八月二十一日 水曜日

 鉄板焼きの肉になる夢を見たのはカーテンを閉め忘れたせいだ。容赦無く照りつける太陽の暑さと眩しさに起こされた冬馬は、不機嫌そうに扇風機のスイッチを入れながら大きなあくびをした。
 時計を見ると十時半。あと一時間くらいは寝ていたかったのだが、二度寝はもうできそうにはない。
 しばらく扇風機で涼を取ってから、冬馬は書斎を出た。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
 渚は掃除機を一旦止める。窓を開けているのに暑いのは、廃熱のせいだろうか。
「あの、起こしてしまいましたか?」
「いや、大丈夫だ。ちょっとカーテンを閉め忘れたせいで、太陽にやられたんだよ」
「ああ、だから顔が赤いんですね」
 渚に言われ、頬に手を当てる。確かに熱い。
「いや、俺は純情ボーイだから」
「……はい?」
 しまった、外したか。
「いや、何でもない」
「そうですか。あ、ゴハンはどうします?」
 と言われても食べるものは一つしかないだろう。ああ、全く朝からこんな調子だと今日一日が思いやられる。
「……シチューか」
 冬馬は台所を一瞥する。
「はい。あ、でもあと二杯分ぐらいしかありませんから」
「わかった。あと十五分したら食えるようにしてくれ」
 俺は冷蔵庫から麦茶を取り出し、乾いた喉を潤した。それからソファに座ると、テーブルの上に置かれている新聞を開く。
 が、特にこれといった事件も何も無かった。平和だなぁと思いつつも、これなら今日分の新聞料金を差し引いてくれないかとみみっちいことを考えていた。
 そうこうしていると渚がシチューを持ってきた。鍋の残りを全部入れたのだろう、俺の家にある一番大きな皿から溢れそうにになっている。
「渚は朝メシ食ったの?」
「はい」
「もちろんシチューだよな?」
「はい、そうですけど」
「……ならいいか」
 俺は見ているだけで腹一杯になりそうな量のシチューを黙々と口に運び始めた。
「先生。先生はもし宇宙旅行に行けるとしたら行きたいですか?」
 突然何を言い出したかと思ったが、何のことは無い。昨日テレビで宇宙旅行についての特番をやっていたから、きっとそれを持ち出したのだろう。あいにく俺はそれを見逃してしまったが。
「いや、行きたいとは思わないな」
「そうなんですか? 私は行ってみたいと思いますけどね」
「何で?」
 冬馬はシチューを口に運びながら、瞳を輝かせている渚を見る。
「えっと、宇宙から地球を見てみたいですし、無重力ってどんなものか体験してみたいと思いませんか?」
「まあ、それは俺も同感だ。でも俺、高いところってダメなんだよ」
「高所恐怖症なんですか?」
「ちょっとな。いや、高いとこもそうだけど、飛行機とか高いところを飛ぶ乗り物が苦手なんだよ」
「そうなんですか」
 冬馬は麦茶を飲んでから言葉を続ける。
「ああ。だって飛行機とかって落ちたら絶対に助からないんだぜ。俺、乗り物に乗ってる時は常に事故が起こった時にどうやったら助かるかと考えているんだけど、飛行機だけはどうやっても無理なんだよ。ましてやスペースシャトルなんて論外だね」
 真剣な面持ちで話す冬馬を、渚はクスリと笑った。
「それに、宇宙に行ったらきっと鏡なんて見ようと思わなくなるぞ」
「どうしてですか?」
「無重力になると、下半身の血液が上に溜まって、顔がパンパンにむくむんだよ。ムーンフェイスって現象でな、これになると渚の顔もアンパンみたくなるんだ。ま、その分下半身はすっきりするんだけどな」
「へぇー、そうなんですか」
「ああ。それにもう一つ問題がある」
「宇宙酔いってやつですか?」
 昨日得た知識を総動員して、渚が得意気に俺を見詰める。だが俺は首を横に振った。
「いや、違う」
「じゃあ何ですか?」
「無重力だと渚を抱きずらいだろうからな」
「先生、朝から何言ってるんですか」
 渚の責めるような視線から逃げるように、冬馬は書斎に入った。
 昼食はもう入りそうにはなかった。渚にその旨を伝えてから、俺はペンを走らせる。
 だがやはり幾らも進まないうちにペンが止まってしまう。書かなければいけないと思いつつも書けないでいる現状にジレンマを感じていると、不意に背後の襖が開いた。
「先生、これからお買い物に行ってきます」
「待った。俺も行く」
 気分転換には丁度良いだろう。
「あ、はい。わかりました」
 渚が襖を閉めると、俺は残り少なくなった一升瓶を一瞥し、急いで身支度を整えた。
 昨日よりは雲が出ているものの、今日も天気は良い。風が柔らかに吹いているものの、やはり暑い。
「毎日こう暑くちゃたまんないな」
「でも今日は風がありますから」
「焼け石に水だけどな」
 大きく吐く息も熱い。背中もじっとりと汗ばんでいる。
「本当に、暑いですね」
「そうだな」
 胸元をはためかせながら何気無く渚に目を遣ると、渚の瞳がとろんとしていた。
 ……うさぎか?
 息も荒く、ふらふらとした足取りだが、何だか様子がおかしい。
「おい、大丈夫か?」
「今日は本当に、暑いですね……」
 ふらりと渚の体が傾いた。俺はとっさに抱きとめる。
「おい、渚。大丈夫か?」
 大声で名前を呼んだり、頬を軽く叩いたりしてみるが、反応は無い。
 日射病か?
 ともかくこのままにはしておけなかった。家に戻ろうかとも考えたが、ここからだと小学校の方が近い。俺は渚を背負うと、小学校へ走った。
 校門をくぐると、近くにいた女の子に声をかけた。
「なあ、保健室はどこだ?」
「保健室?」
 女の子は何事かとキョトンとしていたが、冬馬の背でぐったりとしている渚に気付くと、目を丸くした。
「うさぎのお姉ちゃん、どうしたの?」
「日射病だ。だから早く」
「うん。こっちだよ」
 女の子が慌てて走り出すと、冬馬もそれに続いた。
 正面玄関にはカギがかかっていて入れなかったが、職員用玄関先で偶然にも教員に出会い、事情を説明するとすぐに中へ入れてくれた。
 保健室には誰もいなかった。が、教員の許可を得て使わせてもらった。冬馬は渚をベッドに寝かせると、濡れタオルを額に置いた。
「ねえ、お姉ちゃん大丈夫?」
「ああ、もう大丈夫だと思うよ」
 ほどなくして渚が呻きながら、ゆっくりと瞼を開いた。
「あれ、先生? 私……」
「日射病にかかったんだよ。で、大丈夫か?」
「はい。あの、すみません」
「謝ることは無いよ。それよりほら、水飲んだ方が良いぞ」
 重そうな頭に手を当てながら渚は上半身を起こすと、冬馬から差し出された水をゆっくりと飲み始めた。
「落ち着いたか?」
「はい」
「うさぎのお姉ちゃん、大丈夫?」
 心配そうに女の子が渚の顔を覗き込む。
「うん、ありがとうね」
 女の子は安心したように頬を緩めた。
「あの、もう大丈夫ですから」
 渚がベッドから下りようとしたので、俺は慌てて制した。
「もう少し休んでからだ」
「でも……」
「いいから。ほら、コップを貸して」
 渚からコップを受け取ると、俺は水を注ぎ、また渡した。
「もう一杯飲んでおかないと、また倒れるぞ」
「すみません」
 しばらくそうしてから俺と渚は教員と女の子に礼をし、校内から出た。
「あ、うさぎ……」
 校門を抜けようとした途端、渚が立ち止まった。瞳がとろんとしているが、今度は日射病ではない。
「うさぎー、うさぎー」
 ふらふらと歩き出した渚の手を掴む。
「おい、こんな炎天下でじっとうさぎなんて見てたら、また倒れるぞ」
「うさぎさんとなら、本望です!」
「うるさい」
 引きずるようにその場から立ち去る。
「あぅー、すぐに戻るからねー」
 ……元気な奴。
 大きな溜め息がそよ風に流された。
 商店街に着くと、とりあえず酒屋に入った。
「お、先生にメイドさんじゃねえか」
 店主はスポーツ新聞から顔を上げる。
「最近来るのが早いんじゃねえか?」
「まあ、な」
「ま、先生のとこにいたら、イヤでも酒が強くなるだろうからな」
「素質だよ。な」
 渚はふるふると首を横に振る。
「ははは。仲良いねぇ。何だか前よりもずっとそう見えるよ」
「そうか?」
「ああ。何だか寄り添ってるように見えるよ。若いモンは良いねぇ。俺も三十年前はカミさんとそうしていたんだよな……」
 店主は羨むような懐かしむような目を俺達に向けている。
 うーむ、やはり他人から見てもわかるのか。
「ま、何でもいいや。それよりも酒だ」
「先生はそればっかだね」
 酒を買い、夕食の材料を揃えると商店街を後にした。
「それにしてもわかるもんなんだな」
「何がです?」
 渚はまた日射病にならないようにと冬馬が買い与えたジュースから口を離すと、小首を傾げた。
「前よりも仲良くなったってのがさ」
 酒屋の店主の言葉を思い出したのか、渚の頬が赤くなる。だがまんざらでもなさそうだ。
「そうなんでしょうね」
「ま、でも悪くないよな」
「……はい」
「そしたら今度はあそこでキスでもしてみせようか?」
「そんなことできませんよ」
 渚は怒ったように俺を見た。
 そろそろ魔のゾーンへと差しかかる。俺は渚の手を引いて早足で通り過ぎようとしたが、
「えへへ、うさうさうさぎー」
 渚が手を振りほどいて小学校へと駆け出してしまった。
 あいつ、日射病だった筈なのに……。うさぎパワー、恐るべし。
「会いにきたよー。約束したもんね」
 渚はウサギ小屋の前にしゃがむと、満面に笑みを浮かべていた。
「あ、うさぎのお姉ちゃんだ。大丈夫?」
 先程の女の子が渚の隣に座った。
「うん。うさぎさん見てたら元気になったよ」
 俺も渚の隣に立つ。確かにうさぎは可愛いけど、どうしてもそこまでは好きになれない。
「うさぎさんも暑いでしょー?」
「そしたらバリカンで全部切ってやろうか?」
「ダメですよ。このふさふさ感が大事なんですから」
 鋭い眼差しを俺に向けると、またすぐに渚はうさぎに目を戻した。
「あー、もうそんな瞳で見詰めないで。身も心も捧げて、きゅーってしたくなるじゃない」
 そういうのは俺だけで充分だ。
「あーん、もう。そんな声で鳴かないでよ」
「なあ、そろそろ帰るぞ」
「本っ当、カワイイんだからー」
 ……聞いてないし。
「ほら、帰るぞ」
 渚の腕を掴んで立たせようとすると、渚はいやいやと首を振った。
「あうー、もう少しだけ」
「もう少ししたらまた日射病になるぞ」
「そんなこと言って、愛する私達を引き裂くつもりですね?」
「はいはい、帰るぞ」
 渚の両腕に手を差し込み、そのままずるずると引きずる。
「うぅー。うさぎさーん、助けてー」
「助けちゃくれないよ」
「あぅー、先生のバカ」
「バカで悪かったな」
 少し苛立ちながら、冬馬はそのまま渚を連れ帰った。女の子は冬馬達の姿をしばらく呆然と見ていたが、やがておかしそうに笑った。
 帰宅すると、俺はぐったりとソファに倒れ込んだ。
「あの、先生……」
「麦茶」
「は、はい」
 渚は買い物袋を置くと、すぐに冷蔵庫から麦茶を取り出し、冬馬に差し出した。冬馬はそれを一気に飲み干す。
「あの、おかわりはいかかですか?」
「いや、いらない」
 素っ気なく言い放つと、俺は書斎に入った。
 原稿用紙に向かうと、先程のつまらない自分を忘れるようにペンを走らせた。
 順調に書き進めていると、玄関のチャイムが鳴った。まさか辛島ではないだろう。
「先生、長田さんです。今お通ししますね」
 ふと時計を見ると二時過ぎだった。
「いや、先生。調子はどうですか?」
 長田は渚に差し出された麦茶を飲み干すとそう切り出してきた。そこに全く悪意は無いのだろうが、こいつにそう言われるとどうも皮肉が込められているような気になる。
「調子は良いよ。もうあと三日もすれば完成するだろうからな」
「そうですか。そしたらひとまず編集長との約束の第一関門は突破しそうですね」
「第一関門?」
「出さなきゃ売ることもできないでしょ」
 なるほど。
「では先生、さっそく見せて下さいよ」
 冬馬が机の上から原稿を手渡すと、長田はすぐに目を通し始めた。
 長田がそうしている間中、冬馬は所在無げにタバコを吸ったり原稿を覗き込んだりしていた。長田が真剣な面持ちで読み進める程、冬馬の期待と不安は高まってゆく。
「どうだ?」
 長田が原稿から顔を上げると、冬馬は開口一番そう訊ねた。そんな冬馬に対し、長田は落ち着き払いながら一つ息を吐く。
 ……長田め、また俺をからかっているな。
「おい、俺をからかうのはその辺にして、早く何とか言えよな」
 憮然とする冬馬に長田が原稿を返す。
「いや、良いと思いますよ。いつもの先生の文体で表現されている中に、今までには無かったキャラクターの感情が表されていますから。後はラストをどうするかによって全てが決まると思うんですけど」
 そこまで言われればもう問題は無い。
「それはもう決めてあるよ」
「あ、そうなんですか。そしたら後は編集長が納得するかどうかですね。でも、正直なところ大丈夫ですかね? 僕は良いと思うんですけど、編集長は……」
「大丈夫だ」
 自信満々に冬馬は言い切った。その勢いに思わず長田がたじろぐ。
「随分自信があるんですね」
「ああ。この作品には色々な想いが込められているからな」
 希美との思い出、辛島の失恋、そして渚との新しい愛。それぞれが俺を成長させ、作品を作り上げてきた。だからこそ、この作品には絶大な自信を持っていられる。
「そうですか。ならきっと大丈夫なんですね」
「ああ」
 長田が微笑んだのを見て、俺も更に前向きになれた。
「それじゃ、編集長にそう伝えときますよ。それでは失礼しました」
 渚に見送られながら長田は会社へと戻った。
 一人になった冬馬は原稿を一瞥すると、大きく息を吐きながら窓の外へ目を遣った。
 果てしない青空にぽつりと浮かんでいる雲一つ。その影から希美が俺を見て微笑んでくれている。
 そんな気がした。きっと、いや絶対に気のせいなのだろうが、その全てを許してくれているような希美の微笑みに、俺は迷いを消してもらったような気がした。
 時は全ての記憶を薄らいでいく。辛い思い出も、楽しい思い出も、平等に消していく。
 しかし全てが消えるわけではない。本当に大切な想いはいつまでも心に残り、そして現在の自分と同化していき、新しい自分を作る。
 希美との思い出はこれから先、きっと今よりも思い出せなくなっていくだろう。だが、もうそれを悲しむことは無い筈だ。俺には渚がいるのだし、それに希美はもう俺といつまでも一緒なのだから。
 冬馬は浮雲に一つ笑いかけると、タバコ火を点けた。揺蕩う紫煙に思いを巡らせつつ、冬馬はペンを執った。
 気が付くといつの間にか時計は六時を示していた。どうやら一段落つけた後に横になっていたら、いつしか眠っていたようだ。
 寝惚け眼をこすりながら冬馬は書斎を出た。
 リビングには渚の姿は無かった。台所にもその姿は無い。不思議に思いながら立ち尽くしていると、渚は風呂場から姿を現した。
「あ、先生。お風呂もう少ししたら入れますから」
「ん、ああ」
 寝汗をかいてしまったから丁度良い。
「何だか起きたばっかりみたいですね。そんなんでお風呂に入ったら湯あたりを起こしちゃいますよ」
「わかってる。だから麦茶でもくれ」
 渚が持ってきた麦茶を飲み、幾らか眠気を覚ましてから俺は風呂に入った。
 沸かし過ぎのため、風呂から上がった冬馬の体は茹蛸のように真っ赤になっていた。
「大丈夫ですか、先生?」
 渚は目を大きくしながら冬馬を見る。
「……熱い」
「水で薄めなかったんですか?」
「ああ。渚が入るだろうからな」
 吐く息も熱い。あと五分長く入っていたら、間違いなくのぼせていたな。
「それはそうですけど、でもそんな熱いお風呂に入ると心臓に悪いですよ」
「そうだな」
 冬馬は渚に差し出された麦茶を一息に飲む。
「えっと、それじゃあ私も入ってきますね」
「あ、渚」
 着替えを用意しようと寝室に入りかけた渚を、俺は呼び止めた。
「何ですか?」
「水で薄めてから入った方が良いぞ」
 渚が風呂から上がり、夕食の支度を終える頃には七時半になっていた。夕食のメニューは冷やし中華。冬馬にはそれにビールが加わっている。
「そう言えば先生は何で小説家になろうと思ったんですか?」
「……夢を叶えるためだ」
 冬馬はビールを呑みながら、どこか遠くを見詰める。
「夢……ですか」
「そう、夢だ」
 思えば壮大な夢だった。
「小説家になって偉くなることですか?」
「それもそうだが、正解ではない」
「人々を感動させることですか?」
「ちょっと違う」
「お金持ちになるためですか?」
「惜しい。が、正解じゃない」
「えぇー、それじゃあ何なんですか?」
 困惑する渚に、冬馬は真剣な眼差しを送る。その眼光の鋭さに、渚が唾を飲む。張り詰める空気の中、冬馬がゆっくりと口を開いた。
「メイドを雇うためだ」
「え?」
 ぽかんとする渚に、俺はもう一度同じ調子で繰り返した。
「だから、メイドを雇うためだ」
「……それ、本当ですか?」
 未だに渚が信じられないといった表情で俺を見詰めている。
「本当だ」
「それって別に、小説家じゃなくてもいいじゃないですか?」
 まるでその問いかけが愚問だと言わんばかりに、冬馬は首を振りながら溜め息をついた。
「確かに金さえ持っていればメイドを雇えるだろう。しかしそれじゃダメなんだよ」
「何でですか?」
「小説家ってのは好きな時間に仕事ができるじゃないか。朝早く起きて満員電車に揺られ、大した金ももらえないサラリーマンよりも、好きなことやって大金を稼ぐ小説家ってのが俺には素晴らしいものに見えたんだよ」
 夜型人間の上に出無精な俺にとっては最高に素晴らしく思えたものだった。
「まあ、そりゃ辛いことも多いけど、そのおかげで夢も叶ったしな」
「それって先生……」
 渚の顔が綻んでいく。
「ああ。俺は金もメイドも手に入れた。それも極上のメイドをな」
「せ、先生……恥ずかしいじゃないですか」
 そう言う渚の顔は幸せでいっぱいだった。
 夕食を終えると冬馬は書斎に入った。そして酒を呑みながら、あと数十枚程度で完成するであろう物語に想いを刻んでいく。
 これが完成したらもう一度渚をどこかへ連れて行ってやろう。どこが良いかな。前は海だったから、やっぱり山かな。
 胸で躍るまだ見ぬ未来と酒を原動力にしながら書いていると、渚が入ってきた。だが渚は何するわけでもなく、ただじっと冬馬の側に座っている。冬馬もそんな渚に別段気を回すこと無く、黙々とペンを走らせていた。
 そうした時間も冬馬がペンを置いたことにより終わった。一段落ついた冬馬は渚の方を向くと、一升瓶を差し出した。
「少し付き合ってくれるか?」
「はい」
 渚は頷きながら中座すると、コップを持って戻ってきた。そうして今日も冬馬と酒を酌み交わす。
「渚、少しずつ呑めよ」
「あ、はい。少しずつ呑むようにします」
 しばらく談笑しながらも、俺は渚のコップを注視していた。確かに少しずつ呑んではいるものの、その分コップに口をつける回数は多い。
「だから呑むの早いって」
「えー、そんなこと無いですよ」
 二杯目へと突入した渚の瞳はもう虚ろになってきていた。こうなるともう誰にも止められない。
「先生。先生は今までに誰かを愛したことはありますか?」
「ああ、あるよ」
 ……しまった。何言ってんだ、俺。
 後悔先立たず。取り下げようにももう後の祭りであった。
「それってどんな女性だったんです?」
 虚ろな瞳がじっと冬馬を見据える。
 正直に答えるべきか、はたまた適当にはぐらかすべきか……。
「まあ、良い女だったよ」
 とりあえず正直になってみた。
「良い女って、先生にとってどう良かったんですか?」
「うーん、巧く言葉にはできないけど、側にいるだけで安心できたかな。大人しかったから、それこそ二人でバカ騒ぎとかは無かったけど、そんなものは必要無いくらい充実していたよ」
 俺も酔っ払ってるな。こんなことを長々と話すなんて。
「今でもその女性のこと、好きなんですか?」
「嫌いと言えば嘘になるな。でも」
「うぅ、やっぱりそうなんですね」
 冬馬が言い継ぐより早く、渚は瞳を滲ませながらコップを傾けた。
「おい、ちょっと待てよ」
「いーえ、待ちません。先生は今でもその女性が好きなんですよ。ええ、そうです」
「だから人の話を聞けって」
「うぅ、私の純潔も先生にとってはどうでも良いものだったんだ……」
 沸々と怒りが込み上がってきた。俺はコップに残っていた酒を一気に呑み干すと、涙ぐんでいる渚と唇を重ねた。
 唐突なキスに渚は驚いて離れようとしたが、冬馬が渚の頭を抱え込んでいるため、それもできない。
 そうして渚が冬馬のそれを素直に受け入れ始めた頃、冬馬は唇を離した。
「落ち着いたか?」
 渚は放心したような表情で頷く。
「その女はな、死んだんだよ。もう何年も前にな」
「えっ……」
「それに、誰も渚がその女に劣ってるなんて言ってないだろ。渚には渚の良さがある。そしてそれは他の誰かと比べようも無いくらいのものだから、俺は渚に惹かれたんだよ」
「先生……」
 また渚の瞳が潤む。
「ったく、もう二度と言わせるなよ。恥ずかしいんだからな」
 渚は嬉しそうにそれを噛み締めている。
「あ、そうだ先生」
「何だ?」
「もう一度キスして下さい。私、欲張りなんで、体に染み込むくらい先生の気持ちを教えて下さい」
 冬馬は一つ息を吐くと、渚と唇を重ねた。