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目覚めは最悪だった。昨日呑み過ぎたというのもあったが、それ以上に今も頭の片隅でくすぶり続けている佐倉さんへのどす黒い感情に、俺は目覚めた瞬間から不機嫌だった。
自ずとと思い出される昨夜の記憶。しかしそれはおぼろげで、断片的でしかなく、何をどう言ったのかははっきりと思い出せない。
だがそれでも憎しみを抱くには充分だった。
……俺の書く作品を、そして得てきた地位や名声を否定するようなことを言いやがって。
他の何を否定されようがバカにされようが、平然と笑って受け流せる自信はある。が、こと小説に関しては違った。だから昨夜のささいなやりとりでさえ、俺の心を刺激するには充分過ぎた。
ったく、何がハッピーエンドにしろだよ。そんなものあるわけがないんだ。幸せなんて、その後に倍の不幸せへと変わるんだ……。
不意に夢で見た女性が頭に浮かんだが、それも一瞬だった。再び意識は佐倉さんへの怒りへと向かう。
あいつは大きな悲しみとか苦しみを知らないから、あんな甘いことしか言えないんだ。
だが俺は違う。それを知ってるからこそ、こうして書ける。そして読者もそれを望んでいる。
そうだ、俺のしていることに間違いは無い。あんなガキに、俺の何がわかると言うんだ?
自分の正統性を再確認していると、幾らか楽になれる。しかしそれでも苛立ちは拭えず、書斎を出て佐倉さんと顔を合わせるのはためらわれた。
まったく、これじゃあ何のためのメイドなんだか……。
大きな溜め息が漏れた。
網戸から激しい陽光の間を縫ってそよ風が流れ込み、それに乗って蝉の声が耳朶を響かせる。冬馬は座椅子に体をあずけ、ぼんやりと空を眺めていた。
今日一日、このままずっとこうしていたいなぁ……。
ささやかな願い。しかしそれも叶わない。
……くそっ、腹減った。
佐倉さんに会いたくはないのだが、かと言ってこのままいつまでも、こうしていられない。
俺は舌打ちしながら襖を開いた。
案の定、渚はソファに座っていた。書斎から出てきた冬馬に気付くと、渚はいつもと変わらぬ笑顔を向ける。
「おはようございます、先生」
「ああ、おはよう」
この変わらぬ笑顔がまた俺の心を逆撫でる。
こいつ、昨日のことを何も反省していないのかよ。
もしすまなさそうにしていたら幾らか許せる気になれたかもしれない。露骨に嫌ってくれたのなら、すぐに追い出そうとも思えた。
だがこうして明るく元気に振る舞われると、どうしても苛立ちが増してくる。微笑みが、俺への嘲りに見えてくる。
鼻で大きく息を吐きながら、冬馬はソファに腰を下ろした。
「佐倉さん、メシ」
「あ、はい。すぐに用意しますね。でもお味噌汁温め直すのに少しかかりますから、その間にお顔でも洗っていたらどうです?」
「言われなくてもわかってるよ」
「……」
苛立たしげに吐き捨てながら冬馬は洗面所へと向かった。それを見送ってから、渚は台所に立った。
朝食は目玉焼きに焼きベーコン、それに味噌汁とサラダだった。いつもと変わらぬ朝食、いつもと変わらぬ味なのだが、思うように箸が進まない。理由は明確だ。
「先生、今日は涼しくなるみたいですけど、どこかお出掛けする予定とかありますか?」
「いや、特に無い」
冬馬は黙々と箸を進める。
「あ、そうだ先生。今朝テレビで海水浴場の特集をやっていたんですけど、先生は海とかお好きですか?」
「まあな」
素っ気ない言い方にも渚は嬉しそうに笑う。
「そうなんですか。私も夏と海は好きです。でも泳いだこととかは無いんですよ。先生は泳ぐの得意なんですか?」
「いや、あまり」
渚が色々話を持ちかけるも、冬馬はそれを疎ましく感じていた。
頼むから、静かに食わせてくれ。
楽しく談笑しながらする食事は好きだ。が、こうした気分の中ではそれがただの苛立ちにしかならない。
気まずい沈黙が訪れる。が、それもすぐに渚が何とかしようと冬馬に話しかける。
「あ、先生、今日はですね」
「……佐倉さん」
「はい」
「少し静かにしてもらえるかな」
堪り兼ねたような響きに、渚はしょんぼりと目を落とした。
「……」
「……」
沈黙の中、二人は静かに箸を進める。
「……ごちそうさま」
「あ……」
冬馬は一通り食事を終えると立ち上がり、書斎へと足を向けた。そして襖に手をかけ、背を向けたまま一つ息を吐いた。
「……佐倉さん。俺はこれから寝るけど、別に起こさなくてもいいから」
「はい、わかりました。……あ、そうだ先生。これからお買い物に行こうと思ってるんですけど、何か買わなきゃいけないものとかありますか?」
「……いや、別に」
「お酒とか大丈夫ですか?」
「ああ、それじゃ買ってきてもらおうか。銘柄とかはわかるよな」
「はい。大丈夫です」
「……なら、他には無いから」
「わかりました。それではおやすみなさい」
「……おやすみ」
沈んだ声を残し、冬馬は新聞を手に取り書斎に入った。その姿を渚は一抹の哀しみを抱きながら消え行くまでじっと見詰めていた。
座椅子に身をあずけ、新聞を開く。
一面は京都でまた遺跡が発見されたと言うものだった。何でも新築工事の途中にそれが発見されたらしい。学問にとっては大きな手掛かりになるのだろうが、その住人は家も建てられなくなってしまったのだから、同情を禁じ得ない。不運な人だ。
新聞をあらかた読み終えると、書く気も起こらないので、とりあえず横になってみた。
だが、つい一時間前に起きたばかりなので眠れそうにはない。それ以上にこうしてじっとしていると、佐倉さんへのどす黒い感情が否が応に増幅していく。
ああ、何だってこんな気持ちになるんだよ。
両手で顔を覆う。だが視界が暗くなると、よりどす黒い感情が鮮明に浮かんできた。
「あーっ、くそっ」
勢い良く体を起こし、そのまま机を叩いた。
目に付くもの、肌で感じるもの全てが憎く、どうしようもなく苛立つ。名状し難い不快感が胸を疼かせ、またそれが全てを憎しみの対象へと変えてしまう。
「……外に出るか」
少なくともここでじっとしているよりは、幾らかマシになれるような気がした。俺はサイフをポケットに入れ、タバコを持つと、すぐに書斎を出た。
リビングに渚の姿は無かった。もしかしてと思い玄関に行ってみると、クツも無くなっていた。どうやらもう買い物に行ったようだ。
サンダルをつっかけ、鍵をかける。そうしてアパートの階段を下りた。
今日は涼しくなるらしいのだが、この陽光を浴びていると、どうしてもそう思えない。所詮、天気予報は予報でしかないと今更ながらに思う。
それでもこうして陽にさらされながら歩いていると、家にいるよりは気が晴れてきた。だがまだそれはささやかで、到底完全にとはいかない。
ぶらぶらと色々なところを歩き回ってると、いつの間にか商店街に来ていた。
佐倉さんに会うと面倒だな。違うところに行くか。
商店街に背を向けた途端、
「あ、冬馬」
後ろから辛島の声が飛んできた。
……更に面倒な奴に見つかっちまったか。
大きく溜め息をつきながら振り返る。もう辛島はすぐそこまで来ていた。
「何やってんの冬馬、こんなとこ来て」
「それは俺の台詞だ。お前こそ何でここにいるんだ?」
「家の近くに欲しい本が置いてなかったのよ。で、ここに来たわけなんだけど、ここにも無かったってわけ。帰ろうかとも思ったんだけど、来たついでに冬馬の家で呑もうかと思って酒屋さんに入ろうとしたら、アンタの姿が見えたのよ」
「何がついでに俺の家で呑むだよ。あつかましいにも程があるぞ。それにお前、まだ昼間だろうが」
「いいじゃない、別に。ところでそう言う冬馬はどうしたの?」
「別に。ただちょっと気分転換に散歩してただけだ」
だが、根本的な解決策は未だ見えないので、気分転換にもなっていない。
「ふーん、気分転換ねぇ……」
瑞穂が舐めるように冬馬の顔を見る。
「何だよ?」
「うん、確かに不機嫌のようね」
一人納得した瑞穂がうんうんと頷く。
「よーし、それじゃ私がその悩みを聞いてあげよう。こういうのは一人で思い詰めるより、誰かに話した方が楽になれるし」
まあ、確かに辛島の言う通りだ。
「それに今回はタダで聞いてあげるからさ」
「お前、カネ取る気だったのか?」
「冗談よ」
少しでも見直した俺がバカだった。
「ま、でもちゃんと聞いてあげるよ。じゃ、どっか落ち着けるとこに行こうか」
瑞穂に引っ張られるようにして、冬馬は商店街から離れた。
しばらく適当に歩き、小さな公園を見つけると二人はベンチに腰を下ろした。途中立ち寄ったコンビニで買った缶ビールを一口呑む。天気が良いせいか、格別な味がした。
「で、不機嫌そうな理由って一体何なの?」
缶ビールから口を離すと、瑞穂が冬馬を覗き込みながら単刀直入に訊ねてきた。
「……いやな、昨日佐倉さんとちょっとケンカしたんだよ」
「え、何で?」
「小説に対する考え方の違いからだ」
溜め息を伴って言葉が吐き出された。
「次回作もいつもの路線で行くって俺が言ったら、ハッピーエンドの方にしろってうるさくてな。それでケンカになったんだよ」
「そんなことでケンカしたの?」
「そんなことって何だよ」
辛島ならわかってくれると思ったのに。
「自分の今までしてきたことを、築いてきた術を真っ向から否定するようなことを言ってきたんだぞ。辛島はそういう気持ちわかんないのか?」
「いや、わからなくはないけどね。でもさ、ハッピーエンドにしてってのが何で冬馬を否定することになるわけ?」
「小説には、少なくとも俺の作品にはそれまでの自分が歩んできた歴史なり想いが詰まっているんだ。言わば物語は架空であっても、それは俺自身なんだよ」
冬馬は缶ビールを傾ける。
「だから、ダークストーリーを書いてる俺にハッピーエンドを書けと言うのは、それまでの俺を否定してるに他ならないんだよ」
「……でも、何かそれって違うんじゃない?」
「何?」
「だって、それってつまり前に進みたくない言い訳だよね」
「言い訳……」
辛島の一言が心に重くのしかかってきた。
「冬馬がどう思うか勝手だけどさ、私にはそうとしか思えないよ」
「……どうしてだ?」
「自分の大事にしてるものを守るってのは良いことだと思うけど、それに固執し過ぎていたら何も成長しないじゃない。何か話を聞いてるとさ、今の冬馬って都合の良いことしか耳に入れようとしてないみたいだよ」
一言一言紡がれる度、視界が暗く狭まる。
「渚ちゃんもさ、一読者として言ったんだと思うよ。だからそこに冬馬を否定する気持ちなんて無いと思う。なのに冬馬が勝手に否定されただなんて怒ってたら、渚ちゃんが可哀想だよ」
「……」
「だからさ、冬馬。難しいかもしれないけど、素直に謝った方がいいよ。きっと渚ちゃんだって冬馬に言ったこと、後悔してると思うし」
「……そうだな」
俺の言い分を、考えを肯定してほしかった。そのために、辛島に話した。
だが、こうして客観的に言われると、まだ禍根は残っているものの、確かに俺が悪い気がしてきた。
俺は、もしかしたら今の自分に落ち着いていたのかもしれない……。だからそれを変えらえるのが怖くて、ああ言ってしまったのだろう。
「……辛島、お前もたまには良いこと言うな」
「たまにはってのはなによ。いつもよ」
「ま、何にしろありがとうな」
「あ……、うん」
照れたように瑞穂が少しうつむく。
「それじゃ、そろそろ行くな」
「うん。じゃ、またね」
冬馬は缶ビールを一気に呑み干すと、瑞穂と別れた。
……帰ったら、謝れるように努力してみようかな。
黒い靄が、大分消えかかっていた。
ドアノブに手をかけると、鍵はかかったままだった。まだ買い物に出掛けているのかと思いつつ、ポケットから鍵を出す。
ドアを開けると、リビングで電話がけたたましく鳴っているのに気付いた。何度目かのコールかわからないが、早く出るにこしたことは無い。
冬馬はサンダルを脱ぐと、急いで受話器を取った。
「もしもし」
「こちら浅井病院ですけど、北川冬馬さんですか?」
病院? 一体何の用だ? まさか献血の強制参加じゃないよな……。
「はい、そうですが」
「ええと、佐倉渚さんが交通事故で当病院に運ばれたんですが……」
「は?」
そこまで聞くと冬馬は絶句した。それと同時に頭の中が白くなっていき、電話口の声がやけに遠くのものへとなっていく。
佐倉さんが、交通事故?
「あの、それで体の方は大丈夫なんですか?」
「ええ、意識ははっきりしているみたいなんですが、まだ検査の途中なので詳しいことは……。とりあえず病院の方へ来て頂けますか」
「はい。わかりました」
受話器を置くと、冬馬はせわしなくリビングを歩き回った。視点は定まらず、頭の中は混乱しきっている。
事故? 佐倉さんが? 買い物の途中で巻き込まれたのか?
不安に心臓が激しく波打つ。だが、いつまでもここでこうしているわけにもいかない。
冬馬は急いで身支度を整えると、電話でタクシーを呼んだ。
外は暑かったが、病院の中は快適だった。冬馬は受付で渚の居場所を教えてもらうと、大きく息を吐きながらエレベーターに乗った。
三階で降りると、教えてもらった通りの病室へと歩を進める。焦りはもうほとんど消えていたが、何となし足取りが重い。
指定の病室の前に着くと、俺は覚悟を決めてからドアノブに手をかけ、回した。
病室に入り、部屋を見回そうとしたところに渚の声が飛んできた。
「あ、先生」
冬馬は渚のいる左隅のベッドへと近付いた。
見たところ別段いつもと変わらない渚がそこに寝ていた。渚は少し沈んだ顔をしながら体を起こそうとしたが、冬馬がすぐにそれを制した。
「佐倉さん、大丈夫?」
「あ、はい。別にこれといったケガはありませんから。それより先生、すみません」
佐倉さんが何に対して謝っているのかはすぐに察しがついた。が、今はそれに対してどうこう言えるような状況ではないし、初めから言う気も無かった。
「ああ、別にいいよ。それより大したこと無くて何よりだ」
それよりも何事も無かったのに安堵した。
「はい、おかげさまで。でも……」
渚の顔にすっと影が射す。それに気付くと、また冬馬の胸に不安がよぎった。
「お買い物ダメになっちゃいました。先生に頼まれていたお酒も割っちゃいましたし」
「何だ、そんなことか」
俺はほっと胸を撫で下ろした。
「心配させるなよ、何かとんでもない後遺症でも残るのかと思ったじゃないか。ったく、買い物くらいどうだっていいよ。酒はまた買えば済むことだからな」
ま、あのオヤジには何か言われるだろうが。
それよりも、辛島には感謝しなければならない。もし辛島にああ言われていなければ、俺はこの一件で更に苛立ちなり憎しみなりを増幅させていたのかもしれないのだから。
「しかし事故って、一体何があったんだ?」
「えっと、その、私の不注意で走って来た車とぶつかったんですけど、そんなにスピードが出ていなかったのと、袋に入っていたものがクッションになってくれたおかげで、大事には至らず、少し足を擦りむいた程度で済みました」
「そうか、不幸中の幸いだったな」
「はい。でも、検査入院をしなくちゃいけないんですよ……」
渚は顔を曇らせる。
「どのくらいの間?」
「特に異常が見られなければ明日にでも退院できるみたいです。でもその間先生のお世話ができないので……」
別にこんな時くらいそんなこと気にしなくてもいいのに。
「ああ、俺のことは心配しなくてもいいよ。ガキじゃないからメシぐらい自分で作れるし、その他のこともできるしな。だから一日二日くらい平気だよ」
「……すみません、ご迷惑ばかりおかけして」
「あ、いや、こっちこそ。……昨日はひどいこと言っちゃったし」
言葉が自然と口をついていた。
視線を床に落とす冬馬に、渚が慌てて首を横に振る。
「いえ、先生が謝る必要なんかありません。私が出過ぎたことを言ったんで、先生が怒るのも無理はありませんでした。私の方こそすみません」
互いに昨日の出来事を謝り続けるのも、いささか不毛な気がしてきた。俺は少し考えた後、意を決してぱっと顔を明るくした。
「よし、もうやめよう。勝手だけど、昨日のアレは無しにしよう。な、それでいいだろ?」
「あ……、先生がそうおっしゃるのなら」
渚も顔を明るくする。
俺の中のわだかまりが、夏の陽と同じようなその笑顔に、ゆっくりと溶かされていくのを感じた。
「そう言ってくれると助かるよ」
「いいえ、とんでもないです」
……俺は今まで下らないことに苛立っては、一人で荒れていたんだなぁ。
「あ、そうだ。検査入院てことは着替えとかその他諸々の用意が必要だよね?」
「あ、そうですね」
「そしたら俺が必要なものを用意するけど、何かある?」
「え、いいえ。先生もお忙しいでしょうから、別にいいです」
「遠慮なんかしなくたっていいよ。さあ」
「あの、本当に……」
「いいからいいから、ほら」
「えっと……」
何をそんなに遠慮する必要があるのだろうか。別にこんな時くらい素直に甘えても良いと思うんだけど……。
そこまで考えると、あることに気付いた。
そっか、持ち物を色々見られたりするのを恥ずかしがっているんだな。
「ああ、わかったよ。うん、用意とかは佐倉さんの会社の方でしてくれるんだね」
「はい、そうなんですよ」
渚は安心したように頬を緩めた。
「でも俺が用意をしなくても、見ることはできるんだよなぁ」
「えっ、見るって……」
「例えば佐倉さんの下着」
途端に佐倉さんの表情が困ったような、恥ずかしそうなものへと変わる。
「どんなのがあるかなー。基本の白、爽やかさをアピールした青、プチセクシーな赤に、大分セクシーな黒。あ、水玉やクマさんプリントのなんてのも可愛くて良いかも」
「せ、先生ー。お願いですから、その……」
「いやー、今から帰るのが楽しみだ」
「あうー、先生~」
「なーんてな。冗談だよ」
ま、ケガ人にはこのくらいでやめとこう。
「……先生は意地悪です」
すねた佐倉さんを見ていると、何だかこう、面白さが込み上げてくる。
「そう怒るなよ、体に悪いぞ」
「……」
「おっと、もうこんな時間か」
ふと腕時計に目を落とす。午後五時過ぎ。今日は夕食の準備などをしなければならないので、早目に帰った方が良いだろう。
「それじゃ、佐倉さんは今日一日はゆっくり休むように。俺の心配なんかしないで、自分のことにだけ気を回すようにしろよ。明日からまた美味いメシ作ってくれるのを待ってるからな」
「はい、先生。明日からまたがんばります」
「ま、がんばり過ぎないように頼むよ」
冬馬はにっこり笑うと病室を後にした。渚はドアが閉まった後も、しばらく笑顔で手を振り続けていた。
それから医者から色々な説明を聞いたが、渚の言ってた通り異常が無ければ明日にでも退院できるということだった。面倒な手続きなんかは、渚の会社の方が全て請け負うらしく、今の冬馬がするべきことは小説を進めるだけだった。
帰宅途中、商店街に寄って晩メシの材料と酒を買った。案の定、酒屋の店主に不思議な顔をされたが、事情を説明すると納得してくれた……気がした。
家に帰るともう六時二十分になろうとしていた。少し早いかと思いつつ、冬馬は風呂の用意を始めた。
風呂から上がると、さっそく夕食を作り始めた。何だか久々に台所に立つような錯覚を覚えたが、包丁を動かしているうちに次第にそんなものは消えていった。
夕食は焼き魚に野菜の炒め物、それに味噌汁といった簡単なものであった。まあ、手抜きみたいなメニューだが、今日ぐらいはいいだろう。それに久々に自分で作ったとは言え、見た目はさほど損なわれていない。俺はさっそく箸を持った。
「……むっ」
見た目とは裏腹に、味はそうでもなかった。作り方を変えた覚えは無いのに、何故だか美味くない。
「……佐倉さんの料理に舌が慣れたのかな」
最初はそう思った。だがたかだか四、五日の間にそう味覚が変わるものなのだろうか?
自分好みの味付けにしている筈なのに、自分の舌に合わないとは一体どういうわけだろう。
料理自体に失敗があるわけでもない。食材も病院からの帰りがけに買ったから、鮮度が著しく落ちているわけでもない。しかし味は良いとは言えない。
何か釈然としないまま、冬馬は箸を進めた。
夕食を終え、食器を一通り洗い終えると、冬馬はいつものように書斎に入った。渚が交通事故に遭ったことはまだ心にいくばくかの不安を陰らせていたが、そればかりに固執していては仕事に支障をきたしてしまう。
冬馬は原稿用紙に向かうと、渚を忘れるように酒を呑んだ。
「……」
が、ペンは一向に動かない。原稿用紙に向かってからもう一時間は経つと言うのに、昨日と何も変わらぬままだった。
無論、ただ黙って座っていたわけではない。昨日までにできあがっていたプロットを何度も読み返してみたり、音楽をかけたり、酒を呑んだりして何とか想像力を喚起させようと努力していた。
しかしそれは全くの徒労に終わった。どう頭を捻ってみても、何も思い浮かばない。それどころかペンを持ち続けていることすら、次第に辛くなってきた。
「くそっ、全然ダメだ」
ペンを原稿用紙の上に放り投げ、ごろりと後ろに倒れる。
「何で書けないんだよ」
天井に視線をさまよわせていると、不意に佐倉さんの顔が思い浮かんできた。
交通事故、か。紙の上では車に轢かれるどころか、もっとすごいことが起こっては死んでいると言うのに、現実はあんなカスリ傷程度でこうも気を揉んでしまう。
……俺は、本当に今まで苦しみや悲しみといったものを書き切れていたのだろうか。
改めて現実というものが重く冬馬にのしかかる。そしてそこから、自分の作品の不完全さが見えてくるのと同時に、冬馬は何もかもが嫌になり、頭を抱えた。
「あー、こんなんじゃダメだ」
自分に活を入れ、再び原稿用紙に向かう。そしてとにかく書こうと、紙の上にペンを走らせてみた。
だがそれはやはり実の無いものにしかならなかった。ある程度まで進めてから改めて見直してみると、面白いどころか使えそうにもない。冬馬は苛立ちながらそれを消すと、またペンを走らせる。
しかし結局それもダメだった。それから幾度となくそういった作業を繰り返してみたものの、気付いてみれば最初から何一つ進んでいないのが現状だった。
時計に目を移してみると、まだ午前一時。本来ならばここからが勝負の時間なのだが、今日はもうそれよりもずっと働いているような気がした。
「まだこんな時間かよ」
やけに夜が長く感じる。一人でいるのには慣れている筈なのに、今日は何だかとても人恋しい。いつの間に俺はこんなに腑抜けてしまったのだろうか。そう思いつつ、冬馬は座椅子に深々と凭れる。
カーテンの隙間から月明かりが射し込んできている。何となく月に心惹かれたので、冬馬は酒を呑みながらカーテンを開けてみた。
皓々としている月が一瞬にして冬馬を包み込む。刹那、意識が彼方へと連れて行かれそうになり、冬馬はびくりと体を震わせると慌てて目を逸らした。
何だ、今のは?
おそるおそるもう一度見てみるが、今度はそういうことはなかった。依然皓々と輝いているものの、先程のような顔をしていない。
……大分疲れているな。
冬馬はタバコに火を点けると、ぐいっと酒をあおった。嚥下されたアルコールが、五臓六腑へと染み渡り、今度は違う世界へと旅立って行った。