目の前に置かれてある原稿用紙は依然白紙のままであった。
かなり前から握られているペンも動きはせずに、ただ黙って汗に塗れている。
「……ダメだ、何にも浮かばん」
鼻の下に浮かんだ汗を指で拭うと、北川冬馬はペンを放り投げた。そうして同じように汗をかいたコップを手に麦茶を一口飲むと、タバコに火を点ける。
窓を開け放ち、扇風機を回していても暑さ寒さに変わりはなかった。若くして小説家の仲間入りを果たしたばかりか、ヒット作も二本程出し、ある程度金を持っているのにもかかわらずクーラーを設置していないのは、何となし体に合わないからである。
書かないと……。
頭ではわかりきっていても、暑さのせいか全く何も思い浮かばない。かと言ってこのまま何もしないでいては担当の長田勇樹に怒られるばかりか、編集長の二階堂宗司にも大目玉を食らうことは目に見えている。
外からはけたたましく鳴く蝉の声に混じり、子供達のはしゃぎ声が聞こえてくる。それをどこか羨ましく思いつつ、冬馬は紫煙を吐き出しては原稿用紙に目を落としていた。
いつの間にかタバコはほとんど灰になっていた。冬馬はそれを揉み消し、代わりにまたペンを持つ。
考えても出てくるのは汗ばかり。原稿用紙は相変わらず白いままである。残り少なくなった麦茶を名残り惜しむように飲んでいると、不意に玄関からチャイム音が聞こえてきた。冬馬はいそいそと立ち上がると、書斎を出た。
玄関に着き、サンダルをつっかけながらドアを開けると、そこには一人の少女が立っていた。見たところ郵便配達員などの類いではなさそうだったが、かと言って知り合いでもなさそうだった。
「あの、どちら様でしょうか?」
何かのセールスだったらすぐに帰ってもらおう。新聞はもう取ってあるのだし、保険にも一応入っているのだから。宗教関係の人ならばそれ以前の問題だ。だが、そんな人がボストンバッグを持って訪ねてくるものなのだろうか?
そんなとりとめの無い思いを巡らせていると、少女はいきなりペコリと頭を下げた。
「私、啓神メイド派遣所からこの度二階堂宗司さんの紹介でここに派遣されることとなった、佐倉渚と言います。これからしばらくの間北川先生をお世話することになりましたので、どうぞよろしくお願いします」
「は?」
屈託の無い笑顔を見せる渚とは対照的に、冬馬は突然の出来事に困惑しきっていた。晴天の霹靂とはこういうことを指すのだろう。
……メイド?
「えっと……」
そんな冬馬の心情を察した渚は、バッグの中から一通の手紙を取り出し、冬馬に差し出した。
「これが紹介状です」
それを受け取り、中を見てみると、彼女が言っていた通り確かに二階堂さんの字で彼女を住み込みで働かせるようにとの旨が短くまとめられていた。
しかしやはりまだ釈然としなかった。当然だ。紹介状を見たからと言って、はいそうですかとこの事態を飲み込める筈は無い。
「あ、えっと、そしたらここでちょっと待っていて」
「はい」
だが、立ち話もなんなので冬馬は渚をリビングへと通し、ソファに座らせると、急いで二階堂に電話をかけた。
五回目のコールで二階堂の声が聞こえた。
「もしもし、二階堂だが、何の用だ北川」
「何の用だ、じゃないですよ。何ですかあの娘は。一体何事ですか?」
慌てている冬馬とは対照的に、二階堂は落ち着き払っている。
「ああ、渚がもう着いたのか」
「ああ、じゃないですよ。一体何で突然こんな……」
問い詰めたいことが山程あるのに、巧く言葉にならない。
「うん、まぁ突然なのは謝るが、元々はお前の頼みだしなぁ」
「俺の?」
「そうだ。お前、この前酔っ払った時にメイドが欲しいって叫んでいただろ」
確かに二階堂さんの言う通り、前々からメイドがいれば良いとは思っていた。
しかしだからと言って突然こんな少女を派遣されるとは夢にも思っていなかった。
まぁ、年寄りよりは格段に良いのだが。
「いや、そうですけど。でも……」
「だからその願いを叶えてやったんだ。お前はウチの稼ぎ頭だからな、たまにはこんなボーナスも良いだろ。それにどうだ、結構可愛いだろう?」
「はぁ。ですけど……」
「ああ、金の心配ならするな。その辺は俺が巧くやっといたから。それじゃ渚に色々助けてもらいながら早く書けよ」
「あ、ちょっと……」
それだけ言うと二階堂は電話を切った。
何て人だ……。
冬馬は一つ溜め息をつくと、渚の方へ振り返った。相変わらず渚は微笑みを浮かべながら、冬馬を見ている。冬馬は諦めたように渚の向かいに座った。
「えっと……まぁ、そういうわけなんだね。一応話はわかったよ。ま、これからよろしく頼むよ」
突然訪れたメイドと名乗る少女に困惑を隠し切れない表情で、冬馬は軽く頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします。私、先生がお仕事に専念できるよう、一生懸命がんばります」
「あ、あぁ」
物怖じしない渚に圧倒され、冬馬は少し身を引いて答えていた。
少し気まずい沈黙が冬馬と渚を包む。とりあえず何か話そうと思うのだが、何から話したら良いものかわからず、結局口を開けられずじまい。
だがこのままじっとしているのは耐え難いものがあった。冬馬はおもむろに立ち上がる。
「それじゃ、これから家の中を案内するよ。と言ってもあまり広くないから案内するって程のもんじゃないけど」
「わかりました」
冬馬の家は3LDKの比較的新しいアパートであるため、部屋の説明はものの五分程で終わった。
「で、ここが俺の寝室なんだが、今日から佐倉さんの部屋になるから」
「え、でもそしたら先生はどこでお休みになるんですか?」
「俺は隣の書斎で寝るから心配しなくてもいいよ。後で俺の下着や何やらは書斎の方へ移すから、タンスも使えるようにするし」
「すみません、ありがとうございます」
「それじゃ、一息つくとしようか」
渚は自室となった冬馬の寝室の片隅にボストンバッグを置くと、冬馬に従いリビングへ戻った。
冬馬に差し出された麦茶を、渚は軽く一礼してから受け取った。再び向かい合うように座った冬馬と渚は熱くなった体を麦茶で潤すと、幾分か緊張もほぐれていくような感じがした。
「あ、そうだ。考えてみればまだちゃんと自己紹介もしてなかったな。まぁ、もう知っていると思うが、俺は北川冬馬。これでも一応小説家として食っていってる。あ、ちなみに俺の本は読んだことあるかい?」
「すみません、まだ……」
申し訳無さそうに頭を下げる渚を、冬馬は制した。
「あ、いや、別にいいよ。小説家なんて星の数程いるんだし、ましてや俺なんてまだデビューして間も無いんだから、読んでいなくても当然だよ」
そうは言われても自分の知識の不備が情けなく思えるのか、渚は少ししょんぼりとしている。
「本当にすみません。でも、これから時間があれば必ず読ませていただきますから」
面と向かってこういうことを言われるのは初めてだったため、冬馬は少し照れ臭そうに「ありがとう」と呟いた。
「俺についてはひとまずこんなとこかな。ま、他にも色々あるんだが、それはおいおいね」
久々にこうして自己紹介をしてみたが、やはりどこか固さを拭い切れない。
冬馬がそんな思いを抱きながら言葉を結ぶと、今度は渚が大した間も置かずに口を開いた。
「えっと、私はこの度二階堂さんの紹介で啓神メイド派遣所から派遣され、ここでしばらくの間働くこととなった、佐倉渚と言います。って、これ二回目でしたね」
照れ笑いを浮かべる彼女を見ていると、どこか固さと言うものが消えていく感じがする。が、まだ警戒を解けない自分がいた。
「何だかこうして改まって自己紹介していると変に緊張しちゃいますね」
「そうだな。ところで佐倉さんはしばらくの間って、いつまでここで働く予定なの?」
「ええと、正式な期限は伝えられていませんので、とりあえずは無期限ってことになりますね」
「そうか。そしたらなおのこと、早目に緊張しないようにならないとな」
「そうですね。あ、そしたら私のことは『佐倉さん』じゃなくて『渚』って呼び捨てでもかまいませんから」
そうは言われても年頃の娘だ。それに俺自身、女性を名前で呼ぶことは少なからず照れによる抵抗と言うものがある。
「ああ、ありがとう。でも何かそれは俺の方が恥ずかしいから、このまま『佐倉さん』で呼ばせてもらうよ。あ、どうしてもって言うのならそうするけど」
「え、いいえ。先生のお好きなように呼んで下さって結構ですから」
多少慌てたように否定し、友好的に接しようとするその姿を見ていると、余計に距離と言うものを意識してしまう。失礼だとわかっていても、どこか空々しさを抱いてしまうのは俺の悪い癖だろうか?
「ところで先生は何かご趣味とかはお持ちなんですか?」
「いや、特にこれと言って。俺は出無精なんで、外で何かやるってことはほとんど無いな。まぁ、強いて言うならば小説を書くってことかな。小説家ってのも趣味の延長で仕事になったようなもんだし」
「でもすごいです。私、文章で人を感動させられる先生みたいな人を尊敬してますから」
渚は瞳を輝かせながらそう言うが、実際冬馬の作品が感動させられるかと言えば、そうでもないものが多かった。どちらかと言えば恐怖を喚起させるものなのだから。
そう言われて悪い気はしないが、でも所詮はお世辞だからなぁ。
「いや、そんな大層なもんではないよ。大体、小説家なんてヤクザな仕事だよ。俺なんてのは特にそう。普通に働くのが嫌で、好きなことやってるだけなんだから。俺からしてみれば佐倉さんの方が偉いと思うし」
「私が、ですか?」
照れながらそう言う冬馬の言葉に、渚はキョトンとしている。
「そう。だって自分の身を犠牲にして他人に尽くすだなんて、俺にはできないな」
渚は慌ててかぶりを振る。
「そんなことはないです。私、決して自分を犠牲にしてるなんて思っていませんよ。だって私は人にお仕えするのが好きなんですから。あ、でしたらそう言う意味では先生と同じかもしれませんね」
「そうかもな」
気が付くと二人共コップが空になっていた。冬馬が麦茶を取りに立ち上がろうとすると、それより先に渚が立ち上がった。
「あ、いいですよ先生。私がしますから」
そう言うと渚はコップを持ち、冷蔵庫の前に立った。そんな渚を見ていると、冬馬は名状し難い違和感が芽生えてくるのを静かに感じていた。
再び渚がソファに座る。差し出された麦茶を一口飲むと、冬馬は大きく息を吐いた。
「しかしメイドって一体どんなことをしてくれるんだ?」
憧れや空想を現実は裏切る。冬馬も映画や漫画などでメイドに強い憧れを抱き、その結果こうなったわけだが、現実のそれはそう都合良い存在では無いだろう。
が、渚はそんな冬馬の考えを一蹴した。
「はい、基本的には何でも一通りのことはこなしますよ」
「何でも?」
思わず声が裏返ってしまう。
「はい」
「家事全般?」
「はい。難しいものでなければ」
「買い物も?」
「はい」
「小説の意見とかも聞かせてくれるの?」
「はい。私の考えでよろしければ」
「……それじゃ、夜の相手も?」
「え? あの、それは……」
困惑気味に渚は視線を床に落とす。そんな渚を見て、冬馬は哄笑した。
「いや、冗談だよ。ちょっとからかっただけだから、心配しなくてもいいよ。そんなことはしないから。ま、できる範囲でがんばってくれればいいからさ」
「はい。一生懸命がんばらさせてもらいます」
渚は屈託の無い笑顔で力強くそう言った。
しかし何て良い存在なんだメイドってのは。長年の夢の一つが叶った気分だ。こんな気持ちになれたのは、一体いつ以来だろうか。
だが……。
ふと緩みがかった頬が強張る。
住み込みってのは、やっぱ問題あるよなぁ。何かのはずみで面倒な事態に陥るかもしれないし、それに俺のプライベートな時間ってのが無くなってしまう。
メイドってのは便利なものとばかり思っていたけど、知らない女に四六時中見られているかと思うと、案外嫌なものかもしれないな。
長年抱き続けてようやく叶った夢に束縛されるなんて微塵も考えていなかった冬馬は、大きな溜め息をついた。
「どうかしましたか?」
そんな冬馬の気など全く知る由も無い渚は、元気いっぱいの笑顔を向けている。
「ん、あ、何でもない」
さすがに先を考えてしまい早くもうんざりしてきたとも言えず、冬馬は努めて明るく微笑んでみせた。
まあ、どうせなら使わせてもらおうかな。折角来たことなんだし、それに本物のメイドってどの程度ものなのか知りたいしな。
「それじゃあ、さっそくだけど何か仕事でもしてもらおうかな。とは言ったものの……」
ゆっくりと冬馬は辺りを見回す。割と綺麗好きなためそれほど汚くはないのだが、やはりどこか乱雑さが残っているのは否めない。特に台所での洗い物と洗濯は苦手と言うか嫌いだったため、未処理のものが多かった。
「えっと、それじゃあお洗濯からしますね。あ、その前に着替えますんで、少しお時間をいただきますね」
「そんじゃ、俺も汗かいたから一緒に着替えるとするかな」
「えっ、ダメですよ……」
途端に渚は少し困ったような顔色に変わる。
おいおい、軽い冗談のつもりなのにマジに受け取られちまったよ。
「いや、冗談だって。覗いたりしないから、心配しないで早く着替えてきなよ」
「あ、はい」
ようやく安心したような顔付きに戻ったものの、まだどことなく頬は強張っていた。
渚は冬馬から借りた部屋の中へ消えると、すぐに微かな衣擦れの音が聞こえてきた。それに触発され、冬馬は少しくらいならいいかと腰を浮かせたが、やはりまずいと思い直し、腰を落ち着けた。
さほど時間もかからずに渚が姿を現した。漫画やイメクラの世界にでも出てきそうな簡素な紺の服の上に白いエプロンと言う、いかにもメイドらしい渚の格好を見ていると、今更ながらこれが現実なのかどうかと言う疑念が浮かんできた。
しかし当の渚はそんな冬馬の考えなど知らぬ様子で、先程と同じように屈託の無い笑顔を見せている。
「えっと、どうですか」
「え、ああ、良く似合ってると思うよ。うん、こうしてみると改めてメイドが家に来たんだなあって」
だが、それが果たして思い描いていた通りのものかはまだわからない。少なくとも、現時点ではまだコスプレの域を出ない。
渚は少し照れたようにはにかむ。
「えへへ、ありがとうございます。ではさっそく、お洗濯をしますね」
「ああ、頼むよ。俺は寝室から下着とかを書斎に運んどくけど、もし何かわからないことがあったらいつでも訊いてくれ」
「はい。わかりました」
頭を下げた渚が、思い出したように胸の前で手を合わせた。
「あ、先生。後で書斎のお掃除もしますから」
「いや、書斎はいい」
キッパリと冬馬は断った。
「どうしてですか?」
不思議そうに渚が訊き返す。
「ここは小説のネタ帳や資料なんかが色々と置かれてるからな。汚く見えても自分ではどこに何があるのかわかってるから、他人の手で動かされたくないんだ」
「え、でも」
「いいから。ここは俺が片付ける」
少し苛立ちながらそう言うと、渚はすぐに引き下がった。
「はい、わかりました。そしたら書斎以外はお掃除をしてもいいんですね?」
「ああ」
冬馬の確認を取ると、渚はさっそく洗濯に取り掛かった。その後ろ姿を、冬馬はどこか安心したように見詰めている。
書斎には俺の大事なものや、見せられないものがたくさんあるからな。勝手にいじられたり、見られでもしたら大変だ。
冬馬は一つ息を吐きながら書斎を一瞥する。
そうして冬馬は寝室と書斎を往復し始めた。
普段あまり動くことが無いので、ちょっと荷物を移動したり整理したりするだけで、思わぬ重労働に感じた。
そうして一頻り荷物の移動を終えると、俺は書斎の座椅子に凭れタバコを吸い始めた。何となし味がいつもと違う感じがするのは気のせいだろうか。
メイド、か。
不意に訪れた嘘のような日常。もしかしたら明日になったら夢だと気付くかもしれない。
「先生、晩ゴハンはいつ頃にしますか?」
襖越に聞こえる佐倉さんの声。
「ん、ああ、七時くらいに食えるようにしてもらえるかな」
だが、うたかたの夢でもいいか。一夜限りの夢だと楽しいだけで良い。
冬馬はふっと紫煙を吐き出した。
夕食は焼き魚と味噌汁、それにサラダといった簡単なものではあったが、久々に他人が作った食事ということもあってか、とても美味い。
見渡せば部屋全体が綺麗になっている。どうやら本当に一通りのことはこなせるみたいだ。
「部屋も綺麗になったし、メシも美味いし、こりゃメイド様々だな」
久々に知らない女性とメシを食うのは楽しくもあるが、やはりどこか緊張してしまう。
「褒め過ぎですよ先生。私はただ、当然のことをしたまでですから」
「いや、その当然のことというのがなかなかできないもんだよ。特に俺なんてその典型さ」
「そんなこと無いと思いますよ。それに先生は書くのに忙しい方なんですから。だから今日からは先生が一生懸命執筆に専念できるように、私ががんばりますから」
瞳を輝かせ意気込む渚を冬馬は頼もしくも一抹の不安を覚え、箸を動かす。
「ところで佐倉さんは占いとか信じる方?」
「占い、ですか?」
「ああ、俺は雑誌とかに載ってるやつは大抵チェックしたりするんだ。それでよくその日一日をどうしようかと考えたりするんだが、佐倉さんはどう?」
「私は、あまりそういうのは信じませんね」
……こういうのは女の人が好きそうなものだと思ってたんだが、意外だ。
だが、ここで会話を終わらせては居心地の悪いままだ。何とか会話を繋げないと。
「何で?」
「えっと、そういうのって当たるも八卦、当たらぬも八卦と言うじゃないですか。だから信じてもって気になるんです」
「あ、そう」
確かに佐倉さんの言う通りだ。だがそう言われると会話も続かないし、何だか一日の面白味を奪われたような気になるのは俺の思い過ごしだろうか。
素っ気ない返事とそれに伴う冬馬の表情に慌てた渚は、すぐに言葉を紡いだ。
「あ、でもそういうの信じる人ってロマンチストで素敵だと思いますよ。やっぱり先生って作家さんに向いてるんですね」
……何だかなぁ。
無理矢理取り繕われたお世辞にすっかり興冷めしてしまった冬馬は、愛想笑いを浮かべながら味噌汁を口に運んだ。
夕食を終えると冬馬は書斎へと入った。
普段通り日本酒をちびちびと呑みながら、原稿用紙とのにらめっこが始まる。しかしいつも負けるのは冬馬の方だった。
「ダメだ。やっぱり何も浮かばない」
何も浮かばないのは今日があまりにも今までと掛け離れたものになっているからだろう。 ま、知らない少女が突然やって来たんだ。それなのに今まで通りできるってのが無理な話だよな。
原稿用紙から顔を離す。そうしてタバコに火を点け、ぼんやりと天井に視線をさまよわせていると、いつの間にか食器を洗う音がしなくなっているのに気付いた。
そのまま放っておいてもいいかとも考えたが、何だかそうするのも居心地が悪いような気がした。
「佐倉さん、ちょっと来てもらえるかな」
「はい」
呼ぶとすぐに渚は書斎に入ってきた。
自分の最重要テリトリーに呼ぶのは幾らかためらわれたが、いずれ何らかの形でここに来ることになる。そう、今から慣れとかなければいけない問題かもしれない。
……でも、疲れるなぁ。何でこんなことに気を回さなければならないんだろ。
「どうかしましたか先生」
「あ、いや別にどうもしないが、ちょっと小説が行き詰まっていてね。もしよければ少し意見なり考えなりを聞かせて欲しいんだ」
「え、私なんかでよろしいんですか? でも、全然大したことは言えないでしょうから、参考にもならないと思いますけど……」
「いや、いいんだ。ま、とにかく座ってくれ」
冬馬の言葉に従い、渚は冬馬の隣にちょこんと正座した。
「ああ、別に正座なんてしないで楽にしてていいよ。ところでタバコは大丈夫かい?」
「はい、大丈夫です。それでは失礼しますね」
渚は少し足を崩した。
「ところで先生、それはお酒ですか?」
渚は冬馬の脇に置いてある一升瓶と、コップに注がれてある液体を交互に見る。
「そうだよ。俺、呑まないと書けないんだ。佐倉さんはお酒とか呑める?」
「いえ、未成年ですのでお酒は……。あ、でも少しくらいなら大丈夫です」
「そしたら一緒に呑むかい?」
冬馬の瞳が喜々として輝く。
「あ、すみません。今日は遠慮させていただきます」
申し訳無さそうな瞳をしながら、渚は頭を下げる。
酒でも呑ませれば幾らか楽になれると思ったんだが、こうなるとどうしたもんかなぁ。
ったく、こんな状況に苛々するのは久々だ。
「あ、いや、別に謝らなくてもいいよ。未成年なんだし、それに今日は色々疲れているだろうから」
「すみません。それで、えっと私は一体何を言えばよろしいのでしょうか」
役割として仕事熱心なのは良いことなのだが、何だか生真面目と言うか何と言うか……。
ま、少しからかってやるかな。
「そうだな……、佐倉さんは官能小説とかは読んだりするかな?」
「え、いえ……」
「それじゃ、どんなものかも知らないんだ?」
「あ、はい。まあ……」
曖昧に渚が頷く。
「なるほどねぇ」
意味深に冬馬が何度も頷く。その様子にただならぬものを感じた渚はおずおずと冬馬を見る。
「あの、それで私は何を?」
「脱いで」
「えっ?」
「だから脱いで」
「えっ、あの、どうしてですか?」
まるでその問いが愚問だと言わんばかりに、冬馬は大きな溜め息をつきながら首を振る。
「これから書く小説の参考にするんだよ」
「……」
怯えと非難の色が渚の瞳に射す。それがあまりにも真剣なものなので、言った冬馬自身困ってしまった。
最初にしちゃ、やり過ぎたか。
「冗談だって」
「えっ、あ……」
「だから冗談だって。俺は官能小説なんて書いたことないし、そんなことさせないから」
「……先生は意地悪です」
どこか安心したようだったが、依然非難の色は抜け切らない様子だった。
はぁ、こうまともに受け取られたら疲れる。
仕方なく、冬馬はまともな話題に戻すことにした。
「俺が主に書いてるのはホラーとかサスペンスとかだよ。佐倉さんはそういうの読んだりするかな?」
「ええ。まあ、あまり数は多くないですけどたまに読んだりします。でも私、怖いものとかは苦手なんです。先生はそういった作家さんなんですか?」
「ああ。色々書いているけど、そういうのばかりかな。それで今回もそういう路線で行こうかと思っているんだが、巧く話がまとまらなくてね。それでどういった面白さを入れたら良いかなと思って」
突然そんなことを言われたら困るに決まっている。
だがそれでも先へ進むためには訊かずにはいられなかったが、案の定佐倉さんは困ったような顔をしている。
「……うーん、すみません。先生の作品を読んだことが無いものですから、一体何をどう言えば良いのか……」
「そうだな。悪かったよ」
がっかりしたように吐き出される言葉に、渚は慌ててかぶりを振る。
「いいえ。私が先生の作品を読んでいないのが悪いんです。だから、もしよろしければ先生の作品を拝見させていただけませんか?」
「ああ、いいよ」
冬馬が本棚からヒットとなった二作品を手渡すと、渚は頭を下げながら受け取った。
「すみません、ありがとうございます」
「それじゃ、今日は疲れているだろうから、もう寝た方がいいよ。俺はもう少ししてからここで寝るから」
「わかりました。それではおやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
渚は静かに書斎を後にした。
メイド、か。何もしないで部屋は綺麗になるし、メシは食えるし、おまけに好きな時に誰かと話すことができる。まあ、便利な存在かもな。
冬馬は襖に目を向けながらコップを傾ける。
でも、もうちょっと面白味があっても良いよな。何だか生真面目過ぎて、一緒にいると疲れてくる。
しかし二階堂さんも突然よこさなくったってもいいのに。まあ、あの人らしいと言えばそれまでなんだけど……。
叶って嬉しい筈の夢。なのに何で俺は苛立ちを募らせているんだろうか。
何だか自分の生活を乱されたような心持ちを抱きつつ、冬馬は早くもこの現状にストレスを感じ始めていた。
夢は見るだけで充分なのかもな。
冬馬はゆっくりとコップを傾けた。