追憶のディスク

狂人の結晶に戻る

 突然消えてしまうものに、人は大きな悲しみを抱く。それが愛着あるものならば、尚更だ。人でも、物でもいい。朝目覚め、そこにあるべきものが無いと気付いた時、一頻り途方に暮れた後、悲しみの底へと落ちていく。
 では、徐々に消えていったとしたら、人は悲しまないのかと言われると、そんなことは決してないだろう。その悲しみは突然のそれとは違う。徐々にの方は悲しみよりも、恐怖が先立つ。日に日に弱る人、刻一刻と崩れていく史跡、ほつれる上着。何もしてやることのできぬまま、ゆっくりと消えていくものを見詰めることは、己の無力を思い知らされ、いつか自分もそうなるのかとさえ思う。
 私は怖い。消えるのが怖い。
 八十余年の人生において、様々の消失を体験してきた。あぁよかった、もう二度と現れないでくれと言ったものから、取り返しのつかないものまで、実に多くのものを失ってきた。その度に、それらは思い出や記憶として、私の心に深く刻み込まれてきたが、私も年だ、老いにはどうあがいても、勝てない。今度はその記憶自体が、消えてきた。
 昨日まで、いや、つい先程まで覚えていたことが、突然切り取られたように無くなる。また、段々と断片化していき、薄れ、果てに消えてしまう。あんなにも強い衝撃があったのに、何もかも残らなくなっていく。自分が消えてしまう錯覚すら覚える。結局何も残らないのだとしたら、自分は一体何のために生きてきたのだ。
 幼い頃の温もり、青春の感動、結婚、辛くもあったが生き甲斐を感じていた仕事、数え上げればきりが無い思い出の数々。その中には生きているという、確かな実感があった。
 引退してからと言うもの、それは無くなってしまった。思い出らしい思い出がほとんど無く、この二十年間はひたすら過去の思い出を食い潰してきた。あの頃の輝きが強くて、そればかりを見ていた。
 今この老いた体では、あの頃と同じような日々を体験したくとも、できない。思い出のきっかけも、それを求める意欲も無い。だが、常々それが訪れることを渇望している。怠惰な夢想家、夢見がちの懐古主義者。思えば若い頃は、日々何かしらの出来事があった。考える間も無い程、刺激を与えられた。そしてそれを求めた。あぁ、年を取ると、それも与えられぬまま消えていく宿命なのだろうか。
 思い出はガムを噛んでいるように、段々と味が消え、分裂し、いつの間にか無くなる。嫌だ。このまま何もかも忘れ、消えるのには耐えられない。どうせ長くはないだろうし、充分生きた。このままゆっくり消えてしまうより、今一度あの日々を体験したい。あの頃の自分に、もう一度会いたい。
 私は決心を固め、それなりの金を持つと、最寄りの電子記憶館へと急いだ。
 そこは十年程前からサービスが提供された、所謂脳にある記憶を画像や映像にしてくれる場所である。元が写真屋であるところが多いのは、きっと画像の取り扱いに長けているからだろう。近年それは益々進化し、最近では記憶を復元して、夢を見るかのように追体験できるとのこと。もう一度あの頃を求める私には、うってつけの代物だ。この期待、不安と恍惚、忘れていた。私は店の前で一つ深呼吸をしてから、平素を装い入店した。
 店内は意外にもアナログな感じを漂わせる造りだった。ゆったりしたクラシック、木目調の壁、セピア色のの写真。それだけで遠い昔に戻ったかのような感覚を覚えていると、物静かそうな店員と思しき青年が現れた。
「いらっしゃいませ、本日はどのような御用件でしょうか」
「忘れた記憶を体験させてくれると言うのを、お願いしたくて。この年になると、色々忘れがちで、昔を思い出したくなってね」
「お客様くらいの年代の需要が多いんですよ。これはそのためのシステムですしね。わかりました、それではこちらに」
 そう言うと、青年は私を先導してくれた。カウンターの側にある、奥へ続く廊下を進み、突き当たりのドアを開けてくれた。私は恐る恐る、その室内へと立ち入る。
 そこには何種類かの電子機器と、そこから伸びているコードが何本もくっついた、ヘッドギアのようなものが、安楽椅子の隣に置いてあった。おおよそ写真館とは思えぬ、どちらかと言えば病院を彷彿とさせる景観に、私はただただ圧倒される。これがそうなのか。見ても何がどんな役割を果たすのかなど、さっぱり理解できないが、ともかくこれが失われた思い出を蘇らせてくれるのかと思うと、胸が締め付けられてくる。
「一つ、忠告しておきます」
 不意の発言に驚き、振り返る。青年はゆっくりと私の前に出ると、それまでよりも幾分か厳かな顔付きで、私を見詰めてきた。
「その時の思い出というものは、後で懐かしむものであって、体験するものではないと、私は考えております」
「店員の言葉じゃないね」
「失礼致しました。それでですが、いきなり全てを体験するのも何だと思いまして、一部の記憶のみを復元する体験版があるんですよ。それならば無料で、その一部をディスクに保存し、提供致しましょう。再生のための機器のレンタル料は、三日以内でしたらタダです」
 体験版か。確かにどんなものかわからない以上、その方が無難だ。全ての記憶復元と再生機のレンタル料を会わせると、結構な金額になる。期待外れのものに大金を払うのは、惜しい。
 とりあえず私は体験版コースの手続きを済ませると、安楽椅子に座り、ヘッドギアをかぶせられた。耳には何もつけていないのに、ゆったりとした音楽が聞こえる。普段聴かないようなヒーリング系、それでも心地良い響きだ。非常に落ち着き、ゆらゆらと水辺に漂っているかのような感覚。眠くなってきた。

 ふと気付けば、見覚えのある場所にいた。ここは高校だ。庭木を見る限り、季節は秋だろうか。懐かしい匂いがする。この感覚、正に若い時の自分だ。素晴らしい。
 そんな感傷に浸る間も無く、私は勝手に走り出した。そうか、思い出だから自由には動けないんだ。妙に納得しながら、夕暮れの街を走る。夢のようだ、こんなに走ってもあまり息が切れないなんて。しかし、どこへ向かうのだろうか。
 着いた先は、児童公園だった。この公園も今は宅地開発で取り壊されてしまったが、昔はよく使ったものだ。ここにも、色々な思い出が詰まっている。あぁ、しかし走り過ぎたかな。さすがに動悸が激しい。
 待てよ、高校の秋、そしてこの公園だと。だとしたら、この動悸はただの息切れによるものじゃない。まさか、この思い出とは。
 視線が動いた。その先には見覚えのある女学生が、こちらへ向かってきている。そうだ、これは告白の時だ。高校の時に最も熱を上げていた人への告白。この時は青臭いことしか言えず、相手のことも考えなかった結果、失敗したんだ。まさか、まさか。
 意に反し、口が開く。
「突然呼び出したりして、ごめん。でも俺、どうしても伝えたいことがあるんだ」
「えっ、うん」
 やめろ、やめるんだ。それを言うな。
 だが止まらない。鼓動は早まり、爆発しそうな程になっている。視界が僅かに狭まり、頭が熱く白くなっていく。
「俺、お前のことが、ずっと好きだったんだ」
 例えようもない羞恥。悶えても悶えきれぬ程、すさまじい。逃げたい、今すぐここから。けれど、足は震えるばかりで動き出そうとはしない。彼女は唖然として私を見ている。やめてくれ、そんな瞳で見ないでくれ。
「付き合って欲しい。俺はもう、君無しの毎日なんて、考えられないんだ」
 自分の鼓動がやけに大きく聞こえる中で、全ての時間が止まり、どんな小さな音でも聞き取れそうだ。あぁ、だけど、もう沢山だ。止めてくれ。このままだと発狂してしまいそうだ。結果を知っているだけに、辛い。何の希望も無い。
 うつむいていた彼女は、ゆっくりと顔を上げる。泣きそうな表情。嬉しさを微塵も見出せないその顔を見た瞬間、心にヒビが入ったかのような痛みが、深く鋭く私を抉った。
「ごめんなさい。私、瀬川君をそういう風に見れない。本当に、ごめんなさい」
 自分の中の、時間が止まった。何もかも、灰色の沈黙。全てが虚構のように思え、眩暈にも似た暗さが広がる。何も考えられない。踵を返し、走り去る彼女を呆然と見詰めるだけ。終わったんだ、何もかもが。

「終了ですよ」
 肩を叩かれ、目を覚ませば、あの青年が微笑んでいた。そうだ、私はもう高校生ではない、ただの老人なのだ。だけどこの胸に広がり、未だ消えない気持ちは何だ。得も言えぬ悲しみと絶望が、私を苛む。そんな拭いきれぬ気持ちに翻弄されていると、青年は私が装着していたヘッドギアを外してくれた。
「いかがでしたでしょうか。お客様の思い出の中でも印象深いものを、ランダムで一つ再生させていただきました」
 私は何も言えぬまま、呆然と青年を見詰めていた。まだどちらが本当の現実なのか、把握しきれていない。そんな状態の客に慣れているのか、青年は特に訝しむこともなく、私に一枚のディスクを差し出した。
「これがそのディスクです。再生のために必要な機器は、後程お送り致します。期間は明日から三日間。それを過ぎますと、レンタル料が発生致しますので、御注意を。あと、そのディスクは無料進呈ですので、どうぞ御自由に」
 ディスクを受け取ると、私はふらふらとした足取りで、店を出た。夢を見ている感覚はまだあったが、次第に落ち着き、この自分こそ現実なのだと再確認できるまでになってきた。
 幾らか歩くと、私はふと手にしているディスクを見詰めた。
「思い出も、あの人が言っていたように、その時にしか体験できないものなんだな。今では許容量を超えてしまい、受け止めきれない。あの頃には、もう戻れない。戻れたとしても、所詮思い出だ、変えられない。後悔するだけだ」
 私はディスクを地面に叩きつけた。ケースが割れ、剥き出しとなったディスクを、足で踏みにじる。これでもう再生できないだろう。
「これでいいんだ。私は老いた、思い出は断片的に見て、美しく感じるのが、きっと最良なんだ。そのために、人は忘れるんだ」
 寂しく微笑み、私は踵を返した。