私は甘党

狂人の結晶に戻る

 一人暮らしをしていれば多かれ少なかれ、日々の忙しさに追われて雑然とした部屋模様になるものだが、この部屋は綺麗に片付けられている。普段ならばついおっくうになって、そこらに置きっ放しにしてしまう雑誌も、きちんとラックにしまわれており、便利だからとテーブルの上に置かれてある薬や筆記用具等も、全て所定の位置に戻されていた。掃除されたてらしく、細かなゴミも目に付かない。
「もうそろそろかな」
 この部屋の主である葛千鶴は掛け時計を一瞥するなり、またすぐチョコレートケーキのデコレーションに戻った。昨夜のうちにほぼ完成してあったが、細かいデコレーションは型崩れしがちなため、彼氏である町野博喜が来る少し前にやろうと前から予定を立てていたのである。それが功を奏し、昨夜の段階では気付かなかったヒビ割れ個所なども補修する事ができ、元々手先が器用な千鶴であるからこそ、店頭に並べられていても遜色の無い出来に仕上がりつつあった。
「よし、完成っと。あとはヒロが来るだけか」
 今日は二月十四日、バレンタインデーでもあると同時に、千鶴と博喜にとって交際一周年目となる特別な日。一昨年、勤務先で知り合った博喜に千鶴の方からアプローチをし、ついにバレンタインデーでチョコと共に想いを受け取ってもらえた。千鶴の方からアプローチをしたと言え、博喜の方もまんざらではなかった様子で、付き合い始めて一ヶ月と経たないうちに親密な関係へと発展していった。
 早く来ないかな、ヒロ。今回のは我ながら自信作だし、きっと喜んでくれるんだろうな。ヒロは甘いの好きだし、私もそう。二人共甘党だから、うんと甘くしたこのケーキ、満足し合えるはず。っと、紅茶淹れるためのお湯、沸かしてなかった。
 コンロに水を入れたステンレス製の鍋を置き、スイッチを入れる。沸くまでの間にテレビでも見ようと、リモコンの側まで行ったところで、玄関のチャイムが鳴った。火元を離れるのは少々不安だけど、まだ火を点けたばかりだから大丈夫だろう。私は小走り気味に玄関へと向かう。
「やぁ」
「いらっしゃい、待ってたよ」
 満面の笑みを浮かべる千鶴とは対照的に、博喜はどこか思い詰めた様子で、うつむきがちに靴を脱ぐ。千鶴は先立って中へと入り、コンロの前に立った。お湯はまだ沸いていない。
「お仕事お疲れさま。残業で遅くなるってメールあったけど、やっぱり待っているのって長いよね。でもさ、そう言う時って甘い物食べると良いんだよ。今日はバレンタインだし、ヒロのために甘いチョコケーキ作ったんだ。ほら、すごいでしょう」
 テーブルに運んだチョコケーキを見て、博喜は感嘆するも、その驚きはいつもに比べて小さい。
「ねぇ、もしかしてチョコケーキ嫌いだった?」
「いいや、好きだよ。ただちょっと、出来があまりに凄いから、驚いてしまって」
「そっか、ならいいんだ。何だかいつものヒロに比べて驚きが小さかったから、もしかしてと思ったの。いつもだったら、本当にこれ手作りなのか、すごいなって目を丸くして言うからさ。ま、いっか、驚かれるために作ったわけじゃないし。そうだヒロ、紅茶でいい?」
「あぁ、お願い」
 何かあったのだろうか。いつもに比べて元気が無いと言うか、何だか思い詰めているみたい。きっと仕事で何か嫌な事でもあったのだろうから、私が明るく振舞って、少しでも忘れられるようにしなきゃ。
 紅茶をテーブルに運び、二人は向き合う様にして座った。相変わらず博喜はネクタイを緩めて多少くつろいでいるものの、顔は強張ったまま、じっと床を見詰めている。千鶴はほんの一瞬だけ唇を真一文字に結んだが、すぐまた笑顔に戻るなり、ケーキを切り分ける。
「どうぞ召し上がれ。今日のは自信作なんだよ。バレンタインであると同時に、私達の大切な日でもあるしね。そう、丁度去年なんだよね。何だか昨日の事みたいに、思い出したら今もドキドキしちゃう。ヒロはどう?」
 身を乗り出す千鶴に博喜は目を合わせようとせず、ただ黙っている。そんな様子に小さな溜め息をわざとらしくつくと、乗り出した身を戻し、なおいたずらっぽく千鶴が微笑む。
「照れちゃったかな。でもそうだよね、思い出なんて遠くから見れば綺麗だけど、近付き過ぎれば辛くなっちゃうからね。私も思い出したら、何だか恥ずかしくなってきちゃった。紅茶も冷めちゃうし、そろそろ食べようか」
「千鶴」
 どこか悲壮な決意を込めた顔付きで、博喜が千鶴の瞳を視線で射る。その眼差しに千鶴も徐々に真剣な表情へと変わるが、思い出した様に笑顔を作り、表面だけでも余裕を持とうとする。
「話が、あるんだ。大事な話なんだ」
 その響きに笑顔も鈍り、千鶴も重々しく頷かされた。そうして大きく一度深呼吸した博喜を受け、千鶴の肩に力が入る。
「別れよう、千鶴。お互いのために」
「えっ……な、何言ってるの、ヒロ?」
 何なの、別れるって。何がどうなっているの、どうして別れるだなんて言うの。私が嫌いになったの、どこか私に対して気に入らないところでもあるわけなの。それとも、他に好きな人ができたの。それに、お互いのためにって、どう言う事。お互いも何も、私が納得していないのに、わけわかんない。
「俺は今でも千鶴の事が好きだよ。そして、今まで一緒にいて、本当に楽しかった。でも、最近は忙しくて互いに会えなくなりがちになっている。今日だって、遠距離と言うわけじゃないのに、三週間ぶりだ。前は忙しくても頻繁に連絡を取り合い、暇を見付けては会っていたけど、最近だとそれも」
「確かにそうだけどさ。でも」
「俺達、別れた方がいいのかもしれないな。こんな関係のままダラダラと続けていても、お互いのためにならない。駄目になっていく一方だ。千鶴だって、どこかでそう思っていたんじゃないのか」
 そう、かもしれない。ヒロが言うように、私も一人の時はもうこの関係なんて終わっているのかもしれないと、何度か思った。昨日今日はこの日のためにと盛り上がっていたけど、何も無い日はやっぱりそこまで盛り上がれず、自分からメールを出す事もいつの間にか減ってしまっている。たまにデートしても、マンネリだと思う事だって、少なくない。
「でも、私は……納得できない」
 小さく首を横に振り、千鶴は視線を外す。
「千鶴、これはお互いのためなんだよ。俺だって、お前が嫌いになったから別れようとしているんじゃない、お前に幸せになって欲しいからなんだよ。お互いなかなか会えないまま過ごすより、もっと近くにいられる人を探した方が良いんだ。その方が、幸せになれる」
 博喜が言葉を吐き出し終えると、千鶴は苦々しそうに顔を背けた。
「そう、ヒロがそうしたいなら、別れようか」
 こうまで別れようとしているヒロを無理に引き留めたところで、上手くいかないだろう。私のためだとか、もっといい人をだなんて言われて納得なんかできないけど、もうヒロの気持ちは別の方向を向いてしまっている。私が悪いと、ヒロが悪いとはっきり言えない別れだけに、やりきれない。
「ありがとう、千鶴。それじゃ、俺はもう行くよ。長居していると、今は辛くなるから」
 上着とカバンを持ち、博喜が立ち上がったところで、千鶴が慌てて顔を上げた。
「待って、ヒロ」
 靴を履こうとしていた博喜は動きを止め、訝しそうに千鶴の方へ振り向く。その視線に少し臆した千鶴は反射的に目を逸らしたが、博喜に見えないようそっと拳に力を込め、再び視線を合わせた。
「ケーキ、食べていってよ。折角作ったんだし、無駄にするのも勿体無いから」
「……わかった、折角作ってくれたんだからな。これを食べ終えたら、行くよ。この大きさなら、二人で全部食べられるだろうし」
 やや逡巡した様子を見せたものの、博喜は先程と同じ場所に腰を下ろした。二人は静かに顔を見合わせるなり、蚊の鳴くような声でいただきますと言うと、チョコケーキにフォークを突き立て、そっと口に運んだ。美味しいはずのケーキも黙々と口に運ばれていき、千鶴があれほど願っていた笑顔の交換も生まれない。
 フォークと皿がぶつかり合う音、時計が針を進める音だけが響く。口を軽々しく開ける雰囲気ではなくなり、ケーキを食べるか紅茶を飲むかしかできないため、さして時間の経たないうちにケーキは互いの皿に一つだけとなった。二人は手を止め、しばしそれと互いの眼を交互に見遣る。
「これで、終わりか」
 博喜がそう呟くなり、そっとフォークでケーキを切り、口に運んだ。千鶴の方はややしばらくフォークを動かせずにいたが、やがて意を決したらしく、のろのろと動かし始めた。
「ごちそうさま」
 博喜は食べ終えるなり、残っていた紅茶を一気に飲み干した。もう冷たくなっていたため、留まる事無く嚥下される。
「それじゃ、俺はこれで」
「待って」
 再び立ち上がろうとした博喜を千鶴は遮る。
「まだ、私のが残っている。もう少し、待ってよ」
 無言で博喜は腰を落ち着け、じっと千鶴のケーキを見詰める。その視線に促されるかの様に、千鶴は半分程残っているケーキを口に運び始めるが、まるでおもりでも付いているかのごとく、手の動きが鈍い。けれど、確実にケーキは失われていく。
「もういいのか」
 どれくらい経ったろうか、ある時から千鶴はぴたりと手を止め、じっと皿を見詰めたまま動かなくなった。博喜も千鶴の言葉をしばらく黙って待っていたが、幾ら待てどもそのままなので、ついに痺れを切らした。乱雑に上着とカバンを脇に抱え、立ち上がる。
「まだよ。まだ、一口ある」
「ずっとそのままじゃないか。腹一杯なんだろうよ。別に無理して食べる事も無いだろう。二人でケーキ一つなんて、やっぱり大き過ぎたんだ」
「そんなんじゃない」
 うつむいたままだが、力強い言葉に博喜がやや気圧されたものの、すぐに訝しげな視線をぶつけてくる。
「じゃあ、何だよ」
「だって」
 じわりと千鶴の瞳が滲む。
「だって、これを食べたら別れなきゃいけないんでしょ。そんなの嫌、やっぱり嫌よ。このケーキを食べていて思い返していたの、私もヒロも二人一緒によく色んなものを食べて、その度にたくさんの思い出を重ねてきた事を。私はまだ重ねていきたい、でもヒロが別れようとしているなら、無理に引き留めたところで上手くいきっこないって、そう無理矢理自分を納得させようとしたけど、できない。こんなに甘いケーキを、辛い思い出の味にしたくないの」
「千鶴……」
 沈痛な面持ちで博喜が千鶴を見詰める。顔を涙でしとどに濡らした千鶴はそれでもなお、博喜に自分の想いを余す事無く伝えようとしている。
「会えなくなってきたと思うなら、また一緒に会えるようにしようよ。私もなるべく時間を作るようにするからさ。些細な事で全て投げ出すなんて、私達らしくないじゃない。これで終わりじゃなくて、ここから新しい始まりにしようよ。私、ヒロの事好きだよ。でも、好きだから別れようなんて、まだ早い」
 それからしばらく、二人共何も言えなかった。千鶴は答えを待ちながら鼻をすすり、博喜は答えを自分なりに固めようとうつむいたままだ。時計の音が妙に寒々しい。
 突然、博喜が立ち上がった。びくりと肩を震わせ千鶴は見上げたが、すぐにまた目を伏し、肩を落す。そんな千鶴を一瞥すると、博喜は上着だけを手にし、玄関の方へと歩き出す。博喜のカバンがそのままなのを訝しんだ千鶴が再び顔を上げると、博喜は少し照れた様にはにかんでいた。
「ケーキ、買ってくる。今からだとコンビニのやつくらいしか無いだろうけど。千鶴の作ってくれたのはすごく美味しかったよ。甘くて、俺好みだった。でも、色々考えていて、何が何だかよくわからないまま食べちゃったから、その、楽しめなかったんだ。だから今度は笑いながら、今後の事を話し合えるケーキでも食べないか?」
 千鶴は目元を拭い、大きな息を吐く。
「折角作ったのに、何よそれ。二日もかけたのにさ」
「おごってやるから」
「当然よ。じゃあ私、苺のショートがいいな。無かったら……あるまで探してよね。一生懸命作ったのによくわからなかっただなんて言うんだもん、罰だよ」
「善処します」
 出て行く博喜も、見送る千鶴も同じ顔をしていた。ドアが閉まり、部屋に一人残された千鶴に悲しみは無く、今後への少しばかりの不安と、言い表せぬ大きな喜びが混同していた。一つ笑みを漏らしティーカップを口に運んだが、もうすっかり飲み干した後であったのを思い出し、キッチンへと向かう。
 私は色々なチョコが好き。ブランデー入りも、果肉入りも、ビターチョコも好きだけど、やっぱり甘いチョコが好き。私達を繋ぎ止めてくれたあのチョコケーキは甘くて、我ながら美味しくできた。でもやっぱり一番甘いのは、ヒロとの関係でありたい。とろけるくらい甘く、これ以上無いくらい甘いものでありたい。
 だって私は甘党なのだから。