八.

 窓の外はぐずついた天気だった。今にも降り出しそうな暗雲が、何か不吉な未来への暗示かとすら思えてくる。祝福された晴れの門出ではないとわかっていても、こうした天気では陰鬱な気分になり、不安の虫が騒ぐ。いけない、天気くらいで弱気になるな、しっかりしろ。そう内心密かに喝を与えつつ、俺はコーンスープを口に運ぶ。
「折角の外出だと言うのに、何だか嫌な天気だね」
 あやすような口調でそう言うなり、栄一さんは窓の外を一瞥してから七海の方へ目を向けた。
「うん。でも仕方無いよ、こればかりは」
「まぁ、気を付けて行ってくるんだよ」
「あのね、そのことなんだけど、修治君も連れて行っていいかな」
 栄一さんを始め、敏雄さん達の視線が一斉に俺へと集まる。視線一つ一つの色が異なっており、心が激しく揺らめく。そうした中で栄一さんと敏雄さんに心を読まれてしまいそうな錯覚に恐れ慄きつつも平静を装い、俺は頷いた。
「新しい服とかが欲しくなったんです。それで七海が買い物に行くと言ったので、ついでに僕も行こうかと。いいですか?」
 顔が強張っていないだろうか、声は上擦っていなかったろうか、愛想笑いの裏に溢れ出しそうな不安を閉じ込め、栄一さんを見る。
「もちろんいいとも。若い時はファッションに興味を持ってしかるべきだし、自分で選んだ方が気に入るだろうしね」
 そんな心配をよそに、栄一さんは大らかな笑顔で頷いてくれた。とりあえず、これで最初の関門は突破したことが嬉しくて、俺は栄一さんに喜色満面で礼を言うと七海に目配せする。七海も嬉しそうに笑みを浮かべていた。
「ありがとう、お父さん」
「なに、二人で楽しんできなさい。お供として敏雄君を同行させるけれど、気にせず良いデートでも楽しむんだよ」
「デートって、そういうのじゃないんだから。まったく、みんなして」
 確かに違うが、こうした状況でも否定されると、何だか切なくなってくるのは若さのせいだろうか。いや、余計な事を考えている場合ではない。そうした一時の欲望が今は命取りにすらなりかねないのだから。
「それで、いつ頃ここを出るのかね」
「食べ終わって、一時間くらいしてからかな。修治君もそのくらいでいいでしょ」
「そうだね」
 一時間後、その間にどう逃げるのか考えなければならないのか。確かにあまり遅くに出ると、折角の外出なのにと疑われかねない。けれど、一体一時間でどうしろと言うのか。先程の喜びは途端にどこかへと消え失せ、俺は再び闇の中へと落された。
 朝食を終えると急いで自室に戻り、一通りの支度を始める。持っていくものは、金だけだ。必要な物は恵子さんから貰った金で買えばいい。下手に用意すれば邪魔になるし、怪しまれるだろう。支度を済ませ、念入りにサイフの中身を確認すると、俺は七海の部屋へと向かった。
「入ってもいいかな」
「どうぞ」
 既に七海も支度を済ませていたらしく、化粧も整っている。俺はベッドに腰を下ろすと、どこか不安げな視線を向けてくる七海をどうすることもできず、腕組みをしながら見詰め返すことしかできない。
「さて、どう逃げようかと色々考えてみたけど、この辺は俺、土地鑑が無いし、それにこれから行く店の構造すらも全くわからないから、教えてくれないかな。そういうのを知らない以上、逃げる方法も立てられないからさ」
 昨日は逃げることだけにしか頭が回らず、細かいところまで気が回らなかった。冷静になってみて、初めて自分が見知らぬ土地にいるのだと改めて気付き、今朝目覚めてからしばらく後悔したものだ。もっと時間があったのに、どうして本当に少ないこの時間で……いや、やめよう、悔いても無駄だ。今はともかく決めなければならないのだから。
「場所はここから車で三十分程のところにあるデパートで、結構大きいところよ。駐車場を抜かせば地下は二階、地上は十階まであって、三階に別館へ続く空中廊下があるの。このデパートは他にも地下鉄やバスセンターと繋がっていて、街の中心みたいなものかな」
 どうやら交通手段はそれなりに揃っているみたいだが、どうやってそこまで辿り着こうか。二人きりならさして問題無いのだが……。
「敏雄さんももちろん一緒に回るんだろう。どうにかして離すこと、できないかな」
「無理だよ、敏雄さんは何があっても傍にいるんだから。お父さんが私に対して何人も見張りを付けず敏雄さん一人にだけしているのは、それだけの働きをするからなんだよ」
「トイレとかも無理かな」
「デパートのトイレは逃げ場が無いよ。窓なんて無いし、あっても一階や二階には無いからね。入口で待たれていたら、どうにもできないよ」
 そう言われてみれば、そうかもしれない。窓があってもそんなに開かないだろうし、そこまで大きなデパートならば、防犯対策だってしっかりしているだろう。変な場所からは逃げられなくなっているに違いないし、逃げられたとしてもすぐにガードマンが飛んでくるだろうから、危険だ。
「じゃあ、下着売り場なんてどうかな。男の人は恥ずかしいだろうから近付きにくいし、恥ずかしいからあまり近付かないでとか言ったら、効果ありそうじゃない」
「充分見渡せるよ、壁とかあるわけじゃないんだから。それに敏雄さんは私を守るためにいるから、恥ずかしいとかでは傍を離れないだろうし」
「そうか、そうだよな。じゃあいっそ、敏雄さんを不意打ちでも何でもいいから殴って、どうにかできないかな」
「それこそ無理だよ。敏雄さんは武術の達人で、柔道に剣道、空手に合気道と色々習得しているみたいだから、すぐやられちゃうよ」
「困ったな」
 力づくだとか、走って逃げるとかはどうにも無理みたいだ。まぁ、元々そうして逃げるつもりは無かったけれど、それがはっきり無理だとわかると、少し怖気付きそうになったのは確かだ。
「なら、人込みに紛れて逃げるってのはどうかな。案外、地下の食品売り場とかって混んでいるだろうし、入り組んでいたりもするからね」
「どうかな、逃げられるのかな。他の人ならともかく、敏雄さんだから」
「難しいか。俺だけならば幾らでも敏雄さんから逃げられそうだけど、問題は敏雄さんが七海を守るためずっと傍にいると言うことだ。女の足だと逃げ切れそうにもないし、べったりと張り付かれていると、不可能に近い。なるべく騒ぎなど起こさず、ひっそりと逃げたいけれど、一体どうすればいいのやら」
 幾ら案を出しても浅はかなものばかりで、いざ実行しようにもすぐに捕まってしまいそうだ。思った以上に敏雄さんは手強く、容易には引き離せそうにない。こうしている間にも時間は刻一刻と過ぎて行き、焦りが生じる。七海から一旦視線を外すと、俺は何でもいいから答えの欠片が欲しく、部屋を見回してひらめきの影を探す。
 ふと、七海のサイフが目に入った。途端、頭の中であるアイデアが朝日の様に広がって行くのを感じ、思わず口元が綻んでくる。七海が訝しげに見詰めてくるが、俺はもう早く七海を笑顔で頷かせたくて、頭の中でそれを整理するが気ばかり急いてしまい、何とももどかしい。
「どうしたの?」
「いい考えが思い付いたんだよ。いや、これならいける。とにかく……あぁ、何と言うかその、あれだよ、ほら」
「ちょっと落ち着いてよ。慌ててばかりいたら、折角のいい考えも忘れちゃうよ。ほら、深呼吸でもして」
 言われた通り、二度三度大きな深呼吸をする。まだ興奮は冷めないが、それでも先程よりは幾分かましだった。
「いいか、そのサイフを使うんだ」
「サイフ?」
 七海がサイフを一瞥し、また修治へと視線を戻す。
「そう、サイフだよ。それを使って逃げるんだ。手順としてはこうだ。まず身分証を入れたそのサイフを、俺が落し物としてインフォメーションセンターに持って行く。これは俺だけが動くことになるから、七海と敏雄さんはこの時点ではまだ一緒にいてもらう。敏雄さんは七海を重要視しているだろうから、俺がトイレに行くとでも言えば、一人で行かせてくれるだろう」
「どうかな、多分私も一緒にトイレの前で待たされると思うけど」
「俺だけに何らかの目的、この場合はトイレに行くとなったら、当然そうなるだろう。でも、七海も何かしらの目的があったらどうかな。そうだな、例えば試着している最中とかどうだろう。それならば敏雄さんだって七海の傍を離れられないだろう」
「そっか。でも、そこからどうするの」
「整理しつつ、順々に話していこう。まず、俺があらかじめそのサイフを持っておく。そしてしばらく物色してから、七海がたくさん服を持って試着室に入る。試着室に七海が入っている最中俺がトイレに行くと言って、こっそりインフォメーションセンターに行き、サイフを拾ったと係員に渡す。身分証が入っているから、すぐ館内放送されるだろう。そこで七海が試着にまだ時間がかかるからとでも言って、敏雄さんにサイフを取りに行かせる。試着が終わるまで待つとか言われたら、大事なサイフだからとか何とか言って、とにかく向かわせるんだ。そして敏雄さんがいなくなったのを見計らい、七海も逃げ出す。後はどこかに集合し、遠くへと逃げるんだ」
「なるほど。それなら巧くいきそうだね」
 ようやく七海の表情が晴れてきた。我ながら素晴らしいアイデアを考え付いたことに嬉しくなり、またそれを認められたことが拍車をかけ、そっと二人顔を寄せ合い、力強く晴れやかに頷いた。
「そこで、インフォメーションセンターと、それぞれの交通機関、あと逃げ出せそうな場所を教えてくれないかな」
「インフォメーションセンターは一階正面玄関のすぐ側にあるよ。ちなみに洋服売り場は四階。逃げ道になりそうなのは四ヶ所かな。一階の表出口と裏出口、地下二階の食品売り場からの連絡通路、それと三階にある別館への空中廊下かな。別館も本館とほとんど同じ造りで、一階の出口が二つ、地下二階から地下鉄への連絡通路があって、あ、そうそう、二階から外に出られる道があったけど、使えるかな。とりあえず遠くに行くのなら外に出てバスかタクシー、もしくは地下鉄のどれかを使うのがいいかも」
「別館に行くのは無意味かな。ぐずぐずしていたら、見付かってしまう。それにバスやタクシーなんかも危険かもしれない。渋滞にでも巻き込まれたりしたら、すぐに追い付かれるだろうから。やっぱり地下鉄が妥当じゃないかな。バスやタクシーに比べて短時間で遠くへ行けるからね。行動範囲が広がれば、追いにくくなるだろうさ」
 本当に河口家が公的機関を動かせるのだとするならば、警察を動かして検問くらいするだろう。しかし、それだってあまり広い範囲ではできないはずだ。広くなれば人員が必然的に増える。幾ら河口家とて、短時間で市内一斉封鎖などできるわけが無い。これは時間との勝負なんだ。
「じゃあ地下鉄ね。デパートからだと京南線と東慶線の二つに乗れるけど、京南線改札口で合流しようよ。東慶線に比べて京南線の方が利用者多いから、紛れて逃げられ易いと思うんだよね」
「わかった、そうしよう。デパートからそこへの行き方はどうなっているんだ?」
「地下二階の食品売り場内に、地下鉄駅への行き方が書いてあるから大丈夫だよ。京南線までデパートからだと、百メートルくらいじゃないかな」
 そう言われても、わからないからどうなるのだろうか、果たしてちゃんと改札口に辿り着けるのかと言う不安はあるけれど、具体的にどう行けばいいのかとこれ以上訊いたところで、どうせわからず辺りを見回すんだ。七海もあぁ言っていることだし、きっとすぐにわかるのだろう。
「それじゃあ最後に一つ。人込みの中では決して走らないように。走れば目立つからね、なるべくみんなと同じくらいの速さで。後ろを振り向くのもなるべくなら、駄目だ。怪しまれてはいけないし、何にせよ地下鉄に乗る前に気付かれでもしたら、すぐに捕まるだろうから」
「そうだね」
 悲壮な決意を秘めた七海が、厳かに頷く。
「……あのさ、修治君」
「何だい」
「実は私、まだ迷っているんだ。修治君に生きて欲しいって言われた時、すごく嬉しかったのは本当。だけど、私の役割がはっきりしている以上、逃げてもいいのか、それは自分のエゴで、やってはいけないことじゃないかって、今でも思っているの。私はいつからか、自分の人生を儀式の日で終わらせていた。それ以降、どうなるのかなんて考えないでいた。だって、考えるだけ無意味だったから。ねぇ、もし私がそれから先も生きたとしたら、一体どうなるんだろうね。今はそんなことに、ちょっとだけ興味が出てきたんだ。あのさ、修治君はどうなると思うかな?」
「わからないな。けど、わからないから確かめようとして、生きているんじゃないかな。少なくとも、色々なものに触れられるだろうし、今大切にしているものだって、もう少し長く感じられていられるんじゃないかな」
「大切な物、私の大切な物って、何だろうな」
 哀しくも、どこか澄んだ笑みを浮かべる七海が美しく、だからなのかまともに目を合わせられなくなり、俺はついと窓辺へ視線を移した。
「そうだな、例えばあのフリージアの世話なんてどうかな。人生の目的なんて必ずしも大層なものじゃなく、案外小さくても身近なものに目を向けているものじゃないかな」
「そうかもしれない。じゃあ修治君の大切な物って、一体何なの?」
「俺の大切な物か。そうだな」
 しばらく天井を見上げ、考える。
「来月発売される漫画が読みたいね。続きが気になって仕方無いんだよ。いいとこで続くと引き伸ばされたからね」
 ぷっと七海が吹き出した。

 十時少し前、車はこの近辺で最大規模のデパート『山波』に到着した。見たところ駐車場は全て埋まっている様子で、これでは駐車できないのではないかと思ったが、車は奥の職員専用と思しき場所へ一毛の迷いも無く向かい、角の空きスペースに停まった。きっとここが専用の駐車場なのだろう。俺たちは車を降りると、側にあるエレベーターへと乗り込んだ。
「よろしいですか、お二人共」
 ボタンを操作しながら、敏雄が各々を見遣る。
「七海様はわかっていると思いますが、ここは利用客も多く、かつ広いですから、くれぐれも勝手に行動しないで下さいませ」
「子供じゃないんだから平気よ。ね、修治君」
「初めての場所だから、大人しく七海に付いているよ。勝手がわからないから、迷ったりでもしたら大変だしね」
 軽快な音と共にエレベーターが開いた。
 一階はアクセサリーや化粧品などが大勢を占めていた。主にカップルや若い女性が多く、その中で敏雄さんは少し目立っているかもしれないなんて思ったが、傍から見れば親子連れにも見えるのかもしれない。俺と敏雄さんは七海に付いて行くような形で、一階を色々と見て回る。時折七海はアクセサリーなどを物色したり、香水を手に取っては匂いを確かめたりしているが、それは全て演技で、俺のためにゆっくり一階の造りを見せてくれているに他ならない。こうしろとは言わなかったけど、七海もどうしたらいいのかわかっているんだ。
 インフォメーションセンター、地下へと続くエスカレーターやエレベーター、そして非常階段に、もしもの時のためにと外へ出る道をも覚える。広いけど、迷うことは無いだろう。だが慢心してはいけない。少しでも迷っている時間があったら、失敗するかもしれないのだから。
「上に行こうか」
 二階はレディスフロアで、主にバッグや小物などが置かれていた。どこのデパートも大抵四階くらいまでは女性物ばかりだ。ぐるりと見て回るが、一階より時間を掛けずに一周する。きっと通過点だろうから、七海もここは重要ではないと判断したのだろう。
 それに、ここに置かれている商品のほとんどが一般的に婦人と呼ばれている人達に似合いそうなものばかりで、七海くらいの年の女性には少し似合いそうも無い。
「服でも見ようかな。ここにあるのは、ちょっと私には似合わないよね」
「そうだな、ちょっとここにあるのは七海に合わないかも」
「ちょっと地味だもんね」
 三階は女性向の時計などが置かれており、ざっと見て回ったものの、大まかな造りは二階とほぼ同じだった。違うところと言えば、西側に別館へと続く空中廊下があるくらいだろう。ここは無言で済ませ、すぐに四階へのエスカレーターに踏み込む。
 四階は婦人服売り場で占められていた。三階のと違い、四階に置かれている商品は若い女性が身に付けてもそうおかしくないものが多く、年齢層も幅広い。七海もぐるりと一周してから、何ヶ所かで服を手に取っては俺に意見を求め、結局何だかんだと言って商品を戻し、また次の売り場へと向かう。
「これいいかも。ねぇねぇ修治君はどの色がいいと思う?」
 差し出されたオレンジ、青、白の三色ニットを見比べた。どれでもいいと思うが、それでも一応七海とニットとを見比べ、どれが似合うのか真剣に考えてみる。
「オレンジがいいと思うけどね」
「オレンジだったら、どのスカートがいいかな。ベージュかな、それともこのチェックかな。とにかく暖色系で合わせるか、無難にシックな感じの方がいいよね。あぁでも、やっぱり青も捨て難いかな。同色系や黒っぽいのでまとめたら、いい感じかも」
 あれもこれもと七海は商品を手にしていく。もしかしてそろそろかと思い、この場所から他の階への移動手段を確認してみると、最も近いのがすぐ側にある非常階段で、次が少し離れたエレベーター、最も遠いのがエスカレーターであった。急ぐなら非常階段だろう。多少早足でも、疑われることは無い。
「ちょっと試着してもいいかな」
「いいけど」
 俺の同意を得るなり、七海は大量の衣服を抱えながら試着室に入った。合図だ。しかしすぐにここを離れては怪しまれる。一体どのくらいしてから動けばいいのだろう。五分か十分か、いやそんなに試着に時間はかからないだろう。試着もあまり長ければ怪しまれるだろうから、あぁ、タイミングに困る。
 試着室の中から、七海がどちらにしようかと迷う声が聞こえてくる。あまり長引かせるのは、七海の負担になってしまう。そろそろ行くしかない。決心を躊躇する暇は無い、もう決めたことだ。必要なのは、動き出す勇気と演技。
「あの、敏雄さん」
 俺の気弱な呼び掛けに、敏雄さんが振り向く。
「ちょっと便所に行ってきてもいいですか。腹痛くて」
「はぐれたら困りますので、少々お待ち下さい。七海様ももうすぐ終わるでしょうから」
 まるで何かのマニュアル通りのような言い回しだ。やはり敏雄さんは簡単に動かない。だが、これは予想の範疇だ。
「なぁ七海、まだかかりそうか?」
「うん、もうちょっとかかるかも。ごめんね、早く決めようとはしているんだけど、どうしても決められなくて」
 顔を顰め、しばらく黙っていたが、また敏雄さんの顔を見遣り、一度視線をそらしてから再び見詰める。
「あの、本当に……行ってきていいですか」
 敏雄は腕を組み、眉根を寄せて首を傾げる。やはり一人で行かせるのを躊躇しているのか、なかなか首を縦に振ろうとはしない。しかし修治も困った様にチラチラと敏雄を見遣り、助けを求める。
「七海、ちょっと便所行ってきていいかな。すぐ戻ってくるから。試着終わるの、まだかかりそうなんだろ?」
「うん。トイレ行くなら今のうちに行った方がいいんじゃない。この他にもまだ見て回るから」
 修治が敏雄に目を向けると、敏雄は観念したかのように小さく頷いた。
「トイレは二階非常階段近くにありますので、そこの階段から降りて行けばすぐでしょう。なるべくお早めにお願いします」
「すみません、では」
 一礼し、俺は小走り気味に非常階段へと向かう。そうして一階分下に行き、もう上から見えない位置にまで行っても、もしかしたらと言う不安に苛まれ、見上げて確認できない。安易にそうしてしまうと、怪しまれてしまう。俺は小走りのまま、二階を目指した。
 二階非常階段の側に、男性用トイレがあった。その入口で振り返り、敏雄さんが付いてきていないかを神経研ぎ澄ませ、確認してみる。いない。どこにもいないみたいだ。それもそうか、七海を一人にして俺の後をつけるなんてことはしないだろう。それよりも、早くしないと七海に負担がかかる。もうそろそろ、限界かもしれないだろう。俺はそこからエスカレーターへ向かい、そこから一階インフォメーションセンターに向かう。途中、胸元から事前にサイフを取り出して、手に持っておく。落し物を胸元から出したら怪しまれるだろう。そうしておかないと中身を盗んだと思われ、もしかしたら後々予想だにしない事態に陥るかもしれない。
 インフォメーションセンター前に到着すると、俺は周囲をそれとなく見回してからカウンターに歩み寄った。
「すみません、サイフを拾ったんですけど」
 インフォメーションセンターの係員に、恐る恐るサイフを差し出す。大丈夫、何も心配することなど無い。渡したらすぐ用事があるとでも言って、待ち合わせ場所に向かえばいいだけだ。
「ありがとうございます。それではお客様、こちらのおサイフはどちらで拾われましたか」
「えっと、三階です」
「ありがとうございます」
 深々と係員が頭を下げる。俺も礼を返すと、さも用事ありげに時計を見、舌打ちしてエスカレーターへと急ぐ。少々わざとらしいかとも思えた演技だったが、呼び止められないのは成功の証だ。後は七海が巧くやるのを願うばかり。
 思った通り、地下二階の食品売り場は混雑していた。様々な売り場に並び、ある者は小首を傾げつつ品定めし、ある者は試食し、またある者は商品を買っては満足そうにしている。そんな人込みに紛れ、慌てず怪しまれず地下鉄へと向かう。途中、館内放送でサイフの落し物についてのアナウンスが流れた。周囲が騒々しくて全部は聞き取れなかったものの、どうやら俺が届けたサイフだと言うのはわかった。これで敏雄さんが動くはずだ。
 標示に従って進むと、程無く京南線改札口前に着いた。ここから深沢方面か結城町方面へと行ける。どちらに行ってもさして変わらないのかもしれないが、結城町方面は河口家に近付くので、なるべくなら避けたい。俺は終点深沢までの切符を二枚買い、デパート側から死角になるよう柱の陰に隠れる。
 巧く敏雄さんをインフォメーションセンターに向かわせられただろうか。七海は気付かれること無く、逃げ出せただろうか。今どの辺にいるのだろうか。これが失敗すれば、俺は怒られるどころでは済まない、命の危険だってある。けれどもう戻れない、心配ばかりが膨らむが俺にはもうどうにもできない。今はただ、成功を祈るだけだ。
 刻一刻と時は過ぎて行くが、修治の期待する人物は一向に姿を見せない。時折腕時計に目を落したり、天井を見上げたりと気を紛らわそうとしても、なかなか思うようにいかず、重い溜め息を静かに漏らす。
 長い。待つことは長いとわかっていても、やはりこの状況だと何倍にも感じる。もしかして捕まってしまったとか、逃走計画がバレてしまった、なんてことも充分ありえるからこそ、待つこと一秒にすらも恐怖を感じてしまう。
 デパートから来る人々を柱の陰から仔細に見ているが、七海らしい人物は見当たらない。また、敏雄さんと思しき人物も、同じ。デパートから以外の通路にも目を向けて見逃さないようにしているが、それらしい人物はやはりおらず、不安と共に大きな苛立ちが膨れ上がり、思わず切符を握り締めてしまいそうになる。
 ふとデパート側から、見覚えのある服装の人物が近付いてきた。鵜の目鷹の目で注意していたからすぐにわかった。七海だ。一人で群衆に紛れ、平静を装いながらまっすぐにこちらへと向かってきているが、どうやら俺に気付いていない様子で、少し不安げに周囲を確認している。俺は柱から飛び出し七海と目を合わせると、安堵の笑みを返してくれた。きっと俺も同じような顔をしていることだろう。
「巧くいったみたいだな」
「うん、でもいつ来るかわからないから、早く行こうよ。あ、どっち行こうか」
「深沢方面だ。切符はもう用意してある」
 俺は切符を七海に渡すと改札口を抜け、深沢行きに乗り込んだ。デパートは混雑していたものの、地下鉄はそうでもない。俺たちは周囲を一頻り確認してから、空いている席に腰を下ろす。程無くして、動き始めた。
「とりあえず、一段落なのかな」
「まだ安心はできないけど、ひとまず成功だね。だけどここから、どこに行こうか。とりあえず遠くへと思い深沢行きにしたんだけど、七海はどこかあてがあるかな?」
「深沢方面にはJRがあって、そこから関西方面に行けるよ。でも、深沢で降りるのは危ないと思う。終点より、その手前で降りた方が大丈夫だと思うんだよね。ほら、追い駆ける側としたら、なるべく遠くに行くはずだと思うじゃない」
 確かにそうかもしれない。遠くへと逃げることを相手が勘付いているのなら、きっと終点に集中しているのかもしれない。だが、その手前ならばどうだろうか。一つ前だと思っているかもしれない。でももしかして、二つ手前、三つ手前かもしれないなどと、疑心暗鬼になるだろう。それに、深沢方面か結城町方面か、京南線か東慶線かもわからないのだろうから。交通手段だって、地下鉄と特定できるわけが無い。ただ、そうした中でも一刻でも早く河口家から遠ざかる手段を考えられた時、地下鉄で深沢方面だと絞られるかもしれないので、終点には気を付けた方がいいだろう。
「じゃあ、深沢の一つ前にある響野で降りよう。そこからタクシーで最寄のJR駅に行こうか。深沢近くのJRは危ないだろうから、その手前から乗ろう」
「わかった」
 各駅で乗り込む人々に戦々恐々としつつも、何とか無事に地下鉄響野駅で降りることができた。見慣れぬ土地に、どこか閑散とした印象を感じるこの土地に心細さを覚えつつ、駅を出た俺達はすぐにタクシーを拾う。果たして一体どこまで河口家の手が伸びているのだろうか。これから五日間、ずっとこの不安と恐怖に向かい合わなければならない。結構酷だな。
 タクシーで響野駅から、最寄のJR苗穂駅に向かう。この辺は住宅地のため、車内から見掛ける人も少ない。寂しさがふっと胸をかすめたが、すぐに忘れようと奥歯を噛む。感傷に浸る暇など無い、それに寂しさは負い目へと繋がりかねない。ただでさえまだ迷いのある七海に、俺がそんな態度で接していたら失敗してしまうかもしれない。
 JR苗穂駅は一階建ての簡素な造りだった。中には売店と改札口、そして長椅子が六脚あるだけで、他にはこれと言って何も無い。時刻表を見てみれば、関西方面への電車は十分後に到着するみたいだった。
「どこまで行こうか」
「快速の使える駅で乗り換えたいな。とりあえず美桜まで行こう。そこから色々乗り換えられそうだから、着いてからまた考えるか」
「着いてから考えるって、それで大丈夫なの?」
 不安げな眼で七海が顔を向けてくる。
「ここからそこそこ離れているから、大丈夫じゃないかな。それに、同じ路線より別の所へと乗り換えて行く方が、きっといいと思う。大丈夫かどうかなんて確証は無いけど、俺も行ったことの無い土地だから、さすがに行くまでわからないよ」
 苗穂駅からの電車は各駅停車で、乗客もそれほど多くない。空いていた中程の車両に空き座席を見付けるとそこに座り、周囲を一頻り確認してからふと外を見た。春の息吹を感じる景色がまた新たな未来を見せる反面、寂しさを喚起させる。いや、景色のせいじゃない、きっと今は何を見てもそう思うんだ。溜め息を吐くことすらためらう逃亡、か。
 考えても仕方無いとわかっていて、なお考え悩んでしまうのは何故なのだろう。自分に言い聞かせて届かない言葉が、相手に届くものだろうか。隣には七海がいる、怯えた瞳でうつむいており、じっと何かに耐えている。何とか笑わせてあげたい。あぁ、いや、俺は嘘をついたかもしれない、正直になろう。俺は今更ながら、自分の安全を考えている。助けてやりたいと思いつつ、どこかで自分一人でも助かろうと考えているんだ。元々そうしたところで、無意味だとわかっていながら、それでも。
 どうして意味の無いことを、人は真摯に考えてしまうのだろうか。
 電車は停車し、人が入れ替わるなり、また程無くして発車する。当たり前の繰り返しに俺と七海は酷く不安がり、生きた心地を徐々に奪われていく。電車が揺れ進む間も、いつ河口家の息のかかった人間が捕まえに来るかと、怯えている。
 そっと七海が修治の手を握った。突然のことに修治は驚きつつも、優しげな眼差しを向ける。
「ごめん、こうさせて。怖いの」
「俺もこうしてくれていると、安心するよ」
 しっかりと握り返すと、暖かかった。小さくて柔らかく、でもしっかりと握り返してきてくれる。そうだ、俺がしっかりしなくてどうする。そうしないと、この温もりが消えてしまうのだから。
「大丈夫だよね、きっと大丈夫だよね」
「何とかなる、大丈夫だ」
 虚しい会話だと互いに気付いていたけれど、そっと寄り添い合うことで少しだけ信じられるような気がした。何を信じたらいいのかわからない暗闇の中だけど、肩への感触、手に感じる温もり、鼻腔をくすぐる芳香、そんな野暮とも思えることを大事にしてもいいかもしれない。どっちが、なんてことは無い。どっちも俺には大切なんだ。
 美桜で電車を一旦下車し、切符を買い直す。関西方面へは上回りと下回りの、二本のルートがある。下回りの方が栄えており、乗り換えなども頻繁に出来る反面、多くの都心部を通るため目星を付けられている可能性も高い。上回りは下回りに比べ静かな場所を通るが、利用者がさして多くないだろうから目立ちやすいだろう。
「どっちから行こうか」
「木を隠すなら森の中だよね。下回りの方が目立ちにくいんじゃないかと、私は思うけどどうかな」
「そうだな。でもいっそ、上回りで日本海側を通って、そのまま中国地方に抜けるのもいいかな、とも考えているんだ」
「そっか、それもありだね。ずっと上の方で、細かく乗り継いで行くのもいいかも」
 美桜から上回りのルートで乗り継ぎ、中国方面を目指す。ひたすら同じ路線、同じルートで進むのはやはり危険だと判断し、適度に乗り継いで路線を変え、あてども無い先を目指す。あまり話そうと言う雰囲気でも気分でもなかったので、ほとんど無言で時折二三言思い出したように話す程度だったが、ずっと手は繋いだままだった。そうして車窓から見える街灯が目立ち始めた頃、俺達は下車し、今晩の宿を探すことにした。ここは桃浦と言うそれまで訪れた事の無い街で、規模で言えばそう大きくないところだ。ぱっと見た感じ駅前は多少栄えていそうだが、それだけである。俺達は少し駅から繁華街の方へ歩くと、ネオンに彩られた街並みが出迎えてくれているような錯覚を覚え、二人顔を見合わせ小さく笑った。
「あのさ、少しでも姿を変えた方がいいんじゃないかな」
 変装か、確かにいいかもしれない。もしかして行く先々に、俺達の顔写真がそれとなく配られているかもしれない。このままだとすぐに見付かるだろうから、少なからず何らかの変化をつけておいても損は無いだろう。
「そうだな。でも帽子やマスクにサングラスなどは逆に目立つかもしれないから、伊達眼鏡と髪型の変化くらいにしておこう。そうだ、宿に入る前にしておこう。入る時と出る時に姿が変わっていたりしたら、怪しまれてしまう」
 目に付いた大型スーパーに入り、眼鏡とヘアスプレーを購入し、それぞれトイレで身なりを整える。眼鏡は特徴のありそうなのを避け、地味でありふれた伊達眼鏡に。髪型は互いに見るまでのお楽しみだ。逃亡生活ではあるが、こうしたことで何らかの楽しみを見付ける方が精神衛生上良いかもしれない。鏡の前で髪型をセットしながらそんなことを思うと、苦笑が浮かんできた。
 一頻りセットが終わると、トイレの前で七海を待つ。このスーパーのトイレは男女隣接しており、目を離した隙に何かあるなんてことは少ないだろう。俺は慣れぬ眼鏡のつるを指で触りながら、壁に凭れかかる。
「お待たせ。って、何それ、ちょっと意外」
 そうこうしていると、七海が現れた。俺を見るなり驚いていたが、そう言う七海だって同じようなもので、普段のイメージとは違う。
「修治君の頭、つんつんしてる。へぇ、全然イメージ違って見えるなぁ」
「そっちこそ、ロングレイヤーみたいで、何だか別人見たいだよ。いや、何だか新鮮だな。見慣れていた相手だと思っていたけど、少し変えるだけでこうも印象違うものなんだなぁ」
「そうだね。ところでこれ、変じゃないかな。ハンドブローとか無いから手でやったんだけど、なかなか上手くいかなくて」
「別に変じゃないよ。似合っているし」
「そっか。うん、ありがとう。今度からたまにこうしてみようかな。いつもは下ろすだけだったり、少し結うくらいだったからね」
 自然とこぼれた笑みは、何だかとても懐かしく思えた。
「何だか少しだけ気が抜けたからか、おなか空いてきちゃった。考えてみれば、お昼も食べていないんだよね、私達」
「そうだな、俺も腹減ってどうしようもないよ。それじゃあ、どこか適当なところに泊まるか。メシはその辺のコンビニで買ってさ」
 タクシーを拾うと、どこかいい宿はないかと運転手に訊き、連れて行ってもらうことにした。あまり高いところだと何となく目を付けられそうな気がしたので、安めのシティホテルを適当に選んでもらう。途中、観光か何かで来たのかと訊かれた時には焦ったけれど客を沈黙させない心遣いに感心するのと同時に、この辺では観光客も珍しいのかと周囲を見ればどこか納得し、ぶらりと気ままに旅行をしている最中で、今日は着いたばかりで明日から見て回るのだと返しておいた。
「そうですか。でもこの辺は何も無いですからね。石宮にあるバラ園もまだ時期じゃないから、今見ても大したこと無いですしね」
「そうなんですか。他には何かいい場所ありますかね」
「少し離れた場所なりますけど、久住の記念博物館ですかね。何でも昔映画の舞台になった場所で、その時の物が飾られているみたいですよ。今年五十二になる私が生まれるより前の映画なので、馴染みも何も無いと思いますけど」
「逆に新鮮な発見があるかもしれませんから、そこに行ってみようかな」
「電車で篠路まで行き、そこから久住行きのバスに乗ればすぐですよ」
 別にこうした会話は必要無いのかもしれない。けれど、無言を貫くと何かしら怪しまれるかもしれない。いや、怪しまれないかもしれないが、僅かながらでも負の印象を抱かれるだろう。どんな相手にも疑念や不信感を抱かれてはいけないのだ。
 降りた先には五階建てのシティホテルがあった。繁華街からほんの少し離れた、けれども寂れてなんかおらず、人通りもまばらにある。建物自体そう新しくは無いが、かと言って古臭く汚いわけでもない、手頃な宿だった。運転手にコンビニの場所を訊き、礼を言ってから別れる。コンビニはこのホテルの通りの側にあるらしい。
 コンビニに行く前に、とりあえずチェックインをしておく。ホテル内部は落ち着いた造りになっており、そう広くは無いが悪さを感じない。むしろ、好感すら持てる。部屋は四階の中程にあり、非常階段からそう遠くない位置にあるため、これと言った不満は無い。俺は手渡された鍵を使い、入室した。
 室内は簡素ではあったが殺風景と言うわけでは無く、小綺麗と言った方が的を射ていた。夜景はこの街の賑わいと比例して、そう美しいものではなかったが、そんなものはどうでもいい。幾ら心に余裕を持たせるべきだと思っていても、そこまで求めてはいけないだろう。俺と七海は各々のベッドに荷物を置くと、大きく息を吐き、ふっと力無い微笑みを交わす。
「結構いいところだね」
「そうだな。割と綺麗だし、ベッドも気持ち良いし、いいじゃないか」
「うん。それに何かあっても、修治君がいるしね」
 そこではたと気付いたのが、七海と同じ部屋で一晩を過ごすと言う事実であった。状況が状況でも、少なからず意識してしまうのは哀しい男のサガだろうか。困ったものだ。だが、意識したところで今更どうこうしている余裕なんて無いし、七海だってそんな気は無いだろう。考えるだけ無駄なんだ。
「それじゃ、メシでも買いに行こうぜ」
「そうだね、おなか空いちゃったし、ちゃんと食べておかないと持たないもんね」
 宿を出、コンビニで翌日の朝食も買い込んでおく。冷たくなるのは仕方無い。特にこれと言ったことも無く、宿に戻る。鍵をかけてカーテンを閉めてから、簡単な食事を済ませてしまう。何だかんだ行っても、満腹は心の余裕を生む。全て平らげると、少しだけ楽になれた。
 大きく息を吐いてからぐるりと室内を見回し、それからカーテンやドアをじっと見詰め、また視線をあてどもなくさまよわせる。時刻はまだ夜の九時、寝るには早いが、かと言って何する気にもなれず俺も七海もただそうしてばかりいる。
「テレビでも見ようか」
「あ、うん、そうだね」
 点けてみたものの、三十分とせずにどちらが言うとも無く消した。沈黙が辛いのに、静寂でいないと苛立つ。ワガママなのかもしれないが、楽しそうにしていたタレント達を見ていられなかった。少し前まで笑っていたはずの番組なのに、今はこの現実の重さに耐え難く、平和に生きている人々に対し八つ当たり気味に怒りが湧き上がる。
「少し早いけど、寝ようか」
「もうちょっと起きていたいな。暗くするのもそうだけど、寝るのが怖いの」
「そうか。まぁ、その気持ちすごくよくわかるよ」
 だからと言って、何の解決にもならないままだからこそ、内心苛立ちを膨らませる。わかっていても、どうにかしないと意味が無いんだ。傷の舐め合いではどうにもならないと知っているのに。解決なんて無い、ただ制限時間内に捕まらないよう、逃げるだけ。実際動いている間はまだいいが、こうして一つ所に留まっていると、不安で仕方無い。追手はすぐそこまで来ているかもしれないのだ。そんな状況下で、果たして落ち着いていられるだろうか。
 そっと七海を一瞥すれば、同じようにどこか苛立ったような素振りをしている。組んだ手をもぞもぞと動かしては唇を歪め、深呼吸を静かに繰り返していた。七海も同じなんだ。いや、俺よりも不安なはずだ。こんな時、何を言ってあげればいいのだろう。
「どうなるんだろうね、これから」
 七海からの問い掛けに、俺は慌てて顔を上げた。
「どうなるかわからないけど、明日も笑っていたいね」
「そうだね。でも、見えてこない、そうしたいんだけど全然その絵が見えてこないのよ。何だろう、不安、なのかな。修治君を信じていても、どうしても怖くなってきて。ううん、頼りないってわけじゃないの。でも……」
 シーツを握り締め、うつむく七海にどう接してあげればいいのか、わからなかった。何か言おうとしても、言葉が喉に詰まるだけで、出てこない。喉を抜けたと思ったら、既に忘れてしまっていて、結局重苦しい溜め息に変わる。そんな辛い沈黙に追い詰められてしまったのか、七海は膝に顔を埋めた。
「夜が怖い、寝るのが怖いの。少しでも先への期待を持てたから、それが目を閉じた時に消えちゃうかもしれないと思うと、堪らないの。子供みたいだよね。もう吹っ切れたとばかり思って大人を気取っていたけど、駄目だった。生きようとすることは怖いって、思い出しちゃった。一人は怖いんだって、思い出しちゃったよ」
 俺はそっと七海の隣に座り、抱え込むようにしながら頭を撫でた。七海は俺に体を預け、震えている。
「修治君はどうなの?」
 もう片方の手をそっと七海の手に伸ばし、握り締める。包まれた手が暖かく、心地良くてたまらない。直に感じる七海。
「正直な話、怖いよ。俺も凄く怖い。けれど、もう戻れない以上、逃げ切らなければならないんだ。何が何でも、だ。七海を助けたいし、こうなった以上捕まれば俺だって無事で済まない。だから、俺は自分を助けるためにも、一生懸命になる。だから七海も協力して欲しいんだ。俺、もっと七海と一緒にいたいからさ」
 何度も何度も七海は頷いた。もう言葉は出てこなくて、ただ互いの体に触れ合っては温もりや息遣い、匂いを感じ、その中で安らぎを得ていた。七海がいるから、俺がいると確認できる。闇に怯える子供も、二人手を繋げば進んで行けるだろう。転んでも、怖くても、泣かない。闇の先にあるだろう光を信じて、進むだけだ。
 手の甲に、熱い涙が一粒二粒と落ちてくる。不安と優しさが混じった、ゆらゆらした気持ち。これ以上無い七海の想いが、これに込められている。受ける程に胸が締め付けられ、愛しさが膨れ、出口を求めて感情が暴れ、そしていつの間にか俺の瞳からも涙が流れていることに気付いた。
 各々の涙は揺らめいていたが、一つになれば決意となり染み込んだ。

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