三.

「おい、七海。ちょっと待てよ」
 朝食を終え、どこかへ向かおうとする七海をホール手前で呼び止めた。多少呼び止める際の語気が荒かったからか、七海が訝しげに俺を見る。誰だっていきなり強い口調で声を掛けられれば、何事かと思うだろう。けれど、俺はまだ昨晩の怒りが収まっていない。夜中にあんな人を小バカにした態度を取られたんだ、黙っていられるか。それでも俺は苛立ちを堪えつつ、努めて平静を装い、七海に近付く。
「なに、どうしたの?」
「昨日の夜、俺に会ったのに、どうして無視するんだよ。声掛けたのに、逃げやがって。なぁ、俺はお前に何か気に食わないことでもしたか?」
「別にそんなことないけど。それより私が修治君と会ったって、いつのこと?」
「夜中の二時半頃だよ」
「二時半なんて、とっくに寝ていたよ。寝惚けていたか、夢じゃないの?」
 呆れた様に笑う七海に、猛然と腹が立ってきた。とぼけやがって。じゃあ昨日のは一体何だと言うのだ。寝惚けていたとか、夢を見ていたとは違う。間違い無くあれは現実だ。それともあれか、俺は現実と夢の区別すらつかない馬鹿だとでも言うのか。ふざけるな、七海こそ嘘をついているに違いない。
「違う、そんなんじゃない。間違い無く俺は起きていた。大体何でそんな嘘ついたり、誤魔化そうとするんだよ。俺は確かにお前と会ったんだぞ。俺が廊下に出たら、俺の方を観て笑っていただろ」
「嘘なんてついていないってば」
 七海の表情が険しくなる。けれど、それがどうしたと言うのだ。
「じゃあ、昨日の夜は何していたんだよ」
「何でそんなこといちいち言わなきゃいけないのよ」
「言えないなら、やましい事があるってことだよな。そうまでして俺をからかうのかよ。腹立つなぁ、何なんだよ一体。俺が邪魔なら、そうはっきり言えよな。影でこそこそしやがって」
「からかってなんかいないし、やましい事なんて無いってば。何でそんな酷いこと言うわけ。私は嘘なんて言ってないのに、どうして疑うのよ。私が何かしたの?」
「それは俺の台詞だ」
 しばらく睨み合った末、やがて七海が不貞腐れたように視線を逸らした。
「言えばいいんでしょ、言えば。昨日は晩ゴハンを食べた後、書庫で勉強していたのよ。それが一段落着いたのが、大体十時頃。それから十一時頃まで、沙弥香さんと一緒にいてから寝たのよ。起きたのは七時。その間は一度も起きていないわよ。と言ったところで、それを証明するものは何も無いけどね。どう、これでいいの?」
「……なるほどね」
 悔しいが、嘘をついている様子は無さそうだった。作り話を考えている素振りも無く、また視線を逸らしたり、どもってもいない。七海が本当に嘘をついているのなら、どれか引っかかるはずだろうから。しかし、だからと言って昨日のあれが俺の見間違いだとは、どうしても思えない。あれは七海に間違い無いんだ。
「じゃあ私も修治君に訊くけどさ、連夜のそれは一体何なの。夢とか見間違いじゃないとしたら、どういうことなのよ。私だって、覚えが無いのにお前がいたとか、お前のせいだとか言われても、わけわかんないよ」
「俺だって、何が何だかわからないよ。それに、寝惚けているだの夢じゃないのかだのと言うけれど、二度も寝惚けるものか。とりあえず昨日起こった事を最初から言うけど、昨日の夜中二時半頃、何か気配がしたんで目が覚めたんだ。電気を点けて、部屋の中を隈なく確認したけれど、誰もいなかった。それでも気になったから恐る恐る廊下に出てみれば、真っ暗な廊下に七海が立っていて、俺をじっと見ながら微笑んでいたんだ。こんな夜中にぼーっと立っていたから不思議に思って、何をしているのかと訊いても、無反応。それで近付いてみたら逃げられて、結局見失ってしまい、それっきり」
「私じゃないよ、それ。何だろうね」
 最初は七海が言っていたように、寝惚けていたのかもしれないと思って納得していたけれど、二日続けての出来事だ、単に寝惚けているとか、そういうのだけとは考えにくい。きっと何かあるはずなんだ。けど、それが何なのかわからない。何かを知っているとすれば、当然七海だろうからこうして訊いてみたのだが。
 修治の怒りはすっかり静まっていた。代わりに謎に対する疑問が、二人を包む。腕を組み、先程までのいがみ合いを忘れて首を傾げつつ唸ってみても、何一つ解決の方向へ向かわない。
「この家って、俺と七海と、七海の両親と、敏雄さん、和巳さん、沙弥香さん以外はいないよな。俺が知らないだけで、実はいるって人は?」
「いないよ。修治君が今言っただけの人しか、いないよ。それがどうかしたの?」
「いや、もしかしたら俺の知らない七海の姉か妹、もしくは影武者みたいな人でもいるんじゃないかなって。ほら、姉妹だったら似ていてもおかしくないし、これだけの家の一人娘だったら、影武者みたいな人でもいるのかなぁと」
「私、一人っ子だよ。それに、姉か妹がいたらとっくに紹介しているし、影武者なんていないよ。深窓の令嬢、と言うわけでも無いんだから、こうして出歩いていたら影武者とか意味無いしね」
「それもそうだな」
 色々な可能性を探ってみるが、どれも決め手に欠ける。誰かが変装して俺をからかっていると言うのも馬鹿げているし、何より誰が変装しても七海と見間違うはずが無い。背格好が近い沙弥香だって、近いだけで似てはいない。では、もしかして七海は夢遊病者なのだろうか。いや、それはありえないだろう。もしもそうならば、多少の自覚くらいはあるだろうから。
「私、そろそろ勉強しなきゃいけないから、行くね」
 傾げた首を戻すと、七海は書庫の方へ足を向けたが、すぐに立ち止まり、修治の方へと振り返った。
「あのさ、何かあったら教えてね。心当たりは無いけど、夜な夜なそういうことがあると、やっぱり気味悪いからさ。それに、疑われたままなんて嫌だし、修治君だって疑ったまま過ごすの嫌でしょう。私も何かあったら教えるから」
「わかった、約束な」
 七海が書庫へと向かうのを見送ると、俺は和巳さんを捜す事にした。あの七海は俺だけに見える幻覚なのか、それとも他の人も目撃したことがあるのか、まずそこから知りたかった。七海本人では気付かないことだって、きっとあるだろう。栄一さんや恵子さんにはとてもじゃないが、訊けない。この時期下手な事を言えば、追い出されかねない。敏雄さんはどうも苦手だ。残るは沙弥香さんと和巳さんだが、やはり同性の方が何となく話しやすい。
「あ、和巳さん。ちょっといいですか」
 和巳は二階の廊下で窓拭きをしていた。いつも綺麗に感じるが、やはり掃除前と後では、それなりに違う。修治に気付くなり、和巳は人懐っこそうな笑顔を向けると、手を止め、体を向ける。
「やぁ、何か用かい」
「えぇ、ちょっと訊きたいことがあって」
「僕に答えられることなら、何でも訊いてくれよ。それで、何かな?」
「あのですね、和巳さんは今までに、七海にそっくりな人を見たことがありますか」
 きょとんとしたのも束の間、和巳はすぐに元の笑顔に戻った。
「いや、見たことないよ」
「じゃあ、七海を夜中に見たこととかは?」
「いやぁ、無いねぇ。七海さんは二階で、僕は一階だからね。例え夜中に目覚めても、会うことは無いだろうし、ちょっと気付かないかな」
「そうですか」
 和巳さんならばと思ったけど、結局手掛かりは無かった。仕方無いと言えば、それまでかもしれない。和巳さんの部屋は一階の、どちらかと言えばトイレに近いところにある。もし七海が夜中に出歩いていても、気付かないだろう。
「ところで修治君、何かあったのかい?」
 言うべきだろうか、言わないべきだろうか、咄嗟に答えが出てこなかった。全てを話して協力してもらうのが、情報を得たい現状としては正しい選択なのだろうけど、あまりこういうことを言い回ってはいけない気がする。それは七海に対してあらぬ疑いを広めてしまうであろうことや、俺がこの家にいられなくなるのではと言う心配からでもなく、何故だろうか、秘密のままでいたかった。それはもしかしたら、俺だけしか知らない七海と言うものを作りたいのかもしれない。
「いや、別に何でも無いですよ。ただ、先日テレビでこういう旧家みたいなところに、夜な夜な幽霊みたいなのが出るってのを見て、それでもしかしたらここにもそういう話の一つや二つ、あるのかもと思ったんですよ。そのテレビで見た幽霊ってのが七海みたいに髪が長かったので、出るならそういう容姿なのかなぁと」
「何でもあるし、揃えられるだろうこの家も、さすがに幽霊は無理だよ」
「ですよね」
 どちらからともなく噴出し、笑い合う。これでいい、本気だと思われてはいけない。あくまでも暇人が思い付きで行動してみた、そう思わせられればいいんだ。情報を引き出しつつ、これは俺一人で調べてみよう。
「あ、でもね」
 思い出したように、和巳が修治に顔を寄せる。
「この家って、かなり古いみたいだし、本当に色々何かあるんじゃないかな。僕もね、なにやら大きな秘密があるかもしれないって、噂で聞いたことがあるんだよ。大きなのがあるくらいだから、他にも沢山あるんじゃないかな。もしかしたら修治君が言う通り、本当に幽霊がいるかもしれないしね」
 この家の秘密、それは一体何だろうか。これだけ大きく、古く、かつ名家なのだから、秘密だって多かろうとは思っていた。けれど、そんなものに現実感を抱けず、旧家には色々ないわくがあるなんて、どこか都市伝説のようにありそうで無いものだと捕らえていた。そんな秘密など、そうそうあるものでもない。もしあっても、思っている以上に大したものではないだろう。それに、普通に過ごしていると秘密の尻尾すら見えないままだ。近くて遠い、これこそが少し大きな家に共通する秘密だろう。
 ただ、連夜の七海を見ていると、あながち非現実なものでもないかと思えてくる。七海が二重人格だったり、夢遊病者だったりすれば、河口家の印象が悪くなる。本人だって、そういうことがあれば他者から奇異な眼で見られる。もしかしたら、それをひた隠しにしているのかもしれない。なんて考えは突飛だろうか。
 きっと、和巳さんはもっと何か知っているに違いない。俺よりも長くここにいるんだ、どんなことであれ、知っている秘密の一つや二つくらいあるだろう。もう少し話せば、そこから何かしらの手掛かりが生まれるかもしれない。
「おい、何をしている」
 突然の怒声が、二人の肩を震わせた。驚き慌てて声のした方を見れば、眉間にしわを寄せた敏雄が大股で向かってきていた。
「少し目を離していたと思ったら、すぐ手を抜きおって。貴様は一人では真面目に仕事をできないのか。おまけにまた修治様に、なれなれしい口をききおって」
「あの、敏雄さん」
 怒りを和巳にぶつける敏雄に、蚊の囁きみたいな修治の声は届かないようで、頭を下げ続ける和巳に更なる怒声を浴びせる。
「大体貴様はいつものらりくらりとしていて、やる気の欠片も見当たらない。いいか、ここは名門河口家であり、貴様はそれに仕えることができる幸福者なのだぞ。誠心誠意、己の幸せを仕事に還元して仕えるべきなのに、貴様ときたら」
「敏雄さん」
 幾分かはっきりとした響きに、敏雄が修治を見遣る。その眼力に一瞬修治の視線が落ちたが、すぐに目を合わせた。
「和巳さんは、がんばって働いていました。それを僕が話し掛け、手を止めさせてしまったんです。それに、敬語とかをやめて話してくれないかと、無理矢理頼んでそうしてもらっていたんです。だから、和巳さんは悪くないんです。すみませんでした」
「修治様、頭を上げて下さい」
 頭を下げる修治に、敏雄が慌てて制す。
「本当に、すみません」
「あぁ、もうよろしいですから、頭を上げて下さいませ」
 おずおずと修治が頭を上げてみれば、困り切った敏雄が首を傾げていた。
「わかりました。では、この辺にしておきますが、和巳は長年ここで働いているとは言え、まだ若輩の身。あまり甘やかさないで下さいませ」
「わかりました」
 互いに礼を交わすと敏雄は踵を返し、どこかへ行ってしまった。残された修治と和巳は気まずそうに苦笑を浮かべ、視線を僅かに逸らす。
「すみません」
「いえ、こちらこそ。話し掛けてしまったせいで、こんなことに」
「いいんです、僕はもう慣れていますから」
 いつもの人懐っこい笑みを浮かべながら、和巳が再び掃除用具を手にする。これ以上話しているのも互いに体裁が悪いし、また迷惑をかけるかもしれない。そう判断した修治は別れの挨拶を済ませると、和巳の元を離れた。
「どうしたものかな」
 秘密の手掛かりを探ろうにも、やりにくくなってしまった。あと話を聞けそうなのは沙弥香さんだけだが、これでまた敏雄さんに見付かったら、目も当てられない。おまけに、こういうことをみだりに話してしまうと、興味本位の暇潰しなんて嘘をつき通せなくなってしまう。それに、秘密を嗅ぎ回っていると思われれば、厄介者の烙印を押されてしまうだろう。下手をすれば、追い出される。手当たり次第の深追いは禁物だ。
 窓の外へ目を向ければ、次第に青くなり始めている木々が輝いていた。今日も天気が良く、この時期にしては暑いくらいだ。こんな陽気なら、散歩するのもいいかもしれない。一人で秘密だの何だのと根詰めていたら、おかしくなってしまう。ただでさえ連夜の睡眠妨害で苛立っているんだ、気分転換にはいいだろう。
 ふと花壇に七海の姿を見付けた。七海は気分良さそうに、花々に水をかけている。どうせ外に出るならば七海とお喋りでもするかと、俺はやや足早に外へと向かった。風が多少冷たかったが、補って余りある陽光のおかげで、それも心地良い。呼吸を整え、ゆっくりと七海に近付くと、向こうも俺に気付いたらしく笑顔を向けてきたので、片手を上げて応える。自然と笑みがこぼれてきた。
「もう勉強はいいのかい」
「天気いいから書庫に閉じ篭っているのも、何だかもったいなくてさ。それで、お花の世話をしていたの。修治君も、この陽気に誘われて出てきたんでしょ」
「まぁ、そんなところだ」
 何となく照れ臭くて、誤魔化してしまう。この辺が男らしくないと自分でも自覚しているけど、どうにもできない。一人心の中で苦笑しながら、俺は足元の花へと視線を移す。彩り鮮やかな花々が咲き乱れているが、どれがどの花なのかさっぱりわからない。俺がわかる花なんて、チューリップとバラくらいのものだ。しかし、このまま黙っていても気まずい。何とか話題を作らなければ。
「あまり花の名前とか知らなくてね、どれがどの花なのかわからないんだ。これは何て言う花なの?」
「えっとね、これがヒヤシンス、これは春蘭、こっちの花が沈丁花で、そしてこれがフリージア。このフリージアは私の誕生花だから、特に好きなんだ。白くて小さくて、可愛いでしょ」
「フリージア、か」
 特に花に興味など無いが、この小さく白い可憐な花に。どこか心惹かれた。花そのものの魅力もあるが、やはり七海の誕生花と言うのが心に引っ掛かったみたいで、特別な花のように思える。同一視、とまではいかないが、見ているうちに近いものを感じてくるのは何故だろう。
「修治君ってばフリージアをさっきからじっと見ているけど、気に入ってくれたのかな」
「まぁね。どこか聞いたことのある名前だし、綺麗だしね。それに、七海と繋がりがあるって教えてくれたから、ちょっと気になったんだよ。あまり花と人とを結び付けて考えるなんてこと、今まで無かったからさ」
「嬉しいな、そう思ってくれて」
 七海は破顔一笑するとしゃがみ込み、フリージアの花弁をそっと撫でる。
「フリージアの花言葉って、純潔とか無邪気って意味があるんだよ。この花にはぴったりなんだけど、私には似合わないよね。どっちかと言ったら私、粗雑だとか暗いとか、そういうのだろうしね」
「そんなこと無いだろう。花言葉通りだと思うけどな、俺は」
 少し驚いた顔で見詰められるのが気恥ずかしくて、つい視線を逸らしてしまうが、尚も視線を感じ、言葉がすぐに続かない。空を見たり、花を見たりと視線をさまよわせながら考えをまとめようとするが、結局巧くまとまらないまま七海に視線を戻す。
「いや、この花も七海も、よく似ているよ」
 ようやく、それだけ言えた。意識しないよう心掛けているが、ふとした時、つい七海に女を見てしまう。普段意識しないようにと抑えているからか、その時には非常に心が乱れてしまい、みっともない程慌てふためいてしまう。情けない。
 じっと七海はフリージアを見ている。その面持ちは多少うつむいているからか、はたまた何か考えているからか、どこか沈んでいるように見える。先程とはまた違った意味で心が乱れ、失言だったか、謝るべきだろうか、などと考えつつも行動に移せずにいると、七海がにっこりと微笑みかけてきた。
「ありがとう」
 聞き慣れた言葉が妙に心地良く響き、心を暖かくさせる。深いことなど考えられず、ただもう初めに抱いた感情だけを握り締めていると、自然に照れ笑いが生じた。心乱れる感覚も、今ならばいいと思える。翻弄され、何も出来ずにいると、七海がすっくと立ち上がり、向日葵の様に伸び上がりつつ澄み渡る青空を仰いだ。
「気持ちいいね」
 俺も七海に倣い、見上げる。
「天気、いいからな」
「それもあるけど、何て言うのかな。えっと、ほら、とにかく……今が気持ちいい」
「そうだな」
「このままずっと、時が止まってしまえばいいって、たまに思うんだ」
「あぁ、気持ちはわかるよ」
 日差しと風が心地良く、もう何も考えられなくなっていた。ゆっくりと、自然に溶け込んでいく感覚が全身を支配し、何もかも、先程まであんなに気になっていた隣にいる七海はおろか、自分の存在すらも忘れてしまう。
 やがて七海も黙り、二人は無言で陽光を浴びていた。

 布団に入ったのが夜ならば、目覚めた時もまた夜だった。これで三夜連続。これまでこうして夜中に何度も目覚めることなど、無かった。夜の闇に怯えていた少年時代だって、こういうことは無かったんだ。きっとまた今夜も、あの七海のせいだ。まだ三時だと言うのに、こんなにも眠いのに、起きる事なんて無いはずなのに。
 ベッドから抜け出し、静かにドアを開け、暗い廊下に目を凝らしてみれば、思った通り右手廊下奥に七海が立っていた。相変わらず全身に月光を浴び、微笑みを浮かべながらこちらを見ている。どこか人を誘う挑発的な微笑に、俺も二歩三歩とゆっくり近付く。あまり一気に距離を詰めると、昨日のように逃げられてしまうだろう。なるべく刺激しないよう、けれどやはり何故俺なのか知りたく、顔が険しくなる。
「一体、何なんだよ。毎夜毎夜俺を起こして、何のつもりなんだ?」
 微塵も動じぬ微笑み、それがまた俺の神経を逆撫でする。今日こそ絶対に、何が目的でそうしているのか吐かせてやる。きっと、ただのいたずらなんかじゃない。ならば、何故こうまでももったいぶるのだろうか。知っていることを教えるつもりでいて、意地悪く言い出さないことには、ひどく腹が立つ。もしそうではなく、本当にただのいたずらならば例え七海でも、肩を掴んで怒鳴ってやる。
「何か言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれよ。そうやってもったいぶられるのが、一番嫌いなんだ」
 距離半分のところで、一気に間合いを詰めにかかったが、七海が先にこちらの素振りに気付いたらしく、さっと踵を返され、廊下を曲がられてしまった。
 それでも今日は諦めるわけにいかない。走りを緩めず、ひたすら追い駆けた。暗い廊下だけれども、所々窓から射し込む月明かりのおかげで、そう危なげ無く進める。七海が曲がった廊下の先は、突き当たりに一階へ降りる階段があり、それまでに客用の寝室が二つ、バルコニー前の小ホール、二階の書庫、そして入ったことの無い部屋がある。入った事が無いと言っても、以前そこが物置であるとは聞かされたことがあるし、そこは常に鍵がかかっているとも聞かされたので、突き当りまでの道程で七海を捕まえることができるだろう。客間に入ればドアの音がする。気を付けるのは、バルコニーくらいだ。
 何故なら、七海の足で俺を振り切って階段を降りるのは無理だろう。幾ら何でも、女の足であり、あの衣装だ、逃げ切れるわけが無い。そして、そう遠くまで走った様子も無く、かつドアを開閉した音も聞こえてこなかった。走っていたのに音がしないくらい静かにドアを開閉できるわけが無い。ならば、バルコニーだ。階段や他の部屋へ行ったと思わせておき、そこでやり過ごすつもりだろうが、甘い。必ず捕まえてやる。
 バルコニー前の小ホールに着いたが、七海の姿は無かった。暗闇に目を凝らすが、どこにもいないようだ。隠れられる場所は、ここに無い。もしかするとバルコニーにいるのだろうかと思い、慎重に出てみる。しかし、ここにもいなかった。吹き付ける夜風が少しばかり肌寒く、遠くまで続く深淵の闇が薄ら寒い恐怖を抱かせる。それを振り払うよう、俺はわざと大きく息を吐く。
「逃げられたか。しかし、どこに行ったんだろうか」
 舌打ちするが早いか、不意に背後に気配を感じたので、慌てて振り返ってみれば、そこには七海が立っていた。いつの間に背後に立たれていたのだろう。いや、それよりも今はその妖艶かつ悲しそうな微笑に、心を奪われかけている。
 動けなかった。その微笑みの前では、口を開くことはおろか、息をすることすらためらわれる。驚きと恐怖と魅了に、軽い目眩を覚えていると、その口元がゆっくりと動いた。
「古の血に縛られた歴史、それを終わらせてくれるであろう人物、私はずっと待っていた。それが海江田修治、貴方なのよ」
 何だ、七海は一体何を言い出すんだ?
「運命は、今ようやく動き出した。この邂逅により、歴史が変わる」
 七海、一体お前は俺に何を伝えたいんだ。俺にはお前の言うことが、わからない。
 疑問はとめどなく溢れる。だけど、どうしてだろうか、急激に眠気が襲ってきた。立っている事すらままならず、意に反して膝が折れ、頬が床の冷たさを知る。瞼が重く、意識が朦朧としてきて、何をする気すらも根こそぎ消えていく。あぁ、もう駄目だ。
 消え行く意識を必死に繋ぎ止め、最後に見たものは、闇が広がるだけの寂しげな小ホールだった。

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