二.

 朝食を終えると、食堂を出た七海を修治が呼び止めた。
「あのさ、昨晩何していたんだ」
「昨日? 昨日は寝る前に沙弥香さんとお喋りしたり、本を読んだりしてから寝たけど。あ、寝る前にパックしていたよ。最近ちょっと荒れ気味かもしれなくて。季節の変わり目って、どうしてもこうなっちゃってさ」
「そういうことじゃなくて、ほら、夜中の二時くらいの話だよ。廊下にいたじゃないか、あれって何をしていたんだ?」
「二時なんて、とっくに寝ていたよ」
 表情から嘘をついているようには、到底思えない。それに、真夜中の雰囲気と今の雰囲気とでは明らかに違う。だが、昨晩七海と会ったのは事実だし、あの微笑みだって俺を意識してのことだろう。そうでなければ、わざわざこちらを向いたりもしないし、もし俺がいなくてもあんなことをしたとは思えない。こうまではっきり覚えているんだ、寝惚けていたはずが無い。あれは事実だ。
「本当に寝ていたのか」
「うん、そうだけど。何かあったの?」
 訝しげな七海に、俺は昨日覚えている限りのことを話した。夜中にトイレのために起きたら七海が廊下の窓辺にいたこと、窓の外にある何かを見ていたこと、そして俺に微笑みかけた後でどこかへ行ってしまった事など。覚えている限り詳細に話してみたが、七海は何のことかわからないようで、首を傾げたままだ。
「何それ、全然身に覚え無いけど。私は昨日十二時に寝て、そのままずっと朝の七時まで寝ていたんだから」
「本当に?」
「本当だよ。余程のことが無い限り、夜中に起きないし」
 真摯な七海の眼差しをこれ以上疑うことは出来なかった。疑いをかけると言うことは、信頼関係を崩しかねない。折角仲良くなってきているのだし、七海は河口家の一人娘。ここで関係を壊せば、俺はいられなくなってしまうかもしれない。
「そうか。じゃあ俺が寝惚けていて、何かと見間違ったのかもな」
「だと思うけどね。それじゃ、私はこれで」
 七海と別れた後も、しばらくそのことを考えていた。やはり、どうも釈然としない。寝惚けていたとしても、一体何と見間違うと言うのだろうか。けれど、状況が状況なだけにこれと言った反論もできないし、第一あれが現実なのか夢なのか、証明できるものが何一つ無い。大人しくしておいた方がいいだろう。
 二階の自室で一休みしようかと向かっていたら、途中で掃除をしている沙弥香さんを見かけた。邪魔してはいけないかと思い、素通りしようとしたが沙弥香さんが俺に気付き、にっこり微笑みながら頭を下げてきた。
「お食事には満足しましたか」
「いや、本当に美味かったよ。和巳さんが担当しているんだよね」
「そうですね。この屋敷で働く者の中で、一番料理上手ですから。世間では調理は私のような女が担当すると考えられていますが、実際コックなどは男性が多いですよね。やはり能力と言うものを客観的に見れば、男性のが上なのかもしれません。私も料理はできますけど、和巳さんには敵いませんから」
「そういうものかな」
 能力の有無はあるだろうが、それで可能性を削っていくことは受け入れがたい。子供の理屈なのだろうかもしれないが、俺は大切にしていきたく思っている事の一つだ。自分よりできる人は大勢いるだろう。けれど、だからと言って諦めると、何もならない。
「人には適材適所と言うものがありますからね。和巳さんは私より料理に秀でているのは確かです。けれども、和巳さんにはできないことが、私にできることもあるでしょう」
「なるほどね」
 では自分に何ができるのだろうかと、ふと考え込んでしまう。ここに来る以前も、それが見えないまま惰性で毎日を過ごしてきた。惰性と言うが、何の感動も無かったわけでは無い。それなりに出会いや別れは経験してきた。けれど、人生の目標や役割と言うものは何も見出せずにいる。大学に進学を決めたのも、自分が何をやりたいのか見えていないから、答えを先延ばしにするために進学したとも言えなくは無い。自分で目的を見出せずに歩んできた人生を、どこかで変えたく思う。
「俺も何かできればいいなぁ」
「修治さんはお若いですし、まだまだこれからです。それに、どんな人間にも必ず何らかの役割はあるものですよ。それに気付き、勇気を持って歩めるかどうかです」
「ありがとう。それじゃあ、あまり仕事の邪魔するのも悪いし、この辺で」
「はい、ありがとうございます。それでは」
 一礼する沙弥香を後にし、俺はのんびり自室へ向かう。一休みしてから何をしようか、この湧き上がっている目的意識をどう定めようか、何をすべきなのか考えていると、自室の目前で外から独特のエンジン音が聞こえてきた。音は表玄関の方から聞こえ、その主を確認すべく窓の外へ目を遣ると、黒塗りのリムジンが玄関に停まっていた。それはただのリムジンではない。一回り大きく、フロントに河口家の家紋がある特別製だ。あれを使うのは、この家でも限られた人達だけが許されている。
「帰ってきたのかな」
 踵を返し、一階玄関へと向かう。身寄りの無くなった自分をわざわざ引き取り、養ってくれている人だ。挨拶しないわけにはいかないだろう。今来た道を戻るが、既に沙弥香さんはいなかった。当然と言うか、さすがと言うか、感心してしまう。俺も遅れてはいけない、見苦しくならないよう、出迎えねば。
 玄関には既に七海を始め、敏雄、和巳、そして沙弥香が並んでいた。扉から階段へと続く絨毯を挟み、七海と敏雄達使用人が別れている。修治は七海の隣に並ぶと、少しばかり神妙な面持ちの七海と扉を、交互に見遣った。
 少ししてゆっくりと扉が開かれると、僅かに白髪交じりであるオールバックに高級スーツ姿の河口家当主である河口栄一と、その後ろに付き添う物腰柔らかそうな栄一の妻、恵子が現れた。一斉に皆が頭を下げる。栄一はその溢れ出る河口家当主としての威厳を前面に押し出した態度で周囲を一瞥するなり、満足そうに微笑みながら穏やかな口振りで敏雄に話し掛けてきた。
「何か変わったことはあったかね?」
「いえ、何もございません」
「そうか、それは何より。私の留守中も、よくやってくれていてご苦労」
「ありがたきお言葉です」
 敏雄は深々と頭を下げる。栄一はそれが終わらないうちに、和巳へ視線を移した。
「和巳君はどうかね、料理の腕は上がったかな。今晩の食事は楽しみにしているのだよ。何せ、出張続きで食事時も落ち着いていられなくてね。やはり我が家に帰ってきて、和巳君の料理を食べている時が落ち着くよ」
「ありがとうございます。必ずや満足のいくお食事にします」
 和巳が深々と頭を下げるが、やはり敏雄同様に頭が上がらないうちに栄一は沙弥香の法へ目を遣る。
「沙弥香君もよくやってくれているようだね。いつ帰ってきても、こう清潔な印象が屋敷全体から感じ取れるよ。花壇の手入れから屋敷の隅々まで、よく気を遣っている。安心するよ、本当に」
「ありがとうございます。いつ旦那様や奥様がお戻りになられてもいいよう、常に清潔を心掛けておりますから」
 使用人への挨拶が一通り終わるなり、栄一は七海の前に立った。親が子に会う顔とはこういうものだろうと、実に嬉しそうな笑顔を向ける。七海もそれに応えるよう、同じような笑みを返した。
「七海はいい子にしていたかい。電話をする間も無い程に忙しかったから、心配していたんだよ。どうかね、修治君や他の者達とも上手くやっているかね」
「いい子にって、私もう十九なんだからさ、ちょっとは信頼してよね。それはそうと、お仕事お疲れ様でした。今回は少し長かったみたいだけど、その間に修治君とも仲良くなれたよ。勿論、他の人達とも相変わらず楽しくしているよ」
 その報告に満足する栄一さん、更に顔を緩める七海。親子の美しく円満な姿に、自分が失ってしまった幸福の一片を垣間見る。俺がもう得ることができない関係や笑顔の交換を見せ付けられても、悲しくはならない。憧憬を抱くよりもむしろ、どこか虚しさを感じていた。それでも僅かに胸が痛んだけれど、無視しようと曖昧に微笑んでいたら、栄一さんが俺の前に立っているのに気付き、それとはまた違った意味で胸が締め付けられた。
「修治君はもうこの屋敷に慣れたかね?」
「はい。でもまだ、時々戸惑うことも多いですね。早く慣れようとは思っていますが、なかなか……」
「それは仕方無いさ、急に生活環境が変わってしまったんだからね。まぁ、不自由なことがあれば、いつでも私や使用人の者達に言ってくれたまえ。海江田の家と河口は昔から親交があったので、できる限りのことはしよう。既に君は河口家の一員なのだからね。しかし若い君はここにいても退屈だろう。何ならいい人でも紹介しようかね。修治君も年頃だから、興味はあるだろう。あぁ、それとも七海がいいのかな。けれど七海は姉となってしまっているから、難しいところだ」
 愛想笑いの苦笑しか出てこない俺を見かねたのか、白地に桜の花びらをあしらった着物を着ている恵子さんが、一歩前に出てきた。
「あなた、修治さんが困っているじゃないですか。何でもしてあげるとおっしゃっても、ここに来たばかりでしたら、言い出しにくいことも多いでしょうに。まだこの新しい生活にも、河口という環境にも慣れていないのでしょうから」
「そうだな、お前の言う通りかもな」
 納得する栄一に微笑んでから、恵子が修治に頭を下げる。河口家当主の妻であり、自分を引き取ってくれた人の一人にそうされ、修治は恐縮をあらわに何度も頭を下げた。
「でも、本当に困っていたり、辛いことがあったり、わからないことなどがあれば、遠慮せずにおっしゃってくださいね。貴方のお母様には程遠いでしょうが、多少なりとも近付けるようにはしますから」
「はい、ありがとうございます」
 その様子を満足そうに栄一が一頻り頷くなり、踵を返した。
「それでは、そろそろ失礼させてもらおうかな。出張の疲れもあるし、少し整理してしまいたいこともあるのでね。もしも何かあれば、私の部屋まで来たまえ」
 栄一は朗々とそう伝えるなり、恵子を連れて自室の方へと歩き出した。その背に無言の圧力を感じた修治は正視できず、ついと視線を逸らし、足音が聞こえるのをただただ待っていた。そうして足音が消えても、まだそこにいるような気がして、誰かが動き出すまで心が縛られているままであった。
「さて、そろそろ仕事に戻るか」
 敏雄の一声で、和巳と沙弥香も各々の持ち場へと戻っていった。移動は素早く、敏雄の声が消えるが早いか、もう散り散りになっており、見事な切り替えであった。残された修治と七海は互いに見詰め合い、僅かな時間の後、同時に苦笑いを浮かべた。
「すごく緊張していたみたいだね」
「仕方無いだろう。七海にとってはお父さんかもしれないけど、財界の大物なんだから。大臣とかに会うようなものだよ」
「私はいまいち実感無いけど、そういうものかもね。それよりさ、ここで話すのも何だから、庭にでも行こうよ。今日は天気もいいし、気持ちいいよ」
「そうするか」
 陽気の良い三月中旬ともなれば、少し前までの肌寒い日々を忘れさせてくれる。けれどそれも無風でのことで、風が少し吹けばまだ寒い。それでも日差しの強い今日は、多少の風ならば気持ち良いとさえ思えた。森や花の匂いが風に乗り、穏やかな春の空気が身も心もリラックスさせる。
 東の花壇に着くと、修治はぐるりと辺りを見回した。手入れの行き届いた庭木、一見すれば無造作に咲き乱れているように見えるものの、均整の取れている花々、刈り揃えられた青い芝が、まるで一つの作品のようになっている。よくもまぁ、こんなにしっかりと管理しているものだと感心頻り、感嘆の溜め息と共に何度も頷く修治に対し、七海が莞爾として目を細めていた。
「修治君も気に入ってくれたかな?」
「すごいね。いや、改めてそう思わされたね。初めてここに来た時もこの景色に驚かされたけど、あの時はよくわからないままだったから、感動も何もかも漠然としたものだったな。だけど落ち着いてよく見てみれば、本当にすごいものだとわかるよ」
「来たばかりの頃は、何にでも驚いていたよね。あ、今もまだそうかな?」
「ここでは何にでも驚くよ。世界が違うからな」
 七海から視線を外すと、修治は空に向かって一つ息を吐く。
「この家は特別なんだから、驚くなって方が無理だよ。家の大きさはもちろん、使用人はいるし、車も高級車、屋敷と呼ぶに相応しい大きさに加え、広大な敷地。本当に庶民の住んでいる世界とは別次元だよ、ここは」
「特別、か。そうだよね」
 物憂げな響きにはっとし、慌てて七海の方へ目を遣れば、伏目がちにうつむいていた。失言をどう取り繕うかと七海の顔を覗きながら考えていると、俺の視線に気付いたのか、戸惑ったような笑顔を作ったものの、どこか自嘲的だった。
「学校でもそうだったよ。先生とか周囲の大人達は河口の名を畏れて、ぺこぺこ頭を下げたりおべっかばかり使っていたし、クラスメートも近寄り難そうだったしね。親から言われているのか、周りの雰囲気がそうしているのかわからなかったけど、近寄って笑い合っても友達の絆みたいなものは感じられなかった。私は別に意識していなかったし、河口の名を使ってどうこうしようと思わなかったのに、やっぱり父さんが怖いんだろうね。私と一緒にいて、何かあったら危険だと思われていたんだろうな」
 何も言えなかった。やはりこうした家に生まれると、そうした境遇に陥るのだろう。平等に接しようとしても、どうしても生じる壁。金持ちだから、名家だから悩みとは無縁でのうのうと生きているのだろうなんて考えを、俺も抱いていた。そういう考えは偏見であり、実際七海を悩ませていることだとはっきり理解できる。けれど、それを拭い去ることができない。幾ら七海が一般市民と同じ距離を望んでいても、この目の前に広がるものを見せられていては、どうにも同情しかねてしまう。
「ごめんね、愚痴っぽくなって」
「いや、いいけど。正直、七海の境遇に立ったこと無いけど、何となくその気持ちはわかるような気がするよ」
 ついと七海は視線を外し、足元の白い花を見詰めた。
「私もね、みんなの気持ちはわかるよ。生まれた時から一緒の私ですら、父さんのことが少し怖いんだもん。他の人からしてみたら、もっとだろうね。やっぱり修治君も、怖いと思っているでしょ」
「そうだなぁ、怖いとか、そういうじゃないんだよね。七海のお父さんのおかげで、俺がこうして生活できていることは、本当に感謝してもし切れないくらいだよ。ただ、やっぱりさっきも言ったように、雲の上にいるような人だからさ、緊張しちゃうんだよ」
「じゃあさ、私にも緊張する?」
 咄嗟に言葉が出てこなかった。こうも砕けて話せるのだから、していると言えば嘘になるし、かと言って年の近い、それも美人の異性と話していれば、緊張もする。七海の言う緊張が意味するものは、河口と言う名に対してのことだろう。しかし俺が話しているのは河口ではない、七海だ。
「緊張と言うか、何と言うか」
「あ、いいの、ごめんね、困らせちゃって。でも、修治君は今まで会ってきた人と、どこか違う気がするの。巧く言えないんだけどさ、同じ目線でいてくれるって言うのかな、それがすごく嬉しいんだ。気のせいかもしれないけど、そんな気がするの」
「いや、七海こそあまり気にするなよ。緊張ねぇ、何て言えばいいんだろう。そりゃあ、ここに住んでいて特別な意識を持つ方が変なのかもしれないけど、どうにも俺は慣れないな。あぁ、慣れないってのは生活に対してであり、人に対してはどんどん慣れていきたいものだ。七海が言ったように、同じ目線で」
 はにかみ、それでも修治を見詰めていた七海は、修治の照れ笑いに満面の笑顔を返す。
「ありがとう」
 それがあまりにも可愛らしくて、けれど恥ずかしく、俺はつい空を見上げた。昨晩見たあの微笑みとはまた違った、引き込まれてしまいそうな笑顔。そこには妖艶だとか蠱惑的だとか言う印象は無く、何の計算も思惑も無い、無垢な少女のそれに見え、自然と惹かれた。しかし、過度に惹かれてはいけない。七海は家族なのだ。この家に引き取られた時から、俺は河口の人間の一人となったのだ。そしてそれは周囲の暖かな支えにより、成就されようとしている。失った家庭の幸せが、また手に入ろうとしているんだ。壊してはいけないし、手放したくもない。
 程好く冷たい風が、心地良い。木々のざわめきが安らぎを与え、自然との一体感を感じさせる。柔らかな陽光。それらが二人の間に沈黙を作ってしまう。つい気を向けてしまいがちな自然の囁きに、人はしばしば騙されてしまう。雰囲気に流され、それが大層なものに感じ、何も離せなくなってしまうから。
 そよ風に乗って鼻腔をくすぐるのは、春の匂いか七海の匂いか。何気無い仕草により、隣にいる七海を妙に意識してしまい、迂闊に動けない。最初は甘く痺れるような時間も、長く続けば苦痛となってくる。下手に自分からこの雰囲気を壊すこともできずに、ひたすら七海から動くことを待ち続けた。
「やっぱり、難しいよね」
 蚊の囁き程の小さな声で七海が呟いた。木々のざわめきにその前後がかき消されてしまったけれど、寂しげな呟きを何とか拾い、一体何だろうかと七海の方を向けば、悲しげな表情でまたじっと足元の小さな花を見ていた。何が難しいのだろう、何がやっぱりなのだろうか。すぐ側に悩んでいる人がいるのに、何もできないことは苦しい。自分では助けにならないのだろうかと七海を覗き見れば、またも何でも無さそうな顔で空を見上げてから一つ笑いかけてきた。俺が見たいのは、そんな強がりではないのに。
「ごめんね。ちょっとこれからやることあるから、話の途中だけど失礼するね」
 深く詮索する気も縋る気も無かったので、とりあえず頷いておく。正直、これ以上一緒にいても苦痛なだけだったので、助かったとすら思えた。それはいいことなのだろうか。ともかく、笑顔だけは見せておかねばいけない。
「またね」
 七海が立ち去ると、もうここにいる必要は無かった。この花壇も、春の匂いも今や用無しだ。少々肌寒い外にいるのも何なので、俺は一つ伸びをして、胸一杯に新鮮な空気を吸い込むと自室へと踵を返した。
 昼食時、栄一さんと恵子さんの姿は無かった。何でも先に片付けてしまいたい仕事があるとのことで、後で食べるとのことらしかった。仕事の内容は予想だにできないけれど、やはり大財閥を仕切るともなれば、ゆっくり食事の時間を取ることも難しいのだろう。やりにくい相手であるために俺はほっとしたものの、折角帰ってきた両親と食事ができない七海はどこか寂しげであった。
 食事を終えてしまえば、次の食事まで何もすることが無い。いい加減どうにかしたいと思いつつ、自室でぼんやりと寝転がっているのは怠惰以外の何者でもない。こうしていても時間ばかり過ぎていき、何の進展も無いのに。とりあえずパソコンでも起動して、インターネットにでも接続しようかと体を起こしたところで、ドアがノックされた。沙弥香さんが食後のお茶でも持ってきてくれたのだろうか。
「どうぞ」
「失礼するよ」
 入ってきたのは沙弥香でも七海でもなく、栄一だった。意外な来訪者に修治が驚き戸惑っていると、それを察した栄一が朗らかに笑うなり、立ち上がりかけていた修治を手で制し、座らせる。
「こうして会うのは君をここへ引き取って以来かな。本当はもっと会って話すべきなのだろうが、なかなか私も時間が取れなくてね。心配だったんだよ、君のことが。どうかね、あの場では互いに社交辞令的な挨拶だったが、ここでは腹を割って話そうじゃないか」
「そうですね、あの時以来ですか。でも、お仕事忙しいみたいですし、無理しないで下さい。僕も戸惑っていますけど、叔父さんも……栄一さんも……あぁ、どう言えばいいのかな。ともかく、同じように戸惑っていると思うんです。だから、早く打ち解けたいと言うのは俺も同じ気持ちです」
「あぁ、どう呼んでもかまわないよ、好きなように呼びたまえ。それよりも、どうだい。若い君には少々ここは退屈じゃないかね?」
「あ、はい。実はそうなんですよ。いえ、本当に良くしてもらっていて、自分にはもったいないくらいです。ゲームも、パソコンも、何もかも与えてもらっていて、本当はこういうこと言ってはいけないんでしょうけど、環境が急変したせいか、何もやる気が無くて。でも、何もしていないとやっぱり退屈で、その辺をどうしようかと」
「急な不幸があったからね、それは仕方無いだろうさ。ここは辺鄙なところで申し訳無いけれど、静かなところの方が気持ちも安らぐかと思ってね。それに、七海の話し相手にもなってもらいたかったのでね。あれも寂しい思いをさせているせいで、内にこもるところがあるから」
「すみません、色々心配かけてしまって。七海のことは、僕も助かっています。すごくよくしてもらっていて、励ましてくれたり、気を遣ってくれたりしていて、落ち込みがちな心が随分癒されています」
 栄一の頬が柔らかく緩む。親として七海が良い環境にいるのが嬉しいのか、それとも俺がさほど困っていないのに安心したのか、何度も俺の顔を見ながら頷く。いや、きっと前者だろう。けれど、そんなことはどうでもよかった。大財閥の当主の機嫌を損なわなかった、それだけで俺は心中安堵の溜め息をついていた。
「そうかそうか。いや、七海も君が来たおかげだからか、明るくなったみたいで私も嬉しい限りだよ。いやね、実は七海も君も打ち解けられずに塞ぎ込んでいるかもしれないと思っていたのだが、そういうことにはならなかったみたいだね。年の近い男と女だから、場合によっては気まずくなりがちだ。親としては娘が女と見られるのは、嬉しいやら寂しいやらなんだがね。まぁ、君ならばいいかな、と」
 そう言われても、苦笑しか返せない。けれど、場の空気を壊さなければそれでいい。七海とは何と言われても、今は家族の一員、義姉として思うのが一番いいのだ。下手な感情を抱くと、この家庭が壊れてしまう。俺が曖昧な笑いと共に相槌を打てば、栄一さんも満足げに頷いてくれた。
「ともかく、安心したよ。それでは、何かあれば遠慮せずに言ってくれたまえよ。私はこれで失礼するから」
「はい、わかりました。それでは」
 栄一が出て行っても、しばらく修治は頭を下げていた。そうして気配が完全に消えてから顔を上げ、大きく息を吐く。恩人は雲の上の人であるから、気安く接することができないと言っても、同じ屋根の下の住人である以上、親しくならなければいけない。修治はこれからのことを考えつつも、目の前の退屈に為す術もなく、八方塞を認めるが早いかベッドに倒れ込み、ゆっくりと目を閉じた。

 夢が薄れ、ゆっくりと暗い世界に引き戻される。同時に意識も変わり、奇妙なことにこれは夢ではなく明確な現実だと認識する。そうして目の前の景色と記憶が合致すれば、僅かな寂しさが胸を撫でる。暗闇の中、寝惚け眼で時計を見れば、おぼろげに二時半だとわかった。また何でこんな中途半端な時間に起きてしまうのだろう、自ずと溜め息が出る。もっと寝ていたいと思うし、事実眠いのに、どうしてか寝付けそうにない。苛立ちばかりが募っていく。
 しばらく布団にくるまっていると、近くに気配を感じた。普段そういうことには鈍い俺だけど、静かな夜のせいか、それとも何かが余程近くにいるのか、冷たい汗が滲み出る。確認しようかとも思うが、怖い。下手に動いて、何かあったら嫌だ。好奇心と恐怖心のせめぎ合いに、一人布団の中で丸くなる。強盗だろうか、はたまた幽霊だろうか。想像が恐怖を増長し、更に深い闇の中へと誘う。このまま眠ってしまいたいけれど、それができない。眠ろうと躍起になればなる程、目が冴えてくる。
 意を決し、布団から顔を出して周囲を見回してみたが、誰もいない。上半身を起こし、更にじっくりと確認してみるものの、やはり誰もいない。息を潜め、周囲に動きが無い事を確認すると、素早く布団から飛び出て、明かりを点ける。いない。念のためにベッドの下やクローゼットの中なども見てみたが、同じだ。
「気のせいか」
 一気に肩の力が抜けた。考えてみればこれだけの家だ、強盗だの泥棒だのが入り込めるわけがない。防犯対策はどこよりも強いだろうから。それに、幽霊なんているわけがない。寝よう。最近気疲れが多いから、眠りが浅くなっているだけだ。
 電灯を消し、再び布団に潜り込もうとしたが、やはりまだ心に引っ掛かりを覚えたので、俺は静かにドアを開け、廊下へと出た。これで誰もいなければ、もう何が何でも眠ろう。もしいたら……その時は走って逃げよう。
 暗い廊下に目を凝らせば、右手廊下奥に人影が見えた。息を殺し、足音を立てないよう恐る恐る近付いてみれば、七海だ。昨日と同じように窓から射し込む月光を浴び、こちらを見ている。服装も同じだ。ただ、昨日と違うのは初めから俺が出て来るであろうと確信を抱いていたのか、窓の外を見ていたり、物思いに耽っていた素振りは無い。ただじっと俺を見詰め、妖しく微笑んでいる。
「なぁ、何しているんだ」
 そう大きくない声だったが、静かな廊下に響き渡る。だが七海はまるで聞こえていないかのように、無反応を貫き通したまま、微笑を崩すことなくこちらを見ているだけだ。これだけ静かなのだ、聞こえていないわけがない。なのに何故そうした反応を取るのだろう。俺が何をしたと言うのだ。その微笑みの意味は何だ。安眠を遮られた苛立ちが、徐々に七海へと向かう。
「七海」
 幾分か語調を強めるが、効果無し。ならばと距離を縮めるため、歩み寄る。もしかしたら本当に聞こえていないかもしれないし、何か反応できない理由でもあるのかもしれないから。けれど、半分程距離を詰めたところで、七海が踵を返した。昨日と同じ微笑みをその場に残すかのよう、足早に逃げていく。
「おい、待てよ」
 修治もすぐに早足で追い駆けたが、まだ多少の距離があったために、先に七海に角を曲がられた。少し遅れて修治も角を曲がれば、そこには誰の姿も無く、ただただ静寂が支配する暗い廊下が所々に月光の水溜りを作りつつ、長く伸びているだけだった。修治はただその先を見詰めるように立ち尽くし、悔しそうに歯噛む。
「何だよ、まったく」
 腹が立ってきて、けれど怒りのやり場がどこにも無く、暗闇を睨み付ける。両拳が震える。途中で目が覚めたのは、きっと七海の仕業だ。そうでなければ、あんな態度を取るわけが無い。艶っぽく見えたあの微笑みも、よくよく思い出してみれば、人を小馬鹿にしたそれに見えなくも無い。何か言いたげな眼差しのくせに、呼び掛けても返事一つせず、近付けば逃げ出す。何なんだ、何がしたいんだ。さっぱりわからない。夜のこの変貌ぶりは何なのだ。あぁ、苛々する。
 もう知らない、わからないなどとは言わせない。昨日はまだ考え事をしていたのを見られて、つい恥ずかしくなり、微笑んで誤魔化したのだと好意的に解釈できなくもないが、今日のは何だ。こちらを見ていながら、呼び掛けても無反応。挙句、近寄ったら微笑んで逃げ出す始末。必ず明日、何なのかと聞き出してやる。
 今はもう、この月すら憎い。

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