エピローグ

 あれから三年が経った。そしてその間に、色々なことが流れるように変わっていった。
 二階堂さんの反対を押し切ってまで発表した作品である『蜻蛉』は今まで以上に読者の反響も良く、部数増加に一役も二役もかっていた。おかげでクビを切られずには済んだ。
 二階堂さんはこうなることをあらかじめ見越していた上でああ振る舞っていたと言ってるが、実際はどうだかわからない。底が浅いのか深いのか誰にも見極められない人物なので、本人がそう言っている限り、それを信じるしかなかった。
 辛島はあのショックからすっかり立ち直ったらしく、今でもふらりとやって来ては酒を呑んでいく。
 最初は気まずさから、なかなか目を合わせられなかったものの、辛島の方がそれまで通り接し続けてくれたため、次第に俺も必要以上に気兼ねすることも無くなり、今では前以上に仲良くやっている。昨日も辛島が大きな袋を持って呑みに来たくらいだ。
 だけど二回に一回は途中で亜紀さんが辛島をつかまえにやってくるので、泥酔になることは少なくなった。
 昨日も結局、酔った辛島を引き取りに訪れた。何だかんだと文句を言う亜紀さんも、決してこのやりとりが嫌いなわけではなさそうに思える……のは気のせいだろうか。
 しかし当の俺はと言えば、今までとはやはりどこか違っていた。表面上、辛島達と接している時は明るく振る舞っているものの、やはり不意に渚を思い出してしまうと、沈みがちになってしまう。
 辛島がしばしばやって来るのも、そんな俺の気を紛らわせるためにも見えた。しかし、幾らそうしても俺の瞳を覆っている灰色の膜が消えることは一度も無かった。
 仕事においても変化は現れていた。書けなくて苛立ちを募らせながらも、純粋に何かを創り出すことに喜びを感じていた以前とは違い、今ではすっかり書くという行為が苦痛となっていた。
 それでもあれから何本か作品を発表したものの、今一つ評価は上がらず、一部の関係者からはピークを過ぎたとまで言われている始末だった。その度に長田が励ましてくれるのだが、俺の心を上向きにさせるまでには決して至らなかった。
 渚がいなくなってから何度か二階堂さんから新しいメイドを派遣してやろうかと言われたが、その都度俺は断り続けた。誰も渚の代わりになるなんて思っていないし、そうしようとも思わないからだ。
 通り過ぎる日々だけが虚しく重なり、どこまでも堕ちてゆく生活。
 今、俺は二階堂さんに無理を言って充電期間と言う名の長期休暇を取っているが、別段何をするわけでもなく、ただひたすら酒に溺れていた。
 思い出だけに心を馳せ、体が壊れていくのも厭わずに今日も……。

「酒が、切れたか……」
 渚とのデートの時に買ったお香を焚いては、今日もあの日を思い返しつつ酒を呑んでいた。が、その酒ももう無い。手元にある一升瓶は昨日買ったばかりだと言うのに。
「くそっ」
 苛立たしげに舌打ちすると重い腰を上げ、仕方なく酒屋へと買いに行くことにした。
 耳をつんざくような蝉の声もすっかりなりを潜め、今ではもう秋の匂いがこの町を包んでいた。まだ多少暑いものの、すぐに寒くなるだろう。
 あの夏は渚と一緒に買いに行っていた……。
 不意に視界が揺れ、胸が痛んだ。
 ふらつく足取りで酒屋へと入る。
「先生、今日もか……」
 体中から酒気を漂わせ、瞳もすっかり虚ろになった冬馬を、店主は心配そうに見ながら立ち上がった。
「なあ、先生。毎日買ってくれるのはありがたいんだが、少し呑み過ぎなんじゃないかい。昨日買ったやつがもう無いなんて、幾らなんでも……」
「いいんだ、別に」
「だってよ……」
「俺はもうどうなったって良いんだよ」
 自嘲気味に冬馬が頬を歪めた。
「……まだメイドさんのことを」
「うるさい!」
 凄まじい勢いで冬馬は店主を睥睨する。
「アンタに俺の何がわかるって言うんだよ?」
「……先生」
「大切な人を、二人も失った俺の……何が」
 がっくりと冬馬がうなだれる。
「……悪かったよ、先生」
「俺はもう、このまま酒に溺れるしかないんだよ。もう誰も、俺を見ちゃいない……」
「そんなことは若い者が使う言葉じゃないよ」
 店主が酒を袋に入れると、冬馬はポケットから金を出した。
「それじゃ、まいど。……こんなこと俺が言う台詞じゃないんだが、明日は先生が来ないことを祈ってるよ」
「その祈りはきっと届かないな」
 酒屋からの帰り道、ふと小学校が目に入った。俺は足を向けようとしたが、そこにはもう幻しか残っていないと自分に言い聞かせる。
 あそこに行っても、渚はいない……。
 三年の間にここも色々変わった。渚が可愛がっていたうさぎは子を産み、何匹かは死んでしまった。渚を慕っていた何人かは、中学校へと進学していた。
『えへへ、うさぎさん元気ー?』
 今でもそんな声を待っている。が、今日もそれは耳に響かない。
 もう三年にもなるのか……。
 あの夏がもうずっと昔のように思えた。
 アパートの階段を上り、自宅のドアノブに手をかける。一人暮らしを始めた頃もそうだったのだが、誰も待っていない家に帰るのはひどく虚しい。溜め息をつきながらドアを開く。
「おかえりなさい、先生」
 夢寐にも思っていなかった迎えの言葉に、うつむきがちだった顔を驚いて上げた。誰もいない筈の玄関の先に、見覚えのある女性が微笑みながら立っている。
「……渚?」
 そこにいるのは渚だった。顔立ちこそ多少大人びているものの、確かに三年前と同じ渚が相好を崩して立っている。
 手に提げていた袋が滑り落ちて、一升瓶が粉々に砕けた。しかし、そんなことは気にも留めず、冬馬はふらふらと渚に近付く。
 微笑みを浮かべていた渚もそのまま冬馬に歩み寄る。そして二人はしっかりと互いの存在を確認するように抱き締め合った。
 夢じゃ、ない……。
 胸の中で渚は震えていた。俺は渚の頭を、背を抱えながら、渚を感じていた。
「渚、渚なんだな?」
「はい。そうです、先生」
 顔を離し、渚は涙を拭うと冬馬を見上げた。
「先生、ただいまです」
「渚、どうして……。俺、もうずっと会えないものだと思っていたのに」
「はい。私もそう思っていました」
 もう一度渚は目元を拭う。
「私、あの日会社に戻ってからすぐに色々なお仕事を与えられました。だけど、何もする気が起きず、ずっと……。先生のことをどうしても思い出してしまい、何もできませんでした。だから私、しばらくお休みをいただいていたんです」
 渚も俺と同じ道を辿っていたと言うのか?
「もう会えないと思っていても、先生のことをずっと考えていました。お仕事に復帰しても、そのことばかりを想っていました。だからなのか、何をしていても虚しいばかり。一生懸命になんてなれませんでした」
「……」
 渚の辛さは痛い程良くわかる。忘れられない過去に縛られて生きるもの程、寂しく苦しいものは無いからだ。
 それまでの日々を思い返しては辛そうにうつむいていた渚が、急にまた顔を上げた。
「そんな日がいつまでも続くものだと諦めかけていたら昨日、突然お電話が入ったんです。『先生の作品がまだ完成していない』と」
「作品が、完成していない?」
 困惑しているのは渚も同じだった。
『蜻蛉』が完成したからあの日渚が俺の許を去ったと言うのに、それが完成していないとはどういうことだ?
「はい。私もそれについては良くわからないんですけど、とにかく先生に訊いたらわかると言われて……」
「俺に?」
 俺は目線を下に落とした途端、あるものに気付いた。
 そう、答はもう出ていた。
「……そうだ、確かにそうだ。俺は大きな作品がまだ未完のままだ。あの日、渚と初めて出会ってから書き始めた、まだ序章しかできていない物語が」
 冬馬は渚に微笑みかけた。その意味を渚もすぐに察知し、微笑み返す。
「先生……、もうラストは決まっているんですか?」
「ああ。ハッピーエンドにしようと思ってる」
 二人はもう一度抱き締め合った。
 そう、俺と渚の物語はここから始まるんだ。永遠に紡ぎ続けるべき価値のある物語が……。

 あの暑い夏に置き忘れてきた記憶が
 たった一つの結晶となり
 再び時を刻み始めた……。