五.

 目を開けば、いつもの朝に包まれていた。すっかり馴染んだ枕に、暖かい布団。カーテンが仄明るく、隙間からは日差しが差し込んでいて、小さな日溜りを作っている。しかしそんな平和な朝も、今は受け入れ難かった。
「何で俺はここにいるんだ?」
 昨日と一緒だ。部屋に戻り、布団の中に入った記憶は欠片も無い。昨晩は猛烈な眠気により、廊下で意識を失った。それきりだったはずなのに、どうしてしっかり自室で寝ていたのだろう。
 昨日のことははっきり覚えている。また夜中に目覚めたこと、暗い廊下で七海と出会ったこと、そして一階書庫の右奥の机に何かがあるらしいとのこと。だけど、どうしてここで寝るまでの記憶が、何一つ思い出せないのだろうか。二晩続けて何もその辺を覚えていないなんて、どうかしている。
 わからないものは、幾ら考えたところでわからない。悔やんでも、事態が好転するわけでもないので、次を見るべきだ。カーテンを開け、体一杯に陽光を浴びながら、そう割り切る。それより他、無いんだ。
 少しばかり早起きしたため、朝食までにはやや時間がある。それまでに、書庫に行っておこう。忘れないうちに、それが一体何なのか知っておきたい。きっとそれを知れば、今までとは違う世界を垣間見るどころか、踏み込んでしまうだろう。もしも平穏な生活を望んでいるのなら、行かないで大人しくしているべきだ。けれど、俺はもう今更引き返せない場所にいるのかもしれない。悔しいが七海の言う通り、俺も運命の歯車に組み込まれているのだろう。
 急いで着替えると、修治は取り立てて急がず書庫へと向かった。途中窓の外の景色を眺めたり、伸びをしたりしながら気取られぬように、けれど内心誰にも会わないようにと祈りながら。
 書庫はやはり、どこか重苦しかった。だが、それは何も知らない時の印象を引きずっているだけだろう。昨日はこの空気に呑まれてしまったが、今は違う。闇夜の黒猫を見付けなければならないわけでなく、しっかりと向かうべき場所を知っている。目的にはっきり光が差し込まれているんだ。そうした高揚を胸に抱きつつ、外側からゆっくりと壁伝いに進み、奥へと向かう。
「これか」
 入口から見て右奥の隅に、机が三つ並んでいた。このどれかの引出しの中に、運命の鍵があると言うのか。そう思うと、静かな緊張が走った。俺はゆっくりと深呼吸をし、暴れてしまいそうな心をなだめる。そうしてじっと三つを見比べれば、左側の机の椅子が他野よりも多少出ていた。きっとここを最後に使っていたのだろう。そんな確信めいたものが胸に迫り、緊張しながら引出しに手をかける。
「……鍵がかかっている」
 よく見てみれば、鍵穴があった。当然俺に鍵など無く、じっとそれを見詰めるばかり。他は鍵などかかっておらず、自由に開けるのに、ここだけ鍵がかかっていると言うことは何か隠されているに違いない。それも、大事なものが。けれど、どうすればいいのか。鍵は誰かが保管しているに違いなく、おいそれと手に入れられないだろう。またここで終わってしまうのだろうか。
 諦め切れず、もしかしたらと周囲をじっくり探してみれば、意外や意外、椅子の足元に落ちていた。大切なものがしまわれているはずなのに、随分とぞんざいな管理をしているのだなと多少呆れつつ、それでもこうした僥倖に感謝して引出しを開ける。
 そこには一冊の本があった。黒い表紙の中央に、何かの花と不思議な模様が金で描かれている。題名はどこにも書かれておらず、不気味な感じに多少気圧され、気安く手を伸ばせなかった。そんな存在感溢れるこの本を見ていると、開かずともこれが求めていたものだと何となくわかる。ここにきっと河口家の秘密が書かれているに違いない。いや、もしくは七海の日記か何かで、昼夜の二面性の秘密が記されているのかも。
 手を伸ばしてみると、そこまで厚くはないのにもかかわらず、ずしりとした重みを感じた。表紙の材質は皮だろうか。けれど、何か違う気もする。ともかく歴史を感じる手触りに興奮を隠し切れず、表紙を捲ってみた。
 河口家歴代術士伝。どうやらこれがタイトルらしかったが、術士とは一体何だろうか。見慣れぬ言葉により強く興味を引かれたが、今は精読する時間が無い。パラパラと目に留まる部分だけを軽く頭に叩き込み、先へ先へと読み進めていく。
「……何だ、これは」
 何かの冗談か、作り話だと思った。これを読み、すぐに現実だと信じられる人はそういないだろう。それ程までに、意外だった。一体誰が信じられると言うんだ。この中身を見て、どう整理付ければいいのだろうか。しかしこれは小説だとか落書きだとかではない、真実の伝記だと言う迫力がある。飾り気が無く淡々と綴られる文章と、所々にある歴代の河口家当主の顔写真や肖像画がそれを雄弁に物語っていた。
 断片的にだが要約すれば、河口家は代々有名な退魔の家柄であるとのことで、その血を濃く受け継ぐ者には、特別な能力が備わると言う。霊視、除霊、念写など多岐に渡るが、ほとんどが封印のための能力であり、主にそれは河口家が代々死を賭してきた『災厄』と呼ばれるものに対するためとのこと。『災厄』の実体こそわからないが、それは限り無き不幸を呼び、負の要因を蔓延させるらしい。それを封じ、世の流れを正常に運ぶのが河口家の役目で、戦乱の最中にも有力者同士が裏で河口家だけには手を出さないようにしていたみたいだった。
「血塗られた歴史、か」
 到底信じられる内容ではないのだが、信じざるを得ないのだろう。いつまでも馬鹿らしいと一笑に付していては、何も見えなくなってしまう。しかし、退魔だの災厄だの除霊だの何だのと、受け入れ難い。そうしたオカルト番組は好きだし、友達と話すこともたまにあるけれど、幾ら何でも現実として向き合うには馬鹿げ過ぎていて……それでも時に信じなければならない現実が訪れる。ありえないと否定することが、一番危険な行為だ。
 書庫のドアが開く音がした。修治は飛び上がらんばかりに驚き、慌てて本を閉じると、それを引出しの中にしまう。
「修治君、いる?」
 だが七海の声を聞いた途端、修治は再び本を取り出し、机の上に置いた。じっと表紙を見詰め、どこか覚悟を決めた表情のまま、ドアの方を向く。
「いるよ。七海、ちょっと来てくれないかな」
「もうゴハンの時間だから、早くしてね」
 足音が近付く。徐々に迫るそれを聞いていると、本当にこれでよいのかと、今更ながら不安になってきた。まだ戻れる、今ならば何も無かったことにできる。謎も心に秘めたままにしておけば、いずれ忘れて平穏な生活に戻れるだろう。けれど、もう前しか見ていない自分が確かにいる。道も光も何も見えないこの先に、強く惹かれて止まない。これが運命と言う力だろうか。
「どうしたの」
 訝しげに近付く七海に、背後から本を取り出して見せると、みるみるうちに表情が凍りついていくのがわかった。視線が本と俺の顔とを、頻りに行き来している。俺がゆっくりとその本を再び背後に置くと、紙の様に白くなっている七海の口元が、僅かに震えた。
「どうして、それを」
「夜の七海が教えてくれたんだよ」
「夜の……でも、鍵がかかっていたはず。鍵はいつも私が持っているのに、どうして」
 ポケットから鍵を取り出し、じっと七海はそれを見詰める。
「さぁ、どうしてなんだろうな。机の下にこれがあったんだけど、忘れ物かい?」
「えっ、どうして。スペアは作っていないはずなのに。それにこの鍵は特殊な作りになっていて、簡単に開けられず、複製なんてできないはずなのに」
 狼狽する七海に、俺は完全に優位に立ったと思え、鍵をちらつかせる。
「けれど、これで開いたんだ。スペアは存在していたんだろうな。それよりも、だ」
 半ば睨むような眼で七海と視線を合わせると、修治はトントンと表紙を数度叩き、再び手にする。
「教えて欲しい、この家のことを。詳しく」
 七海は視線を足元に落すと、重い溜め息を一つ吐き出し、自分の持っている鍵を修治に差し出した。
「……わかった。でも、あまりここに長くいると怪しまれるから、ゴハンの後に。鍵は渡しておくわ。これは、信頼の証。私が修治君のいない間にそれを持ち出したりして、しらばくれないことを示すためよ。私は見られた以上、拒んだり隠したりなんかしないし、修治君もこれをどうこうしようだなんてしないと、信じている」
「約束しよう、これを使ってどうこうしないと。鍵は預からせてもらうよ」
 修治はそれを引出しの中にしまうと、施錠し、鍵をズボンのポケットに突っ込んだ。そうして前に踏み出し七海の脇を抜けると、七海も踵を返して修治に続く。二人無言のまま、静かに食堂へと急いだ。
 食事中、七海の方を見られなかった。七海も俺の方を見ている素振りは無く、黙々と食事をしていたので、栄一さんや恵子さんが何か悩みでもあるのか、体調は大丈夫なのかと頻りに心配していた。七海も必死に何でもない。眠いだけと言っているものの、いつもの七海らしからぬ様子に、不信感は拭えずじまい。ただそれも、食事を進めるうちに誰も何も言わなくなり、やがて睡眠不足と片付けられたのか、食事は滞り無く終わった。
 食事を終えると七海は修治を誘い、外へ出た。庭を東に抜け、森の奥へと続くひっそりと開いている細道を辿る。うっそうと繁る木々が光を遮るため、薄暗く肌寒い。湿った土がややぬかるんでいるため、ゆっくりと進む二人だけど、その瞳には二つしか映っていない。即ち一つは相手を、もう一つは前を。
「どこまで行くんだ」
 無言に堪えかねた修治が立ち止まり、七海の背に問い掛けるも、七海は立ち止まろうともせず、どんどんと先へ進む。舌打ちの後に、溜め息一つ。修治は早足で七海にもう一度並ぶ。
「もう少しだから。この先に落ち着ける場所があるの。そこで話そう」
 平坦な道だとばかり思っていたが、気付けばゆるやかな傾斜になっていた。それどころか曲がりくねった道を登り、時に下り、また登りの繰り返し。人並みの体力はあると思うけど、目的地が見えないのは気力から削がれていく。ようやく少し開けた場所に出ると、俺は溢れる光に目を細めた。そうして光に目が慣れると、今度は目前の荘厳な風景に声も出せず、ただ立ち尽くすだけだった。
 そこには滝があった。高さ十メートル弱だが、神秘的な威圧が確かにある。周囲の風景もまた美しく、川のせせらぎ、森のざわめき、風や鳥の声がこれ以上無いと思わせる調和を生み出しており、恥ずかしながらこういう状況で感動を禁じえない自分がいた。
「ここは私にとって特別な場所なの。身を清めるための滝、かけがえのない自然の調和、そして誰にも邪魔されない場所。一度修治君をこういうこと無しに、見せたかった。でも今はどうでもいい。どんな形であれ、ここを見せることが出来たんだから。それに、二人だけで話すなら、ここしか無いの。屋敷の中だと、誰が聞いているかわからないしね。さ、ここに座ろう」
 七海が川辺に腰を下ろすと、修治もそれに倣った。光流れる水面を見詰め、そよ風に撫でられるがまま、ゆったりと時が過ぎていく。
「あのさ」
 静かに七海の声が響き渡ったが、すぐに滝の音にかき消された。修治は七海を見詰めるけれど、七海は依然水面に目を落したまま。
「何でそんなに必死に、得にならないことをするの。好奇心だけで首を突っ込むには、危険なことなんだよ」
「何でなんだろうな。その辺は、俺にもよくわからないんだ。けれど、連夜七海が俺に何か伝えるんだよ。運命を変えろ、この歴史を終わらせろって。最初は暇だったから、興味本位で調べようとしていたんだ。でも、段々とそれを超えたところで惹かれ始めていたんだよ。それはもしかしたら運命なのかもしれないし、そうでないのかもしれないけど、一つ言えるのは、もう俺は前しか見ていないんだ」
 七海は今にも泣き出しそうな瞳に、修治を映す。
「知ったら、きっともう戻れないよ。楽しい遊びも、青春も、輝く未来すら失われるかもしれないんだよ。何だってそんな……やめなよ、何にもならないんだよ。嫌でしょ、そういうの。だからほら、もう終わりにしようよ」
「それは確かに嫌だけど、でももしかしたら俺はもう、運命と言う流れの中に足を踏み込んでいるんだと思う。そうでなければ、この家にも来ていないだろうし、連夜不思議な体験もしていないだろうし、あの本を見付けることだって無かったかもしれない。それに、七海にそこまで言われたら、もうそれが何なのか気になって、退けないよ」
 ついと視線を外した七海の唇は、真一文字に結ばれていた。こぼれそうな涙を瞳に留めながら、膝を硬く握り締めている。
「何も知らないまま、流されたくないんだ。どちらかの道を選択しなければならないなら、知って何とかしたい。どうにもできないかもしれないけど、どうにかするためには、知ることが必要なんだ。これはもう、俺の問題でもあるんだよ」
 七海が目を閉じると、涙がこぼれ落ちた。たった一粒、そして一瞬。だがそれは修治の心に強く焼き付いた。こぼれた涙は七海の膝を濡らし、広がっていく。
「それでも、駄目だよ」
 震える七海の両肩を、修治が掴んだ。
「それに俺、七海の力になりたい。こうして目の前で泣いているのに、あんなにも大きなものを背負っているのに、何もせずに見過ごすなんてこと、できないよ。正義感とか、そういうのじゃないんだ。きっと自分にも関係あることだし、七海を何とかしてあげたい。だから」
「わかった、わかったよ、修治君の気持ち。もう、何を言っても退かないんだね」
 ゆるゆると七海は首を横に振る。
「じゃあ、話すよ。その前に手、どけてくれないかな」
 修治が肩から手を離すと、七海は涙を拭い、二度三度大きく深呼吸をしてから向き直った。その顔には寂しい決意が込められており、思わず修治も息を呑む。
「河口家には昔から、退魔の血が流れているの。この国に国家が出来始めた頃から、それは重宝され、何度も民衆の不安を解決してきたのよ。時の権力者達は常に河口の力を必要としていたからね。退魔のみならず、占いなどにも需要があったから。もちろん私も、その血を濃く受け継いでいる。私の場合、感じることはもちろん、霊を見たり、封印したりできるわ。生まれた時からその片鱗はあったみたいで、物心付いた時から、ずっと修行をしていたわ。この滝だって身を清めるための修行場なの」
 一度触れたこともこうして改めて聞けば、何とも言えない気持ちが淀んだ渦のように、心をかき乱す。本を見た時は真実だと思いつつ、どこか半信半疑であったけれど、こうして七海の口から聞くと、あぁこれが現実なんだと落胆に似た認識が生まれる。俺は落ちかけた視線を戻し、一つ頷く。
「歴史の方に話を戻すわ。今から千年前に、一人の天才が生まれたの。彼の名前は河口大和、今でも名を残している伝説の退魔師よ。彼は風水にも長けていたから、竜脈と呼ばれる大地の気流を知っていた。そしてその流れから、世の中に不幸や悪を生み出す竜穴を探り当てたの。竜穴とは竜脈を流れる気が噴出する場所のこと。そこから溢れる最大の悪である『災厄』を、河口大和は封じたのよ。その封印の地が、河口家の屋敷の真下なの」
 寝起きしていた場所がそんな場所だとは、夢にも思っていなかった。何かあるとは思っていたけど、これ程までとは。話を聞いても後悔は生まれないけれど、想像を越えた話の連続に心が不安で軋む。
「河口大和が封じたと言っても『災厄』の力は大きく、一定の周期によって表に出てきているの。時の能力者達は河口大和程の力には及ばなかったけれども、それを封印しなければならなかったの。そこで生まれたのが、生贄の儀式。命と引き換えに、強大な力でもってそれを封印してきたの。けれど、それは所詮一時的なもの。抑えられてきた『災厄』の力は年々強くなってきており、それはもう並大抵の力じゃ封じられなくなっているの」
「まさか、七海……」
「私は歴代の能力者達よりも力は強いみたいだけど、この膨れ上がった『災厄』には、きっと遠く及ばない。だから、私の命でもってそれを封じなければいけないの。私はこの儀式のため、生まれてきた。誰しも死に向かって歩いていくけれど、私は生まれた時からそれがはっきりとしていて、そのために今日まで生きてきたの。その日まで、あと一週間。一週間、たったそれだけしか私はもう生きられないのよ」
 一週間、だと。七海とこうしていられるのが、もう一週間しかないなんて、そんなこと急には信じられない。けれど、涙を流しながら話すことに疑いを抱けられるわけが無く、俺は現実離れしている目の前の事実を、何とか捉えるのに精一杯だった。
「気持ち悪いでしょ、こういうの。人とは違った能力を持っていて、おまけに死ななきゃいけないとか言っているんだからさ。怖いよね、こんなのが側にいると。だから修治君、今からでも遅くないよ。私と距離取ってさ、なるべく近寄らないようにするのは。あ、でも急にそうしたら怪しまれるかな。でも、本当に慣れるまで難しいだろうけどさ、今まで通りでいて欲しいの。それは修治君のためにもなるから。このことを知ったら、危険に晒されるだろうから、なるべくなら知らない振りをしていて欲しいの。私はもう諦めているからいいんだ、これも運命だからね。心ではどう思っていてもいい、でも危ないことには本当に巻き込みたくないから、表面だけでも今までのままでいて」
「いい加減にしろ」
 両拳を力一杯握り締め、固く目を閉じながら、怒鳴りつける。突然のことに七海は驚き、そしてじわりと悲しみを滲ませながらうつむく。重い沈黙。この神秘的な自然の中に怒声が消える頃、俺は視線を七海にぶつけた。
「そんな風に自分を卑下するなよ、何だってそんなこと言うんだ。能力だの、血筋だの、そんなこと今更関係あるか。そりゃあ興味本位で調べていたけれど、こうして七海から本当のことを聞かされた今、そんなことできるか。七海が悲しいことくらい、鈍い俺だってわかるよ。じゃないと、ここまで言わないだろうからな。俺はそんな七海を見捨てられないし、何とかしてあげたい。単に運命だの、不思議な体験だので、ここまで首を突っ込もうだなんて思わないからな」
 考えがまとまらない。ただ、思うがままに浮かぶ言葉を吐き出しているだけだ。言うだけ言ったようにも思えるが、まだ心に靄が残っている。何だろう、愛を告白した時のような気持ちに、少し似ているのかもしれない。
 しばらく黙ってうつむいていた七海が、そっと顔を上げた。もう涙でその瞳は濡れておらず、曇ってもいない。悲しさも寂しさも無く、冷たい春風のような微笑みを静かに修治へと向ける。
「ありがとう」
 見返りを求めていたわけじゃない、ただ純粋に何とか助けてあげたい、そのはずだった。けれど、こうして感謝の意を示されると、何故だか胸が疼く。その疼きを認めてはいけないのに、どうしてか大切にしたくなる。
「私、修治君のこともっと違う風に見ていた。それが意外だからってわけじゃないけど、すごく嬉しい。こんなに想ってくれたこと、今まで誰にも無かったから。ううん、そんなこともないかな。でも、誰にも言えなかったことを何とかしてくれるって言ってくれた修治君、好きだよ。すごく、そう思う」
 好き。その一言に頭の後ろを殴られたような衝撃が走ったが早いか、全身がかあっと熱くなり、痺れた。目の前も頭の中も、真っ白くなっていく。違う、きっと違う。この好きは男としてではなく、一人の友人としてであり、こういう状況だからこそ出た感謝の言葉なんだ。そうわかっていても、あぁ、心が乱れる。
 いや、こんなところで意識して、どうなると言うのだ。七海は死ぬ運命にある、それもあと少しで。ただ、もしこの心の奥底で疼く想いが本物であるならば、それを絶やさぬために何としても七海を助ける方法を考え、どうにかしなければならない。いや、そんな想いに関わらず、七海を失いたくない。折角仲良くなれたのだから。
「ともかく、歴史なり秘密なりは一応わかった。問題は、それをどう終わらせるかだ。俺が夜の七海に言われた、呪われた歴史を終わらせてと言うのは、このことなんだろうな。ただ、今はまだこの大きなものに対して、どうすればいいのかわからない。でも、俺は七海に生きて欲しい。七海だって生きたいんだろ。だから」
「私は、そんなこと。それが運命であるならば、ただ受け入れるだけよ」
「嘘つくな」
 伏目がちだった七海がびくりと肩を震わせ、修治を見詰めた。先程までの力や勢いはすっかり瞳から消え失せ、子犬のようにおどおどとしている。
「もし本当に七海の決意がそうならば、俺に打ち明けないはずだ。死にたくないと心のどこかで思っているから、理解してくれる人を求め、助けを求めたんだ。運命と言うけど、それは決まっているものでなく、変えられるものでもあるんだ。それが絶対ではない。今大切なことは悲観して慰め合うよりも、生きるための方法を模索することだろうよ」
「私、わからない」
 すっと七海は修治から滝へと視線を移す。
「終わらせる意味も、方法も、その先を生きる意味すらも。生きることが嫌だとか、そう言うわけじゃないの。はっきりとしたが目的が与えられているのに、それを回避してまでどうして生きていかなければならないのか、その理由がわからないのよ。生きていたら何とかなるって、よくそう言われているけれど、一体どうなるんだろう。良くなるか、悪くなるかなんて、わからないよね。ならば、誰かの役に立つ死の方が、とも思うの。長生きする意味って、何だろうね」
「わからない。俺はまだそれに対して、はっきりとしたことは言えない。だけど、それをはっきりさせるために生きることも、きっとあるだろうさ。わからないからこそ、答えを見付けようとしているんじゃないかな」
「そう、かもね」
 二人はじっと滝を見詰めていた。流れ落ちる白糸、弾ける水飛沫、響く轟音。考えようとしても、全てそれに吸い込まれてしまう。さっと通り抜けた一陣の風すらも、二人から思考を奪い、やがて太陽が南中に昇るまで、じっと無言のままそうしていた。

 見慣れぬ闇が、そこにあった。肌に触れる様々な感触、匂い、雰囲気などでここが自室だとわかる。夢の続きでも何でもない、はっきりとわかる現実世界。いつもの時間にまた目覚めてしまった。だが、何か変だ。いつもの妙な気配が無い。どこかへ誘われるような感覚も、迫り来るような緊張も何も無く、ただただ平穏な夜。当たり前のことなのに、もうずっと起こり得ないだろうと思っていたし、遠い昔の思い出みたいに思えた。どうやら今日は単にここ最近の習慣で起きてしまったらしい。
「仕方無いか」
 今までの常識が通じなくなってきている。夜の七海、河口家の歴史、儀式とやらで七海がもうすぐ死ぬだろうことなど、ぱっと思い浮かべただけでも解決できそうにも無いものがこれだけある。そんな理解を超えた世界に足を踏み込んでおいて、快眠できるわけが無い。解決するまで、ずっとこのままだろう。
 この時間に何も無いのなら、きっと今日はこのまま寝ていられる。久々にそうした安息を得られると思い、半分起こした体をまた布団の中に潜り込ませたが、折角起きたんだ、喉が渇いているから水でも飲もうとベッドを降りた。
 月明かりと所々にある間接照明が、何とか歩けるように廊下を照らしている。水が飲める二階の簡易台所までは、七海の部屋の前を通った方が近い。なるべく物音を立てないようにと、ゆっくり静かに歩く。
 不意に、話し声が聞こえてきた。いや、話し声と言うよりは獣の咆哮に近いかもしれない。どこか淫猥で、けれど苦しみ悶えている本能の獣。一体これは何だろうか。また夜の七海の仕業だろうか。しばし立ち止まって聞いていると、妙な気分にすらなってくる。
 声の出所はすぐにわかった、七海の部屋からだ。何事も無かったかのように通り過ぎようとも思ったが、やはり気になる。少しだけと自分に言い聞かせ、俺はそっとドアに耳をそばだてた。
 中で七海が暴れているのか、ベッドの軋む音が聞こえるけれど、それは彼女の狂乱した叫び声の前には些細なことだった。何を言っているのかは、布団をかぶっているからか、口を手で押さえられているのかわからないけれど、酷く聞き取りにくい。それでも時折、苦しいだの死ぬだの、助けてくれだのと聞こえてくる。
「大丈夫、大丈夫だから、私に全てを委ねて」
 必死に落ち着かせようとしているのは、沙弥香さんのようだ。きっと、暴れる七海を何とか押さえ込もうとしているのだろう。
「あぁ、助けて、どうにかなる、どうにかなりそう。もう、もう私、我慢が、私を抑えられなくて、我慢できない。おかしくなる、変になるの。怖いよ」
「落ち着いて下さい、私はここにいます。私になら何をしてもいいですから、溢れ出るその狂気をぶつけてくれてもかまいませんから」
「どうしたらいいの。また前のように、いけないことをしてしまいそうになる。私は私が恐ろしい、わからない。ううん、どうしてこうなるのかわかっている。けれど、止められないの」
「私は大丈夫、受け止めてさしあげますから。だから無理せず、ぶつけてくれてもかまいませんよ。それによって私は恨まない、蔑まない、嫌わない、そして後悔したりしませんから。安心して、さぁ」
「本当なのね、本当にそうなのね。私、もうどうしようもない。また沙弥香さんを求めてしまう、甘えてしまう。嫌だぁ。でも、でも私は……」
「いいんです、今は何もかも忘れても」
 静かになってきたところで、我に返った。このままここにいると、もし何かあった時に不利だ。行こう、早く水を飲んで寝てしまおう。これを聞き続けていたら、俺もどうにかなってしまいそうだ。
 熱っぽくなっているであろう部屋の中を極力考えないようにし、修治は苦笑を浮かべて静かに立ち去った。少し離れてから振り返り、しばしその部屋のドアを見遣ってから、また歩き出す。もう振り返りはしなかった。
 平穏な日はもう遠い過去なのかもしれない。ふとそんな思いが胸に去来した。

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