実体無き現に咲く花

狂人の結晶に戻る

 すっかり暗くなった部屋の電気を点け、私は脇目もふらず、真っ直ぐにパソコンラックへと向かう。見慣れたデスクトップ式パソコンの電源を、座り際に点けるとすぐ、起動画面が浮かび上がる。ぼんやりと見てしまうのは安心か、飽きか、疲れか、いや考えるまでもない、そのどれもなんだろうな。
 今日も朝から夕方まで、ほぼずっと大学の講義があった。そろそろ入学して一年になるので、四月よりは慣れてきているし、講義をサボることも覚えてきたけれど、それでも疲れが溜まってしまう。サークルには一応所属しているけど、特に活動熱心とか言うわけでもなく、部室で雑談などをして暇潰ししているようなものなので、まぁ言ってしまえば同じような日々、惰性で生きている感じがする。週四回バイトを入れて働いているけども、それだって一緒。一日一日は決して同じではないけれど、どうして繰り返しのように感じてしまうんだろう。
 パソコンの起動が終了したので、私はすぐにインターネットでニュースを見る。これもまた日課の一つ。ネットで見るニュースは新聞やテレビよりも見やすく、詳しく、それでいて幅広く、芸能や政治、スポーツや世界情勢に犯罪など、気に入ったものだけを見ては一人悦に入る。そして、お気に入りサイトの巡回。誰もがホームページを作れるようになったこの時代だけど、それに比例して面白いと思えるサイトは見えにくくなる。私は主に友人やネットで知り得た人のを、そして自分で偶然見付けたものを見ていく。内容が更新されていると嬉しいけど、そうでないと少しがっかりしてしまう。
 一通りそれらを終えると、今度はチャットソフトを起動した。ネットを介して、リアルタイムで話すことのできるこのソフトに、私は没頭している。話すと言っても、音声ではなく、キーボードで文字を打ち、それで会話しているだけ。文字だけの付き合い、でもそれでいい。
 私は人付き合いが苦手だ。十九年生きているけれど、いい話題を提供したり、流れに乗ってはしゃいだりすることが、どうもできない。相手が自分を見ていることに気付いてしまうと、どうも恥ずかしくなって、何を話したらいいものか困り、そうして無言になってしまい、相手の気を遣わせていると感じて、気まずくなってしまう。だから、はしゃぐなんて以ての外、笑うにしても満面の笑みを忘れてしまったみたいで、目元口元を僅かに歪ませる微笑みしかできなくなってしまった。
 チャットでは相手の素性はおろか、顔も声も知らない。一見すれば、得体の知れない人間の寄り合いなのだが、私にはそれでいい。緊張はするけれど、直接面と向かわないので、まだ大丈夫、それなりにお喋りできる。
 話す人は、この一年でかなり増えた。友人と呼べる人も、かなり増えた。これは本当に嬉しい。その中でも、特に気になっている人が一人だけいる。何と言うか、現実の友人を含め、片手で数えられるくらい信頼できる人。
 彼の名前はタクさん、自称二十一歳の男性。ネット上での、文字のみでのお付き合いだから、それが本当なのかどうかは、わからない。けれど私は、彼に絶大な信頼を寄せている。まだ一年しかお話していないけど、とても。タクさんは少し自虐的で、道化のような笑いを周囲から取る。私はそんなタクさんの姿を見ていると、心苦しくて堪らなくなる時もあるけれど、でもタクさんにはそれを嫌味や感傷と感じさせない明るさと優しさがあり、つい彼の世界に引き込まれてしまう。
 そしてタクさんは、ほぼいつでもいてくれる。初めてチャットに参加した時もタクさんがいてくれて、右も左もわからなく、不安で仕方無かった私に優しく、丁寧に、それでいてユーモアたっぷりに色々なことを教えてくれた。それは今でも変わらず、今日も私がログインすれば、タクさんの名前がある。それを確認すると、一日の疲れもログインする前の緊張も、ふっと和む。私が小林千尋からライムへと変わる瞬間。
 既に何人か参加していて、会話は私が来る前から盛り上がっていたらしく、私への挨拶を済ませると、またすぐお喋りが再開された。しばらく私はどんな話なのか様子を見るけれど、ついついそのまま黙ることが多い。たまに話しかけられても、曖昧な返事しかできない。
 けれど、それは別に会話に参加できない疎外感でもなければ、多数に囲まれて生じる寂しさでもなく、不快などでもない。私はこうした楽しい場に居合わせられる、それ自体が楽しくて仕方無いだけ。
 ゲームや漫画、音楽に小説なら多少知っていることもあるので、会話に参加することもある。だけど、それ以外では適当な相槌と愛想笑い、または無言が多くなってしまう。折角こうして一緒にいるのに、自分の不甲斐無さが悔しい。
 誰にでもそういう部分はあるだろう、タクさんにだってそうした部分がある。だけど彼は自分が知らないような話題にでも参加しようとし、何とか場を盛り上げようと尽力している。たまに行き過ぎて失敗するようなこともあるけれど、それでもタクさんのお喋り目当てで参加する人は多い。私もその一人で、直接お喋りしなくても、傍から見ているだけで楽しくなれる。
 気付けば、もう夜中の二時半。時間が時間だけに、人も大分減った。私もそろそろ寝ようかな。ここはすごく居心地が良いけれど、所詮ネット世界、私には私の生活があって、そっちを優先しないといけない。
 おやすみの挨拶を打とうとしたところで、タクさんからメールを送ったからと言われた。一体どんなメールなんだろう。タクさんからメールをもらうのは、確か初めてのはず。私は不思議に思いつつも、多少の胸の高鳴りを覚え、挨拶を後回しにメールボックスを開いた。確かに新着メールが一件来ている。


 送信者:Taku0521
 日時 :2003年12月22日2.35
 件名 :突然申し訳ありません

 二人きりでお話ししたいことがあります。もしよろしければICMの『Taku0521−n』と言うチャンネルに来て下さい。
 待っています。


 ICMとはチャットソフトの一つで、今こうしてタクさんと話している物とは別物だ。ICMの利点は、リアルタイムで会話ができること。今使っているチャットソフトは、十秒から六十秒までの待機時間があるけれど、ICMにはそれが無い可愛らしいアイコンを使うことができる。
 もう一つのICMの利点は、一対一で話せること。もちろん複数の人と話すこともできるけど、こっそり二人きりで話せる機能も備わっているために、利用者も多い。だから考えてしまう、これを使って話すと言うことは、何か重大な、人に知られたくない秘密の話でもあるのだろうかと。
 再びチャット画面に目を戻し、メールを確認した旨を伝えると、タクさんは一言「ありがとう」とだけ。しばらく彼の言葉を待ってみたけれど、沈黙ばかりが続き、その先へと進む様子は無かった。賑やかな間はそう気にならないけど、こうも静かだと眠くなる。そろそろ三時にもなるし、私はおやすみの挨拶をすると、ログアウトした。
 もう寝よう。そう思い、パソコンの電源を切ろうとしたけれど、妙にメールのことが気にかかった私は、ICMを起動した。メールの通り、指定されたチャンネルに入ると……いた、タクさんがいた。
「こんばんは」
『こんばんは』
 やや遅れて、タクさんも反応する。今はこれ以上の雑談は必要無い。
「それで、お話とは何でしょうか?」
『単刀直入に訊きますけど、ライムさんは俺のこと、どう思っていますか』
 どうって言われても、どうなんだろうか。何を言えばいいんだろう、どう答えるのがいいんだろう、悩んでしまう。しばらく考えて、ようやく適当な答えが見付かったけれども、迷いながらキーボードを打つ。
「タクさんは優しくて、面白くて、私の好きな人の一人です」
 また沈黙。わかっている、この沈黙は私の当たり障りの無い返事のせいだ。私は本当に返すべき答えを先延ばしにして、タクさんを黙らせてしまった。タクさんが何を訊きたかったのか、わかっているつもり。わかっていて、あぁ返してしまう私は卑怯だ、臆病者だ。それに、もし違っていたら恥ずかしいし、何より私にはまだあの事が心に深く残っているから……。
『ありがとう』
 タクさんの反応に、過去を手繰りかけていた私は現実へと引き戻された。いけない、今はタクさんのことに集中しなきゃ失礼だ。
『でも、俺が訊きたいのは』
 緊張が走る、生唾を飲み込む、呼吸が止まる。いよいよ来る、けれど私の気持ちは定まっていない。
『男として、俺のことをどう思っているのかです。俺はライムさんのことが、好きです』
 好きです。好意を抱いている相手にそう言われ、嫌な気分になる人はいないだろう。私だってそうだ。その告白を見た途端、かぁっと頭や頬が熱くなり、胸が心地良い力で締め付けられ、同時に何で私が告白されているんだろう、何で私なんだろう、私のどこがいいんだろうかと思って、浮ついて、そうして色々考えては否定して、でも……あぁ。
 そうして、悲しくなる。タクさんは私を見ていない。タクさんが好きなのは、ネットで生きるライムであって、現実世界で生きる小林千尋ではない。ライムも千尋も同じ私なんだけど、違う、やっぱり違うの。
「タクさん、私そう言われて、すごく嬉しいです。けど、タクさんが好きなのはライムなのであって、現実の私とは違うんだと思います。だから……」
『わかっているつもりだよ。けど、発言を見ていてわかるんだよ、ライムさんはいい人だと、すごく素敵な人だと。だから、現実のライムさんも、俺は知りたいんだ』
「でも、すみません。ライムと現実の私ではやっぱり違いますし、それに私なんかよりタクさんには、もっと相応しい人がいますよ。私には、もったいない人です」
『それでも、俺の好きは変わりません』
 どうしよう、どうしたらいいんだろう。正直、戸惑ってしまう。私はタクさんとこのままの関係でいたい。このまま適度な距離で笑い合い、時に互いの悩みをぶつけ合い、でも深入りしないでいる。ねぇ、それじゃいけないの?
「考えさせて下さい、少し」
『わかった……俺、いつもここにいるから』
 辛い言葉だ。もう私に逃げ道は無く、いずれもう一度ここに戻り、何かしらの答えを出さないといけないんだ。自然消滅は許さない、はっきりとした答えを出して欲しい、そうタクさんは言っている。何でこんな……もう、わけがわからなくなって、嬉しいよりも辛いことの方が大きくなってきている。
「はい……あと、お願いなんですけど、いつものあの場所では、普段通りに」
『こっちこそ』
「それでは、おやすみなさい」
『おやすみ、良い夢を』
 淡々と挨拶を交わしてからログアウトすると、パソコンの電源を切り、パジャマに着替えた。ゆったりとしたパジャマが与えてくれる解放感が眠気を誘い、私は部屋の電気を消すとすぐに布団に潜り込んだ。薄ぼんやりとした景色だけど、これもまた見慣れた物なので、確かな安心をいつも与えてくれる。
 だけど、眠れない。目を閉じ、布団の端をきゅっと掴み、明日の学校のことやサークルのことなどを色々考えたりもするけど、やっぱりダメ、眠れそうにない。何かを考えようとしても、何とか眠ろうとしても、タクさんのことを考えてしまう。
 私はどうしたらいいんだろう。憧れていて、好きでもあったタクさんに、まさか告白されるだなんて思いも寄らなかった。嫌いだなんてことはもちろん無く、私だってそうした人と一緒になりたい。支えて欲しい、甘えたい、そして素敵と思える人に尽くしたい。
 けれど私には、あの事がまだ心に深く残っている。
 今から二年前、私はある男の人と付き合っていた。同じ高校の人で、優しく、面白く、彼と過ごした日々はとても楽しいものだった。唇を重ねている時、永遠に一つになれると思っていた。見詰め合えば、言葉なんかいらないと思えた。でもやっぱり「好きだよ」なんて言われると、世界が滲んだ。彼も私を求めていたし、その中で確かな絆と言うものも実感できていた。
 だけど、終わりなんて呆気ないもの。彼は次第に私から離れていった。求めても返らない日々、尽くしても虚しい日々。何故だろう、どうしてしまったんだろうと、あの頃は毎晩自問自答していた。だけど、幾ら考えても答えなんて出てこなかった。だって、私はそれまでと変わらず接していたつもりだったんだから。一応出る答えが、私に魅力が無いから飽きられた、それしか思いつかなかった。浮気かとも思ったけど、それは結局私に魅力が足り無いせいだろうから。
 でも、違っていた。彼には私の気持ちが重かったみたい。私が必死に尽くす、その姿勢の強さに愛情を返す自信が無くなり、ひいては自分にはもったいない、他の人の方がいいだろうと、一方的に言われてしまった。
 一人になった私は、ひたすら考えた。そうすることで自分を保っていたのかもしれない。彼の言ったことは、体の良い言い訳じゃないのか、どうして尽くすことが悪いのか、彼のワガママなんじゃないだろうか、勝手だ、卑怯だ、ずるいよ……そして、何も思い浮かばなくなった時、初めて涙が出てきた。泣いて、涙に溺れ、苦しみ、そして真っ暗な闇の先にようやく一つの答えが見えてきた。
 私が好かれるはずなんて、無かったんだ。
 ただでさえわからなかった男の人が、余計にわからなくなってしまった。わからないは次第に恐怖となり、ついには人が怖くなった。何を考えているのかわからなくて、怖くて、だから心開けなくなって、いつしか私はインターネットの世界でしか自分を表現できなくなってしまった。
 ネット世界では、忘れることが出来た。例え男と自称する人や、女と自称する人と話していても、そこは文字だけの付き合い。話している相手は確かに存在しているんだけど、付き合わせる顔は仮想現実。私もまた、その一人であり、ライムという仮面を付けて宴に参加している。みんなが何かを演じ、それなりに楽しい場を作っているけど、結局のところ小林千尋には何も入ってこない。
 だけど、タクさんは違う。みんなと同じでネット世界での付き合いだけど、ライムのみでなく、小林千尋に影響を与えてくれる人。だから、そんな彼にあんな事を言われると、現実と虚構がどうしようもないくらいにぶつかり、そうした板挟みの中で……わからなくなってしまう、何もかもが、全然見えてこない。
 考えて、でも一向にわからなくて、どうしようもなくて、いたずらに混乱して、考えているつもりが考えられなくなって、いつしか深海のような眠りの世界へと沈んでいった。

 大学で講義を受けていても、いつも以上に集中できないでいる。教授がホワイトボードをマジックで叩きながら何か言ってるけど、今の私には車の騒音と同じく、あって無いようなもの。ただひたすらに、タクさんのことばかり考えている。
「千尋、何ボーっとしてるのよ」
 我に返ると、親友の真由が立っていた。何で授業中なのにと思い、周囲を見渡してみて、講義が少し前に終わったことを確認すると、私は急に恥ずかしくなって、慌てて筆記用具をカバンに詰める。
「考え事していたんでしょ。千尋ったら、いっつもそうだもんね、何も見えなくなっちゃうんだもん」
「まぁ、ね」
 真由に対して隠し事はできない。彼女とは高校からの付き合いで、前の彼のことも知っている。けれど真由は同情なんてせずに、いつも不敵に笑っては適当な言葉をぶつけてくる。オブラートで包むとか、遠回しに気付かせる、なんてことはしない。それでいい。
「ここじゃ何だし、ゴハン食べに行こうよ」
「学食行こうか」
 昼時だけあって、学食は盛況だった。私達は人混みの中から何とか二人分の席を確保し、ゆっくり食べ始める。次の時間は二人共講義が無いので、都合が良い。
「それで、一体何をそんなに悩んでいるわけ」
 一瞬戸惑ったけど、のらりくらりとするのは真由相手にはできないと思い直し、意を決してキッと向き合おうとしたけれど、やっぱり恥ずかしくて伏し目がちになってしまう。
「……告白されたんだ、昨日」
「相手はどんな人なの?」
 身を乗り出さず、真由は唐揚げを頬張りながら聞き返す。一見すると、友人の一大事に何とも無礼な態度だと映るかもしれないけど、真由らしいこの変わらない態度に私は安心して続きを話せる。
「ネットで知り合った人なんだけど、すごく優しくて、面白くて、いい人なの」
「なら付き合えばいいじゃない」
「でも、ネット上での付き合いの人だから、会おうと思っても、本当にその通りの人なのかわからなくて怖いし、あの時の別れがまだ心にあって、どうも……」
「千尋は付き合いたくないわけ?」
「だから、どうしようか迷っていて」
 視線がゆっくりと下がる。怒られているわけじゃないけれども、真由の顔を直視できない。意気地無しの自分は、親友の言葉すらとも向き合うのを恐れ、一人でいることが寂しいくせに、一人になる道へと目を向けている。
 付き合うことが良くて、付き合わないことが悪いと言うわけじゃない。欲しくないのならば、それでもいい。けれど、私はどこかで誰かを求めている。男の人と一緒にいて、抱き締められたい。本心はそう。でもそれは一番傷付きやすいものだから、どうしても奥底へと隠してしまい、強がっているだけ。
 徐々に暗い思考の海へと沈んで行く中で、一際大きな真由の溜め息が耳に届いた。
「何を迷うわけ、付き合いたいと思っているのなら、過去から脱却したいんでしょ。なら、いつまでもあの頃がなんて比較しないで、何か変わるかもしれない新しい出会いをすればいいじゃない。それに、ネットだからどうこうなんてのは、言い訳だね。ネットだろうが現実だろうが、千尋が好きだと思える人なんでしょ、会えばいいじゃないの。どんな人でも裏表があるんだから、どう知り合おうが一緒なんだからさ」
 真由はいつも真っ直ぐに道を示してくれる。ふらふらとして、結局疲れ諦めてしまう私を、強い力で進ませてくれる。そう、真由の言う通り、私はもう決めかけていた。けれど決心が付かなかったから、背中を押して欲しかっただけ。今はちょっと、すっきりした。
「そうだね、真由の言う通りだと思う。会わないとわからないよね、どんな人も」
「そう、嫌な人じゃないと思ったら、どんどん出会っていく方がいいよ。出会わなければ、止まるだけ。ううん、時間は何もしない人を腐らせていくの。辛いことも体験しなきゃ、大きくなれない。大きくなったら、今より大きな幸せを実感できるようになれるんだよ」
「辛いことがわかるから、些細な幸せもわかる、だっけ?」
「そう」
「好きだよね、その言葉。私も気に入っているけどさ」
「いい言葉だって、ようやくわかってくれたかな。だったら、もっと尊敬してもいいんだよ、ほれほれ」
 不遜に微笑む真由に、つられて私も笑う。本当に真由と友達でよかった。実際にそんなことは恥ずかしいから言わないけれど、互いに分かり合えている。私は幸せ者だ。

 帰宅し、入浴や食事など一通り済ませてから、パソコンを点けた。気持ちは、やっぱり揺らいでいる。真由に言われていた時は、そうしなければいけないと強く思っていた。でも一人になると、やっぱり迷う。弱いなぁ、本当に……。
 起動画面から、いつものデスクトップへと移る。日課となったニュースを見、サイト巡回をし、そうして……いつものチャットには顔を出さず、ICMに繋ぐ。果たしてタクさんはいるだろうか。いたら、何を話せばいいのだろうか。短い起動時間の中で、不安が際限無く膨れ上がり、そうして起動画面からチャットルームへと表示画面が切り替わった瞬間、かあっと頭が熱くなり、目の前が白んだ。
 タクさんはいた。私は震える胸を唇と共に引き締めると、挨拶をする。あぁ、一体これからどうなってしまうのだろう。
『こんばんは』
 数十秒の間の後、タクさんから挨拶が返ってきた。何気無い返事、だけど今日は特別な返事。だって、そう言われた瞬間に、私の目の前にはっきりと道が見えたのだから。
『今日はあっちに入っていないんだね』
「はい、タクさんと昨日のこと、話したくて」
 紛れも無い気持ち。
『そっか、それで……答えを決めてくれた?』
「はい、決めました」
 この気持ち膨らませ、共に過ごしたい。
「私、タクさんが好きです。私もタクさんのこと、ずっと好きでした」
 打ち終わった直後から、どうしても訪れる重たい沈黙は、顔を合わせていないからこそのもの。一体どんな表情をしているのだろうか。タクさんは打つのが早い方だけど、この僅かな間さえ堪らない。わかっている答えだけれども、もしかして心変わりがあるかも、なんて思う。待つのは長い、どんどん不安になり、でも信じようとするから、胸が苦しくなる。
『ありがとう』
 見慣れた、聞き慣れた言葉。今までに何度と無く接したその言葉が、まるで初めての輝きを持って、私の心に響いた。嬉しくて、恥ずかしくて、もう今すぐにでも見詰め合って微笑んで、抱き締め合いたい。気持ちが通じ合える瞬間は、どんな人でも嬉しいものだ。けれど、その中でも好きな人とは、特別。あぁ、その想像の欠片ですら、私は身悶えしてしまっている。
「タクさん、私こそ、ありがとうって言いたいです。だって私、出会えただけでも幸せなのに、こんな……」
『俺の台詞を取らないでくれよ。まったく、本当に嬉しくって、なぁ』
 いつもの軽口か、本心かはわからない。だけど、そんなところが私の好きなタクさんであり、安心する。何だろう、もう恥ずかしいとか嬉しいとかを超えて、視界が揺れた。
『ところで、ライムさんはK市だよね』
「そうですけど」
『じゃあさ……会わないかな?』
 覚悟していた言葉は、思いの外早く訪れた。会うべき、なんだろうな。でもこうしてネット上で告白されただけだから、まだ直接会うことも無いかもしれない。タクさんだって、きっとわかってくれるだろう。焦らず、時間をかけてお互い理解し合い、それから……。
『あ、もし気持ちの整理とかが着いていないのなら、また今度でもいいよ。困らせて、ごめんね』
 ダメだ、そんなことしていたら、いつまでもこのままの私。真由の言葉を思い出すんだ。迷っちゃダメ、疑っちゃダメ。私が好きになった人じゃない。目の前に幸せがある、それは信じていないと、すぐどこかへと消えてしまう。
「あの、わかりました。よろしくお願いします」
『えっ、それって……』
「お会いしましょう、タクさん」
 真由、ようやく一歩踏み出せたよ。
『じゃあさ、明日の夕方六時、K市S駅の改札口前でどうかな』
「はい、わかりました」
 S駅は私の家から少し離れているけれど、電車を使えば十五分とかからない。明日は学校も無いので、会うには丁度良いだろう。
『俺は黒のジャンバーに濃い青のジーンズ。あぁ、これだけじゃわからないだろうから、そうだな……缶コーヒーでも持って待っているよ』
「わかりました。それでは、明日お会いしましょう」
『楽しみに待っています』
「私も、です。それではおやすみなさい」
『あ、待って。最後に一つ』
 ログアウトしかけたのを止め、タクさんの言葉を待つ。何だろう、明日のことだろうか。
『今日は本当にありがとう。これからも、よろしくお願いします』
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
 ふざけた話から、真面目な話まで幅広く、場面や状況に応じて使い分けられる、実にタクさんらしい締めに、私は笑顔を思い出せた。ログアウトした私はそのままパソコンの電源をも切り、布団に潜り込む。少し早いけれど、今日はもうこれでいい。タクさんと話せた、それで充分。今はただ、明日への期待と不安で胸が一杯になっている。
 何を着ていこうか、どんな顔で会おうか、昨日とはまた違った意味で眠れない。早く寝ないと寝不足になって、変な顔になってしまう。タクさんに笑われるかもしれない、そんなのは嫌。ただでさえ自分の容姿に自信が無いと言うのに、これ以上ひどくなったりでもしたら……はぁ、不安になってきた。
「迷ったらダメ、真っ直ぐに行くだけ。考えても変わらないのなら、現実を受け止め、自分の心に誠実に。相手に優しく、何があってもこの気持ちを忘れないように、忘れないように……」
 布団の端を握り締めながら、必死に自分に言い聞かせる。数少ない、私の信条。これを守れば何だって大丈夫、間違ってなんかいない生き方だから。そう、私はもっと、私を信じないといけないんだろうな。

 夕方、何度も何度も鏡の前で身なりをチェックしてから、家を出た。髪型も整っている、服装もきっと変ではないだろう。あれだけ心配していた寝不足の影響も、とりあえず無いみたいだ。念入りに歯も磨いてきたから、口臭も大丈夫だろうと、ここまできてようやく少し恥ずかしくなった。別に特別な期待なんてしていない。ただのエチケット、あぁ、もう、そう思う程に益々まごついてしまう。
 約束の十五分前に、駅に着いた。少し早いかもしれないけど、タクさんを待たせるわけにはいかない。ううん、もしかしたらもういるかもしれないと、ひしめき合う人混みの中から、タクさんを探す。黒いジャンバー、濃い青のジーンズの男性を何人か見かけ、その度にドキリとするけど、手を見て何も持っていないのを確認しては、肩が下がる。一体誰がタクさんなんだろう。
 ふと、改札口近くの柱に凭れ掛かっている、約束の服装をした男性が目に付いた。彼はおもむろにジャンバーのポケットから缶コーヒーを取り出すと、呑むこと無く、じっと見詰めては周囲を見回している。
 タクさんだ。私ははやる気持ちを抑え、彼を見詰めながらゆっくりと近付く。タクさんは少しうつむいていたけれど、やがて私に気付いたのか、ふと顔を上げ、見詰め返し、無邪気に笑い、少し照れたように缶コーヒーを一口飲むと、もう一度笑った。きっと私も、同じような表情をしていることだろう。
 私とタクさんの距離が、手を伸ばせば触れられるくらいまで縮まると、互いに少し照れた様にうつむき、微笑みながらも、何とか瞳を見つめ合う。
「あの、タクさんですか……?」
「はい、そうです。初めまして」
「初めまして」
 いつも会っていたのに、初めて会う。何とも奇妙な感覚だ。タクさんも同じなのか、何だか口を開きにくそうにまごついている。
「えっと、会っていきなりですけど」
 何だろう、何か変なところでもあるのだろうか。私は笑顔を崩さず、でも内心不安でどうしようもなく、最悪の事態をも想定し、覚悟を固めた。口ごもっているタクさんが、怖い。あぁ、お願いだから、悲しいことはやめて。
「メリークリスマス、ライムさん」
「あ……メリークリスマス」
 今日は十二月二十四日、クリスマスイヴ。特別な日に心躍らされたわけじゃない。けれど、私はこの言葉がとても心に響き、一斉に不安が消え、タクさんの笑顔に胸が熱くなったが早いか、満面の笑みを浮かべていた。
 私の進む道に、タクさんとの未来に、幸あれ。