八月十三日 月曜日

 目を覚ますともう十二時近かった。しかし朝方まで起きていたためか、大分疲れが残っている。冬馬は大きなあくびをしながら伸びをした。
「おはようございます、先生。あの、昨日はすみませんでした」
 寝惚け眼をこすっていると、佐倉さんがばつの悪そうな顔をして頭を下げていた。
「ん、何のこと?」
「先生より先に寝てしまったばかりか、書斎から追い出してしまったみたいで」
「ああ、そんなことか。いいよ別に謝んなくても。俺が佐倉さんよりちょっと遅くまで起きてただけなんだし、それにこのソファだってベッドの代わりになるんだしさ」
 しかし寝心地がいささか悪かったのは確かである。どうも肩がこって仕方ない。
「だが少々疲れた」
「すみません」
「やっぱり書斎で寝てりゃ良かったな」
「……すみません。あの、今度からもし私が寝ていたら叩き起こしてもかまいませんから」
「それは可哀想だからしないよ」
「でも……」
「大丈夫。俺も佐倉さんも気持ち良く書斎で眠れる方法がある」
「何ですか、それは?」
 佐倉さんは興味深そうに訊ねてきた。
「なーに、簡単なことだ。一緒に寝りゃ良いんだよ。しかもお互いに裸でな」
「な、何で裸になる必要があるんですか?」
「スキンシップだよ。ほら、スキンってのは肌と言う意味だろ? だからスキンシップってのは肌と肌で触れ合うコミュニケーションのことなんだよ。俺はもっと佐倉さんと仲良くなりたいからさ」
「……でもそれはスキンシップではなく、ただのセクハラだと思いますけど」
「聞こえないなぁ」
 傲岸不遜な冬馬に、渚は大きな溜め息をつくだけだった。
「もう、いいです。要は私が書斎で寝ないで、寝室で寝れば良いだけの話なんですから」
「遠慮しなくてもいいぞ」
「してません」
「冗談だってば」
 少し膨れた佐倉さんがとてもおかしく、俺はケタケタ笑った。
「ま、いいや。それよりメシ作ってくれ。味噌汁とお茶漬けくらいでいいから」
「あ、はい。わかりました」
 渚は明るい笑顔を見せると、台所に立った。
 ……やっぱり女なんだよなぁ。
 冬馬は渚の後ろ姿を一頻り眺めると、テーブルの上に置いてある新聞を手に取った。
 一面はこの猛暑のため各地でダムが干上がりつつあるという記事だった。幾ら浄水器を使っても不味い水とは言え、水は水だ。無くなっては困る。
 それにこのクソ暑いのに風呂も入れなくなると言うのは大問題だ。
 何てことを考えていると朝食が運ばれてきた。冬馬のみならず、渚もお茶漬けに味噌汁だけだった。
「別に俺と同じもの食わなくてもいいんだよ。佐倉さんは好きなものを作って食ってくれてかまわないんだから」
「はい。でも私も丁度食べたかったんで」
「……ならいいけどさ。ま、とにかく無理に俺に合わせる必要は無いから。こういう場合は特にね」
「はい、先生」
 と言っても佐倉さんはこれからも俺に合わせ続けるだろうな。そう思いながら味噌汁を啜っていると、食事に関してもう一つの疑問が浮かんできた。
「ねぇ、佐倉さん」
「はい、何でしょう?」
「もしかして、朝とか俺が起きるまでメシ食ってなかったりする?」
「ええ、まぁ」
「何で? 腹減るだろ」
「まあ、そうですけど、でも先生と一緒に食べたいですから。先に食べておなか一杯にしちゃって、先生と一緒に食べられなくなると、少し寂しいですし」
「ま、確かに俺も一人で食うよりは一緒にメシを食いたいよ」
「ですよねー」
 渚は嬉しそうに微笑む。
「でもそこまでする必要は無い。そんなことしてたら体壊すから。だから軽くでも先に何か食べててくれ。もし倒れでもしたらそれこそ一大事だし、また病院に行くのは面倒だし」
 反省半分、嬉しさ半分と言った顔を渚は少しうつむかせている。
「はい、わかりました。でも先生も一日二食で夜はお酒ばっかり呑んでいると、いつか体壊しますよ」
「……はい、わかりました」
 食事を終えると冬馬は新聞の続きを読んだ。何でも噂のクローン人間がとうとう生まれたらしい。科学の進歩は素晴らしいと思う反面、やはり恐ろしくもある。しかし自分で幼い自分を育てて嬉しいんだろうか?
 そんな記事から喚起されてもう一人の自分を思い浮かべていると、洗い物を終えた佐倉さんがリビングに戻ってきた。
「そう言えば今日は長田さんがいらっしゃるんですよね?」
 佐倉さんに言われてカレンダーを見てみると、確かに印がついてあった。
「そうだな。ま、プロットの方は大体できているから問題無いだろうけど……」
 顔を曇らせる冬馬に気付いたのか、渚はにっこりと笑いかけた。
「そうなんですか。先生とってもがんばっていますから、きっと大丈夫ですね」
 そんな渚に冬馬は苦笑いを浮かべる。
「どうかな」
「大丈夫ですよ、先生なら」
「だと良いけどな。あ、そうそう佐倉さん」
「はい、何でしょう?」
「昨日の今日だから、あまり無理しないようにね」
「ありがとうございます。でも大丈夫ですよ、全然元気ですから」
 渚はガッツポーズを作ってみせる。
「そうか。でも程々にね」
「はい」
 冬馬は書斎へと入った。
 長田が来る前に少しでも進めておこうかと考え原稿用紙に向かってみたが、何も浮かんでこない。やはり酒を呑んでいないからか?
 ま、昨日少しがんばったから、そんなに急ぐ必要も無いか。
 座椅子に凭れ、四角く切り取られた空を眺めてみた。今日も天気は良い。こんな日は扇風機で涼を取りながら昼寝をするのが、最高のゼイタクかもしれない。
 だが、確か今日の占いで外出に吉と出ていた筈だ。寝てても良いのだが、折角の天気だ。軽く散歩でもしようか。
 思い立ったが吉日。冬馬はすぐに身支度を整えると、書斎を出た。
「あれ、先生。お出掛けですか?」
 窓を拭いていた渚が手を止める。
「ああ。ちょっと長田が来るまでそこら辺を散歩してくるよ」
「そうですか。天気も良いですし、散歩日和ですね」
「まあな。そんじゃ、行ってくるよ」
「はい。行ってらっしゃいませ」
 渚に見送られながら冬馬は外へ出た。
 働き過ぎなどという言葉を知らないのだろう、今日も太陽は燦々と世界を照らしている。
 やっぱり寝てれば良かったかなぁ。
 シャツの胸元をはためかせながら、冬馬は少しだけ外出したことを後悔し始めていた。
 ま、コンビニでビールでも買って、どこか近くの公園で呑んでから帰るか。
 だがもう商店街の近くにまで来ていた。ここまで来れば酒屋に寄った方が近い。俺はゆっくりとアーケードへ近付いた。
 商店街の人通りは少なかった。時間が時間なだけに、まだ夕食の用意には早いからそれも仕方ないことだろう。俺は見慣れた商店街をまっすぐに、酒屋へと向かう。
「あ、冬馬」
 不意に背後から名前を呼ばれた。この呼び方にこの高い声は、一人しかいない。
 ……何が外出に吉だよ。
 俺は肩を落としながら後ろを振り返った。案の定、そこには辛島が手を挙げながら近付いてきている姿が映った。
「何してんの、こんなとこで」
「散歩。それよりお前こそ何してるんだよ?」
「私? 私もちょっと散歩に来ただけよ」
「嘘つけ。どうせ亜紀さんから逃げてここに来たんだろうが」
 辛島の家からここまでは三駅程離れている。もし本当に散歩で来ているとしたら、結構な距離だ。
「う、うるさいわね。何だっていいじゃない。それより冬馬、渚ちゃんは元気?」
「ああ、元気だよ。丈夫が取り柄だと本人が言ってたぐらいだからな」
「そっか、それは良かったわ。そんじゃ、今から冬馬の家に行こうかな」
「何でそこで俺の家に行こうと考えるんだ?」
「昨日の続きよ」
「ほぉ、そんなに脱ぎたいのか?」
 不意に昨日の半裸姿が思い出される。
「違うわよ。お酒の続きよ」
「ダメだ」
「ほら、昨日は途中で邪魔が入ったからさ」
「ダーメ」
 辛島を家に上げると、またこの時間から大酒を呑む羽目になる。今日は長田が来るから、どうしてもそれは避けたい。
「何でよ、ケチ」
「うるさい。どうせ呑むなら外で呑むぞ。今日は天気が良いから、きっとビールが美味い」
「仕方ないわね。じゃ、そうしよっか」
 何とか納得させると、俺と辛島はビールを数本買い、近くの公園へ行った。
 公園には二、三人の子供がいるだけだった。俺と辛島は小さな東屋の椅子に腰を下ろすと、さっそくビールを傾けた。
「はぁー、美味しー」
「まったくだな。しかしこうして呑んでると、大学の頃を思い出すなぁ」
「そうね。つまんない講義サボっては、よくこうして呑んでいたもんね」
「俺はお前と違って真面目だったから、そんなにサボって酒を呑んだことは無いぞ」
「何言ってるのよ」
 呆れたように瑞穂が鼻で一つ笑った。
「私が冬馬に会って初めて教えられたのが、講義の上手なサボり方だったんだから。その指導者がどうして真面目だって言えるのよ。大体、ずっと部室でゴロゴロしてたくせに」
「心は教室にいたんだよ」
「言い訳もいいとこね」
 これ以上説得を続ける気にもなれず、俺は汗のかいた缶ビールを傾けた。
「でも学生の頃なんて、もうずっと昔に思えるよ。俺は忘れっぽいから、もうほとんど記憶に残っていないし」
「私はしっかり覚えてるわよ」
「そりゃそうだろ、去年だかに卒業したばかりなんだから」
「でも冬馬なんて二ケ月前のことも綺麗に忘れちゃうじゃない」
 二ケ月前どころか、昨日食った朝メシすら覚えていない……。
「あ、でもアレははっきり覚えているぞ」
「アレって?」
「お前が初めて酒呑んだ時のことだよ」
 途端、瑞穂の顔が引きつった。
「初めて酒呑むくせに、一丁前に俺と同じペースで呑んだもんだから、ベロベロになって俺にからんできたよな」
「……」
「俺の肩を掴んで『先輩〜、次は負けあせんかんね〜』と言ったかと思ったら、俺の膝の上に吐きやがって」
「……あの時はゴメン」
 ばつの悪そうに辛島はうつむきながらビールを呑む。その姿を見ていると、俺はもう少しだけからかいたくなってきた。
「おかげで服はメチャクチャ。店員にも冷たい眼を向けられたし」
「……悪かったわね」
「その一回だけならまだ可愛げのある女だと許せたんだが、その次も、またその次も同じことされたからなぁ」
「悪かったって言ってるでしょ。もう、そんな昔のこと引っ張り出してグダグダ言わなくてもいいじゃないの!」
「はは、すまんな。ちょっと思い出したら楽しくなってきたんだよ」
「まったく。私だってあれからがんばって、お酒に強くなったんだから」
 瑞穂は二本目に手を伸ばす。
「そうだな。しかし何でまた酒に強くなろうなんて思ったんだよ?」
 酒を好きで呑んでいるうちに強くなっていく奴は大勢いるが、強くなろうとして呑む奴は少ないのではないだろうか?
 そんなことを考えながら俺も二本目に手を伸ばした。
「一緒に呑みたかったからよ」
 一瞬辛島の視線が落ちたのは、気のせいだろうか?
「俺と?」
「勘違いしないでよね。私はただああいう雰囲気が好きなのよ。でも他の先輩方はあんまりお酒好きじゃないみたいだったから、冬馬と呑みに行ったのよ」
「まあ、確かに他のやつらはあまり酒好きではなかったからな」
「それに冬馬と行ったらタダで呑めたし」
「……確かに学生の頃はお前に大分おごったな。おかげでいつもサイフは寂しかったが」
 呑める奴がいるのは良かった。それ以上に呑みに誘ってついてくる奴がいるのは嬉しかった。俺が後輩の中でも特に辛島を可愛がり、今もこうしていられるのは、そういうところが大きいからだ。
「感謝してるんだよ、これでも」
「当然だ。……おっと」
 ふと腕時計に目を落とすともう午後二時半だった。もしかしたら長田を待たせているかもしれない。
「どうしたの?」
「悪い。今日は昼過ぎから長田との打ち合わせなんだ。とゆーわけでそろそろ行くな」
 ぬるいビールを一気に喉に流すと、冬馬は立ち上がった。
「そんじゃ、またな」
「あ、うん。じゃあね」
 辛島を残し、俺は急いで帰宅した。
「ただいま」
「あ、おかえりなさい先生」
 帰宅すると、渚がパタパタと近寄ってきた。
「長田は?」
「まだですけど。……先生、お酒呑んできたんですか?」
「ん、わかる?」
「はい」
 佐倉さんに言われたので、俺は口元に手を当てて息を吐いてみた。が、手の匂いしかしない。
「そっか、他人にはわかるのか。いやな、丁度辛島に会ったから、軽くビール呑みながら話していたんだよ」
「そうなんですか」
「そういうこと。ま、このまま長田に会ったら何を言われるかわからないな。とりあえず麦茶でもくれ」
「わかりました」
 佐倉さんから麦茶を受け取ると、俺は書斎に入ってからそれをゆっくりと飲んだ。
 三時頃、長田がやってきた。長田は渚に案内され、冬馬のいる書斎に入るなり、大きく息を吐きながらどっかりと座り込んだ。
「いやぁ、今日も暑いですね」
 長田はシャツの胸元をはためかせながら、額の汗をハンカチで拭っている。
「ま、夏だから暑いのは当然だ。でも雲が出てきてるから、過ごしやすい方なんじゃないかな」
「それでも外は暑いですよ。先生も家にばかり閉じこもってたら健康に良くないですよ。たまには外にでも出てみたらどうです?」
「さっき散歩してきたばかりだ」
「あ、そうなんですか。僕はてっきり……」
 はっと口をつぐんだ時にはもう遅かった。冬馬はじろりと長田を睨む。
「てっきり、何だ?」
「いや、原稿でも書いていたのかと思ったんですよ。ははは」
 嘘つけ。どうせ昼寝でもしてると思ってたんだろうが。
「でも珍しいですね、先生が外に出るなんて」
「ま、ちょっとした気晴らしだよ。今までが出無精過ぎたんで、辛島を見習おうと思ったんだよ」
「ははあ、なるほど」
「だから明日からはアイツと一緒に毎日遊び歩こうかな」
 悪戯っぽく笑ってみせると、長田は慌てて止めにかかってきた。
「そ、それは困ります。僕は堀越さんみたいにはなれませんから」
「冗談だよ。ま、でも気晴らしの散歩ぐらいは続けようと思ってるよ」
「それは結構ですが、なるべくならそれ以上にはならないで下さいよ」
 長田とそうした世間話を交わしていると、渚が麦茶を持って入ってきた。
「どうぞ、麦茶ですけど」
「あ、どうも。ところで佐倉さん、先生はちゃんと書いているんですか?」
「ええ。毎日朝方までがんばっていますよ」
 はっきりと返す渚の言葉に安心したように、長田は麦茶を一口飲んだ。
「何だよ、俺が普段酒ばかり呑んでいて書いていないと思ってたのかよ」
「あ、いえ、そういうつもりじゃないんですけどね。ただ堀越さんが先生と辛島先生はいつもここで呑んでいるって言ってたものですから」
「いつもなんて呑んでないって。大体、アイツの方からここに押しかけて来ては、勝手に呑み始めるんだから」
「はは、すみません。さて、そろそろお仕事の話でもしましょうか」
 長田がそう言いながら居住まいを正すと、渚は一礼してから書斎を出た。
「さて、先生。プロットはもうできあがっているんでしょうね」
「……うん、まあ八割九割ぐらいはな」
「あれ、先生、ちょっと待って下さいよ。この前、今日ぐらいまでにプロットを完成させておいて下さいって言いませんでしたっけ?」
「言って無いな。確か一週間程度で仕上げてくれとは聞いたけど、今日までにとは聞いていない」
「あれ、そうでしたっけ。でも先生はいつもプロットを作るの早い方じゃないですか。なのにまだ完成していないなんて……」
 長田はあからさまに俺を疑っている。こいつ、本当に俺が遊んでばかりだと思っていやがるな。
「まあ、そうなんだけどな。でも今回は今までと少し趣向を変えてみたんで、意外と手間取ったんだよ。ま、でも今日からプロットの仕上げと並行して書き始めるからそんなに心配はするな」
「趣向を変えたとは、一体どのように?」
 期待と疑惑の交錯した瞳を長田は冬馬に向ける。
 こうなったらもう後には引き返せない。
「ま、見りゃわかるよ」
 俺は覚悟を決めると、机の上に置いてあったノートを長田に手渡した。
「あ、どうも。それではさっそく」
 プロットの書かれたノートをめくる毎に、長田の顔から笑顔が消えていく。そうして最後のページにまで達すると、長田はしばし顔を強張らせたまま固まった。
「……先生、冗談ですよね」
「いいや、本気だ。今回はこれで行く」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。ストーリーは良いんですけど、こういうふうに変えちゃうと今までのファンを手放しかねないですよ」
 やはり急遽ハッピーエンドに変更したことに強い抵抗を覚えたのだろう、長田は冬馬にノートを返すと、諭すような口調で訴えかけてきた。
 だが、こうなることはとっくにわかっていた。いや、むしろ予想よりもひどくはないためか、俺は自分でも驚く程冷静でいられた。
「でも同じ路線ばかりだと読者に飽きられてしまうからな、ここらでこういうのも良いだろう。俺の作品の幅、ひいてはファン層を広げられる作品になると思うんだけどなぁ」
「でも、編集長が今回もダークな作品の方が良いと言ってましたよ」
「そんなことは知ってるよ」
「じゃあ何で急に。……もしかして佐倉さんに何か言われたんですか?」
 長田の眼が途端に鋭くなる。
 確かに長田の思っている通り、佐倉さんに言われてそうした部分は大きい。だが、決してそれだけではない。俺は彼女を通して気付いたのだ。自分の作品の欠点を。
「いや、違う。まあ確かに佐倉さんと一緒にいて色々影響されたり、刺激されたりするが、作品の根幹を変えられるまでには至らないよ」
「でしたら何で危険を冒そうとしてまで」
「それを忘れていたんだよ」
「え?」
 長田は冬馬の言わんとしているのが掴めず、困惑した顔を向けている。
「だから、デビュー以来俺は冒険しようとしていなかったんだよ。一本目でそこそこウケたから、今までそのレールの上で安心しきっていたんだ」
「売れ筋なんですからそれで良いじゃないですか」
「でもそれじゃダメなんだよ。同じ路線の作品が三つも四つも続くと、一部の読者を残すのみとなってしまう。そうなると、それ以降別の路線に移ったとしても読者はついてこれなくなるだろう。だから、ここいらで少し変化を与えようと思っただけさ」
「でも、先生……」
「何と言われようが今回はこれで行く。そう二階堂さんにも伝えておいてくれ」
「わかりました。そこまで言うのなら、もう僕は止めません。後は先生が今までの読者も納得させられるような作品を書くのを期待するだけです。それでは僕は会社の方に戻りますけど、多分編集長から電話が入ると思いますよ」
「……もう覚悟はできているよ」
「……そうですか。それでは失礼しました」
 それだけ残すと長田は帰ってしまった。
 一人になった冬馬はごろりと寝転がると、急に不安に襲われ始め、両手で顔を覆った。
 デビュー作を認められて以来、二階堂さんの言う通り書いてきた。それは巧く雑誌全体のカラーと重なり、作品は好評を博す結果に結び付いた。言い換えれば、二階堂さんがいたからこそ、今の自分がいるわけだ。
 だから今回失敗すれば二階堂さんに大目玉を食らうどころか、下手を踏めばクビになる恐れだってある。そうなればこの生活にも終わりを告げなければいけなくなるだろう。
 しかしそれでも今回は思うままに書いてみたかった。二階堂さんの提言ばかりに頼っていては、いずれ自分の持ち味を失ってしまう。だからそれに反してでも、自分が本当に書きたいものを書きたかった。そういった意味でも、今作における意義と言うものは大きい。
 ただ、覚悟と結果が必ずしも一致しないことは俺もよく理解していた。特に今回は未開拓の分野である。今までより必ず面白くできるかと言われれば、正直首を縦に振り切れる自信は無い。
「……佐倉さん、ちょっと来てもらえるかな」
 一人でじっとしているのには耐え難かった。不安に押し潰されそうな心を誰かに少しでも支えていてもらいたくなり、俺は情けないと思いつつも佐倉さんを書斎に呼んだ。
「はい。何でしょう先生」
「ちょっとこっちに来てくれ」
 冬馬は渚を側に座らせると、麦茶を飲み干してから大きな溜め息をついた。
「先生、何だか疲れているみたいですね」
「そう見える?」
「はい。元気が無いと言うか、何と言うのかわかりませんけど、とにかく顔が青いですよ」 渚の言う通り、冬馬の顔は紙のように白い。
「何かあったんですか?」
「まあ、な。ちょっと作品のことについて長田と一悶着あったもんだから」
「作品についてですか?」
「ああ。急にハッピーエンドにすると言ったらやめろって言われてな。でも俺だって書こうとしているものをハイそうですかって取り下げられないから、結局我を通したんだけど、やっぱりそう言った手前、納得させられる作品を書かなきゃいけないわけだろ。でも今まで書いたこと無いから、書けるかどうか……」
「大変なんですね、作家さんて」
 渚は冬馬の悩みを真摯な姿勢で聞いている。それを我が事のように感じているのだろう、どことなく辛そうな瞳をしている。
 が、次の瞬間渚は元気いっぱいの笑顔を見せた。
「でも大丈夫ですよ、先生なら。だってあんなに怖さや悲しさで読む人の心を動かせるんですから、きっと喜びで心を動かすこともできますよ」
「いや、でもだからと言ってそうはいくかな。悲しみと喜びは全然別物だし」
「そうですか? 私は二つ共近いものだと思いますよ」
「何故そう思う?」
「二つ共表裏一体だと思うんです。幸せだってずーっと続けば段々不安になったりしますし、悲しみだってずーっと続けば見えなかったものが見えてきて、それが新しい幸せに繋がるかもしれませんから。そう言った意味では、例えば涙ってそうだと思うんですよ」
「涙?」
「はい。涙って大体が悲しい時に流すものですよね。でも嬉し涙ってのもあるじゃないですか。だから涙って二つの気持ちを繋げる鎖だと思うんです」
「鎖、か……」
 果たして本当にそれは二つを繋げる鎖となり得るのだろうか?
「えっと、ほら、愛するって悲しみにも似た気持ちとも言われているじゃないですか。悲しみの無い愛なんてきっと無いと思いますし、愛する中で悲しくならないこともきっと無いと思いますよ」
 悲しみの無い愛など愛ではない……。
 不意に希美の顔が浮かんだ。
 もし佐倉さんの言うことが正しいのなら、俺と希美は死によってその愛を成就し得たと言うことになるのか?
 となると、あの頃の俺達は一体何だったと言うのだろうか?
 次第に迷宮入りしていく俺の様子に気付いたのか、佐倉さんは慌てて頭を下げた。
「……って、すみません。わけわかんないことをずっと喋ってしまって。でも、とにかく先生なら大丈夫ですよ。何と言っても先生の作品には、たくさんの気持ちが入っているんですから」
 無理矢理結ばれた渚の言葉に、冬馬は大きな何かを見出せそうな気がした。が、結局それが何なのかははっきりと掴めない。
「うーん、まあ、そう言ってもらえると心強いよ」
「えへへ、ありがとうございます。そう言って下さると私も嬉しいです」
 佐倉さんに励まされて少しだけ不安を取り除けた俺は、これからかかってくるであろう二階堂さんからの電話や、この作品が左右するであろう己の未来に対し、何とかなりそうな気がしてきた。
「それじゃ、ありがとうな。俺はこれから二階堂さんから電話がかかってくるまで、少し寝ることにするよ」
「はい。わかりました」
 渚はペコリと頭を下げると書斎を後にした。
 それから小一時間が経った頃、リビングの電話が鳴った。結局眠れなかった冬馬は渚に呼び起こされるより先に書斎を出ると、急いで受話器を取った。
「もしもし」
「お、北川か。俺だ、二階堂だ」
 冬馬は高鳴る鼓動を抑えようと数瞬天を仰いでから、気を正した。
「ああ、どうも。それで用件はやっぱりアレですか?」
「そうだ。お前、本当に長田の言ってた通り、バッドエンド的な作品を書かないつもりか」
 二階堂の声はいつもと何ら変わりなかった。それが逆に冬馬の不安を駆り立てる。
「ええ。今回はハッピーエンドにでもしてみようかと思ってます」
「なぁ北川、読者を裏切るのは良いことだ。作風を変えるのも悪いとは言わん。だが今回それをやるのはやめた方が良い。まだ早い。下手すると築き上げた全てを失いかねんぞ」
「大丈夫ですよ、基本は今までと変わらないんですから。ただ結末で救いを与えてやるだけですよ」
 二階堂さんの大きな溜め息が、電話越しにもはっきりと届いた。
「北川、お前の作品で最も評価されているものは何だか知っているか?」
 二階堂さんに言われ、自分のこれまでの作品とその評価を思い出してみると、共通するのは肉薄するような描写力だった。現に佐倉さんやその他の人々にも、そう言われてきた。
 だが二階堂さんが俺に告げたのはそれとは違った。
「それは救い無きラストだよ。ここ最近ご都合主義的なハッピーエンドが蔓延している中、一片の情も見せない結末が生み出す恐ろしさと言うものが、お前の人気の根幹なんだよ。だからな、お前までそんな大勢の中に埋没する必要はどこにも無いんだよ」
「それでも、今回はこれで行きたいんです」
「ふざけるな!」
「お前の作品は雑誌の売り上げに直接関わってくるんだ。だからお前の作品の質が落ちると、売り上げも落ちるんだよ。職業作家なら、読者の求めるものだけ書けば良いんだ!」
「見てもいないのに、質が落ちるとどうして言い切れる!」
 二階堂に触発され、冬馬の頭にも血が上る。
「俺はいつまでもアンタの操り人形じゃない。書きたいものを書いても、人気を取る自信はある」
「のぼせ上がるなよ、北川。そこまで言うのなら、わかった、書いてみろ。ただ、次で今まで以上の人気が取れなかったら即クビだからな」
「かまいませんよ」
 もうここまで来て引くわけにはいかない。売り言葉に買い言葉。考えるより先に、俺は思いっきり啖呵を切っていた。
「ほう、期待しているからな」
 それだけを残して通話は終わった。冬馬も荒々しく受話器を置くと、しばし電話を睨んだまま、両拳を血が出そうな程に固く握り締め、立ち尽くしていた。
「……あの、先生」
 渚が冬馬の背後からおずおずと声をかける。それに気付き冬馬が振り返ると、渚は声に偽りなくすまなさそうな瞳を向けていた。
「私がハッピーエンドにして下さいと言ったばかりに、また先生にご迷惑をかけてしまったみたいで……」
 うつむき、視線を落とす渚の頭に、少しだけ頬を緩めた冬馬の手が置かれた。
「そんなこと無いって。佐倉さんは何も心配したり、自分を傷付ける必要は無いよ」
「でも、元はと言えば私のせいです」
 依然自分を責める渚に冬馬は呆れたように溜め息をついた。
「なあ、何か勘違いしていないか。ほら、昨日も言ったし、今も電話で言っただろうけど、書きたいから書くんだ。佐倉さんに書けと言われても、書きたくなかったら書かないし、書こうともしないさ。それに今回は、そっちを書いた方が面白そうだと思ったんだよ」
 冬馬は渚の頭に置いた手でなだめるように撫でた。
「……すみません」
「ほら、もういいから、少し早いけど風呂にしてくれ」
「はい」
 渚は元気良く返事すると、風呂場に入った。
 三十分程して風呂が沸いたので、さっそく汗を流すことにした。まだ日が出ているうちに入るなんてことは滅多に無いので、何だか妙な気分になる。が、それでも気持ち良いのには変わりなかった。
 冬馬も渚も風呂から上がると、まだ夕食には少し早かったので、書斎で小説を書くことにした。長田や二階堂に啖呵を切った手前、寸暇を惜しんでやる必要があった。
 中盤まではほぼ完全に構想が固まっているため、そこまでは書ける。もうプロット作りにばかり時間を使ってもいられないので、今日からは並行作業となる。
「先生、ゴハンはいつ頃にしますか?」
 佐倉さんの言葉に我に返り、時計に目を移すと、もう七時だった。集中して書いていたためか、いつの間にか二時間も経っている。
「そうだな、三十分くらいしたら食えるようにしてくれ」
「はい。そしたら出来次第お呼びしますね」
「ああ」
 渚が出て行った後も、冬馬はひたすら書き続けた。非常に調子が良い今、食事をするのすらおっくうに思える。いつ書けなくなるともしれないので、書けるうちに書いておかないと、締め切りまで間に合いそうにない。
「先生ー、ゴハンの用意ができましたよー」
 三十分など瞬く間に過ぎた。書くのを中断したくはなかったが、食べないわけにもいかない。仕方なく冬馬は書斎を出た。
 夕食は渚の努力のたまものか、日に日に多彩になっていく。目の前にある鮭のホイル包み焼きなど、数日前ではちょっとお目にかかれなかっただろう。
「どうですか、先生」
「うん、美味いよ。焼き加減も丁度良いし」
「ありがとうございます。でも何匹かは失敗しちゃったんですよ」
 恥ずかしそうに渚は笑う。
「うん、まぁでも良いんじゃないの。俺だってデビューするまでに何千枚原稿を無駄にしたか覚えていないし」
「でも先生はプロの作家さんじゃないですか。お料理の世界だとお店のオーナーですよ」
「ははは、俺なんて駅前近くにある、あのさびれたラーメン屋の親父くらいのもんだよ」
 談笑を交わしながらも、冬馬の頭はしっかりと小説のことを考えていた。一度火が点くといつもこうなってしまうのが、作家としての冬馬の性だった。
「そうそう、先生って書き始めると速いんですね。すっごく集中していますし。いつもああなんですか?」
「いや、いつもああやって集中できる方が少ないくらいだ。たまに気分が乗った時に、な。そうなるとメシを食うのも面倒臭くなるくらい没頭しちゃうな」
「ゴハンはちゃんと食べなきゃダメですよ」
「なるべくそうするようにはしてるけれど、やっぱり集中すると、ねぇ。それすらも疎ましく思うんだよ」
「ゴハン食べなくても書けるんですか?」
「書けるよ。酒呑んで集中していれば、腹は減らないし、疲れもしない」
「そうなんですか。でも、がんばり過ぎて倒れないで下さいよ」
「ま、そうまでならないのが俺だ。あ、メシはもういいや。ごちそうさま」
 普段より早いペースであらかた食べ終えると、冬馬はさっさと書斎に入った。その背に渚は、多くの尊敬と少しの心配を交錯させた眼差しを送っていた。
 再び原稿用紙を目の前にしてみても、その集中力は損なわれていなかった。冬馬はリスタートの合図として酒を一口呑むと、ペンを握り、軽快に走らせた。
「失礼します」
「……」
 しばらくして渚が入ってきても、冬馬はそれに全く気を払わず、ただひたすら原稿を書き進めていた。いつもなら書いては考え、考えては書き直しと言う具合なのだが、今日は最初からすらすらと理想に近い形で書ける。
 だが、それでも疲れは集中力を乱す。冬馬はペンを握っている手が痛くなったので、一旦小休止を挟むことにした。
 伸びをしながら時計に目を遣ると午前一時少し前。そのまま渚に目を移すと、渚は冬馬の二本目のヒット作となった『黒の衝撃』を読んでいた。
「……どう、面白い?」
「え、あ、はい、面白いですよ」
 冬馬の声に驚いた渚は、慌てて本から顔を上げた。
「こういうサイエンスホラーは読んでいて難しいんですけど、でも先生らしさが良く出ていて、とっても面白いですよ」
「俺らしい、か……」
 褒め言葉なのだろうが、結局のところ変わり映えが無いと言うことだ。もしかしたら、今作も過去の礎に縛られているんだろうか?
 ……それじゃあ、俺の負けになる。
 冬馬は大きく息を吐き、酒の入ったコップを傾ける。そんな疲れ切った姿を、渚は少ししょんぼりとしながら見ていた。
「何だかお疲れのようですね」
「ん、ああ。でも大したことは無いよ」
「そうですか? でも……」
 すっと渚の顔に陰が射す。
 ったく、もしかしてまだ気にしているのか。
「なぁ、佐倉さん。まだやっぱり自分のせいで俺がこうなったと思ってるの?」
 驚きつつも、渚はためらいがちにではあったが、正直に首を縦に振った。
「……はい。まだ、少しだけ」
「やっぱりそうか。……うん、そしたら明日、気晴らしにどっか出掛けるか」
「えっ?」
 突然の申し出に、渚は冬馬を見詰めた。冬馬はおどけた調子で先を繋ぐ。
「こうやって俺も佐倉さんも家にばかり閉じこもっていたら段々考え方がネガティブになっていくばかりだから、明日は何もかも忘れてパーッと遊びに行こうか。小説のことも、メイドという立場も一日だけ忘れてさ」
「え、でも……」
「嫌だったらやめるけど」
「え、いいえ。すごく嬉しいです」
 ぱっと渚の顔が弾ける。それを見て冬馬も顔を綻ばせた。
「そっか。なら明日は晴れると良いな」
「はい」
「それじゃ、もう寝た方が良いな。明日は昼前にここを出ようと思ってるからさ」
「はい、わかりました。先生もあんまりがんばり過ぎて、寝坊しないで下さいね」
「わかったわかった」
 渚は相好を崩しながら書斎を後にした。
 一人になった冬馬はもうそれ以上書く気になれず、ペンを置いた。代わりにタバコを手にすると、火を点け、深々と吸い込んだ。
 勢いでああ言っちゃったけど、佐倉さんはどう思ってるのかな?
 迷惑だと思っていても、立場上そうは言えないのはわかっている。だがそれでもああ言い通してしまったのは、やはり俺のワガママなんだろうな。
 冬馬は大きく煙を吐いた。
 でも女と二人でどこかに出掛けるなんて、希美以来だな。
 紫煙の中にうっすらと希美の顔が浮かんだ。冬馬はその影に目を細め、軽くコップを傾けながら心を馳せていく……。

「折角の日なのに、こんな天気になるなんて思ってもいなかったよ」
 窓に張り付く雨粒を恨めしそうに眺めながら、冬馬は溜め息と共に吐き出した。
「仕方ないよ。天気予報だって今日は晴れるって言ってたんだから」
 気遣うように優しく微笑みかける希美が、愛しくもあり辛くも思える。
 付き合い始めてから十日もかかった初デート。学校外で初めて二人きりで外出できると張り切っていただけに、突然降り出したこの雨が憎たらしかった。
「まあね」
 少しでも気を紛らわしたく、俺は今し方ウェイトレスに運ばれたコーヒーを啜った。
「でも私、男の子とこういうとこに来たの初めてだから……」
 気恥ずかしそうに希美が視線を落とす。
「いや、俺もだよ」
「本当?」
「本当だよ。今まで女っ気が無かったから」
「そうなんだ。北川君てモテそうだから、そんな風には見えないけど」
 お世辞ではなく、心底意外そうに希美が目を丸くした。
「そうかな。でもそれだったら山口さんの方こそ、そうは見えないけどね」
「そんなこと無いよ。でも、おかしいよね」
「何が?」
 小さく笑う希美の心がわからなかったけど、心は暖かくなっていくのを感じた。
「お互いにそう思っていても何も無かったってのがさ」
「そうだね」
 世界の全てがほんのりと明るく、丸くなっていく。そんな錯覚が心を占めていた。俺はそれ以上希美を見ていられず、目線を逸らしながらコーヒーを啜る。そうしながら上目で希美を一瞥すると、彼女も同じようにして紅茶を啜っていた。
「そう言えばさ」
「ん?」
 沈黙に耐えきれず、先に口を開いたのは俺の方だった。
「山口さんは進学するの?」
「うん、するよ。北川君は?」
「俺も一応そのつもり。でも受かるかどうかわかんないけどね」
「大丈夫だよ。北川君、頭良いもん」
「そんなこと無いって。国語と世界史だけは良いかもしれないけど、英語や数学が全然ダメだからね。上手くいっても私立かな」
「そうなの? あ、でも私も世界史と数学は苦手だから、私立だと思う」
 そう言うが、希美のそれはいずれも学年五十番以内に入っている。対して俺の苦手教科は、いずれも赤点。何だか無理して俺に合わせてくれているのが、少し辛い。
 だが、仮に嘘だとしても、そう言ってくれるのは嬉しかった。
「そっか。そしたら山口さんの希望する大学に俺も入れるよう、勉強しないとな」
「大丈夫だよ、北川君なら」
「期待に応えられれば良いけどね」
「ふふ、期待してるからね」
 心が近付けた瞬間。
 心が温まった時間。
 もう、返らない日々……。

 タバコはすっかり灰になっていた。何とか膝の上に落とさないようにしながら、それを灰皿へと持っていく。が、失敗。
「うわっ、くそっ」
 舌打ちしながらひとまずタバコをもみ消すと、こぼさないようにそれを手で払いながら灰皿の中へ入れた。
 だが心は不思議と波立ってはいなかった。
 明日か。明日は俺にとってただの気晴らしだが、やっぱり楽しくしたいなぁ……。
 時計に目を遣るともう二時を回っていた。
 そろそろ寝るか。寝坊するのもなんだし。
 俺は残っていた酒を一気に呑み干した。