八月十四日 火曜日

 カーテンの隙間から射し込む朝日が、瞼の上から網膜を焼く。
「ん、まだ七時半か……」
 いつもならもうあと三時間は寝ているのだが、今日と言う日に少なからず興奮していたためか、意外に早く目を覚ましてしまった。
 もう少しだけ寝ようかとも考えたが、折角の外出だ。早起きしてみるのも悪くはない。
 しかし、こんなんで早起きするなんて、ガキみたいだな。
 冬馬は大きく伸びをすると、布団から出た。枕元に置いてある眼鏡をかけ、久々に朝食をとろうかと思い、書斎を出た。
 リビングに佐倉さんの姿は無かった。台所や洗面所を覗いてみるが、どこにもいない。となると、まだ寝ているのだろうか?
 仕方ない、起こしてやるか。
 冬馬は寝室の襖を開けた。
「―─!」
 眼前の光景に冬馬は声も出せなかった。襖を開けたその先は、渚が丁度着替えをしている最中だった。それもタンスからブラジャーを探している最中だったのだろう、胸はあらわになっていた。かろうじてショーツは履いているものの、その姿は全裸に近い。
 まさか冬馬がこんなに早く起きるとは夢にも思っていなかった渚も、突然のことに頭が真っ白になっていた。隠すことも忘れ、そのままの姿勢で硬直している。
「……」
「……」
 ……どうしよう。
 そうは思っていても、自ずと冬馬の瞳は渚の裸を映してしまう。
 無駄の無いボディラインを強調するような乳房。決して大きくはないのだが、美乳と言える類いのものであると言える。その頂にはほんのりと赤みを帯びた可愛らしい乳首が二つ。お尻はどれ程のものか良くわからないけど、唯一ショーツが青だと言うことだけはわかった。
「あの、先生……」
 少し下がった冬馬の視線に耐えられなくなったのか、渚がおずおずと口を開いた。冬馬もその言葉で我に返ったが、依然動けなかった。
「その……閉めてくれませんか」
「あ、ああ、悪い」
 冬馬は慌てて謝りながら襖を閉めた。
 台所で麦茶を飲み、一息ついてからソファに腰を下ろした。昨日願った通り今日も晴れているが、冬馬の頭はそれどころでなかった。ほんの一分前の渚の姿が今も鮮明に浮かんでいる。
 悪いことしたなー。
 いくばくかの罪悪感が胸を占める。やはり一声かけてから入った方が良かったのだろう。
 だが、それ以上に言い知れぬ喜びが冬馬の頬を緩めていた。
 ……でもラッキー。
 希美以来女を抱くことも風俗に行くことも無かったため、久々に生身の女の裸を見た冬馬は、もう一度思い返しては早起きは三文の徳と言う言葉を噛み締めていた。
 ややあって渚が寝室から出てきた。初日に訪れた時と同じノースリーブの青いシャツにオフホワイトのスカートという格好だ。だがその下は先程見た華奢な体を青い下着で包んでいるのだろう。
「あの、どうしました先生?」
 恥ずかしそうにおずおずと訊ねる渚に、冬馬はまるで何事も無かったかのように冷静に振る舞う。
「ああ、メシにしてくれないか。腹減ったし、今日は早く出ようと思っているから」
「あ……、はい。わかりました。すぐ作りますから、少々待っていて下さいね」
 渚は笑顔を作ると、エプロンを着け、台所に立った。冬馬はそれと同時に玄関へ行き、朝刊を手にする。
 一面はギリシアで大規模な地震が起こり、多数の死傷者を出したと言うものだった。だが、所詮は対岸の火事。実感があまり無い。まあ、何が起こっても俺の身に不利益が被られなければ良いんだ。
 そうこうしているうちに渚が朝食を運んできた。メニューは目玉焼きに味噌汁などといった簡単な和食。ま、朝はこのくらいで良い。
「今日はどこに行こうか」
 口の中に残っていた目玉焼きの黄身を味噌汁で流す。
「うーん、先生にお任せします」
 予想通りの反応だが、こういうのが一番困る。どこに行こうかと訊いているのは俺の方なのに……。
「特に行きたいと思うとこは無いの? ほら、遠慮なんてしなくていいから」
「ええと……、特にこれといって思いつきません。私、こうして遊びに行くの初めてなんで、どこに行けば良いのかわからないんです。だから先生が連れて行ってくれるところは、きっとどこでも楽しいと思います」
 プレッシャーかけること言うなよ。でも、今までこうして遊んだこと無いなんて、佐倉さんも出無精なのか?
「俺が全部決めていいの?」
「はい」
「そんじゃ、ラブホテルだな」
「……先生」
 しまった、怒ってる。
「冗談だって。本当はちゃんと決めてあるよ」
「あ、そうなんですか。私、これでも今日を楽しみにしていたんで、そう言って下さると嬉しいです」
 安心したように微笑む佐倉さんを見ていると、実はまだどこへ行くかさっぱり考えていないとは言えなくなってしまった。
「……そうか。ま、ご期待に添えられるよう努力しますよ、佐倉様」
「え、え、そんなかしこまらないで下さいよ先生〜」
 慇懃に頭を下げる冬馬に、渚は困ったようにそれを手で制した。
 朝食を終え、あらかた支度も整えて家を出る頃にはもう十時を回っていた。
「今日も暑いね」
「そうですね。でも気持ち良いですよ」
 久々にゆったりと外の空気を吸ってみると、焼けたアスファルトの匂いがした。天気予報では今日の最高気温は三十五℃らしい。昼前でこんなに暑いのなら、太陽が南中に昇った頃には本当に溶けてしまいそうだ。
「ところで、どこへ向かっているんですか?」
 冬馬は意味深に口の端を歪める。
「駅前にあるイイトコだよ」
「イイトコ……ですか?」
 不安げな瞳を渚が覗かせる。
「そう。何が良いのかは、着いてからのお楽しみー」
「はぁ……」
 何も掴めずに曖昧に頷くだけの佐倉さんを連れ、俺はとりあえず駅前へと向かった。
「着いたぞ」
「あ、ここは……」
「ボウリング場だ。さ、入ろうか」
 平日の昼前だけあってさすがに空いていた。客の入りは四割程度と言うとこだろう。冬馬と渚は手続きを済ませると、指定されたレーンへと足を向けた。
「ボウリングって初めてなんですよ」
「へぇー、そうなんだ」
 荷物を置き、ボールを選んでいると佐倉さんがそう告白してきた。まあ、そういう人は割といるので何の不思議も無いのだろうが、俺にとっては驚きだった。
「先生はよく来られるんですか?」
「最近はあまり来てなかったけど、前はよくやっていたよ。一応四歳の頃からやっているからな」
「そうなんですか。それじゃ、もしよろしければ教えていただけませんか」
「ああ、いいよ。じゃ、とりあえずボールからだな。佐倉さんだったら八ポンドくらいで丁度良いのかな。ほら、ここに中指と薬指、そして親指を入れて持ってみて」
 冬馬に言われた通り、渚は八ポンド球を持ってみた。見た感じ丁度良さそうだ。
「どう、きつかったり緩かったりしない?」
「いえ、丁度良いです」
 渚のボールが決まると、冬馬は十五ポンド球を選び、レーンへと戻った。
 最初に投げるのは冬馬だった。
「いいか、良く見てろよ。こうやって投げるんだ」
 狙いを定め、ゆっくりとテイクバックしてから一気に投げる。ボールはまっすぐ伸びていったが、一ピンだけ残ってしまった。久々にしては上出来だろう。
「わわっ、すごいです」
「見たかい。こうして腕をまっすぐに振ればピンは倒れるからな」
「はい」
 冬馬は二投目もそつなくこなし、スペアを取った。そして渚の番となる。
「えっと、こうですか」
 渚がボールを胸元にかまえる。
「そうそう。それで三、四歩前に進んで、左足を前に出しながら腕をまっすぐに振るんだ」
 冬馬の指示通り渚は投げてみた。が、ボールはレーンの半分程でガーターゾーンに落ちてしまった。
「難しいですね」
 照れ笑いを浮かべながら渚は冬馬の許へと戻った。
「腕がまっすぐ振れていないからガーターになるんだよ。ほら、今度はそこに気を付けてやってみな」
 ボールが戻ってきたので、渚はもう一度かまえた。その後ろから冬馬が抱き着くように、手ずから教える。
「いいか、このまま歩いて行って、心無しか左に投げるようにするんだ。こういう具合に投げるんだぞ」
 俺は佐倉さんの手を取り、投げ方を指導する。真剣に教えているつもりでも、どうも役得だと思ってしまうのは仕方ない。
「はい、わかりました」
 冬馬の指示通り、もう一度投げてみた。するとボールはまっすぐ転がり、七ピン倒れた。
「あっ、倒れましたよ」
「うん、巧い巧い。筋が良いんじゃないの?」
「そんなこと無いですよ。先生の教え方が良かったからですよ」
 渚は照れつつも、素直にこの結果を喜んだ。
 それから二ゲーム程投げて、ボウリングは終了した。冬馬は一五二と一四七、渚が六九と八一と言う結果に終わった。
「先生すごいですねー」
「いやいや、今日は調子が良かったんだよ。そう言う佐倉さんだって初めてなのにストライクも取ったし、スコアだってそんなに悪くないじゃない。上出来だよ」
「そうですか? でも先生にそう言われると嬉しいです。ボウリングって楽しいですね」
「ああ、久々に良い汗かいた気がするよ。また暇があったら来ようか」
「はい」
 体を動かしたせいか、気分が良いのと相成って腹も減ってきた。時計を見てみると、もうそろそろ十二時半になろうとしている。
「それじゃ、メシでも食うか。何食べたい?あ、何でもいいってのは無しな」
「うーん、熱いものでなければ」
「そっか、それならソバでも食うか。この近くに割と美味いソバ屋があるんだけど、行ってみる?」
「はい。お願いします」
 冬馬と渚はボウリング場を出ると、ソバ屋へと向かった。
 大した距離でもないのだが、今まで冷房の効いた室内にいたため、耐え難い程暑く蒸している外気には閉口する思いだった。まるで地球全体がサウナになったような気がして、俺はただ「暑い暑い」と連呼していた。
 それでも五分程歩くと、冬馬推奨のソバ屋に着いた。外見はいかにも昭和初期に建てられたような造りだったが、中はそれほどでもなく、むしろ木造のシックな感じが涼しさと好感を持たせていた。
「らっしゃい、何にします?」
 席に着くと威勢の良い初老の店主が注文を取りに来た。冬馬はメニューと渚を一瞥する。渚は何も言わずただ頷いた。
「鴨せいろ二つ」
 店主が厨房に戻ると渚はもう一度店内を見回してから冬馬の方に向き直った。
「よく来られるんですか?」
「んー、書くのに詰まった時に気分転換としてね。大体ボウリングをした後に来るんだ。佐倉さんはそういう店とか無いの?」
「あまり無いですね」
 まあ、佐倉さんくらいの年でそういう店を持ってる方が少ないだろう。
「そうなんだ。じゃあストレスとか溜まった時はどうしてるの?」
「そういう時はお散歩します。お天気の良い日に空を見上げながら歩いていると、嫌なこととか全部消えていく気がするんですよ。あ、でも元々私、そんなにストレスとか溜まる方じゃないんです。先生はどうなんですか?」
「俺は溜まるな。気がちっちゃいくせに怒りやすいから、大抵腹が立ってもいてもぐっと堪えて笑って、自分の中に溜め込んでしまうんだ。だからそういう時は好きな音楽を聴きながら酒を呑んだりして、嫌なことを忘れようとするな。後は、誰かと話していると気が楽になったりするけどね」
「あ、それは私も同じです」
 そうこうしていると注文した鴨せいろが運ばれてきた。
「あ、美味しいですね」
 一口ソバを啜ると、渚は顔を綻ばせながら冬馬を見た。
「そうだろ。ここの鴨せいろは俺のお気に入りの一つなんだ」
「そうなんですか。でもその気持ち良くわかります。本当に美味しいんで」
「そうか。そう言ってもらえると連れてきた甲斐があるよ」
「いえいえ、私の方こそ」
 渚は両手を小さく振りながら、目線を少し逸らした。
「ま、楽しんでくれているのなら嬉しいよ」
「はい。あ、そうだ先生」
「何?」
「次はどこへ連れて行ってくれるんですか?」
「おいおい、もう次かよ」
 冬馬は苦笑いを浮かべる。
「あ、その、すみません」
「いや、いい。次か、次はそうだな……電車にでも乗るか」
「電車、ですか」
「ああ」
「えへへ、どこに連れて行ってくれるか、おソバを食べながら楽しみにしていますね」
「その前にソバを楽しんでくれ」
 佐倉さんはばつが悪そうにうつむき、照れ笑いを浮かべた。
 昼食を終えると冬馬と渚は電車に乗った。
 駅近くは夏休みだけあって親子連れや恋人達と言った海水浴客でにぎわっている。
「結構人がいますね。ところでこれからどこに行くんですか?」
「海」
「えっ、でも私泳げませんし、それに水着も持ってきてませんよ」
「いいんだよ。海を見ながらカキ氷を食べてるだけでも割と良いもんだぞ」
「あ、そうですね」
 納得したように渚は手を合わせた。
 駅から幾らか歩き、浜に着くと、冬馬と渚は海の家に腰を落ち着け、カキ氷を注文した。
 この陽気のせいか、砂浜は人々で溢れ返っている。水辺ではしゃぐ子供やカップル達。泳ぎ疲れたのか肌を焼いている地元と思しき老人。逆にパラソルの下で日に焼かれぬよう、目にタオルを被せながら昼寝をしている中年女性。そんな多種多様な人々がここに集まっては夏を全身で感じていた。
「海は好きかい?」
 カキ氷を頬張りながら冬馬は渚の方を見た。
「はい、好きです。先生もお好きですよね?」
「ああ。山よりは海、冬よりは夏の方が好きだな。でも欲を言えばもう少し静かな海の方が良いんだけどね」
「そうですね。でもこうしたにぎやかなのも私は好きですよ。あ、そしたら瑞穂さんも誘えばよかったですね」
「いや、辛島はいらん。アイツがいるとうるさくて仕方ない」
 頭が痛いのはカキ氷のせいだけではないだろう。俺は片手で頭を押さえた。
「でも先生と瑞穂さんて、とっても仲良しですよね。いつもああなんですか?」
「まぁ、な。辛島とは付き合いが長いし、妙に気が合うしな。アイツと話していると時々女だっていうのを忘れちゃうんだよ。考え方は男っぽいし、ガサツだし……」
 辛島か。今頃くしゃみでもしてるかな?
「でもまあ、だからこそヘタな女と話しているよか、気が楽だけどな」
「先生はその……、瑞穂さんとお付き合いなさっているんですか?」
 渚のあまりな言葉に、冬馬は思わず目を点にしてしまった。
「はっ?」
「いや、だからあの、ほら、先生と瑞穂さんてお似合いの二人だなぁって」
 しどろもどろになりながら続ける渚を、冬馬は苦笑いを浮かべて見ていた。
「冗談よしてくれ。辛島が俺の恋人だなんて夢でも見たくないよ」
「でも瑞穂さんは良い人ですよ」
 何が言いたいんだ?
「そうだけどさ、でも良い人だからってそういう恋愛対象になるわけじゃないだろ。アイツはただの酒呑み友達。それ以下ではあっても、以上ではないな」
「そうなんですか?」
 何で佐倉さんは執拗なまでにそんなことを訊いてくるのだろうか? 
 はたと思い至り、俺はカキ氷を食べる手を止めた。
 ……もしかして俺に探りを入れてきているのか?
 いや、幾ら何でもそりゃ考え過ぎだな。ムシが良過ぎる妄想だ。俺も大分浮かれているな。
 ……でも、もしかして少しでも俺に気があるとしたら、だとしたら……俺はどうしたら良いのだろうか?
 手前勝手な妄想の中に希美の顔が浮かぶ。
 誰かを好きになったり、好かれたりすると、また希美との二の舞になってしまう。
 ……でも、こんな娘に好かれるのは悪い気がしない。
 そんな葛藤に夢中になっていると、渚が冬馬の顔を不思議そうに覗き込んできた。
「あの、どうしました先生?」
「ん、ああ、いや別に」
「そうですか。私はてっきりまた小説のことでも考えているのかと思ってました」
「いやいや、そんなことは無いよ。今日はそれを忘れるためにここに来ているんだから」
「そうでしたね」
 会話が途切れ、冬馬と渚の間にゆっくりと沈黙が訪れた。人々の喧騒の隙間から寄せては返す波の音が響いてくる。少しぜいたくな夏の日の昼下がり。冬馬は自然な感じで海に目を遣った。渚もそれにならう。
 ある種素敵とも言えるそんなムードの中、それとは裏腹に冬馬の心は激しく騒いでいた。
 何話そうかなぁ……。このままこうして黙っていたら佐倉さんに悪いよなぁ。でも何だか話すに話せなくなっちゃったし、共通の話題も尽きてきたし……。
 自分が沈黙の中にいるのは全然平気なのだが、相手をその中に置いてしまうと不快な思いをさせてしまうかもしれない。そんな中途半端なサービス精神が、冬馬を苛む。
「……こういうのって何だか良いですね」
 沈黙を先に破ったのは渚の感嘆だった。それに救われたような気がした冬馬も、渚に続いて口を開く。
「そうだな」
 バカー、会話を終わらせてどうするんだ。何か、何か話さないと……。
「来てよかっただろ」
「はい。こういうこと初めてなので、とっても楽しいです」
「また来ような。今度は……そうだな、小説が書き終わった時にでもさ」
「はい。是非お願いします」
 嬉しそうに笑う佐倉さんを見ていると、その約束を近いうちに果たそうと言う気になってくる。確かに今日は来て良かった。
「それじゃ、そろそろ行こうか」
「そうですね」
 冬馬と渚は立ち上がり、海の家を後にした。
「これからどうするんですか、先生」
「……そうだな、ちょっと鎌倉にでも行ってみるか?」
「はい」
 そうして俺達は鎌倉へと向かった。
 鎌倉に着いた頃にはもう五時になろうとしていた。時間が時間なだけあって、仕事を終えたサラリーマンや学生達で駅前は非常に混雑している。
「お寺にでも行くんですか?」
 人混みを抜け、土産物屋が立ち並ぶ小路に入って一息ついた渚が冬馬に訊ねてきた。
「いや、違う」
「でしたらどこかでお酒を呑むんですか?」
「いいや。それも考えたけど、今日はやめておくよ」
「それじゃあ……」
 困惑する渚に冬馬が優しく微笑みかける。
「まだ帰るにはあれだから、ここで少しブラブラしようかなって」
「あ、それもいいですね」
 面映ゆそうに、しかし嬉しそうに渚は相好を崩し、冬馬を見上げた。
 それから二人で色々な土産物屋を物色してみた。日本各地どこにでもありそうなものから、鎌倉特有のものまで、実に多種多様な土産が置いてある。
「あっ」
 はたと渚が足を止めた。冬馬もその視線の先に目を遣る。
「おっきいうさぎさんだー」
 その先には一メートルはあろうかという大きなウサギのぬいぐるみがあった。
「先生ー」
 とろんとした瞳に甘えた声。だが……。
「ダメ」
 俺はキッパリと断った。
「えぇー、まだ何も言ってないじゃないですか」
「何となくわかるって。それにこれ、非売品って書いてあるぞ」
「うぅ〜」
 未練がましく眺め続ける佐倉さんの腕を引っ張り、俺はそこから離れた。
 そういうやりとりをしながら色々な店を見て回る。たまにはこういう散歩もいいものだ。
 そう思っていると、不意に佐倉さんが足を止めた。その視線の先には外国人露天商が金や銀のアクセサリーを売っている。
「どうしたの?」
「えっ? あ、何でもないです」
「ヤスクシマスヨー、ドウデスカ?」
 値段を見てみると大した高いものではない。せいぜい二千円が上限だ。
「ふーん、色々売ってるな。ちょっと見てこうぜ」
「あ、はい」
 冬馬と渚は品物の前にしゃがみ込み、じっくりと物色する。様々な形の指輪やイヤリング、ネックレスなどが所狭しと置いてある。
「オキャクサン、カップル? ソレナラコレガ、ワタシノオススメネ」
 露天商が指したのは、二つで一つのハートになる形のネックレスだった。ただ、形が形だからか、それともカップルと言われたためか、渚は困ったような恥ずかしいような顔で冬馬を見詰めている。
 ……ま、いっか。
「それじゃ、コレもらおうか」
「ハイ、アリガトウゴザイマス。アト、コレニナニカジヲイレレマスケド、ドウシマス?」
「だって。どうする?」
「えっと、先生にお任せします」
 今日何度この言葉を聞いただろうか。まあ、別にいいんだけど。
 結局、それぞれのに自分のイニシャルを入れてもらった。そうして冬馬と渚はさっそくそれを身につけてみた。曇り空から射し込む夕日が、二人の胸元を仄かに光らせている。
「何だか、恥ずかしいですね」
「ま、いいんじゃないの」
 駅までの道すがら、冬馬はバラと白檀の二種類のお香を買った。
「お香ですか?」
「そう。疲れた時とかに焚いたりするんだけど、これが結構良いんだ」
「アロマテラピーみたいなものですね」
「そうそう。お、何だか雲行きが怪しくなってきたから、そろそろ帰ろうか」
「はい」
 駅を出発してからほどなくして車窓に雨粒が張り付き始めた。最初は小雨程度だろうとタカをくくっていたのだが、電車を降りた頃には本降りになっていた。
「こりゃすごいな。ちょっと濡れて帰るってわけにはいかないな」
「そうですね。風邪ひいちゃうかもしれませんね」
「そうだな。それじゃ、ここでちょっと待っててくれ」
 渚を待たせ、冬馬はキヨスクでビニール傘を買ってきた。
「この雨だからかなぁ、一本しか置いていなかったよ」
「あ、でも一本あれば帰れますよ」
 冬馬はビニール傘を開くと、渚を入れて歩き出した。小さめの傘なので、自ずと二人は寄り添うようにしなければいけない。だが、冬馬も渚もそれが不快なわけはなかった。
「久々の雨だな。こりゃ夜になると蒸すだろうな」
「そうですね。夏も寝苦しい夜さえ無ければ言うこと無いんですけど」
「ま、でも降らないと降らないで困るしな。……あ、肩濡れてるじゃない」
 冬馬は渚の方へ少し傘をずらす。
「あ、そしたら先生が濡れちゃいます」
「いいんだって。どうせ家まであと少しなんだ。多少濡れたって平気だよ」
「でも……」
 渋る渚を冬馬が柔らかに諌める。
「いいからいいから。今日だけはメイドって立場を忘れろって言ったろ。それに女の子はこういう時、素直に受け入れるもんだぜ」
「あ、……ありがとうございます」
 面映ゆそうに佐倉さんはうつむいた。
 そうこうしているうちに自宅へと帰着した。途端、どっと疲れが溢れてくる。冬馬はそのままソファに倒れ込んだ。
「あー、疲れた。こりゃ運動不足だな」
「えへへ、先生もたまにはお外に出ないとダメですよ。……でも、今日はとっても楽しかったです。ありがとうございました、先生」
「うーん、お礼はいいから風呂沸かしてくれ」
「あ、はい。すぐに用意しますから、少し待っていて下さいね」
 渚は寝室に荷物を置いてから、すぐに風呂場へと入った。
「はぁー、しかし疲れた。久々に外出するとこうも疲れるもんか」
 そうは言っても冬馬の心は充実していた。
 希美以来となるから、かれこれ六年ぶりのデート。希美が死んでからもうこうして女と二人きりでどこかへ行こうとは思っていなかったのだが、やはりこういうのは良いものだ。
 冬馬は今一時だけ過去の傷を忘れ、ただ今日一日を噛み締めていた。
 風呂に入ると心なしか疲れも癒えたような気がした。そうして渚も風呂から上がると、すぐに夕食の運びとなった。
 夕食は親子丼に味噌汁、そしてごぼうサラダ。鳥肉が多少生っぽい気もしたが、それ以外は別に問題無い。
「たまに外食するのも良いけど、やっぱり家で食べると落ち着くな」
「そうですね。でもあのおソバ屋さんは美味しかったですよ」
「まあな。でもあの店を見つけるまで、結構不味いソバを食ったもんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。ほら、外食って何かしらの期待を抱きながら店に入るもんだろ。でもいざ食ってみると、これがまた自分で作った方が美味いんじゃないかって思う店もあってな。そういう店でメシを食ってしまうと、何だか金どころか一日損した気分になるもんだよ」
「はぁー。あ、でもその気持ちわかる気がします。でしたら先生は色々なお店を知っているんですね」
 冬馬はサラダに箸を伸ばしながら、首を横に振る。
「いや、そうでもないよ。俺はあんまり外に出ないし、外食もどっちかと言えば好きな方じゃないからな」
「そうなんですか?」
「ああ。外で一人で食うのも何だか虚しいし、かと言って誰かと食いに行ったら相手の好みに合わせようとするから、どの店が良いのか困るし。だから今日だってソバ屋に連れて行くのさえ、内心不安だったんだよ」
「先生は気を遣い過ぎですよ。私なんかにもそんなに気を揉まなくてもいいのにって思うくらい、色々考えてくれていますし。もっと自分勝手というか、奔放にしても良いのではないでしょうか?」
 佐倉さんの言うことはもっともだった。自分自身ですらそうした方が良いだろうと思うし、その方が楽に生きられるだろうとも思う。
 だが……。
「そうしたいとは思っているんだけど、どうもね。何か些細な選択一つで相手を不快にさせてしまうかもしれないって思うし、それが元で嫌われるのだけは耐えられないしね」
「でも、お食事一つで先生のことを嫌う人なんていないと思いますよ」
「いやいや、人生どんなとこに何があるのかわからないもんだよ。その食事一つで後々大きな事態に陥ることだってありうる」
「考え過ぎですよ」
「まあ、そうかもな」
 夕食を終えると冬馬は原稿用紙に向かった。鎌倉で購入したお香を焚いていると、穏やかな心持ちになってくる。これならプロットも早々に完成するだろう。
 しばらくすると、洗い物を片付け終えた渚が入ってきた。いつもとは一風変わった部屋の匂いに、渚もすぐに気付いたみたいだった。
「あ、今日買ってきたお香ですね」
「そう。バラの方な。どう?」
「良い匂いがしますよ」
「そうか。あ、そうそう。一応プロットがラストまでまとまったから、意見を聞かせてくれないか?」
 冬馬はできあがったばかりのプロットを渚に渡した。じっくりとそれに目を通す渚を、冬馬は一服しながら真剣に見詰める。
「どう?」
「……」
 沈黙に耐えきれなくなり口を開くも、熱中している佐倉さんの耳には俺の声は届いていないようだった。
 ようやく最後まで見終わったのを確認してから、俺はもう一度訊ねてみた。
「どうかな?」
「すっごく良いですよ、先生」
 渚は瞳を輝かせながら顔を上げた。
「特にラストで主人公とヒロインが永遠とも思える別れの後、エピローグで再会するのが、大筋だけでもとても感動しました。これがもっと細かく書かれたらどうなるんだろうって、今からドキドキしちゃいます」
 九割はお世辞だろうが、こう言われて悪い気はしない。不安がつきまとう作品なだけに、幾らか自信が湧いてくる。
「本当?」
「はい。これなら二階堂さんも納得してくれると思います」
「そうか。そう言ってくれると力が出るよ」
 嬉しそうに頬を緩めながら冬馬は渚と顔を見合わせては、微笑みを交わした。
 しかし、内心何かが足り無いと思ったりもしていた。確かに自分で見返してみても、これと言った欠点は見当たらない。
 だが、何か決定力に欠けているように漠然とながらも感じる。そして、それと同時に果たしてこの案を生かしきれるような文体で書けるのかとも。
 ……今日はもう深く考えるな。ひとまずこれで良いじゃないか。
「さてと、そろそろ寝るかな」
 とにかくこれ以上は今日は何もできそうに無い。早々に寝て、明日に備えた方がいいだろう。
「そうですか、ではおやすみなさい先生」
「はい、おやすみ。佐倉さんも早く寝るんだよ」
 渚は一礼すると書斎を出て行った。それを見送り冬馬はコップに残っていた酒を一息に呑むと、すぐに布団に潜り込んだ。

「何かもう、クリスマスムード一色って感じだね」
 希美の言う通り、街は明日のクリスマスイヴに備えてきらびやかな装飾がそこかしこにほどこされている。これで薄雪化粧でもされていれば、夜間のライトアップも際立つだろう。
「そうだな。あとは雪でも降ってくれればバッチリなんだけどな」
「そうだね。うん、こっちに来て初めて二人で過ごすクリスマスだから、ホワイトクリスマスを楽しみたいね」
 一緒に同じ大学に入ったため、希美と俺は郷里を出てきた。双方の親は俺達の関係を知っているものの、割と近所に住んでいることは知らない。
「あ、見て見て。この服カワイイ」
「どれ?」
 ウィンドーショッピングを楽しんでいると、不意に希美が足を止めた。
「これだよ、ほら」
「あぁ、確かにカワイイな」
 だけど、ちょっと高い。今回のクリスマスプレゼントには残念ながら手が出ない。
「でしょ。あ、これもいいな」
 こっちはかなり高い。まぁ、見ている分ならタダでいいんだが。
「しかし女物の服って高いよな」
 行き交う人通りの中で俺達はショーウィンドーの前で目の前の服と互いを見詰め合う。ひやりとした風が時折二人を包み込む。
「そうなんだよね。色々オシャレしたいけど、買いたいもの全部買ってたらバイト代無くなっちゃうもん」
「俺には無縁の悩みだな」
「本当に冬馬ってそういうの興味無いよね」
「酒と女だけが俺の支えだからな」
「……なんだかなぁ」
 少し呆れたような、それでいてどこか良い意味での諦めにも似た笑顔を希美は浮かべる。
「まあまあ。あ、ほら、これなんかも似合うんじゃない?」
「これかぁ。うーん、どうだろう?」
「じゃあ、これはどうだ?」
「これは無理だよ。モデルさんみたいな人が着れば似合うだろうけど、私みたいな地味なのが着たら似合わないよ」
「そうかなぁ」
 希美は自分で言うほど地味ではないが、さすがにこの純白のコートは高級感が溢れている。
「ま、冬馬が買ってくれるんなら着るけどね」
「ほぉ、どれどれ」
 余裕があればいつか買ってやろう。そう思い値段を見てみると、二十万と表記されている。とてもじゃないが買えない。
「……今の話はなかったことに」
「あはは」
 くそぅ、情けないなぁ。
「それはそうと、どっか入らないか。寒くてさぁ」
 それほど長い時間ここにいたわけではないが、やはりこの時期の空気は体を芯から冷やす。希美の耳が赤くなっている。きっと俺もそうなのだろう。
「そうだね。あ、私いい場所知ってるから、そこに行こう」
「まかせるよ」
 二人で並んで歩いた道。
 何も無くとも笑い合えた時。
 明日が必ず来ると信じていた日……。