八月十日 金曜日

 夢を見ていた。それはひどく懐かしく、楽しく、そして悲しい夢。
 寂しい町並みが目の前に広がる中、俺の隣には一人の女性がいた。顔はぼんやりとして良くわからないが、どことなく綺麗だというのはわかる。
「寒いね」
 何気無い一言が心を暖め、名状し難い安らぎが俺を包む。自然と俺は頷いていた。
「この調子だと、雪が降るのももうそろそろかな」
 冷たくなった両手を暖めるように、彼女は息を吹きかける。
「雪か。そしたら今年はホワイトクリスマスになればいいな」
「うん、そうだね」
 幸せな一時。だがしかし、その世界は言い知れぬ不安の中、白い闇に包まれていった。

「……暑い」
 冬馬が起きる頃にはもう大分陽は昇っていた。リビングの窓は開け放たれているのだが、そこからは熱気を伴った風しか入らない。
「……」
 ソファで寝ていたせいか、妙に疲れている。
「おはようございます、先生」
「ああ、おはよう」
 眼鏡をかけ、横たえていた体を起こす。と、足元に何か柔らかいものが触れた。
 ……布団。このせいで余計に暑い思いをしたんだな。
「このクソ暑いのに布団なんてかけるなよ」
 胸元をはためかせながら冬馬は吐き捨てる。
「あ、すみません……。でもおなか冷やすといけないかと思ったんで」
「あのなぁ、この天気でどうして腹な……」
 刹那、下腹部に猛烈な痛みが走った。
「腹なんて……」
 冷たい汗が吹き出す。
「……壊した」
「あ、先生」
 渚の声を耳に入れる前に、冬馬は急いでトイレへと駆け込んでいた。
 五分後、死闘を終えた冬馬がふらふらとソファに腰を下ろした。少しやつれ気味の冬馬に渚が麦茶を差し出し、心配そうな眼差しを送っている。
「大丈夫ですか?」
「まあ、大丈夫だ。酒呑んだらよくこうなるんだよ。日常茶飯事みたいなもんだ」
「呑み過ぎなんじゃないですか?」
「違う」
 少し苛立ったように言い放つ。
「ストレスだよ。あんまり書けないでいるから、内蔵もストレスを感じてるんだろ」
「え、でも昨日も大分遅くまでがんばっていたじゃないんですか?」
「がんばったからと言って、必ずしもそれが良い結果に結び付くとは限らないだろ」
「はぁ……」
「それより佐倉さん、何か和食以外の朝メシを作ってくれないかな」
「朝ゴハンって先生、もうお昼ですよ」
 渚は呆れたように冬馬を見詰める。
「起きて最初に食べるのが朝メシなんだよ。ま、パスタで何か作ってくれ」
「ミートソースでいいですか?」
「ああ。頼むよ」
 渚が台所に立つと、冬馬は大きく伸びをしてから顔を洗い、それを終えるとソファで新聞を広げた。
 一面は小学校で集団食中毒が発生したと言う記事で埋め尽くされていた。確かに、この暑さじゃすぐに食べ物も腐るだろう。俺とて佐倉さんが来るまではメシの作り置きをしていたくらいだ。
 今考えると、よく腹を壊さなかったなと思う。
 そんなことを考えながら新聞を読んでいると、朝食が完成した。ミートソースにコンソメスープ、それにサラダ。いつもと変わらぬ簡単なメニューではあったが、一日の最初の食事はこれくらいで丁度良い。
「ああ、佐倉さん」
「はい。何でしょう」
 渚がフォークを回す手を止める。
「これからも昨日みたいに昼夜の逆転した生活が続くから、昼間は一通り仕事とか片付いたら寝ててもいいから」
「わかりました。でも先生、あんまりがんばり過ぎたらダメですよ。体調崩しますから」
「ああ、わかったよ。あ、それと暇な時間とかができたら自由にしててもいいから。家の中でテレビ観たり、外出するなり好きにしていてかまわないから」
「え、でも先生のお世話が仕事なんで……」
 冬馬は大きく溜め息をついた後、苦笑した。
「俺だって赤ん坊じゃないから一通りのことはこなせるよ。そんなに気を遣う必要なんて無いから。ほら、あんまり仕事ばかりし過ぎると、疲れちゃって肝心な時に動けなくなるんだから。そうなると俺も佐倉さんも困る。気分転換も必要なんだよ」
「はい、ありがとうございます。でも私はこうして先生のお世話をして、先生の喜ぶ顔を見るのが一番の気分転換になるんです。先生のお世話をするのは、先生のためでもあり私のためでもあるんです」
 ……かなわないなぁ。
「そうか。ま、何にしろ無理はしないように」
「はい。がんばります」
「あ、でも一つだけ注意することがある」
「何ですか?」
「ウサギ小屋だ」
 うさぎと聞いた途端、渚の瞳が変わった。
「うさぎさんがどうかしたんですか?」
「行ってもいいけど、あまり長居はするな」
「……はい。善処します」
 こうして釘を刺しておかないと、また仕事を放り出しかねない。もう連れて帰るなんて面倒で恥ずかしい思いはゴメンだ。
 だが佐倉さんの瞳の奥で燃える情熱の炎を、まだこの時の俺は完全に見抜けなかった。
 食事を終えると冬馬は書斎で一服しながらプロットを練っていた。元々昼間はあまり頭が働かないのだが、締め切りを考えるとそんなことばかりも言っていられない。期日まではかなり日があるにしろ、まだ書き始めてもいないのだから。
 しかしやはり面白い考えは出てこなかった。プロット全体の半分ができているとは言え、それはまだまだ大雑把なものである。これから枝葉をつける残りの半分は、それまで以上の時間と想像力が必要なのである。
「どうしたら面白くできるかな」
 色々と考えを巡らせようとするが、どこから手を着けたら良いものかわからない。結局、冬馬は昨日出したものを見直し、あらかた推敲し終えると、ひとまず横になった。
 扇風機から送り出される風が気持ち良く、まどろみ始めた頃、突然佐倉さんが書斎に入ってきた。大方、客か電話のどちらかだろう。
「先生、二階堂さんからお電話です」
 ほら、やっぱり。……ん、二階堂さん?
 一体何の用だろうかと思いつつ、冬馬は受話器を取った。
「もしもし」
「おお、北川か。二階堂だ」
「北川か、じゃないですよ。一体何の用なんですか?」
「いや、渚がしっかりやってるかなと思って電話したんだが。どうだ、良い娘だろ?」
「いや、まあ確かに良い娘ですよ。家事とか色々がんばってくれていますしね」
 問題も多々あるけど。
「ほう。それならもう手は出したのか?」
 この人は何を言い出すのかと思えば……。
「いいえ、何もしていませんよ」
 その言葉に二階堂さんが電話越しに大きく驚く様子がはっきりと伝わってきた。
「おいおい、俺とお前の仲だろ。嘘なんかつかなくてもいいって」
「嘘じゃありませんよ。本当に手ぇつけてませんから」
「お前、いつからそんなストイックになったんだ? 似合わんからやめろ」
「あのですね、俺だって仕事で来ている女に手を出す程鬼畜じゃありませんよ。ったく、それだけならもう切りますよ」
 大きく溜め息をつきながら受話器を置こうかと思っていると、二階堂さんが慌てて俺を呼び止めた。
「あ、待て。本当の用件は別にある」
「何ですか?」
「ちゃんとした仕事の話だよ」
 ようやくまともな話になりそうだな。
「北川、次はどんな話だ?」
「いきなりそれですか」
 この人はいつも単刀直入に訊いてくる。ま、それが長所であり短所でもあるのだが。
「いいじゃないか、回りくどいのは嫌いなんだよ。で、どうなんだ?」
「次ですか。まあ、まだ半分くらいしかプロット固めてませんが、いつも通りの路線にしようかと思っています」
「そうか。なら問題ないな」
 二階堂は安堵の息を漏らした。
「お前の含みあるバッドエンド的作品はまだまだ売れ筋に乗せられる魅力があるんだから、決して悪い意味で読者を裏切ることだけはするなよ。読者はお前の作風を欲しているんだからな」
「わかってますよ。俺もそのつもりで書いていますから」
「それと、お前は手書きなんだから早目に書き上げろよ。編集するのも一苦労なんだから」
「……わかっていますよ」
「それじゃ、完成するのを楽しみにしているからな」
 それだけ言うと通話は終わった。
 受話器を置くと、冬馬は大きく息を吐いてから口の端を歪めた。
 二階堂さんの言う通りだ。俺はまだこの路線で人気を取れる。危ない冒険なんかして折角得た読者を手放す必要なんか無い。そう、俺はこれしか書けないのだから。
 冬馬はソファに座っている渚を見遣る。
「佐倉さん。俺はこれから少し寝るんで、六時半くらいに起こしてくれ」
「わかりました。それではおやすみなさい」
 冬馬は書斎へ入ると、すぐに横になった。時折入り込む涼風が冬馬を夢の中へと連れて行った。
 ふと目を覚まし時計に目を遣ると、六時少し前だった。このままダラダラと横になっているのも何だか無意味な気がしたので、とりあえず書斎を出た。
 リビングに佐倉さんの姿は無かった。昼寝でもしているのだろうと淡い期待を抱きつつ、麦茶で喉を潤す。
「……ふうっ」
 そうして幾らか元気になると、俺はそっと寝室の襖を開けてみた。
「やっぱりいない、か」
 もうすぐメシ時だ。外出許可を出しているものの、そろそろ帰ってきてくれないと困る。
 ……ったく、しょうがない奴だな。
 舌打ちしながら冬馬は靴を履いていた。
 遊び疲れた子供達とすれ違いながら、少し早足で歩く。日差しは大分弱まっているものの、やはりまだ暑い。
「あのお姉ちゃんも好きだよね」
「そうだね。でも何であそこまで好きになれるんだろ?」
 すれ違った小学生の会話が耳に入ってきた。
 ……はぁ、また今日もかよ。
 思わず溜め息が溢れた。
 予想していた通り、今日もウサギ小屋の前に渚がいた。
「うーさうさうさうーさーぎー」
 小学生数人と一緒に、どこから取り出したのか、うさぎにニンジンを食べさせている。 美味しそうにニンジンを食べるうさぎを、佐倉さんは喜色満面、破顔一笑、欣喜乱舞などの言葉ではまだ説明が足り無いくらい嬉しそうに顔を綻ばせていた。
「えへへ、カワイイなー」
「お姉ちゃん、ずっと見てて飽きないの?」
「うん、飽きないよ。だってうさぎさんだよ」
 意味不明だ。
「でも私、そろそろ帰るよ。お姉ちゃんは帰らなくていいの?」
「うん、大丈夫」
 大丈夫じゃないだろ。
「それじゃ、お姉ちゃんばいばーい」
「ばいばーい」
 手を振りながら去る女の子達とすれ違いに、俺は佐倉さんの背後に立った。だが佐倉さんは俺に気付いていない様子で、依然ニンジンを食べさせている。
「うさぎ、うさぎー」
「佐倉さん」
「赤いおめめのうさぎー」
 ……聞こえてないみたいだ。
「佐倉さん」
 今度は少し強く言ってみた。
「ふさふさ体のうさぎー」
 が、効果は無かった。
「長いお耳のうさぎさーん」
「さーくーらーさーん」
「わっ、先生?」
 耳元で言ってみて、ようやく佐倉さんが気付いてくれた。慌てて俺の方を振り返る。
「どうしたんですか? あ、もしかして先生もうさぎさんの良さに……」
「違う」
 あー、これだからガキは困る。大体俺はこのニンジンやうさぎなんぞに負けてるのか?
 冬馬の視線に気付いたのか、渚が慌てて頭を下げた。
「すみません、先生。私、気付かなくて……」
「ったく、わかれば良いんだよ」
 ま、俺は大人だから、これくらいで許してやろう。
「では。はい、先生」
「あん?」
 何を思ったのか、佐倉さんは俺に今までうさぎが齧っていたニンジンを手渡してきた。
「先生もうさぎさんにニンジンを食べさせたかったんですね。私ったらそれに気付かず、一人だけで……」
「違う!」
 手渡されたニンジンを地面に叩きつけた。
「俺のメシはどうしたんだ?」
 苛立ち爆発。思いっきり睨みつけてやる。が、佐倉さんは別段動じることも無かった。
「あぁー、ニンジンが……」
「ニンジンなんていい。帰るぞ」
 手加減など入れず、力任せに冬馬は渚をウサギ小屋から引きずり離す。
「あぅ〜、うさぎさーん」
 物悲しそうな佐倉さんなどおかまいなしに、俺はアパートまでまた不必要な重労働をする羽目になった。
「先生、あの……」
 ようやく我に返った渚が、心底すまなさそうに床に目を落としている。
「メシ」
 だが俺の怒りはおさまらない。
「あの……、本当に」
「いいからメシ。早く!」
「は、はい。ただいま」
 渚は慌てて台所に立った。
「……あれ?」
 買い物袋をあさる渚が困ったような声を上げた。テレビを観ていた冬馬は不機嫌そうに呻きながら、何事かと顔を向ける。
「ニンジンが無い……」
「さっきうさぎに食わせてただろ!」
「え、えっ?」
 渚は今にも泣き出しそうな顔で、冬馬の言ってることが理解できず、おろおろとしていた。
 夕食は渚の努力のあらわれか、今までより少し手の込んだものになっていた。
「カレーか。美味そうだな」
「でも見た目に味が伴うかどうか……」
「まあ大丈夫だろ。カレーくらい誰にでも作れるものなんだから」
 冬馬がカレーを口に運ぶのを、渚はじっと見詰めている。
「何だかそんなに見詰められていたら食いずらいなぁ」
「あ、すみません」
 ともかく冬馬は一口食べてみた。
「どうですか?」
「いや、まあ何て言うか……」
 何かが足り無い。ニンジンもそうなのだろうが、もっと何か……。
 渚が不安げに冬馬の顔を覗き込む。
「お口に合いませんでしたか?」
「うーん、それなりなんだけど何か……。あ、もしかして牛乳入れてないとか?」
「牛乳、ですか? 入れてませんけど」
 それで納得がいった。どうも今一つ物足り無いのはそこにあったのか。
「あれ、カレーに牛乳って入れるんですか?」
「ああ。少なくとも俺は入れるよ」
「そうなんですか。あの、すみません……」
 しょんぼりと渚はうなだれる。
「あ、いや、でも最初はみんな忘れがちになるものだから仕方ないよ。それにこのカレーもそんなに悪くないしさ」
 しかし物足り無いカレーは舌に慣れない。
「そう言えばさ」
 ふと何かを思い出したように、冬馬が手を止めた。
「佐倉さんはメイド派遣所って会社から来たんだよね」
「はい、そうですよ」
「そこには何人くらいのメイドがいるの?」
 日本でこういう職種の代表は家政婦だろう。それとメイドでは広義的な意味は同じなのだろうが、やはり何だか違う気がする。現に、今まで日本にこうした本物のメイドがいるなんて思ってもいなかった。
「ええと、三十人くらいですね」
「三十人……」
 風俗では人気ある職業の一つなのに、実際はそう大した数じゃないんだな。だが……。
「それだけいたら一応、『ドキッ☆メイドだらけの水泳大会』が開けそうだな」
 正に夢の祭り。最後のエデン。
 ちょっとだけ想像を浮かべた冬馬は、だらしなく頬を緩める。しかし渚はそれが一体何なのかわからない様子で、首を捻っている。
「あの、それってどういうものなんですか?」
「簡単に説明するとだな、女の子全員が水着姿でおっぱい出しながら、キャーキャー騒ぐんだよ」
「……」
 渚の非難するような眼差しも、今の冬馬には全く効かない。
「……でも、私の会社のメイドの平均年齢は三十七歳くらいですよ」
 しまった、忘れてた!
 間違いなく十代であろう佐倉さんがいるのにもかかわらず、平均年齢がこんなに高いなんて……。やはり日本にはオバサンメイドしかいないんだ。
 夢破れた冬馬は大きく溜め息をつくと、苛立ちを前身から発散させながら静かにカレーを平らげた。
 夕食を終えると冬馬は昨日と同じく後で渚に書斎へと来るように伝えた。渚は頷くと、すぐに洗い物に取り掛かった。
 机に向かい、原稿用紙を前に色々と考えを巡らせてみるが、一向に何も浮かんでこない。まだかなりの猶予はあるものの、こうして酒を呑んでいても書けないと、自分自身へのふがいなさと、思うように動いてくれない紙の上の人物へのもどかしさから、苛立ちへと変わっていく。
 ……くそっ。
「失礼します」
 酒をあおりながら悩んでいると、一言かけてから渚が入ってきた。
「ああ、ここに座って」
 すっと渚が冬馬の側に座る。
「先生、苦しそうですけど大丈夫ですか?」
 顔を顰め原稿へ向かう冬馬を渚は心配そうに覗く。
「ん、ああ。ちょっとラストへの展開をどうするか、そこまでどうやって持って行くのかに詰まっていてね。体調とかは大丈夫だから心配しなくてもいい」
「あまり無理をなさらない方が……」
「無理しなきゃ書けないんだよ」
 こいつは昼も夜も俺の邪魔をする気か?
 書けないストレスからか、今日の冬馬はいつにも増して酒量が多い。渚が書斎に入ってからまだそれほど経っていないが、それでももう五杯は軽く呑んでいた。
「……佐倉さん。佐倉さんは自分を支えているもの全て失ったとしても、何か大きな目的があったとしたらそれを果たせるかい?」
 虚ろになった瞳で冬馬は渚を睥睨する。
「そうですね。……難しいかもしれません。もしその目的を終えた先に何も無かったとしたら、ためらってしまうと思います。でも、必ずそうしなければならないとしたら、やっぱりそれに従うものじゃないでしょうか」
「それじゃ、その目的と言うものが多くの人命に関わると言うもので、それを果たすためには愛し合っている人と別れなければならないとしたら?」
「え、えっと……」
 渚は困ったようにうつむき、しばらく考えを巡らせていた。そしてようやく顔を上げた頃には満杯だったコップの酒が、もうほんの僅かになっていた。
「あの、良くわからないです。どっちを選んでも誰かが悲しむと思うので。でもどっちか必ず選べと言われたら、きっと大勢が人を助かる方を選ぶと思います」
「それによって自分が死ぬかもしれないと知っていても?」
 ストレスとアルコールが心を蝕んでいるのだろう。冬馬は今まで渚に見せたことの無いくらい厳しい口調で責め立てる。
「あ、え、えっと……、わからないです、すみません。先生、もしそれが次回作の結末だとしたら悲し過ぎます。何とかならないんですか」
「何とかって、ハッピーエンドにしろってことか?」
 冬馬は酔った眼で渚を睥睨する。
「え、あの、できればですけれど……」
 すっかり怯えた渚が、蚊の鳴くような声で呟く。
「誰もが助かる物語が見たいのか?」
「あ、……はい」
「そんなものはあるわけないんだよ!」
 冬馬の怒声に渚はびくりと身をすくめる。
「誰もが救われる話なんてあるわけがないんだ。何か一つの出来事があったら、必ず誰かが傷付くんだ。多かれ少なかれ、何かを失ってしまうもんなんだよ。万人が助かる話なんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある!」
「ううっ、……すみません」
 激しい冬馬の見幕に、渚は瞳を滲ませる。
「でも、現実ではありえないからこそ、せめてお話の中だけでも……」
「それが戯言だと言っているんだ!」
 冬馬は一升瓶から直接呑む。
 やっぱり素人なんて役立たずだ。
「もういい。今日はもう下がっていい」
「え、あの、先生」
「いいから、もう寝ろって言ってるんだ」
「……はい、わかりました。おやすみなさい先生」
 渚は頭を下げると書斎を後にした。書斎を出る時に目元を拭っていたのは多分気のせいではないだろう。
「……くそっ」
 俺はコップに半分程酒を注ぐと、それを一気に呑み干した。好きな酒なのだが、やけに今日は不味く感じる。
 原稿用紙に目を向けてみるが、依然何も浮かんでこない。焦りが苛立ちを募らせ、それが佐倉さんへの怒りへと転換していく。
 ったく、仕事の邪魔ばかりか今までの俺を否定するようなことまで言いやがって……。本っ当に役立たずもいいところだ。
 だが怒りをぶつければぶつける程、心に不快な闇が立ち込める。冬馬はぐいっと酒を嚥下した。
「あー、書けねぇ。マジで腹立つ」
 小説と言う俺の最重要テリトリーを土足で踏みにじられた気がする。大したことも言えないくせに、一人前に意見しやがって。
 ……使えないメイドだ。
 冬馬はペンを原稿用紙の上に放り投げると、音楽をかけながらコップに酒を注いだ。だが、幾ら呑んでも気が晴れるどころか、ますます苛立ちを募らせるだけにしかならなかった。

 かすんだ視界の先に、夢で見た彼女の顔が一瞬見えた。