかく何とかしたくて、俺は調理場へと向かった。
 調理場に入ろうとしたところで、中から話し声が聞こえてきたので、思わず足を止めた。声の主は和巳さんと沙弥香さんだ。ドアが僅かに開いていたのでそっと中を覗くと、二人は鍋の前で何やら小声で相談しているようだった。耳を澄ましてみるが、よく聞き取れない。小声で話し合うなんて、きっと重大な事なのだろう。
 しばらくそうしていたが、やはりまともに内容を掴み切れず、ここまま入ることもできずにいるならば、別方面で何か探してみようかと思った矢先、不意に声が大きくなり、ようやく会話が耳に届いた。
「それじゃあ、当日はしっかりやるのよ。調べはしっかりついているんでしょう」
「あぁ、当日の段取りその他はばっちりだよ」
「なら、ぬかりなくやってよね。貴方は気が弱い上に、どこか抜けているから」
「今回は大丈夫だって、何せ俺達の未来がかかっているからな。それで、終わった後は本当に俺と」
「貴方ったら、そればかり。大丈夫よ、私もこれからは平穏な生活を望んでいるし、それに愛する人と暮らすなんて、もう私には無いものだと思っていたから、楽しみなの」
 沙弥香が妖艶な微笑みと共に和巳の首に腕を回すと、そっと口付けた。淫靡な音を立てながら交わされる濃厚なキス。やがて沙弥香がそっと離れると、見詰め合い、もう一度二人は絡み付く様な微笑みを口元に浮かべた。
「愛しているわ」
「俺もだよ。だから、絶対に幸せになろうな」
「えぇ。それじゃ、私はそろそろ行くわね。あまり仕事場を離れていたら、うるさく言われそうだから」
 踵を返した沙弥香さんが、こっちに向かってきた。見入ってしまっていたため、瞬時に何をすればいいのか思い付かない。どうしよう、すぐに隠れられる場所なんて無いし、今からここを気付かれずに離れるには、遅過ぎる。真後ろの食堂に入ろうにも、音を立てずに滑り込む自信は無い。かと言って、今ここにやってきたばかりだと言う風に装うには、無理があるだろう。また、逃げるのを見られたりでもしたら、後で何かありそうだ。でも、立ち聞きしていたのを知られる方が、印象悪いかもしれない。
 そうこうしているうちに、沙弥香さんが出てきた。何らかの情報が欲しかったとは言え、何故俺は聞こえない立ち聞きなんかを必死にして、会話の終わり際に一旦離れなかったのだろうか。いや、そんな自問に意味は無い。沙弥香さんと目が合ってしまった今、冷や汗がどっと吹き出て、目の前が白み、軽い吐き気すら催してきた。
 だが沙弥香さんは僅かに驚いた顔をしただけで、足を止める事も無く、それどころか意味深な微笑すら浮かべ、そのまま去って行った。俺はその背が見えなくなると同時に、安堵の溜め息をそっとつき、壁に凭れる。何事も無くて本当に良かった。しかしそんな考えも全て見透かされていたであろうあの微笑みを思い返してみれば、自ずと苦笑せざるを得なかった。
 結局これも想定内なのかな。
 自分が考え、行ってきたことなど、第三者が冷静に見れば底の浅いものなのかもしれない。俺の本気は、他人の息抜き程度なのかもしれない。必死で行動してきても愚行は愚行、さして考えずに動いても賞賛される事はままある。けれど、七海や未玖を助けたいと思い行動する事が愚行だなどと、決して思わない。何が正義とか悪とか、どうでもいい。俺は七海に心から笑って欲しいし、未玖に太陽を浴びせたいだけだ。何でたったそれだけのことが、こうも難しいのだろうか。
 少し天井を仰ぎ、そうして強く頷いてから、俺は調理場へと足を踏み入れた。中では和巳さんが幸せそうに口元を緩ませ鍋を見ていたが、俺に気付くなり慌てて引き締めると、咳払い一つし、にっこりといつもの笑顔を向けてきた。
「どうしたのかな」
「小腹が空いたので、何か作ってもらおうかと」
「いいよ。何がいいかな、えぇと」
 和巳さんは辺りを見回す。その姿には先程行われていた密事の素振りなどどこにも無く、この事件に関わる前の陽気な和巳さんであった。けれど今は互いに自分のため、隠し事をしながら動いている。それがもう、以前のようには戻れない関係になってしまったのかもしれないと考えると、少しだけ感傷的になってしまった。
「サンドイッチでいいかな。ハムとレタスとチーズの簡単なやつだけど、あまり今食べたら昼食を食べられなくなっちゃうだろうしね」
「それじゃ、塩コショウ多めでお願いします」
「了解」
 サンドイッチを作る手際があまりにも良く、しばらく見とれていたが、レタスを切る音で我に返った。いけない、ただ食べにきたわけじゃないんだ。注視していればまたじっと見てしまうからと、ついと視線を外し、一つ息を吐き出す。
「そう言えば、ちょっと気になる事があるんですけど、いいですか」
「うん、何だい?」
 和巳は手を休めず、訊き返す。何でも無いようなことを訊ねるような俺の口調に、その表情は一向に変わらないが、きっと心では充分な警戒をしていることだろう。
「この家で所々鍵のかかった部屋があるんですけど、何ですか、あれ」
「二階の奥の部屋とか、一階の旦那様の隣にある部屋とかのことかな」
 すっと和巳が修治に視線を向ける。
「そうです。他の部屋は誰かが使っているならともかく、特に誰かが使っていないようなので。まぁ、ちょっと気になっただけです」
「あそこはね、僕も何があるのか知らないんだよ。昔から使っていないみたいでね、多分物置か何かだと思うけど」
 嘘だ、明らかに嘘をついている。何でも無さそうにサンドイッチ作りを再開し、視線を合わそうとしないなんて、おかしい。思わず大声でそう言いそうになったが、言ったところで事態が好転するとは思えず、ぐっと喉の奥で押し殺す。
「へぇ、それじゃあ掃除もしていないんですか。和巳さんも知らない部屋なら、埃とかも凄そうですね」
「そうかもしれないね」
「敏雄さんとかがやっているんですかね。あの人なら、この屋敷の事を何でも知っていそうだから、鍵のかかった部屋にも出入りできそう」
「どうなのかな。使用人の間でも守秘義務と言うのがあるから、互いに知らないこととか結構あるんだ。それは親子の関係であってもそうで、あの人が知っていても、僕が知らないことは多いんだ」
 これは本当かもしれない。確かに栄一さんと同等の権限や知識を持っているであろう敏雄さんだからこそ、和巳さんが知り得ない事まで知っているだろう。けれど、敏雄さんには訊けないし、訊いても教えてくれるはずなど無い。それにこのままでは、和巳さんから何も訊き出せずに終わってしまう。しかし、何を訊き出せばいいのか漠然とし過ぎていて、質問にできない。
「はい、できたよ。足りなかったらまた言ってね、すぐ作るから」
 考えている間にサンドイッチが完成し、皿が俺の目の前に差し出された。ここに来た名目がこれである以上、もういられない。例えそんなこと気にせず、しつこく訊き出そうとしたところで、何も教えてはくれないどころか、かえって不利になるかもしれない。和巳さんと沙弥香さんは完全に敵、と言うわけではなさそうだから、少しでも友好関係を保っておきたい。
「ありがとうございました」
 皿を受け取ると俺は一礼し、踵を返した。だが、やはりまだ離れられず、ドアを開けるのを躊躇し、立ち止まって何か話題は無いかと考える。
「修治君」
 そんな俺を察したのか、和巳さんが穏やかな口調で呼び掛けてきた。けれど俺は振り返らず、そのままドアを見詰める。
「色々と話せないことが僕にもあるんだ、わかって欲しい」
「えぇ、わかっています。儀式の日、何をするのか知りませんけど、味方でありたいものです」
「さて、どうかな。けれど、七海さんと修治君の二人に幸せになって欲しいと思うのは、そういうのを越えた、偽らざる気持ちだよ」
 ふっとその言葉で頬が緩み、思わず和巳さんの所へ戻って握手をしたくなったが、止めた。まだ早い。全て終わり、本当にそうなってからでいい。今はその偽らざる気持ちを信じるだけでいいんだ。七海と同じで、俺だってはっきりと何かを信じられず、幻の中で何かに縋りたい状況だけど、それでも和巳さんのこの言葉だけは信じていたい。
「皿は昼メシの時に下げますから」
 振り返る事無く退室すると、まっすぐ自室に戻り、サンドイッチを頬張った。美味い。昨日からほとんど食べていなかったからか、特に美味しく感じる。食べ進めると同時に、焦りや不安、苛立ちなど波が引く様に消え、安堵の中から身体の活力が滾ってきた。そうだ、まだ俺は生きている。当然の事なのだが、どこか忘れかけていた事実。気付けば、あっと言う間に皿は綺麗になっていた。
「さて、と」
 気持ちも足も、既に七海の部屋へと向かっていた。昨晩未玖と会い、それから少し話しただけで、今日はこれと言った会話を交わしていない。昨日の事も気に掛かるし、何よりも会いたかった。誰もが何らかの思惑を持って生活している中で、七海だけが、七海といることだけが心休まる。七海だってそうだろう。自惚れかもしれない、七海も何か俺に言えない考えがあるかもしれないけど、いいんだ。
「入るよ」
 二度ノックしてから声を掛けると、中から少し遅れてどうぞと、心無し沈んだ言葉が返ってきた。その響きに胸が締め付けられ、一瞬入室をためらったが、ここで引き下がったところで事態が好転するとは思えない。俺は意を決し、ドアを開ける。
 しんと静まり返った部屋の奥、柔らかな陽光を浴びながら、七海はフリージアを見詰めていた。その眼差しは憂いに満ちており、話し掛けるだけでも儚く消えてしまいそうな脆さがある。そっと伸ばした指先が花弁に触れ、縁をゆっくりと撫でるその仕草が哀しげな表情と相俟って、心をくすぐる。今はそんな時ではないと知りつつも、どうしてだろう、色々な欲求が駆け巡って仕方無い。
 ゆっくりと七海が俺の方へ体を向けると、夢から覚めたみたいに俺は目を大きく開き、ぎこちない微笑みを返した。
「どうしたの」
「いや、特にこれと言って用は無いんだ。ただ何となく、なんだけど、ダメかな?」
「ううん、そんなこと無いよ。私も、一人でいるより誰かといたかったから。適当に掛けてよ」
 言われるがまま、俺はベッドに腰掛けた。
「あれから、ちゃんと寝られたのか?」
「うん、少しだけ」
「メシ食ってないみたいだけど、大丈夫か。俺はさっき和巳さんにサンドイッチを作ってもらったけど、七海は何か食べたのか。何も食べていないみたいだけど」
「心配しなくても、平気だよ。でも、ありがとう。お昼はちゃんと食べようかと思っているけど、待てなかったら私もそうしようかな」
「その方がいい。食べないと体に悪いし」
「体に悪い、か」
 ふっと一つ自嘲気味に小さく鼻で笑うと、そのままうつむいてしまった。質問がいけなかったのだろうか、未来を考えさせてしまったからだろうか。どれがどうなのか良し悪しなんてわからないが、ともかく沈黙を生んだのは不味かった。そして、俺はもう気安く口を開けなくなってしまっている。
 うつむいた七海が痛々しくて見るに耐えられず、俺も視線を落してしまう。あんなにも会いたいと、会って心の平穏や喜びをと考えていたのに、どうしてこんなに辛く居た堪れなくなってしまうのだろう。俺では七海を笑わせてあげられないのだろうか。
 優しさは痛み、だろうか。楽しませたい、気持ち良くなってもらいたいと願い行動すれども、どこかで辛くなってしまう。身を削らないと、誰かを幸せにできないのか。いいや、違う。それはきっと見返りを求めてしまうから、そう感じるんだ。期待していて、でも返ってこないから、傷付いてしまうのだろう。自分はこんなにやっていると偉ぶっているから、損をしたように思うのだろう。無償の愛、もし本当にそんなものがあるとしても、俺にはまだわからない。裏切られたり、傷付いたり、そうして何も返ってこなくとも、誰かに優しくなんて到底できないのだから。
 向き合うときにそうしたように、またゆっくりと七海が背を向けると、それがより一層強まった。嫌われているのだろうか。そんな想いが少しずつ膨らんでいく。悪いのは七海じゃないのに、どうにもできない俺なのに、その寂しげな背中が胸に刺さる。
 またそっと、指先でフリージアの花弁を撫でる様子が背中越しから窺えた。何度も何度も往復しているその姿は、まるで自分を愛撫しているかのようにも見える。そう言えば以前、色々なものに負けず花を咲かせ、心に何かを残せる花に憧れていると言っていた。その仕草はきっと、もう一人の自分へ向けたものかもしれない。
「ねぇ、修治君」
 不意の言葉に驚き、咄嗟に返事ができずにいたが、七海は独り言の様にかまわず先を続ける。
「私がいなくなっても、花壇のお世話、ちゃんとしてあげてね。沙弥香さんや和巳さんとかがしてくれるだろうけど、修治君にしてもらいたいんだ。私、ワガママだからさ」
「本当にワガママだ。わかっているなら、そんなこと俺に頼むなよ。あれは七海が最後まで世話をするんだ。どう言われたって、絶対に俺はやらないからな」
 生きることを決して諦めて欲しくない、そんなことを言わないで欲しい。未練があるなら、それにしがみ付いて欲しい。何のために、ここまで来たのかがわからなくなる。今までやってきたこと、全てが無意味に思える。だから例え七海の願いだろうが、こればかりは聞き入れられない。
「お願い、最後のワガママだと思って」
「最後だとか言うなよ。こんなもので最後だとか、馬鹿げている。大切なら、自分で守れよ。俺は面倒見ないけど、手伝ってやるからさ」
 苛立ちと共に吐き出した言葉は、新たな静寂を生み出した。時間がゆっくりと流れ、それと共に胸の痛みが増していく。言わなければよかっただなんて、思わない。むしろ言うべき言葉だとすら思っている。けれど、苦しい。七海も花弁を撫でる手を止め、うつむき黙っていた。
「何で、そんなこと言うのよ」
 振り返った七海の瞳は薄らと潤んでいた。
「私だって、ずっと見ていたいよ。毎日水をあげたりして、お世話していたいよ。でもね、どうにもならないことだって、たくさんあるんだよ」
「大切なのは、最後まで信じる事だ。無理だと思って諦める人に、いい明日なんて無いんだよ。だから」
「そんな言葉、虚しいだけよ」
 そうかもしれない。言っている俺だって、この現実を前にしたら、どれだけ空々しいかくらいわかる。絵空事を並べ立て、無茶を押し付け逃げているのは、俺の方かもしれない。信じさせられないのは、俺にそうさせる力が無いからだ。
「ごめん。修治君の言いたい事、よくわかるよ。私が修治君でも、そんなこと言っていただろうし」
「だったら」
「でも、何度も言うけど、私は何を信じればいいの。あと少しで、死んじゃうんだよ。どんなに逃げても、考えても、何をしても結局駄目だった。どうすればいいのか、どうしたら生きられるのか、修治君の考えを初めて聞いた時から、私なりにずっと考えていた。けれど、現実と向き合ったら、どれも虚しいだけ。何もかも、わかんないよ」
 振り絞る声でようやくそう言い切ると、七海は膝に顔を埋めてしまった。途切れ途切れに聞こえてくる嗚咽が、この胸を引き裂く。爪が食い込む程拳を握り締めているけれど、奥歯が潰れてしまいそうな程噛み締めているけど、どれも胸の痛みを誤魔化せられない。
「ふと思うことがあるんだ。儀式を行わないといけない私、まだもう少しだけ生きていたい私、それとも他に何らかの欲求を抱えている私、一体どの私が本当の私なんだろうなってね」
「本当の自分、か」
「修治君だって考えた事あるでしょ。私はその本当の自分がわからないから、こうしていつまでも迷っているんだよ」
 縋る七海の視線を俺は首を横に振って応える。
「いや、無いな。そんなもの、無いんだよ」
「無いって、どういうこと。だって自分だよ、無いなんて事、そんなのおかしいよ」
 顔を上げた七海は涙ながらに疑問と、いくらかの非難を眼差しに込めて見詰めてきたが、それに対し俺がどうこう思いはしなかった。幾らそうされても、七海の問い掛けは無意味なのだから。
「本当の自分なんて、いないんだ。それはただの、憧れなのだから。今いる自分が、本当の自分。迷ったり、悩んだり、苦しんだりしているのだって、自分じゃないか。本当の自分なんてそんなもので、七海が言っているのは理想の自分だよ。それも、見えない理想だ。それは本当でもなければ、自分でもない」
「じゃあ、こんな私……嫌だよ」
「そんなこと言うなよ。恵子さんや未玖は七海が好きだから、何とかしてあげようとしていたじゃないか。誰も悲しい顔なんて望んでいない。笑って欲しいから、そうしてきたんだよ。俺だってそうだ」
「修治君……」
 視線が交わったのは、ほんの三秒くらいだろうか。七海はすぐに目を伏せ、今の言葉を反芻しているように見える。俺はもうこれ以上何も言えず、ただじっと答えが出るのを見守るしかない。もう何を言っても受け止めさせられられないだろうし、これ以上言うと逆効果にすらなるだろう。いや、もう既に言い過ぎてしまっているのかもしれない。
 一旦考え始めると、暴論をぶつけて困らせてしまったかもしれないと、蟲が蠢くように罪悪感が胸に広がる。俺だってまだ自分がよくわかっていないのに、綺麗事は特に残酷だと知っているくせに、あぁ、どうすればよかったのだろう。
「ごめん、ちょっと一人にさせて」
 理由なんて訊けるはずも無く、俺は「わかった」と重々しく言うなり静かに立ち上がると、七海を一瞥してから退室した。最後に見た七海の目元が薄ら光っていた気がしたが、きっと思い過ごしではないだろう。
 廊下に出ると、得も言えぬ寂しさに襲われた。一人だと言うことを痛切に感じてしまう。自室に戻ろうか、いや、そうしても取り留めの無い事を考え、結局悶々とするだけだろう。ならば、何かに向かって行動しようかとも思うが、どこに行ってどうすればいいのだろうか、皆目見当が付かない。
 とりあえず七海の部屋から離れ、ぶらぶら屋敷の中を歩いてみる事にした。動いていれば、きっと何らかの刺激があり、良い考えも浮かぶだろう。そう思いバルコニーから森を眺めてみたり、ふと天井を見上げてみたり、壁の模様に今一度注目してみたりもするが、特にこれと言った考えは浮かばない。十分程歩いてみたが相変わらずで、やがて窓縁に手をつくと、溜め息が漏れた。
「溜め息などなされて、どうかしましたか?」
 背後から不意に声を掛けられ、驚き振り返ると、そこには好々爺然とした敏雄さんがいた。言葉を失いながらも警戒している俺に、敏雄さんはゆっくりと歩み寄る。そうして一定の距離を保つと、さも不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。
「いえ、別に何でも無いです」
「そうですか。ですが、食事も召し上がっておられませんでしたし、心配です。何か私共にできる事があるならば、何なりと申し付け下さいませ」
 よく言えるものだ。その慇懃無礼な態度が腹立たしい。どうかしたかだと、それはお前らが一番良く知っているだろうに。何かできる事は無いかだって、ならば一ヵ月後に七海と未玖とで買い物に行きたいと言えば、叶えてくれるとでも言うのか。
「お気遣い、ありがとうございます」
 けれど、心の中で毒づくだけで、面と向かって言うどころか、怖くて表情にすら出せずにいる、どうしようも無く臆病な俺に、最も腹が立つ。一発殴れたならば、どんなにすっきりするだろうか。しかし、そんなことをしても何の解決にもならないどころか、返り討ちにあうだけだ。それを考えると、この震える拳を抑える事しか出来ない。
「御無理はなさらぬよう。それと」
 敏雄の眼光が鋭くなったかと思うが早いか、口元は笑っていても気圧される雰囲気が、素人の修治ですらはっきりと感じられた。
「色々と何かお考えの御様子ですが、どれも無駄で御座います。思い知ったでしょう、河口家の力を。その河口家を長年に渡り支え続けているのが、我が大滝家。私共は代々河口家を守るために存在してきたのです。ですから、諦めた方がよろしいですよ。貴方方が何かしようとしても、歴史が違うのですから」
 動いたらやられる。本能がそれを察知し、指一本唇一ミリたりとも動かせず、冷や汗が流れ落ちる度に恐怖が膨らむ。敏雄さんが悠然と歩を進め、俺に近寄る。けれど俺はやはり動く事ができず、やり場の無い逃走衝動が出口を求めて体中を暴れ回り、気が変になりそうだ。
「それでは、私はこれで」
 通り過ぎる直前、軽く会釈をしてきたが、俺にはもう敏雄さんの一挙一動が恐怖の対象でしかなく、膝を小刻みに震わせながら、じっと床に視線を落すので精一杯だった。足音が次第に遠ざかって行くが、振り返られず、それが聞こえなくなってからもしばらくその場に立ち尽くしていた。
 代々この家を守ってきた家系、か。
 初めて会った時から気を付け、七海の話からも敏雄さんの凄みはわかっていたはずだったが、いざそれと対峙してみると想像以上のもので、震える膝を地に着かせないようにするだけで、一日分の体力を奪われたような気がする。もし本気で向かってこられたら、一体どうなるのかなんて、想像に難くない。圧倒的な敗北、そして死。
 考えたくない。それを回避するため、何とかしようとしているんじゃないか。必死に拳を握り締め、何度か荒い深呼吸を繰り返し、ゆっくりと歩み始める。滲み出る汗を指先で拭い、窓の外を一瞥したり、ぐるりと天井や壁を見回し、気分転換を図る。
 廊下を曲がり、またも適当な窓縁に手を着く。そっと吐き出した溜め息で、窓が曇る。指で何か落書きでもしようかと右手を窓縁から離したが、止めた。もう一つ溜め息。溜め息を幾ら重ねたところで、この窓の様に物事曇って見えなくなるだけだ。
 あとは沙弥香さんくらい、か。
 敏雄さんと違い、沙弥香さんも色々隠しているみたいだが、敵ではなさそうだ。自分の目的のために何か動いているみたいだから、きっとそれ相応の情報を持っているだろうし、何かしら儀式をどうにかする準備をしているかもしれない。自分ではどうにもできなかった上に、和巳さんから何も聞き出せなかった。七海はああだし、未玖に今から会いに行くと見付かる可能性がある。
 ここから沙弥香さんがいそうな場所で一番近いのは、彼女の部屋だ。どうせ部屋にはいないだろうけど、万が一と言う事もありうる。俺は小さく頷き、密かに決意を固めた。
 ドアをノックしてみたが、何の反応も無かった。もう一度してみたが、やはり同じ。この時間だ、仕事をしているためにいないのだろう。ここは立ち去るべきなのかもしれないが、俺の手はドアノブを捻っていた。意外な事に鍵がかかっておらず、そっと中を覗いて見る。
 室内は当然ながら小綺麗に整頓されており、清潔な印象を与える。沙弥香さんはいないが、俺は吸い込まれるように二歩三歩ふらふらと歩を進め、再び部屋中を見回す。鏡台に化粧用品が幾つかあるだけで、これと言って特徴は無い。もし何かあるとするならば、どこかに隠しているのだろう。けれど、さすがに無断で探すのは気が引ける。
 いいや、生きるためだ。七海や未玖を助けるためだ。あぁ、でもそう言い訳をしても机に手を伸ばせない。しかし、このまま引き下がると振り出しに戻る。ここに何かあるような気がするのだが……。天井を仰ぎ、大きく息を吐く。やはり、主のいない部屋に無断で入り、これ以上居続けるのは忍びない。
「幾ら使用人の部屋とは言え、無断で入るのはあまりよくないことですよ」
 不意に背後から飛んできたのんびりとした声に驚き、びくりと肩が震えるのと同時に、さっと血の気が引いた。立て続けにこういうことが起こると、心臓に悪い。いや、今回は俺のせいなのだが。
「すみません、ちょっと沙弥香さんを捜していて」
 振り返ると同時に、この部屋の主に頭を下げ、そのままそそくさと退室しようとしたのだが、沙弥香さんがにっこりと笑いながらドアの前に立ちはだかった。しまった、何かされるかもしれない。背筋に冷たいものを感じつつ、じりじりと後退りする俺を見て、沙弥香さんはくすりと笑った。
「私に何か御用がおありなんでしょう。そんなに怖がらないで下さいませ。ささ、汚い部屋ですが、ソファにでもお掛けになって下さい。すぐにお茶を用意しますね。紅茶でよろしいですか?」
「あ、うん」
 無邪気な笑顔に拍子抜けした俺は、促されるがままにソファへ腰掛けた。沙弥香さんはドアを閉めると、戸棚から茶葉とティーカップを取り出し、ポットからお湯を注ぐ。罠じゃなかろうか。もしかしたら一服盛られるかもしれないと、その動きを注視する。
「心配しなくても、ただの紅茶ですよ。楽にしていて下さいませ」
 警戒をあっさりと見抜かれたが、不思議と恐ろしさよりも、照れやきまりの悪さと言った気持ちが強く、思わず苦笑してしまう。そうだ、敏雄さんも沙弥香さんも、やろうと思えばいつだって俺を殺せるのかもしれない。認めたくない現実だけど、だからこそきっと今俺を殺す必要は無いだろうと、そうした態度を取っているのかもしれない。なんて無理矢理そう自分を納得させようとしているのは、そうでも思わないと耐えられないからだ。本当はわぁと叫んで逃げ出し、自室に閉じ篭っていたい。けれどそうしてしまうと、今後沙弥香さんから何も引き出せなくなってしまうどころか、七海や未玖とも断絶してしまうかもしれない。
 あれもこれもと言い繕って、だけど何にもならなくて、一人思い悩む。昔からそうだ。今だって考え過ぎても仕方無いのに、あぁ、この胸の奥底にあるだろう心を掻き出し、目の前に叩き付けたい。
「どうぞ、お茶が入りました」
 そっと差し出された紅茶に続き、シュガーポットとレモンの輪切りも置かれ、そうして沙弥香は修治と向き合う形で座った。修治はややしばらく紅茶を見詰めていたが、やがてそっとシュガーポットに手を伸ばすと、一匙入れてから、レモンを絞った。けれど動きはそれきりで、一向にカップに口を付けようとしない。
「大丈夫ですってば、修治さんも淹れているところを見ておられたじゃないですか。心配なら、失礼ながら私が先にいただきますね」
 軽く一匙砂糖を入れてから、音も無く沙弥香が紅茶に口を付ける。仄白い喉が上下に揺れ、僅かに紅茶が減った事から、本当に飲んだのだとわかる。修治はゆっくりとカップに手をかけるが、やはりまだ口へ運ぼうとはしない。
「信用されていませんね、私。でも本当に美味しく淹れられたのですよ。あ、すみません、喉が渇いていないのかもしれませんでしたね。無理に勧めてしまい、申し訳ありませんでした」
「あ、いや、そうじゃない。では、いただきます」
 ばつの悪そうに笑いながら放つ沙弥香さんのその言葉に、俺は言い知れぬ気まずさを覚え、慌てて一礼するなり、ティーカップを口に運んだ。美味しい。警戒や疑念を抱いていたのが馬鹿らしくなる程に、じんわりと心がほだされていく。カップを置こうとしたが、あまりにも美味しかったため、そのまま続けざまにもう一口。ふわりと口の中で広がる甘さと、鼻から抜ける芳香が心地良い。
「いかがです、何の変哲も無い紅茶でしょう」
「いや、美味しい。心配していたのが馬鹿らしいよ。その、ごめん、疑ったりして」
「かまいませんよ。こう言う時ですからね、仕方ありません」
 屈託の無い笑顔につられ、ふっと頬が緩む。紅茶と笑顔に安らぎを強く覚え、つい用件を忘れてしまいそうになるが、今はそうした暖かさにくるまって、安息を貪っている時ではない。俺はティーカップを置くと居住まいを正し、手を組む。そんな俺を察したのか、沙弥香さんも小さく咳払いした。
「そろそろ本題に入りましょうか。そもそも、私に何か訊くためにここへ来たのでしょうから」
「えぇ、では単刀直入に訊きます。一体沙弥香さんの目的は何ですか。あなたは俺に色々教えてくれるし、七海を助けるためにそれを充分参考にさせてもらった。けれど、それは俺を利用して、みんなの目を俺に向けている間に、何か秘密裏に動いていた。いや、今もそうかな。自分に注意が行かないようにね、そうでしょう」
「修治さんも成長しましたね」
「誤魔化さないで下さい、俺は真剣なんだ」
「あまり大きな声で話す事ではありませんよ。冷静にならなければ、こうした物事は成功しないものなのですから」
 諌められ、昂ぶった気持ちを落ち着けようと静かに深呼吸を一つ、二つ。そうだ、誰がどこで聞いているのか、わからないんだ。もっと気を付けないと。少々俺にはそうした注意が足りないのかもしれない。あの逃亡が失敗したのも、その辺が関係しているのかも。
「すみません。では話を戻し、どうなんですか」
「それは言えません」
 沙弥香はおっとりと、しかしはっきりそう言い放った。
「前にも申しましたが、それは言えません。私が何をしたいのか、何を求めているのか、こればかりは修治さんや七海様でもお教えできないのです。お許し下さい」
「和巳さんは知っているんでしょう?」
「えぇ、でも全部ではないですよ。全ては私にしか知り得ないのです。何もかもが終わったら、お話するかもしれませんけどね」
 やはり聞き出せない。きっとそれが達成されるまでは、どんなことがあっても無理だろう。しかしそれでは、納得できても先に進めない。ただの役立たずじゃないか、俺は。ここまで関わって今更傍観者にしかなれず、七海や未玖のことを流れに任せるがままだなんて、嫌だ。
「俺には何もできないんですか?」
「そんなことありませんよ」
「あるだろう。もう俺には何の手段も考えも無い。ここまできて後は黙っていろだなんて、酷過ぎる。俺だって七海を助けたいんだ。でももう、一人じゃどうにもできなくて、それで沙弥香さんを」
「落ち着いて下さい、修治さん」
 真剣な眼差しの沙弥香さんに、俺は溢れ出る気持ちを飲み込まされた。
「修治さんは以前から、そしてこれからも七海様の支えとして必要なのです。それはもう、他の誰よりもしっかりと支えております。何も逃げたり立ち向かったりするばかりが、助ける術ではありません。壊れないよう、守る事も必要なのですよ。今回の件だって、もし七海様が生き延びたとしても、ショックで心身がどうにかなるかもしれません。今この瞬間も、迫り来る死の恐怖に震えているはずです。そうした不安から守ってあげられるのは、修治さんだけなのですよ」
「俺は七海をいたずらに悩ませ、困らせているだけかもしれない」
 未玖に誘われたとは言え、首を突っ込むことを決めたのは俺の判断だ。そのせいで、決意を固めていた七海を迷わせ、間接的に恵子さんを殺してしまった。守るどころか、傷を負わせてしまっている。そんな俺が誰よりも七海を守ってあげられているだなんて、易々と信じられる程俺は楽天家じゃない。
「そんなことありませんよ。修治さんが来られてから、七海様は確かに生き生きとし、眼が輝いておられます。修治さんには修治さんの役割と言うものがあり、それは確実に実を結んでいるのです。私にも役割があります。人はそうして己の役割を果たすために生き、また見付けながら歩むものですよ。私がやろうとしていることは、修治さんが思い描くものと違うかもしれません。ですが、過程や目的はどうあれ、結果得られる未来は互いの利益になるはずです。その途中、私に対して余計な詮索は不要ですよ」
 頷くしかなかった。それだけが今の俺に許された、唯一の意思表示かもしれない。この覚悟の前でこれ以上の疑問を挟む余地は無く、また俺にできる事はこれしかない、そう強く思わせるものが沙弥香さんの言葉と瞳に込められていた。
「なるほど。俺のやるべき事は七海を支え守り、沙弥香さんはその中で目的を達成する。その結末が互いの明るい未来、か。そこまではわかった。じゃあ最後にもう一つだけ訊いてもいいかな?」
「何でしょう」
 ここに来るまで、色々考えていた。自分が生きるため、七海と未玖を助けるため、訊きたい事は山程あった。けれど、今はこの言葉しか浮かばない。
「成功しますよね」
 迷いなど欠片も無いかのように、沙弥香が力強く頷いた。
「そのつもりです。私は新しい未来を手に入れます。そして前にも言ったように、修治さんと七海様にも、幸せになって欲しいのです」
 ふっと目を細める沙弥香さんに、俺も微笑みを返す。どんな言葉よりもはっきりと、互いの気持ちが伝わった気がした。しばらくそのまま見詰め合ってから、冷めた紅茶を口にする。底に残っていた砂糖が最後の一口に凝縮されていて、ひどく甘ったるく、沙弥香さんに水を頼む。冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをコップに注いでもらい、渡してくれたと同時に、沙弥香さんは流れるように時計へ目を遣った。
「そろそろ昼食ですね」
 昼食は俺も七海も少しだけ口にした。ただ、相変わらず栄一さんが一人で喋っているだけで、こちらから誰かに話し掛けるなんて事は無かった。栄一さんは恵子さんがいなくなってから、よく食卓で喋るようになった。それがまた七海の心を傷付けているのだろう、栄一さんが笑顔で何か話す度、辛そうにうつむいてうる。そんな七海を見ていると俺は沙弥香さんの言葉を思い出し、本当に七海を支えているのかどうか不安になった。
 早々と食堂から引き上げると、自室は行かず、そのまま外へ出た。上着は無いけれど、もうすっかり春の陽気に満ちており、寒さを感じない。のんびりと花壇を逍遥しながら、沙弥香さんの言葉を何度も反芻する。
「支え、ねぇ」
 あんな七海を見て、どこが支えになっていると思えるのだろうか。俺が余計な事をして場を乱さぬよう、支えだの何だのと適当な役割を匂わせ、そうして黙らせるための口実なのだろう。そもそも、支えとは何だろうか。一緒にいてお喋りして慰めて、時折抱き締め優しさを恋に摩り替えることが、支えなのだろうか。多少違えども、結局は動かずに二人寄り添っていろってことか。
 無力な俺は沙弥香さんの言う通り、黙って七海の側にいた方がいいのかもしれない。もう俺の方ではどうにもできないところにまで、物事が動いてしまっているのだから。いや、動いてしまったから何もできないんじゃない、元々こうだったんだ。敵いもしない相手に立ち向かおうとするが、周囲から苦笑されるドンキホーテと同じなのだ。
 本当に支えとなるためには、二人で暗闇の中震えていることじゃなく、光を見付けてあげることが必要なんだ。一つでも光があれば、いざと言う時にどうにかなるかもしれないし、何よりも心に余裕が生まれる。では俺がどうにかして与えられる光とは、一体何だろうか。
 しばらくぶらぶらと歩き、花壇から外れてあの滝へと続く山道近くに差し掛かると、足を止めた。昼間なのに薄暗いその方へじっと目を遣り、腕組みする。
「山道、か」
 山に囲まれている河口家だが、そうした地理状況だからこそ、もしかしたら抜け道も多いのではないだろうか。この山全てを鉄条網で囲っていたとしても、見付かるまでに時間をかけられるかもしれない。正門から伸びる市街地への道は舗装されているが、それ故に車などで追い付かれ易い。ならばどこか逃げ易い山道を見付け、そこから下山するか山の中に隠れていればいいかもしれない。そう、儀式の当日か前日の夜中にこっそり山へ逃げれば、儀式開始に間に合わなくすることだって可能なはず。
 光を与えるために動く事こそ、支えなんだ。やらずに後悔するよりも、やって後悔した方がいい。陰鬱な目の前の暗がりを見据え、拳を固く握り締めながら力強く一つ頷き、まずは滝へと続く道へ踏み入った。
 うっそうと繁る木々が光を遮り、先日降ったであろう雨のせいか、足元がぬかるんで歩き難い。周囲を見回しながら、どこか道になりそうな場所はないかと探し歩くけれども、これと言ったものは何一つ無く、代わりに妙な胸騒ぎを覚える。何だろう、この感覚は。けれど、立ち止まるわけにはいかないんだ。
 違和感を抱きつつも、奥へと進む。相変わらず行けそうな場所は無く、草むらと木々が侵入を拒んでいるかのようだ。無理をすれば行けないことも無さそうだが、そうして何も考えずにそうしてしまうと、いざと言う時に迷うだろう。なるべく奥の方で進み易そうな道があればいいのだが、あぁ、無いものだ。しかし一体何だろう、この胸に迫るものは。そよ風が起こす木々のざわめきが、この暗さによって怖いとでも感じているのだろうか。
 もうそろそろ滝に辿り着くかもしれない。同時に不安や恐怖が激しく渦巻き、先へ進むのをためらわせる。どうしてこんな気持ちが、こんなにも強く胸を騒がせるのだろう。歩調を緩め、より慎重に先へ先へと歩く。何かを成そうとする時には、きっとこうした気分になるんだ。そう無理矢理自分を納得させる。
 どこからか遠くで、犬の遠吠えが聞こえた。野犬か。そう認識した途端、俺の中で危機感が奔流となって暴れ始めた。そうだ、ずっと感じていた恐怖や不安はこれだ。木々のざわめきに混じって、低い唸り声がしていたんだ。一匹や二匹ではない、結構な数がいるような気がする。襲われたりでもしたらこんな山奥だ、死ぬ事だってありえる。もう探すどころではない、逃げなくては。
 滝へ行く事を断念し、じりじりと後退る。走ればすぐに襲い掛かってくるだろうし、走ったところで屋敷まで結構な距離があるので、逃げ切れられないだろう。踵を返し、焦らずゆっくりと戻る。このペースだと日が落ちるかもしれないが、こうするのが最上の選択だろう。
 しかし、四方八方から徐々にはっきりと聞こえてくる獰猛な唸り声や遠吠えに心が削られ、恐怖により心が剥き出しとなり、走り出したい衝動とのせめぎ合いに理性が焼け焦げてしまいそうだ。ぬかるみ滑る足元に気を付け、徐々に早足になる自分を抑えられず、頭の中が一歩毎に白んでいく。
 次第に足早になり、ゆっくり歩かなければいけないと思いつつ、この暗い森が俺の判断力を奪っているのか、足早は駆け足となり、いつしか息を切らしての全力疾走となっていた。怖い、怖くてたまらない。けれど、幾ら走っても走っても、殺気立った獣の咆哮は離れるどころか迫ってきている。
 まだ屋敷までは距離がある。けれどもう息が切れ切れで、肺が焼けるように熱い。鼓動も爆発しそうな音を立てており、脇腹を始め足や背中が悲鳴を上げている。もうそろそろ限界かもしれない、そう何度も頭に諦めのサインが浮かぶけれど、枝葉のこすれる音、幾つもの疾走する小さな足音が間断無く耳に入り、もう追い付かれたらなんてことを想像すると、とてもじゃないが足を止められない。
 目の前がぼんやりと白んできた。心臓はもう鼓動しているのかどうかわからないくらいで、体の痛みによって意思とは無関係に倒れてしまいそうだ。幾ら懸命に走っているつもりでも、自ずと遅くなってきている。その証拠に、道の外から聞こえてくる音がより近くなってきているのだが、視覚に疾走感が無くなりつつある。振り切っても後から後から新しいのが現れているのか、逃げられない。まだ道の先に光が見えず、今も周囲は仄暗いままだ。
 どうして走っているんだろう、一体何に追い駆けられていると言うのだろうか。これだけ草木が生い茂っているのだから、風がそよ吹くだけで音が響くだろう。唸り声に聞こえるのは、風が四方から渦巻いているからだ。そう思おうとしても、一旦恐怖にかられてしまうと、もうそれしか考えられなくなる。あと一歩動ける、あの木まで行ったら大丈夫、そう自分を誤魔化して走ってきたけれど、そろそろもう駄目かもしれない。
 前が見えない、どこを走っているのかもわからなくなってきた。もう間も無く追い付かれる。どうなってもいいとは思えないが、だからと言ってどうすることもできないくらいに、体の限界が訪れている。限界は自分で定めた時に訪れると言うけれど、意思ではどうにもならないことだって多々あるんだ。少し前から足がもつれ、もう走っているのか歩いているのかわからなくなってきた。あと一呼吸さえできないかもしれない。
 突然、視界が開けたと思うが早いか、眩い陽光が津波の様に押し寄せた。けれどもまだ危険は去っていない、すぐ背後には獰猛な声の主達がいる。崩折れてしまいそうな体をよろめかせ、花壇へと向かう。そこまで行けば、どうにかなるかもしれない。いや、もうそこまでしか行けない、体も心も限界だ。朦朧とした意識の中で、追い付かれるかどうかなどはもう問題ではなく、ひたすら花壇の中心部へ辿り着く事だけが唯一残った目的だった。心臓ごと吐きそうな胸元を押さえ、口の中に溜まった唾が苦しい。
 花壇中央手前で、足がもつれて倒れ込んだ。土の匂いが周囲の花の香りと混ざり合い、何とも春らしさに溢れているけれど、それは一瞬匂っただけで、すぐに体を丸めてむせた。止まったからか、焼けて萎んだ肺が生き返ろうと猛烈な勢いで酸素を求める。それがまた、苦しくて辛くて、涙を浮かべながら収まるのを耐える。涙も唾も、出るがまま。
 四つん這いになりながら息を整え、涙を拭うと恐る恐る振り返る。何も無い。耳を澄ましてみるが、やはり何も聞こえない。花壇はいたって平穏な春を迎えており、滝へと続く道も静かな暗さがあるだけで、先程までの死を間近に感じさせる何かはすっかり気配を消してしまっている。ゆっくりと立ち上がり、周囲をよく見渡してみても、のどかな春が広がっているだけだ。
 あれはもしかして、日々削られていた魂が見せた幻覚なのだろうか。いつ自分がどうなるかわからない状況下だから、些細な事に対しても危機を感じ、そうして……いや違う、あれは確かに犬か何かだった。以前七海と一緒にあそこを歩いた時、あんなものは感じなかった。気付かなかっただけだろうか。何にせよ、もう一度行く気にはなれない。
 服の汚れを払い、一旦自室に戻ろうと、きしむ体をゆっくりと動かす。時間が無いのは承知済みだけど、このまますぐに何かできる体ではないので、少しでも休みたかった。汗はまだ収まらない。シャツを取り替えよう。この恐怖を汗と共に拭い去ってから、また光を見付けるために歩くんだ。
 階段を上り終え、バルコニー側の廊下を歩いている途中、ホールから出てきた敏雄さんと出くわした。息が詰まり心臓が暴れ、どう逃げるかとそればかり考えてしまい、思わず視線が下がる。一度知ってしまったから、会えば封じていたい感情が奔流となって溢れ出し、決意も約束も自分も、全て彼方へと流されてしまう。挨拶すらもできず、黙って通り過ぎようと俺はなかなか動かない足を無理矢理速め、自室へと急ぐ。
「お待ち下さい」
 通り過ぎようとした直前、呼び止められた。反射的に足を止めたが、目を向けられず軽くうつむいたまま。すぐにでも触れ合える距離であり、また逃げ出す力ももう無いので、俺はもう蜘蛛の巣に捕らえられた虫と同じだ。敏雄さんの気持ち一つで、どうにでもされてしまう。
「どこかお出掛けになられていたのですか?」
「ちょっと、散歩を」
 嘘はついていない。けれど、何故だろうか心が重い。一言発するだけで身も心も、ごっそりと削られるようだ。
「そうですか。いえ、随分と汚れていらっしゃるので、少々気になった次第です。そうですか、散歩ですか、なるほど」
 一人納得したかのように頷く敏雄さんが、ただただ不気味に思える。どこか嬉しそうな語調も、もしかしたらといろいろ勘繰ってしまう。
「転んでしまって。それで、着替えようと」
「それはそれは。暖かくなってまいりましたが、場所によっては先日の雨によって足を取られるところもあるでしょうから、お気を付け下さい」
「はい、それでは僕はこれで」
 ようやく解放される。心の中だけで安堵しつつ、疲れた体を引きずるよう足を一歩前へ進めた途端、
「そうそう、一つ言い忘れていました」
 殊更大きな声で再び呼び止められた。
「春の陽気に誘われたのか知りませんけど、最近この辺に野犬が増えましてね。駆除を進めているのですが、どうにも追い付かずじまいでして。ですから、なるべくならば外出を少しばかり控えた方がよろしいかと。特に暗がりでは何が起こるかわかりませんし、もし噛まれでもしたら狂犬病の恐れもあります。私達も手を尽くしているのですが、無闇に山の方へ行かれると安全の保障はできませんので、御理解の程を」
「わかりました」
 ようやくそれだけ吐き出すと、俺はもう足早になんてなれず、いかに背後の人物を刺激しないように去るかだけ考え、ゆっくり薄氷を踏み歩くかのごとく自室へ向かった。角を曲がり、目の前に誰もいないことを視認すると、それまで張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、がくりと膝が折れ四つん這いになってしまいそうになるも、顔を顰めつつ何とか堪える。
 やっぱり、仕組まれていたのか。
 悔しさとも恐怖ともつかない、言うなれば絶望を恨むような気持ちが湧き起こるけど、さて一体どうすればいいのだろうか。泣きつく事も、相談する事も、解決する事もできずに、ひたすら留まり耐える事しか許されない現実と向き合えば、改めてやるせなくなる。しかし、これは自分の責任。最初から未玖の言う事を戯言として片付け、七海達と上辺だけ仲良くしていればこうならなかった。わかっていて首を突っ込んだのは他ならぬ俺の決断だが、今でも間違っていたなんて思わない。ただ、今は少し疲れているから気弱になるだけだ。
 自室に戻るとよろめきつつベッドへ向かっていたが、そこへ腰掛ける前に膝が折れ、四つん這いになって、目を閉じた。激痛を堪えるように強く絨毯を掻きむしり、声にならない叫びを喉の奥から振り絞りながら、頭をも床に着ける。固く閉じた瞼の裏が記憶のスクリーンとなり、様々な情景が思い浮かぶ。
「俺は、俺は……」
 恵子さんは死んだ。七海は生贄となり、数日後には死んでしまう。未玖だって幸せな生活を約束されているとは限らず、同じような運命を辿るような気がする。では、自分は一体どうなってしまうのだろうか。まさか何事も無く河口家に来る前の、両親が健在だった時のような、平凡ながらもそれなりに幸せな生活へ戻られるはずが無い。必ず何らかの制裁が下される事だろう。俺はこの家の重大な秘密を知ってしまったんだ、良くて飼い殺し、妥当なところで口封じは免れない。
「俺に何があると言うんだ」
 どうにもできないのなら、いっそ屋敷ごと燃やしてしまおうか。儀式が所定の場所でなければできないのならば、燃やして瓦礫の山となったここではできなくなるかもしれない。別の場所でやるとしても、事前に用意しているとは考えにくく、瓦礫をどかすにしろ時間が無いだろう。
 いややはりこれは駄目だ。この屋敷には何箇所もスプリンクラーがある上に、火災に対してそれだけの対策だとは思えない。また、燃やすにしろガソリンや灯油でも無い限りすぐ鎮火されるだろうし、そもそもそれらが手に入るとは思えない。この時期だ、厳重に保管されているだろう。
「七海、未玖」
 右手で床を強く殴る。まるで裸のまま砂漠に放り出されたような気分だ。打つ手も何も無い。このまま運命がもたらすであろう死を、諦めの中で受け入れるしかないのか。俺にできる事は、それを迎える覚悟を整えるだけなのだろうか。
 違う、間違っている。七海や未玖にあれだけ諦めるなとか生きろだとか偉そうに言ってきたのに、俺が諦めてどうするんだ。無理だとか、どうしようもないなんて今更思い出す事でもないが、最初からわかっていたじゃないか。その中でどうにかしようとして、それで……。
 振り払っても拭っても、際限無く心に絶望が広がっていく。七海にあれだけ言っていた事は、何も知らない者が使う綺麗事だったのだとすら、本気で思えてきた。いざ自分が同じ立場に立たされたら、諦めると言う選択しかできないような気がしてならない。あぁ、七海や未玖は幼い頃からこうした気持ちを受け止めてきていたのか。希望を根こそぎ奪われた人生とは、一体どのようなものなのか、想像すらできない。彼女達が抱えてきた断片ですら、こんなにも苦しいと言うのに。
 立ち上がると、窓辺へ歩み寄った。彩り溢れているはずの世界も、灰色ばかりが目に付く。どうにかなると思っていた時には、あんなにも綺麗に輝いて見えていたはずなのに、いつからこんな風にしか見えなくなったのか。窓縁に手を着き静かに目を閉じれば、ゆらりと光る闇が広がる。明るいばかりが安心ではないのだと、今更ながらに理解できた。
 もうあとは未玖しかいない。未玖ならば、きっと何か答えの尻尾を掴ませてくれるに違いない。わからないと言っていたが、それでも秘策があるかもしれないと、そう思わせる雰囲気が彼女にはある。もちろん、雰囲気だけではどうにもならないけど、儀式を詳しく知っているからこそ、意外な抜け道を見付けられるかもしれない。ああ振舞っていたが、昨日は互いに動転していたかもしれず、良案も忘れていた可能性だってある。じっくり考えればきっと、知らなかった事実も見えるに違いない。
 未玖が俺に対して期待を抱いているみたいだが、俺も同じなんだ。逃げる事もできず、妨害も事実上不可能で、戦う力すら無い俺に道を示して欲しい。未玖ならば、それが可能だと信じている。そんな一縷の希望を夜中の対面に託しつつも、俺の体は疲れや痛みとは違った何かのせいで、ひどく震えていた。

 深夜二時少し前、俺は静かにベッドから降りた。薄ら暗闇に隠された月は朧で、カーテンから差し込む光も弱々しい。暗く静かな部屋の中でじっとしていると、不安ばかりがとめど無く押し寄せ、この闇に潰されてしまいそうだ。夜の闇の中では考える程に目が冴えるけれど、昼間より自分を追い詰めてしまう。
 そろそろ、行くか。
 一つ頷いてから立ち上がると、高まる鼓動にすら気を張り詰めつつそっとドアを開け、様子を密かに窺ってから廊下へ出た。耳鳴りがするくらい静かな深夜の廊下には、幸いと言うか当然と言うか、誰もいないみたいだ。それでも気配を殺して、音を立てずに素早く七海の部屋へと向かう。窓から仄かに差し込む月明りも今は獲物を狙う野獣の様で、闇に紛れて進まないと運命の喉元に食いつかれるかもしれない。
 七海の部屋に鍵はかかっていなかった。これは夕食後に打ち合わせた通りで、頬に僅かな笑みを浮かべ、ノックをせずに入室する。やはり室内は暗く、一見すれば七海がいるのかどうかわからない。ゆっくりとベッドへ近付けば、薄らとそこに腰掛けている人影が目に入った。
「起きていたみたいだね」
「うん、話があるって言っていたから。それで、話って何なの?」
「未玖のところへ行こう」
「姉さんのところ……」
 暗くて表情は読み取れないが、口調からして多少驚いているみたいだった。そんな七海に俺は大きく一つ頷き、話を続ける。
「昼間、どうにかできないものかと和巳さんや沙弥香さんに話を聞いたけど、何の手掛かりも得られかったから、外に出てどこか逃げられる場所はないかと探していたら、敏雄さんが放った野犬に襲われそうになったりと、結局何もできなかった。わからないんだ、どうすればいいのか俺にはもう。助けるだとか生きろとか言っておいて、何もしてやれないってことは、いたずらに苦しめているだけだと、ようやく気付いたんだ。やってきたことが無駄だとか、悪い方向に進ませたなんて考えたくもないし、それで終わらせたくも無い。ただ、結果的にそうなっているのかもしれないのは事実だ。でもな、そんなこと認めたくないんだよ」
 見栄、体裁、飾られた正義、建前、虚栄など生きるために必要だが、今だけは脱いでしまおう。この事件に関わってきてからずっと抱いていた、本当の気持ちを余すところ無く七海に伝えておきたい。
「だって、俺の責任で七海を不幸になんてしたくないし、俺も死にたくないんだ」
「修治君」
「エゴだよな、自分で首突っ込んで何だかんだと場を掻き乱し、今更責任逃れしたくなったり、死にたくないだなんて」
「ごめんね、修治君、私のせいで」
 そっとうなだれている七海の両肩を掴むと、俺も謝るように膝を着き、うなだれた。
「俺こそ、責めるようなこと言って、ごめん。でも知って欲しかったんだ。今まで七海に言ってきたことは綺麗事に聞こえるかもしれないし、俺がやってきたことは余計だと思っているかもしれないけど、綺麗事の中にも、無駄な事の中にも一片の真実があるはずだ。俺はそれを信じたい。そんな俺を信じて欲しい。そして、何度でも言うけど、俺はお前を助けたい、ただそれだけなんだ」
「うん、わかっている、すごくよくわかるよ」
「けど、もう何もしてやれない。何かをしてあげたいんだけど、何をすればいいのか全くわからないんだ。沙弥香さんが俺にできることは七海の側にいてあげることだと言ったけれど、それじゃ駄目なんだ。二人でじっとしていて、何が変わると言うんだ。確かに何もできないかもしれないけど、そうしていても解決しないだろう」
 七海がそっと俺の手を取り、胸元へ運ぶ。俺もゆっくり膝を折り、目線の高さを合わせると、その手を握り返した。
「会いに行こう。未玖ならばこの現状にも、何か良いアイデアがあるかもしれない。いや、もうそれしか無いんだ。もしかしたら今晩会いに行く事は、未玖が言う運命によるものなのかもしれない。これしか動ける選択肢が無いし、逆に言えばこの一点だけあることに何か運命めいたものを感じるんだ。あぁ、そんなことを考えたって、どうにもならないな。とにかく会いに行こう、七海だって会うべきなんだ、そういう人じゃないか。なぁ、会いたいだろう?」
「会いたいよ、でも」
 そこで口を噤むと、七海は溜め息と共に肩を落とした。
「私が何かしたら修治君に危害が及んじゃう、私のせいでそんな事が起こるのは嫌。さっき修治君が言ったように、私だって自分のせいで誰かを傷付けただの何だのって責任、負いたくないよ。私だけが我慢すれば、それでいいの。だって今までそうして、それなりに上手くやってきたんだから」
「俺は七海のそう言うところを評価しているけど、大嫌いだ」
 控え目な性格だって、過剰であれば卑屈にしか思えない。気を遣われ過ぎても、逆にこちらが気遣いしてしまう。七海はいつもそうだ。だからこそ、守ってあげたくなるのも確かなのだが。
「もっとワガママになってくれ。いつもそうして罪悪感を抱いていたり、何か我慢をしていたりする姿を見るにつれ、辛いんだ。もっと信用してくれよ。そりゃあ、もう何の策も無いだとか言っている俺を容易く信用できないかもしれないけど、でも」
「修治君のこと、ちゃんと信用しているよ。じゃないと私、こんなに何かを感じられなかったかもしれないから。修治君がいなかったらもっと前に笑えなくなっていただろうし、信用できないと思っていたらこんな話もできないよ。でもね、だからこそ何かあるのが怖いの。大事な人だからこそ、何かあってはいけないと強く思うのよ」
「それは俺もずっと七海に対して思っている。だから、何とか幸せになって欲しいんだ。未玖にだって、当然同じ思いだ。それに未玖も俺と同じで、七海に幸せになってもらいたいに違いない。それを叶えるためには、動かなければいけないんだ。それに俺はそれとは別に、もう一度二人に会ってもらいたいんだ。下手をすれば折角会えたのに、あれで最後となるかもしれないじゃないか」
 もう時間が無い。この姉妹が会えるのはこの機会をおいて他に無さそうだ。何もしなければきっと儀式の時か、昨日の思い出一つだけになる。あんなにも互いの事を思い合える姉妹なのだ、もっと一緒にいて欲しい。俺には無い血の繋がった家族、なのだから。
「ありがとう」
 呟くように、しかしはっきりとそう言うなり、七海は立ち上がった。
「じゃあ行こうか、あまり遅くなると見付かっちゃうかもしれないから」
 昨夜同様に誰の眠りをも邪魔しないよう、また何があっても容易く見付からないよう、物陰に隠れつつ速やかに書庫を目指す。幸い誰かがいただとか何か妙な気配を感じただとか言う事も無く、すんなりと書庫には入れたけれど、それでも一瞬たりとも気を抜かずに隠し階段へと向かう。
 互いに無言のままだった。口を開けば静寂を破って気付かれるかもしれないと言う以上に、未玖に会う緊張感のようなものがそうさせないでいる。暗くカビ臭い階段に響く、生きている証の音が周囲の雰囲気と不釣合いで、怖い。恐怖は影のようなもので、生きている限り常に側にある。それを和らげるために様々な物事を知り、自分を磨き、そうして自信と実力をつけるのだろう。怖いと感じる事は、まだ成長できる証拠。大丈夫、俺は成長できる未来があるはずなんだ。
 ドアの前で深呼吸し、七海を見詰めた。薄暗いけれど瞳にしっかりとした光が窺え、自然と繋いだ手から感じるぬくもりが、散らばりそうな気持ちをも繋ぎ止めてくれる。強く握れば、同じように返してくれる事がただもう嬉しく、心強く、俺はそのままそっとドアを開けた。
「また来たのね。来るとは思っていたけれど」
 未玖は昨日と同じように固い絨毯の上で、鈍色の鎖に手足を繋がれていた。信頼も出来るが今にも消えてしまいそうな雰囲気を有しつつも、俺と七海を見るなり顔を上げ、嬉しそうに微笑んだ。
「ここに来なければならなくなってね」
「けれど、もうここは危険よ。あの人達だって、薄々気付いているみたいだったから。会いに来てくれるのは嬉しいし、またこうして会えた事は私としても幸せだけど、すぐに戻った方がいいわ」
 確かに栄一さんやその腹心である敏雄さんならば、昨晩の事すら気付いているかもしれない。ここは未玖の言う通り、戻った方がいいのだろうか。いや、それでは何もならないんだ。先へ進みたくてここに来たのだから、何かしらの答えが欲しい。あぁ、だけど見付かっては何もかもが終わる。どうすればいいのだろうか。
 一人煩悶する俺の手を離し、七海がそっと未玖の前に歩み寄る。そうしてしゃがみ、手を取り合うと静かに七海は胸元へ寄せた。
「姉さん、私達にはそうした危険に怯えている時間は無いの。私もここに来る事で修治君を危ない目に遭わせるかもしれないって、そう心配していたけれど、説得されたんだ。それで決めたの、私は姉さんにまた会いたいって気持ちを我慢せず、会えるならば会おうって。死ぬかもしれないのに、折角会えたのに、あれだけで終わりたくないよ」
「死ぬだとか時間が無いだとか、そんなこと言うのはやめて。私は七海が幸せになってもらいたい一心で、生きてこられたの、こうして会えたの。七海は私の希望、私が得られないものを得て幸せになって欲しいの。生きてくれさえいればとは言わない、なるべく幸せに生きて欲しい。七海と修治君にはその権利があるわ」
「姉さん、それは違うよ。何で私に死ぬなと言っておいて、自分はどうでもいいみたいなこと言うのよ。姉さんだって生きて幸せになる権利はあるじゃない。やっと会えたんだよ、なのにこれだけなんて、あんまりだよ。私は姉さんにこそ生きて欲しい、そして修治君にも」
「一緒にそうなれたら、いいね」
 子供の様に泣きじゃくり、姉を抱き締める七海。それをしっかり受け止めて、撫で擦る未玖。守ってあげたい、この二人は心から幸せになってもらいたい。そのためには、どうしても未玖の考えが必要なんだ。未玖ならば、どうにかできるはず。
「俺は死にたくなんかないし、もう誰も親しい人を死なせたくない。昨日まで側にいた人が朝になっていなくなるなんて、そんなのもうたくさんだ。そのために何かしようと色々考えてみたり、実際に行動したけれど、どうにもならなかった。だから俺はここに来た、未玖ならきっと何か知っているだろうと。なぁ、何かいい案は無いのか。教えてくれ、どんな些細な事でもいいんだ。何でもいい、とにかく手掛かりが欲しいんだよ」
 一つ、たった一つでいいから何か手掛かりが欲しいけれど、未玖は辛そうに目を閉じ、首を横に振るばかりだった。
「ごめんなさい、私にもわからないことはあるわ。頼ってくれるのは嬉しいけれど、もうはっきりと見えないのよ」
「見えないって、一体何がだ?」
「今までは運命の流れとでも言うのかしら、どうなるのか、どうすればいいのかと言うものが、ぼんやりと感じられていたの。それに、私自身の知識からもアドバイスできたわ。でも、今は何も感じない。そして、私が知っていることは全て話したわ」
 未玖が最後のキーマンだとばかり思っていたのに、何もわからない、もう全て話したと言われた今、完全に打つ手を無くしてしまった。目に見えるもののみならず、未来までもが暗闇に覆われた気分だ。行き場を失った感情が怒りになるのに時間はかからず、その矛先は期待通りにならなかったこともあってか、未玖へと向かう。冷静な思考は既に雲散霧消し、体中痺れるような感覚に包まれる。
「未玖は俺に運命を変える力があると言ってくれた。最初はわけがわからなかったけど、次第にそうなのかもしれないと、心のどこかで思うようになってきていたよ。しかしどうだ、俺のやること為すことことごとく失敗している。何も出来なかったし、これからも何も出来やしない。なぁ、一体俺の何がこの運命を変えられると言うんだ。その気にさせただけか、気休めだったのか」
「修治君、何を言うの」
 驚き悲しそうな瞳を向ける七海も、今は煩わしく思える。一度堰を切った感情は焦りと不安から止まる事を知らず、未玖へと流れて行く。
「七海と逃げれば簡単に追い付かれ、今日の昼に逃げ道を探そうと外を歩けば野犬に襲われかけた。死ぬところだったんだぞ。何だよ、ちきしょう、どうして俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ。助けて欲しいから俺をここに誘ったんだろうけど、ここに来てもう方法が無く、運命の流れがどうこうなんて馬鹿らしいにも程がある」
「やめて、修治君」
「わかっている、俺だって一応わかっているつもりだよ、七海や未玖みたいな状況になったら助けを求めたくなるってことくらい。今の俺がそうなんだからさ。でも」
 そこから言葉が続かなかった。溢れる感情を整理できないとか、適切な言葉が見付からないと言う以上に、それまで暗くてよくわからなかったが、未玖が頬に一筋の涙を流している事に気付いたからだ。女々しく泣くような女じゃないことは、よくわかっている。だからこそその涙に怒りが爆発するどころか、むしろ熱くなっていた頭が冷めていった。口を噤んだ俺に未玖は涙を拭おうともせず、真っ直ぐに沈痛な面持ちをぶつけてくる。
「貴方に辛い思いをさせてしまったことは、決して謝って済むものじゃないと知っているわ。けれど、軽々しく謝ってしまうとそれまでの全てが白々しく、また責任から逃れてしまうように思えてしまうの。口先でどうこうできるだなんて、欠片も考えていないわ。私は悪い人間でしょうね、これだけのことをしても謝罪一つしないのだから。もし殴りたかったら、殴ってもいい。この体を好きにしても、かまわない。七海がいるからできないと言うならば、後でしてもいいわ。私が貴方にしてきたことは、それでもまだ足りないのでしょうから」
「姉さんやめてよ、姉さんは悪くない。悪いのは、生まれた時からの宿命よ」
「違うわ。修治君が河口家に来ただけでは、何も変わらなかったのよ。そう、七海と親しくなって、それだけだったはず。けれど、この事件に関わるようになったのは私のせい。私が修治君の運命を変えたようなものよ。予め決まっていた運命も、道は一つではない。わかるかしら、私の言いたい事が」
「これからも変わる可能性があるってこと、だよね」
 未玖は静かに頷き、七海を抱き寄せた。
「そう、幾らある程度決まっていようが、運命は変えられるのよ。その変えた先も運命が決めたと言うのは、結果論でしかない。運命とは生まれ、生きていく事。貴方は色々と行動し、けれどそれが目に見えた形で成功を収めていないから、失敗続きだと思っているのかもしれない。幾らこうした状況とは言え、成果が見えなければ心が腐るのも、よくわかるわ。だけど、貴方が動いたからこそ確実に周りは影響を受けたり、それまでとは違う流れへと傾かせる事ができたのよ。人は独立しているようであり、その運命も各々のものであると思っているかもしれないけど、誰か傍にいれば運命も連関するものよ」
 俺が誰かの傍にいるだけで周囲がそれまでとは違った運命に進む、か。関わり合う事で各々の運命が絡まり、別の未来への可能性が生まれるなんてことは、俺も前からぼんやりと考えていたけれど、問題はそこじゃない。何をすべきなのかだ。これまで何かしら周囲を動かしてきたのかもしれないが、これからはどうなる。儀式が目の前に迫っているのに、もう何も出来ないかもしれないだなんて、納得できない。
「対策は現状で何も無いかもしれない。俺も、未玖も、七海からもたった一つの案すら出ないのだから。もし何かできるとするならば、儀式の最中なのかもしれない。そうだよ、儀式の最中に止めてしまうとか。もしも俺が人質に取られても、止めればいい。儀式を遂行するのに代わりがいないならば、止めればいい。最後に決めるのは七海なんだから」
「私が……」
 しばらく未玖は修治と七海を見詰めていたが、突然すっと目を伏せ、横に首を振り出した。それが無策の合図だと思ったのか、修治がやるせない表情で歯を食い縛りながら一歩詰め寄る。七海が未玖と修治の間に入ろうとしたが、それを未玖が遮った。
「もうお話はできないみたいね、来たわ」
 顎でドアを示され振り返ったけれど、ドアは閉まったまま、そこには誰もいなかった。けれど耳を少し澄ましてみれば、階段を降りてくる足音が僅かながらだが響いている。それに気付いた途端一斉に血の気が引いて行き、七海も俺の様子からただならぬものを感じたのか、不安げな面持ちで俺と未玖とを交互に見ては、未玖をより強く抱き締めていた。
 来てしまったんだ。もう逃げ場は無い。武器も無ければ、どうにかする手段も無い。俺はドアを見据えたままゆっくりと後退りし、七海と未玖のすぐ前に立つと、二人を振り向き見た。七海はひたすら不安そうに俺を見詰め、未玖は震え一つ無く目を瞑っている。
 足音が止んだ。俺はじっとドアを見詰め、身構える。不気味な静寂、それも時間にすれば数秒なのだろうが、感覚として数時間にすら思えた。鼓動が高まる、呼吸が早まり膝の震えが止まない。ドアの先にいる人物達に対して俺は無力かもしれないが、それでも精一杯守ってあげたい。
 やがて、ゆっくりとドアが開かれた。
「おやおや、三人揃って何を話していたのかね。感動の出会い、いや再会のことかな?」
 思った通り、栄一さんが悠然と微笑みを浮かべて立っていた。その後ろにはやはり、敏雄さんが影の様に立っている。一見すると隙だらけに見える栄一さんだが、それを補って余りある程に敏雄さんの眼光鋭く、俺達三人の指先や視線すら見張っているみたいだ。動く事がままならず、じっと見詰め合う四人とは対照的に、栄一さんだけが一人陽気にこの場を見渡している。
「七海は姉の未玖に会えたようだね。修治君も驚いたろう。まぁ、七海も未玖も美人だから、男としては嬉しい限りだろうね。親の贔屓目かもしれないし、また父親としては少々複雑なところだが、こればかりは当人達の問題だからね、私が口を出す真似はしないから安心したまえ。未玖は元気にしていたかね。七海や修治君はいい人だろう」
「父さん……」
 悲しみと軽蔑を大いに含んだ七海の呟きも届かないらしく、栄一は三人を見比べては一人満足そうに頷いている。けれどそんな栄一を誰も止めようとする者はここにおらず、ただ彼の哄笑だけがこの暗く悲しい一室に響き渡っていた。
「何で姉さんをこんな……幾らなんでも、こんなの、酷いよ」
 涙声でそう途切れ途切れに言う七海を、栄一は真摯な眼差しで見詰める。そこには先程までの哄笑の面影は無く、河口家当主として生きてきた姿があった。そうして一歩前に出る栄一に対し、修治と七海が半歩分下がる。
「七海、河口家に関する書物はあらかた読んだのだろう。ならば理解していると思ったのだが、今更になって何でとは、失望せざるを得ないな。まぁいい、修治君もこの際だ、しっかり知っておくべきだろう。君ももう、全くの無関係ではないのだからね」
 自覚していたが、改めてこの人の口からそれを聞いた瞬間、事件に深く関わっており、もう以前の平凡な日常には戻れないのだと、悲しい諦めが胸に刺さった。それは過去への憧憬かもしれないが、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。下がり気味の視線を必死になって自分を奮い立たせながら上げると、静かに目を瞑っている栄一さんが見えた。
「古来から河口家は退魔の家系として存在してきた。その能力は随一と言われ、時の権力者達と深く結び付き、寵愛されてきた。戦乱の時代ですら、河口の者には手出しを許さないと言う、暗黙の掟が権力者間でも存在していた程だ。けれど河口家の能力は歴史の陰にのみ存在し、今も財閥としてあるものの、その能力は表沙汰にはなっていない。近代に入り、日本は政教分離を推し進め、西洋の流れを汲む科学偏重の国家となったが、それは建前だ。今現在も古来から脈々と受け継がれているアミニズムに縛られ、陰では呪術信仰が働いているのだ。いや、信仰ではなく実際に国家の根幹となり、国を動かしている。そもそも宗教と科学は相容れず、科学の発展こそが文明の発展と思われているが、それこそ大きな誤りなのだ。科学の根底にあるものは仮定を信じること、信じることは宗教の根幹でもある。これだけでは暴論の様に思われるかもしれない。わかりやすく言うならば、宗教は精神世界の発展と知恵、科学は物質世界の発展と知識であると言える。科学も宗教も人間の拠り所なのだ。霊的世界は存在しないと言う科学偏重者の意見は直感であり、そうした存在は無いことを信仰している言葉とも言えるだろう。一見矛盾したものでも、共通するものはあるのだ。どちらか一方のみで判断すべきではない。しかし人々はわからないと言う恐怖から逃れるため、近代文明人の証としての科学へと傾倒していった。そうして人々の生活から、所謂心霊現象と呼ばれるものは非日常とされたのだ。おかしな話だ、それこそが科学信仰であり、目を背けている宗教であるのに」
 そこまで話し、栄一は一つ咳払いをした。
「話を戻そう。そうして非日常とされながらも、確かに存在しているであろう霊的集合体こそが『災厄』である。個人の考えや想いと言うものは、口に出さなくとも周囲に伝播していく。それは個人の体から想念が溢れ出るからであり、強ければ強い程、より多くの生物を巻き込んでいくのだ。感情や想念は連鎖し、やがて独立した形で周囲に影響を与え、最後にはその膨れ上がった霊的集合体であるものに操られてしまう。我々がそれを『災厄』と呼んでいるのは、人は負の方向へと流れてしまいがちだからだ。だから自ずと負の集合体ばかりが出来上がり、世の中がそれに牽引されてしまうのだ。昔から時の権力者により寵愛されていたと先程言ったが、時代が時代だけに疫病、飢饉、戦乱、流産、そして天災などに翻弄され死んでいく能力者もかなり多く、封印の儀を行えない、または未熟故に封印の儀を完璧に行えない者もかなりいたと言う。けれど先人達の血があるからこそ、古の天才である大和の生まれ変わりであるだろう能力を有している、七海と未玖を大和も達成できなかった儀式に取り組めるのだ。七海は未玖よりも生まれ持った能力は大きいものの、開花させるには時間が掛かるだろうと私は判断した。一方未玖は生後間も無い時から、その能力の片鱗を感じさせた。けれど双子は河口家にとって忌むべき存在、だから私は未玖をここに置き、七海が成長するまで『災厄』を引き付けさせたのだ。『災厄』に対し能力者は敏感だ、すぐにその断片を感じ取ってしまい、開花する前にその圧力によって潰れてしまう事も多々ある。私は全てが上手くいくよう、こうしてきた。そしてそれが今、花開こうとしているのだよ。世の中のため、河口家のために」
 長広舌を振るったためか、はたまた長年の大計を吐露したためか、栄一さんの瞳は爛々と輝いており、興奮で肩が上下している。そんな栄一さんに、俺も沸々とまた怒りが込み上がってきていた。鼓動が高まり拳に力が入るけど、殴りかかったところで事態が好転しない事をわかっているので、何とか堪えつつも、突き刺すような視線で見てしまう。
「姉さんは、姉さんはこれから一体どうなるの。私が儀式を行った後、どうなるの」
「未玖か、そうだな」
 栄一は未玖をしばらく見詰めた後、修治に例の悠然とした笑顔を向ける。
「未玖も儀式には参加してもらう。七海の補助としては、これ以上無い人材だからね。儀式が無事済めば未玖が子を産み、次の能力者を育てる役割となるだろう。そうだな、修治君、君がもし大人しくしているならば、我が河口家の次期当主として迎え入れようじゃないか。私は君を買っているのだよ、知恵も行動力もあり、何よりその姿勢が良い。この河口家に対しどうこうしようとする姿は、なかなか見られないものだからね。そして未玖の心をも多少掴んでいる。身寄りも無く、一介の学生に過ぎない君が河口家当主となれるのだ。どうかな、悪い話ではないと思うが」
「そんなものはどうでもいい。俺は災厄だの霊だのと、幻想みたいな事を言って七海を殺そうとしたり、未玖をこんなところに閉じ込めておくのが許せないんだ」
「若さがそうした結論に向かわせるのかもしれないな。君が七海と未玖に上を寄せているからそう声高に叫ぶのかもしれないが、河口家は代々政治をも動かしてきた一族、そうした個人の情に左右されるわけにはいかないのだ。この儀式が終われば世の中は良い方向へと向かい、河口家の力も強まる。七海のことは大きな痛手だが、それを無駄にしない繁栄が待っているのだ」
 気付けば一歩前へ俺は踏み出していた。
「つまり七海や未玖は家の繁栄のためだと」
「全て子はその家のために身を奉げるものだ」
 栄一も前へと出る。
「さぁ、そろそろ話は終わりだ。あまりこうしていると儀式に響く。完璧に仕上げなければならないのだよ」
 そうして修治の脇を通り抜け、栄一が七海の手を引き立たせようとするものの、七海は未玖にしがみ付き、それを拒む。少し栄一が力を込めるが、七海はゆるゆると首を横に振りながら、立ち上がろうとはしない。
「いい加減にしろ、巫女として情に溺れるな」
 平手が七海の頬を叩き、渇いた音がこだまする。その瞬間、考えるよりも先に目の前にいる冷酷な権力者に向かって飛び掛っていた。溜めに溜めた拳の一撃をその気に食わない面にぶちかまし、ひるませてやる。止められないなら、殺してやる。
 だがその拳が届くより早く、後ろからその腕を掴まえられるが早いか、敏雄の拳が修治の腹に食い込んだ。大きく目を見開き、修治は力無く膝から崩れ、床を舐めた。そうして敏雄は修治のその拳を足蹴にすると、七海の傍へと歩み寄る。
 薄れ行く意識の中、立ち上がろうとしない七海に敏雄さんがその首元に手刀を当て、気絶させたのが見えた。けれど俺は怒りを感じる事ももうできず、ただくらい闇の中へと沈んで行くだけだった。

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