十一.

「ここは、どこだ?」
 薄らと瞼が開くと、見慣れぬ天井とそれまでとは異なった匂いに気付き、ぼやけていた頭が一気に覚醒した。目を大きく開き、跳ねるように上半身を起こす。明らかに自分の部屋ではない。地下なのだろうか窓が無く、未玖の部屋にベッドと明かりが付いているだけのような、簡素な部屋だ。他にはこれと言って何も無く、前方に小窓らしきものが付いたドアがあるだけだ。とりあえずベッドから降りようと体を捻った途端、腹に鈍痛が響き、思わず体を丸める。
「そうだ、あの時」
 殴りかかろうとして、敏雄さんの返り討ちに遭ったんだったな。やはり栄一さんの側近であり、河口家を代々守ってきた家系だけある。はなから通用するだなんて思っていなかったけど、あんなに近かったのにただの一撃も与えられなかったなんて。
 思い出す程に悔しさが込み上がり、やり場の無い怒りの捌け口を求めるが、結局は自分の力不足に他ならない。砕き潰してしまいそうなくらいに歯噛みつつ、ベッドを叩く。二度三度と殴りつけるけど、気持ちが晴れるどころか益々やるせなく、やがてうずくまりながら声にならない叫びを上げ、髪とシーツとを掻きむしる。
「七海、未玖……」
 そうだ、七海と未玖はどうなったのだろうか。確か俺が、えぇと、殴られて倒されて、それから……何だったかな、何かあったような気が……そうだ、七海も敏雄さんに殴られていたんだ。ちくしょう、俺はどこまで不甲斐無いんだ、そんなことをされても寝ていただけだなんて。これじゃあ、未玖もきっと何かされたに違いない。守る力が欲しいのに、どうにもできない自分が悔しい。
 しばらくそのままでいたけれど、やがて修治はむくりと顔を上げ、深呼吸を繰り返す。
 いや、腐っていても何もならない。大事なのは今自分が何を出来るかだ。俺は弱い、そんなことわかりきっている。相手は強い、当たり前だ。だからこそ、抗うんじゃないか。ともかく今は二人がどうなっているのか確かめないと。
 ベッドから降り、ドアへ向かう。頑丈そうな木製のドアのノブに手を掛け、捻る。けれどもドアノブは途中で止まり、回らない。こちら側に鍵穴が無いと言う事は、外から鍵をかける仕組みになっているのだろう。薄々気付いていたが、これで決定的となった。俺はここに閉じ込められている。
 とりあえず蹴り続けてみたが、びくともしない。これはどうにかなりそうなドアではなさそうだ。それならばと、周囲を見回して何か使える物はないかと探してみたが、やはり何も無い。不意に上へ視線を向ければ通風孔があるものの、人が通れるような大きさではない。ドアの小窓だってとてもじゃないが通れず、またこちらから開けられそうもなく、ざっと見た限りでは脱出できそうにもなかった。
「どうにもできない、か」
 それでも納得できず、三度ドアを蹴ってからベッドに腰掛けた。溜め息を吐き出しつつ頭を抱え、じっとすることしかできない。何も考えられず、また考えついたとしてもどうする手立ても無く、あぁもどかしい。今は何時だろうか、外はどうなっているのだろうか。七海や未玖は何をしているのだろう。儀式の準備をしているのかもしれない、それともそれに備えて体を休めているのだろうか、はたまたもう何もかも終わってしまった恐れもある。俺はどれだけの間、気を失っていたのだろうか……。
 しばらくそうしていると、ドアがノックされた。すぐさま顔を上げ、ドアに目を遣る。しかしドアノブは回らず、入ってくる様子が無い。一体誰だろうか。緊張した面持ちで目を逸らさずにいると、再度ノックが響いた。
「誰だ」
「和巳です。食事を持ってきたよ、修治君」
 普段と変わらない和巳さんのどこか軽快な口調に、僅かな戸惑いと怒りが俺の中で渦巻き、どう対応すれば良いのかわからずに黙っていると、ドアの中程にある小窓が開かれた。途端、俺は居ても立ってもいられず、そこへと駆け寄るなり、外を覗いた。小窓からは和巳さんと運ばれてきた食事の他に、手掛かりになりそうなものは何一つ見当たらない。もちろん、他に誰もいない。
「和巳さん、ここは一体」
「さぁどうぞ、修治君。おなか空いたろうと思って、サンドイッチ作ってきたんだ。何か食べないと体に悪いからね。まぁ、もし今食べたくないなら、後ででも食べてよ。すぐに腐ったり不味くなったりする物でもないしね。あ、でも昨日もこれだったね。うーん、僕もこうしてみると、レパートリーが乏しいな」
 言葉を遮ってまでトレイに乗せたサンドイッチと、ペットボトルに入ったミネラルウォーターを差し出す和巳さんに怒りを覚えたが、だからと言って今の俺にはどうこうする術など無い。檻に入れられているのと変わらないのだから。また、これを怒りに任せて断ったところで事態が好転するどころか、更に悪化するだろう。ならば和巳さんの言う通り少しでも食べて、これからに備える方が良いだろう。自暴自棄になってはいけない、まだ終わったかどうかもわからないのだから、生きることに尽力すべきだ。
 それでも笑顔にはとてもじゃないがなれず、不機嫌を露にして受け取った。サンドイッチは和巳さんが作ったものだろうし、ペットボトルも未開封なので毒が入っているとは思えないけれども、一抹の不安は拭えない。俺はそれを脇に置くと、小窓に身を乗り出す。
「では改めて、ここは一体どこですか」
「ここは地下室の一つで、その昔は座敷牢として使われていたらしい場所だよ。いや、今でもそうかな。時折河口家に対して危害を加えそうだったり、またすぐに消せなかったりする人物をここに閉じ込めているんだよ。現に修治君もそうなっているしね。ちなみにここからはこちら側から鍵を開けない限り、どうやっても出られないよ。このドアだって一見木製に見えるけど、中には鉄板が入っているんだ。そう、丁度そのサンドイッチみたいな感じかな」
 脇にあるサンドイッチを一瞥して、それがどんなものか想像できた。確かにただの木製ドアなら何らかの形で壊される可能性があり、それでは座敷牢としても少々不安かもしれない。まぁ、仮に全て木で作られていたとしても、俺がこれを壊せるとは思えない。ひとまずこれはいいとして、まだ和巳さんに聞きたい事がたくさんある。
「ところで今は何日の何時ですか」
「二十日の午前十時半だよ」
 二十日、と言う事は儀式の前日か。
「なるほど。それで和巳さん、ものは頼みなんですが、ここから出してくれませんか」
「それはできないね」
 きっぱりと言い放たれたが、それではいそうですかと簡単に引き下がるわけには行かない。沸々とまた怒りが込み上がるが、いけない、冷静にならなければ。怒りに任せて騒いだところで、檻の中にいる無力な人間に媚びへつらう奴はいない。今は耐え、いろいろな事を訊き出さなければ。
「どうしてですか。別に俺がここから出たところで、何もできないことは知っているでしょう。いや、悔しいけどその通りです。でも俺はただ、七海と未玖がどうなっているのか、それが心配で確かめたいんです」
 自嘲気味に微笑を浮かべる修治に、和巳が凛とした微笑を返す。
「君を出せないのは、僕も大滝の人間だからさ。河口家に対して害になりそうな人物をどうにかするのが、僕達の宿命なんでね。それにこれは旦那様の命令で、そこに個人の感情が入る余地なんて微塵も無いんだよ。わかったかい」
「じゃあせめて、七海と未玖がどうなっているのかだけは教えて下さい。二人は無事なんですか、今どうしているんですか」
「未玖……あぁ、七海さんのお姉様ですか。いや、初めて見た時は驚いたね。姉だと言うことよりも、この屋敷の地下にずっといたことよりも、寸分違わずそっくりだったことにさ。背格好から声、おまけに髪の長さもほぼ同じ。あ、でも雰囲気はやっぱり違って」
「そんなことはどうでもいいんだ。無事なのかどうかって訊いているんだよ」
 世間話でもするかのよう呑気に喋る和巳さんに対し、怒りを抑えられなかった。声を荒げ、肩を僅かに上下させながら睨む。目の前にいるのは俺の知っている和巳さんじゃない、邪魔者は誰であろうと無慈悲に殺す、大滝の人間なんだ。俺をここに閉じ込め、七海や未玖を儀式に使おうとする側の人間だ。
「わかったよ、だからそんなに睨まないでくれよ。七海さんも未玖さんも、部屋で静かにしている。未玖さんには二階の客間を使って下さいと言ったけど、どうしてもあそこがいいと、例の地下室にいるよ。儀式の直前まであそこから溢れ出る『災厄』を抑えるから、だと。まぁ、愛着もあるんだろうね」
 それは本当に愛着や『災厄』を抑えるためだけなのだろうか。あの未玖だ、それだけではなさそうな気がする。けれど今の俺に、その真意を確かめる術は無い。けれどまぁ、とりあえず二人が無事だと知って、安心した。あとはどうにかしてここから出るだけなのだが、どうもそう簡単にはいきそうもないようだ。
「もう一度訊きますけど、ここから出してくれませんか」
「何度頼んでも駄目だよ」
「どうしても、ですか」
「あぁ、駄目だね。出してと言われるがままにしたら、僕が危なくなる。それにもし出してあげたところで、何か考えでもあるのかい。僕は何かあるようには見えないけどね。もう二人の安否はわかったんだから、いいじゃないか。修治君は大人しくしていなよ」
 ここまできて、これかよ。未玖のみならず、和巳さんや沙弥香さんまでもが七海を生かそうと、俺に色々アドバイスをしてきてくれたけど、あれは嘘だったのか。味方のふりをして俺をそそのかし、そうして可能性をどんどんと奪い、ついにはこうして閉じ込め、一体何だと言うのか。どんなに些細な相手に対してでも、容赦無く様々な罠を張り巡らせ、希望も根こそぎ奪うのが彼らのやり方なのだろうか。目の前の和巳さんを俺は信じていた。栄一さんや敏雄さんと違って、この屋敷に来た時からまるで親友の様に、兄の様にと接し、色々相談に乗ってくれたのに、ここにきてこれか。
 信頼と憎悪は表裏一体、そして負の感情は膨らみ易く、なるべく抱いていたくないからか、徹底的に相手へとぶつけたくなる。修治も信頼が憎悪へと裏返り、また焦りから抑えようとしていた理性ももうどこかへと消え、目の前の和巳に対して猛然と吠える。
「出せよ。ここから早く出せ、この野郎。このままだと七海は死に、未玖もそれによりどうなるかわからない。ずっと一緒にいた奴を見殺しにしてもいいのかよ、お前らはそれに対して何も思わないのかよ。ふざけるなよ、何が家族だ河口家だ、ようやく会えたあの二人をわけのわからない迷信のために殺すだなんて、どうかしている。そんなに儀式をやりたいのなら、お前らがやれよ。誰かを差し出して、自分達はのうのうと生きるだなんて、どう考えてもおかしいじゃないか」
「じゃあ、修治君なら何かできるのかい。君は本当に誰かのため、命を捨てられるのかい。自分が考えたり思ったりすることが正しいと思うなら、どんな相手にもそれを貫き通せるのかい。信じた正義は絶対とでも言うのかい。違うだろう、できないだろう。君に何ができる。僕も君の立場ならそう思ったかもしれない、けれど仮定の話なんてしても仕方無い。僕は僕の仕事をするだけだ。修治君は大人しくしているんだね」
 正論、なのかもしれない。確かに俺の考えは青臭く、自己中心的で理想論を叫び、現実味の無い意見だろうが、それでも俺は間違っていないと信じたい。誰かを殺してでも押し通す道理など、間違っている。もしもそれが俺のまだよく知らない、社会の中でまかり通っている暗黙の了解の一つであるなら、俺はそれに染まりたくない。どこかで妥協することがあっても、誰かを犠牲にして何かを成そうなんて考えを持ちたくない。
 怒りで思考が真っ白になり、全身を駆け巡る血が沸騰したかのように滾り、痺れる。理性はもう塵の様に吹き飛び、考えるより先に猛獣のごとく、小窓から和巳さんを捕まえようと右腕を伸ばすが、あと少し及ばない。
「怒りに任せたところで、どうにもならないんだよ、修治君」
 逆に腕を掴まれ、捻られてしまった。関節が悲鳴を上げ、どうすることもできないまま、痛みに耐えるしかない。もしここで和巳さんがあと少しでも力を込めれば、そのまま折れてしまうだろう。こうなると素直に負けを認めるしかないのかもしれないが、我が身を焦がす怒りがそれでは収まらない。振り上げた拳を何事も無かったかのように下ろせる程、俺に余裕なんて無い。しかし、抵抗したところであっさりと腕を折られ、それっきりだ。一方的に不利なばかりで、今日明日に支障が出るばかりなのだが、それでも……。
 そうこうしていると、そっと和巳さんが顔を近付けてきた。憎たらしい顔がすぐ近くにあるのに、何も出来ない。冷静に考えれば、一発殴ったところでどうなるわけでもないのだが、こんなチャンスが目の前にあると、一度は収まりかけていたものが再燃してくる。
「修治君、まだ終わりじゃないんだよ。その時までじっとしているのも、大事だ。動くばかりが物事を変えるものだと思っちゃ、いけない。下手に動けば、上手くいくものだっていかない場合も多々ある。動けなくてもどかしいんだろうけど、君がこうしている間にも物事は絶え間無く動いているんだよ。何でも俺が、じゃなくて、ここぞと言う時に動ける者が勝負に勝てる人間なのさ」
 そう囁くと和巳さんは俺の手を離した。自由になった手で和巳さんを今なら殴ることもできたけど、もうそんな気力などすっかり失せ、腕を引っ込めると気の抜けた瞳に和巳さんを映す。和巳さんは力強い眼差しを向け、同意を求めるように頷いてみせるが、とてもそれに続くことができず、俺は視線を外して形だけ頷いておく。
「じゃあね」
 小窓が閉められると、足音が遠ざかって行き、やがてまた耳鳴りすら覚える静寂が、周囲を支配し始めた。俺はそこから離れてベッドに腰掛けると、また頭を抱える。じっとしていることも、何かを成すためには大事か。確かにそうだ。ここ最近の俺はとにかく動いていないと落ち着かず、そのために失敗を招く事も多かったかもしれない。今ここにいるのも、俺が栄一さんに殴りかかったからだ。あの時、もしそんなことをしなければ、じっと我慢していれば、大人しく自室に帰されただけで済んだのかもしれない。全て俺の短絡的な行動が招いた事態じゃないか。
 反省する事は多い。そして、どうにもできない現状に対し、いけないと思いつつも諦めの気持ちが心を占める。後悔と無力感にひたすら苛まれ、でも大人しくしていられず、ベッドに拳を振り下ろしたが、それでももどかしさを増すばかりで、更に強く頭を抱えるばかりだった。目が潰れるくらいに瞼を閉じ、爪が食い込み膝と同化するくらいに頭を抱え、声にならない呻きが喉の奥から漏れたところで、それはポーズなのかもしれない。苦悩しているふりを、誰に見られてもいいよう、こうしているのかもしれない。ゆったり大の字になっても、同じ苦悩に苛まれるだろう。じゃあ、これは何だ。いや、こんなことに気を奪われて、実際考えるべきことを考えないでいる。あぁ……。

 どれくらい経ったろうか、それを知る術は俺に無い。運ばれたサンドイッチを頬張り、水を飲んで一息つくと、答えの出ない自問自答をひたすら繰り返しては、浅い睡眠を取っている。時間を潰すには寝るのが最良かもしれないが、それにも限界があり、もう横になっても眠れるどころか妙に頭が冴え渡り、無駄な時間を過ごしている自分に罪悪感を抱いてしまう。目を瞑っても、心配や悩みに苛まれるだけ。
 俺に何かできる機会はこの先、また訪れるのだろうか。
 もしかしたらもう儀式が始まっているのかもしれないし、終わっている可能性すらある。二度寝てから食べたサンドイッチは乾燥してボソボソしていた。それからまた一度寝て、今に至る。夕方か、夜と言ったところだろう。もし七海や未玖が無事で、願っているままの終わりを迎えていればそれでいいのだが、そうでなければ諦めもつかない。最悪の結末にも立ち会えないまま、このまま終わってしまわれたら、今後ずっと暗い影を引きずって生きるのか。断片ですら恐ろしいと言うのに。
 力無くうなだれていると、不意にドアの側に気配を感じた。足音もノックも無く、けれど確かに誰かがそこにいて、俺を見ている。この視線、この気配を俺は知っている。苛立ちつつも導かれ、いつしか親しみすら覚え、縋るようになっていた気配は、愛しさすら感じる。ゆっくりと期待を胸に、微笑みを浮かべつつ顔を上げると、あぁ、思っていた通りの人物だ。
「未玖、だよな」
 未玖は微笑みを浮かべ、頷いた。生身では出入りすることができないであろうここに、一体どうやって入ったのか、いやこれは彼女の能力によるものだ、馬鹿なそんなものはあるはずがないだとか、そんなことはどうでもよく、今はただこうして会えて話が出来る事が何よりも嬉しかった。思わず立ち上がったが、近付きはせずに一定の距離を保ち、俺も微笑み頷く。
「無事なのか」
「えぇ、大丈夫よ。特に何もされていないし、体調も変わりなし。今日は儀式の段取りを確認すると、七海と少し話し、後は自室にいたわ。二階の部屋を使ってと言われたけど、一度そこに入れただけで満足してしまった。だから私は戻ったの、二十年ずっと過ごしてきたあの地下室に」
 満足した、とは一体何のことだろうか。多少気に掛かったが、今は未玖が無事だったことにただただ嬉しく、そうしてすぐに七海の事をより詳しく知りたくなった。あの時、敏雄さんに殴られた七海は、本当に無事なのだろうか。
「七海は、七海はどうなんだ。確か敏雄さんに殴られただろう。あれはどうなったんだ、大丈夫なのか?」
「七海も無事よ。午前中は私と共に儀式の段取りを確認し、それからは自室に閉じこもっているみたい。貴方の心配ばかりしていたわ。それと、敏雄さんからのあれは軽い当て身であって、気絶させただけのもの。もし尾を引くようなことになれば、儀式に支障が出るでしょうし、そうなったら全てがおしまいよ」
「なるほど、確かにそうだな。ところでその肝心の儀式は、あとどれくらいしたら始まるんだ?」
「儀式は今からおよそ十六時間後の、午後七時からよ。私達はその二時間前から、色々と準備をしなければならないけどね。あぁ、もう明日なのね。この二十年は本当に長かったわ。ずっとあの部屋で待ち望んでいた。嬉しいだとかそんなのではなく、ただただ待ち焦がれていたのよ」
 どこかうっとりとしてそう語る未玖の気持ちが、俺にはさっぱり理解出来ない。これが生まれてからずっと死を、いや単に死とかじゃなく、生きる目的を見詰めてきた者の偽らざる気持ちなのだろう。七海や未玖にしてみれば、死すら一つの通過点であり、仕方の無い結末だと思っている節がある。卒業式に伴う別れのようなもの、なのかもしれない。けれど、どこかでその仕方の無さに理解を示せない俺が、身勝手な自分の常識を振り回して拒んでいる。
「生きられそうか?」
 ゆっくりと未玖が首を横に振る。
「わからない。多分こうしてゆっくりとお話できるのは、これで最後かもね。でも、七海は助ける、必ず生かしてみせるわ。例え私がどうなろうと、七海だけは。だから、貴方にまた辛いお願いをするけど、七海を助けてあげて欲しいの」
「だけど、俺は」
「わかっているわ、貴方が今動けないでいることも、出たからと言ってどうする方法も無いことも。けれど、きっとチャンスはある。万に一つの可能性を信じることが、成功への一押しとなるものよ。いいえ、万に一つではなく、私が何としてでも貴方をここから出してみせる。だから、七海を助けてあげて。七海と私は、二人で一人。七海はもう一人の私なの。この肉体では決して成し得ない希望を手にする可能性が、あの子にはあるのよ。だからお願い、七海を助けてあげて。私のためにも……」
 祈るように目を閉じ、手を胸の前で組み、そうして必死に懇願する未玖に、俺はとりあえず頷く他無かった。どんなチャンスがあるのかわからないけど、こうまで言うからには訪れるかどうかに関わらず、その時を見付けるしかない。そしてその時が訪れたならば、悔いの残らないよう動くだけだ。
 けれど、未玖の言葉全てに納得できるわけではない。
「未玖、俺はお前にも生きて欲しいんだ。七海と同じくらい、大切なんだ」
「私は駄目よ、嬉しいけど、駄目なのよ……。元々私は生まれて間も無く死ぬ運命にあったのに、こうして今日まで生きてこられた。人はよく知る方が不幸せか、知らない方が不幸せかと自問するけれども、私からすればこんな一生でもすごく幸せだったと思えるの。七海に対する希望、貴方に会えた事、そしてずっと求めていた太陽にだって、出会うことができた。初めてあの太陽をこの体に浴びられたの。貴方にはわからないでしょうけど、私にとってはこれ以上無いくらいに幸せだったわ。だからもう、私はいいの。私はあの太陽でもって、この二十年の鎖から解放された。だから、これ以上は本当に……未練、残させないでよね」
「知ること知らないことに答えなんか無いだろう。けれど、追い求めるのは悪くない。だからもっと生きて、色々な事を知って、更に幸せを見付けてもいいじゃないか。未玖はこれからだろう。あの太陽が最後じゃない、最初なんだ。これからもっともっと、今よりも遥かに幸せになれるんだ」
「駄目、できないの。儀式が行われる限り、二人共助かることなんてできないのよ。けれど、何とか七海だけなら助けられる。そのために、私はずっと考えてきたの。だから、だから」
 ゆっくりと未玖が瞼を開ける。
「修治君、ありがとう。もし私に生きて欲しいと願ってくれているなら、その分の想いで七海を愛してあげて。私は七海と共に生きるわ、この肉体が無くなろうともね。私は本当に幸せよ。こんなにも大事にされているんだから。でも、もし叶うならば七海の傍にいる時、ほんの少しでいいから私を……ううん、何でもない。七海は七海、あの子にはこれから先があり、何人たりとも邪魔しちゃいけないのよ」
 薄暗くてよく見えないけれど、未玖が泣いているのがはっきりとわかった。それも今までの毅然とした表情ではなく、七海ようにどこか幼さ残る泣き顔。あぁ、そうだ、俺はどこか勘違いしていたんだ。未玖の雰囲気や言動から、彼女は成熟した立派な女性と思っていたけれども、未玖だってまだ二十歳の女性、それもずっと一人暗い所で生きてきたのだから、寂しさなんて言い表せない感情で一杯なのだろう。一人あそこにいながら、こうして陰から人間の生活を見ていたに違いない。決して得られぬぬくもりを遠くから眺め、けれど叶わないだろうから、自分の感情を奥底に閉じ込めていたのだろう。
 しかしそれが外へ飛び出そうとしているから、多分初めてだろうから、こんな。この泣き顔は、あの言い掛けた言葉は、紛れも無く未玖の本心。どうしてこんなことになったのだろう。何故もっと心のままに生きられず、その先すらも途絶えてしまいかねないのだろうか。俺はもっと、知りたいのに。
「未玖」
 そっと近付き手を伸ばすが、まるでホログラフィの様にすり抜けてしまい、触れられない。少しでも何とかしてあげたいけど、撫でてあげる事も、抱き締める事もできない。ただただ涙を流している未玖を見ていることしか出来ず、もどかしさが胸を締め付ける。
「さよなら、修治君。私を、ううん、七海を大事にしてあげてね。約束よ……」
 言い終えるが早いか、未玖の姿がすっと薄れ、そうして何する間も無く消えてしまった。途端、あの夢から覚めたばかりの薄ぼんやりとした感覚に包まれ、つい先程までの出来事がまるで夢の様にすら思える。あれは現実か、虚構か。どちらなのか定かではないけれど、確かなのは俺も泣いているという事だ。
 しっかりと覚えている。泣き顔も、訴えも、仮面も本心も、微笑みを交わした事だって覚えている。確かにいたんだ。非現実だし、証拠も何も無いけれど、未玖はここにいて、俺と話した。そうだ、ここだ。
 修治はもう一歩前に踏み出すと、その場に跪いた。そしてその床を何度も名残惜しそうに撫でた後、また涙を溢れさせ、うずくまる。虚空に面影を求め、地面にぬくもりの欠片を探すよう、泣いた。
 何も先の事なんて考えられず、ひたすらあの泣き顔をどうにもできなかった自分が、ひたすら悔しく、情けなかった。

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