暑さにうなされ目を覚ますと、もう十一時近かった。だが夜型の冬馬にしてみれば別段遅いというわけでもなく、むしろ丁度良いくらいの起床時間だった。
そう言えば昨日から佐倉さんが来ているんだったっけな。
ふと昨日一日を思い出す。しかし突然メイドが家にやってきたなんて夢か幻のように思え、いまいち現実としての実感が湧かない。
「……佐倉さん?」
眠い眼をこすりながら、おそるおそる呼んでみた。もし本当に昨日が夢だとしたら、何とも間抜けな独り言である。
しかしそれは独り言では終わらなかった。
「はい。先生、おはようございます」
襖が開いたと同時に、昨日と同じメイド服姿の渚がそこにいた。
……やっぱり夢じゃなかったんだ。
目の前で正座をしている渚を呆然と見詰めていると、渚はそれきり口を閉ざしている冬馬を不思議そうに見詰め返してきた。
「どうしました、先生?」
その言葉に冬馬は我に返る。
「え、あ、いや、別に何でもないんだけどね。もう起きているかなと思って声をかけてみただけだよ。しかし随分早いね」
「ええ、もう六時には起きていましたよ。先生、昨夜は遅くまで書いていらっしゃったんですか?」
「え、いや、昨日はそうでもないな。確か二時半くらいまでしか起きていなかったし。あ、遅く起きたと思っているだろうけど、俺は夜型だからこのくらいが普通なんだ」
「そうなんですか」
納得したように渚は頷く。
「ところで今まで何していたの?」
「えっと、朝食の支度をした後、昨日先生からお貸りした『ヘマトフィリア』を読んでいました」
『ヘマトフィリア』は冬馬のデビュー作であり、最初のヒットとなった作品である。内容は血液嗜好症(ヘマトフィリア)の主人公がある女性を愛するものの、結局は己の欲求に負けてその女性を殺してしまうと言う、現代版吸血鬼の話である。
救い無き結末であるにも関わらず、ある程度売れたのは、写実的な心情描写が恐怖を喚起させるからだと、以前二階堂がそう評していた。
「まだ途中なんですけど、それでも段々怖くなってきて、背筋に冷たい汗が流れる思いがしました」
「それじゃ、クーラーはいらないな」
「えへへ、そうかもしれませんね。でも本当にそう思わせる先生ってすごいです」
「あ、ありがとう」
思わず視線を床に落とし、そのままうつむいてしまう。
何だかそう言われるとくすぐったいなぁ。
「そうだ、悪いけど麦茶を持ってきてもらえないかな。昨日酒呑んだから喉が渇いてしょうがないんだ」
「はい。今お持ちしますね」
麦茶はすぐに運ばれた。よく冷えていたので、喉に負担がかからないようにゆっくりと半分程飲む。そうしてやっと目が覚めた気がした。
「はぁー、少し落ち着いた」
大きく息を吐きながら冬馬は渚を見詰める。
やっぱり一日経ってもまだ慣れないなぁ。何かこうしていても居心地の悪さは拭えない。
「どうかしましたか?」
じっと見詰められていた渚が不思議そうに冬馬を見詰め返す。
「いや、そのメイド服なんだけどさ」
「これがどうかしましたか?」
冬馬に言われ、渚は自分の服に目を落とす。
「スカートの丈って膝下くらいだよね」
「はい。そうですよ」
「もうちょっと短い方が似合うと思うんだけど、どうかな?」
「短く、ですか……」
渚はスカートの裾を僅かに指でつまむ。
「ああ」
「えっと、先生はどのくらいが丁度良いと思いますか?」
「膝上四十センチくらい」
「それじゃあパンツ丸見えですよー」
「それが良いんだよ」
「……」
非難するような視線が向けられる。
はいはい、わかりましたよ……。
「わかった、今のは冗談だ。だからあんまり本気で受け取るなよ」
渚は幾らか安心したように息を吐いた。
「でもやっぱり膝上三十五センチくらいにはしてほしいな」
「……先生」
また渚の眉根が寄る。
「だーかーらー」
呆れたように、少し苛立ったように冬馬は舌打ちした。
「冗談の通じない奴だな」
「……すみません」
反省半分、怒り半分と言ったとこだろうか。
良い人なんだろうが、ノリが今一つ悪いんだよな。
「いや、別に謝んなくていいから」
「あ、はい」
気を取り直すように渚は軽く頭を下げた。
「あの、先生」
「ん?」
「ゴハンはいつ頃にしますか?」
そう言われると急に今まで忘れていた空腹感が湧き起こってくる。時計を見ると、もう十二時になろうとしていた。
「それじゃ、そろそろメシにするかな」
「はい。それじゃすぐにお味噌汁温め直しますね」
渚は台所に立った。
ゆっくりとTシャツにジーンズといったラフな格好に着替えてから顔を洗い、朝刊に目を通し始める。
一面はまた大手銀行が倒産したと言う記事だった。このところ不況風が絶えないのだから仕方ないと思う反面、従業員には同情してしまう。
ま、そんなことになりたくないから俺は小説家になったのだが。
そんなことを考えていると、いつの間にか昼食の用意が整ったようだった。メニューは昨日の夕食とさほど変わらぬ簡単な和食だったが、特に不満などある筈もなく、冬馬は箸を進める。
「どうですか先生」
おずおずと訊ねる渚に、冬馬は憮然と返す。
「いや、美味いよ。心配なんかする必要無いと思うけど」
「よかったー。私、お料理はあまり得意じゃないので自信無かったんですけど、先生にそう言ってもらえると何だか自信がつきました」
それでも嬉しそうに破顔する佐倉さんを見ていると、何だか自分まで嬉しくなっていく感じがする。幸せの好循環と言うやつだろう。
寝起きの不快感が消えていくような感覚を抱き、冬馬はふっと微笑んだ。
「しかし良いもんだな、こうして誰かとゆっくり食事をするのは」
「そうですね。やっぱり一人よりは大勢で食事をする方が楽しいですよね」
正にその通り。だが別に大勢ではなくとも、こんな可愛い娘とメシが食えるだけで俺は満足だ。あとはノリが良ければ言うこと無いんだが……。
しかしそうは思っていても、女慣れしていない冬馬はやはりどこか緊張してしまう。現に、今こうして話していても、素顔の自分ではなく、仮面をかぶって演技をしているだけに過ぎない。
「先生、今日は何か御予定とかはおありなんですか?」
「今日?」
佐倉さんに言われてカレンダーに目を移す。カレンダーの八月八日の欄には赤ペンで『長田』と記されてある。
「ああ、今日は長田が来るんだったな」
「先生、長田さんって誰ですか? もし差し支えなければ教えていただけますか」
「長田ってのは俺の担当編集者なんだ。俺よか年上なんだけど、いつもおどおどして下手に出ているから、どうもそうは思えなくてね。今日はあいつと打ち合わせがあるんだよ。ま、打ち合わせって言っても大したことは話さないんだけどね」
「そうなんですか。それでその長田さんと言う方はいつ頃いらっしゃるんですか」
「確か、二時過ぎだったかな」
「そしたら早く食べちゃった方が良いですね」
「そうだな」
そうは言っても残っているのはサラダだけだったので、食べ終えるのにそう時間はかからなかった。
食事を終えると佐倉さんはすぐに洗い物に取り掛かった。新聞を読み終え、何となし台所で食器を洗っている佐倉さんの後ろ姿を見ていると、どことなくこれが日常の一部のように感じたりもしたが、やはりまだまだ程遠いものがある。
一体いつになったら俺はこの生活に慣れるのだろうか。
唐突に始まった新生活。その未来に冬馬は一抹の希望と多大なる不安を抱いていた。
やがて洗い物を終えた渚がエプロンで手を拭きながら、パタパタと冬馬に近付いてきた。
「あの、先生……」
「ん、何?」
「これからお買い物に行きたいんですけど……」
「いいよ。ついでに酒買ってきて。銘柄はそこにある一升瓶と同じ奴ね」
酒がなくなりかけていただけに、この申し出は助かる。まぁ、重いだろうがそれはがんばってもらうしかない。
「えっと私、この辺りに来るのは初めてなので、よろしければこの町を案内して下さいませんか?」
「そうなんだ」
「はい、お願いします」
確かにこのままだと買い物を頼めそうにもない。ま、長田が来るまでまだ時間はあるから、ちょっと食後の散歩がてら案内するのも悪くはないか。
「んじゃ、散歩がてら一緒に行くとするか」
「すみません、お手数かけます」
申し訳無さそうに渚は頭を下げる。
「それじゃ、支度が整い次第行こう」
「はい」
五分も経たないうちに二人共支度が整った。一応火元や戸締まりなどを確認してから外へ出る。
「……暑い」
「そうですね」
外は快晴だった。遮るものはほとんど無いので、真夏の陽光が容赦なく二人を照らす。家を出てまだ一分も経っていないのに、もう冬馬は汗をかき始めていた。
「やっぱりもう少し涼しくなってからにしないか?」
「でも夏は暑いものですから仕方ないですよ。それにこのままだとお買い物できませんし」
「わかってるけどさ……」
まだ緑が多いこの辺りは、時折そよ風が吹いてもムッとする熱気しか運んでこない。
「はぁ。とっとと道案内を済ませたいから、なるべく一回で覚えてくれよな」
「はい、がんばります」
俺の住むアパートから商店街までは数回角を曲がるだけで着くものの、やはり土地勘が無いと辛いものがあるかもしれない。
事実、佐倉さんは辺りをきょろきょろと見回し、目印を確認しながら歩いている。
「ねえ、佐倉さん」
「はい、何でしょう」
額に汗を滲ませ始めている渚が振り向く。
「佐倉さんはお祭りとか好き?」
「ええ、大好きですよ。雰囲気だけでも充分楽しいんですが、やっぱり屋台巡りですよね」
「ま、そうだな」
高いのが珠に傷なのだが。
「タコ焼きにチョコバナナ、クレープにリンゴ飴、そしてわたあめ。もう、考えるだけで幸せです」
「……食い物ばっかりだね」
「えっ、あはは……」
照れ笑いが寒々しく響く。
「しかしそんなに食べたら太るだろ」
「幸せ太りってやつですよ」
「違うと思う」
「……むぅ」
ま、こういうとこは女の子らしいな。
「でも残念だねぇ」
「何がです?」
「お祭り。三日前に花火大会があったんだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。花火、綺麗だったよ」
と言っても家から出るのが面倒で、書斎の窓から見ていたのだが。
「……残念です」
そうこうしていると商店街のアーケードが見えてきた。まあ、アパートから徒歩十分くらいの距離だから、こうして話をしていればあっと言う間だ。
「あ、ここですか」
「そう。ま、ちっちゃい商店街だから迷うことも無いだろ」
アーケードをくぐると、小さな青果店や雑貨屋などが立ち並んでいた。規模が小さいため、向こう端まで二百メートル強と言ったとこだろうか。
「さて、まずは酒屋から回ろうか」
「はい」
商店街の中程にある馴染みの酒屋に入る。
「お、先生じゃねえか」
レジに座っていた初老の店主が冬馬の姿を見るなり、嬉しそうに立ち上がった。
「あれ、その娘さんは先生の知り合いかい?」
冬馬の後ろに立つ見慣れぬ少女を視認するなり、店主は冬馬と渚を交互に見詰める。
「ああ。彼女は昨日から俺の家で働くことになったメイドさんだよ」
「メイド?」
当然のように、店主はぽかんと口を開けたまま渚を見詰めている。
「メイドって……」
聞き慣れぬ言葉を聞いたためか、店主は眉根を寄せたまま冬馬の方へ目を向ける。
「お手伝いさんのことですよ」
「あ、ああ、お手伝いさんね」
ようやく理解した店主の顔がぱっと晴れる。
「でも何でまた急にお手伝いさんなんて雇ったんだい?」
「いや、昨日突然ウチの出版社からボーナスと言う名義で派遣されてきたんだ。ま、これから俺の代わりに買いに来ると思うから、よろしくしてやってくれ」
冬馬が渚に目を遣ると、渚は一歩前に出た。
「佐倉渚です。よろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
さすがに客商売して人慣れているのか、店主はそれほど動じはしなかった。
「でもな、先生」
「ん?」
「未成年には酒は売れないって知ってるかい」
「あっ……」
確かにそうだ。今まで何の苦も無く買っていたから、すっかり忘れていた。
「何とかならないか?」
折角面倒な買い物の手間が省けそうなのだ。ここですんなりとは引き下がれない。
「何とかって言われても、こっちもお上に目を付けられたら困るからなぁ」
「そこを何とか」
手を合わせ、拝み込んでみる。
「はは、冗談だよ。こんなことで大のお得意様を失いたくないからな。大丈夫だよ」
「ったく、人が悪いんだから」
「悪かったな、先生。で、今日はそれだけなのかい?」
言われてはっと我に返る。
「いや、買い物に来たんだ」
「いつものやつで良いんだろ?」
「ああ」
酒や夕食の材料を買うと、渚が両手に袋を持ちながら商店街を後にした。
そよ風も止み、アスファルトからの照り返しが一層激しさを増す。そろそろ一時半を過ぎようとしているので、今頃が一番暑い盛りなのかもしれない。
「あの酒屋のおじさん、良い人ですね」
右手から左手に袋を持ち替えた渚が、不意に冬馬を見上げた。
「まあ、そうだな。俺とは長い付き合いだし、お互い酒好きだからな」
「先生って、いつからお酒を呑み始めたんですか?」
「二十三年前からだ」
「えっ?」
佐倉さんが俺の顔をしげしげと見詰める。
「先生って、確か二十五歳ですよね?」
「そうだよ」
「……まさか」
「そう、二歳から呑んでる」
自信たっぷりに答えてみた。
「体壊しますよ」
「大丈夫。俺の血は半分がアルコールでできているんだ」
「……」
呆れたまま前を向く佐倉さん。が、何かを発見したらしく、不意に立ち止まった。
「どうした?」
「……うさぎ」
「あん?」
熱病に冒されたような渚の視線の先には、小学校の片隅にあるウサギ小屋が見えた。
「ああ、あれか」
そう言い終えるより先に、渚がふらふらとウサギ小屋へと向かう。
「うさぎ、うさぎ」
「おい、どこに行くんだよ」
慌ててその右肩を掴むも、佐倉さんは出す足を引っ込めようとはしない。
「えへへ、うさぎー」
「待てってば」
今度は動けないよう両肩をしっかりと掴む。案の定、佐倉さんは前に進もうとしているのだが、動けないでいる。
「先生、離して下さいよー」
すねるような、甘えるような声で渚は哀願する。
「どこへ行くんだ?」
「うさぎさんのとこです」
「行ってどうする? 食うのか?」
暑い最中、何で俺はこんなことをしてる?くそっ、腹立つなぁ。
「違いますよ、なでなでしてくるんです」
「何で?」
「カワイイですから」
「どこが?」
次第に怒気を含む冬馬の言葉にも気付かぬ様子で、渚がとろんとした瞳で答える。
「長い耳、つぶらで赤い瞳、小柄でふさふさしたあの体。もう、どれを取ってもカワイイじゃないですか」
「……」
完っ全に仕事を忘れてるな。
「だから止めないで下さい。お願いですから離して下さいよー」
「ダメだ。帰るぞ」
「うぅー、ちょっとだけですから」
「長くなりそうだからダメ。暑いからダメ。とにかくダメ。さあ、帰るぞ」
苛立ち全開ですがる佐倉さんを引きずるようにして、俺は歩き始めた。
ったく、何でこのクソ暑い中、俺がこんなことしなきゃならんのだ。
「あうー、うさぎさーん」
「忘れろ!」
「うさぎさーん」
そのまま俺は佐倉さんを引きずりながら、アパートへと向かった。
ようやく帰宅した頃にはシャツは汗塗れになっていた。新しいシャツに着替えた俺は、どっかりとソファに座る。
「……すみません、先生」
ようやく我に返った渚が、心底すまなさそうに頭を下げている。
「……」
だがこの暑さの中、いらぬ重労働を強いられた俺は簡単に許す気になれず、麦茶を飲みながらタバコをふかしていた。
「あの、あれは私の悪い癖で、うさぎを見るとどうしても、その……」
「……疲れたなぁ」
「……すみません」
「それに、暑かったなぁ」
「……うっ、すみません」
「加えて、重かったなぁ」
「……」
こうして少しでも憂さ晴らししておかないと、長田と会った時に些細なことで爆発しかねないからな。
だがこれ以上こうしていても不快感が募るだけだと判断した冬馬は、タバコをもみ消すとすぐに書斎に消えた。
二時少し過ぎに玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」
窓を拭いていた渚が手を止め、エプロンで水気を拭いながら玄関へと赴く。しかしその前にドアが開いた。
「こんにち……うわっ」
「きゃっ」
案の定、訪問者は長田勇樹だった。多分、と言うか絶対に佐倉さんを見て驚いたのだろう。俺でさえ開いた口がしばらく塞がらなかったんだ。気の弱い長田だったら腰でも抜かしていることだろう。
しかしそんな冬馬の期待を裏切るかのように、玄関から聞こえてきたのは普通の応対であった。
「すみません、驚かせてしまって」
「あ、いえ、こちらこそ。佐倉さんですよね。先生はいますか?」
「はい。あ、どうぞ」
「それじゃあ、お邪魔しますよ先生」
……何だか悔しい。
冬馬のいる書斎に長田が渚に案内されて入ってきた。今日も天気が良いせいだろう、長田は額や鼻頭に結構な汗をかいている。
何だかそのまま放っておくのはあまりにも可哀想な気がしたので、扇風機を長田に向けてやった。
「いや、今日も暑いですね」
渚が運んできた麦茶を美味しそうに一息に飲み干す長田を見ていると、何だか急に喉が渇いてきたので、冬馬も軽く一口飲んだ。
「何だ、知っていたのかよ」
「何がです?」
「佐倉さんのことだよ」
「ああ、そのことですか。ええ、編集長から話だけは聞いていたんで。でもメイドがいるとだけしか伝えられていなかったんで、実際に見てみたら想像と違っていたもんで、ビックリしましたよ」
「どういうことだ?」
「ほら、普通は家政婦とかメイドって中年くらいの女性がやるってイメージがあるじゃないですか。僕もそう思っていたんですよ。でもいざ見てみたらまだあどけない少女じゃないですか。まったく、犯罪ですよ、先生」
長田の言う通り、歳は確かめていないが佐倉さんは中高生くらいに見える。まあ、歳を聞くと失礼だし、何だか怖い気もするのでやめておこうか。
「何が犯罪だ。何にもしていないって。それに俺が選んだわけじゃないだろ。二階堂さんが勝手によこしただけなんだから」
何だか当然のような軽口も長田に言われると腹が立ったので、冬馬は長田を睥睨した。
「あ、すみません。冗談ですってば」
「わかってるよ。ったく」
子供のように頭を掻きながら、長田はペコリと謝った。
「それで、今日は何だっけ?」
「ええとですね、今日は先生が新連載用のプロットをどこまで進めているのか見に来ただけですから」
まさかほとんど何も考えていないとは長田相手と言えど、さすがに言いにくい。
「それで先生、新作はどんな内容なんです?」
「え、ああ、まあ大筋が決まったくらいで、まだ何とも言えない段階かな」
「へぇー。とか何とか言ってまだ何も考えていないんじゃないんですか?」
普段はどちらかと言えばぼんやりしているくせに、時折こうして鋭いツッコミを入れるのが長田の恐ろしいところだ。
「そんなことは無い」
「それじゃ、大筋だけでいいですから教えて下さいよ」
長田め、知ってて言ってるのか。
「そうだな……、ま、今回も基本的にはダークストーリーで行こうと思っている」
「先生の得意な路線ってわけですね」
「そう。それでジャンルはサスペンス」
「そしたらあれですか、また男女の愛が核となるバッドエンド的な作品ですか?」
「うーん、男女の愛については書こうと思っているんだが、結末はまだ考えていないな。ま、でもきっとバッドエンドだろう」
「なるほど。まあ、先生が書くんですからね、これで三本目のヒットとなるのを期待していますよ」
「どうかな、ヒットってのは」
期待してくれるのは嬉しいのだが、あまり過剰に期待されるのも困る。
「大丈夫ですよ。先生の書くその路線の作品は人気が高いんですから」
「そうか? まぁいいや。ところで締め切りはいつ頃だ?」
「八月いっぱいです。末日が締め切りとなるので、プロットの方は一週間程度で仕上げて下さいね。でもいつもの先生の文量だったら三、四回の連載なので、そんなに急がなくても大丈夫だと思いますけど」
一月に七十枚程度。……ま、何とかなるか。
「わかった、何とかプロットは完璧にしておく。それで次はいつ来るんだ?」
「五日後です」
「ああ、それなら空いているから大丈夫だな」
「先生、ちゃんと書いて下さいね。あ、それじゃ僕はそろそろ失礼しますよ」
そう言うと長田は去っていった。
長田のいなくなった書斎で冬馬はタバコに火を点けると、ぼんやりと窓の外に視線をさまよわせる。
「プロットか……。どうするかな」
昨日は二時半まで起きていたとは言え、結局大した成果を上げられなかったというのが現状である。しかしこうして締め切りを提示された今、あまりのんびりはしていられない。
原稿用紙に目を落とし、紙の世界に没入しようとする。が、一向に何も浮かんでこないのに加え、風鈴が子守歌のように響く。
……。
「佐倉さん、しばらく寝るから夕食頃に起こしてくれ」
「わかりました」
それが唯一思い浮かんだものであった。
「先生、先生、起きて下さい」
渚に揺り起こされ、冬馬は目を覚ました。時計を見てみるとまだ五時だ。夕食には早い。
「どうした、何かあったのか?」
あまり寝た気がしない冬馬は、寝惚け眼をこすりながら渚を見る。
「お客さんです」
「客?」
今日は長田以外来る予定の客はいない筈だった。それでも誰か来ている以上は仕方ない。俺は重い体を起こすと、のろのろと玄関へ足を向けた。
が、その足はすぐに止まった。俺は突然の訪問者と目を合わせると、溜め息をついた。
「いよー、遊びに来てやったよ」
「何だ、客って辛島か」
「何だとはなによ、折角来てあげたのに」
「招かれざる客め。俺は忙しいんだよ」
「冬馬が忙しい? そんなわけないでしょ。あ、もしかして忙しいわけはあの娘? ねえ、あの娘一体誰なの?」
辛島と呼ばれた女性は興味深そうに冬馬と渚を交互に見る。その視線に気付いた渚は、少し前に出てペコリと頭を下げた。
「私はここでメイドとしてしばらくの間働くこととなった、佐倉渚と申します」
丁寧な渚の応対とメイドと言う言葉にたじろぎはしたものの、
「えっと、私は辛島瑞穂。冬馬とは大学からの知り合いで、私が二年後輩だったってわけ。今は冬馬と同じとこで小説を書いているんだけど、まだ売り出し中の身なの。渚ちゃんだったよね。これからもよろしく」
瑞穂は渚と握手を交わした。
「で、冬馬。メイドって何なの?」
「俺も良くわからないんだが、昨日いきなり来たんだ。何でも二階堂さんの紹介だってな。でもいいぞ、メイドってのは。家事全般こなしてくれるんだから。誰かさんみたいに呑み散らかしてばかりなのとはわけが違う」
「うるさいわね。そんなこと言うと折角買ってきたお酒、呑ませないから」
瑞穂は右手に提げていたビニール袋を冬馬の目の前に突き出した。中にはビールやら日本酒やらカクテルといったアルコール類と一緒に、幾らか酒の肴も入っている。
「いいよ、別に。俺は今週中にプロットを仕上げなきゃいけない身なんだ。だから、お前にかまってる暇は無いの」
「ひっどい言い草ね。そんなこと言わないで少しくらい付き合ってくれたっていいじゃないの。コレ、重かったんだから」
「んじゃ、それ置いて帰れ」
「な、何てこと言うのよ」
あまりにも無下な冬馬の言葉に、瑞穂は怒りを通り越してただ驚くだけだった。
そんな瑞穂の瞳にふと渚が映る。
「あ、それじゃ、冬馬は別に呑まなくてもいいわよ。私は渚ちゃんと呑むから」
「え? でも……」
突然の誘いに渚はどうして良いかわからず、すがるように冬馬を見上げる。それを受け、冬馬は憮然と首を横に振った。
「お前、無茶言って佐倉さんを困らせるなよ」
「冬馬には聞いていないの。ねえ、渚ちゃんはみんなでワイワイ楽しむのは好き?」
「あ、あの……はい。嫌いではありません」
蚊の鳴くような呟きではあったが、瑞穂の耳はそれをしっかりと捕らえていた。
「よーし、それじゃワイワイ楽しもう」
「あ、おい、コラ」
冬馬の制止を振り切り、瑞穂は渚の肩を抱きながらリビングへと上がり込んだ。
「本当にしょうがない奴だな」
「ん? 何か言った?」
瑞穂は上機嫌で冬馬を振り返り見る。
「いや、買ってきてくれてありがとうなって」
冬馬は肩を落とすと、袋から酒や肴を取り出すのを手伝った。
買ってきたものを並べただけで、テーブルは埋め尽くされてしまった。仕方ないので半分程の酒は足元へと置く。しかしさすがに乾き物だけでは空腹は満たされそうになかったので、渚が台所に立った。
瑞穂も一応手伝おうかと声をかけたものの、やんわりと断られたため、今は冬馬の向かいに座っている。
「ねえ、冬馬」
「うん?」
「二階堂さんって一体何考えているのかな」
辛島の言いたいことは良くわかる。しかし問われたところで俺が返せるものはあまりにも少ない。
「さあな。あの人の考えていることはいつもわからんよ」
「そうだよねー。でも今回ばかりは感謝しているんじゃないの?」
「まあ、そうだな。確かに佐倉さんは色々良くやってくれているよ」
「その他にもあるでしょ」
瑞穂は含みのある笑顔を冬馬に向ける。
「何が言いたい」
「だって冬馬って女っ気が無いからさ、渚ちゃんがいつも側にいてくれるだけで幸せなんじゃないの? でも渚ちゃんも可哀想よね、こんな飢えたケダモノの檻の中に放り込まれてさ」
「おい、どう言う意味だ?」
「どう言う意味もこう言う意味も文字通りよ」
「お二人共、仲がよろしいんですね」
いつもだったらここから一気に口ゲンカの後に呑み比べへと発展するのだが、今日はタイミング良く渚がラーメンサラダを持って二人の間に割って入ってきた。
「わー、美味しそー」
「でもお口に合うかどうか」
ソファではなく床に正座する渚を見て、瑞穂が手招きをする。
「そんなトコに座ってたら足痛いでしょ。ほら、一緒にこっち来て座ろ」
「いえ、大丈夫ですから」
「いいからいいから、一緒に座ろうよ」
「え、はい。では失礼します」
瑞穂に強引に誘われ、渚は瑞穂の隣にチョコンと腰を下ろした。
「何だ、何も呑んでいないのにもう酔っ払っているのか? 安上がりな奴だな」
「違うわよ。ま、とにかく乾杯しよう。ほら、渚ちゃんも好きなの取って」
「でも、私は」
お酒はあまり呑めません。そう言う前に瑞穂は渚にカシスソーダを渡した。
「はい。これなら甘いから呑み易いわよ」
「あ、ありがとうございます」
渚がそれを受け取ると、冬馬と瑞穂はビールを手にした。
「それじゃ、かんぱーい」
瑞穂が音頭を取ると、三人はほぼ同時に缶に口をつけた。
うむ、何だかんだ言っても、暑い夏に呑むビールは美味い。
「美味しー、これ」
冬馬が口を離した時にはもう瑞穂は料理に手をつけていた。冬馬もそれを皿に盛り、食べてみる。
「うん、美味い」
「ありがとうございます」
渚はぱっと顔を明るくした。
ラーメンサラダを食べ終え、瑞穂が買ってきたビールが全て空になる頃にはもう時計は九時を示していた。
冬馬と瑞穂程は呑んでいないものの、渚も程良い酩酊感を味わっており、三人はすっかり打ち解けていた。
「へぇ、そしたら瑞穂さんは恋愛小説を書いていらっしゃるんですか」
「そう。でもそれだけじゃなく、他にもSFホラーとかも書いているの」
瑞穂の言葉に渚はしきりに感心している。
「そうなんですか。それじゃあ今度読ませていただきます」
「あ、そしたら今度遊びに来た時にでも持ってきてあげるね」
「ありがとうございます」
すっかり上機嫌の瑞穂は満面の笑みを浮かべている。
「カワイイわねー、渚ちゃんは。それに比べてアンタは何て可愛くないのかしら」
「お前ごときにそんなこと言われるとは、俺も終わりだな」
「ムカツクわねー。だから可愛くないのよ。ホント、渚ちゃんもこんな奴と寝食を共にしていると大変でしょー?」
「あ、いえ、そんなこと無いですよ」
「遠慮なんかしなくてもいいのよ、私が許すから。あ、言いたくても本人を目の前にしていたら言えないか」
顔を寄せる瑞穂に、渚は慌てて小さく両手を振る。
「いえいえ、まだ先生とお知り合いになってから一日しか経っていませんが、とても感じの良い方ですよ。私なんかにも気を遣って下さいますし、それに色々優しくして下さるんですよ」
その言葉に思わず照れてしまった冬馬は、ごまかすようにコップを傾けた。
「あれー、もしかして冬馬、照れてるの?」
「そんなことは無い」
「またまたー」
「まあまあ瑞穂さん。あ、先生、空いていますよ。お注ぎしますね」
佐倉さんが助け舟を出してくれたおかげで、それ以上辛島に言及されることはなかった。
「ところで渚ちゃんは今までに男の人と付き合ったことある?」
「え、いいえ。……一度も、ありません」
恥ずかしそうに渚はうつむく。
「うそー、こんなにカワイイのに?」
辛島が驚くのも無理はない。俺もこれは意外だった。
「ありがとうございます。でも本当ですよ」
「へぇー、世の男ってのは案外見る目が無いんだねー。でもよかったね冬馬。これでアンタにもチャンスがあるんじゃないの?」
「辛島、顔と言い性格と言い、すっかり世話好きオバサンになっているぞ」
「なんですってー。アンタ、二十三の生娘をオバサン呼ばわりする気?」
「はっ、誰が生娘だ」
冬馬は一笑に付した。
「ホント、腹立つわ。渚ちゃん、冬馬ってこんな男なんだから間違っても好きになったら後悔するわよ」
渚はどう答えたら良いかわからず、曖昧に頷くだけで精一杯だった。
瑞穂の買ってきた酒類はもうすっかりなくなっていた。三人が酔いにまかせて冬馬の一升瓶に手をつける頃には、もう日付も変わっていた。
「だからー、何で男の人っていつも身勝手なのかって聞いているのよ」
「それはさっきから言ってるように、お前の男運が良くないだけなんだって」
「あー、またそうやって自分は違うって顔してる」
「まあまあ。瑞穂さんは良い人なんですから、きっとお似合いの方がすぐに現れますよ」
「そんな根拠の無いことは言わないの。哀しくなるだけなんだから。でも渚ちゃんて本当に良い娘よねー。そこいらの男よりずっと素敵。もう、大好き」
赤い顔をした瑞穂が渚に抱きつく。
「私も瑞穂さんは好きですよー」
渚も渚でかなり酔いが回っているらしく、幸せそうに顔を崩している。
「もう、カワイイこと言うじゃないの。どれ、お姉さんがキスしてあげる」
「えー、ダメですよ。キスは大切な人のためにとっておくものですよ」
「いいじゃないの。私、渚ちゃんのことが好きなんだから」
「おい、お前ら。女同士でそんなことするな。ここに俺という男がいるじゃないか」
少し苛立ったように言う冬馬も、すっかり瞳が虚ろになっている。
「何か言った?」
「言ったよ。女同士でそういうことするよか、俺にした方が健全だってな」
「私、先生のことも好きですよー」
相好を崩す渚につられ、冬馬の顔も緩む。
「佐倉さんは良い奴だなー。それに比べお前は何だ。少しは見習え」
「何よ。あー、もしかして冬馬は私に好かれたいの?」
「そんなんじゃなくて、お前も少しは可愛げのあるとこを見せろってことだ」
「アンタが見せなさいよ」
「ほらほら、先生に瑞穂さん、コップが空になっていますよ」
渚はおぼつかない手つきで一升瓶を持ち、それぞれのコップに注ぐ。
「お、ありがと。でもそう言う佐倉さんもコップが空いているぞ」
「え、私はもう呑めませんよ。あ、いいですから先生」
「またまたー。だから渚ちゃんはカワイイんだから」
冬馬と瑞穂は顔を見合わせ笑うと、二人で渚のコップに注いだ。
「それじゃー、渚ちゃんにかんぱーい」
瑞穂の何度目かの音頭に三人はコップを合わせる。もう三人共自分の限界を越えているのだが、雰囲気のためか苦もなく酒が入っていく。
「いやー、今日は楽しいなぁ」
「そうですねー。お酒ってみんなで呑むと美味しいんですね」
「ホントそうなのよねー」
三人は顔を見合わせたかと思うと、大きく笑った。そうした笑い声が静かな夏の夜に、いつ果てるともなく続いていた。