闇への誘い手

狂人の結晶に戻る

 どうして私は生きているのだろう、ふとそうした疑問が思い浮かぶ。世の中では自殺者を出さないよう、色々な対策が取られているみたいだけど、一体生かしてどうすると言うのか。自ら命を絶つなんて愚かだとか、生きたくても生きられない人が世界にはたくさんいるだなんて、どうでもいい。私には生きていても、何も見出せないのだから。
 趣味も無く、目標も無く、彼氏もおらず、職に就いていると言っても片田舎の古本屋。両親は健在だけど、一人暮らしをしているとその温もりもさして感じられなくなってくる。人並みに温もりを感じたくて何度か告白もしたけれど、全て駄目。自信を失っているうちに周りを見れば、友達の何人かは結婚したりしている。そうだよね、二十七にもなれば。
 そんなに生きる事に愚痴をこぼすなら、いっそ死んだ方が良いのかもしれないけど、死ぬ勇気なんて私には無い。それに死んで本当に楽になれるのだろうか。そんな保証も無いのなら、今のまま惰性で生きていてもいい。わがままだと思われるかもしれないけれども、そうした視線には慣れている。黙って耐えて、全てやり過ごせば、それでいいんだ。

「ちょっと、奥から在庫補充してくれない。必要なのは、このメモに書いてあるから」
 店長に言われ、私は黙って頷くと在庫のある奥の倉庫へと向かう。繰り返される日常の一つ。波風立てたくないので、嫌そうな顔一つせずに渡されたメモを参照し、必要な本を探す。中には二十巻セットなどを買う人もいるので、まとめて台車に乗せないとならないんだけど、これが結構重い。
「手伝いますよ、秋野さん。重いでしょうし、一人でここにいると気が滅入りますよね」
 そう言っていつの間にか私の側にいた奈良橋君は、にっと笑いながら私が手にしているメモを覗き見し、まだ台車に乗っていないのを探し始める。
「奈良橋君、嬉しいんだけど自分の仕事があるでしょう。そっちを」
「大丈夫ですよ、一通り片付けましたから」
 度々こう言う事があるのだが、その度に私は苦痛に感じる。親切心からやってくれているのかもしれないけど、こうして私の側で私一人でもできそうな業務を手伝われると、別の業務に支障が出るし、周りから変な噂をされるかもしれないし、それに……何かのはずみで好きになったりでもしたら、それこそ辛い。どうせ好きになっても、親しくなってもフラれてしまう。何度フラれたかなんて関係無い。いつだって、同じ様に辛い。もう関わらないで欲しいのに、どうして度々手伝っては笑顔を向けてくるの。やめてよ。

 仕事が終わり、控え室で荷物をまとめていると背後から肩を叩かれた。振り返れば一年後輩として入ってきている井端さんが、にこやかな笑顔で立っていた。
「どうしたの、何かいい事でもあった?」
「そう言うわけじゃないですよ。ただちょっと、これから飲みませんか、と」
 お酒は飲めないわけじゃないけど、積極的に誰かと飲みたいわけじゃない。ただ、断ると無駄なこじれを生み出すかもしれない。数千円で維持できるなら、いいか。
「一応、今日は淑美先輩と私と、宏延君の三人で前に行った『ザパン』にしようかと」
 ザパンとは多国籍ダイニングキッチンの店で、料理もお酒もそれなりに美味しい。でも井端さんと奈良橋君と私だけか。まぁ、仲も良いし、断るよりは参加した方がいいかも。
「いいよ、何の用事もないし」
 小さく微笑むと、その何倍もの笑顔を井端さんが見せてくれた。

 主に東南アジア系の料理に舌鼓を打ち、甘いカクテルに頭を痺れさせるけれど、会話となればひたすら聞き役に徹していた。主に奈良橋君が盛り上げ、井端さんがそれに乗っているけれども、私はと言えば相変わらず愛想笑いを浮かべながら場を持たせるため、時折グラスを口に運んでいる程度。
 私がいない方が良いんじゃないだろうか。奈良橋君も井端さんも、今一つ盛り上がらない私といるより、二人きりの方がもっと楽しめるはず。何か理由をつけて、そろそろ帰ろうかな。今はこの場にいるだけでも、辛い。何だか申し訳なさで、いっぱいだ。
「ちょっと、お化粧直してくるね」
 中座し、そそくさとトイレに行くと鏡の前で溜め息をついた。何しているんだろう、きっと余計な気を遣わせている。だったら最初から来なければ良かった。どうとでも言い訳できたはずなのに、私はそのどれもから逃げて惰性の選択をしてしまった。
「先輩、何だか落ち込んでいるみたいですが、どうかしました? あまり飲んでいないみたいですし、もしかして具合でも悪いんですか?」
 背後からの声に振り向けば、そこには井端さんがやや赤い顔で笑いながら立っていた。
「そんな事無いよ。ただ、ちょっと考え事をしていただけ。何でもないから、本当に」
「そうですか、だったらもっと盛り上がりましょうよ。折角ヒロ君もがんばっているんですし、我々も応えないと。どうせ飲むなら、楽しく行きましょうよ」
「そうだね。でも、私がいない方が盛り上がったんじゃない。私、そう言うの苦手で」
「何を言っているんです。今日はヒロ君が是非先輩と……あっ」
 しまったと言う顔の井端さんを見て、何を意図していたのかわかった様な気もしたが、それを自分から言う気はしなかった。じっと彼女を問い詰める様に見詰める。
「えぇと、私が話しちゃったと言うのは内緒にして欲しいんですけど、実はヒロ君、先輩と飲みに行きたかったみたいなんです。でも二人きりだと来てくれないと思ったらしく、そのため私も誘われて。あの、本当に騙したりとかそんなつもりは無くて」
 慌てる井端さんの姿よりも、私は奈良橋君の真意について考えていた。いや、考えるまでもない、私をからかっているんだ。だって私は彼に何もしていないし、私自身何の魅力も無い女。きっと社交辞令。でも、もしかしたらと思ってしまう……ひどいよ。
「とりあえず、一人にしていると可哀想なので戻りましょう。どうこうするのは後で考えたっていいじゃないですか、先輩」
 半ば強引に席に戻されたものの、何を話せば良いのかわからず、そっとカクテルに口付けする。ちらちらと目配せしてくる井端さんを見ないようにし、黙って微笑んでは何とか場を壊さないよう自分なりに心がける。
「それじゃ、少し早いけど私は帰るね。これからちょっと行くところがあってさ、折角盛り上がっていたのにごめんね。先輩、お金渡しておきますね」
「えっ、ちょっと」
「すみません、本当に。これから彼と約束があるもので。それでは、お先に」
 素早くテーブルの上に多めのお金を置くと、井端さんはそそくさと店を出てしまった。別に帰るなら帰るで、一緒に店を出たのに。二人きりにされても、さっきの様にはなれないと知っているじゃない。私は面白い話も出来ないし、相手の話も適当な相槌しか打てない。目を向ければ奈良橋君も先程までとは違って、どこか気まずそうにしている。
「そろそろ私達も出ようか?」
「でも、まだ飲み放題の時間も料理も残っていますし、全部片付けてからでも」
 にっと笑う奈良橋君に、私はただ適当に笑顔で応えるしかなかった。でも、正直お金とか料理とか関係無く、逃げたい。この場をどうする事もできないなら、帰りたい。
「ねぇ、奈良橋君。あのさ、私といてもつまらないでしょ」
 沈黙に耐えかねて淑美が発した言葉は自嘲とも謝罪とも取れない、妙な響きと表情を伴っていた。グラスを手にしていた宏延はそれをそっと置き、真摯な眼で見返す。
「そんな事無いです。俺、先輩といるだけで楽しいんですよ。マジで嬉しくて」
「いいよ、そんなお世辞。そりゃ言われたら嬉しいけど、やっぱり虚しくなるものだし」
「お世辞なんかじゃありません」
 宏延は身を乗り出し、硬く強く拳を握る。その迫力に淑美も思わず息を呑んだ。
「好きな人と一緒にいたいと思うのは、決してお世辞からじゃありません。俺はずっと前から淑美先輩が好きなんです。ひたむきに働き、しとやかでいつも微笑んでる先輩が好きなんです。本気で一人の女性として、好きなんです」
 一瞬、誰に向けられているのか理解できなかった。数瞬後、それが自分に向けてだと理解すると、今度はどうしたらいいのかわからなかった。何でこんな私を好きになれるのか、いつから好きになったのか、私は奈良橋君に好かれる女じゃないのに、どうして。
「そう言ってくれて、すごく嬉しいよ。でも、奈良橋君みたいな素敵な人なら、私よりももっと素敵な人と一緒になれると思う。きっと私は奈良橋君の気持ちにも何もかも、応えてあげられないだろうから、一緒になっても面白くないよ。だから奈良橋君は」
「俺は先輩がいいんです。先輩は自分の魅力に気付いていないだけですよ。綺麗だとか、楽しいだとか、おしとやかだとか、頭が良いだとか、そんなものは一つの要素でしかないんです。俺は先輩の、淑美先輩の全てをひっくるめて好きなんです」
 でも私は……そう反論しようと思ったけど、やめた。そんな事を聞き、反論したところでお互い悲しくなるだけ。折角好きだと言ってくれているのなら、意地も自虐も捨てて、受け入れてみよう。うん、それがいい。愛してくれるなら、愛そう。
「その言葉に甘えていいのかな。頼りない私だけど、いいのかな」
「どうぞ。甘えても、不安になってもいいです。その言葉を聞けただけでも、俺は本当に幸せです。そして、それを俺は先輩を全力で守ります。でも、一つだけいいですか?」
 何だろう、一体何を要求してくるのだろう。芽生え始めた希望が不安により枯れそうになってくるけれど、一度灯した明かりは消したくない。もう、暗闇は嫌。
「時々、少しだけ甘えさせてください。俺もそんなに強くないので」
 照れ笑いを浮かべる奈良橋君に、私はもうすっかり愛想笑いではない、心からの笑いを浮かべていた。可愛さとも、拍子抜けとも言えないおかしさに、僅かに涙が滲む。
「一応私がずっと年上だからね、奈良橋君を包むのは当然なんだろうけれど、頼り無くてごめんね。しっかりできるよう、がんばるから。だから一緒に、ね」
「そうですね。あっ、でも折角だからもう一つお願いしてもいいですか? 俺の事を奈良橋君じゃなくて、呼び捨てでお願いします」
 あまりにも真剣なその眼差しに、つい私はくすりと笑ってしまう。
「でも、いきなりは恥ずかしいから……ヒロ君でいいかな。それに、私も先輩とかじゃなくて呼び捨てでいいし、敬語とかも無しでお願いできる?」
 その言葉に宏延は照れた様にうつむき頭をかくと、やがてしっかりと淑美を見詰め、微笑を向けた。
「……えっと、これからも改めてよろしく、淑美さん」
「こちらこそ、ヒロ君」
 グラスに残った中途半端なカクテルでも、新たな門出の乾杯としては充分だった。

 目覚めると同時に、私は人差し指でそっと唇を撫でた。昨日の帰り際に交わしたキス、その思い出をもう一度確かめる様に。あぁ、こんなにも目覚めが気持ち良く感じられるなんて、いつ以来だろう。カーテンを開ければ薄曇の空なのに、どうしてだろう、世界の全てが輝いて見える。昨日まで確かにあった、暗闇の世界へと連れ去ろうと私を掴んで離さなかった手が、すっかり消えた。この気持ちを失いたくないから生きていたいと思える。
 バイトに向かう途中も足取り軽く、何だか見知らぬ人に話しかけたいくらい、浮かれている。あぁ、こんなところに花が咲いていたんだ。あのうるさい犬、こんな首輪をつけていたんだ。単純な思考回路に自分自身苦笑を禁じえないけど、今はそれすらも心地良い。
 レジにいた店長と井端さんに頭を下げると、私は準備室に入る。上着を脱ぎ、制服とでも言うべき店のエプロンをつける。いつも以上に今日はがんばれる、そう微笑んだ途端、背後でドアの開く音がした。咄嗟に振り向くと、沈痛な面持ちの井端さんが立っていた。
「先輩、まだきっと知らないですよね。……さっき連絡があって、ヒロ君、今朝方交通事故に遭って意識不明みたいなんです」
 それまでの心が一転し、目の前すらも真っ暗に染まった。どうして、どうして私が幸せを手に入れようとしたらこうなるの。やはり私には異性との幸せなんて無理なんだ、だって運命がそうだと言っているんだから。私は人知れず闇の中にいる方がいいのかも……。
 いいや、そう考えて諦めたって何もならない事は、今までの私の人生が示している。運命のせいって、どう言う事よ。結局私が一人合点して、早々に諦めているだけじゃない。もう、それで終わりたくない。簡単に闇の中へ引き篭もりたくない。折角繋がり始めた絆、壊したくない。もう二度と言い訳をして逃げたくない。
「ねぇ、どこの病院にいるのか教えて」
「わかりました。では店長には私からも言っておきますね。先輩、がんばですよ」
 あらかじめメモされてた病院の住所が記された紙を井端さんからもらうと、私はすぐに店を出た。こんな終わり方、嫌だ。だって昨日約束したじゃない、これからもよろしくって。たった一日だけの遊びじゃない、だから……。私は無意識のうちに唇を触っていた。

 タクシーでお釣りを受け取るのももどかしく、急いで病院の受付に駆け込む。たった数十秒待たされるだけで、ひどく焦る。今までずっと待ってきた、耐えてきた。だから今だけは我慢をせずに動きたい。自分のため、誰かのために動きたい。会いたい。
 受付でどこにいるのか訊くと、四階にある集中治療室にいるとの事だった。いけないと思っていてもつい足早になり、別の患者さんと思わずぶつかりそうになりながら、教ええられた部屋の前まで来た。この先にヒロ君がいるなんて、意識不明で寝ているだなんて、信じられない。でも、ここまで来て逃げ帰るなんて、絶対にしたくない。私をいつも励まし、前を向かせてくれたヒロ君。今度は私が彼を励ます番だ。
「あの、ご家族の方ですか?」
 意を決して入ろうとした途端、看護婦さんに呼び止められたので、私は首を横に振る。
「すみませんが、患者さんがまだ予断を許さない状況なので、面会はご遠慮願えますか」
「家族ではないですけど、彼女です」
 こんな言葉、自分の口から出るなんて思っていなかった。それだけに内心驚きもしたけれど、これもきっと前に向かって歩こうとしている表れなのだろう。私はもう、少し前の私と違う。そんな決意を瞳に込めて見詰めていると、ふっと柔和な笑みを返された。
「わかりました。でも、なるべく患者さんを刺激しないで下さいね」
 同じ様に頷き返し、私はしっかりと心を定めて中へと入る。
「ヒロ君……」
 宏延は目を閉じ、ベッドに寝ていた。様々なチューブやコードが体から伸びており、所々に包帯が巻かれている。心電図の音が規則正しく鳴り響き、静かに点滴の落ちる様が生死を握っているかのようだ。淑美はゆっくりと近付き、宏延の側にそっとひざまづく。
「ヒロ君、私だよ、淑美だよ」
 だが宏延は何も返さない。溢れる涙を拭おうともせず、淑美は彼の手をそっと握った。
「昨日初めて知ったけどさ、ヒロ君の手って温かいよね。ただ温かいだけじゃなくて、人を優しくさせる温かさ。こうしてギュッと握ったら、しっかりと握り返してくれたよね。その時に私、あぁやっぱり男の子なんだなぁって思ったんだ。力強く感じたよ」
 しかしヒロ君は返事はおろか、握り返してもこない。こんなに温かいのに、昨日まであんなに素敵な笑顔を見せてくれていたのに、どうしてこんな事になっちゃったんだろう。
「ヒロ君、待っているからね。私、ずっと待っているからね。もう一度笑って、握り返してくれるのを。もしも私の事を忘れていたなら、今度は私から告白するから」
 今は無理かもしれないけど、きっと明日には握り返してくれるだろう。明日じゃなければ明後日、明々後日……きっといつか、握り返してくれる。何の確証も無いけど、ただそれだけを私は信じていたい。いや、信じていないと、もう二度と笑えなくなってしまう。
 だって、私を今の私にしてくれたのはヒロ君なのだから。まだ何も知らず、純粋に明日を楽しみにしていたあの頃に戻してくれたのはヒロ君なのだから。だから彼を失うと、私はもう一生涯誰をも好きになれない、誰をも頼る事ができなくなってしまう気がする。それは単なる思い込みかもしれない、けれど確かに一片の真実が込められている。
 私はひたすら前を向く、この涙を拭ってしっかりと前を向いていく。もう、後ろばかり見詰めるのは飽きた、そろそろ飽きるほどに前を向いて生きていくべきだろう。明日に目を向けていれば、闇からの誘い手を振り切れるのだから。
「おはよう、淑美さん」
 そう、この言葉を聞けるのならば、私はどんな困難にも立ち向かっていけるのだから。
「……えっ?」