一.

 窓の外を見ても、木ばかり。うっそうと繁った木々の先も、また同じ風景が延々と続いている。他には特筆すべきものが見当たらない山の景色に、海江田修治は溜め息をつく他無かった。ここへ修治が引き取られてから既に一週間が経っている。最初は修治も自然溢れる景観に心癒されもしていたが、変化の無い景色は退屈を誘発し、心を苛む。人生に疲れ切った老人ならまだしも、十八の若い修治にとってこれは限り無い苦痛である。唯一の救いは騒音が無いので、安眠できることくらいだろうか。
 窓から視線を逸らし、ぼんやりと部屋の中を見回す。クラシカルな雰囲気が気品と優雅さを嫌味無く感じさせるものの、どこか殺風景な部屋と言う印象が拭えない。テレビやビデオ等のオーディオ機器、またパソコンも完備されているが、何だかいじる気になれない。興味が無いわけではなく、ここに来る前の家ではそれなりに触れていたのだが、ここにはそれを抱かせない空気が確かにある。したがって退屈は解消されず、悶々としながら毎日を消費している自分に、苛立ちすら沸き起こっていた。
 けれど、大きな不満は無い。家具などは素人目からも超一流の物だとわかるし、オーディオ機器だって最先端のものだ。使おうと思えば最高の環境である。与えられる食事だって豪華なもので、以前とは比べ物にならない。さすがは日本有数の財閥である河口家なのだと、感嘆してしまうこと頻りだ。ただし、以前の常識が通用しないくらいに与えられる自由が大きく、時々気後れしてしまう。このオーディオ機器やパソコンも、以前はよく使って遊んでいたと雑談で何気無く話していた翌日、プレゼントされたのだ。貰うのは嬉しいけど、予想だにしてなかったので、恐縮ばかりしてしまった。本当に俺は住まわせてもらっているだけで、充分なのに。
 そんな生活でも、一つだけままならないことがある。それは外出だ。河口家は人里はなれた山の中腹にあるため、気軽にどこかへ出掛けることができない。こんな場所では車による移動が不可欠だが、まだ免許を持っておらず、また仮に持っていたとしても車を借りられないだろう。まぁ、特に必要な用事など差し当たって無いから、別にどうでもよいのだが、それでもと不意に考えることが多くなった。
 溜め息が修治の口から漏れた。静かな部屋に、それは妙に響き渡る。退屈。当面の大問題であり、青春の敵。椅子から立ち上がり、何かしようと思案しながら部屋をうろつくものの、結局何も浮かばずにベッドへ腰を下ろす。また溜め息。一つ溜め息をつけば幸せが逃げると言うが、修治にとっての幸せは一週間程前に崩れていた。最悪の道では無いとわかっているつもりだが、どうしても溜め息が止まらない日々に、修治自身も嫌気が差していた。ゆっくりとベッドへ倒れ、ぼんやりと天井を仰ぐ。
 不意にドアがノックされた。慌てて修治は起き上がり、その方へ目を向ける。
「沙弥香です。ベッドメイクをしに来ました」
「どうぞ」
 ドアが開かれると、河口家専属であるメイドの溝口沙弥香が入ってきた。整ったボブカットが清潔さと大人びた魅力を醸し出し、また焦茶色のフレームがシックながらも特徴的な眼鏡から知的な印象を与えるが、いかんせん彼女特有のおっとりと言うか、間延びした声がそれを崩している。ただ、それでも充分魅力的なことに変わり無く、修治も彼女と接していると心の平穏を僅かだが得られていた。そんな沙弥香が修治に微笑みかけ、一礼してから入室した。修治はベッドから椅子へと移る。
「ここでの生活にはもう慣れましたか」
 シーツを取り替えながら沙弥香さんが問い掛ける。口調はおっとりしているものの、手際良くベッドメイクをしている姿に感服頻りだ。仕事であり、かつ河口家に仕える者なので当然と言えばそれまでだが、やはり何度見ても不思議な気分になる。
「ここに来た時よりはね。でも、やっぱりまだ慣れない事は多いよ。遠縁の親戚とは言っても、面識が無かったから他人みたいなものだし。正直、少し前まではあの河口財閥と俺に血の繋がりがあったなんてのも知らなかったんだ」
「でも、明るくなりましたよ。何と言うか、笑顔が増えました。初めて出会った時から優しい方だと思っていましたが、硬さが抜けるにつれ、それが確信へと変わっていきましたから」
「そりゃあ、来たばかりの頃は両親が交通事故で死んで間も無かったから、笑うに笑えなかったしね」
 力無いその響きに沙弥香ははっとした様に目を開き、そうしてばつの悪そうな顔で奥歯を噛みつつ、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。軽はずみな発言で、辛いことを思い出させてしまったようで」
「あぁ、いや、頭なんて下げないで」
 修治はそれを手で制しながら、困ったように沙弥香を見詰める。気まずい空気が流れ始めたのを嫌い、愛想笑いを浮かべつつ、努めて明るい口調で返す。
「いやね、今はもう沙弥香さん達のおかげで大分立ち直れたよ。親のことは、仕方なかったんだ。いずれ誰もが死ぬ、遅かれ早かれ。ちょっと俺の両親は早かっただけさ。まぁ、いつまでも悩んだって、元に戻るわけじゃないから、せめて明るく前向きにならなきゃいけないな。ほら、沙弥香さんがそんな顔していたら、そうなれないよ」
「すみません。そして、ありがとうございます」
 ぎこちない笑顔だったが、沙弥香さんの頬は幾らか緩んだ。何気無い言動に責任を持ち、深々と頭を下げる姿はとてもじゃないが憎めず、逆に心配りのなっている人だと思わせる。これが大人の礼儀だろうか。年を重ねることが大人ではないと漠然と思っていたが、やはりこういう姿を見るとはっきりそう思う。
「それにしても、何でもあるけど何も無いところだね、ここは」
「そうかもしれませんね。修治さんくらいの年頃の方でしたら、少々退屈に感じるでしょう。私はもう慣れましたが、それでも時々繁華街などに出掛けたくも思いますから。あ、これは旦那様には内緒にしておいて下さいね」
 沙弥香さんは俺より年上とは言え、妙齢の女性だ。そうした気分になるのも無理は無いだろう。もう慣れたと言うが、慣れるまではやはりきつかったはずで、だからこそ俺の気持ちもわかってくれているのかもしれない。俺は慣れるまでどのくらいかかるのだろうか、いや、そもそもいつまでここにいられるのだろうか。
「大丈夫、内緒にしておくよ。それにしても、確か子供の頃にここへ引き取られ、それからずっと住み込みで働いていると聞いたけど、よく我慢できたなぁって感心するよ。十八にもなる俺が遊びたくてたまらないってこぼしているんだから、沙弥香さんも子供の頃はかなりそう思っていたんじゃないかな。それともあまりそうは感じなかった?」
 ふと沙弥香さんの手が止まった時には、もう遅いと思った。どうしてこう互いに気まずいことを言ってしまうのだろう。意図したわけではないが、こうして沙弥香さんの過去を話してしまうと、さっきの仕返しみたく捕われかねない。けれどここで困惑をあらわにしてしまうと、それもそれで意識しているように思われて。あぁ、困った。ともかく表情だけは平素のままで、沙弥香さんの反応を待つ。ただ、沙弥香さんはなかなか動かず、話し掛けてくる素振りが窺えない。背を向けている分、沈黙が重く圧し掛かる。謝るべきなのか、そう考え始めていると、沙弥香さんがゆっくり振り返った。
「そうですね、確かに退屈だとは感じていましたが、それほどでも無かったですね。両親が亡くなって、身寄りの無かった私を引き取って下さった河口家に対して、早く一人前に働けるよう、失礼の無いようにするため一生懸命でしたので。余裕が無かったのかもしれません。あと、甘い蜜を知らなければ、さして欲しがったりしないものですよ」
「そうかもしれないな。でも、すごいな、そう思えて納得できるのは」
「ありがとうございます」
 はにかみ笑いを見せる沙弥香に修治は心底安堵し、同時にこうして未だ慣れないこの屋敷での生活の理解者に出会えたことを改めて嬉しく思った。どことなく境遇が似ているから故の親近感かもしれない。または彼女のおっとりとした性格だからそう思えるのかもしれない。探せば色々あるだろうが、考え詰めるのも野暮だと思い、修治は目の前の笑顔を膨らませようと、微笑み返した。
 沙弥香さんがベッドメイクを終えて部屋を出て行くと、しばらくしてから俺もそうした。特に用など無いのだが、どうせ部屋にいてもうだうだと心中文句ばかり言って時間を潰すだけだ。それに、俺はもう少しこの屋敷を知る必要がある。ここに来て、まだ一週間程度。大分わかりかけてきたが、まだまだ曖昧な所が多く、どこに何があるのか知らないことが大半だ。これでは今後生活する上で、必ず困ってしまうだろう。
「それにしても、本当に世界の違いを感じさせられるとこだな」
 二階建ての河口家は、かなりの広さがある。部屋数も把握し切れないくらいあり、一階と二階にある書庫など、小さな図書館くらいの規模がある。初日に色々と案内されたのだが、未だに覚えているのは自室と各々が生活している部屋、書庫にバスルーム、食堂、そしてトイレくらいだ。他にもまだまだあったはずだが、あまり印象に残っていないと言う事は取り立てて必要な部屋ではないと判断したのだろう。
 この部屋は何だろう、あの部屋は使われているのだろうか。色々な想像を巡らせながら修治がのんびり歩いていると、書庫から一人の女性が出てきた。背中まで伸びた黒髪が美しい。彼女は修治に気付くなり、嬉しそうに笑顔を向けた。
「どうしたの。もしかして迷った、とか?」
 河口七海は心配そうに、けれど半分いたずらっぽい視線を修治に注ぐ。
「迷ったわけじゃないけど、暇潰しにどこに何があるのかとね。初日に説明されたけど、こんなにたくさんあるから一度じゃ覚えられなくて、だからどこがどの部屋だったかなと思い出しながら散歩だよ。でも、勝手に入ったりするのも何だかできないから、結局意味無いんだろうな。せいぜい道を覚えるくらいだよ。それより七海は書庫にいたみたいだけど、何か調べ物でもしていたのか」
 俺よりも七海の方が二つ年上だけど、さん付けや敬語は七海に対して使わない。それは一応もう家族であるというのもそうだが、七海自身がそれを嫌がったためだ。もっとも、俺自身も堅苦しいのは苦手なので嬉しい限りだが、綺麗、いや可愛いと言った方が正しいか、ともかくそんな女性だから、どうしても少しばかり緊張してしまうのも事実だ。
「大したことじゃないんだよね。修治君も暇でしょ、私もなんだ。気軽に遊びに行くこととかできないし、ゲームとかも最近のはよくわからないしさ。だから本とか最近読んでるんだよね」
「俺は本とかあまり読まないからわからないけど、どんなのを読んでいるの」
 特に活字が嫌いと言うわけではないが、小説や文芸書の類はほとんど読まない。本を読むよりも体を動かしたり、友人とカラオケに行ったりする方が好きで、読書に割く時間を作らなかった。ベストセラーや名著と言われるものもよくわからず、せいぜい国語の時間で紹介された鴎外の舞姫や太宰の走れメロス、芥川の羅生門くらいだ。
「主に外国文学かな。ドストエフスキーの地下室の手記や、チェーホフの桜の園とか読んでいるよ」
「どっちもよくわからないけど、桜の園ってのは何だかハッピーエンドっぽくて、地下室の手記ってのは、タイトルからして暗そうだね。ホラーかな?」
「どっちも純文学作品で、暗い話なんだよね。でも、ご都合主義の恋愛話より、こういう方が私は好きかな。あぁ、けど甘い話も好きだよ。ちょっと憧れもするな。最近はそういうの飽きたから、こういう少し硬い小説読んでるんだ。って、そんなことどうでもいいよね。それよりさ」
 七海はゆっくりと一階ホール方面への階段へと足を向ける。その笑みに誘われ、俺も続く。これから何が起こるかわからないが、ともかく暇を潰せるのがありがたい。
「新しい料理を試したいから、付き合って欲しいんだけどいいかな。ホットサンドなんだけど、食べられるよね。晩ゴハンまではまだ時間あるし、そんなに量とか多くないから」
「いいけど、どんな風にするの」
「オーソドックスなやつだよ。主にコンビーフとチーズとキャベツかな。大丈夫だよ、ちゃんと食べられるように作るから。ね、お願い」
 断る理由も気も無く、俺はすぐに承諾すると一緒に調理場へと向かった。調理場は一階食堂のすぐ側にある。すぐ側と言っても隣室ではなく、廊下を隔てて二つ先の部屋がそうである。ちなみに南から調理場、給仕支度室、廊下、食堂となっている。調理場自体の広さも結構なもので、テレビで見た一流レストランのそれとさして変わらなかったように思う。初日に一度見た限りなので、少々緊張しているのは確かだ。まぁ、下手にいじらなければ恐れることなど無いだろう。俺が調理するわけでもないしな。
「あ、七海さんに修治君、どうしたの」
 調理場では夕食の仕込みをしていた大滝和巳が、二人を見るなり糸目を更に細めた。痩身長躯な青年は二人より若干年上だが、人懐っこそうな笑顔がそれを感じさせない。沙弥香と同じく、和巳も昔から河口家で働く従者であり、屋敷内の雑務全般をこなしている。その中でも料理と庭木の手入れが得意なので、こうして調理を担当し、また庭の景観を整えるために庭師のようなことは和巳の役目であった。
「ちょっと料理を、ホットサンドでも作ってみようかなって。それで、修治君に味見してもらおうと思ったんだけど、ここ使ってもいいかな。それとも今は忙しいの」
「いいよいいよ、どんどん使っちゃってよ。なんて、使用人の僕が七海さんに言うようなことでもないんだけどね」
「でも、ここは和巳さんの方がよく知っているし、テリトリーみたいなものだろうしね。もしも本当にお邪魔だったら、ちゃんと言って下さいね。晩ゴハンの支度ができなかったら和巳さん怒られるし、私もイヤだしね」
 幾分か申し訳無さそうな七海に、和巳はやや大袈裟にかぶりを振る。
「いや、本当に気にしないで。パーティーがあるわけでもなし、旦那様と奥様も出張されているので、作る量もそう多くないしね。だからそんなに忙しくもないし、場所もそう取らないしさ。それにしても修治君、君は幸せ者だねぇ。こんなに可愛い女の子の手料理を食べられるんだからね」
 確かにその通りなのだが、改めて言われると恥ずかしいものがある。家族だと思おうにも、やはりまだ会って間も無い間柄なので、一人の異性として七海を見てしまう。反論すらできずに黙っていると、七海が呆れた様に大きく肩を下げた。
「和巳さんったら、すぐそういうこと言うんだから。そんな私なんて可愛くないし、それに修治君困っているじゃないの」
「いやいや、でも修治君だってまんざらじゃないんじゃないかな」
「そんなことないよ。ねぇ、修治君」
 少し照れた顔の七海をもう少し困らせたく、俺は和巳さんに向かって笑みを向ける。
「まぁ、和巳さんの言う通りかな」
 楽しい会話、心許せる人達。そんな輪の中で愛想笑いしかできない自分が、恨めしく情けなく思う。接してきた時間が違うから仕方無いのだと納得させようとしても、それは言い訳に過ぎず、心のどこかで自分は部外者なのだと壁を作っている。こういう壁を一刻も早く取り除いて、気兼ね無く解け込められればいいなと願いつつ、相槌と愛想笑いばかり上手になっていく。
「それじゃ、そろそろ作り始めようかな」
 腕まくりをする七海、夕食の仕込みを続ける和巳さんの中で何もせずぼうっとしているのは気が引け、俺も何かできることは無いかと考えるが、これと言って浮かばない。こんな状況ではますます距離が離れてしまいそうで、何とか一緒に作業でもして親しくなりたく、俺は壁から離れると七海に近付いた。
「何か手伝おうか」
「いいよ、別に。これは私が一人で作るから、それを食べて欲しいんだ。だから、私が作るところをしっかり見て、応援していてね」
 心の靄を抱きつつ、ひとまず従うことにした修治は七海から少し離れ、その様子を見守る事にした。七海はそれなりに料理をやり慣れているのか、本を見ながらも手馴れた手付きで野菜を刻んだりしている。しかし修治の目には、それよりも鮮やかな和巳の方ばかりを見ていた。手順に無駄が無く、かつ綺麗に仕上げていく様はさすが河口家で調理を担当している人間であると再確認させられる。
「修治君、見ていてって言ったのに、和巳さんばかり」
 それに気付いたのか、ややすねた感じの七海の声で我に返った。
「あ、ごめん。つい」
「まぁ、気持ちはわかるけどね。和巳さんの方がずっとすごいし、美味しいからさ。やっぱり年季が違うからだろうし、元々の才能もあるんだろうな」
「七海だって手際良く作っているじゃないか。そのくらいで充分だと思うけど」
「無理して褒めなくてもいいよ」
「まぁまぁ七海さん、そんなに膨れないで。修治君も僕なんかより、女の子の方が見ていて楽しいだろ。七海さんは見られて喜ぶ、修治君は目の保養。幸せの連環じゃないか。いや、でもこうして見ていると恋人同士みたいだねぇ、微笑ましいよ。男ってのは料理をする女性の姿に、滅法弱いんだ。あぁ、そうか、じゃあ僕も今度から誰か後ろに女性でも立たせておこうかな」
 哄笑が湧き上がる。身分も年齢も関係無く、ただの友人として笑い合う三人の心には確かな繋がりがあった。修治もようやく愛想ではなく、心からこの二人といることを楽しみ、笑えるのが何よりも嬉しかった。どこかで両親が死に、友人と離れて、さして付き合いの無かった家へ引き取られ、孤独になったとばかり思っていたが、そうではなかった。見渡せばこうして仲間と呼べる人がいる。修治は一頻り笑うと、また七海に近付き、ホットサンドの出来栄えを覗き込もうとした。途端、勢い良くドアが開かれる。
「和巳」
 怒声の主が鬼の様な形相で、和巳を睨み付けた。皆がその方を向き、しんと静まり返る。時間が凍りついたような感覚の中、そのいかにも危険な匂いを漂わせた中年の男が、そのまま和巳に詰め寄った。
「貴様、使用人の分際で七海様と修治様に気安く話し掛けおって。しかも貴様は仕事中に無駄口か。まったく、河口家に仕える者としての心構えがなっておらん。未熟者のくせに手を抜くことだけ一人前になりおって、この馬鹿者が」
「待って、敏雄さん」
 今にも和巳に殴りかからんとしていた大滝敏雄は、幾分か怒りを堪えた表情で七海を見遣る。七海はと言うと、多少怯えながらもしっかり敏雄を見返していた。
「私が和巳さんに話し掛けたの。ここに来て、お喋りを持ちかけたのは私。それに年も近く、一緒に住んでいるのに敬語とか嫌だから、ああいう風に話してって頼んだの。私、修治君や沙弥香さんもそうだけど、和巳さんとも親しくしていたいから。何て言うか、和巳さんはお兄さんみたいだし、沙弥香さんはお姉さんみたいな感覚だから」
「ですが、このようなことは他の者に対して示しがつきません」
「規律を守るのは大事なことだと、私もよくわかるわ。けど、それでも一緒にいれば家族みたいに幸せな関係を築いていたいの。ずっと顔を合わせているのに、主従の関係ばかりが強調されるなんて、窮屈過ぎる。それに」
 ふっと七海がうつむくと、敏雄は大きな溜め息と共に肩を僅かに落とした。張り詰めていた空気が、どこか切れたかのように緩和していく。
「わかりました、そこまで言われるのでしたら、私からはもう何もございません。ただ一つだけ、これだけは申しておきます。河口家は他と違うのです。千年以上続く名家であり、また常に上に立つ存在でもあるのです。七海様はその正統後継者であるのですから、しっかりとした自覚を持って下さいませ。お忘れなく。特に和巳はな」
 睥睨する敏雄に、和巳は深々と頭を下げる。
「申し訳ありませんでした。以後気を付け、河口に仕える者としての自覚を忘れず、相応しい言動で対応していきます」
しかしそんな和巳に敏雄は目もくれず、七海と修治に一礼すると、何事も無かったかのように退室した。ドアが閉まり、残響音も消え、それでもしばらく静寂は続き、誰も姿勢を崩せないでいた。胸が詰まり、呼吸すら満足にできない空気を最初に破ったのは、七海だった。七海は大きく息を吐き出し、テーブルに手をつく。
「あぁ、怖かった。もう足、震えていたんだよ」
「すみません、僕のせいで。修治君も驚かせてしまったみたいで、本当に申し訳無い。父は昔からああなんですよ。家庭内でもそうでしたからね。亡くなった母がいた時はもう少し丸かったような気もしたんですけど。父も僕達使用人を統率しているから、あのような厳格な態度で接しているんでしょう。もっと怒られないよう、しっかりしないといけませんね」
 弱々しくも照れ笑いを浮かべて、気を紛らわせようとしてくれている和巳さんに対し、俺は頷くことしかできなかった。それ程までに、俺は怯えていた。ここへ来た時から第一印象で敏雄さんは怖いと思っていて、触らぬ神に祟り無しとばかりに近寄らないでいたが、まさかこれ程までとは。予想を遥かに越えていた出来事に、指一本動かせなかった。まだ視界がぼやけ、足が震えている。他人への叱責なのに、こうまで怯える自分が酷く情けない。
「あの、えっと、そうそう、続き作らないと。コンビーフとか固まったら調理しにくいし、美味しくなくなるからね。和巳さんもほら、続き続き。修治君もちゃんと見ていてよね。もしおかしなところがあれば、どんどん指摘して」
「そうですね。いつまでも黙っていたところで、料理はできませんし、作らなければまた怒られてしまいますからね」
「和巳さん、そんな話し方はいいよ。もっと今まで通りに、ね」
 努めて明るく振舞う七海に、和巳がうやうやしく頭を下げる。
「あんなこと言われた手前ですので、せめて今だけはこうしていようかと」
「そう。でも本当に私は気にしていないからね。そうでしょ、修治君」
「七海の言う通り、俺も気にしていませんから」
 和巳は嬉しそうに微笑むと鍋の方へ向き直り、ゆっくりとスープをかき混ぜ始めた。何も答えなかったが、その背中が全てを物語っており、下手な言葉よりもしっかりとした説得力がある。けれど、それは所詮想像でしかなく、実際に和巳がどう思っているのかは、本人にしか知る由は無い。けど、それでも修治は今晩の食事を期待せざるを得なかった。
 七海のホットサンドができあがると、和巳さんに別れを告げ、俺は七海と共に彼女の自室へと向かった。肝心のホットサンドの出来栄えはなかなかのもので、匂いからして食欲を非常にそそる。午後四時過ぎなので多少小腹も空いており、早く食べたい。自ずと足早になりそうになるが、七海に合わせて歩く。七海の部屋は二階にあり、初日に紹介されたものの、未だ入ったことが無い。そのため、少々緊張しているのは事実だ。どんな部屋なのだろうか。どこかで何かしらの期待を抱き入室したが、何てことはない、俺の部屋とさほど変わりが無かった。年頃の女性にしては、簡素な部屋に思える。ただ、所々にガラス製の小物があったり、小さな花が小鉢や花瓶に活けられてあったりして、一人頷いてしまう。七海はテーブルにホットサンドを置くと、ソファに腰掛けた。
「適当なところに座っていいよ」
 そうは言っても、食事をする限りテーブルから離れられないので、入口近くのソファに腰を下ろした。七海と向かい合う形だ。見知らぬ相手じゃないし、七海もこの屋敷の中ではかなり仲が良い方だが、何故だろう、どことなく居心地が悪く、七海を直視できず、つい辺りを頻りに見回してしまう。
「私の部屋、そんなに珍しいかな」
 慌てて修治は七海に目を戻す。
「そんなことないんじゃないかな。綺麗に片付いているし、小物や花も良い感じだよ。ただちょっと、緊張していてね」
「緊張なんてする必要無いよ。会ったのは少し前からだけど、毎日こうして顔合わせているんだからさ。変なの」
「確かにね。でも、女の子の部屋だからさ、やっぱり多少はそうなるよ。何だか入ってはいけないとこに迷い込んだみたいでさ、緊張するなって方が無理だって。それに、初めて入ったんだから、尚更だ」
「へぇ、そういうもんなんだ」
 一瞬七海が悲しげな瞳で微笑んだのは、俺の見間違えだろうか。おやと思った時には、もういつもの顔に戻っていた。
「それより食べてよ。ホットサンドなんだから、冷めたら美味しくなくなっちゃうよ」
「そうだね。それじゃ、いただきます」
 さっそくホットサンドを頬張ってみれば、それなりに美味しかった。手際から味を予想していたが、それを上回っていたのはさすがと言うか、俺の見解が甘かったと言うか、ともかく驚かされた。カリッとした表面でありながら、中はチーズがとろけており、それがコンビーフやレタスと相俟っていて、初めて作ったとは思えない。欲を言えばもう少し塩気がある方が好きなのだが、俺は濃い目の味が好きだから、これは丁度良い味加減なのかもしれない。ともかくあれよあれよと言う間に、食べ終えてしまった。
「ご馳走様、すごく美味しかったよ。これ本当に初めて作ったの?」
「ありがとう。そう言ってくれると嬉しいよ。実はね、何回か練習したんだ。本を見ながらでも、やっぱり何度か実践しないとわからない部分もあるしさ」
「なるほどね、確かにそうだろうな」
「色々覚えた方がいいに決まっているしね、こういうのは。修治君はこれからも犠牲になっちゃうかもしれないけど」
「こういうのなら幾らでも」
 いたずらっぽく微笑む七海に、不適に笑い返す。しばらく見詰め合うと、どちらからともなく破顔し、仄かな幸せを感じた。そうしてしばらく何気無い雑談を交わした後、夕食までくつろごうと、俺は自室へと戻ることにした。
 この屋敷で、やはりここが一番落ち着く。孤独とはまた違い、一人になれば落ち着ける感覚と言うものは必要で、それが得られるのはやはり自分の匂いが染み付いた場所だ。この部屋を使い始めてそう時間は経っていないが、それでも生活の主な場所である。ベッドに腰を下ろすなり、俺は後ろへ倒れた。背に柔らかい感触を感じるなり、自ずと溜め息が出てきた。
 苦手な人もいるが、いい人も多い。突然この名家に住む事になった、親戚だけれどもどこの馬の骨ともわからないのと同然な俺に対し、親身に接してくれ、よく気遣いしてくれている。だからこそ不必要に緊張し、考えさせられることは少なくない。だからなのか、どうもここに来て疲れることが多い。特に肩肘張って生活している意識は無いのだが、屋敷の雰囲気のせいだろうか、それとも散々言われている河口と言う名の大きさのせいだろうか。いや、それとも単に環境の変化に戸惑っているだけなのか。
「来たばかりだし、しょうがないよな」
 修治は一旦起き上がると、テーブルに置いてあったテレビのリモコンを手にし、再びベッドに寝転がる。そうしてリモコンを操作し、特に何か見るあても無いが、テレビを点けて静寂を嫌う。それはそれまでの日常の接点を忘れたくないという思いがあったのかもしれないし、ただ音が欲しかっただけなのかもしれない。とにかく、適当なバラエティ番組をぼんやりと、それでいてどこか懐かしそうに眺めていた。

 不意に目が覚めた。今は一体何時だろうか。枕元の電灯を点けると光が溢れ、寝惚け眼へ強烈に突き刺さった。反射的に目を閉じ、瞼の裏で光に慣れる。それからゆっくりと開き、徐々に光の世界を受け入れつつ、時計を見遣る。時刻は夜中の二時。
 夜明けまでにはまだ時間がある。起きていてもしょうがない、二度寝しよう。このぼやけた頭を覚ませば、しばらく眠れなくなるだろうから。そう思って再び枕に頭を埋め、夢の続きを見ようとしたが、どうにも寝付けない。何だろう、寝心地が悪いだとか、寝過ぎただとか、そう言うのではなさそうだ。例えるならば、何かある前日のような興奮した感覚が我が身を苛んでいる。別に明日は何も無いのに、何故だろうか。
「便所でも行ってくるとするか」
 横になっても眠れそうにないならば、気分転換ついでにとベッドから降りた。
 修治の部屋は二階奥にあり、正面玄関から反対方向にある裏階段に程近い場所だ。そこから二階のトイレまでそう離れておらず、階段を下りて一階トイレへ行くより近い。半分寝惚け眼でいるため、一階へ降りるのがおっくうであるからかもしれない。廊下にはもう明かりが灯っておらず、窓から差し込む月明かりだけが頼りだ。修治は寝ている人々に気を遣いつつ、静かに歩く。
 誰だ、あれは?
 右手廊下の先に人影が見えた。電気を点けず、月明かりを頼りに目を凝らしてみると、どうやら女性のようだった。遠目で夜目だが、大まかな身長で男女の違いくらいはわかる。ゆっくりと俺は一歩二歩近付いてみると、腰まで届く髪が見えた。七海だ。ゆったりした白いドレスのようなネグリジェに身を包み、ぼんやりと窓の外を眺めている。何を見ているのだろうか、何か考え事でもあるのだろうか。まぁ、別にどうだっていい、七海だって眠れない夜くらいあるだろう。それよりも、とっとと便所にでも行って、寝るか。何するわけでもない毎日だけど、生活リズムだけはせめて保っておきたいものだ。
 そんなことを考えながら歩を進めてみたが、すぐに止まった。何故だろうか、気になって仕方が無い。もう一度七海の方へ目を遣る。暗い廊下のステージで窓から差し込む月光を体中に浴び、星明かりに彩られた七海は、とても妖艶に見えた。まるで月光の湖に浮かんでいるかのように、美しい。いつもは年上だけれどもどこか幼さを感じさせる七海だが、こんな一面もあるのだとつい見とれてしまう。昼間に見る七海からは見られず、感じられないその雰囲気に惹かれていると、七海がこちらを向いた。
 微笑、一つ。
 それはとても心に響き、七海がくるりと背を向け、遠ざかってしまった後も、しばらく月光の湖を見詰めていた。もう七海はいないのだが、それでも夢の続きを見ているかのような、どこか呆然とした感覚が胸を締め付けてくる。
 追い駆けようかとも思ったが、止めた。あの微笑みの意味は何だったのだろうか、一体何を見ていたのかなどは、明日にでも訊けばいい。大した意味など本当は何も無く、単に夜中に偶然見付けたから奇遇だね、くらいの感覚で微笑んだのだろう。けど、あの七海は今まで接してきたどの七海とも違っていた。雰囲気も、仕草も、そしてあの微笑み方もどこか違う、けれど七海に間違い無い。
「女だから、色々な顔を持っているんだろうな」
 修治は目を閉じ、二度三度かぶりを振ると、ゆっくりとまたトイレへと歩き出した。

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