八月二十日 月曜日

 夢を見ていた。希美との夢。夢の中の希美はどこか寂しげであったが、それを大きく上回るくらいの笑顔で、俺に手を振っていた。
 目を覚ますと隣には渚がいた。渚は先に起きていたらしく、寝惚け眼を瞬かせる俺を見てクスクスと笑っている。
「おはようございます、先生」
「ああ、おはよう。ところでいつから起きていた?」
「十分くらい前からです。それからずっと先生の寝顔を見ていました」
「……悪趣味だな」
「でもカワイイ寝顔でしたよ」
 思い出したのか、渚は鼻を鳴らしながら微笑んだ。それを見ていると俺の胸も温かくなっていき、自然に笑みがこぼれた。
「渚も昨日は可愛かったよ」
「せ、先生……」
 恥ずかしそうに渚が冬馬から目線を逸らす。
「でも先生、今でも渚って呼んでくれるんですね?」
「嫌か?」
「いいえ。それどころか嬉しいです。大好きな先生に呼ばれるんですから、ずっと先生との距離が近くなったように思えます」
「渚……」
 冬馬が優しく渚の髪を撫でると、渚は幸せそうにうっとりと目を細めた。
 が、急に冬馬の腹の虫が大きく鳴いた。
 ……ムードぶちこわしだ。
「……昨日コーンスープしか口にしてなかったからなぁ」
「それじゃ朝ゴハン作りますね。私も昨日、ほとんど食べていないんでおなか空いちゃいましたし」
「ああ、頼むよ。あ、そうだ」
 俺の頭に一つの考えが浮かんだ。
「はい、何ですか?」
「裸エプロンでメシ作ってくれ」
 途端に渚が露骨に嫌そうな顔をする。
「えー、イヤですよ。恥ずかしいです」
「夢だったんだ、そういうの」
「ダメです」
「どうしてもダメ?」
「……ダメです」
 チッ、仕方ない。
「それじゃ、これから着替えますのであっち向いてて下さいね」
「別にそこまで恥ずかしがる必要も無いだろ。昨日全部見てるんだし」
「でも、やっぱり明るいとこで見られるのは恥ずかしいです」
 困ったような表情がまた俺の心を刺激する。
「それじゃ、ずっとこのままでいるか?」
「……わかりましたよ。もう、先生は意地悪です」
 諦めた渚は布団から出ると、一糸まとわぬ姿でタンスから下着を取り出し始めた。月明かりに照らされた姿も良かったが、陽の下のこういう姿もまた良い。
 しゃがみ込んでいるために突き出されたお尻。艶やかな髪に少しだけ隠されている白く伸びやかな背筋。
 うーむ、これは良いものだ。
「先生ー、そんなにじっと見ちゃダメです」
 冬馬の視線に耐え兼ねた渚が振り向いた。だが冬馬は全く悪びれる様子も無く、渚の裸体から目を離さない。
「いいじゃないか、ほら」
「う〜」
 ようやく渚が着替え終えると、俺は上半身を起こした。
「それじゃ、すぐにゴハン作りますね」
「いや、その前に風呂に入る。昨日は色々と暑かったからな」
「はい、わかりました。あ、その前に今、お着替えを持ってきますね」
「ん、いや、別にいいよ」
「先生ー、私が恥ずかしいですから……」
「わかったよ」
 渚が急いで着替えを持ってくると、俺はすぐに着替えた。そして風呂が沸くまでの間、麦茶を飲みながら新聞に目を通す。
 今日の一面は最近汚職疑惑で何かとマスコミにネタを提供してきた首相が、ついに辞職を要求されたと言う内容だった。まあ血税で遊び放題していたのだから当然の報いなのだろう。
 しかしこれで俺が生まれてから一体何度首相が代わったことになるんだ? 一国のトップがそんなにコロコロ代わってもいいものなのか?
 そんなことを考えながら新聞を読んでいると、風呂場から渚の声が飛んできた。
「先生、お風呂が沸きましたよ」
「それじゃ一緒に入るか?」
「えっ、いいです。先に入って下さい。私は朝ゴハンの支度があるので」
 予想通りの答にどこかがっかりもしたが、とにかく俺は一人で入ることにした。
 冬馬も渚も風呂に入り、綺麗に汗を流すと、朝食となった。メニューは目玉焼きに野菜炒め、それに焼き魚と味噌汁といった和食であったが、こうした食事をするのは実に久しぶりな気がした。
「こうして朝ゴハンを一緒に食べるの、何だか久しぶりですね」
 渚も同じことを考えていたらしい。
「そうだな。俺も色々忙しかったし」
「作品はもう完成しそうなんですか?」
「ま、これから詰めに入るから、がんばればもう二、三日で完成する筈だ」
「そうなんですか」
「ああ。完成したら一番最初に見てくれよ」
「はい」
 嬉しそうに頷く渚を見ながら、冬馬は野菜炒めを頬張る。
「ところで渚、渚は風呂に入ってる時もそれをしたままなのか?」
 冬馬は渚の胸元で輝くハートに視線を移す。
「いいえ、まさか。お風呂の時は外しますよ」
「そりゃそうだよな」
 笑いながら味噌汁を啜ろうとする冬馬に、渚が何か気付いたように箸を止めた。
「あ、先生、それ……」
 渚が冬馬の胸元を凝視する。冬馬は一つ笑うと箸を置き、それを取り出した。
「これか? ほら、昨日約束しただろ。今日からつけるって」
「覚えていてくれたんですね」
「忘れはしないよ。ほら、渚のも見せて」
 冬馬が割れたハートを渚の前へ突き出すと、渚も胸元から自分のを取り出し、冬馬のと合わせた。割れたハートはピタリとくっつき、一つになる。
「えへへ、これでようやく一つになれました」
 渚はにっこりと笑った。
 朝食を終えると俺は書斎に入った。締め切りまでまだ時間はあるものの、いつ書けなくなるかわかったものではない。もし一旦書けなくなると、そのまま締切日を迎えてしまう恐れだって充分にある。
 原稿用紙にペンを走らせる。が、すぐに止まってしまう。理由はすぐに思い当たった。
 辛島だ。
 渚を選んだ以上、辛島には一刻も早くそのことを伝えなければいけない。待たされると言うことは、ひどく辛いものなのだから。
 しかし、なまじアイツのことを思ってしまうと、それも言えそうにない……。
 とりあえず答が出そうにないので、書くことに没頭しようとするが、それもできない。亜紀さんの言葉通り、どちらを選択しても迷いはこの身につきまとっている。
 だが、渚を選んだことに一片の後悔も無い。この道を選んだ以上、俺は辛島に伝えなければいけないんだ。でないと、俺はいつまでも負い目を感じたまま渚と歩むことになる。
 ……でもなぁ。
 冬馬はすっくと立ち上がると書斎を出た。
「渚、これから少し出るから」
 洗濯機を回していた渚は、冬馬の声に振り返る。
「お散歩ですか?」
「うん、まあ、そんなとこだ。ちょっと詰まっててね、気分転換に外の空気を吸ってくるよ。いつ帰るかわからないから、十二時になったら先にメシ食ってて」
「わかりました。それではお気を付けて」
 どこへ行くあてなど全く無かった。俺は夏の陽にさらされながらそぞろに歩いていた。
 とりあえず一人になれるとしても、書斎にいることには耐え難かった。辛島とのことを考えるのに渚の存在を近くに感じていては、まとまるものもそうはならなさそうだった。
 燦々と降り注ぐ夏の太陽は、惨憺と冬馬を焼き射貫く。だが冬馬はそれに抗わぬことが贖罪の一行為であると思い、全身で受け止めていた。
 やっぱり、思い切って一言で振ってしまう方が辛島のためなんだろうな。いたずらに待たせたり、だらだらと言うのも可哀想だし、それに何も言わないままでいてアイツが俺と渚の関係を知ったとしたら、それこそ残酷だろうし。
 でも俺も何度も振られた経験があるから、アイツにそんな思いをさせたくないなぁ。あの辛さはできるならば抱かせたくない。でも、それはできないんだよ。二股かける度胸も無いし、そんなことはしたくないし……。
 ふと気が付くと昨日瑞穂に告白を受けた場所にまで来ていた。人気は時間も関係してか、昨日より大分多く、騒がしい。灼けた砂浜に腰を下ろし、冬馬は胸ポケットからタバコを取り出すと火を点けた。
 どうしたもんかなぁ……。
 どこまでも続く海を見ながら、ぼんやりとタバコを吸っていると、不意に後ろに気配を感じた。
「何やってんの、こんなとこで。海なんか見てタバコ吸っちゃって、似合わないなぁ」
 振り返ると瑞穂が立っていた。
「どうしてここに?」
「ちょっと散歩しに来たのよ。そしたら冬馬がいたからさ」
 瑞穂は冬馬の隣に腰を下ろした。
 潮騒が喧騒に混じって心地良いメロディを奏でている。冬馬はタバコをクツの裏でもみ消した。
「冬馬はこんなとこで何してるの?」
「小説に詰まったから気分転換に来たんだよ」
 の筈だったんだが……。
「へー、お酒以外にも気分転換できるものがあったんだ」
「そりゃ俺だって呑んでばかりじゃないって」
 辛島との普段と何も変わらない会話に、俺はどこかほっとしていた。しかしこれが苦悩する俺に対しての辛島なりの優しさ、そう振る舞える強さなのだろう。
 本当は違うのかもしれない。だがそう思わないと、とてもこうして話していられない。
 切なく思う反面、冬馬は今しばらくこの流れに甘えていたいと感じていた。
「しかしみんな暇そうよねー。幾ら暑い日曜日とは言え、家でゆっくりしてようとは思わないのかしら?」
「さあな。大方家族だと父親が、カップルだと男の方がサービスでもしてやってるんだろ」
「サービスねぇ。誰かと一緒に遊ぶってのを奉仕だと思ってるのかな?」
 訝しそうに瑞穂が海水浴客を見渡す。
「じゃないの? でなきゃ休日にどこか出る必要も無いだろ。休日ってのは何もしない日だと思うんだけどな」
「出無精男の言い訳ね」
 瑞穂が大声で笑う。それを受け、冬馬が鼻を鳴らした。
「誰もがお前みたく四六時中遊ぶ元気なんて無いんだよ」
「あら、バイタリティ溢れる証拠じゃない」
「溢れ過ぎだ。少しは仕事の方にも回せ」
「大丈夫よ。仕事のできる人ってのは遊びも上手にこなすって言うでしょ。逆もまた真なりよ」
「そういうことはきちんと書いてから言え」
「うるさいわねー、言われなくてもちゃんと書いてるわよ」
 辛島といると、渚とはまた違った元気をもらえる。どっちも俺にとってはかけがえのない女だ。それをどっちか一人に選べだなんて、神様は何て意地悪なんだろう。
 瑞穂は眩しさに目を細め、海を眺めている。
「こういう日はビールが美味しいんだよねー」
「そうそう。こんな陽気の日は俺もよくベランダでビール呑むんだが、これがまた美味いんだよ」
「でもこういうとこで呑むのも、また良いんだよね」
「まったくだ。……おっと」
 どこからかビーチボールが転がってきた。それを拾い立ち上がると、左手からビキニ姿の女が声をかけながら走り寄ってきた。俺はそれを返し、再び腰を下ろす。
 不意に途絶えた会話は再び動き出そうとはしなかった。寄せては返す波の音がやけに大きく聞こえる。俺はもう辛島の方へ目を向けることもできず、ただ足元の砂をすくっては滑らせていた。
 告げるには短い言葉で良かった。始まりも終わりも、飾りなどいらない。ただ、それはあまりにも重い言葉。相手の想いを断るには、ひどくためらわれる言葉。
 冬馬は喉まで出かかった想いを口にできぬまま、固く目を閉じていた。
「……辛そうだね」
 潮騒に消え入りそうな声が耳に、心に響く。目を開け隣を見てみると、辛島が少し哀しげな瞳でこちらを見詰めている。
「何度か冬馬が辛そうにしているの見たことあるけど、今はそのどれよりも辛そう。やっぱり……私のことだよね?」
「……まあ、な」
 やっとそれだけの言葉が出た。
「ここに来たのも、本当はそれでだよね?」
 気分転換なんて渚への、自分への言い訳だ。最初からわかっていたんだ、ここに来てこうなることが。
「ああ。あの日あの瞬間から、今この瞬間まで、ずっと考えていた」
「……それで、答は出たの?」
 答はとっくに出ている。だが……。
「……」
 俺は何も言えず、ただ視線を落とした。
「……そっか、答は出てたか」
 瑞穂は寂しそうに微笑んだ。
「ああ。好きな女がいるんだ」
 それを聞くと、瑞穂は太陽に向かって実に伸びやかな笑顔を見せた。
「なら仕方ないか。ったく、この私より良い女なんて滅多にいないのに、それを見つけられちゃうとはね」
 いつもの調子、いつもの辛島。その強がりに似た優しさが痛い。いっそ頬を叩かれでもされた方が気が楽だ。
「辛島、本当に」
 冬馬の言葉が続くより先に、瑞穂は立ち上がって冬馬の背中を叩いた。
「ほら、もう何やってんのよ。早く帰って小説書かなきゃいけないんでしょ。こんなとこでいつまでも油売ってたら、二階堂さんに怒られてクビになるよ。それに渚ちゃんだって心配するしさ」
「辛島……」
 この、眩しい笑顔が痛い。この夏の太陽よりも明るい笑顔が、辛い。
「いいから、ほら早く行った行った。冬馬が早く書き終わらないと、私が冬馬のとこに呑みに行けないでしょ」
「……そうだな」
 冬馬は立ち上がると、瑞穂に微笑みかけた。それを受け、瑞穂はその倍以上の笑顔を冬馬に返した。
 ゆっくりと辛島から遠去かっていく。決して振り返ってはいけない。そう思っていても、やはり辛島が気になった俺は、幾らか距離を置いてから、少しだけ振り返ってみた。
 うつむいている辛島の表情はわからなかったが、肩が震えているのは遠目からでもはっきりとわかった。
 ……これで良かったんだ。これで……。
 辛島のことに決着をつけれた。これで何も心配することは無い。そう思っていても、何故か視界は涙で滲んだ。
 帰宅する頃にはもう二時を回っていた。
「ただいまー」
「あ、おかえりなさい先生」
 玄関のドアを開けると、パタパタと渚が冬馬を出迎えた。さすがに昨日のように泣いていた様子は無い。
「昼メシはもう食ったの?」
「はい。先生は何も食べていないんですか?」
「ああ。だから何か適当に作ってくれ」
「わかりました。それじゃすぐ作りますから、少々待っていて下さいね」
 渚が台所に立つと、冬馬はソファに座りながら麦茶を口にする。そうして別段何するわけでもなく、ただぼんやりと……。
「あ、あー」
 ぼんやりと……。
「あぁー、何で……熱い!」
 ……。
「わっ、きゃっ!」
 こりゃ、覚悟しとかないとな。
 しばらくして渚が焦げ目のかなり多いグラタンを持ってきた。香ばしいどころか焦げ臭いそれを、俺は渚と交互に見詰める。
「……渚の作る料理は好きだよ」
「……」
「それに焦げ目も好きだよ」
「……」
「……でも、何も炭化するまでやらなくても」
「すみません、先生。あの、ちょっと目を離していたら、その……」
 渚は大きく頭を下げた。
「ところでコレ、初挑戦?」
「え、はい。そうです」
 おずおずと顔を上げ、渚はコクリと頷いた。
「なら、仕方ないか。誰だって失敗はあるんだし、ましてや初めてだったらなおのことだ」
 優しく微笑みながら冬馬は黒いグラタンを一口食べた。渚がそれを緊張した面持ちで見詰める。
「どうですか、先生?」
「……麦茶」
「へっ?」
「麦茶だ。早く!」
「は、はい。ただいま」
 思ってた以上に苦く、口当たりは悪かった。
「大丈夫ですか、先生?」
「……まあな」
「あの、残してもいいですから。もし何でしたら、違うの作りますし」
「いや、これを食うから大丈夫だ」
 俺は冷ましながら黙々と口に運ぶ。
「でもそれいっぱい焦げていますし、それに美味しくないと……」
「……渚」
「はい」
 重々しい響きに、渚はびくりと肩をすくませる。
「これを出したってことは、食べさせる自信があったから出したんだろ?」
「……」
「料理も小説も同じだ。満足させられそうだと思わないと、人前には出せないよ。もし、ただ作ったから出したとしたなら、それは相手に対して失礼になる」
「……」
 渚はうつむき、黙っている。
「そうして出されたものには、受け手もきちんと応えてやらないと失礼になる」
「……先生」
 泣き出しそうな渚の顔に、冬馬は手を置く。
「でもな、責任感だけじゃメシは食えないよ」
「……次はがんばります」
「次も、だろ?」
 俺は優しく微笑みかけた。が、それでこの黒いグラタンの味が変わることはもちろん無かった。
 それでも何とか麦茶の助けを借りて食べ終えると、冬馬は胸をさすりながら書斎に入り、原稿用紙に向かった。が、
「書けねぇ」
 ペンを進めていても紙の世界に没入するどころか、常に辛島のことが脳裏にチラつく。
 何度も振り払おうとしたが、そうする程に辛島のことが鮮明に思い浮かんでくる。
「……くそっ」
 とうとう辛島のことがペンも持っていられないくらいにまで膨らむと、俺はタバコに火を点け、座椅子に深々と凭れた。
 人を愛するのには、幸せを掴むためには誰かを何かを犠牲にしなければならないのか?
 もしそうだとすると辛島は……。
 考えてはいけない。そう思っていても、心は黒い雨で染まっていく。
 辛島は、傷以外の何かを手に入れることができたのだろうか?
 不意に辛島の顔が、昔の自分と重なり合う。
 俺は、今まで失恋して何を得てきた?
 あてどもない闇を見詰め続けるが、光は見えてきそうにない。それどころか、その闇に自分が侵食されていく。
 失恋とは、悲しいだけのものなのか?
 悲しみからは、何も得られないのか?
 必ずしもそうではないように思えた。しかし何を得たのかは思い出せない。いや、そもそもそれは思い出せるものだったか?
 そんなとりとめもないことを考えていると、不意に襖越しに渚の声が聞こえてきた。
「先生、お買い物に行ってきますね」
「ああ、気を付けてな」
「はい」
 ……渚はあんな過去があったと言うのに、元気だなぁ。やっぱり今を楽しんでいるから、ああ振る舞えるんだろうな。
 ふと自分の何気無い思いに、一点の光明が見えたような気がした。俺はその光が消えないうちに、必死に凝視する。
 そうした闇の中で咲いていた一点の光は、渚が前に俺に言った言葉であった。
『涙って二つの気持ちを繋げる鎖だと思うんです』
 それは喜びと悲しみは別物だと言った時に、渚がそれに反論し、二つは表裏一体だと述べた理由であった。あの時は渚の言わんとしていることがよくわからなかったが、今は何となく理解できるような気がした。
『悲しみだってずーっと続けば見えなかったものが見えてきて、それが新しい幸せに繋がるかもしれませんから』
 不意にもう一つ思い出した渚の言葉。それは今の冬馬の悩みを解決するには、充分な答だった。
 俺は、悲しみで自分を大きくしてきた。傷付くごとに、新しい自分を発見してきた。辛島もきっと、そうなっていくだろう。辛島は今まで誰にも見せられなかった本当の自分を、俺に見せることができたんだから……。
 少しだけ空が明るくなったような気がした。あんなに重かった心が、軽やかになっていく。
 確かに渚の言う通り、喜びも悲しみも少し見方を変えるだけで逆転して……逆転?
 ふと原稿用紙に目を落としてみる。
 もしかして俺の小説もそうできるのか? 救いの無いバッドエンドも、同じような文体で少し見方を変えるだけで、ハッピーエンドになり得るのか?
 とにかく書いてみるしかなかった。冬馬はペンを握り直すと、すぐに走らせた。
 手が痛くなったので一段落つけると、もう六時を回っていた。あんなに苦手意識を持っていた今作も少し見方を変えただけで、すらすらとペンが運んだ。この調子ならば序盤の書き直しを含めても、あと数日で完成するだろう。
 冬馬は晴れ晴れとした気分で書斎を出た。
 リビングでは渚がテレビを見ていた。渚は冬馬に気付くと慌てて立ち上がる。
「あ、先生。晩ゴハンはもう少ししたらできますから」
「晩メシって……」
 そこで冬馬は言葉を止めた。台所から良い匂いが流れてきている。
「シチューか」
「はい。今、煮込んでいる最中です」
「そうか。でもまた焦がすなよ」
「あ、はい」
 渚はばつの悪そうに微笑みながら、台所へ向かった。
 夕食のシチューは味も見栄えも良かった。まあ、昼間のグラタンと比べてしまうと何でもそう思えるのは当然なのだろうが。
「どうですか先生?」
 おそらく渚も昼間の一件をまだ気にしているのだろう。
「うん、悪くはないよ」
「本当ですか。ありがとうございます」
 ぱっと渚の顔が弾ける。
「おかわりたくさんありますからね」
 ふと今の言葉にひっかかりを感じた。今までそんなことを言われたことが無かったため、余計に。
「なぁ、渚」
「はい、何ですか?」
「おかわりって、どのくらいあるんだ?」
「……たくさんですよ」
 渚は俺から目を逸らした。嫌な予感は更に膨らむ。
「もしかして、一番デカイ鍋いっぱいに作ったんじゃないだろうな?」
「……その、もしかしてです」
 ……こりゃ、明日の朝も昼もシチューだな。
「あの、先生を満足させようと味付けを重ねていたら、いつの間にかこんなに……」
「その気持ちはとっても嬉しいよ。味も悪くないどころか、良いし」
「あ、ありがとうございます」
 明日の負担を少しでも減らそうと冬馬はひたすらシチューを食べたが、鍋にはまだまだ残ってしまった。冬馬は胃薬を飲むと、腹を押さえながら書斎に入った。
 書き出してからしばらくすると渚が入ってきた。そうしていつものように俺の側に腰を下ろす。
 こうして小説が良い具合で進むのも、渚や辛島がいてくれたからだ。二人がいたから、この物語も色々な想いを刻むことができる。
 原稿を書き、側に渚を感じながら冬馬は心からそう思っていた。
「あ、先生、お注ぎしますか?」
 渚がいつの間にか空になっていたコップに気付くと、一升瓶に手をかけた。俺が頷くと、渚はゆっくりとコップを満たしていく。
 我が世の春。
 本当にそんな気分だった。
「どうしたんですか、先生。何だかとってもご機嫌ですね」
「ああ。何だか嬉しくってな。ほら、渚も一緒に呑もうぜ」
「少しだけですからね」
 そう言い渚は台所からすぐにコップを取ってくると、冬馬に酒を注いでもらった。
「あ、すみません……って、注ぎ過ぎです」
「まあまあ。ほら、かんぱーい」
 コップを合わせると、冬馬と渚はそれを傾けた。
「でも先生、いいんですか?」
「何が?」
「私と呑んでいたら書けないんじゃ……」
「大丈夫。もう完成間近だから、締め切りにも充分間に合うよ」
「そうなんですか」
 渚は安心したようにコップを傾ける。
 いつもそうなのだが、呑み方をまだ知らない渚のペースはとても早い。そうしていつも通り、コップ一杯呑み干すと、渚の瞳はアルコールに負けて虚ろになっていく。
「えへへ、先生まだそんなに残っているじゃないですかー」
 渚は俺のコップを見詰める。渚のペースにまともに付き合うと大変なので、俺のはまだ半分程残っている。
「ダメですよー、もっと呑まないと。呑まないと書けないんですよね。ほら、先生ー」
 渚の手に一升瓶が渡っては危険だと思い、俺はそれを死守する。
「わかったわかった。でもそういう渚も、もちろんまだ呑めるんだろ?」
「そんなこと無いですよー」
 そう言うも、俺に酒を注がれた渚は嬉しそうに笑っている。呑めるようにしてしまったのは俺なのだが、渚は元々酒が好きな素質を持っていたのだろう。
「あ、すみません。では」
 渚は本当に美味しそうに酒を呑んでいる。もしかしたら俺以上に好きなのかもしれない。
「えへへ、先生。大好きですよー」
「ああ、そうか」
 酒は本性を剥き出しにすると言うが、こういう風に酔っ払って好きと言われても……ま、悪い気はしないな。
「先生はどうなんですか?」
「そりゃあ、な」
「あー、言わないのってずるいです」
 本当、困った奴だ。
「いいじゃないか別に言わなくても。それとも俺が信用できないのか?」
「そんなこと無いですよ。でも言ってくれた方が嬉しいです。昨日はあんなに言ってくれたのに……」
 昨日と言われ、思わず渚との情事を思い出してしまう。
「あー、先生。今エッチなこと考えましたね」
 顔に出たのか? それとも……? 「いいや」
「ウソついてもダメです。わかるんですから」
「嘘じゃないって」
「私の瞳を見て言って下さい」
 渚は俺の頬を両手で挟んだ。仄かに冷たい手が俺の心を暖める。
「だから嘘じゃないって」
「う〜、まだそんなこと言うんですね。ウソつきは舌を抜かれるんですよ」
 そう言うが早いか、渚は冬馬の口の中に指を入れ、舌を引っ張った。
「あえええ、あかっかかあ」
「ウソついちゃダメですよ」
 酔っ払いには逆らわない方が良いな。
「はい、すみません」
「わかればいいんですよ」
 渚は相好を崩した。
「あ、先生。コップが空いてますね」
「あ、いや、自分で注ぐからいいよ」
「いいですから、遠慮なんてなさらなくても」
 渚は冬馬から一升瓶を奪うと、冬馬のコップに注ぎ始めた。が、そのほとんどは冬馬の膝の上に注がれた。
「うわっ、何してるんだよ」
「えへへ、すみません先生」
 全く悪びれた様子の無い渚は、笑いながらコップを傾けた。
「……いつもは大人しいのに、何で呑むとこんなに酒グセ悪いんだよ」
「何か言いました?」
「いや、何も」
 冬馬は洗濯する筈だったTシャツで膝を拭うと、大きな溜め息をついた。