四.

「ここは、俺の部屋か?」
 瞼を開くが早いか、すぐに異変に気付いた。柔らかいベッドに、暖かい布団、そしてカーテンの隙間から射し込む日光。いつも通りの朝が俺を迎えてくれているのだが、それが逆に不自然だった。
「何でここにいるんだ。確か昨日はバルコニーで……」
 そうだ、昨日は猛烈な眠気に襲われて、七海を前にバルコニーで寝てしまったはず。なのに、どうして部屋で寝ているんだ。確かに俺は夜中に部屋を出て、七海を追い駆けて、何故かバルコニーで寝てしまったはずなのに。まさか、本当に夢なのか。
 いや、夢だとはどうしても思えない。あれは現実だ、実際に起きた出来事なんだ。幾らなんでも、夢と現実の区別はつく。あぁ、でも寝た後のことは何一つ覚えていない。七海が俺を起こさずに部屋まで運べるとは思えないし、第一運ぶ理由がわからない。風邪をひかせると不味いとでも思ったのだろうか。しかし、あの不思議な行動をする七海がそんな気遣いをするとは、少し考えにくい。
 疑問はまだある。あれだけ話したり走ったりしたのに、何故誰も来なかったのだろうか。これが七海ではなく強盗の類だったならば、一体どうするのだろうか。まさか完璧に侵入できないだろうから、内部には気を遣っていないとしたら、それは問題だ。まぁ、そんなにこの家のセキュリティが甘いとも思えないけれど。考えてもわからないと知りつつも、首を傾げてしまう。
 しばらく一人で思い悩んでいると、ドアがノックされた。この時間に来る人は決まっている。俺が入室の許可を与えると、ドアは開かれた。
「おはようございます」
 射し込む日光の様に明るい笑顔の沙弥香さんが、ペコリと頭を下げた。少し間延びした特徴ある声の挨拶が、現実の朝だと実感させてくれる。これは夢ではないとの確信が不思議な安堵と共に胸に広がり、力を与えてくれるけれども、依然渦巻く疑問が晴れない。
「あのさ、一つ訊いてもいいかな」
「はい、何でしょう」
 カーテンを束ねていた沙弥香が振り返る。
「昨日、俺バルコニーのところで寝ていなかったかな」
「えっ、バルコニーで、ですか?」
 我ながら変な質問だとは、重々承知している。だけど、真剣なんだ。笑われたって、是非聞いておきたいんだ。
「いいえ、見かけませんでしたけど。どうしたんです、そこで寝ていたんですか?」
 だがやはり、他人からしてみれば非常に滑稽な質問に聞こえるのだろう、笑われてしまった。覚悟はしていたものの、真剣な質問だっただけに、どこか悲しい。しかしそれを表に出しては変な距離ができてしまいそうで、俺もどこかおどけて笑い返す。
「いや、ちょっと訊いただけだよ。どうも最近、リアルな夢を見るものだから、もしかしたら現実に起こったことかもって、心配になってね」
「バルコニーで寝る夢でも見たんですか」
「まぁね。でも、きっと夢だったんだ。走ったり、話したりしていたのに、誰も起きてこないなんて変だしね」
「そうですね。もし夜中にそういうことがあれば、私共使用人がすぐに駆けつけますし、外部からの不審者はもちろん、内部に潜んでいても常に見回りはしておりますから」
「だろうね」
 沙弥香さんの部屋は和巳さんや敏雄さんと違い、二階にある。なのに、何も気付かなかったなんてことは、ありえない。沙弥香さんが知らないのなら、きっと誰も知らないだろう。あぁ、認めたくないが夢だったのかもしれない。もしくは覚えていないだけで、寝惚けながら部屋に戻ってきたのかもしれない。
「いや、変なこと訊いてごめん。朝食はもうすぐだよね。それじゃあ着替えるから、悪いけどこれで」
「はい、わかりました。それでは失礼致しました」
 一礼し、退室した沙弥香の背の幻影を、しばらく修治は見詰めていた。けれどその背に何も見出せず、一つ重たい溜め息をつくなり、着替えのためにとタンスを開け、のろのろと着替え始めた。
 朝食を終えると、修治は二階へと向かう七海の肩を叩き、立ち止まらせた。七海は戸惑いながらも微笑みを浮かべると、すぐに何を言われるのか察したようで、じっと修治の瞳を見ながら言葉を待っている。修治は小さく一つ深呼吸し、鼓動を整えつつ七海に顔を寄せた。
「昨日の夜もまた、七海に会ったよ。でも」
「でも?」
「それが、今までよりも更に不思議なんだ。バルコニーで話している最中に寝てしまったのに、起きたら自分の部屋にいたんだ。それに、その会話の内容がまたよくわからない内容でね。七海は当然、これに関しても覚えが無いんだろ?」
「うん、昨日も十二時には寝たから。ところで、その会話ってどんな内容なの」
 訝しげな七海に、修治は必死に記憶の糸を手繰り寄せる。
「何だったかな、古の血に縛られた歴史を終わらせるのは貴方で、運命が動き出したとか何とか。俺には何が何だかさっぱりだけど、でも気になる言葉だよね。七海はこれが何を示しているとか、わかる?」
 大きく開かれた七海の瞳には、明らかに驚きの色が濃く表れていた。それもすぐに悲しみに染まったかのように見えたが、我に返ったのか、すぐに微笑みを取り戻し、小首を傾げる。その表情の切り替えは実に一瞬のことで、注視していなければ見逃していただろう。しかし、俺は見逃さなかった。その表情は何を意味しているのだ。
「何だろうね、私にはわからないや。とにかく、私は昨日もぐっすり寝ていたし、それにそんな言葉が何を示しているのか、全然わからないよ。力になれなくてごめんね」
 七海は何かを隠している。これは間違い無いことなのだが、訊いたところで埒があかないだろう。それでも、何かしらの情報は引き出しておきたい。謎を謎のまま終わらせてしまうと、ずっと安眠できないままになってしまうし、胸の中がいつまでも靄がかって気分が良くない。些細なことでいい、手掛かりが欲しい。
「あのさ、七海ってこの家のことに詳しいかな」
「どういうこと?」
「この家の歴史について、教えて欲しいんだ。ほら、すごく古くからの名門みたいだから、歴史に名を残したであろう偉い人とかいるだろうし、歴史上の有名人と会っているのかなって。どう、何かそういうエピソードとかって知らないかな」
「さぁ、どうなんだろうね。もしかしたらそういうこともあるかもしれないけど、私にはわからないな。でも、もしそういうのがあったとしたら、自分の家のことながら、すごいと思うけどね」
「そうか」
 聞き出せるとは思っていなかったが、実際その通りになると肩を落さざるを得ない。
「それじゃあ私、そろそろ行くね。勉強しなきゃいけないからさ。また何かあったら、聞かせてね」
「わかった」
 七海は二階の書庫へと向かって行った。俺はその背を見送りながら、どこか釈然としないまま、踵を返す。そうして数歩歩き、窓辺に差し掛かったところで立ち止まり、外を眺めた。気分転換が目的ではない、少し考えたかっただけだ。
 確信があった。間違い無く、七海は何かを隠している。きっとそれはこの家の歴史についてだろう。何でもない歴史ならば、別に話しても問題無いだろうが、知っていて話せないとなると、黒い部分があるに違いない。やはり秘密はあったんだ。あの七海が言っていたことは、少なくとも真実の一片が含まれていた。夢でも幻覚でもなく、れっきとした現実だったんだ。
 確信を抱くと次は行動とばかりに、足は沙弥香さんがいるであろう洗濯場へと向いていた。和巳さんには昨日話を聞かせてもらったし、何よりまた敏雄さんに見付かると面倒だ。またそういうことになれば、言い訳にもならない。沙弥香さんも、和巳さんと同じくらいここで長く働いている上に、誰よりも七海と親しそうにしている人だ。きっと何か知っているだろう。
 こうした行為は馬鹿げていると、しっかり自覚している。最初は暇潰しだとか、そんな程度だった。けれど、何だかもう妙に気になって仕方なくなってきている。昨晩の七海の言葉が不思議と耳に残り、心に引っ掛かり、それが何なのかと突き止めたい衝動に襲われているんだ。きっと俺を指して、運命だの何だのと言われたせいだ。
 三十畳程度の洗濯場は賑やかだった。洗濯機や脱水機が活気良く働いている中、沙弥香が鼻歌交じりに脱水を終えた洗濯物を取り込んでいる。気持ち良さそうに仕事をしている沙弥香を邪魔するのは修治も酷く気が引けた様子で、入口でしばし立ち止まっていた。けれども、ややあって周囲を確認した後、修治は意を決したのか悠然と中へ入っていった。
「沙弥香さん」
「えっ、あ、はい。修治さん、どうしました。何か御用でしょうか?」
 少しばつの悪そうな顔をしながら、沙弥香が修治の側による。修治も修治で、先程までの悠然さはどこへやら、どこか気まずそうにまごつきつつ、頻りに視線をさまよわせていたが、やがて申し訳無さそうに沙弥香の瞳に落ち着いた。
「仕事途中にごめん。ちょっと訊きたいことがあってね」
「お気になさらず。それで、お聞きになりたいこととは、何でしょう。私に答えられることならば、何でも」
「沙弥香さんは、ここに来てもう長いんだよね」
「はい、今年で十八年目になります。私の両親が亡くなって、河口家に引き取られたのが八歳の時ですから、それ以来ですね」
「子供の頃からと聞いていたけれど、そんなになるんだ。あ、ごめん、変なこと訊いちゃって。その、何て言うか」
 巧く言葉が出てこない。どうして自分には気遣いや配慮と言うものが、こうも欠けているのだろうかと、自己嫌悪すらしてしまう。同じ傷を抱いているくせに、どうして同じ目線で見てあげられないのだろう。甘えだろうか。
「修治さん、気にしないで下さい。私はここで働けて、幸せなんですから。それで、訊きたいこととは、それだけでしょうか」
「あぁ、そうそう。ここに長くいる沙弥香さんなら、何か知っているかと思って訊くけれど、この家の歴史について知っていることとか、何かあるかな」
「河口家の歴史、ですか。どうしてまた」
 それを言われると、答えに窮してしまう。どうしてと言われても、明確なものなんて無いのだから。ただ、昨晩の七海と和巳の言葉が気になり、先程の七海の様子がどこかおかしかっただけなのだが、それは話す気になれない。沙弥香さんは確かにこの家で俺と親しくしてくれ、かつ同じ傷を抱く親近感溢れる人物だが、まだ完全に信用するには早いだろう。もしも全てを話すなら、もう少し彼女のことを知ってからだ。
「いや、これだけの家だから、何かあるのかなと単純な好奇心からだよ。すごく古いし、代々続く名門だから、歴史上の有名人と会っているかもしれないだろうさ。そうした何か面白い話の一つや二つ、知っているかと思ってね」
「私は、よくわかりません」
 深々と沙弥香は頭を下げる。
「そういったことを深く詮索するのは、メイドとしてあるまじき行為ですから。それに、もし知っていたとしても、教えるわけにはいきません。そうしたことは、軽々しく口にするようなことでは無いと思っております故、申し訳ありません」
 言われてみれば、その通りだ。知っていても軽々しく口外できるようなものではない。
「そうだよね。じゃあ、もう一ついいかな」
「えぇ、どうぞ」
「七海に変わったところとか、あるかな?」
「七海さんに、ですか」
 きょとんとした沙弥香さんにこれ以上何かを訊くのは気が引けたが、ここまで話したからには引っ込みがつかないだろう。言わなければよかったかと今更ながらに公開しつつ、重くなりがちな口を何とか軽そうに開く。
「えっと、ほら、例えばなんだけど、夜中に出歩いたりとか、二重人格みたいなところとか、何か変なことを言い出したりとか、無いかな」
 修治が言い終わるが早いか、沙弥香が噴出した。
「すみません。でも、そういったことは、今まで一度もお目にかかっておりませんよ」
 隠しているのか、それとも本当に見たことが無いのか判別がつかなかったが、ともかくこれ以上は訊いても無駄だろう。
「そうか。いや、仕事の邪魔してすみませんでした。では、がんばって」
 軽く頭を下げ、踵を返したところで、沙弥香が修治を呼び止めた。修治は振り返り、目を細めている沙弥香の瞳と唇へ目を向ける。
「書庫に行かれてはどうでしょうか。一階と二階にある書庫は、文学医学などの専門書から、過去の新聞や雑誌まで幅広く取り揃えられております。小さな図書館くらいの規模がありますから、もしかしたらお探しのものもあるかもしれませんよ」
「ありがとう」
 礼を言うなり、修治の足は一階の書庫へと向かっていた。
 書庫には膨大な蔵書が所狭しと埋め尽くされていた。一見しただけで挫折してしまいそうな多さに、俺はただただ圧倒されるばかり。初日にここへ案内された時も驚いたが、その時はそれだけで済まされた。ここの存在を認識するだけでよかったのだから。
 しかし、今は違う。この中からタイトルもわからない本を探さなければいけないのだ。小さな図書館規模のこの書庫から、実在しているのかどうかも曖昧な本を。気軽に探し出せるものではないだろう。例えるなら、闇の中で眠っている黒猫を見付けようとしているのに、等しい。
 とりあえず書庫内を歩いてみたが、背表紙にすら目を留めず、ただ散歩のように一周しただけとなってしまった。そうしてまた入口に戻った時、大きな溜め息が自然と出てきた。やはり探し方も何も知らないのに、この中から特定の本を一人で探すのは無理だ。ここは諦めて、二階の方に行ってみるとするか。
 書庫を出ると、どっと疲労感が全身を襲った。本に圧倒されたせいか、それとも普段あまり本を読まないから、背表紙の活字を流し読みしただけでも目が疲れたのか、とにかく体が重い。いや、もしかしたら次は二階の書庫を見なければならないと言う、気の重さからきているのかもしれない。
 二階の書庫は一階のと比べるとやや規模が小さいものの、それでもかなりの冊数があると、一見しただけでわかる。ずらりと並んだ数多くの本棚に、ぎっしりと詰まっている蔵書。一階と同じように探す気が起こらず、とりあえずとばかり一周してみるが、やはり最後には大きな溜め息が出てきた。
「どうすればいいんだろう」
 仮に両方の書庫を全て見ようとするならば、一年以上かかるかもしれない。無論、一冊一冊をじっくり精読するのではなく、中身をパラパラと確認する程度でだ。そのくらいの本に囲まれていると、どうすればいいのか何も浮かばない。全ての背表紙に絶望とでも書かれている気分だ。
「夢か幻かもはっきりしないのに、おまけに曖昧な言葉にただの勘だけじゃ、全部探すだなんてことは、とてもじゃないができないな」
 静かに首を横に振りながら、修治は書庫を後にした。
「あれ、どうしたの、こんなところで」
 書庫から出るなり、七海と出くわした。七海は普段書庫に入らない俺に対し、驚きを露にしている。
「いや、ちょっと調べ物しようかと思ったんだよ」
「調べ物なら、ここ結構揃っているから楽でしょう」
「そうでもないよ。どこに何があるのか、さっぱりわからなくてね。お手上げだよ」
「そうかもしれないね。目印とか無いから、使い慣れていないとわかりづらいかも。私もたまに欲しい物が見付からなくて、困ることもあるんだよね」
 ずっとここに住んでいる七海だって把握し切れていないのならば、俺が探し出せるわけなどない。安堵と絶望が同時に胸に広がる。
「ところで何を探していたの?」
「この家の歴史についての本だよ。どうしても気になってね。一度気になると、解決したくなるんだ」
 熱心さをアピールすればもしかしてと思ったが、七海が俺に見せたのは苦笑だった。けれど、ここでおいそれと引き下がるわけにはいかない。ようやく書庫に何かありそうだとわかったからには、何か七海からも聞き出しておきたい。
「七海だったら知っているだろう。書庫のどの辺にそういう本があるのか、教えてくれないかな」
「私も全部把握しているわけじゃないから、どこに何があるのかなんて、わからないってば。それに私は家の歴史になんて興味無いから、そういうのを探したことも無いしね」
 確かにそうかもしれない。海江田の家にいた時も、家のどこに何があるのかなんて、知らない事の方が多かった。それと比べようも無いくらいに広いこの家なら、なおのことだろう。もし本当に知らないならば、だ。
 ふと、ここまで考えると一つの疑問が唐突に湧き上がってきた。何故この問題を考えた時に、気付かなかったのだろう。思っていることと、言っていることの違う可能性だって大いにありえるじゃないか。七海ならばそうしていても不自然ではないと、そう思わされていた。
「あのさ、ところで七海って毎日書庫で、何を調べているんだ?」
 もしも七海が俺に隠し事をしていて、かつそれがこの家に関する秘密についてだとしたら、多少顔色が変わるかもしれない。暇さえあれば書庫にいる七海を疑うのは当然だ。必ず何かあるに違いない。
「前にも言ったけど、古典文学を読んでいるだけだよ」
 だが七海は、顔色一つ変えず、平然と返してきた。
「外国から国内のまで色々読んでいるんだけど、結構面白いよ。今の作家さんには無い感性とかが、興味深いんだ。あ、でも外国のは翻訳する人によって、大分面白さが変わっちゃうから、そこが不満と言えば不満かな。国内のも、慣れていないと読むのに苦労するけれど、わかるようになれば面白いよ」
 熱心に話す七海に対し、俺は頷くだけで精一杯だった。あまり本など読まない上に、外国文学や古典文学など、概要を聞いているだけで眠くなってくる。
「色んな話があるけれど、私はその後を考えさせてくれるような結末が好きなんだよね。例えば恋愛物とかでも、御都合主義でラブラブとかよりは、一緒になった後も色々想像させてくれる方が好き。でも、やたら暗いのとか、救いが無さ過ぎるのも、苦手だけどね」
「好きなんだな」
「ここ五年くらいからだよ。何気無く読んでみたら、面白くて面白くて。元々、読書は嫌いじゃなかったからね。それはそうと、そろそろお昼かな」
 そう言えば腹が減ってきている。色々しようとして、何もできないまま、もうこんな時間なのか。時の流れは早いなと思いつつ、俺は七海と共に食堂へと向かった。
 昼食を終えた修治は自室のベッドに寝転がりながら、茫漠とした眼を天井にさまよわせていた。その瞳に力は無く、ただあるがままの景色をしばらく写しつつ、静かに目を閉じ溜め息を吐き出す。
「どうすればいいのか、全然思い付かないな」
 妙に昨晩の七海の言葉が心に引っ掛かっていて、事ある毎に思い出される。歴史を終わらせるだの、運命は自分にあるだのと色々言われたけれど、さて一体どうすればいいのか、どう終わらせればいいのだろうか、本当に終わらせなければいけないものかすら、わからない。そもそも、それがどんな歴史なのかも、わからずじまいなのだから。
 八方塞。そんな言葉が脳裏をかすめる。今の俺は例えるならば、噂話だけで海底に眠る財宝を見付けようとしている、無謀な冒険家と一緒だ。自分では現実だと思っているけれども、他の人が懐疑的だったりすれば、信じきれなくなってくる。いや、冒険家ならば財宝と言う目的があるけれど、俺には何のメリットも示されていないんだ。目的すら抱けぬ曖昧なものに、幾ら暇だとは言え、そうそう付き合っていられない。
 寝返ると、修治は枕の端を握り、小さく低く呻いた。
「わからないなぁ」
 どうしてこんなことに、ここまで執着するのか、我ながらわからない。あの七海も、あの言葉も、不思議な出来事として片付ければいいじゃないか。そうだ、そうしてしまえばいいだけだ。何をやっても、どうしようもないことに、いつまでも固執するのは人生の無駄だ。やめるべきだろう。こんなもの、馬鹿らしい。そう考える程に腹が立ってきた。そもそも、ああいう意味深なことを言われても、それを遂げる義務は俺に無いんだ。もしも俺がそれをできるならば、もっと力のある人間が容易くできるはずだろう。そういう人間はごまんといるのだから。
 修治は起き上がると同時に、口の端を歪めた。それは自嘲とも苦笑とも取れる、どこか不気味な薄笑い。しかしそれも頭を掻き、部屋を出る頃には消えていた。
 気分転換にと外に出てみれば、緩やかな風が頬を綻ばせた。やはり陰気臭い書庫の空気にあてられていたからだろうか、緑と花の生命萌える風を胸一杯吸い込めば、生の感触をはっきりと実感できる。春は良い。世界を溶かし、心をも溶かし、生きる何かを与えてくれる季節だ。
 やる気、とはまた違う。ゆったりと木陰に座り、じっくりと世界を噛み締めていたい。この風に撫でられていると、誰にでも優しくなれそうな気がする。先程の苛立ちが、この風に流され、消えて行く。
 立ち止まり、空を見上げた。眩しいまでの太陽が雲を高く、天を深くさせている。この空を見ていると、吸い込まれてしまいそうで、気持ち良くも恐ろしい。晴れ渡る空はどこか物悲しさをも生み、感傷を抱かせる。穏やかな気持ちがそれに負けそうになった頃、俺は足元へ視線を移した。瑞々しい花々が、陽光に煌いている。その中のとある花に、ふと目が止まった。
「これは、フリージア、だったかな」
 そよ風に震える、白く可憐な花。花なんて今まで興味が無かったけれど、教えられ知ったものだから多少気にかかり、じっと見詰めてしまう。素通りしていたものの名を知れば、世界の彩りが増える。そうか、これを増やしたいからみんな出会い、辛いながらも前に向かって進むのかもしれないな。
「花っていいでしょ」
 いつの間にか、七海が側に立っていた。修治は幾らか驚いて振り返ったが、またすぐに花へ目を移し、しみじみと眺める。七海もそんな修治に頬を緩めると、じっと花壇の花々に目を落した。
「一つ訊いても、いいかな」
「いいよ」
「色々あると思うんだけど、修治君は花について、どう思っているの?」
 ゆっくりと顔を上げ、中空をぼんやりとしばらく見詰めてから、修治は七海の顔へ目を移した。
「綺麗だなって程度で、別に深く考えたことなんて無いな。でもまぁ、普段気にしていないからなのか、たまに見れば新鮮に思えるし、無ければ寂しいと思うよ」
「修治君って、花束とか苦手でしょ」
「そう言われれば、そうかもしれない。バラばかりだとかみたいに、あまりゴテゴテしたのは、花に限らず苦手だな。やっぱりこう、あまり自己主張し過ぎないと言う立場でいて欲しいと、花を見ているからなのかも」
「何だか、少し意外だったかも」
 訝しそうに、けれど敵意の無い眼差しで七海を見れば、彼女はくすりと小さく笑い、あどけない表情のまま首を横に振った。
「悪い意味じゃないよ。ただ、修治君はもっと花に興味が無い人なのかと思っていたんだけど、結構見ているんだなぁって。あ、これって失礼なことかな。ごめんね」
「いや、いいよ」
 何気無く思ったことを褒められるのは、嬉しい。けれど花なんてと、正直軽んじていたものだけに、気恥ずかしさもある。だからこそ、七海を正視できず、つい花ばかり見てしまう。
「ところで、七海はどう考えているの?」
 七海は花と空を一瞥してから、考えるように目を閉じた。それも数秒のことで、すぐにまた花へと視線を投げ掛ける。
「花って、儚いとか一時の彩りだとか、よくそう言われているけれど、私はそう思っていないんだよね。儚いのは、花弁だけを見ているからだと思うの。色んな季節や天気に負けず、芽を出し、葉をつけ、つぼみから花へ。そうして枯れれば、次の世代のためにと種を残す。どれもすごくて、か弱いとか儚いなんて、思えないよ。私、憧れているんだ」
「憧れているって、花に?」
「そうだよ。そういう強さって、私には無いだろうから。あと、綺麗な花弁だとか、良い匂いだとかで心に何か残せるのは、すごく素敵なことだよね。自分が何か他人の心に残るような人になれるかと言われたら、素直に頷けないよ」
「心に残る、ねぇ」
 七海なら、大丈夫だよ。そう喉まで出掛かったが、言葉にはできなかった。気恥ずかしさもあるけれど、それ以上にこの太陽と風が言い出せない雰囲気を作っており、軽々しく口を開かせない。そうして目も合わせられないまま、ゆっくりと時間が流れる。
 一度止まった会話に、容易な再びは用意されていなかった。それどころか、柔らかな風が二人の距離を遠ざける。何か話そう、何を話そうかと色々考えるけれど、何一つ浮かんでこない。仮に何か話したとしても、すぐに終わってしまいそうで、恐ろしい。そう考えている間にも重苦しい雰囲気が心を苛み、身を切らんばかりの痛みが走る。
「それじゃ、俺はそろそろ行くよ」
 気まずいとは知りつつも、これ以上何を言えばいいのか、どう好転させればいいのか思い付かなかった。顔を上げ、でも七海をなるべく見ないようにし、くるりと踵を返して二歩三歩。そこまで進んで立ち止まり、唇をへの字に結んでから振り返ると、七海に笑い掛けた。
「あのさ、また色々と教えてくれないかな。花でも、本でも、何でもいいからさ」
「あ、うん。いつでも訊いてね」
 この太陽に、風に負けないくらいの笑顔を見ると、心に渦巻いていた靄が、すっとどこかへ溶けていった。あぁ、七海は花だ。ふとした魅力に気付けば、それの無い生活に寂しさを覚え、また心に何かを刻む。俺の中の欠けた部分を埋めてくれそうなもの、そんな気がしてならない。
 気恥ずかしさはもう覚えなかった。ただ、それを離れてから一人想い、心にしまうだけの自分に対し、情け無さを覚えた。傷付けてはいけないと最も危惧しているのは、七海ではなく、他でもない自分だとわかっていながらも。

 四日も続けば、次第に慣れを感じてきた。いや、慣れと言うよりは諦めだろうか。またこの夜も明けていない時間に起きてしまった。時計など見る必要も無いだろうが、一応確認のためにと多少苛立ちながら見てみれば、やはり午前二時。もう布団の中で何とか眠ろうとは考えず、寝惚け眼を何度か擦り、ベッドから降りた。電気は点けず、カーテンを少しばかり開く。雲間から射し込む月明かりが弱々しく、いつもより闇の深さを感じる。
 窓べりに手をつくと、溜め息が漏れた。どうして毎夜毎夜、こんな体験をしなければいけないんだ。何が運命だ。何の得も無い貧乏くじを引かされているだけだ。けれど、もし本当に何かあるとしたら、始まりなんてこんなものかもしれない。
 踵を返すと、もう一度深呼吸してからドアノブを捻った。
 暗い廊下に目を凝らせば、右手奥に人影が一つ。その正体がわかっていても、未だに近付く程に緊張が膨れ上がる。怖いとか、嬉しいとかではなく、何かこう、ある種の期待感にも似た圧迫が胸を締め付けている。一歩、また一歩と体の中で何かが渦巻く。
 七海は相変わらず妖艶な微笑を浮かべ、こちらを見ていた。月光に愛撫されながら母のような、娼婦のような、少女のような眼差しを向けている彼女に、俺の足は止められる。思わず視線を逸らしたが、それでも足を前に出せない。
「何か俺に言いたいことがあるんだろう」
 少し震えてしまったが、ようやくのことで言葉を投げ掛けると、それだけで心に余裕が出来たような気がした。いつの間にか荒くなっていた呼吸を、一旦胸に留めてから、一歩。そして吐き出し、もう一度同じように踏み出す。
「教えて欲しいことがあるんだ。どうにもできなくて、困っていてね」
 七海との距離が半分程に縮まる。
「おっと、逃げるなよな。逃げられたら、俺はどうにもできなくなるんだ。俺に何かを託そうとしているんだったら、そのままでいてくれよ。俺が何も出来ないでいると、お前だって困るだろう」
 一息に間合いを詰められる距離になっても、七海は動かない。俺の言葉に動じた素振りも無く、余裕が窺える微笑を崩さないまま、じっとこちらを見ている。いつもならば逃げるのに、どうして今日はそうしない。もしかして、俺が言い出すまでも無く、今日は何か伝える気だったのだろうか。
 ただ、それ以上は近付けなかった。心に迫る緊張なり、不安なり、期待なりが強過ぎて心を乱し、その先に大きな落とし穴があるようで、足を踏み出せない。いや、これだけ近付けただけでも、よしとしよう。その気になれば、いつでも捕まえられる距離なのだから、そう悲観することも無い。
「とりあえず、だ」
 大きく息を吐き、少しでも鼓動を抑えようとしてみたが、無駄だった。
「呪われた歴史だとかって、昨日言ったよな。思うに、それはこの家の歴史のことなんだろう。まぁ、これだけの家だ、何か一つや二つ秘密があってもおかしくないもんな」
 右手に思わず力が入る。勇気を逃さないようにと、掌に爪が食い込むくらいに。腰に添えた左手にも力が入る。退かないようにと、腰に食い込ませて。
「昨晩あんなことを言われたから、今日一日ずっと気になっていたよ。俺なりに何とかしようと、色々探ってもみた。だけど、どうにも調べ様が無いんだよ。人に訊いても、そう易々と答えることでも無いし、それに書庫は多過ぎて探すことすらままならない。これが現実か夢かも曖昧なままなのに、俺にとって何のメリットも無いのに、手掛かりも無いのに探す気になんてなれない。義務も無い。そもそも、呪われた歴史って何だよ。どうして俺に頼むんだ。誰でもいいんじゃないのか。だったら、俺にそんなこと言うなよ。一体これは何なんだ、訳がわからねぇよ」
 半ば泣き叫ぶようにそう振り絞ると、もう睨むしかなかった。肩が上下し、張り裂けそうな程に暴れる鼓動が苦しさを生む。闇が背を撫でさすり、首筋の毛が逆立つような感覚を抱きながら、じっと七海を見詰める。一瞬でも目を離してしまえば、どこかへ消えてしまいそうな危うい雰囲気があった。
 すっと、七海の瞼が下りた。口元には寂しそうな微笑が浮かんでいる。何か言われる気がして、思わず唾を飲み込むと、呼吸を整え、一言一句聞き逃さまいと耳に神経を集中させつつ見詰めた。
「一階の書庫、右奥の机の中。そこに全てが記されている本がある」
 そう言うなり、目が開かれた。瞳に力ある光が宿されており、いつに無く真剣な表情で見詰められてきた。俺は思わず、一歩退く。
「全ての運命は、定められている。誰も彼も気付かないうちに、運命に流され、決められた地へ辿り着くの。けれど、それは変えられる。強い意志と、それに基いた行動があれば必ず求める道へ進む可能性が生まれる。それが強さ」
 一言一言、心に刻まれる毎に瞼が下がっていく。これは、昨日と同じだ。抗えぬ猛烈な眠気。耐えなければいけない、寝てはいけない。ここで眠ってしまうと、また悔いが残ってしまう。まだ訊きたいことは色々あるんだ、これだけで納得できるか。
「貴方も運命の歯車の一つ。歴史を動かす、開放の歯車の一つなのよ」
 膝が折れる、瞼が開かない。着いた手が簡単に肘から折れ、倒れる。立ち上がろうとする気力すら根こそぎ奪われ、意識が飛ぶ一瞬前、小さな囁きが届いた。
「おやすみなさい、良い夢を」

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