六.

 今日も滞り無く朝食を終えることができた。秘密を知ったから余計にそう思うからだろうが、儀式を執り行おうとする栄一さんと恵子さん、それによって死ななければならない七海とが、楽しそうにお喋りしながら笑っているのを見ていると、非常に奇妙な気分になってくる。一体この人達はどうなっているんだろう。元々そうした宿命だから意識していないのか、それとももう麻痺してしまっているだけなのか。
 一日一日が最後の晩餐のように見える。豪華な食事、一見すると不自由無き生活、邪魔されない毎日。死ぬ間際に与えられた贅沢のような生活が、さも当然のようにこの家で送られていることに、今更ながら奇怪さを覚える。空恐ろしくもある。儀式を執り行おうとしている人々は七海を殺して聖なる存在へと高めようとしているけど、七海はそんな存在じゃない。あの神の子だって十字架に磔にされた時、恨めしそうに地面を見ていたじゃないか。昨日七海が言った、どうして生きているのかわからないと言う台詞、その答えを見付けてあげたい。もう誰も、身近な人を死なせたくない。
 何としてでも、七海を助けてあげたい。あの一人で悩み、震え、どこか助けを欲している彼女を是非とも。しかし、俺はまだ知らないことの方が多い。この家にはまだ何か隠されているはずだ。七海もまだ何か隠しているはずだ。それは家の秘密であったり、また自分の心であったり。けれど、それを知らない限り解決は望めない。
 食堂から自室へ戻る途中、色々考えてみたけれど、結局何一つまとまらなかった。疑問をひたすら繰り返したり、案にもならない愚策を思い浮かべては苦笑したり、心労にしかならないことばかりに終始してしまう。
「わからないな」
 窓辺に立ち、溜め息を一つ漏らす。一つ進んだと思ったら、またすぐにつまずく。いいや、進むといっても自分から何かすることは少なく、何か起こらないかと、思慮深そうな顔をして待っているだけだ。果たしてそれでいいのだろうか。俺は何かをしようと強く思っていても、結局受身のままだ。書庫に何かあると言われた時も、すぐに諦めてしまった。もし、夜の七海が何も教えてくれないままだったら、俺はどうしていたのだろう。どうしたもこうしたも無い、何もしないままだったに決まっている。
 踵を返し、食堂の方へと足を向けた。この時間ならばそこにいるだろう、和巳さんと話でもしよう。何も得られなくても、発想の手助けになるかもしれない。一人で幾ら考えていても、何も思い浮かばないのだから仕方無い。一人で考えて答えを出せるのは、ほぼ解決しかかっている選択を前にした時くらいのものだ。
 食堂へ向かう途中、書庫の方に人影が見えたので目を向けると、恵子さんだった。何をしているのか知らないが、頻りに辺りを見回しているけど、ここは死角らしく、俺には気付いていないみたいだった。
 声を掛けるのも、迂闊に動くのも、何だかためらわれた。きっと何かある。恵子さんは何か秘密めいたことをしようとしているはずだと、その様子から確信めいたものを感じるけれど、今動いたら見付かってしまい、逆に怪しまれてしまうかもしれない。ここは大人しく様子を窺うのが最良かもしれない。しかし、一体何をしようとしているのだろう。書庫に行くのは別に不思議で無いけど、何故こんなにも辺りを気にしているのだろうか。
 よく見れば、箱のような物を持っているのに気付いた。少し大き目の、銀色の箱。特に装飾や模様など無い無機質な作りのそれは、どこに置いてあろうが誰が持っていようが、とりたてて興味を惹くことは無いだろう。けれど、今こうして常に何か変わったものはないかと探している俺には、何だかとても意味深な物に見えた。
 恵子さんは一階書庫の中へと入ってしまった。あの箱が何なのか、それで何をするのか気になったが、足を前に踏み出せずじまい。俺はまた、怖気付いてしまった。もし知られたりでもしたら、これだけ力を持った家だ、下手をすれば殺されるかもしれない。そこまで行かなくとも、何らかの制裁が待ち受けていることだろう。
 きっとこのことは、突き詰めれば何か秘密の一端に辿り着く気がする。けれども、ようやく舞台に立てたばかりなのに、何もできなくなるのは嫌だ。今慎重に行動しなければ、何もかも駄目になってしまうだろう。
 尻込みか、逃げか、それとも見極めか。
 自分の不甲斐無さを改めて実感してしまい、気持ちが鈍ってしまったけれど、とりあえず和巳さんと話してみようと、もう一度自分を奮い立たせる。右拳を力強く握り締め、逃げかけた勇気を掴みながら食堂のドアをそっと開ける。けれど和巳さんはおろか、誰もいない。もうここは片付け終え、違う持ち場へと移ってしまったのだろうか。僅かに右拳の力が抜けかかりつつ、向かいにある調理場のドアノブに手をかけた。
 思った通り、和巳さんはいた。必死に奥で皿を洗っているらしく、そっと開いたドアから覗く俺に気付いていないみたいだ。一心不乱に仕事をしている和巳さんを見ていると、おいそれと話し掛けられそうになく、俺は静かにドアを閉め、足音を消してそこから離れる。一生懸命に働いている和巳さんを邪魔したくないと言う以上に、何か心から意欲が消えてしまっていた。どこか疲れてしまった。何も掴んでいないのに、満足してしまったのかもしれない。忙しそうだから話し掛けてはならない。気遣いと言い切るのは逃げであり、本当は踏み込みたくないだけだろう。ひどく重い溜め息を吐くと、ぐるりと周囲をつまらなさそうに、しかし誰かに見られてはいまいかと注意深く見回してから、再び自室へ向かった。
「ここにいても、何もならないのにな」
 ごろりとベッドに寝転がり、窓の外を見遣る。切り取られた青空には、見出すべきものが何も無く、しばらくじっと見ていると悲しくなってきた。どうして悲しいのかわからないけれど、とにかく。空の青さにやり切れなさを投影してしまう。
「秘密、か」
 少しだけ後悔し始めてきた。一向に解決策の見えない現状、相手をするには大き過ぎる河口家の力、それに対して無力な自分。解決策どころか、何をどうすべきなのか、目的すらわからない。わかっているのは、七海を死なせたくないと言う想いだけだ。これが目的と言えなくもないが、そのためにはどうすればいいのだろう。
 もしも七海ではない誰かがこうなる運命にあったとしたら、俺は果たして動こうとしただろうか。七海でなければいけない何かが、俺の中にあるのだろうか。身近にいれば、それだけで誰でもよかったのだろうか。いや、今はそんなことどうでもいいんだ。とにかく何をすべきなのか、それを模索すべきだ。
 こう考えていても、結局は疑問に疑問を重ねるだけで、いつか疲れて考えるのを止めるだけになってしまう。何がわからないのかすらもわからない、落ちこぼれ学生のようだ。あぁ、それで済ませられるならばどれだけ幸せだろうか。失敗は身の危険、七海の死へと繋がってしまう。
「駄目だ、何も浮かばない」
 これだけ長らく表沙汰になっていないんだ、きっと警察とか動かないようにしているだろうし、秘密を守ろうとする者や組織だってあるはずだ。もしかしたら和巳さんや沙弥香さんも、そうした人達の一人かもしれない。迂闊に相談するのは、危ないかもしれない。少し様子を見た方がいいだろう。
 苦笑が自ずと湧き上がった。何だ、考える程に手詰まりになっていくだけじゃないか。こんなところで答えの出ないことを延々考えていても、心が腐る一方だ。これならば七海に会いに行く方がまだいいだろう。
 冷ややかな風が、頭に淀んでいる考えを彼方へと運ぶ。どうも屋敷の中にいると、気疲れしてしまうばかりだ。もうかなり慣れたつもりだったが、意識していないところではまだ緊張しているのだろう。同じ不慣れなら場所こそ違えど、風に当たる方がまだ落ち着く。考え過ぎて一つの物事しか見られなくなってしまうことは、結構多い。そうならないため時折風を感じ、大きな流れに身を委ねれば、いつの間にか築いてしまっている壁を取り払える。
 花壇に七海の姿は無かった。この天気ならいるだろうと思っていたのに、どこを見回してもいない。屋敷の中だろうか。それとも、少し離れた場所にある花壇にでもいるのだろうか。
 敷地は広いけれど、主に花壇と言えば正門前に広がる左右のそれだが、もう一つ規模が小さいけれど、屋敷の裏側にある。そこへと修治は足を向けたものの、花壇手前で何やら話し声が聞こえたため足を止めた。
 そこには和巳と沙弥香がいた。何か重要なことを話しているらしく、二人共神妙な顔付きをしている。もしかしたら秘密に関することだろうかと、修治は一縷の望みを抱きつつそっと気取られぬよう、聞こえる位置まで近付く。幸い裏の花壇の回りは林に囲まれているため、身を隠すには適していると言えるだろう。
「それで、あの件に関しての調べはついたんでしょうね」
 それまで聞いたことの無い鋭い口調の沙弥香さんに、我が耳を疑った。別人、とさえも思った。あのおっとりとした普段の口調からは想像もつかない、高圧的で冷たい響き。沙弥香さんは俺が思っている以上に、何かを隠しているみたいだ。
「いや、まだだよ。色々手は尽くしているけど、どうにも」
「もう日は無いのよ」
「わかっている。けれど、当然向こうも用心しているから、なかなか掴めないんだよ」
「そんなこと、言われなくてもわかっているわよ。でも、それをどうにかしないといけないのよ。子供の言い訳みたいなこと言って。ぐずぐずしていないで、急いでよね」
「……これでも急いでいるんだよ」
 刹那、沙弥香が和巳の胸座を掴んだ。背は沙弥香の方が小さいけれど、威圧のためか、和巳の方が小さく見える。
「急いでいるとか、そうでないのかなんて主観はどうでもいいの。私が欲しいのは、結果なのよ。助かりたいんでしょう。だったら、どうにかして調べるのよ。がんばったんですけど、できませんでしたなんて下らない言い訳なんていらないの。わかった?」
「わ、わかった」
 沙弥香が手を離すと和巳はよろよろと二歩三歩後退したが、またすぐに距離を詰めた。そんな和巳を沙弥香が今度は愛しそうに抱き締め、口付け一つ交わす。
「貴方なら出来ると信じているから、強く言っちゃうのよ。愚鈍な人になら、こんなことを頼みはしない。貴方を心から頼っているからこそ、なの」
 そっと俺はその場を離れた。何がどうなっているのか、よくわからない。ただ、沙弥香さんと和巳さんが深い関係にあって、何か秘密裏に動いていること、そして沙弥香さんが俺には見せない顔を持っていたことが衝撃だった。あぁ、また増えた謎が俺を惑わせる。
 ともかく、七海に会おう。このままだと、何も解決できずに謎が増えていく一方だ。今話が出来るのは七海しかいない。花壇にいなければ、書庫か自室にでもいるはずだ。俺は今見たものをなるべく忘れるように花々に目を遣りつつ、のんびりと屋敷内に向かった。
 七海は部屋で本を読んでいた。部屋に入って顔を合わせるなり、七海は本に栞を挟んで閉じ、柔和な微笑みを浮かべ、何事かと瞳で訊いてくる。
「あれ、もしかして忙しいかな」
「そんなこと無いけど」
「そうか。ところでその本、どんな本なの?」
 ついと先程栞を挟んだ本に目を向ければ、七海もそれに倣った。
「これは、退魔関係の本。主に技法や心構えについてのやつで、代々伝わってきている中の一冊なの。かの河口大和が築き上げたものを原文と注釈付きで、後の人が書いてきたのよ。初版は千年前だけど、これは五十年前の本。それでも、ちょっと読みにくいところがあるから、辞書とか引かないといけないんだけどね」
「勉強家なんだな」
「どうなんだろうね」
 くすりと七海が苦笑した。
「学校の勉強とか、趣味を覚えるとかのレベルじゃなく、絶対覚えないとダメだから。決して失敗なんてできないことなんだから、一生懸命にもなるよ」
 死を賭している者だけに、その一言一言が妙な説得力を持っている。軽々しく何か言うことなどできず、俺は分別臭く頷くだけだ。
「でも、できた時が死ぬ時なんだよね。一生の中で目的を見出せない人が多い中、それは考え様によっては幸せなことなのかもしれないけど、いざ目的が見えちゃえば、何てことは無い、これで終わりなんだって思えちゃう。人の役に立つであろう『災厄』封じや霊視などの能力も、普通の人からすれば気味悪いだけだし、時々何だろうって、つい」
「でも、そういう能力があるからこそ、今の七海がいるんだよ」
「そう言う考えも確かにあるよね。でも、本当は私、嫌だったんだ。こんなのいらない。普通の、どこにでもいる平凡な人間として生まれたかった」
「それは特別な力を持っているから、そう思うんだよ。逆に俺なんかは何も無い平凡な人間だから、羨ましいな。だってもし、そういう能力があれば死んだ人とも色々話せるだろうから、何だか楽しそうだし、何よりもう一度俺は親と話してみたいな」
 この発言が失言だと気付くのに、そう時間はかからなかった。むしろ言い終えるが早いかの出来事だった。今にも泣き出しそうに歯噛む七海に気付くなり、表情も背筋も時間さえも凍り付き、何も言えず、冷や汗がとめどなく流れ落ち、自ずと視線が沈んだ。
「何も知らないくせに、私の事なんか何も知らないくせに、そんなこと言わないでよね」
「七海、あの」
 何か言葉にしようとするが、何も出てこない。言えば泥沼になるだけだ。だが、一言でいいから謝っておきたい。
「出てって」
「その、本当に」
「出てってって言ってるでしょ」
 半狂乱にも似た怒号が、空気と修治の肩を震わせる。修治を睨み付ける瞳は僅かに揺らめいているようだったが、眼光鋭く、何者をも寄せ付けようとはしない。修治はもう謝ることすらできず、軽く頭を下げると七海の部屋を後にした。
 行き場がどこにも無い。そしてひたすら七海に対し、どうしてあんな軽率なことを言ってしまったのかと、悔やんでも悔やみ切れずに、頭と胸がかき回されるような苦しみが続く。幾ら心のどこかで自分に無いものを持っていると言う点に憧れ、それについてどこか悲観的になっている七海に嫉妬したとしても、どうしてあんな。いや、嫉妬や嫌味からだけではない、軽口でも何でもいいから、七海を楽にしてあげたかったんだ。
「もっと言い方ってのが、あったよなぁ」
 何をどう言い繕っても、言い訳以上にならない。そんな事実の苦しさを慰めてくれるのは、自分の匂いが染み付いたベッドだけだ。他には何も無い。俺は寝転がり、額の前で祈るように手を組むと、静かに目を閉じた。開いていると、様々な七海の顔が思い出され、辛くなるから。
 だが、目を閉じるとそれは一層鮮明になり、沙弥香さんや和巳さん、果ては敏雄さんに栄一さん、恵子さんと際限無く浮かんでは消えて行く。少しずつ、しかし加速度的に心が蝕まれてしまっているのかもしれない。
「寝るか」
 横向きになり、枕に顔を埋める。もう今は何もしたくない、何も考えたくない。何かをしようとするには、疲れた。眠ろう、今はひたすら眠ろう。それだけが唯一許された、俺の安息なのだから。
 いつもと変わらぬ素晴らしい昼食も満足に味わうどころか、苦痛でしかなかった。七海とは先程のこともあり、目を合わすこともできず、また沙弥香さんや和巳さんともあの密会の目撃があるので、これまた目を合わせられない。栄一さんや敏雄さんは元から苦手なので、こちらから話し掛けはしない。だからと言うわけでも無いのだが、顔を上げればつい恵子さんを見てしまう。
 おっとりとしており、何の憎しみも抱いていなさそうな優しげな顔で、黙々と恵子さんはスープを口元に運んでいる。時折、ゆったりと目だけ動かし周囲を見回しては小さく数度頷き、またスプーンを口元へ運ぶ。
 ただ、この人にも謎がある。そう、朝食後に見た謎の箱を持ち、書庫へと入っていく姿だ。あの箱には単に本が詰まっていて、返却しに行っただけかもしれない。しかし、返却に何故箱を用いるのだろうか。見られてはいけない本でもあったのだろうか。それとも本ではない何かが。突飛な発想と思うかもしれないが、ここは普通ではない。様々な謎と人間関係が渦巻く河口家だ。恵子さんは当主である栄一さんの妻であるから、当然色々知っているだろうし、儀式とやらにも加担しているだろう。
 俺はこの家で、余所者だ。血とか間柄とかそんなものではなく、絶対的な知識の差がそれを意識させる。埋めようにも各々の人間関係が確立されている上に、決して安易に知ることのできない秘密の共有による結束が、立ち入らせない壁を作り出している。それは当然のことで、本来なら立ち入るべき領域ではないと知りつつも、やはり一人だけ隔絶されているのは寂しい。
 針のむしろで行われていた昼食も終わり、自室に戻ろうとしたところで、恵子さんに呼び止められた。思えば恵子さんに呼び止められるなど、これが初めてのことかもしれない。してはいけないとわかっていても、ついつい驚き混じりの怪訝な眼で見てしまう。
「何ですか」
「いえ、少しお元気無さそうに見えたものですから、何かお悩み事でもあったのかと思いまして」
 悩みや考え事は、それこそ山程ある。けれど、それを素直に言えるわけが無い。一つでも何かしら手掛かりが欲しいけど、簡単に話せる内容ではない。
「いえ、別に悩みとか、そう言うのは無いですよ。こんな立派な家で大切にされていますから、何も不自由してません。大丈夫です」
「そう、それならよろしいのですが、本当に何かあるならば遠慮無く申して下さいね。私は修治さんに恩があるのですから」
「恩、ですか」
 一体それは何だろうか。俺は恵子さんに、恩の一つ与えたことなど無い。それどころか、両親が死んで途方に暮れていた俺を引き取ってくれたり、分け隔てなく家族の一員として接してくれたりと、受けてばかりだ。
「えぇ、私は修治さんに感謝しているのよ」
「いや、別に俺は何もしていませんよ。それを言うなら、俺は返し切れない恩を受けている最中ですから」
 優しげな瞳の色を変えず、恵子がゆるゆると首を横に振る。
「修治さんは気付いていらっしゃらないみたいですが、修治さんがここに来られてから、七海が以前よりもずっと明るくなったのよ。それまでは口数もそう多くなく、どちらかと言えば物静かな子だったけれど、修治さんが来られてからよく笑うようになったんですよ。あの子があんなに晴れ晴れとして毎日を送っていると、私まで嬉しくなってきて」
 実に嬉しそうに恵子さんは話す。彼女も七海も嫌いじゃないので、聞いている俺も何だか自分のことのように嬉しく、心が温まってくる。
「そうなんですか。いや、ちょっと意外だな。七海っておしとやかだけど、よく笑うイメージがあったから」
「それも、修治さんのおかげなんですよ。本当に、感謝してもし尽くせないくらい。あの子は私の大切な娘ですから、今後ともよろしくお願いしますね」
「いえ、こちらこそ」
 礼を交わすと、恵子さんは去って行った。その姿を見届けてから、俺は何事も無かったかのように歩き出すが、階段を上っている途中、ふと足を止めた。
 大切なのは我が子だからか、それとも退魔師としてか。
 失礼だと思いつつもそう罪悪感が湧かず、俺は天を仰いだ。それまでさして気にしていなかったけれど、天井が高いことに気付く。そして、見慣れていない新鮮な景色がこんなにも近くにあったのかと、胸を震わせる。一つまた世界が広がったかのような、心地良い高揚感が拳に力を与え、決意を生み出す。
 受身になっていたら駄目だ。このままだと何も変えられないまま、七海がいなくなってしまう。親しい人が死ぬのは、もう嫌だ。それを防ぐためには、とにかく動くしかない。まずは書庫に行って、あの本をじっくり読んでみよう。俺がここの住人と並ぶには、まず情報が必要だ。
 あの机の鍵は肌身離さず持っている。七海に一つ返しはしたけれど、もう一つは俺が持っているようにと言われたからだ。一つは信頼の証、もう一つは秘密を知った以上、知る権利があるから。知って逃げるも抗うも、自分次第。でも、何をしても止められないだろうし、何かをしようとすれば危険な目に遭うだろうから、使わない方がいいよ。そう七海は哀しそうな瞳で鍵を持っているようにと、俺に言ってきたのだ。
 使わない方がいいのかもしれない。利口な人間ならば机の奥深くにでも眠らせて、今日の太陽と共に綺麗さっぱり忘れてしまい、美味しい食事に舌鼓を打ち、多少ぎくしゃくした人間関係に目を瞑って、ある日七海がいなくなっても旅行にでも行ったと思い込み、そのうちにここを出て一人で暮らすようにもなれば、この日々だって美しい記憶の一つにできるかもしれない。
 けれど、あの瞳を無視してまで、そんな先の安泰なんていらない。どうして鍵を俺に持たせたままでいるのか、どうして秘密を話したのか、どうしてあんな眼をしたのか、考えるまでも無い。助けて欲しいんだ、どうにかして欲しいと思っているんだ。考えれば俺以外、この家にいる人々は古くからの付き合いだ。今更動こうとしても、どうにもならない関係なのかもしれない。
 そこできっと、俺を求めた。ここに来てまだ十日程度の俺はこの家のことはおろか、人間関係すら確立していない。だから、何とかなるかもしれないと考えたのだろう。いや、もしかしたらそこまで考えておらず、意識せずそうしているのかもしれない。何にせよ、これからするべきことは同じだ。
 一階書庫は相変わらず、どこか重苦しい雰囲気に満ちていた。いや、これはきっと俺の怖気がそう感じさせているだけだ。先へ進めば、危険も増える。傷付くことも多くなる。そんな恐れが、この本の壁を禍々しく見せているのだろう。
 気にするな、何でもない。そう心の中で呟き続け、右奥にあるあの机へと向かう。壁沿いではなく本棚の間を抜けるのは、誰かいないかと確認の意味もある。慎重に耳を澄まし気配を探りながら進むが、誰もいないようだ。だが、妙な不安感が心を締め付け、何度も後ろを振り返ってしまう。
 距離にすればそうでもないが、例の机に辿り着く頃には自ずと溜め息が漏れた。もう一度辺りを見回し、耳に意識を集中させ、誰もいないことを確認してから鍵を取り出す。開錠し、中からあの黒表紙の本を手にすると、一つ深呼吸をしてから開いた。
 前は概要を掴むためにと流し読みだったが、今回はより詳しくと精読する。専門用語に見慣れない言葉遣い、読めない漢字などが多く、文脈から何とか判断するしかない。そうして全体の十分の一も読めばもう疲れ果て、とても続きを読む気力は無くなってしまった。それでも、知りえた事は多い。そして知る程に、それまでの現実が砂の様に崩れていくのを感じた。
 読んだところは、主に儀式についてであった。儀式には新月の日、それも春の新月を選び、日没後に行うのが最も効果を発揮するらしい。術者は封印の地に曼荼羅を敷き、決められた場所に術者自身の血で真言を記す。この時、曼荼羅の周囲をロウソクで囲まなければならないとのこと。そしてそれを終えてから、術者は曼荼羅の中央で十月十日清めた刀剣で命を絶ち、その血により『災厄』を封じるのだと言う。
 本当はもう少し詳しく記されていたが、どうにも理解出来ないことが多過ぎる。けれど一つだけ確かな、それでいて最も恐ろしい現実は七海が儀式により死ぬことだ。先日七海の口からそのことを聞かされたが、心のどこかで否定していた。馬鹿な、そんなことあるはずが無い、と。だが、代々伝えられてきたと言うこの本に、こうまではっきりと書かれていると、目を背けられなくなる。
 何より信じられないのが、その方法である。七海が儀式により死ぬとは知っていたが、どのようにして死んでしまうのか、そのイメージが全く掴めていなかった。だが、これを見てはっきりとそれが浮かんだ。七海は死ぬ。刀剣で体を切り、血を流しながらも儀式を行い、最後にその血塗れの刀剣で自分を貫く。もしくは刺される。
 怖くないのだろうか。どうしてあんなに、平然としていられるのだろうか。いや、怖いから助けを求めてきているんだ。誰だって、そんな死に方は嫌だ。それにしても信じられないのが、日常生活での態度だ。どうして笑えるのだろう。それが例え作り笑いだとしても、普通は笑えない。残酷な死を迎えると知っていて、どうして……。
 河口家と言う圧倒的な力の前による諦めだろうか。運命として受け入れでもしないと、とても正気を保っていられないのだろうか。死を目前に控えると、あぁなれるものなのだろうか。俺には、わからない。
 俺は本を再び机にしまい施錠すると、七海の部屋へと向かった。会いたい、会って謝り、そして訊きたい。毅然と振舞いながらも、震えている彼女に、無性に会いたかった。まず何を言おうか、どう謝ろうか。そうした考えも、一歩前へ踏み出す毎に、霧のように消えて行った。
 七海の部屋の前に立ち、意を決してから二度ノックをする。返事は無い。再びノックし、今度は名前を呼んでみたが、同じ。いないのだろうか。俺はそっとドアノブを捻ってみると、鍵がかかってないらしく、すんなり開いた。そっと中を覗いてみるが、そこに七海の姿は無かった。
 次に二階の書庫、キッチン、花壇と七海が普段行きそうな場所に行ってみても、見付けることはできなかった。一体どこにいるのだろう。
「もしかして、あそこか」
 数日前ならば、きっとわからなかっただろう。だが俺は心当たりをもう一つだけ知っている。ある種の期待を抱きつつ、庭を東に抜け、あの滝へと続く小道に入った。
「七海、ここにいたのか」
 案の定、七海は滝の側にいた。手頃な岩の上に座り、流れ落ちる滝をどこか寂しそうに眺めていたが、俺に声に反応し、慌てて振り向く。だがそれも一瞬のことで、すぐにまた寂しげな光を瞳に宿すと、滝の方へと体を戻す。
「何の用なの」
 心が抉られるような響きに思わず視線が下がるけれど、大事な何かを逃さないよう奥歯を噛み締める。仕方無い、これも全て俺が軽はずみなことを言って、傷付けてしまったせいだ。もしあの時に儀式のことをもっと知っていれば、こんなことには。いや、下らない言い訳だ。七海が大きな不安を抱え、死の淵に立っていたことは知っていたのに、目先の雰囲気だけを選ぼうとしてしまったのは、俺の甘え。
「謝りたくて、来たんだ。さっきあんな軽はずみなこと言って、傷付けたみたいで」
「いいよ、もう」
 素っ気無く言い放たれたその言葉は、更に深くまで俺の心を抉った。いいわけなんか、どこにも無い。これから先、また話し合えるようになりたい。もし七海がそう思っていないならば、それも死に対する諦めの一つなのだろうか。そんな冷たい物に括られてたまるか。俺は例え短かろうが、七海と仲良くしていたいんだ。
「本当にすまなかった。七海の気持ち、理解してあげようとしていたのに、あんなこと言っちゃって」
「もういいから」
「よくないよ」
「いいって言ってるでしょ、しつこいわね。何さ、理解だの何だの、何も知らないくせに軽々しく。やめてよ、そういうの」
 響き渡る絶叫も、その主の顔色は以前窺えぬままだ。振り絞った声はすぐ滝に呑まれてしまったが、上下する肩が激情を雄弁に物語っている。
「七海の言う通りだ。俺は知らなさ過ぎた。そのくせ、唯一の理解者になった気でいたよ。ただ、今でも理解しようと思っていることは変わっていない。あんな、自分を切り刻まなければならない恐ろしい儀式を前にしている七海を、どうにか助けてあげたいと思っている。面白半分でも何でもなく、そう思ってるんだよ」
「そっか、そこまで知ったんだ……」
 ゆっくりと七海が振り向くと、修治が力強く頷いた。見詰め合うのは一瞬のことで、すぐに七海は視線を落し、静かに目を閉じる。
「教えてくれ、どうしてそうしてじっとしていられるのか。何のために、そんなことをする必要があるんだ。怖くないのかよ。わけのわからないもののために、血流して死ぬだなんて」
 修治の言葉が終わる前に、小さく寂しく、それでいてはっきりと七海が鼻で笑った。
「仕方無いの、運命だから。私がそれをしないと、みんなが駄目になる。わけのわからないものかもしれないけど、もしかしたら何かを起こすかもしれない。完全に起こらないとは言えないから、私が何かをしなければいけないの。何かあった時には、もう手遅れだからね。これは私にしかできないことだろうし、私だけでいいのよ、こういうのは。人はそれぞれ役割を持って、生まれてくるの。私の役割は『災厄』を封じること。怖くないって言ったら嘘になるけど、仕方無いのよね。誰もが受け入れ難いことってあるだろうし、その上でやらなければならないことも、たくさんあるだろうから」
 七海の先にある滝は一時も変わらず、けれど様々な顔で流れ落ちている。陽を浴びて萌芽しかかっている草花、滝壷から生まれ、どこかへと流れて行く清流は明日を向いているように見えた。これらがどうなるかなんて、誰にもわからない。けれど、目の前にいる七海は違う。
「七海の考えは立派だよ、俺にはとてもそんなこと考えられない。でもな、死なないでそうする方法だって、もしかしたらあるかもしれないだろ。運命だの、仕方無いだのって言葉で片付けてしまうのは、逃げだ。物事を解決しようとせず、そうして諦めてしまうのは怠慢だ。きっとどこかに道があるはずなのに、どうせ駄目だと眼を背け、見える道しか見ようとしていないんじゃないのか。どうせなら、生きられる道を探してもいいだろ。死ななきゃいけないとか早々に悟るよりも、最後までどうにかそうならない方法を探すべきだろうさ」
 青臭い考えなのかもしれない。俺こそ、現実を見ていないのかもしれない。けれど俺はどうしても納得できず、つい苛立ち混じりに言い始めてしまい、最後には怒鳴るようになってしまった。だが七海はさほど顔色を変えず、依然寂しげな瞳のまま。助かりたいから俺に話す気になったのではないのか。なのに、どうしてそんな眼をするんだ。本当に立ち入って欲しくないと言うのか。
「一体どうしたいんだよ。生きたいんだろ。死にたくなんてないんだろ」
「死にたくないとは思うけど……」
 すっと七海は立ち上がり、しばらく修治を見詰めた後、小さく首を横に振った。
「私一人、助かっていいわけない。私の命よりも、大勢の命の方が大事だから。修治君はみんなを捨てて、自分だけが助かりたいって思うの。みんなが困るかもしれないのに、黙っていられるの。自分だけがどうにかできるのに、ワガママ押し通してみんなを不幸になんてできるの。私はできないよ。偽善とかじゃなくて、嫌なの。だから結局、諦めるしかないのよ。助かろうとする方法なんて、ずっと昔から調べていたけど、でもそんなのわからなくて」
 悔しそうに歯噛む七海を見ていると、考えるより先に抱き締めていた。愛しいとか、同情だとか、そんな感情を認識する前に体が勝手に動いていた。腕の中で七海は震えている。か弱く、夜の雨風に晒されているタンポポのように。それを守ろうとするのに、理屈はいらない。
「それでも、俺は七海に生きてもらいたいんだ」
 腕に力を込めるが、七海は別に振りほどこうともせず、ただ黙っていた。やや強めに背中を掴まれたが痛みは無い。次第に肩口がしっとり冷たくなってきているのに気付くと、俺はそっと七海の頭を撫でた。一撫で一撫で想いを込めて、何度も撫でる。
「俺、どうにかして助かる方法探すよ。七海もみんなも助かる方法、きっと見付けるよ。だから、簡単に死ぬだのどうでもいいのだのと言わないでくれ、頼む。もう、俺の知ってる人が死ぬのは、嫌なんだよ」
 撫でる手をも背中に回し、艶やかに光る黒髪を見詰めていると、約束を果たせるのかどうかと不安が込み上がり、はっきりと打ち消せる自信も生まれず、自ずと歯噛んでしまう。悔しくて悔しくて、七海を取り巻く運命以上に己の無力に腹が立ち、苛まれ、どうすればいいのかと考えていると、強く抱き締め返され、痛いくらいに掴まれ、そうしてなされるがままにしていると、嗚咽が聞こえてきた。静寂にヒビを入れ、壊し、泣き声が辺りを支配する。肩口が涙で熱い。
「私、普通の女の子に生まれたかった。普通に友達作って、恋をして、結婚して、子供産んで……でも、叶わない、叶わないの。どうしようと無理だから、諦めた。けれど、それでももし叶うなら、今の何もかもいらない。この生活も、お金も、家柄も何もかもいらないから、普通の女として、生きたいよ」
「手助けするよ、してみせる。だから、信じてくれよ」
 七海は泣いた、しばらく泣いた。俺はもう何も言えず、抱き締めてやることしかできなかった。自分は約束を守れるかどうかもわからないし、気の利いた言葉一つ見付けられない。だから、せめてもと七海を抱き締める。不安や悲しみを少しでも和らげてあげられるようにと、そしてこの気持ち、一つでも伝わるようにと。
「そろそろ行こうか。ここもいいけど、花とか見ようよ。七海に教えられてから、ちょっとだけだけど気になるようになってさ。似合わないかもしれないけど、色々教えてくれないかな」
「うん、それじゃあ行こうか」
 すっと七海が離れると、指先や手の甲で何度も目元を拭ってから、そう言いつつ笑った。その笑顔があまりにも哀しくて、どうしようもないくらいの空元気に見えて、逆につられて笑ってしまう。いや、空元気でも何でもいい。笑っているうちに、気分だって上向きになってくるだろうさ。
「ありがとう」
 小さな小さな感謝の言葉を意味として捉えるより先に、七海が屋敷の方へと歩き出していた。もう一度はっきり訊こうかとも思ったけど、すぐに野暮だと考え直し、俺もその後へと続く。少しだけ大きく見えた七海の背に微笑むと、足早に隣に並んだ。
 荘厳な滝をメインとした神秘的なあの場所も良いが、この花壇もなかなかどうして、彩り溢れる花々が見目麗しい。あの滝は言うなれば親、優しく厳しく見守りながら何かを伝えようとする。対して花壇は友達、見る時々に楽しませてくれ、また癒してもくれる。俺と七海はゆっくりと花壇を見ながら歩く。時折七海が花の解説などしてくれるのを、俺が感心頻りに頷けば、嬉しそうに笑っていた。
 花にそこまで興味があるわけじゃない、ただ七海を一秒でも多く笑わせたかっただけだ。そしてその笑顔を見ることで自分の不安を消し去り、勇気が欲しかった。いや、本当にそうだろうか。俺はそんなことを理由にしないと、駄目なのかもしれない。単にこうして、七海と散歩していたいだけのことを。
「おや、お二人揃ってお散歩ですか」
 花壇周りを掃除していた沙弥香がゆっくりと近付き、俺と七海とを交互に見比べる。その視線がくすぐったくて、ついと七海の方へ目を移すと、七海もどこか困ったような顔をしていた。
「少し肌寒いですが、いいデート日和かもしれませんね。お互い寄り添えますし」
「で、デートって、何言ってるんですか」
 かっと頬が赤くなり、しどろもどろになる七海の姿に、俺も恥ずかしくなってきた。もしも冷たく違うと言い放たれたならば、俺は多少がっかりしつつも落ち着いていられただろうが、こうした反応をされると、強く意識してしまう。
「お二人を見ていると、そう見えるもので。なかなかお似合いですよ」
「そういうのじゃないです。沙弥香さんが思っているような関係じゃなく、ただちょっと散歩していただけですよ」
「えぇ、わかっておりますよ」
 対して沙弥香はいつものように、おっとりと受け答えている。やはり和巳さんと何かしら関係を持っているだけあり、こういうことには一枚も二枚も上手のようだ。
「でも、いいじゃないですか。修治さんなら、きっと良いパートナーになってくれると思いますよ。それとも、修治さんでは何か御不満でもおありですか?」
「そう言うことじゃなくて……もぉ、修治君も何か言ってよ」
 そう言われて、俺はどう答えればいいのかわからなくなった。そう言う関係では無いと言えば、心に描いたものが嘘になる。しかし、そうした関係になりたい、そうでありたいと言うには照れ臭いし、自信も無い。おまけにまた七海を困らせ、どうにかしかねない。
「随分と賑やかだけど、どうかしたのかしら?」
 声の方を向くと、屋敷の方から恵子さんが近付いてきていた。春の陽気そのままに莞爾として目を細め、俺達一人一人に眼差しで挨拶する。そうして恵子さんは沙弥香さんの隣、俺と七海の向かいに立ち、沙弥香さんに目を遣った。
「どうかしたのかしら」
「はい、修治様と七海様が仲良く寄り添われておりましたので、恋人同士みたいだと述べていただけです」
「確かにそう見えますね」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 上品に微笑む恵子さんに頷き賛同する沙弥香さん、否定する七海、そして何も言えずに愛想笑いを浮かべる俺。沙弥香さんだけならともかく、恵子さんがいる前で迂闊なことは言えない。
「もぉ、お母さんまで。修治君だって困っているでしょ。沙弥香さんも、そう言うこと言わないで下さいよ」
「でも、いいじゃないの。修治さんなら私も安心して任せられるし、お似合いだと思うわよ。修治さん、七海をよろしくお願いしますね」
 すっかり七海は困り果てた様子で、ついと視線を皆から外し、足元の花へと向ける。俺も俺でそうまで言われると、嬉しくなったり恥ずかしくなったりするよりも、ただもう困ってしまい、恵子さんに小さく頷いてみせると、もう前も横も向けず、沙弥香さんの足元にある草花を見る他無かった。
「それでは、私はそろそろ。あまり若い人達のお喋りを邪魔してはいけませんからね」
「では、私もお邪魔しますね。お仕事に戻らないといけませんので」
 恵子さんも沙弥香さんも去り、再び七海と二人きりになったが、もう元の距離には戻れなかった。はっきりとわかるくらいに、互いが互いを意識してしまい、言葉をかけるどころか、向き合うことすらできない。ちらと相手を見てはまた視線を逸らし、物言いたげに息を吸い込んでは悟られぬよう静かに吐き出し、そうしてどう別れる口実を作ろうかと考えている。
「どうにも、困ったね」
 なるべくおどけた調子でこの凍りついた空気を溶かそうと努めるが、どうにも気まずくて仕方無い。何を言っても同じような気がするが、無言になってしまうよりはましだと自分を奮い立たせ、さて次に何を言おうかと顔は平静、頭の中は混乱に慌てふためいていると、七海が俺に目を向けた。無理な作り笑いが痛々しいが、きっと俺も同じ顔をしているのだろう。
「ごめんね、修治君」
「あ、いや、気にしなくていいよ。それより、また七海に迷惑かけたかなぁと」
「そんなこと無いよ」
「そ、そう。ならいいんだけど」
 矢継ぎ早に会話を交わしてみたが、どうやらこれが限界のようだ。忘れようとしていたけれど、やはりそこからしか話題の糸口が見出せず、言えば思った通りの結果となってしまった。ゆっくりと二人の間の雰囲気がまた凍り、意識してしまう。
 このままではいけない、どうにかしよう。しかし先程からずっと方法ではなく、そうした疑問ばかりが繰り返され、どうにもならない。あぁ、あの下らない冷やかしが無ければもっと二人の時間を育み、楽しめたのに。
「寒くなってきたな。そろそろ俺は戻るけど、七海は?」
 情けない逃げ口実に七海はやや思案深げな顔をし、右手を頬に当てたが早いか、静かに微笑みを返してきた。
「私はもう少しいるよ。まだ花を見ていたいから」
「そうか。なら風邪ひかないようにな」
「うん」
 踵を返し、七海に背を向け歩き出すと、微かに「ありがとう」と聞こえた気がしたが、決して振り返ろうとはせず、俺は屋敷へと向かう。ただ心の片隅には、じわりとむず痒い幸せが確かな実感を伴いながら広がっていた。突っ込んだズボンのポケットの中で、握り拳を密かに作れば、微笑みと共に決意も生まれる。
 助けてみせる、と。

 願いは、僅かながらも届いた。遥か遠くに灯った、希望の光。ちっぽけだけど、それでいい。それでも歴史を動かすだろう。
 私は変えたい。必ず誰かが泣かなければならない未来を、誰もが笑える可能性ある未来へと。幸せを掴める権利を、笑い合える道を、作りたい。
 私で最後にしたい。
 等しく、いや、私はきっと誰よりも幸福を望んでいる。己の欲望の追求が幸福であるだろうから、私は逃れえぬ罪人。ならば、多くを望もう。私の、あの人の、全ての人の笑顔を見てみたい。
 ここは闇。目を開けても閉じても、真っ暗な闇の中。少し前までは、それだけだった。けれど、今は違う。闇の先、どれ程かは計りかねるけれど、とにかく遠くに光が見える。
 もう一人じゃないかもしれない。バラバラだったものが、一つになっていく。
 きっと変わる、未来は変わる、歴史も変わる。力有る意思が変化を与え、それまで見えていたものを変えていく。
 それはこの私をも、変える……。

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