七.

 河口家の秘密を知り始めてから、与えられる食事を素直に美味しいと思えなくなっていた。儀式だの生贄だのと裏で色々計画しているのに、表向きは仲良さそうに顔を合わせ、笑っている。そんな彼らの気が知れず、上等な料理だろうが何だろうが、食べている時も幸せを味わえなくなってきた。
 日に日に陰鬱になっていく心、拭い切れず膨らみ続ける不信感、芽生えてもすぐ枯れる勇気、身も心も負のカンナで削られている心地がして堪らない。信じたくはないが、この家には本当に『災厄』が眠っているような気さえしてくる。生気が吸い取られていくような感じがするのは、この生活のせいか『災厄』か。
 だけど、今日は違った。久々に何事も無くぐっすりと眠れたためか、割と朝食が美味しいと思え、気分が良い。快眠は心身を蘇らせる。多少雲が目立つ天気だが、それでも目に映るもの全てが彩り鮮やかで、思わず鼻歌でも出そうな程に心軽やかだった。
 散歩をすぐにでもしようかと思ったが、食べたばかりなので少し休んでからにしようと、のんびり自室に向かう。足元を、壁を、窓の外を、そして時折天井をも見上げつつ頬を緩ませ歩いていると、不意に背後から敏雄さんに呼び止められた。
「少し、よろしいでしょうか」
「何ですか」
 敏雄さんに苦手意識を持っているからかもしれないが、この人が何か言ってくる時にはあまり良い事が無い。それだけに、今も内心溜め息をついた。
「栄一様や恵子様を始め、私共この河口家に関わる人々は皆、七海様のことを気にかけております。七海様と年の近い者として和巳や沙弥香などもおりますが、立場としてもやはり修治様がお側にいるのが適任かと思います。修治様がここに来られてから、七海様は実によくお笑いになっておられます。仲良くされているお姿を見るのは私共も微笑ましい限りなのですが、くれぐれも特別な感情は抱かぬよう、御注意を申し上げておきます」
「えっと、まぁ、そうですね。七海と僕は一応家族ですし」
 頷いておいたものの、他人からそう釘を刺されては、反骨心が顔を覗かせる。それが例えここで何十年も働いている敏雄さんだとしても、だ。どうして他人にこんなことを注意されないとならないのだろうか。幾ら敏雄さん達が大切にしているとは言え、納得がいかない。
「河口家において、いたずらに問題を起こすことは感心致しません。修治様が問題を起こしていると言うわけではなく、これからそう言ったことが起こるやもしれません。可能性の問題です。修治様は河口家の一員として、自覚をもっと」
「いい加減になさい」
 柔らかい響きではあったものの、強い威厳を持った声が背後から飛んできた。振り返れば、泰然と近付いてくる恵子さん。そうして俺の隣に立つなり、きっと敏雄さんを睨み付けた。
「修治さんが誰にどのような感情を抱こうが、周囲が口出しするようなことではありません。それにもし、修治さんが七海とそうした関係になろうとも、間違いなど起こすはずありません。失礼ですよ」
「しかし奥様、私は可能性の一つとして言ったまでで」
「口が過ぎますよ。いつから七海や修治さん、そして私の言に意見を挟むようになったのですか。貴方が河口家河口家と修治さんに口酸っぱく言っているのならば、その河口家の一員である修治さんを縛ることは使用人として失格ですよ。分をわきまえなさい」
 大人しく、物腰柔らかで控え目な人だとばかり思っていたが、さすがは河口家当主の妻である。あの敏雄さんを一喝し、黙らせた。敏雄さんは一歩下がると、俺と恵子さんに深々と頭を下げ、姿勢を正す。
「差し出がましいことを申し上げ、すみませんでした。以後気を付けたく思います」
 もう一度深々と頭を下げ、敏雄さんは踵を返した。そうしてすっかり敏雄さんが見えなくなると、恵子さんがいつもの柔和な微笑をもって、そっと視線を交わしてくる。
「ごめんなさいね、修治さん。嫌な思いをさせてしまって」
「いえ、大丈夫ですから」
「本当に、気にしないで下さいね。七海は大事にされていますから、あのようなことも多々あるでしょうけど、私としては修治さんに七海をお願いしたいのです」
 冗談や社交辞令ではなく、本気の願いが込められているような柔らかい眼差しに、俺は思わず視線を逸らしてしまった。どこか見透かされているような気がしたからだ。はっきり七海を守ってやると、そう言えない自分を見抜かれ、その上で背中を押されたような気がした。
 そして、照れもある。昨日の今日であるこの話題、今は俺だけの秘密にしておきたいと言う淡い想いが、いきなり人々の眼に晒されているのは辛い。人目を憚らなければならないような、悪い恋ではない。けれど、どんなに立派に生まれてきた芽も、ある程度育たなければ周囲の風に耐えられず散ってしまうんだ。
 この恋に時間は無い。多少どころではない艱難辛苦を乗り越えなければならないので、些細な精神的障壁に戸惑っていてはいけない。乗り越えられるかどうかではなく、乗り越えなければならないんだ。任され、守り切らないとこの恋はおろか、七海が死んでしまう。俺だってどうなるかわからない。守ることを恋だと言わないが、守る理由としてそういうものがあっても、かまわないだろう。
「わかりました」
 にっと笑ってみせると、恵子さんもようやくどこか固さが抜け、互いに笑顔で頷き合った。万の言葉よりも、一つの頷きが心に響く時もある。本当はもっと言葉を繋げたかったけれど、それができなかったのはきっと拭い切れぬ羞恥心のせいだろう。
「それでは、私はこれで」
 恵子さんと礼を交わすとすれ違い、俺は七海の部屋にでも行こうかと思ったが、今行けばまた敏雄さんに何か言われるかもしれない。考え過ぎと言えばそれまでだが、どこで誰が見ているのかなんてわからないし、今はどうもためらってしまう。さっきは恵子さんがいたから助かったものの、もし次に敏雄さんと出会った時にそんな僥倖があるとは限らないだろう。
「書庫でも行くか」
 一階の書庫に入る時、いつも妙な胸騒ぎを覚える。そんな胸騒ぎにも次第に慣れてきているのか、ドアを開け、一歩踏み出して本の匂いにどこか安心感を覚えた自分に気付くと、思わず笑みがこぼれた。ポケットの中にある机の鍵を確かめつつ、例の場所へと静かに向かう。
 すっかり見慣れた机の引出しに鍵を差し込み、中から本を取り出す。そうして椅子を引き、そっと腰掛けてから電灯を点け、続きを読み始める。今日は一体どんな発見があり、どこまで絶望するのだろうか。
「お勉強ですか?」
 いつの間に近付いたのだろうか、まだ読み始めて一ページも進んでいないのに、沙弥香さんが背後に立っていた。冷や汗が吹き出るよりも早く振り返り、見慣れた穏やかな笑顔を視認するなり慌てて本を閉じ、少しでも見えないようにと体の陰に隠す。だが次の瞬間、こうまで露骨に慌てたら怪しまれるだろうと気付いたが、もう遅い。できることは、この凍り付いた顔を何とか緩ませるだけだ。
「びっくりしたなぁ、突然声を掛けるもんだから。驚かさないでくれよ、心臓が止まるかと思ったよ。しかし、いつの間に入ってきたの、全然気付かなかったよ」
「すみません、驚かせてしまって。お掃除をしていたら、修治さんが見えたものですから、つい」
 深々と頭を下げる沙弥香に、修治の鼓動は早まる一方だった。変わらぬ笑顔、物腰、だが秘められた雰囲気がどこか違う。どこか慇懃無礼にすら見える。修治は用事があるとでも言い、すぐにでも逃げ出そうとしたが、何故か立ち上がることはおろか、寸毫も体を動かせずにいた。
「ですが、何も隠さなくてもよろしいじゃないですか。折角歴史のお勉強をなさっているのですから」
 世界が一瞬止まったと思うが早いか、さっと血の気が引き、頭の中から何もかもが消えて行った。笑顔を作ることすらも忘れ、ただどう否定しようか、どう誤魔化そうか、それしか考えられない。
「隠さなくてもよろしいんですよ。それ、七海様の本でしょう。確か、河口家の一切が書かれた歴史書、ですよね」
 この人は本当に、どこまで知っているのだろうか。この本は一冊限りで、かつここにいつも入っており、常に鍵がかけられている。鍵は七海のマスターキーと俺のスペアキーのそれぞれ一本ずつしかなく、しかも特殊な作りになっており、簡潔に開けることも複製もできないと、以前七海から聞かされた。だから、沙弥香さんがこの本を知り得るわけがないんだ。
 はったりだ。沙弥香さんは七海と特別親しいみたいだから、本のことを少しでも聞いたのだろう。そして俺が秘密を探っていると知った上で、こっそりと本なんかを読んでいるから、河口家に関する本、それも歴史書か何かだと踏んだのだろう。そうしてその予想は俺の慌てぶりで確信したのだろうが、そうはいかない。七海が信用していようがなかろうが、関係無い。敵かもしれない相手に、易々と機密事項を話すわけにはいかないんだ。
「いえ、違いますよ。何で俺がそんな難しいのなんか。いや、これは言いにくいんですけど、実はエロ小説なんですよ。たまたま見付けて、つい」
 恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべる修治に対し、沙弥香はそんな様子すら見透かしているかの様に、母親みたいな微笑で小さく頷くと、一歩近付いた。
「心配しなくてもよろしいんですよ。私は修治さんや七海様の味方ですから」
 味方。そう言うけれど、信じていいものだろうか。いや、まだ安易に信じてはいけないだろう。七海に近付いているのも、何か別の目的のためかもしれない。現に沙弥香さんには俺の知らない顔がある。
「味方って、何のことですか?」
 とりあえず、とぼけてみた。きっともう遅いだろうが、そう簡単に答える訳にはいかない。だが沙弥香さんはそんな俺が余程おかしいのか、僅かに背を丸め噴出し、口元を手で押さえつつもけらけらと笑い出した。
「そんなに警戒しなくても、大丈夫ですよ。助けたいんでしょう、七海様のこと。儀式で死ぬ運命にある七海様を助けるため、河口家の歴史を調べ、何とか死なせない方法は無いかと調べている。そうでしょう」
「一体、何者なんですか、沙弥香さんは……」
 何故ここまで知っているのだろうか。洞察だけにしては、詳し過ぎる。七海が話したのだろうか、それとも長年ここにいればそのくらい知っていて当然の事なのだろうか。もしくは常にどこかで見張られていたり、盗聴されているのかもしれない。そうだ、この屋敷ならばそうした監視システムがあっても不思議ではない。すると、俺の行動はもしかしたら全て筒抜けなのだろうか。
 動揺を隠し切れない修治に、沙弥香がふっと微笑んだ。
「何者だとか、そんな物騒なものではありませんよ。ただ、七海様が好きなメイドです」
「そんな、いや、そうなのかもしれないけど、どうしてそんな……」
「それに、そこまで慌てておいて、今更違うだなんて言えませんよ」
 やられた。だが、不安や焦りなどは不思議と沸き起こらず、目の前の晴れやかな笑顔のせいか、どこか爽やかな敗北感が胸に広がっていた。あぁ、もしかしたらこの人は本当に味方なのかもしれない。いや、そんな安易なことを考えてはいけない。そう理性が働きつつも、どこかどうでもよいとすら思えてきていた。
 だがすぐに我に返った。気を抜いてはいけないんだ。本を持つ手に力を込め、口元はしっかりと引き締め、きっと真っ直ぐに沙弥香さんを見詰める。その顔付きから沙弥香さんの微笑みが消え、互いにしばらく無言のやり取りが続いた。
「もう一度訊くけど、貴方は一体どこまで知っているんだ」
 それ程大きくない声ではあったが、静かな書庫ではそれなりに聞こえ、ほんの少し焦ったものの、すぐに気を持ち直した。しかし沈黙は思っていたよりも長く、持ち直した心構えも不安の波に揺さぶられ始め、徐々に息詰まる。
「そうですね、修治さんの知っていることは、きっと全て知っているでしょう。儀式のために七海様が生贄になることも、それを行うのは当主である栄一様であることも、河口家の大まかな歴史も、知っております」
 詳細を問い正すことも無く、沙弥香さんは本当に知っているのだろうと、ある種の確信を持って納得できた。やはり最も七海と親しくしているから、少しずつそうした情報が入ってくるのだろう。
 ふと、そこで考えが止まり、ある疑問が浮かんだ。
「なぁ、栄一さんが儀式を行うと言ったが、それはどういうことなんだ。儀式をするのは七海じゃないのか」
「栄一様が七海様を刀剣で貫き、その血によって祭壇と曼荼羅を完成させるのです。七海様は神の巫女、栄一様はそれを捧げる神官として、それぞれ儀式で活躍されるのです」
「じゃあ、栄一さんが七海を刺すのか?」
 裏に黒い影のある人だとある程度の予想はしていたが、まさか自分の娘の命を奪おうとしているなどとは考えもつかなかった。儀式のお膳立てをしても、実際にやるのは七海一人だけだと思っていたからだ。いや、違う。出会った時からもうすでに、どこか安心できない相手だと思って用心していたし、また儀式のことを知った時も、そのためならば黒いことに手を染めるだろうとも思っていた。しかし幾ら何でも自分の娘を刺してまで儀式を行う人だとは思っていなかっただけに、足元が揺らぎ、世界が崩れてしまいそうな衝撃が理性やそれまでの常識を引き裂こうとしていた。
 だがすぐに、あの人ならやりかねないとも思い直せた。目的のために手段を選ばない、それが何らかの利益になるならば、例え愛娘だろうが使う。そうでなければ、千年近い歴史の中で常に強者として残れないのかもしれない。名家の裏に黒い影あり、か。
 それでも、納得などしたくない。それにしても、七海はこんなことまで沙弥香さんに喋っているのだろうか。だとすると、幾ら何でも話し過ぎではなかろうか。自棄になっているのか、それとも誰でもいいから助けて欲しいのか、どちらとも判断つかないけれど……いや、今はどうでもいい。それよりも、もっと優先すべき考えがある。
「何でそんなことを、俺に教えてくれるんだ?」
「そうですね、理由は色々ありますけれど、やはり一番大きいのは修治さんが七海様を助けてあげられる人だと、そう思っているからです。それに、修治さんはどこか信じたくなる、そんな人なんです」
 沙弥香さんにつられ、修治は頬を緩めると一つ頷いた。それも僅かなことで、すぐにまた修治は口元を引き締め、眉間にしわを寄せる。
「でも、俺はどうしたら七海を助けられるのか、わからないんだ。色々と考えてみたけれども、これと言った方法が思い付かない」
 顔を顰め、難渋する修治の瞳を沙弥香がじっと見詰めた。
「逃げて下さい、七海様と共に」
「逃げるって、どうやって。こんな山の中にある屋敷からなんて、無理だ。もし逃げたとしても、すぐに異変に気付かれるだろうから、山狩りが行われる。ふもとの街までも結構遠いし、待ち伏せされたらアウトだ」
「えぇ、歩いたら捕まります。もしここから二人だけで逃げ出したとしても、今おっしゃられたように山狩りが行われ、逃げられはしないでしょう。けれど、一つだけ方法があります。七海様は明日、敏雄さんと共に街へ買い物に行きます。それに修治さんも同行し、買い物の最中に七海様を連れ出し、逃げて下さい」
「逃げろと言われても」
 逃げ切れるものなのだろうか。河口家の力は無知な俺だって、ここに来る前から知っていたくらいだ。日本中至る所にその力が及んでいるだろうから、どこへ逃げても捕まるのは時間の問題だ。国外逃亡はビザも知識も無いから無理だろうし、そもそも空港や港は真っ先に手配されるはずだ。
「儀式まで、あと一週間ありません。正確には五日、たった五日です。七海様を助けようと、私は何年も考えてきました。だけどなかなかその機会は訪れず、いたずらに日は過ぎて行きましたが、ようやくそれが訪れたのです。これは最初で最後のチャンスなのです。七海様一人で逃げるには荷が重く、また私が逃がそうにもその機会は訪れませんでしたが、修治さんならできるはずだと思っております。もちろん河口家から逃げることは容易でありませんし、その五日間だって永遠とも思えるでしょう。けれど、その五日間を逃げ切ることができたならば、もう儀式を行う意義が無くなりますので、きっと七海様は助かることでしょう」
「五日間、か」
 確かに五日なんて、あっという間だ。日々ぼんやりと生きていたら、いつの間にか一週間が過ぎてしまう。だが、この五日間は逃亡生活だ。寝ても覚めても、一瞬たりとも気の抜く間も無い生活に、果たして俺と七海は耐えられるのだろうか。
 不安でならない。できなければ七海は死に、俺だってその事実を背負ったままずっと生きて行かねばならない。いや、それすら危ういかもしれない。これより他の方法が無い以上、やり遂げないことには未来など無い。しかし、もし仮に成功したとしても、果たして本当に笑える生活が訪れるのだろうか。
「修治さんの不安はわかります。けれど、まずこれをやらないことには、どうにもならないのです。私は『災厄』など、信じておりません。それにより人身を捧げる悪習を一刻でも早く、断ちたく思っております。大丈夫、きっと修治さんなら七海様を助けることができます」
 沙弥香さんの励ましも、空虚なものにしか思えなかった。本当は力強く頷いて約束したいのだけれども、あぁ、それができない。本当に俺がそんなことできるのだろうか。不安が沈黙を生み、それが辺りを支配すれば、気まずさが二人の間の壁となる。
「少し、考えさせて下さい」
 ようやくそれだけが言葉になった。
「わかりました。これは大きな問題ですし、危険ですので強制することでもありませんしね。けれど、どちらを選ぶにしてもこの事はどうか心に留めておき、なにとぞ口外しないようにして下さいませ」
「わかった」
「それでは私はこれで、失礼しました」
 一礼した沙弥香が踵を返し、書庫を出て行った後も、修治はしばらくその背の幻影を見続けていた。そうしてしばらく耳鳴りのような静寂に身を浸し、背に回していた本をじっと眺める。
 文句一つ出てこなかった。何か悪態をついて少しでも心の靄を晴らしたかったが、この本を眺め考え、先程のやり取りを反芻する程にやり切れなくなってきて、ただ歯噛むばかり。誰に対して、何に対してなのか、自分でもよくわからない。悔しくて、でもどうにもできなくて、そっと本をしまうと、忌々しげにそこを睥睨しながら立ち上がり、自室へと戻った。
「情けないな、俺は」
 方法はおぼろげだが、ともかく目的と道は見えた。けれど、そこに至るまでの暗闇が怖い。幾ら決心しているつもりでも、やたらに傷付きたくなんかないし、恐怖に慄きたくもない。そうしたものを抑えないと先に進めないことはこれまでの経験から理解していても、比べ物にならないであろう未知の、だが確固たる巨大な悪魔が俺を蝕み呑み込もうとしているのが手に取るようにわかる。
 やるべきことがわかっていて、なお先に進めないのは、それに立ち向かう勇気が無いからだ。蛮勇と呼べる程の、無茶が欲しい。あぁ、わかっている、今はそんな願望を並べ立てる時ではないことくらい。今ある勇気でどうできるか、それが大切なんだ。
 色々思案してみたものの、結局何一つ答えが浮かばず、そのうち修治はごろりとベッドに寝転がると、大きな溜め息をついた。息に色や形など見えないが、修治はじっと溜め息の彼方へ目を向ける。ぼんやりと、だがその先に答えがあるかのごとく集中し、しばらく虚空を見詰めていた。
 少し肌寒い風の吹く昼下がり、修治は重い足取りで屋敷の中をあても無く歩いていた。表情そのものにさほど変化は無いが、ぼんやりと視線をさまよわせては何かに気付いて小さく肩を落す姿が、傍目からでも何か悩みでもあるのかと察することが容易にできる。
 逃亡、か。
 立ち止まり、窓の外へ目を遣る。千切れる雲は離れていることに気付かないのだろうか、そよぐ木々はその嘆きを誰に伝えようとしているのだろうか、考える程に寂しくなってきた。立ち止まることに意味は無い、けれどもそうすれば大きな渦を生む。
 果たして七海はついてきてくれるだろうか。あいつは儀式に対し責任を感じているだろうから、一人だけ助かろうとはしないだろう。それに、自信が無い。きっと河口家ならば、国家権力さえもどうにかしそうだ。もしあるのならば、私設情報網だけでさえ、かなり強力だろう。
 それでも、前向きに逃げるしか方法は無いのだから、気が重くなる。ゆっくりと歩き出し、解決策を何とか見付けようとしていると、一階廊下から表玄関へと向かっている和巳さんを見かけた。すぐに小走りで近付き、挨拶する。
「これから何をするんですか」
「天気もいいしね、庭木の手入れでも」
 和巳さんはちらと周囲を見回してから、そう言った。きっと先日の敏雄さんの言葉を気にしているのかもしれない。
「それじゃあ、ちょっと一緒にいてもいいですか」
「どうぞどうぞ」
 二人で庭先へと赴いた。和巳さんは納屋から庭木の手入れ道具を出し、俺に気を遣いながら枝を切り揃えていく。そんな和巳さんに俺はほだされ、幾分か楽になるのを感じながら、つい笑顔になってしまう。
「最近暖かくなってきたと思っていたけど、やっぱり風が吹けばまだ寒いね」
「三月もそろそろ終わりに差し掛かっているのに、ちょっと寒いですね。いや、それにしても手入れ、上手ですね」
「これでも、結構勉強したからね。どこをどうすれば、綺麗なバランスが取れるのかと。でも、まだ全然だけどね。ようやく形になってきた程度だよ」
 全然と言うが、素人目からすれば素晴らしいとしか思えず、ただ感嘆するばかりだ。三角錐状のものが多いけど、他にも枝振りにより整えられているものも多く、一見しただけで和巳さんの努力の成果が窺える。
「そうですかね、俺には充分に思えますけど。やっぱり出来る人から見たら違うのかな」
「あはは、ありがとう」
「それで、こういうのはいつ頃から覚えたんですか?」
「庭木の手入れは中学生くらいからかな。小学校の三年生くらいから、この家のお世話を始めてね、当時は遊びたい盛りだったから、ちょっとだけ友達が羨ましかったりしたな。あ、これは内緒だよ。まぁ、でも中学校に上がった時くらいから、徐々に自分の役割みたいなのを自覚し始めてきてね、自分の人生はこれしかないんだ、だから早く色々な仕事を覚えなければいけない、なんてね。高校には行ってないんだ。もう自分にそこまで学はいらなかったし、それよりも必要な知識はここで学んでいるからね」
 こうした話を聞くと、自分が少し恥ずかしくなってくる。一体自分はどうして進学したのだろう、何の意味があるのだろう。目的無く、ただ惰性で生きているだけだ。もしかして俺は今回の七海のことで、初めてとも言える人生の目的を抱いたのではなかろうか。
 そんな俺とは違い、七海も生まれた時から役割を与えられ、成長するにつれそれを自覚してきた。ただ、七海の役割は普通の人とは違い、己が滅びるためのもの。七海もそれは奥底において嫌がっているし、俺もおかしいと思う。しかし、一般の感覚から俺達の方が違っていれば、行動に自信が無くなってしまう。七海を死なせるなんてことは阻止したいけれど、俺は世界に逆らってまで自分の意志を貫ける程、強くはない。
「なるほど。ところで話は変わるんですが、いいですか?」
「いいよ。僕でよければ、何でも訊いてよ」
「では、もし大切な人かみんなの幸せかを選べと言われたら、どっちを選びます?」
 和巳さんははたと手を止め、しばし中空を見詰める。
「ふむ、どうなんだろうね。みんなが駄目になったら大切な人も悲しむだろうけど、大切な人がいないとどうにもならない。難しいね」
「ですよね」
 全くもって、その通りだ。でも、それでは何の解決にもならない。俺だってそう考えて迷っている。知りたいのは正しいかどうかはともかく、どちらかの結論だ。
「大切な人がいなければ毎日が虚しくなるし、大切な人が傍にいても笑顔じゃなくなると辛い。でも、僕はそれでも大切な人を選びたいかな。みんなでなんて、正直よくわからないし、実感できないだろうからね。エゴかもしれないけど、だったら確かなものを感じられる近くの大切な人を選びたいかな」
「なるほどね」
 和巳さんの考えは俺がどこかで言って欲しかったのと、ほぼ同じかもしれない。みんななんて言っても、結局そのみんなは七海の犠牲なんて知り得ぬまま、生きるだろう。ならば、エゴでもいいから七海と生きていたい。大勢が七海の功績を知らなければ『災厄』による不幸も、それを封印した後の幸福も知らないまま。知らないと言うことは、それが当然のままになるのだ。それに、今の俺には七海が一番大切なんだ、一番傍にいて欲しい人なんだ。親も兄弟もいない、友達も大切だけれど、やはり今俺は七海を必要としている。守ってあげたいし、抱き締められたい。互いに支え合いたいと言う、シンプルな結論なのだが、それでいいじゃないか。後は迷わず進めるかどうかだ。そうしなければ、ひたすら後悔するだけになるだろう。
「何か参考にはなったかい?」
「えぇ、ありがとうございました」
 礼を交わすと、和巳は満足そうに頷きながら庭木の手入れをまた始めた。しばらく修治はその様子を見ていたが、やがてそっと踵を返し、七海の部屋へと赴いた。
「入っていいかな」
「どうぞ」
 ノックし、許可をもらってからドアを開けたものの、そこではたと立ち止まった。窓辺にある花を愛でている七海がすごく綺麗で、ふとここに来た理由すらも一瞬忘れてしまい、思わず見惚れてしまった。花は白く可憐なフリージア、その花弁を指先でそっと撫でてからふっと一つ溜め息をついた様に見えたが、気のせいだろうか。涼しげな、いや、悲しげな視線をフリージアに注ぎ、まるで俺のことなど気に掛けていないかのようだ。
「どうしたの、そんなところでボーっとしていて」
「あ、いや、何でもない。それより、話したいことがあってね」
 そっと移された視線にまごつきつつ、後ろ手でドアを閉め、七海へと近付く。あまりドアに近いと、誰かに聞かれるかもしれない。触れ合えるまであと一歩二歩と言うところで、これから話すことを頭の中で整理し、見詰める。
「沙弥香さんにさっき書庫で会ったんだけど、あの人もこの家のことや儀式のことを知っていたよ。公然の秘密ってやつなのかな。まぁ、まだ知らなかったこと、これからどうすべきかなど、色々教えてもらったよ」
「そっか、沙弥香さん、修治君に話したんだ。あの人、修治君を推していたからいつかこうなるとは思っていたけど、なるほどね」
 七海はやはり、沙弥香さんと色々話し合っていたのか。もちろん敏雄さんも栄一さんから聞かされているだろうから、和巳さんが知らないわけが無い。何だ、全員知ってるんじゃないか。けれど、その秘密の共有はきっと二つに分かれている。一つは儀式を成し遂げる派、もう一つは七海を生かす派。後者には恵子さんや沙弥香さんが該当するだろう。もしかしたら和巳さんもそうだろうか。しかし、どうも沙弥香さんを信じきれない。
「それで沙弥香さんから聞いたんだけど、明日敏雄さんと買い物に行くんだってね」
「うん、きっと最期のお買い物かな」
 胸が苦しくなった。けれど、今はその苦しみを取り除くために動くんだ。
「その時、俺も連れて行ってくれないかな」
「……ねぇ、何を考えているの?」
 さすがに七海も何か勘付いたらしく、訝しそうに訊き返してきた。それもそうだ、こんな時に事情を知っていて、単に買い物に同行したいなんて言う奴はいない。俺がそっと顔を近付けると、七海は真剣な眼差しを返してきた。
「逃げよう。今ここから逃げるのは難しいけれど、街まで行けば何とかなるかもしれない。何とか逃げ出して、儀式の日をやり過ごそう。儀式って、指定の日じゃないと効力を発揮しないんだろう。だったら、儀式の日をやり過ごすのも、一つの手じゃないかな」
 言っているうちに、これはいいんじゃないかと不思議な自信が湧き、気分が高まってきた。けれど、そんな俺の気持ちとは別に、七海は辛そうに首を横に振った。
「できないよ、そんなこと。私が逃げたら、前にも言っただろうけど、みんなが不幸になるかもしれない。一人で色々と考え直していたら、やっぱりこの結論に戻っちゃったよ。私は私に与えられた役割をやり遂げないと、後悔すると思うの。生き続けたとしても、きっとそのことを考え続けるかもしれないから」
「顔も見えない、誰かもわからない人々のためにそこまでする必要なんか無いよ。七海の言うみんなって、何だ。世間とは、一体何だ。七海のみんなや世間は、自分に関わりある人達なんじゃないのか。俺は七海に死んで欲しくない。恵子さんだって、沙弥香さんだって、きっと同じ思いだ。詳しい交友関係なんてわからないが、少なくともお前の世間の一部は死んで欲しくないと思っているんだよ。だから、もっと自分を大切にしてくれ。誰に感謝されるわけでもないんだぞ、ただの自己満足かもしれないんだぞ。それよりも、俺達を悲しませないでくれ、頼む」
「だけど、私は」
 うつむき視線を外した七海の肩を、修治がしっかりと掴む。
「七海だって、生きていたいと言っていたじゃないか。それに、その『災厄』とか言うのが本当に起こるかどうかわからないものだし、儀式にしても効果の真偽なんて誰にもわからないだろう。わからないもののために、死ぬ事なんて無いんだ。もしやるならば、それが起きてから別の対策を取ればいい。偉い御先祖様だかが封印をする前からも、それはあったんだろう。でも、全滅なんてことは無かった。もしあったら俺達、こうしてここにいないだろうからな。そうだろ」
 唇を真一文字に引き結び、相変わらずうつむいている七海の肩が、ぴくりと強張った。
「儀式までもう一週間切ったんだろ、だったら何とか逃げられるかもしれないじゃないか。一ヶ月逃げろとかだと、きっと無理かもしれない。けれど、一週間、いや正確には五日間だったかな、それだったらどうにかなる、どうにかしてみせる。そうして、どうなるか見てみようじゃないか。何もかも受け入れるんじゃなく、一つくらい逆らってみたらどうだ。死ななくてもどうにかなる方法だって、きっとある。今はわからないけど、生きていたら見付けられるかもしれない。これから先、こうして死ななければならない人達を増やすよりも、それを防ぐ方がいいだろう」
「私、私は、だって……」
「何度も言うけど、俺は七海に生きてもらいたいんだよ」
 うつむいたまま、七海は何度も「ありがとう」と呟き、頷いていた。肩のみならず、声まで震えており、顔を見ずとも泣いているのがわかった。けれど、今は抱き締められず、ただ肩を掴んだまま奥歯を噛み締めることしかできない。たった五日間だと言ったけど、相手を考えればやはり長過ぎる。正直、何とかなるだなんて欠片も思えず、不安ばかりが膨らんでいく。
 逃げるにしてもどう逃げ出せば良いのか、本当に敏雄さんだけしか同行しないのか、そこに何かしらの交通機関はあるのか、何もかもわからないままだ。そうした状況で、どう不安を拭えばいいのだろうか。不意に俺も泣きたくなったが、泣いてどうにかなるものじゃない。それに、俺が泣いたら、七海が更に不安になる。
 視線を窓辺に向けると、フリージアが目に入った。それだけのことなのに、何故だか少しだけ安心できた。
 夕食後、自室で逃亡の方法は何かないかとあてどもなく考えていると、柔らかなノックが響いた。七海のそれとは違う。では、沙弥香さんだろうか。ともかくノックだけで入室してくる様子が無かったため、面倒だと思いつつもドアを開けた。
「すみません、少しお話してもよろしいかしら」
 そこに立っていたのは七海でも沙弥香さんでもなく、恵子さんだった。面食らいつつも慌てて招き入れると、椅子を差し出し、俺はベッドへと腰掛ける。一体何を言いに来たのだろうか。昼間みたいに七海との関係についてだとすれば、今は出て行ってもらいたい。今大事なのは、仲の公認ではなく生きる方法なのだから。
「それで、一体話とは何でしょうか」
「七海から話は聞きました。明日、逃げるおつもりでしょう」
 明らかに動揺してしまったためか、恵子さんはくすりと笑った。幾ら信用があるからと言っても、こういうことを簡単に話してしまう七海に憤りを覚えたが、恵子さんは信用に値する人物であると俺も認めてしまっているため、やり場の無い怒りを溜め息に変えて大きく吐き出すしかなかった。
「何もかも、聞きましたか」
「えぇ。ですがそれが本当に全部なのかは、私にはわかりませんけどね」
「なるほど。それで俺にどうしろと言うんですか。逃げても無駄だから止めろと、または勝手に逃げなさい、とでも?」
 恵子さんに対して乱暴な言葉遣いをしているとわかっていても、余裕の無さからか、どうも苛立ってそれをぶつけてしまう。けれど、恵子さんは全く気にしている素振りも無く、柔和な微笑みを崩さない。いや、どことなく凛としており、何かしらの決意を感じさせる。
「逃げるなとも、勝手にしろとも言いません。無事に逃げ延びて下さい。これが私の偽らざる本心です。そして、逃げる前に私が知っていること全てを教えておきたいのです」
 居住まいを正す恵子につられ、修治も背筋を伸ばす。そこには先程までのどこか穏やかな雰囲気とは違い、息苦しささえ覚える静寂へと変わっていた。
「まず信じていただきたいのが、私は七海や修治さんの味方であり、その考えには全面的に賛成しているのです。この河口家には私の他、沙弥香さんが同じ立場におり、後の栄一さんや敏雄さんは儀式を何とか成し遂げようとしております。和巳さんはきっと何も知らないか、知っていても深入りはしていないでしょう」
 思っていた通りの分かれ方だ。けれど、和巳さんがそうだとは思えない。きっと沙弥香さんと何らかの協力をしていることだろう。
「栄一さんと敏雄さんは儀式のため、七海を殺そうとしております。七海の血が『災厄』を封じるために必要とのことです。この辺はきっと、修治さんも御存知のことでしょう」
「えぇ」
「ですが、私は殺すために七海を産んだわけではありません。生きて幸せになって欲しいから、あの子がこういう運命であると知りつつ、産んだのです。少しでも世の中に触れ、幸せに触れて欲しい、ゼロのままよりはプラスになれるかもしれない可能性を求めて欲しいと、私はあの子に託したのです。けれども、あの子を縛るものは私が考えた以上に多かった。何とかしようと思っておりましたが、こり固まったこの家の人間や常識では、もうどうしようもないのです。私や栄一さん、敏雄さんはもちろんのこと、和巳さんも敏雄さんの子である以上無茶なことはできないでしょうし、沙弥香さんだって途中から河口家に来たとは言え、メイドと言う立場上、敏雄さんの下におりますから」
「そこで、つい最近ここに来てどちらにも属していない俺に頼むと、そういうわけですね。俺ならばどちらの派閥にも属していないだろうし、仮に属していたとしても変われるだろうと」
「お察しの通りです。修治さんの御両親と私は、古くから親交がありました。えぇ、この際はっきりと申しておきましょう。修治さんの御両親が御不幸に遭い、修治さんをここに招いたのは私が栄一さんに頼んだからです。親戚の一人が明日を無くそうが、栄一さんは動かなかったことでしょう。そこで私が、七海のためにもなると説得したのです。年の近い男性を傍に置けば、それを守ろうと儀式に打ち込むことでしょうと。えぇ、全てはこの時のためにと修治さんを利用したのです。私は唾棄されて、当然の女です」
 そう言われても、怒りなど微塵も込み上がってこなかった。形はどうあれ、引き取られなければどう生活していたのか、いや、生活できていたのかすら疑わしい。仮に親の遺産で生活できていたとしても、七海と出会えなかっただろう。
「俺は引き取ってもらえたことに、すごく感謝しています。それは今でも変わりません」
「ありがとうございます。そんな修治さんだからこそ、尚更あの子を任せたいのです。七海も、修治さんとならばと申しておりました。ああいう身の上ですから誰かと打ち解け、ましてや信頼すると言うことは私の眼から見ましても、今までありませんでした。どこか一歩退いたところで、人と関わってきたのだと思います。そんなあの子が言われたとはいえ、修治さんとなら逃げることを選んだのです。幸せになろうと、求めているのです。ですから修治さんにこそ、七海を頼みたいと本気でお願いしたいのです」
 強張った恵子に、修治がふっと微笑んだ。
「わかりました、きっと逃げてみせます」
 一つまた、背中を押してもらったような気がした。もしかしたら本当にみんなを不幸にしてしまうかもしれない、俺は世の中から恨まれるかもしれないだろう。そうした不安の中で、支持してくれる人がいると心強い。
「けど、本当に栄一さんや敏雄さんの手から逃げられるのか、わからないんです。たった五日間かもしれないけど、相手が相手なので、正直自信が無いんですよ」
「確かに限り無く難しいでしょう。河口家の力は非常に強大でして、全国至る所に及んでおります。それは私的なもののみならず、公的機関すらある程度動かせる政治力すらありますから。ですから私も七海も、諦めているのです。けれど、それでも一縷の望みを修治さん、貴方に託したいのです」
 言うが早いか、恵子さんは懐から封筒を取り出し、俺に差し出した。中を見てみれば、一万円札が三十枚程入っている。その額に驚き、慌てて恵子さんの方へ目を向けると、悲壮な面持ちで見詰め返し、力強く頷いてくれた。
「少ないかもしれませんが、どうかお役に立ててください。私の方も上手く逃げられるよう、何とかしますので」
「ありがとうございます。きっと、何とか逃げ切ってみせます」
 深々と一礼し、そうして再び恵子さんを見ると、例の柔和な微笑みが浮かんでいた。俺も安心させようと強張りかけた顔から、何とか微笑みを返す。言葉での誓いや固い握手にも負けない、強い約束の合図。この笑顔を裏切る真似はしたくない。
「それでは、そろそろ」
 すっと立ち上がり、ドアの手前まで行きかけた恵子は何かを思い出したらしく、踵を返した。そうしてまた懐から別の封筒を取り出し、修治に渡す。訝しげに封筒を眺めるも、先程と同じように修治が中を覗こうとした途端、恵子が慌ててそれを止めた。
「これはもし逃亡に失敗し、どうしようもなくなった時、または全てが巧くいき、何もかもが終わった時に開けて下さい。これは、そういうものなのです。よろしいですか、約束ですよ」
「わかりました」
「それでは、本当にこれで失礼致しますね。娘をよろしくお願いします」
 恵子さんが出て行った後、俺は二つの封筒を見詰めていた。一つは三十万もの大金が入っているもの、もう一つは見るなと言われた薄っぺらなもの。気になる。きっと何か重大な秘密でも書かれているに違いない。河口家最大の秘密が。見てみようか。いずれ見るならば、今見てもいいだろう。少しでも早く、多く情報を知っておいた方が物事を有利に進められる。
 いや、駄目だ。これは約束だ、それも特別な。何があるのかわからないが、ともかく恵子さんの言に従うのが正しいだろう。俺は金をサイフに、謎の封筒を上着の内ポケットにそれぞれしまうと、ベッドに寝転んだ。
 明日は一体どうなるのだろうか。たまに思うことだが、それでも特に今は明日以降に不安を覚える。一生を変える一週間、いや、正しくは五日間。果たして俺と七海は巧く乗り切れるだろうか。
 ゆっくりと目を閉じる。今は暗闇だけが唯一の安息の場であり、見えない未来へのキャンバスの様に感じた。

 目覚めれば、また夜中。緊張しているせいだろうか、それともまた呼ばれたのだろうか。どのみち、今は二度寝しようにも頭が冴えてしまっているので、無理だろう。まったく、こんな時間に起きて支障が無ければよいのだが……。
 一応確かめてみようと俺はベッドから降り、一つ大きな欠伸をしてから部屋を出た。暗い室内ももう慣れたもので、電気を点けなくても不安をさして感じなくなってきている。月明りだけが夜の廊下を変わらず照らしているが、今日は天気が悪いせいか、多少光が弱く視界も悪い。けれど俺はすぐに右奥の廊下へと目を凝らす。あぁ、やっぱりだ、思った通り人影がある。
 近付けば、七海が手招きしているのが見えた。そう言えばこの手招きされるのは初めてかもしれないな、など多少の余裕を持ちつつ距離を縮める。半分程近付いたところで、七海は一つ頷き、角を曲がるよう促してきた。わかっている、バルコニーだな。俺は慌てず、けれど内心高揚しながら七海の後に続く。
「また起こされたかな」
 バルコニーで対峙し、修治と七海は一定の距離を設け、それぞれ違った笑みを浮かべていた。何とか陽気に振舞おうとする修治、それを涼しげに、いや、どこか冷めた印象すら受け取れる笑みをもって迎え入れている七海。形こそ違えど、互いに微笑みでもって相手を探っている。
「貴方に話さなければならないことがあるの」
「明日への不安か、それともやっぱり逃げられないとでも言うのかな。残念だが、七海がどう言おうが、もう決めたんだ。俺はお前を連れて逃げる。下らない儀式から逃し、生かすためにな」
「貴方は貴方の運命が示すままに動くべき。けれど」
 けれど、何だろう。何とも言えない気持ちが不気味に渦巻く。
「きっと貴方は戻ってくる、深い悲しみと怒りを抱いて。だけど、それは大切な意味を持つ運命の一手。そこから運命を変えることが出来る。例え絶望を目の当たりにしても、決して無駄ではない」
「何だよ、まるで失敗するような言い方だな」
「全て必然のレールの上に存在しているの。ただ、その必然は行うべきことを正しく行わないと、泡の様に消えてしまう。幸も不幸も、動かなければ変わらない。運命は定められているけれども、絶対では無いのよ」
「おい、七海。話はまだ……」
 急激に眠くなってきた。立っていることさえ、もうままならない。これも彼女の持っているとされている能力の一つなのか。いや、そんなものは信じない。七海は普通の女だ。本人が言おうが、周囲が言おうがそうなのだ。そういうのがあるとされているのは、周囲に仕立て上げられているだけだ。あぁ、でももう目を開けていられない。
「おやすみなさい。素敵な外出を」
 薄れ行く意識の中、はっきりとそう聞こえた。膝が折れ、四つん這いにもなれず、そのまま崩れ臥した俺は強烈な眠気に抗えず、暗い闇の中へと引き落とされて行った。

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