十二.

 眠れぬまま、しかし何も出来ないまま、ただいたずらに時を重ねていた。呆然と抜け殻のようになりながら、ベッドに腰掛け、未玖がいたはずの場所をひたすら見詰める。けれどそこにあるのは、薄汚れた板張りの床に多少の埃があるばかりで、他には何も無い。けれど、そこに見えない答えがあるようで、今はそこしか見られなくて、うつむいたままじっと目を向けていた。
 溜め息一つ、またこの陰鬱な部屋に流れた。これで何度目だろうか、もしかしたら息を十回する内に一回はこうでなかろうか。それも仕方無いのかもしれない、未玖とのああした別れが、今回の事件を如実に表している。本心を垣間見た途端、誰もが死へと向かう。恵子さんは俺に七海と未玖を頼み、殺されてしまった。未玖は俺に七海の幸せを託し、死へと赴く。当の七海も結局まだ本人の意思で生きる道へ踏み出しておらず、迷っている。それも、もう迷う時間すらあまり無く、どうにかしないと死んでしまう。七海までその方へ進んだら、一体俺のしてきたことは何だったと言うのか。国益でもあるだろう河口家の儀式の邪魔をしている俺は、犯罪者のレッテルを貼られてもおかしくない。一人二人の命で皆が平和に暮らせるなら、その道を選ぶのが国家運営だろうし、俺だって全くかかわりが無ければそう思う。でも七海や未玖は無限の選択の中から、自主的にこれを選んだわけじゃなく、生まれる前から決められていた、生贄としての宿命。自分で選んだのならまだしも、涙を流してどうにかしてくれと言ってきているんだ、見殺しになんてできるか。
 けれど、俺に何ができる。力も知恵も無い。勇気の一本槍で虎と戦ったところで、勝てやしない。幾ら考えても、どうにもできないと言う結論にしか辿り着かず、その度に溜め息が出る。そうした暗い気分の中、時間がわからないと言うのもまた苦痛だ。この思考時間は一分か、それとも一時間なのか。随分長くこうしている気がするけれど、実際はどうなのだろう。
 きっともう、儀式当日の昼過ぎくらいかもしれない。未玖と会ってから、和巳さんが二度食事を運んできている。昨日一度きりだったのは、反省させるためだったらしい。今までの食事時間からして、七時と十二時に運んできているはずだ。最後の食事からしばらく時間が経っているだろうから、きっと二時か三時くらいかもしれない。
 それよりずっと考えていたことがある。それはどうして俺が七海や未玖を、こうまで必死になって助けようとしてきたかだ。散々彼女達に生きろと言ってきたが、もし願い通り生きてくれたなら、俺はそれで満足なのだろうか。仮に植物人間の様になったり、また俺と全く関係が無くなり、存在を忘れられるような未来が待っているとしても、それでも俺は願っていられるのだろうか。何か違う、それでは釈然としない。
 また、幸せになって欲しいとも言ったが、それは何だろう。仮に二人の考えが変わり、他人を苦しめてまで幸せになりたいと言い出したら、果たして俺はそれを受け入れられるのだろうか。仮定の話なんて馬鹿げているかもしれないが、ありえないとは言い切れない。人間些細なきっかけで変わるのだから。
 あぁ、こんなことを考えるのは一人でこうしているからなのだろうけど、でも俺の中で何か納得できる答えが欲しい。今まで何となく生きてきて欲しいとか、誰かに頼まれたからで動いてきたけど、それではもう弱くなった。ずっと前からあったのかもしれないが、今一度はっきりとそれを実感にして、抱きたい。
 生きて欲しい、幸せになって欲しい、そう思ってきたけれど、よくよく考えればそれら全て、俺の身勝手な枠にはめていただけだ。俺にとって都合の良い彼女達の未来を押し付け、それを取り込もうとしている。何だ、どうしてこんな都合の良い事を考えるようになったのだろう。最初は折角仲良くなった友達を死なせたくないと、それだけだった。身近な。それもこのどこか孤独な屋敷生活の中で、友人を失いたくなかっただけだが、次第にそれが別の気持ちへと移っていったのだろう。
 いや、それは結果論かもしれない。もしかしたら初めから、そうした気持ちが芽生えていたのかもしれない。あぁ、どっちでもいいか、今の俺の気持ちはもう見えている、その一つしか無いのだから。
 俺は七海が好きだ。そして七海と同じくらい、未玖をも好きになっている。この好きはもしかしたら恋心かもしれないし、そうではないのかもしれない。でも、それでいい。俺が求めていた答えは、これかもしれないんだ。それが恋なのか愛なのか、それとも別の気持ちなのか、それを確かめるため動いている。これでいい、充分だ。
 俺はまだこの二人と知り合ったばかりで、その中でも色々と彼女達の本音に触れてきたけれど、まだよくわからない部分が多い。だから、もっと知りたい。より多くの事を知って、自分の気持ちを確かめたい。まずは二人の笑顔を、無邪気な笑顔を、そしてまだ見た事の無い新しい顔を見たい。俺にとっての目的は、そのもっとであり、知りたいことだ。
 しかし、とそこで我に返り、室内を見渡せば高揚していた気分も消沈し、大きな溜め息がまたこぼれる。そう、幾ら自分を納得させようが、このどうにもできない現実に打ちひしがれてしまう。何をやっても失敗し、結局こうなってしまった。儀式が終わるまでこのままかもしれないし、仮に儀式の場に立ち会えたところで、俺に何ができよう。
 和巳さんと沙弥香さんが何か裏で動いているみたいだけど、果たしてどんな秘策があると言うのか。俺に色々教え、七海をどうにかしてくれと言っていたかと思えば、逃げるのは無理だっただの、こうして閉じ込めてじっとしていろだの、矛盾した行動に見える。これはどう言う意図があるのだろうか。
 不可解な点が多く、実体もよく見えないから、信じてくれと言われたところで、はいそうですねと安易に頷けない。しかし、もうどうにかできるのは、あの二人だけなのかもしれない。悔しいが、もう他力本願しか頼みの綱が無い。俺がもし儀式を前にしても、指を咥えて見ている事しかできないだろう。
 仕方の無いことかもしれない。俺個人の力なんて、所詮こんなものだ。思い上がっていたんだろうな、相手がどうあれ、何か出来てどうにかなると。けれど、落ち着いて自分を見詰めれば、何も無いじゃないか。
 ベッドに寝転がると、頭を抱えるようにして壁の方を向いた。無力、そればかりがこの身を支配する。もう溜め息も涙も出てこない。どうにもできない現状に、とうとう心が諦めと言う名の悪魔に食われてしまった。それまで瀬戸際に追い込まれようが、どうにか持ち堪えてきたが、一度こうして決壊してしまうと抵抗する間も無く流される。
 しかし、どこかでまだ諦めきれない俺も、確かに存在していた。

 静寂を破ったのは、足音だった。どこか威圧的な足音が、早いリズムで近付いてくる。俺はベッドから急いで起き上がり、腰掛けたままドアを見詰める。微かだった足音はもうはっきりと聞こえ、それに比例して鼓動が高まっていく。自ずと全身、特に拳に力が入り、でも落ち着こうと静かに深呼吸を繰り返す。
 足音が止まった。俺は瞬きすらも忘れ、緊張で血液が迷走し、目の前が薄らと白む。しっかりしろ、もうあと少しだ。そう自分を励ましながら、じっとドアから目を離さずにいると、開錠の様な音と共に、ドアノブが回った。
 ドアを開けたのはやはり敏雄さんだった、他に誰もいそうにない。確かにこの人がいれば、他に誰もいらないだろう。敏雄さんは例のごとくどこか俺を睥睨するようにし、立ち入る。この人が来たと言う事は、何かしらの進展があると言う事だろう。もちろん、良い意味ばかりではないのかもしれないが。
「これから儀式が始まりますので、私についてきて下さい」
 これから儀式が始まるのか。しかし、どうも腑に落ちない事がある。
「その前に、一つだけ教えて下さい。何故俺をわざわざ儀式の場へ?」
「栄一様の御命令です。修治様はこの儀式に立ち会う必要がある、と。今まで七海様や未玖様と共にし、我々が一連の行動を見逃していたのも、御二方のためなのです。それは修治様と言う一般の人間と接触させることにより、御二方に世間を強く意識させたのです。修治様を代表とする世間に愛着を抱かせることこそ、この儀式にとって大きな意味を持たせるのです」
「どういうことですか」
 それを受け、敏雄の口の端が僅かに釣り上がる。
「愛着が大きければ大きい程、それを我が身に代えてでも守ろうとするものです。自己満足や欲求のため、大儀を捨てて快楽へ走る事は愚物の行為。河口家が御二方に施した教育とは、その徹底なのです。儀式の時、最も愛着を抱いているであろう修治様を前にして成し遂げてこそ、世俗との分離が真に可能となるのです。未練を抱き、名残があるまま儀式を行えば、『災厄』を封じ切れないのです」
 俺の気持ちばかりか、あの二人の気持ちをも弄んでいたと言うのか。こうなることも全て、栄一さん達の想定内だったのか。驚きよりもずっと強く、怒りが込み上がる。人の気持ちを何だと思っているんだ。俺を引き取ったのは、このためなのか。人殺しの道具のために、引き取ったと言うのか。七海や未玖が、閉じ込めていた本心をようやく引き出せたのに、やっと素顔に出会えるようになってきたのに、酷過ぎる。
 七海や未玖はこのことを知っていたのだろうか。知らなかったと信じていたい。そうでなければ、俺に涙ながら訴えたのは何だったのか、あの笑顔は何だったのか、わからなくなってしまう。嘘だとか演技だなんて思いたくない。例え嘘だとしても、最後まで信じさせてくれ。
「時間がありません、では行きましょう」
 敏雄さんが踵を返したが早いか、足早に数歩前へと進む。掌から血が出そうな程に握り締めた拳を、その後頭部に叩き込もうかと思ったが、やめた。ここで殴っても、どうにもならないどころか、失敗すれば儀式に立ち会えなくなる。これはチャンスだ、最後のチャンスなんだ。一時の感情でその芽を摘んではいけない。爆発しそうな心を奥歯で堪え、送れずについて行く。部屋を出ると、敏雄さんから感じていた、襲い掛かればやられると言った隙の無さが幾分か薄れ、改めて激情に任せて飛び掛らなくてよかったと、情けないながらもそう思えた。
 周囲を確認すれば、同じような部屋が三つあった。ここはそれ専用の地下室なのだろう。他にはこれと言って何も無く、道なりに人二人分の幅の通路が続くばかりだ。仄暗く、どこか陰鬱な匂いのする廊下を歩いていると、程無くして上り階段が現れた。
「足元にお気を付けて」
 振り向く事無く敏雄さんはそう言い、上っていく。俺も遅れないよう、でも足元に幾分か気を払いつつ上ると、階段の終わりにドアが見えた。一体この先はどこに繋がっているのだろうか。徐々にまた膨らみ始める緊張を握り潰し、敏雄さんが開けたドアを少し遅れて通り抜けた。
 ここが屋敷内のどの辺に位置するのか、全くわからなかった。何故ならこんな部屋、この屋敷に来てから、一度も入った事が無いからだ。ここは物置部屋らしく、色々な木箱やダンボール箱、それに用途不明の機械から絵画や壺、刀剣などの骨董品の類まで雑多に置かれている。僅かに埃かぶっているところから、滅多に使われていない部屋なのだろう。部屋は物置にしては広く、けれどやはり歩くにはそうでもないので、すぐに次のドアが現れた。同じように敏雄さんの後に続く。
 ようやく見慣れた景色が目の前に飛び込み、自ずと安堵した。ここは一階、書庫付近の廊下。今出てきたところは書庫の隣にあった、常に鍵がかかっていた部屋だったらしい。なるほど、この屋敷にはやはりこう言った部屋が幾つもあるんだと感心しつつ、ようやく一階に着いた事で、もうすぐ儀式が始まると言う不安と緊張、そして言い知れぬ期待感のようなものが胸に押し寄せてくる。
「着きました。ここからは大人しくしていてもらいますが、特に拘束したりなどは致しません。儀式の前でのそうした行為は、穢れであるとのことなので。まぁ、何かしようと少しでも怪しい素振りをされましたら、修治様とて容赦しませんので御心に留めておいて下さいませ」
 一階ホールは構造こそ同じものの、明らかに見慣れぬ光景が広がっていた。まず玄関から階段へ続いていた赤い絨毯と、階段周囲に敷かれていたグレーの絨毯が取り払われており、代わりに大きな四角の不可思議な図が描かれている。よく見れば東洋的な神々らしき絵が描かれており、未玖の部屋で見たものに似ている。これが儀式用の曼荼羅なのだろう。その周囲には受け皿に乗せられた大きなロウソクが幾本も、ぐるりと柵の様に並べられている。どうやら少し前に火を点けたばかりらしく、さほど溶けておらず、受け皿にロウが溜まっていない。
 儀式儀式と何度も連呼してきたし、本で見たり色々な人から聞かされたりていたので、知っているつもりになっていたが、いざこの光景を見てみると、やはり非日常な異質を感じ、圧倒されてしまう。儀式の手順は一応知っているけれど、この調子だとそのまま雰囲気に飲まれてしまうかもしれない。
 曼荼羅の周囲、玄関から見て左側、俺と敏雄さんの向かいに、和巳さんと沙弥香さんが並んで立っている。さすがに儀式だからか、礼服を着て、凛としていた。そう言えば色々あって気付かなかったが、敏雄さんも立派な礼服を身にまとっている。やはり何十年に一度、それも今回のは千年に一度だかの儀式だからだろうか。
 雰囲気から、言葉を発することがためらわれた。張り詰めたこの空気を不用意な一言で壊すと、それだけで全てが終わるような気すらして、口を開く事などままならない。俺は二人へ視線を向け、その真意の一端を探ろうとするが、何の反応も示さない。目を合わせようともせず、曼荼羅や玄関、そして階段の先などを見ている。その様子にふと怒りが陽炎のように揺らめいたが、すぐに消えた。
「始まる」
 敏雄さんの一言で、場の空気が一層張り詰めた。まるで空気の流れが目に見え、曼荼羅を中心に渦巻いている様な錯覚すら覚える。耳鳴りがし、肺に空気が上手く入って行かないような静寂に、逃げ出したいと一瞬考えたが、動かない体から考えを改め、どうせ動けないのならば今から一時も何をも逃さないようにと、気を引き締めた。
 皆の視線が階段上部へと集められる。俺もそれに倣い見上げれば、神主のような服装を身にまとい、首に様々な勾玉の首飾りを付け、右手に旅の僧などが持っている杖、錫杖とか言うものだったか、とにかくそうした出で立ちで栄一さんが悠然と階段を下りてきた。
 始まるんだ、いよいよ。
 栄一さんが一階に下り立つと、周囲を見回し、曼荼羅の一歩手前に来た。そうして錫杖を高々と掲げたかと思えば、勢い良く地面に突き立てる。衝撃と、僅かに遅れて輪のぶつかり合う音色が荘厳な響きをもって、周囲を支配していく。生唾を飲み込むことすらためらわれる極限状態の中、栄一さんが中空から曼荼羅の中心へ目を向けた。
「懺悔、無始より此の方、貪瞋癡の煩悩と総悪にまつわれて、身と口と意とに作るところの、諸々の罪咎を皆事々く懺悔して奉る」
 再び錫杖を突き立て、音を強める。
「懺悔、懺悔、六根清浄。世に満つる十悪の総意、業の清浄を我等が巫女、その命をもって代行せん。懺悔、懺悔、六根清浄」
 三度目の突き立て。声と音色が重なり、それまでの現実が今この場と乖離していく。
「これから河口の名において、河口大和の血と魂の加護の下、数多の神々を我と我等が巫女に宿し、世にはびこりし悪意と業を集める、禍々しき『災厄』を封じるべく、清浄の儀を始めんとす」
 またも錫杖が鳴る。
「本儀式のための、『災厄』を静めるための巫女である河口七海、河口未玖を今ここに。清められしその御姿、優れしその力を抱く彼女達に、無事と幸福の加護あらんことを」
 錫杖を今一度突き立てたかと思うが早いか、高々と栄一さんはそれを掲げた。心をも震わせる音色と共に、二階の左廊下から未玖、右廊下から七海が凛然と現れた。二人は栄一さんと同じような服装だが、やはり巫女とされているだけあり、更に豪華な出で立ちをしている。上は仄赤いが純白とも言える白い上着、首周りから胸元には赤い前紐が結ばれており、下は緋袴。足袋などは無く、素足である。そして長い髪を後ろでまとめており、それには赤く細い帯が使われている。帯には金の鈴が一つ付けられており、歩く度にどこか優雅な音色が響く。そうして互いの右手には日本刀とはまた違う、真っ直ぐに伸びた美しい刀剣が、左手には何か液体の入った透明な瓶が握られていた。
 その姿に俺はすっかり見とれ、今がどんな時なのか一瞬忘れてしまった。単に見慣れぬ服装をしていたからとか、それが綺麗だとか美しいからではなく、何と言うか、手の届かない高みの舞台にいる人と同じ印象を受けた。女優だとか大臣だとか、そんな有名人を見る感覚ではなく、朝日を見て抱く清々しさにも似た美しさが二人にはある。錫杖と鈴の音が更にそれを際立て、俺はこれから起こるであろう血生臭いはずの生贄の儀式など、何かの嘘の様に思え、ただただ見入っていた。
 左右の廊下からそれぞれ中二階への階段を下り、二人はそこで並んだ。一挙一動何もかもが同じで、ともすればどちらが七海か未玖なのかさえ、わからなくなってくる。彼女達の瞬き一つすら逃さぬよう注視するが、ふと妙な事に気付いた。どこも見ていないのだ。いや、視線は一応曼荼羅の中心を向いているようではあるが、何も見ていない様に思える。それどころか、生気すら感じられない。人形の様でもあるし、もっと言えば存在すら曖昧に感じ、それがまた不思議と惹かれていく原因にもなっているようだ。
 またゆっくりと階段を下り始める。一段下へ行く度に鈴の音が響き、どんどんと儀式の中へ吸い込まれていく。もう和巳さんや沙弥香さん、隣にいる敏雄さんすら意識の外へと追いやられつつある。他の人達はどうなのだろうかと思うけど、それすらすぐに鈴の音でかき消されてしまった。
 階段を下り切った二人は、栄一さんの少し後ろに立った。彼が振り返るなり、三人はゆっくりと礼を交わす。そして足元に錫杖を置くと、各々から開封された瓶を受け取り、彼女達の目を見て、一つ頷いた。
「選ばれし退魔の血族の中で、選りすぐられし巫女よ。その血、魂を神々に奉げ、己が宿命を人々のため、子孫のため、そして自らの救済のため、祈りを力へと昇華させよ。黄泉路は終わりへの道にあらず、生への道なり。加護あらん事を、光あらん事を、そして清浄なる明日が訪れんことを、我等が巫女に託さん」
 朗々と儀式への宣言を屋敷に響かせるなり、手にした瓶から、二人に何か透明な液体を振り掛ける。きっと聖水か何かだろう。瓶はそう大きな物ではないので、全身びしょ濡れとまではいかないが、それでも髪や上着などがそれなりに濡れ、美しさと共にある種の妖艶さも浮かび上がってきた。七海と未玖は微動だにせず、目を閉じながら黙っている。儀式へ向けて、集中力でも高めているのだろうか、それとも何か別の事を考えているのだろうか。
 瓶が空になるとそれをそっと脇に置き、栄一さんは再び錫杖を手に取ると、二人の間を通り抜け、踵を返して曼荼羅の方を向いた。それが合図だったのか、二人は足音も無く前へと進み、曼荼羅の中心まで来ると互いに向き合い、静かに頷く。二人は数歩後退り、一定の距離を作ると手にした刀剣を構え、しばし見詰め合った後、左腕を伸ばし相手に掌を向けた。そうして右手で刀剣を天へと突き上げる。
 ゆっくりと刀剣が下ろされ、そうして刃先が互いの左手掌に触れた途端、少し早く振り下ろされた。良く研ぎ澄まされた刀剣だからか、少し早くなぞっただけなのに、掌から鮮血が滴り落ちて行く。けれど二人は痛みを顔に出さず、そのまま踵を返すと玄関から見て七海が左上、未玖が右下、曼荼羅では外四供養菩薩である燈と香の場所にそれぞれ歩む。この辺の知識は二人の話と、七海から借りた本で得ているだけに、何をしているのか全くわからないわけではない。
「四隅を守りし外四供養菩薩よ、我は万物の代行者であり、我が願いは万物の総意とする。穢れし『災厄』を封じるため、今その力でもって賢却の千佛に渡る救世を行いたまえ。力は壁となり、穢れを封じる。力は衣となり、我らを包む」
 それぞれ外四供養菩薩の前に立つと、その手を刃先にあてがい、血を伝わらせながら何か描き始めた。同時に何かよく聞き取れないけど、呪文のような言葉が二人の口から流れる。全く同じ行動をしているからか、寸分の乱れ無きハーモニーが美しく、これが陰惨な結末をこれから迎えるであろう儀式だと言う事を、強く忘れさせる。そのくらい、彼女達の動きは一流の舞の様で、見る者を魅了して止まない何かがあった。
 燈と香に対する儀式が終わると、踵を返し、中央で相対した。けれど言葉一つ、視線すらも交わす事無く、再び互いの掌を切り合うと、右に折れる。七海が玄関から見て左下の華、未玖が右上の塗へと移り、各々また同じように血で何かを描きながら、鈴と錫杖の音に合わせ、透明な声でもって呪文を唱えていた。
 今まで歩んできた人生、日常、現実などが風に流される砂の様に消えて行く。目の前の儀式こそ、それまでの全てだと、そう強く心に訴えかけてくる。
 華と塗の儀式も終えると二人は同じように中央へ戻り、七海が南の玄関側へ、未玖が北の階段側へと円を描くように動き、掌を切り合うとそれぞれの方角へ向かう。次は四摂菩薩と呼ばれるところだ。南が索で、北が鈴と呼ばれる菩薩の前に立つと、二人は同時に血に塗れた刀剣をかざした。
「東西南北の門となりし場所を守る四摂菩薩よ、我等は救いを求める。我等の御霊に染み付き穢れを祓いたまえ、我等の魂に悟りを与えたまえ。一切衆生を清めんため、我と我等が辿るべき道を示し、その力でもって穢れを閉じ込めたまえ」
 舞が始まる。正しくは血で何かを描いているだけだが、そうとしか形容できない。優雅に、けれど表情を変えず一心不乱に儀式を進める七海と未玖は、鏡合わせのようだ。そうして描き終わると、また踵を返し、中央で向き合う。
 再び右に折れ、七海は東にある鉤、未玖が西にある鎖の前に立ち、儀式を行う。
 俺は『災厄』を今でも信じていないし、迷信にみんな惑わされ、必死になり、そうして人殺しを公然と行っているのを見ている。それに対し持つ肩など無く、仕方無いなどと思わない。けれど、それがおかしいと思うのが俺だけだからか、逆に俺が異端視されている。ただ、この儀式を見ていると、その気持ちが揺らぐ。もしかして、などと少し前なら一笑に付してしまいそうな感情が、確かな力を持って訴えかけている。
 四摂菩薩の儀式が終わると、二人は中央に戻り、互いの目を見詰め合いながら一つ頷いた。そしてまた互いに掌を切り合うと、円を描くように動き、先程の菩薩よりも内側にある四天と呼ばれるものへ向かう。玄関から見て右上にある地天へ七海が、左下にある水天へ未玖が移動する。そうしてまたも、優雅に舞うかのごとく、血文字を記す。時折掌にあてがった刃を目前に引くのは、血を増やすためだろうか。痛いだろうが、やはり顔色一つ変えず、儀式をこなしていく。
 中央に戻ると次に七海が玄関から見て左上の風天、未玖が右下の火天へと向かい、聞き取れても日本語では無い言語で何か言いながら、舞う。存在の曖昧ささえ思わせる二人なのに、何だろう、胸に迫るこの気持ちは。強烈に心を鷲掴みにされているようでもあり、今にも消えてしまいそうな危うさが同居している。これはそうだ、ロウソクの最後を見ているような感覚だ。虚無でありつつ、猛烈な熱気をまとった二人の巫女に、俺の心はもう完全に奪われていた。
 四天に全てを書き終えると、二人は中心へ戻り、最初の立ち位置に落ち着く。そうして互いに数歩後退り、距離を作る。一呼吸置いた後、右手のみで持っていた血塗れの刀剣を両手で持ち、天高く掲げると、大きく目を開いた。同時に今まで感じていた曖昧な存在感と言うものが消え、代わりにより強烈な存在感が熱風の様に迫る。
「四天の御力により、四門に閂与えん。四は止となり、我が血で縛りたり。我が血は太古より受け継がれし退魔の血、悪しき物を清め、地の底まで消し去らん。退魔の血で作りし閂は、長し結界にならん。我が身、神々へ奉げてこの結界を永久のものにす」
 声高にそう宣言するなり、互いに刃先を相手に向ける。そうしてゆっくりと胸元へ運び、上着を留めている紐を素早く両断した。そのまま腰元のも切り、刃先は地面すれすれで止まる。一呼吸後、はらりと上着が左右に別れ、緋袴も地面へと落ちた。
 二人共、下着をつけていなかった。露な裸体に薄く桃白がかった上着が羽織られているだけで、他には何も無い。以前から時折見てみたいと思っていた裸が、すぐそこにある。けれど、エロティックな欲望は生まれず、どこか神々しい美術品を見ているかのようだ。いや、彼女達はれっきとした人間だと、その体を見れば一目瞭然。切った拍子からか、胸元に一筋の切り傷があり、そこから緩やかに血が流れている。さほど傷が深くないようだが、痛々しい。
 緋袴を曼荼羅の外へ放り投げると、二人は玄関から見て左の仏、西にある阿弥陀如来の前へ揃って行き、血で何か描き始める。
「アミターユスに願う。その五却から成る悟りをもって、災厄を封ずる術を我に与えたまえ。四十八の誓願、今こそ現世において目覚めん。唯生滅悪、本願成就せんことを」
 先程よりも遥かに素晴らしい一差しの舞を贈るかのごとく、そこで血文字を描き終えると、次は玄関正面の仏、南にある宝生如来の前に立つ。そうして再び掌を切り、血を絞り出しながら儀式を行う。
「ラトナサムバヴァに願う。その万法能性を司る御力により、総ての衆生に平等性智を与えたまえ。如意珠を降らせ、衆生円満の基を築くために、災厄を消す力を我に与えよ。唯生滅悪、本願成就せんことを」
 同じように舞うかのごとく、血文字を描く。痛みからか、それとも想像以上の疲労からか、二人の顔が僅かに強張ってきている。だが、それがまた一層輝きを増し、儀式を高みへと運んでいる事は、紛れも無い事実であった。二人は次に玄関から見て右の仏、東にある阿閃如来の所で妖艶な、けれど凛とした感じで儀式を行う。
「アクショーブヤに願う。不瞋恚、無怒、不動業と呼ばれしその御力から、世にはびこる災厄を映し出す大円鏡智にて晒したまえ。その智慧、今ここに全て引き出さん。唯生滅悪、本願成就せんことを」
 如来への儀式において、三度目の錫杖の音が響き渡る。一箇所終わる度に栄一さんが強く突き立て、それを合図に二人は次の場所へと移る。羽織っている上着も、手にしている刀剣も血に染まり、けれど予めそうであったかの様に、どこか予定調和な美しさがある。白い裸体に赤のアクセントを加えた巫女達は、玄関から見て上の仏、北にある不空成就如来の所で天を仰ぎ、刀剣に血を走らせた。
「アモーガシッディに願う。実ありて空無し、偽り無くて意を従え、これ全て成所作智に昇華せん。一切の一切の煩悩を滅するため、成所作智に至るため、その御力を我に与えたまえ。唯生滅悪、本願成就せんことを」
 東西南北の如来、これで全て血を刻むこととなる。流れる水の様に二人は儀式を執り行い、そうして終末へとひた走って行く。あぁ、本の通りならば、以前未玖から聞いた通りになるならば、もう間も無く儀式は終わりを迎える。儀式の終わりは、即ち二人の死を意味する。いや、未玖はどうなるかわからないが、間違い無く七海が死ぬ。逃れようとしても叶いそうに無かった現実が、正に訪れようとしている。
 黙ってこのまま見ていていいのか、ここで終わらせていいのか。ふと我に返るなり、怒涛のごとく忘れかけていた疑問が溢れる。視線を二人から外して周囲を見てみれば、皆が儀式に見入っているようだ。あれだけ言っていた和巳さんや沙弥香さんも、熱心に視線を注いでおり、他の何かを見てはいないようだ。何もしないのか、何もできないのか。
 このまま終わってしまうのだろうか。このまま目の前で七海があの刀剣に貫かれ、生贄として終わってしまうのだろうか。そんなの嫌だ、目の前で死なれるだなんて、絶対に嫌だ。それを阻止するため、この二週間何とかしようとしてきたんだ。まだ終わりじゃない、諦めてはいけない。無駄かもしれないけど、このまま何もしないよりは、ずっとマシだろう。
 気付かれないよう、荒くなりがちな呼吸を抑え、もう一度視線を各々に配る。隣の敏雄さんは色々な所へ目を配っており、抜け目無く気を張っているみたいだが、主に七海と未玖に注目しているようだ。その瞳に視線をあまりぶつけると、一気に俺へのマークが強くなりそうなので、僅かに確認するとすぐに他へと移る。
 和巳さんは儀式を見つつも、どこかそわそわしている。この儀式による興奮だとか、そう言うものではなさそうだ。頻りに視線をさまよわせ、そうして主に沙弥香さんへ目を向けている。沙弥香さんがそれを感じる度、どこか諌めるような眼差しで一蹴していた。
 当の沙弥香さんはそうして和巳さんを抑えつつ、何かを狙っているかのように、微笑みの中にも鵜の目鷹の目で周囲を見ている。そう思うのは、和巳さんと沙弥香さんの裏の一端を、垣間見ているからだろうか。もしかしたら、何かをして欲しいと願っているから、期待してそう見えているだけかもしれない。ともかく何気無い仕草一つが、この場面において重大な意味をもって見えてくるのは、紛れも無い事実である。
 栄一さんは如来に対して四度目の錫杖の音を響かせると、それをそっと床へ置き、複雑に指を組んだ。印と言うものだろうか。何やら先程七海と未玖が言っていたような、日本語では無い呪文のようなものを唱え、その手の形を様々に変えている。そしてそれを受け、七海と未玖は揃って中央の大日如来の上に立った。だらりと刀剣を下げ、共に天を仰いでいる。最期の覚悟を決めてでもいるのだろうか。
 もう一度俺は敏雄さんに目を戻す。以前から思っていることだが、この人さえどうにかできれば、何とでもなるだろう。和巳さんや沙弥香さんが止めに入るとは思えないし、栄一さんだって儀式を中断してまで、どうこうしないだろう。そうだ、もう時間が無い。ここで動かないと後悔する。二人を見殺しにして生きていたところで、もう既に平穏な人生は戻らないんだ。
 俺はそっと右拳に力を込めると、一気に敏雄さんの顎目掛け、振り上げた。体勢はさほど良くなかったが、当たれば顎だ、かなりのダメージが見込める。しかし、その期待は拳と共に外れ、空を切った。
「ぐぅ」
 けれど、僅かに拳が鼻先に当たったらしく、俺の拳をかわそうと体を後ろに反らした敏雄さんが鼻を押さえ、前かがみになる。不意をついたからだろうか、さしものの敏雄さんも驚いた様子だ。ここしか無い、このチャンスを逃せば全てが終わってしまう。そう強烈な切迫を感じ、止まる事無く殴りかかる。右左と顔に続けて二発、それなりの手応えで拳を浴びせる事が出来た。いけるか。そう思いざまに三発目を打ち込んだが早いか、世界がぐるりと回った。
 何事かと思う間も無く、したたかに背中から地面に叩きつけられた。受け身を取る間も無くやられたため、あまりの衝撃に目の前が一瞬暗くなり、息が止まる。数瞬遅れて痛みが走り、すぐに立つことなどままならず、その場で悶絶しながら酸素を求めた。
「無駄だと忠告したじゃありませんか。全く、わからない御方だ。何人たりとも、儀式を邪魔する者には制裁が下るのですよ」
 立ち上がろうとしたけれども、敏雄さんがボールでも蹴るかのように、俺の腹を蹴飛ばす。曼荼羅とは反対側へと転がり、僅かな吐き気と強烈な痛み、そうしてまた息が詰まり、だらしなく口を開けて腹を押さえ、転げ回る。
 立ち上がれずにいると、ゆっくりと敏雄さんが近付き、そうして懐から銀色の拳銃を取り出した。安全装置を外し、鈍色の銃口をこちらへ向ける。小さな、けれどぽっかりと開いた銃口は死神の瞳の様で、圧倒的な絶望を感じさせられた。
 これで終わりなのか。俺は充分にやれることをやったのだろうか。悔いは無いか。恐怖よりもそうした疑問がとめど無く浮かび、俺はじっと銃口を見詰める。もう、こうなれば足掻いたところでどうにもならない。静かな諦めが身も心も支配し、けれどやっぱり怖くて、俺は目を閉じうつむいた。
 銃声が轟いた。俺は更に目を強く閉じ、覚悟を決める。けれど、特に痛みも衝撃も無い。もう死んだのか、それとも威嚇射撃だろうか。ともかく撃たれた感じはせず、別状が無いかもしれないと思うと、俺は恐る恐る目を開けて状況を確認しようとした。
 刹那、すぐ頭上でまた数発の銃声が響く。びくりと体を震わせ、俺はまた目を閉じ、体を強張らせた。また痛くも無ければ、衝撃も無い。俺はどうなったのだろう。できればこのまま終わるまで目を瞑っていたかったが、そうもいかない。俺は最後までこれを見届ける義務があるんだ。恐怖を無理矢理押し退け、重い瞼を少しずつ開き、とりあえず傍にいるだろう敏雄さんを見てみる。
 何が起こったのか、理解出来なかった。俺に銃口を向けていた敏雄さんが右肩から血を流し、うずくまっている。けれど、銃声は数発起こっていた。見たところ、敏雄さんは一発だけのようだ。では一体誰が、どこにその数発を受けたのか。
 そっと視界を広げれば、栄一さんが体を丸めて倒れていた。何故栄一さんが倒れているのだろう。余計に訳がわからなくなり、整理することもままならない。疑問ばかりが浮かんでは反芻される。どうしたのだろう、どうすればいいのだろうか。そうした混乱の中でふと七海と未玖が気になり、感情の爆発と同時に彼女達へと目を向けた。
 七海は怯え、困惑している様子だった。おそらく俺と同じで、何が起こったのか把握し切れていないのだろう、青褪めた顔で色々な所を見ている。逆に未玖は例のごとく平然としていた。これも予測の範疇内なのか、特に驚いた素振りも無くじっとしている。となると、残るは二人。俺は瞬きすら忘れ、その先にいる沙弥香さんと和巳さんに目を向けた。
 沙弥香さんも栄一さんや敏雄さん同様、倒れていた。そしてその傍で、和巳さんが青い顔をして彼女を見詰めている。和巳さんは特に外傷など無さそうで、この異様な状況下の中、無関係な人間が一人迷い込んだかの様に映った。あぁ、わけがわからない。どうして三人が倒れているのだろう。何があったんだ。晴れない疑問の霧の中で目を凝らせば、沙弥香さんの手にも銀色の銃が握られているのを、確認できた。
「き、貴様、よくも儀式を、栄一様を」
 沙弥香さんは倒れたまま顔を上げ、にやりと笑う。全てが上手くいったかの様な、達成感溢れた顔で敏雄さんを見ている。
「待っていたわ、この時を。河口家に潰され、社会的に殺された父さんと、母さん。両親の死と、私がここへ引き取られた理由を知ったのは、最近のことじゃない。十年、そう、十年以上も昔から、この家に対して復讐を考えていたわ。見破られないよう性格も作り、演じ続けていた。全てはこの儀式を知った時、この瞬間を思い描き始めた時から」
 次第に息を荒げ、口から血を吐く沙弥香さんはそれでも満足そうに、そして心の底から愉快そうに笑い続けている。
「これだと思ったわ。儀式の時、必ず隙ができる、そして何もかもが果たせると。そうよ、全て思い通り。そして、これで私のやるべきことが完成するの」
 腹部を押さえていた沙弥香さんの左手が胸元へと動く。敏雄さんが何か気付き、発砲しようとしたが、傷のせいかすぐに狙いを定められず、もう一度沙弥香さんに微笑みを浮かべさせた。
「終わりよ」
 その言葉の終わりは爆発音にかき消された。凄まじい轟音と共に屋敷が震え、ただ事では済まないだろうと言う確信を抱かせるのに、それは充分だった。続いて二つ三つと爆発音が響くと、調理場の方から猛然と火炎が踊り出てきた。
「貴様、何をした」
「調理場と他に数箇所、爆発するように仕掛けておいたのよ。この屋敷はもう終わりよ、すぐここにも火が回るわ。儀式も、河口家も、それに付随する何もかも、私の恨みすらも全て焼け消えるのよ」
 ガスにでも引火したのか、爆発音が間断無く起こり、より火勢が強まる。火は二階へも突き抜けており、ふと見上げれば煙や火の手先が少しずつここへも伸びてきていた。火はもう蛇の舌先程度ではなく、それ自体が暴れ狂う赤い大蛇の様で、もう止める術は無いだろう。
「おのれ、許さぬ。死をもってしても、まだ足りんわ」
 顔を真っ赤にし、鬼の形相で敏雄さんは立ち上がる。銃を左手に持ち替え、右肩をだらりと下げつつ、倒れ臥している沙弥香さんの頭へ銃口を向けた。それでも沙弥香さんからは、一片の怯えも感じられない。全てをやり遂げたと思っているからだろうか。
「待った、父さん」
 これまでに無い強い口調で、和巳が敏雄に呼び掛ける。けれど敏雄の顔も銃口も、沙弥香を狙ったままだ。
「待ってくれよ」
「何を待つと言うのだ。貴様も邪魔立てする気ならば、殺すぞ」
「違う、逆だよ。俺にやらせてくれよ」
「お前が、だと?」
 ようやく敏雄が和巳を睥睨したものの、和巳の眼にただならぬものを感じたのか、多少の訝しみを抱いた瞳で返す。こうしている間にも火勢は増し、一刻の猶予も無いのだが、まるで時間が止まったかのように、親子で見詰め合っている。和巳は視線を外さずに胸元からトカレフを取り出すと、沙弥香に銃口を向ける。
「銃の腕は父さんの方がずっと上だけど、怪我をしている上に、利き手じゃない。だったら俺にやらせてくれよ。この至近距離じゃ外さないし、何より腕がぶれて巫女をもしかしたら撃ってしまうかもしれないだろう。万が一の失敗も許されない儀式は、まだ終わっていない。そうだろう」
「ふん、貴様も何だかんだ言って、大滝家の自覚はあったようだな」
 和巳と敏雄が同じ笑みを交わす。
「そう、俺も河口家を代々守ってきた大滝家の人間。生まれながらにして矛であり、盾であることを義務付けられ、河口家に仇なす者にはそれ相応の」
 突然、銃口を沙弥香から敏雄へと移した。
「なんて古いんだよ」
 敏雄もそれに反応するが、一瞬早く和巳から銃弾が発射され、敏雄が引き金を引くより早く撃ち込まれる。三発、四発と続けて撃つ度に、敏雄の体が衝撃で揺れ、まるで滑稽なダンスを踊っているかの様だ。そうして五発目の弾丸が敏雄に突き刺さると、和巳は一つ微笑む。勝利の確信、血塗れの敏雄が前のめりに倒れる姿を確認するなり、和巳が沙弥香へと視線を移した。
「だから貴様は、甘いのだ。そうして、貴様も……」
 倒れる間際、断末魔とも言える三発の銃弾が和巳と修治を貫いた。それを見届けるなり、敏雄は鬼の形相のまま事切れた。幸い修治は右足を撃たれただけで命に別状は無さそうだが、和巳の方は右胸と腹部に突き刺さったらしく、青い顔のまま呆然と笑い、膝から崩れる。
 衝撃が今なお足に残っており、熱さと痛みが暴れ狂っている。声も出ない痛みだが、喉の奥からかすれた息が漏れる。患部を押さえながら視線を全体へと向けるが、それでも目の前で起こったことが信じられなかった。我に返った時には自分も撃たれ、四人が目の前で倒れているんだ、それも血塗れで。荒れ狂う炎、渦巻く煙、焼け焦げる匂い、そして流れる血。どれもが死を間近に感じさせ、そうして実際に死人がいる。俺は正気なのか、それとももう何も考えられなくなっているのだろうか。
 それでも俺は左足を軸に何とか立ち上がり、七海と未玖へ目を移す。七海はこちらを見ているが、半ば恐怖とパニックに陥っており、瞳が揺れている。未玖は相変わらず表情を変えず、じっと立ち尽くしつつ、周囲を見渡していた。どうすればいいのかよくわからなくて、とりあえず俺は和巳さんへ視線を移すと、それに気付いたのか和巳さんが視線を合わせてきた。喜びと絶望の混じったその瞳は、俺を呼んでいるような気がして、足の痛みを堪えつつ、慌てて駆け寄る。
「大丈夫ですか」
 倒れそうになった和巳さんを支える。息が荒く、力も入らないみたいだ。それでも和巳さんはいつも見せてくれた笑みを、俺に向けてくる。
「これが、僕の仕事だ。ようやく、自由になれたよ。君はまだ、あの二人を助けなければならないけど」
 咳き込んだ拍子に和巳さんが吐血した。どうやら肺と胃をやられているみたいで、素人目からも長くなさそうだ。嫌だ、死なれるのはもう嫌だ。親しい人が死ぬなんて事実を、そう何度も味わいたくない。けれど、和巳さんの体から力が抜けていくのがはっきりと伝わり、俺は自分の痛みも厭わず、より強く支える。喀血が一段落すると和巳さんは手の甲で口元を拭い、また微笑みかけてくれた。
「その前に、悪いけど、沙弥香さんのところまで、連れて行ってくれないか。すぐそこなんだけど、もう歩けそうになくてさ。悪いけど、頼むよ」
「わかりました。わかりましたから、もう」
 本当はこうして支えているだけでも、精一杯だった。けれど溢れそうな涙を堪え、俺は和巳さんの腋に頭を入れると、二歩三歩と引きずるようにして歩き出す。右足に少しでも体重がかかる度、全身の毛穴から血が出そうな程の痛みが走る。痛みに呻く和巳さんに何もできないのが、辛い。引き裂かれそうな数歩の先、血溜まりを作って息も絶え絶えな沙弥香さんのところへ、ようやく和巳さんを運ぶと、和巳さんは自分からその傍にゆっくりと倒れ込んだ。
「沙弥香さん、終わったよ。何もかも、終わったんだ。これでようやく、一緒になれるんだね」
 和巳の笑顔に、沙弥香が固く目を閉じる。
「前に話したよね。全部終わったら、二人共自由になれるから、どこか遠くに移って、今まで溜めた金で家を建てて、静かに暮らそうってさ。言わなかったけど、結婚とかも考えていたんだよね、俺。どこか小さなところでいいから、普通に働いて、沙弥香さんと、二人の間に出来た子供とで、暮らす。俺、ずっと夢だったんだ。今、やっとその一歩を、踏み出せるよ」
 和巳は喀血を繰り返すが、決して沙弥香にだけは浴びせまいと、手で受け止める。そうした中、沙弥香が瞼をゆっくりと開けた。涙、止まる事を知らない涙が頬を伝い、流れている。
「バカね。私は貴方を、復讐のため、利用していただけよ。語り合った愛は、偽り。全ては貴方から、情報を聞き出し、貴方を都合の良い、駒にするため。愛なんか無いわ、初めから無かったのよ。軽蔑されて、憎まれるべき女よ、私は」
 そんな沙弥香に、和巳がそっと手を伸ばし、頭を撫でた。
「知っていたよ。幾ら俺だって、そこまで鈍くないよ。この計画を、初めて持ち掛けられた時から、気付いていた」
「何で……どうして、そんな」
「それでも、好きだったから、だよ。こんな駄目な俺でも、沙弥香のために、何かできた。虚構だと知りつつ、その愛を求める日々が、本当に楽しかった。言っただろう、俺も大滝家の人間だって。でも俺は河口家ではなく、溝口沙弥香、君一人のために矛でも盾にも、なれたんだ。あぁ、盾にはなれなかったな。ごめんよ、嘘吐きで」
 涙を拭いもせず、沙弥香は自分の頭を撫でている和巳の手を、両手で優しく包んだ。
「あぁ、これだ、このぬくもりだ。この一瞬のため、そして沙弥香のため、何か出来た。それで俺は、もう充分なんだよ。嬉しいよ、役に立てた上、自分も幸せになれたんだから。この幸せ、もっと感じていたいな」
「バカ……本当のバカよ、貴方は。でも、悪くないわね、こういうのも」
 沙弥香は涙を拭う。何度も何度も、もう涙が流れていなくても、拭い続ける。
「あれ、おかしいわね、ぼやけてよく見えないわ。こんな、こんなお人好し、見たこと無いから、ちゃんと見ようと、そう思っているのに、ぼんやりとしか見えない。涙なんか、もう流れていないのに、変ね」
 何度も目を擦る沙弥香の手を掴むと、和巳は唇を重ね、抱き寄せた。それに驚く力が無いのか、それとも受け入れたのか、沙弥香は抵抗する素振りを見せない。
「見えなくても、わかる。暖かい。一人でこのまま目を閉じるの、少し怖かったけれど、今なら大丈夫。安心、できる。ありがとう」
 そっと沙弥香も和巳の背に手を回す。
「そうね、貴方の夢、悪くないわ、ね……」
 炎が各部屋のドアを破り、屋敷全体を包む。二階から燃えた破片が落ち、再び爆発音とともに全てが震え、火の粉が舞う。どこか遠くで大きく崩れる音が、終焉を告げているかのようだ。じっとしていても、もう肌が焼けそうな程に熱く、ここに留まるのは危険だとはっきりわかる。
「逃げるんだ、修治君。もう全て、終わったから」
 鼻や口から血を流しつつも、どこか満足そうに忠告する和巳さんの瞼はもう重そうで、今にも閉じてしまいそうだった。けれど、まだ生きている。置いて逃げる事なんてできるわけがなく、俺は和巳さんに顔を寄せた。
「じゃあ、一緒に逃げましょう。ほら、捕まって下さい」
 手を差し出しても、和巳さんはぴくりとも動かず、もう息をしていないであろう沙弥香さんを愛しそうに抱き締めながら、悲しげな太陽みたいに笑う。
「僕は、もう駄目だよ。ヤバイところに、いっちゃってるからね。動けないし、動きたくもないんだ。早く、逃げてくれ。折角ここまでやったんだ、後は君達に、助かって欲しいんだよ」
「だけど」
「修治君、お願いだ、このままにさせてくれ。ようやく一緒に、なれたんだぜ。何年も前から、ずっとこうしたかったんだ。頼むよ、な」
「和巳さん」
 俺は手を引っ込めた、そうするしかなかった。それでもまだ和巳さんの傍から離れられず、時間が無いとわかっていても、最期まで一緒にいたかった。今までの思い出が去来し、そのどれもが印象深く、まるでここから離れてしまうとそれらが消えそうで、怖い。もう誰も失いたくないと思っているのに、どうしてこうなってしまうのだろう。
「早く、早く逃げて。七海さんと、未玖さんを連れて、ここから逃げるんだ。二人を幸せにできるのは、君だ。修治君だけ、なんだよ。ほら、早く。それともこれ以上、僕と沙弥香さんの時間を邪魔する程、君は野暮なの、かい……」
 そのまま和巳さんは目を閉じ、もう何も語ろうとはしなかった。
 すっかり俺は現実感を喪失していた。いや、この儀式を知った時から非現実だとは思っていたし、それからのことも河口家に来る前の日常とはかけ離れていたけれど、この一時間にも満たない出来事は特に突き抜けている。銃撃戦、儀式の中断、今なお燃える屋敷、そして目の当たりにする死の瞬間、絶命。流れる血に実感が湧かず、ただ景色の一部、絵の様にしか見えなくなっている。
 この一ヶ月の間、色々な人が死んだ。無論、それ以前からも人の死には何らかの形で触れてきたけれど、目の前で死なれたことは無い。だから、いざこうしてそれが起こると、想像していたのとはまた違った心持に、自分自身驚いている。もっとこう、気絶する程の驚きや、廃人になる様な狂乱、漏らすかもしれない恐怖などを考えていたものだった。
 けれどどうだ、いざこうして対面しても、それらは一向に迫ってこない。それどころか思いの他、冷静でいられる。俺はおかしくなってしまったのだろうか。こんな状況下で、もう動かない和巳さんと沙弥香さんをさして何事も無く見ていられる俺は、おかしくなってしまったんじゃなかろうか。慣れか麻痺か恐怖に震えたり、気を失ったりしそうにも無い。突き抜ける悲しみすらも無い。ただあるがままに事実を事実として映し、そこに感情が入る余地など無いと言った方が、適切だろうか。
 ともかく、いつまでもこうしていられない。和巳さんが言った通り、七海と未玖を助ける事に移らねば。もたもたしていると、逃げられずに焼け死ぬことだって、大いにありえる。振り返るな、前を向け。感傷に浸るにはずっと後でいい。そう言い聞かせたが、踵を返してもう動かない二人に背を向けると、泣き出してしまいそうなくらい胸が締め付けられ、折れそうな心を必死で堪えなければならなかった。
 火勢は益々盛んになり、書庫の方はもう大分崩れてきている。曼荼羅があるホールにも、かなり大き目の破片が火をまとって落ちてきており、危険極まりない。熱風が渦巻き、煙がもうもうと立ち込め、黙って立っているだけで命の危機であると言っても、過言ではなくなってきている。どこかでまた、大きな崩落の音がした。
 そんな中、曼荼羅の中心で七海と未玖は向き合っていた。二人共だらりと刀剣を下げ、呆然とした面持ちで黙っている。切り裂かれた胸の傷からもう血は流れておらず、赤い線が一筋走っているだけだ。けれど今はそれが、とても些細な事の様に思える。
 俺は右足を引きずりながら曼荼羅に近付いた。本当は二人を無理にでも掴んで、すぐにでも逃げ出したいのだが、できない。足の痛みが酷くて引っ張り出せないと言うのも当然あるが、それよりも、どうしてかその中に入れないでいる。そこに物理的な壁があるわけじゃないのだが、何だか目の前が断崖絶壁かの様な錯覚を感じ、踏み入る事ができない。あの意味不明な儀式に、何かそうした効果でもあったのだろうか。
 信じる信じないなど、今は考えている暇も無い。行けないならば、ここからどうにかするまでだ。七海と未玖をここから説得して、引っ張り出してやる。生きるんだ、三人で何とか生き延びて、呪われた宿命に打ち勝ってやるんだ。
「おい、もう逃げるぞ。早くこっちに来るんだ」
 轟音に負け時と大声で叫ぶが、二人に反応は無い。聞こえていないはずは無い、きっと茫然自失で心に届いていないだけだ。
「七海、未玖、こっちに来い。もうここは危ないから、逃げるぞ。だから、早く」
 より大きな声で叫んでみても、二人は黙って向き合っており、こちらを見ようとしない。どうしたと言うんだ、このままここにいれば死ぬと言うのに、怖くないのか。もうここに留まる義務なんて、あるとは思えないのに。
「何やってるんだよ、もう儀式なんてどうでもいいだろ。お前等はもう自由なんだ、死ぬ必要なんて無いんだ、終わったんだよ。七海、死にたくないんだろう。未玖、どこかでまだ未練があるんだろう。それらから、もう解放されるべきなんだよ。だから二人共、逃げるぞ。そこにいて、何になる」
 ゆっくりと七海がこちらを見たが、それも僅かで、曼荼羅をしばらく見渡してから、また未玖へと視線を戻す。七海自身、どうして良いのかわからず、こっちへ来る事に踏ん切りがつかないみたいだ。視線を頻りにさまよわせ、何か答えを求めようとしている。
 そんな七海に未玖は何も話し掛けようともせず、ただ黙って微笑みかけている。答えは自分で見付けろと言うことなのか。けれど、七海はどうして良いかわからず、まごついてばかり。そう言えば七海から何か言い出し、重大な用件を決めるなんて事あったろうか。もしかしたら生まれた時から何もかも決められてきたため、決断することができないのではないか。
「七海、未玖、もうお前らを縛るものは何も無いんだ。だから、早く来るんだ。未玖、七海を生かしたいと言っただろう。だったら、引っ張ってでも七海をこっちに連れて来るんだ。早く」
 けれど、二人はまだ動かない。何を迷っている、何故動かない。もう一分一秒の猶予も無いのに。もうすぐ側にまで火が回ってきている。きっとこの曼荼羅周辺は儀式の場だから、火が回りにくく造られているだろうけど、この火勢だ、それも焼け石に水だろうし、仮に燃えないとしてもじっとしていれば蒸し焼きになるだろう。どの道、ここに残れば死ぬんだ。
「何でじっとしているんだ。もう儀式なんて、みんななんてどうでもいいだろう。『災厄』なんて幻想だ、それを封じて幸せな世の中になるなんて保証、どこにも無いだろう。それに、みんなこのことを知らないんだ。お前等が儀式をしても、幸せになったかどうかなんて、みんな気付かないんだよ。当たり前の様に、同じ日常を繰り返すだけだ。儀式なんて、自己満足のために死ぬなんて、馬鹿もいいところだ」
 心から振り絞り、ありったけの声量で訴えかける。届いてくれと、今はそれだけを願う。息苦しく、吸い込む空気で肺が焼けそうだけど、ここで二人を残して逃げられない。恵子さんや和巳さんとの約束はもちろん、あの二人とも約束したんだ。
「死ぬ気かよ、そんなところにいつまでもいて。迷っている暇なんて無いし、迷う必要も無い。その『災厄』とやらが実在するかどうかもわからないのに、もう儀式を強要する奴もいないのに、確かにある命を捨てる必要は無いんだ。ここから出よう、とりあえず出て、生きるんだ。生きていたら何とかなる、その胸のつかえだって、別の糸口から解決できるかもしれない。早く来い、来るんだ、さぁ」
 七海は何度も俺と未玖、そして曼荼羅を不安げに見ている。泣き出しそうな瞳は今、何を映しているのだろうか。それが未来だといいのだが。未玖は七海が決断を下すまで動かないようだから、七海の行動で全てが決まる。その重責が辛いのか、やがて七海はうつむき、小刻みに震え出した。
「修治君、私」
 七海が俺の方へ一歩踏み出す。
「待て、七海、未玖」
 不意の声に、三人が固まる。
「儀式を途中で終わらせては、ならぬ」
 手を突き、紙の様に白い顔をした栄一が起き上がる。腹から流れ続けている血が白装束を朱に染め、また彼から生気をほとんど感じられず、もう誰が見ても同じ結末を想像するに違いない。それでも歯を食い縛り、よろめきながらも立ち上がる。
「七海、未玖、お前達は逃れられぬのだ。自らの血の宿命には、抗えども、切り離せないものなのだ。向き合えども、逃げようとも、決して変えられない河口の血こそ、我らを縛る運命なのだ」
 そこまで言うなり、栄一は血を吐き、崩れ落ちた。膝をつき、むせながら喀血を繰り返す。それでもまだ何か伝えようと、口に残る血を絞り吐き、必死に呼吸を整える。
「父さん、もう喋らないで」
「聞くんだ。私には、もう時間が無い」
 駆け寄ろうとした七海を、栄一が手で制した。
「お前達の力は、この時のためにあるもの。一般社会では、決して受け入れられぬ。知られば忌み嫌われ、生きられぬ力。そうした重圧は、想像以上に辛いものだ。私もそうした人生を送ってきたから、よくわかる。七海も隠しながら生きるのは、辛かろう。未玖もこれから表の世界で生きるには、厳しかろう。逃れられぬ宿命なのだ。生き延びたところで辛く、苦しく、幸せにはなれぬ。後悔に苛まれるばかりだ。ならば、今ここで儀式を完遂し、幸福の中で死ぬのだ」
「生きられないだとか、忌み嫌われるだなんて、今わかることじゃないだろう。何でもかんでも悲観ばかりして、そうして何になる。七海は生きたいと俺に言った、未玖だってまだ未練があると俺にこぼした。一つの決まった物事だけを見詰め、そうして何もかも最後まで決められていると、思い込み過ぎなんだよ。知った風な顔をして諦め、何でも無さそうにしているのは汚い。それを周囲に常識だと言わんばかりに押し付けるのは、卑劣だ」
 許せなかった。俺が子供の発想を振り回しているのかもしれないけど、そうした高みからの決め付けや諦めが、どうしようもなく腐った考えに思え、例えその通りだろうが認めるなんてこと、できなかった。どこかで妥協しないと世間と折り合いが付かないし、そうした経験を伝えるのも大事だろうが、こう頭ごなしに言う事は可能性を奪うだけだ。
「君は、この河口家を知らないから、そう言えるのだ。君が想像するよりも、強く深い業に、我々は捕らわれている。我らは退魔の一族、歴史の陰で必要とされてきた。言い換えれば、表社会では生きられなかったのだ。人々は、突出した力を容易に認められない。役割、そうだ、誰もがそれを背負っている。七海、未玖、お前達の役割は儀式の完遂……続けよ」
 七海はもう動けないみたいだった。こちらへ踏み出しかけていた足はすっかり止まっており、それどころか一歩後退しており、再び元の位置に戻ってしまった。どうしてそこで戻るんだ、そこまで自分の生まれに捕らわれているのか。考えているよりも、ずっと根の深いこの問題だが、それでもどうにかして動かさないといけないんだ。死なせたくないとこの事件を知った時から、そう強く心に誓っているのだから。
 俺は、この二人を愛しているから。
 二人同時になんて言ったら不真面目かもしれないけど、どちらも大切なんだ。それはどちらかに決められないとかではなく、またどちらでもいいと言うわけではなく、曖昧にしか答えられないけど、とにかくどちらも失いたくない。あぁ、明確な言葉なんていらない、たった二文字三文字で説明できる程、単純じゃない。でも、この想いに迷いは無い。
 もう七海も未玖も、俺から切り離せない。
「七海、未玖、何を迷う。誰もお前達が死ぬことなんて望んでいない、少なくとも俺は、お前達とこれから先も生きていたいし、一緒に幸せになりたいんだ。側にいて欲しいんだよ、これから先、ずっと」
 泣き出しそうな表情で七海は俺と栄一さん、そして未玖を落ち着き無く見ている。それはきっとそのまま、定まらない七海の心。常識や仕来り、理屈や強制などの殻が取り払われ、剥き出しになった本心が怯えながら答えを捜し求めている。
「例え逃げたところで、後悔するだけだ。私も河口の人間、お前達のことは誰よりも、わかっているつもりだ。自らの運命からは逃れられぬし、目を背けて生きたところで、そこに道は無い。無理に進んでも、その先は暗い。運命とは死の時まで、人生の象徴となるのだ。別の生き方をしようとしても、結局帰結する、もの……」
 いや、答えはこうして二つ示されている。後は七海の決断次第なのだ。けれどどちらも同じくらい重要なのか、決めあぐねては頻りに未玖を見、そうしてうつむくと言った事を繰り返している。けれど時は悩む暇を与えず、屋敷が火炎の咆哮に震えながら、焼け落ちていく。猛り狂う炎は手当たり次第に全てを飲み込もうとし、もうこのホールも時間の問題だ。
「七海」
 それまで沈黙を貫いていた未玖が、初めて口を開いた。轟音にかき消されてしまいそうな呟き、だがはっきりと耳に届いた。
「貴方は好きなように生きていい。誰を気にすること無く、心のままに決めなさい。ここで儀式をやり遂げても、修治君と逃げても、感じる重さは一緒。七海、貴方はもう自由なの、呪われた宿命から羽ばたける機会が、今ここにあるのよ」
「そんな、何言ってるの。姉さんだって、同じじゃない。ねぇ、姉さんはどうするの。修治君と一緒にここを出るつもり?」
 ゆっくりと未玖は首を横に振る。
「私は残る、これは誰かがやらないといけないの。そうしないと、例え生きていても心にしこりが残ったまま、幸せを感じられなくなってしまう。この連鎖は、ここで止めなければいけないのよ。元々、生まれる事を許されない運命を抱いていたのに、理由はどうあれ今日まで生きてこられた。それは例え言い表せないくらいに辛い毎日だったとしても、一瞬、たった一瞬でも幸福を感じられた時、きっと私は救われたんだわ。でもね、そろそろ破綻するのは目に見えているし、それに私自身、もういいの。言ったでしょ、私の希望は貴方だと。七海と違って、私に迷いは無い。迷いがあるなら、生きなさい。どっちを選んでも今のままじゃ後悔するだろうけど、どうせ一緒なら答えを見付け、納得するのも悪くないと思うわ」
「未玖、何を言ってるんだ。死ぬ必要なんか、どこにも無いだろう」
「例えそれが幻かもしれないとしても、可能性がある限り、私はやるわ。これが私の決意なの。強制とか義務とか、そう言うのじゃないの。私はこの時のために生まれてきて、それを自分で人生と決めたのよ」
「姉さん……」
 燃え盛る破片が俺と二人の間に数多く落ちてくる。危険を感じて二歩三歩と急いで下がれば、大きな塊が落ちてきた。梁だろうか。炎の壁が俺達を分断し、物理的にも踏み入り難くなってきている。俺は玄関側へと足を引きずりながら向かうが、次々と天井が落ちてきて、曼荼羅に立ち入れられなくなっていく。上に気を付け、なるべく安全な場所を探しながら、二人の姿を確認しようとする。
「儀式を、続けよ。未玖、もし七海が残るならば、七海を刺すのだ。一人ならば、己でその命を、絶つのだ。お前達は河口大和に負けぬ力が、ある……」
 栄一はそこまで言うなり大量に喀血し、崩れた。自分の血の海に沈み、けれどまだ何か伝えようと、朱に染まった顔を必死に上げる。
「七海、未玖……後は、頼んだ。全ては、幸福のため。儀式は必ず、終わらせなければならぬ。我等のため、後の者のため。それが河口の血を受け継ぐ者の、宿命。できぬ試練を、天は与えぬ。成し遂げられる者に、相応の試練が与えられるのだ。お前達ならば、きっと、この束縛を……」
 そこで糸が切れたかの様に、栄一が己の血の海に沈んだ。
 炎が曼荼羅周辺を包み、二人の姿が朧に揺れる。不思議と曼荼羅内に燃える破片が落ちてこないが、これは構造上の問題だろう。容易に踏み込めず、またなかなかそこから出てこないので、それは幸運な事かもしれないのだが、いつまで持つかわからない。屋敷全体がもう、長く無さそうなのだから。
 水でもかぶってそこへ入ろうかと思うが、近くに水場は無く、また探している間に全て焼け落ちてしまいそうで、そうなったらもう後悔してもし切れない。それに、足の出血と痛みのために、もうあまり動けなさそうだ。情け無いが、今はこうして説得する他無い。
「早くこっちに来い、来るんだ」
 降り注ぐ火の粉に戦々恐々としながら叫ぶけれど、曼荼羅の中に動きは無い。もう駄目なのか、俺の声は届かないのか、二人はこのまま焼かれながら幻想の中で儀式を行うつもりなのか。そんなことをしても何もならないと言うのに、もう意地なのか、それとも染み付いた観念なのか、俺にはわからない。
「七海、未玖」
 ありったけの声で叫ぶと、それに呼応してかどうかわからないが、ゆっくりとこちらを振り向く姿が見えた。あれは、未玖だ。未玖は昨日と同じ、年頃の女性としての微笑みを俺に向けている。そこに巫女だとか、姉だとかは感じさせない。
「ありがとう、貴方がいたから、貴方と会えたから、私は暗いままの一生にならずに済んだ。私が求めていた光は、貴方だったんだわ。太陽の光、貴方と七海との出会い、それでもう充分。本当にありがとう、修治君」
「おい、待てよ。これで終わりみたいな事、言うな。未玖も、そして七海もこっちに来るんだ」
 激高する俺を無視し、未玖は七海を見詰めると、しばらく向き合ってから一つ頷いた。
「七海、逃げなさい。ここは私一人で充分よ。封印の力は貴方に劣るかもしれないけど、私だって強い能力者、儀式をこの身で完遂させてみせる。ここは私に任せなさい」
「そんな」
 詰め寄ろうとした七海を、左手で制した。
「思えば、私は七海に姉らしい事なんて、何一つしてやれなかった。こうして今まで生きてきて、でもこんな身の上だったから仕方無いと言えばそうなのかもしれないけど、それでも何か一つ、貴方の姉として生まれたからには、それらしいことをしてあげたいの」
「そんなこと、気にしてないよ。そんな責任がどうのこうのなんて、やめて」
「ごめんなさい。そうね、ここに来て私もこんなこと言っているなんて、まだまだね。でもね、以前も言ったけど七海は私の希望なの。そのために私は私自身を欠片も執心しない。これが私の本心、嘘偽りや虚栄など一切無しの、ありのままの心での決断よ。貴方は幸せを掴むのよ、それができる人なのだから」
「姉さんだってそうでしょ。何も変わらないよ、私と何が違うの。私だけなんて、そんなこと言わないでよ。私一人じゃ心細くて、どうしようも無いの。お願い、そう言うなら一緒に」
 けれど未玖は毅然と首を横に振る。
「何も言わないで。それに、もう七海は自分で決断し、自分で道を切り開かなければならない。誰を頼るのも、誰を見限るのも、自分で決めるのよ。貴方は自由、けれど自由とは最後に自分で決めなければならず、そこには責任も伴う。七海、私の希望は貴方に生きて幸せになって欲しいけれど、貴方が別の道を選ぶなら、反対しないわ。だって、それが貴方の道なんですもの」
「自由……私は……」
 うなだれる七海の姿は、もうほとんど見えなくなってきた。燃える、どんどん燃え崩れていく。この短い間に感じた匂いも感触も思い出も、消え失せている。息をする事すらもうままならず、炎と共に後悔が勢いを増す。既に助けようとしても、どうにもできなくなってきた。もっと早く、無理矢理にでも中へ入り、強引に引っ張り出せばよかったかもしれない。でも、それは今だって同じだ。
 そう、俺は言い訳をしているだけだ。本当に命をかけてでも助けたいのなら、大火傷をしても、この右足が動かなくなっても、助けるべきだ。行くしかない。
 歯を食い縛り、拳に力を入れて曼荼羅へと踏み出そうと思うが早いか、天井から燃える破片が落ちてきて、俺の右肩をかすめた。熱さよりもその衝撃が凄まじく、声も出ない痛みにふらふらと後退し、尻餅をつく。満足に酸素も得られず、虚空を掻きむしりながらも二人に目を遣ると、もう炎で何も見えなくなっていた。
「七海、未玖、こっちへ来てくれ。お願いだ」
 既に声はかすれていたが、それでも声を振り絞り、そうして祈る。冷や汗で目の前が白む程の激痛に苛まれつつ、渾身の力で立ち上がると、炎の先にある曼荼羅を注視した。まるで曇りガラス越しに見ているかのように、表情はおろか仕草もわからない。
 もう駄目かもしれない、激痛で意識を失いそうだ。けれどこのまま焼け死んでは、何もならない。誰の約束をも破る事になるし、それに俺は死にたくない。生きてもっと楽しい思いをしたいんだ。もっとみんなで、笑い合うんだ。折角ここまでこられたんだ、もう誰にも邪魔されないんだ、後は出るだけなのだから。これが別れだなんて、ふざけるな。
「死ぬな、生きろ」
 炎の中、ゆっくりとこちらを見る姿が一つ。あの位置は……七海だ。俺は必死に左手を差し出し、何度もこっちへ来るようにと叫ぶけれども、七海がそこから動き出そうとはしない。そればかりか、はっきりと首を横に振る姿が見える。認めたくないけれども、確かに。何故だ、七海。
「修治君、私そっちには行けない。父さんや姉さんを置いて、行く事なんてできないの。私はやっぱり河口家の人間、幻や思い過ごしと言われても、確かにみんなと違った何かがある。才能の一つ、なのかもしれない。みんな何かしらの才能を持っていて、けれど多くの人達は自分の能力に気付かず、生きている。能力とやるべき事が噛み合った時、人は輝きを増すの。私は今まで、この儀式に携わる事に疑問を抱いていたし、修治君と出会ってから私にもみんなと同じような、無限の未来があるかもしれないと思った。けど」
 近くで雷が落ちたかの様な轟音が響いた。音は調理場の方からで、この様子だと二階も大分崩れ落ちてきているのだろう。今の衝撃で熱風が一陣吹き抜け、曼荼羅の周囲の炎がなぎ倒された。その拍子に、二人の姿が鮮明に見える。
「やっぱり私は、この儀式を投げ出せない。色々あったけれど、やっぱりこれをやり遂げるのが私の人生なんだよね。もし私にこの先があるとしても、これを終えないと私はそこに行けない。これが私の本当の気持ち。最後まで困らせて、ワガママで、ごめんね」
 そこにあったのは、今まで見た事の無い清々しい笑顔。諦め、悲しさ、決意、喜び、そしてどこか慈悲をも覗かせるそれが、とても遠くへ行ってしまった事を象徴する様で、自ずと目頭が熱くなってきた。
「もし全てが終わって、また会えたなら、その時はまたホットサンドでも作って笑い合える、そんな恋愛をしようよ。もし叶ったら、すごく素敵だよね。約束よ」
 七海は泣いていた、いつの間にか泣いていた。それを炎が再び覆い隠そうと渦巻く。
「幸せになってね。そして、ちょっとだけ覚えていて」
「七海」
「さようなら、嬉しかったよ」
 炎が天まで燃え盛り、壁となって全てを阻む。崩落も激しくなり、もう逃げる事で精一杯だ。俺はふらふらと後退し、けれども曼荼羅から目を離さない。未練、だろう。それも炎が消していく。
 燃える、燃える、何もかもが灰になり消えて行く。俺はそのまま館の外へ出ても、まだ曼荼羅を見続けていた。外は少しだけ肌寒く、けれど真昼の様に明るい。顔を焼く暑さの中で涙を堪えていると、一陣の風が通り抜けた。それは館の中をも通り抜け、またも一瞬目の前の炎がなぎ倒され、全てが見渡せた。
 七海と未玖、二人がこちらを向いて微笑んでいる。どこか嬉しそうに、炎の中にいるのに、まるで春風を全身に感じているかのごとく、笑っていた。けれどそれはほんの一瞬で、すぐに炎が勢いを取り戻し、また姿が消えて行く。
 見えなくなる寸前、火の粉か幻か、七海と未玖に翼が生えた様に見えた。美しくも儚い赤の翼。風に揺れる陽炎のいたずらだろうか、それとも二人の能力と呼ばれるものなのか俺にはわからないけれど、涙が止まらない。きっとこれが最後の姿なのだろう、しっかりと目に焼き付けておかないといけない。そうわかっているけど、けれど……。
 どうにもできなかった。
 まるで蜻蛉みたいな二人だった。透き通るくらい美しく、か弱く儚げではあるがしっかりと生き、目的を終えると天に昇る、夏の蜻蛉と二人の人生が重なって見える。他と比べたらあまりにも短い命だけど、それは間違い無く強い輝きを見る者に与え、心奪う。
 屋敷が崩れると同時に、炎が天高く舞った。その先に呆然と目を向けていると、四枚の翼が夜空に踊ったかの様に見えたが、それもまた刹那の出来事で、すぐに虚空へと消えてしまう。あぁ、全てが幻みたいだ。色々あって、語り尽くせない程の出来事があったにも関わらず、何も残っていない。灰と共にこの夜風に連れさらわれて行く。
 赤々と燃える空と屋敷を、俺はじっと見詰めていた。もう何も考えられず、涙も出ず、肌が焼ける様な熱さをも厭わず、いつまでも。ふと七海と未玖についての思い出を反芻したくなったが、止めた。まだ思い出にするのは早過ぎる。約束したじゃないか、次に会った時は恋をし、愛を育もうと。
 けれど、もう一つの忘れないと言う約束の方しか叶えられないかもしれない、そう思うと、またほんの少しだけ涙が出てきた。

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