八月二十四日 金曜日

 夜明け前の朝が一番暗いが、明けない朝は無い。しかし今朝は雲が出ているわけでもないのに、明け方でも暗かった。
 カーテンから僅かに流れる午前五時の陽光が、冬馬の寝顔を柔らかく包んでいた。だが、その隣に渚の姿はもう無かった。
 静かに書斎の襖が開かれる。そこには出会った時と全く同じ格好をした渚が現れた。渚は冬馬の側に歩み寄ると、枕元に正座する。
 しばしの沈黙の後、それまで強張っていた渚の頬がふっと緩んだ。
「先生、今までありがとうございました。私、先生と出会わなければ、これから先もずっと人を好きになる大切さを知らないままでした。先生に出会えて、本当に……良かった」
 胸に込み上げてくるものが言葉を詰まらせてしまう。思わず眉根を寄せてしまいそうになるが、渚は天に向かって一つ息を吐くと、また笑顔で冬馬を見詰め直した。
「……私、もう行きますね。これ以上先生にご迷惑をおかけするわけにはいきませんし、それに私、先生の声を聞いてしまったらまた泣いてしまいそうなので」
 胸が、目頭が熱くなっていく。
「ずっと、愛しています……」
 渚は静かに冬馬と唇を重ねた。目を閉じた拍子に、涙が一粒二粒冬馬の頬に落ちる。
 数瞬のキスが永遠にも思えた。冬馬の頬に落ちた涙は陽光を浴びて、キラキラと輝きながら枕へと消えていく。
「……さよなら、先生」
 渚は目元を拭うと、一つ微笑みを浮かべた。そして背を向け、ゆっくりと書斎を後にする。
 パタンと玄関のドアが閉まる音が書斎にも響くと、俺は枕にうつぶした。
「渚……」
 目を開けられなかった。渚が書斎に入ってきた時からとうに目覚めていたものの、寝ているフリしかできなかった。もし目を開いてしまうと涙が止まらなくなりそうで、無理にでも渚を引き留めてしまいそうで……。
 これで良かったんだよな、これで……。
 後悔はしていないつもりだった。なのに頬に残る涙の跡と、瞼の裏に浮かぶ渚の姿に心を馳せてしまい、胸が痛む。
「あぁ……」
 枕で何も見えない筈の視界に、渚との思い出が走馬灯のように巡る。
 初めて出会った日の戸惑い。
 酔って怒鳴った後の後悔。
 事故に遭った日の心配と、退院した日の安堵。
 デートした日の喜び。
 肌を重ねた日の愛しさ。
 そして昨日の悲しみ。
 そのどれもが鮮明な色彩と感情を伴って、胸に押し寄せてくる。受け止め切れない程に激しく胸を占めていく。
「うっ……あぁ……」
 暗い視界が滲んでは消える。
「―─!」
 溢れるものが止まらない。一人になった書斎の布団の中で、声にならない声を上げながら俺は枕を濡らした。今まで生きてきた中で一番重い涙が、暗闇へと消えていく。
 暑い夏ももう終わりを迎えようとしていた。