八月二十三日 木曜日

 目覚めると渚は側にいなかった。眼鏡もかけずにおぼろげな視界の中で時計をとらえる。大体十時頃。まあ、当然渚なら起きている時間だろうな。
 大きく伸びをすると、窓の外へ目を移す。どうやらもう雨はあがっているどころか、今日も暑くなりそうな気配すら感じる。
 ともかく気怠い体を引きずるようにして、冬馬は書斎を出た。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
 リビングでは渚が掃除機をかけていた。
「今日も良い天気だな」
「はい。お洗濯物もすぐ乾いて助かります」
 ベランダに目を遣ると、洗濯物がそよ風にはためいている。
「朝からがんばるね」
「お仕事ですから」
「そんじゃ、夜のお仕事も今やってもらおうかな?」
「それはダメです」
 チッ、やっぱりダメか。
「それよりもゴハンはどうします?」
「そうだな、お茶漬けに味噌汁だけでいいよ。すぐ食って手直しに入りたいから」
「わかりました。でしたらもう少しでお掃除終わるので、新聞でも読んで待っていて下さいね」
 まあ、そんなに言う程焦る必要も無いし、まだ半分寝惚けているから丁度良いか。
 冬馬はソファに座ると新聞を広げた。
 一面は来年から全国民にIDカードが支給されると言うものだった。まあ、運転免許を持っていない俺にしてみれば願ってもいない話だ。いつもどこかで身分証明書を見せてくれと言われる度に困っていたからな。
 大体、俺は名刺も持っていないのだ。サラリーマンやOLならともかく、俺みたいなヤクザな職種に名刺なんて必要無いと常々思っているし、肩書から入る人付き合いと言うものが大嫌いだからだ。
 そんなことに頭を巡らせていると、渚がお茶漬けと味噌汁を運んできてくれた。新聞を置き、さっそく味噌汁から箸をつける。
「そういやこの夏、アイスを食ってないな」
「あ、私もです」
 思い出したように二人は顔を見合わせる。
「考えてみればカキ氷ぐらいのもんだな、夏の代表とも言えるものを食ったのは」
「そうですね。あ、あと夏ミカンとかの果物も食べていませんね」
「そうだな。意外に何も食わないで夏も終わるもんだな」
「そしたら今日お買い物に行った時にスイカでも買ってきますか?」
「いや、いい」
 キッパリと冬馬は断った。
「嫌いなんですか?」
「まあな。スイカに限らず、俺は甘いものが大嫌いなんだ」
「そうなんですか」
 渚は驚いたように冬馬を見る。
「昔は好きだったんだけど、七年くらい前から途端に食えなくなったんだ。今じゃ他人が食ってるのを見ているだけで胸が悪くなってくるよ。渚はやっぱり甘いものは好きなの?」
「はい、大好きです」
 屈託の無い笑顔を渚は浮かべた。
「甘いもの食べてる時はとっても幸せな気分になれるんです。ここに来る前はよく食べていました」
「それじゃ、今は辛いんだろうな」
「何がです?」
「甘いもの食べてないだろ」
 考えてみれば、渚がこの家に来てから甘いものを食べている姿を見ていない。そんなに好きなものだったら、大分辛い筈だ。俺だって酒を一日呑まなかったら辛いのに。
「うーん、でも大丈夫ですよ。好きなものはたまに食べるから美味しく思えるんです」
「そうか。でも、食いたかったら買ってきて食ってもいいぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」
 渚は嬉しそうに頷いた。
「でも食い過ぎて虫歯になったり、太ったりしても責任は取らないからな」
「うっ……」
 食事を終えると冬馬はすぐに書斎に入り、手直しを開始した。
 ざっと読み返してみても、手直しをしなければならない箇所が少なくとも六つはあった。推敲も兼ねて書いていたつもりでも、このザマだ。じっくり見ていけば幾つになるのか見当もつかない。
 ともかく千里の道も一歩から。俺は全体と比較しながら、つぶさに手直しを始めた。
「先生、お昼は何にしますか?」
 渚の声に我に返り、時計に目を遣るともう十二時だった。俺は一つ息を吐いてからペンを置くと、書斎を出た。
「何だ、まだ決めていなかったのか?」
「はい。何にしようか迷っていて」
 困ったような顔を渚は少しだけ下げる。
「そうだな、何にするかな。麺類はあまり食いたいと思わないし、かと言ってパンもどうかと思うし……」
 こんなことで頭を使うとは……。
「あ、そうだ。先生、もしよろしければ私、先生の作ったチャーハンを食べてみたいです」
「チャーハン?」
「はい。瑞穂さんも言ってましたよね、先生の作るチャーハンは美味しいって。私、一度食べてみたいと思ってたんで……」
 まさか渚の口からそんなことを言われるとは思ってもいなかった。それだけに俺は数瞬言葉に詰まり、困惑をあらわにした。
「あ、あの、やっぱりいいです。私が何か作りますね」
「いや、作るよ。そう言えば久しく作っていなかったから、たまには良いだろ」
 残念がる渚に心揺らされたわけではない。ただ単純に自分が食べたかったからだ。
 冬馬は得意満面に台所に立つと、さっそくフライパンに油をひいた。
 十分もしないうちに俺特製のチャーハンができあがった。特製と言っても別に普通のと何ら変わりないのだが、唯一自信のある料理なので俺はそう呼んでいた。
「美味しそうですね」
「美味しそうじゃなくて、美味しいんだよ。ほら、熱いうちに食ってくれよ」
「はい。いただきます」
 渚はさっそくそれを口に運ぶ。
「どうだ?」
「はい、美味しいです。先生、お料理上手なんですね」
「まあ、これだけはな」
 俺も渚に続いて食べ始めた。うん、なかなかの出来だ。久々に台所に立ってみて少し不安だったが、体は覚えているもんだな。
「渚はそのメイド派遣所だかで一通り家事を教わったんだろ?」
「はい。小さい頃からずっとやっていました。けどお料理は全然上達しなかったんですよ」
「でもここに来てから随分上達しただろ?」
「そうですね。やっぱり誰かに喜んでもらおうとして作ると、心構えからして違います。……でも、失敗も多いですけどね」
 渚はばつの悪そうに笑う。
「そんなこと無いよ。俺だってこのチャーハンの味になるまで、かなり失敗したもんだ」
「でも美味しいです」
「ありがとうな」
「私みたいなメイドに先生がお料理を作ってくれるなんて、本当に嬉しいです」
「おいおい、たかがチャーハン作ってやったくらいでそんなに感動することも無いだろ。それにもう渚は俺にとって、ただのメイド以上の存在なんだからさ」
「はい、ありがとうございます。でも、やっぱりワガママ言っちゃったんで……」
 ぽろぽろと渚の頬を熱い涙が伝う。
「ああ、ほら泣くなよ。ただでさえ塩辛いんだから、これ以上しょっぱくしてどうするんだよ。それにな、これは俺がただ単に食いたかったから作ったんだ。渚のワガママがそうしたわけじゃないんだって」
「はい。……でも、ありがとうございます」
 メシ一つでここまで喜ぶとは、何て簡単な奴だろう。
 愛しさに胸を締め付けられつつも、やはり泣いてる女に弱い俺は目の前の渚に困り果ててしまった。
 昼食を終えると、俺は手直しを再開した。泣いてる渚をなだめたせいだろうか、何だか疲れを感じるが、だからと言ってやらないわけにはいかない。
 書き直しを進めてからほどなくして、襖が開かれた。
「あの、これからお買い物に行ってきますね」
 そこに立っている渚はいつもの渚だった。
「ああ、行ってらっしゃい。俺も行きたいんだが、仕事しなくちゃならないから」
「えへへ、それではお仕事がんばって下さい」
 ペコリと一礼すると、襖は閉められた。
 さて、がんばるとするか。
 冬馬はペンを握り直した。
 手直しに手直しを重ね、ようやく完成したかと思うとまた最初から読み返し、手直しを加える。そうしてようやく満足のいく出来に仕上がった頃には、四時を回っていた。
「渚、ちょっと来てくれないか」
 呼ぶとすぐに渚が書斎に入ってきた。
「はい、どうしました先生?」
「やっと完成したから、読者一号になってくれないか。確かそんな約束しただろ?」
 冬馬が原稿を手渡すと、渚は嬉しそうにそれに目を通し始めた。
「少し、いや大分読みにくいと思うけど、そこら辺は我慢してくれ。そして途中でも何か疑問に思うとこ、おかしなとこがあったら遠慮せずに言ってくれ」
「はい」
 読み進めていく渚の表情は実に変化に富んでいた。難しい顔をしていたかと思うと、急に安心したようになったり、そうかと思えば哀しそうな顔をしたりと正に千変万化だった。
 そうした表情から俺は渚の読んでいる場面を想像しながら、緊張した面持ちで渚の一顰一笑に集中する。
 やがて渚が全てを読み終えると、大きな溜め息をついた。それが終わらぬうちに冬馬は体を前に乗り出す。
「どうだった?」
「はい、信じてもらえないかもしれませんが、すっごく感動しました。何かこう、先生の手で直接心を揺さぶられたって感じです。それからラストとか、そこに至るまでの展開とか、ええと……」
 想いを巧く言葉にできない渚はもどかしそうにしているが、俺にはそれで充分だった。これこそが最高の評価に思えた。
「ありがとう。気持ちは充分に伝わったよ」
 冬馬はポンと渚の頭に手を置いた。
「今の渚を見て、自信がついたよ。これならきっと大丈夫だろう」
「そうですよ」
「そしたらさっそく長田に来てもらうか」
 書斎を出ると俺は長田の携帯電話の番号をプッシュした。
 四回目のコールの途中で長田が出た。
「もしもし。先生、どうしましたか?」
「ああ、長田か。いやな、完成したから原稿を渡そうと思うんだが、今から来れるか?」
「あ、はい。大丈夫ですよ。そしたら三十分程で着くと思いますんで」
「そうか。じゃ、待ってるからな」
「はい。お疲れ様です」
 通話を終えると冬馬は嘆息しながらソファに腰を下ろした。渚もそれに従い、向かいに座る。
「これでやっと終わりましたね。本当にお疲れ様でした、先生」
「ああ、ありがとう。後は長田に原稿を渡したら、運を天にまかせるだけだ。さて、その運とやらに神様が微笑んでくれると良いんだけどな」
「大丈夫ですよ。こんなにがんばったんですから、きっと微笑んでくれますよ」
「はは、そう上手くいくかな」
 自嘲気味に笑う冬馬の瞳を、渚がじっと見詰める。
「先生、もっと自信を持って下さい。先生のあの作品は本当に素晴らしいんです。本当に、色々な想いが詰まっているんですから」
「色々な、想い……」
 確かに溢れる程、詰まっている。それを刻んだ俺が自信を持たなくてどうする。これが駄作なわけがないんだ。
「渚の言う通りだ。もっと自信を持たなきゃダメだよな」
「そうですよ」
 しばらくして玄関のチャイムが鳴った。
 渚が慌てて玄関のドアを開けると、案の定訪問者は長田だった。
「あ、どうも。お邪魔しますよ」
 渚に一礼してから長田は上がり込んできた。
「あ、先生。完成したそうですね」
「ああ。じゃ、書斎に入ってくれ」
 俺は長田と書斎に入ると、さっそく原稿を手渡した。
「結構書きましたね。元は連載用だったと言うのに、よくこんなに早く上がりましたね」
「まあ、これでも一生懸命書いてたからな。全部で二百三十枚だ」
「それじゃ、とりあえず読ませてもらいます」
「どうぞ」
 長田が原稿に目を通し始めると、冬馬はタバコに火を点け、じっとそれを見守った。
 さすがに編集者と言うか、渚と違って長田は顔色一つ変えずに淡々と読み進めていく。幾ら自信があるとは言え、その姿は恐ろしい。
 いたたまれないものを感じながら、冬馬はひたすらタバコを吸っては気を紛らわし、長田が読み終えるのを待った。
 四本目のタバコが半分程灰になった頃、ようやく長田が読み終えたらしく、顔を上げた。
「どうだ?」
「うん、良いんじゃないんですか。少なくとも僕は満足しましたよ」
 いつもとは違い、長田はあっさりと感想を述べた。これを求めていた筈なのに、何だか拍子抜けしてしまう。
「これなら編集長も満足してくれると思いますよ。……って、どうしました先生?」
 冬馬の様子に気付いた長田が、訝しそうに冬馬の顔を覗き込んできた。冬馬は慌てて平素の顔に戻す。
「あ、いや、それを聞いて安心したよ」
「ええ、本当にお疲れ様でした。それじゃ、コレは預かっておきますよ」
「ああ、頼む」
 にっこり笑いながら長田は会社へと戻った。
 その姿が完全に消えるとようやく肩の荷が全て下りたような気がして、冬馬は座椅子に深々と凭れた。
 これでようやく終わったな。
 俺はタバコをもみ消すと、全てを吐き出すような嘆息をしながら窓の外を見た。まだ外は明るかったが、何だかもう一日を終えたような気分だった。
 夕食の前に風呂に入って身も心もさっぱりしてから俺はビール片手にソファに座った。しかし渚が風呂に入り一人になっていると、本当にあれで良かったのかと言う不安に襲われてくる。
 努力とは必ずしも報われるものではない。満足とは所詮独りよがりでしかなく、評価は別のところにある。特に今回は人生を大きく変えてしまうかもしれない。不安にならない方がおかしいぐらいだ。
 言い知れぬ不安に苛まれていると、渚が風呂から上がってきた。
「あ、今からゴハンの支度をしますから、待ってて下さいね」
 だが渚の姿を視認すると、そんな不安も幾らか和らいでいった。
 夕食はいつもより豪勢だった。完成を記念して腕によりを奮った渚のがんばりが、料理を見ているだけで如実に伝わる。
「先生、お酒はどうですか?」
「それじゃ、もらおうか」
 渚に注がれた酒を一口呑むと、冬馬はまず天麩羅から箸をつける。
「うん、美味い。丁度良い具合に揚がってる」
「えへへ、ありがとうございます」
 気持ちを素直に表すのが渚の良いところだ。
「メシも美味いし、酒も美味い。こうした気分になれるのも、完成を祝ってくれる人がいるからだろうな」
「いえいえ、そうかもしれませんけど、やっぱり達成感と言うのが大きいからですよ」
「それが明日にはどうなってるかわからんが、今だけは楽しんでいたいな」
「……はい、そうですね」
 渚は小さく微笑んだ。
「ほら、こういう時にはもっと笑った方が似合うぞ」
「あひゃひゃ、へんへい〜」
「そうそう、これでこそ渚だ」
 冬馬が手を離すと、渚は両頬をさすった。
「突然そんなことするのはずるいですー」
「俺は卑劣な男なんだよ」
「うぅ〜」
 箸を進めながら俺も渚も破顔しながら笑い声を上げる。こんなに楽しい食事は一体いつ以来だろうか。昨日した気もするし、初めてのような気もする。
「何度も言うようですけど、本当にお疲れ様でした。私、誰かにお仕えするの初めてだったんですけど、何だか私まで一つのことを成し遂げた気持ちになりました」
「そりゃそうだ。渚がいなければあれは完成していなかったんだからな」
「そんな……。でもそう言って下さると嬉しいです」
「後は、あれが売れるかどうかだな……」
 ふと俺は箸を止め、視線を落とした。こんなこと考えていても何もならないのだが、どうしても考えてしまう。
「先生、心配しなくても大丈夫ですよ。私、本当に感動しましたし、あの作品はどこか劣っているところを見つけるのが難しいくらいに出来の良い作品なんですから」
 たとえお世辞だとしても、自信たっぷりの笑顔で言われると本当にそんな気になってくるから不思議だ。
「そうか、そうだよな」
「そうですよ」
 不安にかられていた自分が馬鹿らしく思えてくる程、心は晴れ晴れとしていた。
 夕食を終えると、俺は渚を書斎に呼んだ。リビングで祝杯を上げるのも良いのだが、やはりここでの方が感慨深いものがある。
 俺と渚は酒の入ったコップを軽く重ねると、一口呑んだ。気分のせいか、気持ち良くアルコールが全身に染み込んでいく。
「渚、覚えているか?」
「何をです?」
 渚も嬉しそうにコップを傾けているが、いつものペースではない。まあ、今日はその方が良い。
「小説が完成したらまたデートしようなって約束しただろ」
「あ、はい」
「だからさ、ちょっと急かもしれないけど、明日どこかに行こうか」
 相好を崩しながら冬馬は渚に微笑みかける。
「はい、とっても嬉しいです。私、本当に先生とお会いできて良かったです」
 渚はぱっと顔を明るくさせた。
「そうか、俺も渚と出会えて良かったよ。ま、何て言うのかな、これからもよろしくな」
 何だか改めて言うと、面映ゆい。
「ありがとうございます。私も先生とずっと一緒にいたいです」
 そこまで言うと途端に渚の顔が曇った。
「……でも、それも叶いません」
「えっ?」
 渚の意外な言葉に俺は我が耳を疑った。
 今、何て言った?
「私、明日にでもここを出て行かなければならないんです」
 一言一言紡がれていく程に酔いが覚めてゆく。いや、それどころか意識までもがどこか遠くへと飛んで行きそうになる。
「どうして……?」
 暗い光の中で、ようやくそれだけが言葉になった。
「元々、言われていたんです。私がお仕えできるのは先生の小説が完成するまでの間だけだと。だから先生の小説が完成した今、私はここを出て行かなければならないんです」
 少し視線を落とし、何かを必死に堪えるようにしながら、渚は一言一言はっきりとした口調で冬馬に伝える。
「な……何で黙っていたんだよ、そんな大事なこと」
 渚のことだ、幾らか想像はつく。しかし、どうしても納得がいかない。胸がどうしようもなく震える。頭が熱い。
「もし、もし言ってしまうと先生をいたずらに苦しめてしまいそうで。……私が、私なんかが先生の重荷になってしまうのだけは耐えられなくて、それで……」
 固く瞳を閉じ、何か大事なものを逃さぬように力強く拳を握り締めている渚の体は小刻みに震えていた。しかしそれもほんの僅かな時間で、すぐに顔を上げて俺と向き直った。
「何とかならないのかよ、渚。折角こうして俺達知り合えたばかりじゃないか」
 もう、希美との二の舞いになんかなりたくはないんだ。もうあんな想い、たくさんだ。
「私の方では何も……。全て上の方で決まっていることなので」
 何言ってるんだよ。
 離れたくはなかった。どんなことをしても手放すよりはマシに思える。
「……金を、俺の持ってるありったけの金を積んでも無理なのか?」
 そうだよ、ここで使わなければ何のための金だよ。必死に貯めてきた私財をなげうつだけの価値が、この娘にはある。
 しかし渚は無情にも首を縦に振った。
「はい。もう決まっているので、どうやっても……。それをしてしまうと会社の名折れに繋がるらしいので」
 渚、お前はどうなんだよ。
「俺が、力ずくで止めてもか」
 こんな台詞、まさか俺の口から出るとは思っていなかった。だが本当に心から手放したくないと思っているから、自然と口をついたのだろう。
 こういった言葉がどれほど渚を困らせるかなんて思う余地も無かった。体裁なんて関係無く、ただ裸の心をぶつけていた。
 だがまたも渚は首を縦に振った。
「はい。会社の方に迷惑がかかってしまいますから」
 もういい。そんなことを聞きたいわけじゃないんだよ。
 堪えてきたものが遂に爆発した。
「さっきから聞いてりゃなんだよ、会社会社って。俺が聞きたいのは渚の素直な気持ちなんだよ。渚はどうしたいんだよ?」
「私は……」
 気丈に振る舞っていた渚の顔が途端に崩れていき、睫が濡れたかと思うが早いかぽろぽろと涙がこぼれ始めた。
「私だって先生と離れたくないです。ずっと一緒にいたいです」
 渚が俺の胸の中に飛び込んできた。
「でも、会社は裏切れないんです。身寄りの無い私を、ここまで育ててくれたんですから。できるならば、許されるならば先生とずっとずっと一緒にいたいです。もっといっぱいお喋りして、お出掛けして、お食事して、先生を感じていたいです」
「……」
 言葉にされなくてもわかってた渚の気持ち。こう思ってくれていることはわかっていた。だけど、その想いを言葉にして欲しかった。
 そして今、それが重くのしかかる。
「私、本当は離れたくないよ。先生の側にずっといたいよ。けど、私どうしても……」
「渚……」
 俺はまた何もできないままなのかよ。また、何もできずに失うだけなのかよ……。
 ふと冬馬の頭に一つの考えが浮かんだ。
「そうだ。俺、契約が切れても渚をもう一度雇い直すよ。そしたらずっと一緒にいられるだろ?」
 それにも渚は首を横に振る。
「……それも、無理なんです。原則として、一度派遣されたメイドは二度と同じ御主人様の許へは行けないんです」
「……そんな」
 万策は尽きた。もう出てくるものは悲しい涙しかない。冬馬は渚の肩を掴むと、がっくりとうなだれた。
「何で、何でだよ。やっと俺は、お前と言う全てを許せる人に出会えたのに、人を好きになって初めて辛いだけじゃないんだって思え始めたのに、こんな……」
 渚が、世界が滲み、かすんでゆく。
「また俺を一人にしないでくれ。俺は心からお前が、渚が必要なんだ」
「私も同じです、先生」
 優しく静かになんてできなかった。冬馬はその温もりを、存在を確かめるように強く固く渚を抱き締めた。渚も冬馬と同じように、しっかりと冬馬を感じた。二人の肩口が熱い涙で染まる。
 唇を重ねると互いの頬が互いの涙で濡れた。
 裸で抱き締め合うと渚の鼓動が、温もりが確かなものとして伝わってくる。しかし触れ合う程に、胸が締め付けられていく。
 こうしていられるのが最後だなんてとても思えないのに、なのに……。
 唇を重ねる程に虚しさが募っていく。だがそれでも必死に心を埋めるように、何度も繰り返した。
「んっ……先生」
 熱い気心が吐息で濡れ合う。交わす言葉が色を付け、昂ぶる体が形作る。それでも不確かで不完全な想い。だけど、俺も渚もそれで充分だった。
 この腕の中には渚がいる。誰よりも何よりも愛しく大切な女が、ここにいる。
 言葉では全て託せぬ程に大きな想いを全身で渚に伝えていく。無論、それでも全てを満たしてやれないことぐらいわかっていたが、俺に残された方法はこれしかなかった。
 そっと髪に手を伸ばし、慈しむように撫でてやると、渚は安らいだ微笑みを浮かべた。
「こうして撫でられると、何だか安心します」
 渚も怖いんだ。
 ともすれば儚く脆くなってしまいそうな絆。今はこうであっても、時がそれを許さない。だが、それでも今この触れ合える瞬間を永遠にするように、刻み込んでいく。
「先生……」
 背に回された腕に力が込められる。それに応えるように唇を重ねる。どちらのともとれない涙が頬を濡らした。
 こんなにも愛しているのに、離れなければならないなんて思いたくなかった。しかし、どうしても別れが頭をチラつかせる。
 もっとゆっくり渚を感じ、体に刻み込んでいたいと思っていても、男の性がそれを邪魔する。滾った体が自ずとより一層の快楽を求め、動きを速める。
「渚……」
 肌を重ね吐息を濡らし、感じるままに体で心をも抱く。その想いを全てぶつけるように。必死で一つに溶け合おうとするように。
 単純な愉悦とはまた違った熱い奔流が二人を包み、流していく。指先をくすぐらせるだけではとどまらない慕情が心を揺さぶる。
「先生、先生……」
 意志の力ではどうにもできない程の力が、二人を確実に終着へと運ぶ。終わりたくないのに、体が解放を求める。抗えない。
 きっとそれは渚も同じなのだろう。何かを堪えるように固く閉じた瞳からもはっきりと見て取れる苦悶。
 しかし、与えられる快楽はそれを嘲笑うかのように、体を奥底から震わせる。
 渚の瞳から一筋の涙が寄せる頬の間を伝い、シーツへと消えていく。
「―─!」
 抱き締め合うと、また一つ想いが絆となり、深く熱く刻み込まれた。
 行為を終え、重なり合うと割れたハートもカチリと音を立てて一つになった。だが冬馬も渚もそれを耳に入れることなく、甘いキスを重ねていた。
 服も着ずに、狭い布団の中で体を寄せ合っている冬馬と渚。何万編の愛の囁きよりも、顔を見合わせながらの小さな微笑みの方が、今は説得力を持っていた。
 それでも溢れる想いは自ずと言葉となる。
「先生、大好きです」
 幾度も使われてきたお決まりの文句。だがそれすらも、目の前にいる渚の口から発せられると、強く心を揺さぶられる。
「俺もだ。……愛してるよ、渚」
 格好良く気取ることなんてできない。かと言って泣きじゃくるなんてこともできない。俺にできるのは、ただこうして抱き締めてやることぐらいだ。
 抱き締める程に温もりが、心が伝わる。
「まだ、まだ離さないで下さい。まだ、先生だけのメイドでいたいんです」
「俺も、まだお前を俺だけのメイドにしていたい」
 抱き締める腕に力が入る。
「今だけは、このまま抱いていて下さい」
「ああ。このまま抱き締めさせてくれ」
 そう、まだこの温もりを感じさせてくれ。まだ、このまま時を重ねさせてくれ……。
 頬を緩め、渚を見ながらそんなことを考えている最中にも、連日の疲れとアルコールが冬馬を夢の中へと沈ませていく。
 幾らもしない後に消えてしまう目の前の少女と、せめて別れる瞬間までこのままでいようと思うが、眠気はそれすらも許さないようだ。次第に遠去かる意識の中、冬馬は小さく呟いた。
 朝が来なければ、ずっと一緒なのに……。
 どちらのともつかない涙が頬を伝う。
 それも闇の中へ消えて行った。