「……うっ」
頭が痛い。呑み過ぎたか……。
重い瞼をゆっくり上げると、ぼんやりと視界が開けてきた。どうやらもう朝らしい。
テーブルの上はひどく雑然としている。今の俺の顔もきっとこんな感じなのだろう。まったく、辛島と呑むといつもこんな―─辛島? 佐倉……さん?
ソファに横たえていた体を急いで起こす。途端、すさまじい頭痛と嘔吐感が冬馬の体を貫いた。
「うぅ……」
気持ち悪いが吐く程ではない。いや、それよりも今は辛島と佐倉さんの方が心配だ。酔って何かしたと言う記憶は無いが、万が一ということもありうる。俺はおそるおそる向かいのソファに目を移した。
「……これは、一体?」
俺は我が目を疑った。それと同時に血の気が一斉に引いていき、危うく気絶してしまいそうになる。
テーブル越しのソファでは渚と瑞穂が下着姿で折り重なるようにして寝ていた。二人の服はその傍らに無造作に脱ぎ捨ててある。
もしかして俺は……。いや、でも下着はちゃんとなっているし……。
色々な想像が頭の中を巡る。しかしそのどれ一つもが現実とは思えなく、また思いたくもなかった。
もう一度二人に目を移す。あまり見てはいけないと思いつつも、佐倉さんの白い下着と、辛島の青い下着に目を奪われてしまう。
辛島の方が良い肉付きしてるけど、佐倉さんの体もまだ未知の可能性があるから捨て難いよなぁ……。
嬉しい反面、やはりこのままこうしている最中に目を覚まされでもしたら言い訳のしようがなかったので、冬馬はふらつく足取りで台所へと向かった。
「俺はしていない。何もしていない……」
ぶつぶつと呪文のように独り言を呟きながら頭に水をかぶろうとした途端、背後から小さな悲鳴が聞こえた。思わず心臓が跳ね上がり、その拍子に吐きそうになったが、何とかそれを堪えつつ俺は振り返った。
「バカ、こっち見ないでよ!」
辛島の声に驚き、俺は反射的に蛇口に向き直った。
一、二分経ったところで、瑞穂が冬馬を呼んだ。冬馬はあらかじめ用意しておいた三人分の麦茶の入ったコップを持ち、再びリビングへと戻った。
「あ、ありがとうございます……」
コップを渡すと、佐倉さんはうつむきながら礼を言った。辛島も虚ろな瞳で、しかししっかりと俺を見据えながらそれを受け取る。
二人のそんな態度に、俺は生きた心地がしなかった。
しばしの沈黙。だがそれも瑞穂が恨みがましそうに冬馬を睨みながら、口火を切った。
「……見たでしょ」
「え、あ、うん、まあな」
しらを切ったところで到底切り続けられるものではない。冬馬はどもりながらも正直に認めた。
「昨日のこと、ちゃんと覚えてる?」
「いいや、あまり」
「それじゃあ、冬馬が私と渚ちゃんの服を脱がせたこと、覚えてる?」
……嘘だろ?
「いや、……全く覚えてない」
佐倉さんを一瞥してみると、彼女はうつむき押し黙っている。悲しげな顔をしているのは気のせい……ではないだろう。
「冬馬、そしたらアンタは私達を無理矢理抱いたことも覚えてないわけ?」
……マジかよ。妄想だけの話じゃなかったのか?
あからさまな辛島の怒りに、俺はもう口も開けずにただうつむいてるだけで精一杯だった。酔っていた上での行動とは言え、もし辛島の言ってることが本当ならば、俺は人としての道を踏み外してしまったことになる。
二十五年生きてきて酒での失敗はそりゃ数え切れない程ある。しかし今回は失敗なんてレベルの問題で済むのか?
沈んだ視界の片隅に佐倉さんが顔を上げる姿が映った。今にも泣き出しそうなその顔は、もう別れの宣告のようにも見える。
……終わりだ。
佐倉さんはワッと泣き出すように勢い良く頭を落とす。と同時に、その口から思いもよらぬ言葉が聞こえてきた。
「すみません、先生」
「えっ?」
驚いて顔を上げる冬馬の瞳に映ったのは、瑞穂が慌てている姿だった。
「あー、渚ちゃん。ばらすの早いよー」
「は? ばらす?」
「でももう私、先生を見ていると……」
「あーあ、もうちょっと楽しんでいたかったのにな」
いまいち事態を飲み込めずに呆然としている冬馬に、渚は何度も頭を下げ続ける。
「すみません、先生。今の全部嘘なんです」
「嘘? 嘘……ってまさか」
冬馬は瑞穂に目を遣った。
「そのまさかよ。脱がされたとか抱かれたなんてのは嘘。私の作り話よ。いやー、しかしものの見事にひっかかるもんだからおかしくっておかしくって、途中で吹き出しそうになったわよ」
ケラケラ笑う辛島を見ていると、ふつふつと怒りが沸き上がるのを感じた。
「辛島ー。よくも……」
「何よ、お互い様でしょ。冬馬だって私達の下着姿見たんだから」
「ぐっ、そりゃそうだけど」
「だからチャラでいいじゃん。ほら、渚ちゃんももう謝る必要なんか無いって」
「でも……」
依然頭を下げている渚を見ていると、冬馬ももうそれ以上何も言う気にはなれなかった。
「……わかったよ。ほら、佐倉さんも顔を上げていいから。実際見ちゃったんだし」
「はい。すみません」
渚がやっと顔を上げると、瑞穂はコップを傾けた。
「でも昨日はさすがに呑み過ぎたわね。私、完全に二日酔いだわ」
「俺もだ」
「私もです。あ、何か軽く朝食でもお作りしましょうか?」
確かに腹は減っているのだが、今は食べる気が起こらない。俺と辛島はそれを断ると、一気にコップを空にした。
「先生、瑞穂さん。おかわりはいりますか?」
「いや、私はいいよ。もう帰るから」
瑞穂は立ち上がった。が、まだアルコールが大分残っているらしく、その足元はおぼつかない。
「大丈夫ですか?」
「へーきへーき。それじゃまたね」
瑞穂は渚に手を振りながらドアを閉めた。
「さて、片付けるとするか」
冬馬は大きく伸びをしながら雑然としたテーブルに目を遣る。
「あ、いいですよ先生。私がやりますから、先生はお休みになっていて下さい」
とは言われてもこの惨状だ、さすがに一人で片付けさせるのは酷に思えた。それに俺自身綺麗好きなので、早く片付けてしまいたい。
「いいや、俺もやるよ。一人でやるより二人でやった方が早く終わるだろ。それに佐倉さんも結構辛そうだし」
「あ、私なら大丈夫です」
そう言い終えぬうちに渚はふらつき、倒れそうになった。慌てて冬馬が渚を支える。
「ほら、大丈夫じゃないって。何なら佐倉さんの方こそ休んでなよ」
「あ、ありがとうございます。……それじゃ、二人で片付けましょうか」
冬馬は大きく息を吐きながら頷いた。
テーブルの上などのゴミは冬馬が、汚れ物は渚が片付けるといった役割分担が功を奏してか、さほど時間もかからずに掃除は終わった。
そうして全てが片付くと、冬馬と渚はソファに座りながらお茶を啜っていた。
「しかし本当に昨日は呑んだなぁ」
「そうですね。私もあんなに呑んだのは初めてです」
「ふーん。だからあんなに酔っていたのか」
「えっ?」
冬馬の意味深な視線に渚は一驚した。
「あの、私、実は昨日のことあんまり覚えていないんです。ですから、もしよろしければ私が何をしでかしたのか教えていただけませんか?」
「んー、俺もそんなに覚えていないからあまり話せないと思うが……そうだな、どこから話そうか。佐倉さん、昨日はどこまで覚えているかな」
「ええと、カクテルを二本呑み終えたあたりからだんだん気持ち良くなってきて、……あ、瑞穂さんに抱きつかれたとこまでは何となく覚えています。でもその後は……」
佐倉さんは必死に失われた記憶を辿ろうとするが、結局それは徒労に終わったらしく、力無くうなだれた。
「その後はだね、佐倉さんがみんなにお酒を注いでから辛島に抱きついたんだ」
「え、本当ですか?」
「ああ。それでしばらく二人でイチャつきながら酒を呑んでいたんだが、突然佐倉さんが辛島にキスしたんだよ」
「ええっ?」
「それでその後に『先生もどうですか』って」
「え……」
冬馬の言葉が重なるにつれ渚の頬が赤みを増すが、表情自体は強張っていく。
「俺は一応断ったんだけど、それでも佐倉さんは俺の唇を辛島と一緒に無理矢理……」
「うっ、もしかして……」
「奪われちゃった」
「……ううっ。嘘ですよね、先生」
今にも泣き出しそうな顔で渚は冬馬を見上げている。だが冬馬は目を閉じ、静かに首を横に振った。
「あああ、先生、すみません」
渚は勢い良く頭を下げた。
「すみません、すみません先生。私、酔っていたとは言え先生に……」
「嘘だよ」
「へっ?」
冬馬の言葉にピタリと渚の頭が止まり、こわごわと冬馬に目を向けた。
「今、何と……」
「だから、今までのは全部俺の嘘。冗談だ」
渚は少し膨れたように冬馬の瞳をじっと見据える。
「……先生は意地悪です」
だが冬馬は悪びれるどころか、さも楽しそうに笑っている。
「本当に、佐倉さんはからかいやすいなぁ」
「私、騙されやすいんですから、あまりからかわないで下さい」
だがこんな面白いものをそう簡単に手放す気にはなれないのが人情と言うものだ。
「そう言うってことは、過去に悪い男に騙されたことでもあるの?」
「無いです」
「そしたら多額の借金を抱え、無理矢理紹介された風俗で働かされたとか?」
「そんなこと、ありません」
「うーん、そしたら……」
「もう、そんな先生の言うようなことなんてありませんから、やめて下さい」
少し強めの語気で渚は冬馬に釘を刺すが、所詮豆腐でできた釘だった。
「ほう、俺の言うことは絶対に嘘だと?」
「あっ、えっと……」
ははっ、少し強く出れば途端にこうだ。
「いえ、そこまでは……」
「ま、どうせ俺はそんな人間だから、そう思われても仕方ないんだけどさー」
「あ、あの……」
泣き出しそうな程に困った顔を向ける佐倉さんを見ていると、からかうのがこれ程まで面白いものかと思えてくる。
ま、でもそろそろやめとくか。これで辛島に一杯食わされた気も晴れたし。
「なーんてな」
「えっ?」
「いやー、本当に佐倉さんはからかいがいがあるなぁ」
「……」
当然のように怒った顔を向けてくる。
「でも辛島と抱き合ってたのは本当だぞ」
「……うっ」
ばつの悪そうに渚はうつむく。
「まあ、そんなに落ち込む必要なんて無いってば。大体俺もその辺から記憶が無くなっているから、辛島も同じようなもんだろ。酒の失敗なんて失敗のうちに入らないよ」
「すみません。そう言ってもらえるとありがたいです」
「いやー、でも本当にキスされてたら嬉しいんだけどな。どうなのかは俺も覚えてないから何とも言えないが」
「先生、恥ずかしいこと言わないで下さいよ」
何とも言えぬ渚が目線を下に逸らす。
「まあ、冗談だ……とは言い難いな」
「……先生」
「ああ、そんなことはどうでもいいや。佐倉さん、俺は少し寝るけど、起こさなくていいから。まだ何か酒が残ってる感じがするんだ」
「そうですか。わかりました、それではおやすみなさい」
「あ、そうそう」
書斎の襖を開いた途端、思い出したように冬馬は振り返った。
「佐倉さんももう片付けとかその他はいいから、もう一度寝ときなよ」
「え、でも」
「いいから。何だかんだ言っても酒は残っているんだろうし、そんなんじゃ晩メシ作る前に倒れちゃうって」
「あ、はい。わかりました」
すまなさそうに渚は頷く。が、その顔はやはりまだ怒ってるようにも見えた。
「それじゃおやすみ」
「はい。おやすみなさい、先生」
書斎に入り、ふと壁に掛けてある時計に目を移した。午前十一時四十分。起きた頃には涼しくなっていることを願いながら、冬馬は横になった。
目を覚まし、かすむ目を時計に移すと午後四時を指しているのに気付いた。ひとまず大きく伸びをしてから寝汗に塗れたシャツを着替える。今日は風呂でも沸かしてもらおうかと考えながら、冬馬は書斎を出た。
「……いないのか」
リビングに渚の姿は無かった。きっとまだ部屋で寝ているのだろう。起こしたら可哀想だと思い、冬馬はゆっくりと台所に行って冷蔵庫から麦茶を取り出すと、静かに書斎へと戻った。
麦茶を軽く飲み、目覚めたところで白紙同然の原稿用紙に目を落とし、本格的に新作のプロットを考え始める。大筋はすでに決まっているので、これからいかに無理の無い範囲で面白くしていくかが勝負だ。
昨日長田に言った通り、今回も愛をテーマにしたダークストーリーにするか。誰に何と言われようが俺はこれで人気を取ってきたし、長田に言われなくてもこの路線が人気を博していることくらい知っているしな。
とりあえず主人公とヒロインの名前を書く。時間はかかったが、何とか良い感じの名前となった。そうしてキャラクターの姿をイメージしてみる。
すると昨日久々に楽しく呑んだせいかどうかはわからなかったが、物語の根幹となりえそうな要素が幾らか浮かんできた。忘れないうちに、すぐ書き記す。
これなら今日明日にでも固まりそうだな。
幾らか出た要素を切り捨てたり膨らませたりし、物語を大雑把に筋立てる。そしてそれに合わせ、主要なキャラクター像を明確なものとしていき、細かな設定を加えていく。
「ありゃ」
ふと麦茶が無くなったのに気付くと、冬馬は書斎を出た。
リビングにはまだ渚の姿が見えなかった。冬馬は冷蔵庫から麦茶を継ぎ足し、喉を潤す。
まだ寝てるのか?
こうして物音が聞こえない以上、まだ寝ていると考えるのが自然だ。だが幾ら何でも静か過ぎる。
どれ、ちょっといたずらしてやろうか。
テーブルにコップを置き、そっと寝室の襖を開けてみる。
「……あれ?」
だがそこにも渚の姿は無かった。
もしかして、あそこか?
苛立たしげに舌打ちしながら、冬馬は玄関のドアを開けていた。
午後五時少し過ぎ。陽が傾き始めているとは言え、夏は夏。外はまだ暑い。ちらほらと会社帰りのサラリーマン達がこの静かな町にも目立ち始めている。
その中を俺は商店街の方へと歩く。
だが商店街までは行かずに、右へと折れる。すると目の前に小学校が見えてきた。
……やっぱり。
案の定、渚はグランドの片隅にあるウサギ小屋の前にしゃがみ込んでいた。その周りには何人かの小学生がいる。
「うさぎ、うさぎ」
「お姉ちゃん、本当にうさぎ好きなんだね」
「うん、大好きだよ」
満面に笑みを浮かべて渚が頷く。
「だってこんなにカワイイんだよー」
「でもキーともチーともつかない声で鳴くからなぁ。それさえ無ければ好きになれるんだけど……」
「大丈夫、好きになったらその声もまた愛らしく聞こえるんだから」
「そうなの?」
「うん。初心者はこのもこもこ感から入るといいよ」
……何が初心者なんだか。
「じゃあ上級者は?」
俺は佐倉さんの背後に立ってそう呟いた。当然のように小学生達は驚いて俺の方を振り返ったが、それでも佐倉さんはうさぎに熱い眼差しを送り続けている。
「上級者はね、おもちをつく姿を見てるだけで胸がときめくの」
「そりゃ、月のうさぎだろ」
「月でも何でも、うさぎはうさぎ。カワイイのは同じだよ」
……まだ俺だとわかってないみたいだな。
「カワイイのはわかった。で、お仕事はどうしたのかな、メイドの佐倉さん」
メイドと言われ、驚いて渚が振り返る。が、すぐにまた顔を崩した。
「あ、先生。先生もうさぎさんを見に来たんですか?」
「違う。迎えに来たんだ」
「うさぎさんをですか?」
「佐倉さんをだ」
近くに置いてあった買い物袋を手に取り、佐倉さんを立たせる。
「さ、帰るぞ」
「あうー、もう少しだけお願いします」
「ダメ」
引きずるようにしてウサギ小屋から離れる。
「うぅ〜、また明日ー」
ここまでくるとウサギ中毒だな。
俺達の姿を見ている小学生は一様に呆然と立ち尽くしたままだった。
帰宅するなり、渚が申し訳無さそうに頭を下げた。
「すみません先生、また私……」
「いいよ、もう」
苛立ちの静まらない俺は冷たく突き放す。
「……申し訳ありません」
「いいから風呂にしてくれ。汗かいた」
「あ、はい。今からすぐに準備しますね。晩ゴハンはその後でよろしいんですよね?」
「ああ。でも晩メシの支度は佐倉さんが風呂に入った後でいいから」
「わかりました。それでは」
ペコリと頭を下げると、渚はすぐに風呂場に向かった。
風呂が焚き上がるのはあっという間だった。だが風呂に入っていたのは、もっと早い気がした。一番風呂で汗を流すのは爽快なのだが、夏なので長湯はできない。
十分程しか風呂場にいなかったにもかかわらず、バスタオルで拭いても拭いても汗が流れる。汗を落とすために風呂に入ったのに、そのせいで汗をかくとは何とも不条理な気がしたが、文句を言ったところで何もならない。
冬馬は着替えると素早く扇風機の前に座り、涼を楽しんだ。
渚が風呂から上がり、夕食の支度を始める。その間、冬馬はテレビを見ながらも、ひたすらプロットを練っていた。
夕食は豚肉の生姜焼きに海鮮サラダ、それに味噌汁といった簡単なものであった。特に味に不満がある筈も無い。だが冬馬はふと箸を止めて渚を見た。
「どうしました先生?」
「……佐倉さん」
「は、はい」
緊張した面持ちの渚が冬馬を見詰める。
「メシのことなんだけどさ」
そこまで言うと渚は頭を下げた。
「すみません。今日はあの、確かに味付けに失敗しちゃいましたけど、でも……」
「ああ、味付けのことじゃないんだ。これは失敗したなんて思ってないし、思いもしなかったから」
慌てて謝る佐倉さんを制する。
「え、それでは一体?」
「いや、別に大したことじゃないんだが、もっと色んなバリエーションの料理を食ってみたいなと思ったんだ。二人分の食費くらい大した額じゃないからさ」
それを聞き、渚はばつの悪そうな顔をしながらおずおずと口を開いた。
「えっと、あの、私、あまり難しいお料理は作れないんですよ」
やっぱりそうか。
「あ、でも明日から何とかするようがんばります。私、一生懸命色んなお料理を覚えます」
「まぁ、そんなに焦らなくてもいいよ。料理自体は美味しいんだから、少しずつな」
それに、急いでやられるとどんな失敗をされるかわかったもんじゃない……。
「はい、ありがとうございます」
そんな冬馬の胸中など露知らず、安心したように渚は微笑んだ。
「あ、そうだ。『ヘマトフィリア』読み終わりましたよ」
「で、どうだった?」
「はい。すっごく怖くて、でもそれだけじゃない何かがあって、ドキドキしました。とっても面白かったです。……でも、結局誰も助からないので、哀しくなりました」
寂しげな渚の瞳は少しだけ落ちた。
「ま、バッドエンドだからなアレは。最初から誰も助からないように考えていたし、途中で変える気もなかったしな」
「先生はそういうのがお好きなんですか?」
「んー、好きってよりは書きやすいから書いていると言った方が正しいかな。あ、でもそれだったら好きとも言えるか。佐倉さんはどうなの?」
「私はやっぱりハッピーエンドの方が好きです。そっちの方が読んだ後に幸せな気分になれますんで」
「確かに俺も読むのはそうかな。でもそういうのは書けないんだよなー」
額に手を当て、冬馬は少し困ったような顔を下に向ける。
「あ、いや、そんなつもりじゃないんです。……すみません」
心底申し訳無さそうにに渚が頭を下げる。
「あ、こっちこそそんなつもりじゃ……」
ったく、なだめるのも面倒臭い。これだからお固いのは……。
「うん、でも一回そういった作品も書いてみたいとは思ってるよ」
「そうなんですか。ぜひ見てみたいです。あ、もしかして次の作品がそうなんですか?」
「いや、まだそれは何とも言えないが。そうだ、片付けとかが終わったらまた書斎に来てくれないかな」
「はい。わかりました」
夕食を終えると、冬馬は書斎に入った。机の前に座り、酒を呑みながら原稿用紙に目を落とす。時間が経っていたので良い状態で続けられるかどうか不安があったが、書き記されたプロットを見、酒を呑んでいるうちにそんな心配はどこかへ消えていた。
「失礼します」
「お、来たか。ちょっとこっちに座って」
幾らかすると渚が書斎に入ってきた。冬馬は渚を自分の側に座らせる。
「それで、私は何をすればよろしいんでしょうか?」
「脱いで」
「……」
しまった。同じネタは二度も通用しないか。
「冗談だって。もう、佐倉さんったら、そんな怖い顔しなくてもいいじゃないか」
「……それで、本当は何なんでしょうか?」
「ああ、ちょっとこれから色々訊ねるから、それについて意見を聞かせてほしいんだ」
「はい、わかりました。それで、今回はどんなお話なんですか?」
「まだ大筋しか決めていないんだけど、今回は血の束縛をテーマにした作品を書こうかと思っているんだ」
「血の束縛?」
「ああ。主人公とヒロインが愛し合うんだが、ヒロインが家の束縛、つまりは特殊な家系のため、主人公との愛の障害となってしまう話なんだ」
「なるほど。でもそれだと何だか暗いお話になりそうですね」
「そうだな。多分今までと同じような路線の作品、つまりダークストーリーになるだろう」
「そうなんですか。でも私は明るいお話が見てみたいです」
それを受け、冬馬は少し渋い顔になる。
「うーん。でも今までこの路線で売ってきているからなぁ。おいそれとそれを楽しみにしている読者を捨てられないよ。ま、さっきも言ったがそういうのはいずれ書くかもしれないけど、今回は無いかな」
「あ、でもどんな作品でも面白いのが一番です。怖くて悲しいんですけど、先生の小説は面白いんです。だから自分に自信のあるお話を書くのが一番です」
冬馬の顔を見て、渚は慌ててそう言った。
「ま、そう言ってくれると助かるよ」
「ありがとうございます」
渚は少しだけ胸を撫で下ろした。
「それで先生、そのお二人はどうやって出会うんですか?」
「具体的なシチュエーションは決めていないんだが、とりあえず偶然の出会いをさせようかと思っている」
「なるほど」
「それからしばらくして二人は愛し合うようになるんだが、ヒロインの血を欲している者が二人を引き離し、その血を得るために彼女の大切なものを次々と奪っていくんだ」
「大切なものって何です?」
「そうだな……例えばヒロインを支えてくれている人とかかな。そういった人が殺されていったりとか」
「えぇー、そんな。そしたらヒロインがあまりにも可哀想です」
「ま、話を面白くさせるためにはそういうのも仕方ないさ。所詮紙の上の出来事なんだし」
驚く渚に対し、冬馬は平然とした顔で簡単にそう理由付けた。
「でも……あ、何か救いとかは無いんですか」
「うーん、起伏をつけるためには幾らか設けようとは思うが、根本的なそれは考えていないのが現状だな」
「そうなんですか」
少しがっかりしたような佐倉さんを見ても俺の心は揺らがなかった。
所詮、佐倉さんは素人なのだ。甘い幻想ばかりではこの世界で食べていけない。
だが、もしかすると視野狭窄に陥っているかもしれない俺に、何らかの新しいアイデアを与えてくれるかもしれない。使えるかどうかは別として、聞くだけ聞いてみるのも悪くはないだろう。
「それじゃあ佐倉さん、何でもいいから面白いと思えるような考えがあるとしたら教えてくれないかな」
「えっと、そうですね……」
しばらく考え込んだかと思うと、急に渚の表情がぱっと明るくなった。
「ヒロインが無理矢理主人公から引き離されるのではなく、自分の意志で去ると言うのはいかがでしょう?」
「あ、良いな、それ」
「本当ですか? ありがとうございます」
よほど嬉しいのか渚は喜色満面で一礼した。
「他には何かあるかな?」
「そうですね……」
しばらく考え込んだかと思うと、今度は難渋したまま小首を傾げた。
「すみません。何も思いつきません」
「ああ、別に謝らなくてもいいよ。一つでも教えてくれたんだから、それで充分だって。あ、しばらく何も無いけど、また何かあったら頼むから、そこら辺で楽にしていてくれ」
「はい。わかりました」
渚は冬馬の邪魔にならないよう、少し後ろに退いた。
プロットが半分くらいできあがり、四杯目の酒を空けた頃にふと時計を見てみるともう午前四時半だった。あれからプロット製作に没頭してしまい、一度も佐倉さんに声をかけていない。もしかしたらいつの間にか部屋に戻っているのかもと思い俺が後ろを振り向くと、そこには佐倉さんが気持ち良さそうに寝ていた。
寝顔はとても安らかだった。耳を澄ませば静かな寝息さえ聞こえてくる。
そんな佐倉さんの寝姿を見ていると、戸惑いと同時に何か暖かいものが流れてきた。
「……こういうのも、良いかな」
これがささやかな幸せと言うものだろうか。確かに、悪くはない。だが今はこの気持ちに明確な意味はいらない。今はただ、この状況を噛み締めていたい……。
冬馬は軽く微笑むと、寝ている渚に自分の布団をかけた。