エピローグ

 ムッとした風が体にまとわりつく。天気予報を見ていないが、今日もまた暑いのだと思うと、少しやるせない。もう夏だからと言えばそれまでなのだが、それでも体が慣れるまでは毎年溜め息が出る。まぁ、あまり気にしていても涼しくなるわけではないので、今は外の景色を楽しむ事にしよう。
 俺は車窓から流れ込む初夏の風を浴びながら、手の甲で汗を拭った。揺れる電車、流れる埃っぽい町の風景に、どんどんとノスタルジックな気分になる。どこをも見詰めず、ぼんやりと風景を眺めていると、まるで走馬灯の様に今でもあの日々が浮かんできて、どうしようも無い気分になってきた。
 きっと、いつまでも俺はこのままだろう。

 あの日、あれからすぐに地元のパトカーや消防車が駆けつけてくる音を聞きながら、俺は意識を失い、目覚めると地元でも大手の病院にいた。検査の結果、右大腿の銃創、右肩の骨折、所々に軽い火傷、外傷は肩と足が少し酷い程度だったが、それよりも酷かったのが心に刻まれた傷だった。それは他人と比べる術など無いが、俺にとって両親が死んだ時と同じくらい、いやそれ以上かもしれない、そんな気持ちを抱いたんだ。
 すぐにあの儀式の事を思い出せず、数時間は自分が何故病院にいるのかわからず、どうして河口家からここへ運ばれたのか、何故怪我をしているのかわからなかったけれど、徐々に記憶を取り戻すと奇妙で幻惑的な儀式、和巳さん達の死、燃える屋敷、そして七海と未玖との別れに、改めて戦慄を覚えた。失われていた現実感が戻るのと同時に、一つ一つの出来事が鮮明に思い浮かんで、その事実に耐え切れず声にならない声を叫び、シーツだろうが自分だろうが虚空だろうが、とにかく手当たり次第掻きむしりたくなり、天を仰ぎ地に顔を埋めたくなり、精神的に不安定な日々を病院内で過ごしていた。
 その中で狂おしい程求めていた平穏はすぐに訪れず、目覚めると警察の人達に色々と儀式当日の事を訊かれた。どうやら俺が唯一の生存者だったらしいから。けれど事実をありのままに言っても信じてもらえないと判断し、なるべく儀式には触れず、銃撃戦の末に火事が起こり、無関係だった自分は何とか逃げられた、そう伝えておいた。だってそうだろう、七海や未玖は霊を操る能力を持っており、かの有名な河口家が『災厄』を封じ込めるために儀式を行っていましただなんて、言ったところで誰が信じるのだろうか。そんなことを言えば、俺は別の病院へ連れて行かれるかもしれない。
 結局、この事件は河口家の財産争いの結果、俺を除いて全員死亡と言う事で落ち着いた。俺が河口家へ引き取られたのは偶然で、かつ何の権利も有さない立場だからと言う事で、嫌疑をかけられる事は無かった。二度も家族を失った男、それが世間の俺に対する評価だった。
 しばらく入院していたけど、その間に俺は一人で河口家へ向かった。あの二人が死ぬ瞬間を見ていない俺は報告が信じられず、もしかしたら生きているかもしれない、そんな一縷の希望を抱きつつ訪れてみたが、現実はそう甘くなく、絶望を目の前に叩き付けられる結果となった。
 焼け跡には何も残っていなかった。いや、何もかもが無い綺麗な新地と言うわけではなく、炭や残骸の山が夢幻で無い事を示しており、俺はただただ呆然と見詰めるしかなかった。ぐるりと屋敷の周りを一回りしてみても、無事そうな場所はどこにも無く、あの火勢の中で脱出できたとも考えられず、またあれから儀式をせず逃げ出したとも考えられず、次第に地面しか見られなくなっていた。
 花壇だけが変わらず、春を受け入れていた。
 退院の直前、入学の決まっていた大学から入寮案内が届いた。もう入寮申し込み期限は過ぎていたのだが、こんな身の上であるからと特別に許可された。俺も一応河口家にいた人間だったから、やはりその辺の事情も関わっているのだろう。まだ完全に関係を断ち切れていない事実に、多少胸が重くなったものだが、他に行くあての無い俺に選択の余地は無かった。
 退院してすぐ入寮し、俺の新生活が始まったが、最初はやはり戸惑った。知らない人達との共同生活、門限等の寮生活におけるルール、中でも一際戸惑ったのが、一年目と言う事だったかもしれない。一年目と言うものは何度経験しても、勝手がわからず戸惑ってしまう。俺も多分に漏れず、そうしたところから失敗を繰り返し、寮生活が嫌になりかけたりもした。その頃は特にあの事件がまだ鮮明に残っており、みんなに理解されない秘密を抱いている自分と言うもので、世の中全てに壁を造り、へらへら笑っているみんなに嫌気がさしていたのかもしれない。それも二ヶ月程経てばすっかり慣れ、今ではそれなりに楽しんでいる。
 寮生活と同じで、やはり入学してからの一ヶ月は緊張のし通しだった。高校とは何もかもが違うキャンパスライフに加え、実家から離れた大学に入学したため、見知った顔がいなかったからだ。孤独を好んだが、やはりそれは傷を思い出させる。寮生ともいまいち親しくなれなかった俺は、とりあえずサークルに入ったり、またアルバイトをしたりなどして、とにかくゼロに近かった生活の幅を広げていった。
 そうした所謂普通の生活を送る事により、あの惨劇を忘れようと努めた。それは一応の成功を収め、目まぐるしく過ぎて行く日々の中で、振り返る暇など無かったのだから。やりがいのあるバイト、馬鹿やって笑い合えるサークルの仲間達、新たな発見のある勉強、家族の様な寮生。そのどこにも、それ以前を匂わせるものなんて無かった。
 けれども、やはりふとしたはずみで思い出すし、夢にも見る。あの現実とは思えぬ日々が、燃える屋敷の光景が、今もなお心を苛ませる。そうしてその時々に七海と未玖の豊かな表情を思い出し、胸を締め付けられていた。
 時は過ぎ、いつしか大学も夏休みに入っていた。俺はバイトの休みを利用し、ふらりと旅行をしている。目的は決めておらず、気の向くままに電車を乗り継いだりして、見知らぬ土地に触れては思い出を増やす旅。そうして思い出を増やせば、きっとあの記憶も片隅へと追いやり、風化させられるかもしれない。七海との約束が心残りだけど、あの火事や焼け跡を見てしまったら、もう。

 忘れよう、七海や未玖には悪いけど、あの日々の事は遠い思い出にしてしまおう。もう戻らないんだ、どうにもできないんだ。いたずらに振り返って感傷に浸っていても、二人は帰ってこない。この過ぎ行く景色と同じで、その時々の輝きに感動するけれど、長い目で見れば事実の一つとなるだろう。
 いつかきっと、楽になれるさ。
 そう願うが、こうして電車に揺られていると、七海と逃げた事が思い出される。あの時は怖くて、不安で、焦っていてどうしようも無く追い詰められていたけれど、今ならばそうした事も無い。あの時は果たせなかったけど、ゆっくりとこうして旅行を楽しみ、笑い合いたかったな。
 そうだな、各地で駅弁を食べたり、名所を巡ったりしながらお土産でも買って、そうして夜には名産品を腹一杯食べて。そうだ、七海だけじゃなく、未玖も連れて行こう。ずっと地下で生活していたから、見るもの全てが新鮮に見えるはずだ。未玖が驚いたり感動したり、無邪気に笑ったりする姿を見てみたいな。七海もきっとまだ見た事無いだろうから、そんな未玖を見て笑って、未玖も照れながら笑い、三人でいつまでも楽しく過ごすんだ。怯える事無く、当たり前だけど難しかった、悲しみに震える事の無い日々を作って、あの約束を果たすために……。
 想像していたら、泣けてきた。目元を指先で拭い、再び窓の外へと目を遣る。まだほんの少しだけ滲んだ景色がどこか幻想的で、あの日七海と二人で乗った電車から見た景色も、こんな感じだった気がしてきた。デジャビュと言うやつだろうか。まぁ、こんな景色なんてどこにでもあるものだ。ついつい、繋がりを持たせようとしてしまっている。
「思い出を増やしに来ているのに、な」
 寂しさも愛しさも溜め息に変わり、初夏の風に運ばれて行った。
 ぼんやりとしばらく景色を眺めていると、次の駅についてのアナウンスが流れた。ふと沈みがちだった視線を上げ、詳しく周囲を見回し、もう一度流れたアナウンスに耳を傾ける。もしかして……いやそうだ、これは七海と乗った事のある路線だ。デジャビュなんかではない。確かに俺はあの日もこの道を走る電車に乗っていた。
 次の駅で停車した時、よく駅名と記憶を照合してみると、おぼろげながらも一致した。電車は再び動き出す。じっくりと思い出の中の景色と、外の景色とを見比べているうちに、胸が昂ぶってきた。あぁ、あの工場、少し禿げた山々、そしてこの場所には不釣合いな大型スーパー、どれも見覚えがある。でたらめに逃げていたはずの場所に、今こうして再び訪れている。偶然か運命か、それはわからないけれど、一つはっきりしているのは、次の駅で降りなければならないことだ。あの場所に行ってみよう、とりあえずあの場所に行けば何かあるだろう。
 もう今はあの約束に縋るしかない。
 目的の駅に停車するなり、駆け出すように降りた。そうしてぐるりと周囲を見渡す。少し開けた土地、清潔な二階建ての駅舎、昼時ながらもそれなりに下車する人々。どれもこれも見覚えがある。ここだ、ここで間違い無い。この胸に押し寄せるのは喜悦か不安か、複雑に絡み合った感情がとにかく俺を興奮させる。
 ここは七海との逃亡の果て、最後に降り立った駅。焦るな、焦らずにあの場所へと向かうんだ。そう自分を抑えようとしても、ついつい早足で階段を上ってしまう。目の前に広がった改札口を見ると、自ずと拳に力が入った。改札を抜け、忌まわしき場所を一瞥するとその思い出を一笑に付し、過去と決別する。
 不思議な確信があった。待っていてくれている。あの場所にいなければ、世界中どこを探しても出会えないだろう。俺は駅舎を駆け足で飛び出す。
 あの路地だ、あそこにきっといる。
『……いや、一つだけ決めておこう』
 駅からそう離れていない、寂れた雑居ビルの谷間が見えてきた。
『何を?』
 初夏の陽も届かないビルの谷間へと入る。
『もしバラバラになるようなことがあったら、ここに戻ってこよう』
 陰鬱な空気はあの時より、幾分か熱い。時の流れを今更ながら実感する。
『一人じゃ無理だよ。私には、できないよ』
 突き当り手前を右に曲がる。
『できるさ。それにもしも、だよ。簡単に離れようなんて、思っちゃいないさ』
 人影が見えた。上空からの逆光と、まだ少し遠い後ろ姿だからはっきりと確認できないけれど、あの背格好は間違い無い。
『……わかった。じゃあもしバラバラになったら、ここにだよ』
 足音に気付いたのか、目の前の人物がゆっくりと振り返る。あぁ、あの姿、あの微笑み、忘れるはずなんて無い。忘れようとしても、決して忘れられなかった愛しい人。ゆっくりと向こうも、嬉しそうにこちらへ向かってくる。互いの距離が加速度的に縮まるにつれ、微笑みは満面の笑みとなり、胸一杯の愛と情熱が湧き上がってきた。
 涙よ、今は出るな。
 二人の距離はゼロになり、言葉を交わすより早く、唇を重ねた。色々と訊きたい事はあるけれども、今はもう少しこのままでいよう。ようやくこの瞬間が訪れたのだから……。
 しばらくして唇を離すと、彼女はまた一つ俺に微笑みかけた。
「また会えたね、修治君」

                                     ─了─

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