八月十九日 日曜日

 暑さにうなされて起きたのはしばらくぶりのことだろうか。それともそれだけではない何かも作用してのことだろうか。何にせよ、目覚めはあまり良いものではなかった。
 汗塗れの服を脱ぎ捨て、バスタオルで体を拭いてから着替える。目覚めの不快さも、これで幾分か薄らいだような気がした。
 時計を見るともう十一時だった。割と寝ているくせに何だか疲れが消えないのは、体より心が疲れているせいだろうか。まあ確かに、最近は特にそういうことが多いから仕方ないのだろうが。
 書斎を出ると佐倉さんがベランダで洗濯物を干しているのが目に入った。結構暑いのだろう、額の汗を手の甲で拭いながら、それでもパンパンと小気味良い音を立てている。
「おはよう」
「あ、先生。おはようございます」
 渚は冬馬に気付くと、リビングに入った。
「今日も暑そうだな」
「はい。お洗濯物干しに少し出ていただけで、汗かいちゃいました。でも、これならすぐに乾くから助かります」
 屈託の無い笑顔を振りまく佐倉さんを見ていると、今朝方タバコを買った帰りがけに思い出したあの日からの誓いが、また俺の中で鮮やかに浮かび上がってきた。
「今日もお風呂を焚かなくちゃいけませんね」
 やはりこの笑顔は、心は俺ではない誰かに向けた方が良いのかもしれない。なまじ誰かと一緒に暮らしていると、必要以上に情が移るものだ。俺と佐倉さんとて例外ではない。
 そう、きっと俺はいつの間にかこの歳の離れた少女に惹かれ始めているのだろう。
「先生、ゴハンはどうします?」
 もし、それが佐倉さんもそうだとしたら? いや、まだそうではないとしても、これからいつそうなるかは誰にもわからない。そして、そうなったとしたら俺はこの少女の気持ちを受け止め、幸せにしてやれるだろうか……。
「先生?」
 きっと無理だろう。ならばそんな気持ちを抱かせなければ良い。たとえそれが彼女を傷付けることになろうとも、後で取り返しのつかない傷を負わせるよりはマシだ。
「……先生?」
「あ、うん、何?」
 何度目かの渚の呼びかけでやっと我に返った冬馬は、慌てて渚と目を合わせた。
「どうしたんですか、ぼーっとして」
「いや、何でもない。それより何だっけ?」
「ゴハンはどうします?」
 話もしなくなれば次第に疎遠になっていくだろう。だったら食事時の会話から無くしていこうか。
「……コーンスープだけでいい」
「だけ、ですか?」
「ああ、それだけでいい。今はまだ、あまり腹減ってないんだ」
 そんな冬馬を渚が心配そうに覗き込む。
「先生、何だかお疲れのようですよ。あまり体調が良くないんでしたら、ご無理をなさらない方が……」
「書斎にいるから、できたら持ってきてくれ」
 佐倉さんに背を向けると、俺はさっさと書斎に入った。後味の悪いものを感じざるを得なかったが、これもそのうち慣れるだろう。
 大きな溜め息をつくと、冬馬は原稿用紙と格闘を始めた。
 好意を抱いてくれている相手に冷たくするのは本意ではないとしても、やはり辛いものがあった。だがそれを作品に反映させるわけにはいかない。
 冬馬は全てを振り切るように、小説に専心した。
「失礼します」
 渚がコーンスープを持ってきても、冬馬は原稿用紙から目を離さなかった。
「ああ、そこにでも置いといてくれ」
 指定された場所にお盆ごと置かれる。
「先生、お仕事はどうですか?」
「忙しい。だから悪いけど、一人にしてもらえないかな」
「あ……、はい。それでは失礼します」
 落ち込みがちに渚は書斎を後にした。
 顔を見ずとも佐倉さんの様子は痛い程良くわかった。そして自分が彼女を傷付けていると言うことも。
 冷めないうちにとカップを手に取り、ゆっくりと飲む。温かい手作りのコーンスープは心をほだすどころか、むしろ逆に辛く重い影を落としていく。
 バカだよな、絶対に。でもそんな俺だからこそ、佐倉さんを付き合わせるわけにはいかないし、俺は一緒に付き合わせる程のバカでもない。そして辛島にも……。
 全て飲み干すと、再び原稿用紙に向き直った。所詮自分は紙の上の相手でしか想いをぶつけられない。そう自分に言い聞かせながら、必死にペンを走らせる。
 紙の上での物語。その中で演じられる虚構の苦悩、葛藤、そして恋愛。それらを演じる人々はその世界が偽りだとは決して信じずに、一生懸命に道を模索して生きていく。
 もしこの俺も誰かの描いているままに演じているとしたら、そして全ての道も結末も定まっているものだとしたら、それは一体どんなものなのだろうか。
 とりとめのない妄想が渦巻く。しかし風鈴の涼しげな音に我に返ると、俺はそれを鼻で笑った。
 結局、この迷いが虚構だとしても、俺はこの俺自身で全てを決めなければならないんだ。
 止まりかけていたペンを動かし、冬馬は紙の上のもう一人の自分を歩ませた。
「先生、ゴハンはどうしますか?」
 佐倉さんの声に反応して時計に目を遣ると、午後一時半だった。腹はそんなに減っていないし、何よりも佐倉さんと会話を交わしたくなかった。
「いや、いらない」
「あの、先生。本当に何か食べないと体に悪いですよ」
「今は何もいらない。欲しくなったら言うから」
「……はい」
 佐倉さんが書斎の前を離れるのが、足音でわかった。
 これで良いんだ。
 大きく息を吐き、ペンを握り直す。
 ……だが、何故こんなに辛く感じるんだ?
 遠去けようとする程に罪悪感ではない何かが俺を苛む。進もうとする道に光が見えない。
「くそっ」
 わけがわからない。自分がわからない。ただやり場の無い苛立ちのみが募る。
 希美、教えてくれ。どうすればこの気持ちが晴れるんだ? どうすれば笑えるんだ?
 すがるように冬馬は必死に希美を思い浮かべようとしたが、何故だか顔が見えなかった。
 冬馬は泣き出しそうな顔を両手でしばし覆ってから大きく息を吐くと、重いペンを執った。
「先生、瑞穂さんからお電話ですよ」
 不意に襖越しに佐倉さんに呼ばれ、俺はペンを置いた。立ち上がりついでに時計に目を遣ると、午後五時過ぎだった。
 書斎を出てすぐに受話器を受け取る。正直、今はまだ辛島の声を聞くのは辛く、ひどくためらわれた。
「もしもし」
「あ、冬馬? 元気ー?」
 受話器から聞こえてきたのは冬馬の予想と大きく掛け離れた、いつもの明るく騒がしい瑞穂の声だった。
「元気だよ。で、何の用だ?」
「あ、うん、この前のこと謝ろうと思ってね」
「へっ? 何のことだ?」
「ほら、この前一緒に呑みに行ったでしょ。で、その時酔っ払った私が冬馬に迷惑かけたかなーって思ってね」
 酔いの失礼を謝るなんて辛島らしくない。やはりあのことが起因しているのだろうか。
「酔っ払って迷惑かけるのはいつものことなんだから、別に今更謝る必要なんて無いよ」
「あ、うん。でもとにかくゴメンね」
 それにしても調子狂うなぁ。
「いや、もうそのことはいいから。そんで、用件ってそれだけか?」
「……」
 少しの間沈黙が支配した後、辛島が息を呑む音が聞こえた。
「……ねぇ、今から出られる?」
「今から?」
 用件はわかっている。しかしそれを受け入れるには、まだ気持ちの整理が何一つついていない。行ったところで果たしてどうなるというのか。どうしろというのか。
「あ、忙しかったらいいよ。冬馬も色々と大変なんだし」
 辛島が今どんな顔をしているのかはっきりわかる。きっと裸の辛島がそこにいて勇気を振り絞っているのだろう。
「……いや、出れるよ。で、場所は?」
 愛を受け入れる術など知らないが、震える声で何とか明るく振る舞いながら必死に頼む女の誘いを断る術も、俺は知らない。
「えっとね、それじゃ一月前に二階堂さんが連れて行ってくれた喫茶店でどう?」
「ああ、わかった。それじゃ一時間もしないうちに着くな。そしたらその中で待ち合わせってことでいいな?」
「うん」
 受話器を置くと、思わず溜め息が出てきた。
 行くとは言ったものの……俺はどうしたら良いんだ?
 ったく、本当に外面は良いよな。
 予測のあった不測の事態に戸惑い、うなだれていると、心配そうな面持ちで佐倉さんが俺を覗き込んできた。
「先生、これからお出掛けですか?」
「ああ。ちょっとした用事ができてね。帰りはどうなるかわからないから、遅くなったら先に寝ててもいいから」
「はい」
 佐倉さんにそれだけ伝えると、急いで身支度を整え、俺は外へ出た。
 辛島に指定された喫茶店には五時四十分頃着いた。少し早いかとも思い入店してみると、すでに辛島が窓側の席に座って待っていた。いつもの辛島なら驚く程早いのだが、そうは思わないのは場合が場合だからだろう。
「随分早いな。いつから来てた?」
 海を見ていた瑞穂は冬馬に気付くとふっと顔を緩めた。
「今さっき来たとこ」
 海に近いため、いつもは海水浴帰りの客で溢れているのだが、六時近くともなれば割と客もおらず、三割強の席が埋まっている程度だった。まあ、盆を過ぎたから海水浴客が少ないのかもしれないが。
「ねえ、冬馬」
 来たか? いや、まだ待ってくれよ……。
「原稿進んでる?」
「まあな。割と良いペースで進んでるよ」
 ほっと胸を撫で下ろすものの、依然緊張を解けないことには変わりない。それでも冬馬は瑞穂に合わせ、強いて笑顔を作っていた。
「お前はどうなんだよ。サボってばっかだと、また亜紀さんに怒られるぞ」
「大丈夫よ、ちゃんと書いているんだから」
 ……ウソつけ、そんな状態で書けるわけないだろ。俺だって言う程書けていないんだ。ましてやお前だったら……。
「でも急に呼び出したりしてゴメンね」
「いいよ別に。俺も丁度詰まってきたから、気分転換に外にでも出ようかと思ってたとこだったし。それにしても辛島に謝られると、何か調子狂うんだよなぁ」
「何でよ?」
「いや、だってお前らしくないしさ」
「そう?」
 辛島が不思議そうに冬馬を見詰める。
「ああ。お前は少々騒がしくて、無礼で、憎たらしくて俺を困らせるくらいで丁度良い」
「……そっか」
 辛島は少しだけ目線を落とし、何かを噛み締めるように微笑んだ。いつもなら「そんな風に私を見ていたの?」とか「うるさいわね」と言って軽い口ゲンカになるものだが……。
 重い沈黙が俺と辛島を包む。店内に流れる音楽や他の客の話し声が遠くなったような錯覚を覚えながら、俺は注文した紅茶を啜った。
 困ったな……。
 何一つ答を決めていないことを今更ながら悔やんでいると、瑞穂が大きく息を吐いた。冬馬は早鐘のように胸を打ち鳴らしながら、瑞穂と目を合わせる。
「ねぇ、冬馬」
 ま、まだ待ってくれ……。
「前もこうして二人で海を見たことがあったよね」
「……あったか?」
 思い出せない。いや、思い出す余裕が無いと言った方が正しいか。
「あったよ。ほら、大学の時にさ」
「ああ、あの時か」
 確かに大学の時に一度だけ辛島と二人きりで海を見たことがある。と言っても最初から一緒ではなく、偶然出会っただけなのだが。
「あの日は天気も悪かったり、お前がサイフを落としたりと散々な一日だったよ」
「でも雨の中、一緒に探してくれたよね」
「おかげで次の日には風邪ひいたけどな」
 その後、おわびにと辛島がおかゆを作ってくれたが、そのせいで腹まで壊してしまった。
「でも今日は晴れてて良かったね」
「そうだな」
 互いに頬を緩めたが、それもほんの一瞬の出来事だった。
 またも重い沈黙が俺と辛島を包む。すぐに居心地の悪さに耐えられなくなった俺は、タバコに火を点けると、窓の外に広がる夕映えの海に目を移した。
 ……どうしたもんかな。こうしたお喋りももう限界だろうが、かと言って決めろと言われてもまだ決断を下せないし。
 ふと目の端で辛島を見てみると、辛島も俺と同じように頬杖をつきながら朱に染まり始めている海を眺めていた。雰囲気のせいか、女と言うものを強く意識してしまう。
 ……俺はどうすれば良い? 目の前の傷付いた女に手を差し出してやるべきか? それとも、俺の中で大きなものとなり始めているあの少女と一緒になるべきか?
 いや、やはり俺は希美を……希美?
 心の中で希美を思い出し、永遠の壁の存在を確かめようとするが、どうしても希美の姿が浮かんでこない。幾ら古傷をえぐろうと、記憶の中で希美の姿だけがぽっかりと抜け落ちてしまっている。
「冬馬」
「……出よっか」
 瑞穂が立ち上がると、冬馬もタバコをもみ消しながらそれに続いた。
 喫茶店を出ると、俺は辛島に従うようにして砂浜へと向かっていた。昼間は熱い風も、夕方ともなれば肌に心地良い。
 いよいよ、か。
 砂浜にはまばらに人がいるだけだった。夕映えの海は朱に燃え上がり、これから辛島に告げられるであろう言葉をより一層輝かせるのには、この上無い演出であった。
 希美、お前はもしかして自らの意志で俺の背中から降りたのか? 俺にまた新たな道を一から創れと言うのか?
 焦りが、不安が俺を貫く。前へ出す足がひどく重い。
 希美、何故俺から降りたんだ?
 突然自分の心の半分が消えてしまったかのような空虚感。常に寄り添ってきた者の喪失による孤独感。
 いっそ逃げ出そうかとも考えていると、不意に強い潮風が背中に叩きつけられた。
 ……希美、わかったよ。
 冬馬は小さく笑うと、しっかりと前を見た。
 辺りに人気が無く、静かな場所まで歩くと、辛島は立ち止まった。潮騒だけが耳に響き、視界が目の前の辛島の背だけに狭められていくのを、ゆっくりと感じていた。
 不意に瑞穂が振り返った。
「冬馬、あの日のこと覚えてる?」
「一昨日のことか?」
 夕日を浴びて瑞穂が頷く。
「あの日に言ったこと、今も変わらないの。ううん、あの日から更に私の中で冬馬が大きく、大切な人になっている」
「……」
 大切な人。俺にとってそれは……。
「今まで、それを認めるのが怖かった。ずっと、逃げ続けていた。でもね、それももう終わり。もう、自分にこれ以上嘘をつけない」
 瑞穂の瞳の輝きが変わった。
「私、冬馬が好きなの。冬馬と一緒になら、どんな高い壁でも越えて行ける。冬馬と一緒になら、どんなことでもできるの」
 必死に想いを伝えるその声は震えていた。いや、声だけではなく、肩も脚も。
「冬馬、私と……」
 その先は言葉にならなかったが、想いは充分に俺の心に届いた。目の前で言葉を待つ裸の辛島。そんな彼女に、俺も素直な気持ちを応えるべきだろう。
 だが……。
「もう少し、時間をくれ。ほんの僅か、そう、三日でいいから俺に時間をくれ。ひどい言葉だとは俺も承知している。だけど、まだ俺の気持ちが、俺自身がわからないんだ」
 俺は嘘をついている。もう、わかっている筈なのに、言えないでいる。
「……わかった。冬馬の気持ちが整うまで、私ずっと待ってるから」
 瑞穂の笑顔がひどく辛く、冬馬は見ていることさえかなわなかった。
「……悪い」
 冬馬は踵を返すと、一人で元来た道を引き返し始めた。夕日はもう、彼方へと消えかかっている。
 正直な気持ち。それがどういうものなのか、今の辛島と会って思い出したような気がする。そして漠然とではあるが、今の自分の本当の気持ちが見え始めていた。
 俺は、きっと佐倉さんのことが好きなんだ。メイドとしてではなく、一人の女として好きになってしまったんだ……。
 希美を失ってからっぽになった心に、突然訪れたあの少女が、知らないうちに俺の心を満たしてくれた。初めはそれが唐突過ぎて、現実だと思えなくて拒絶していたが、次第にそこに安らぎを求めるようになっていった。
 俺はもう、佐倉さんを手放せない。
 冬馬はゆっくりと息を吐く。
 辛島の気持ちを受け入れられないのは、きっと近過ぎたからだろう。親しくなり過ぎたから、女として見てやれなくなったんだ。もし、もっと早く言われていたら、俺は……。
 いや、そう考えるのはよそう。幾ら何でも、辛島に対して失礼だ。
 だけど俺は果たして佐倉さんを前にしても、自分に素直でいられるのだろうか? ありのままの自分をさらけ出せるだろうか?
 そう、佐倉さんが俺に一片の思慕の念も抱いていないとしたら、一緒にいると情が移ると言うのは俺の思い込みだとしたら、俺は俺に正直でいられるだろうか……。
 帰りの電車に乗る頃には、夕陽はすっかり水平線の彼方に沈んでいた。
 視界に自宅のあるアパートが入ると、俺の心は更に重くなった。あそこには佐倉さんがいる。そう思うだけで今は辛かった。
 俺の想いが佐倉さんを傷付けてしまうとしたら、俺はやはり希美と共に生きていくのが良いのかもしれない。俺の気持ちが佐倉さんの重荷になるのだけは、それだけは避けたい。
 そんなことを考えながらアパートの階段を上っていると、自宅が真っ暗なのに気付いた。
 外出でもしてるのか? それとも寝ているのだろうか?
 ドアにカギはかかっていなかった。訝りながら家の中に入ってみても、やはり家中真っ暗だった。冬馬は急いで電気を点ける。
 リビングに佐倉さんの姿は無かった。無論、風呂場や台所はおろか書斎にいる気配は無い。そうなると考えられるのは一つ。
 俺は寝室の襖を開けた。
 そこには思った通り佐倉さんがいた。佐倉さんは暗い部屋の中で、俺がプレゼントしたネックレスを大切そうに握り締めながら、声を押し殺して泣いている。
 渚は開け放たれた襖の先に冬馬の姿をとらえると、泣き腫らした顔のまま、冬馬の胸に飛び込んだ。
「先生、先生、帰ってきてくれたんですね。私、もう先生がずっと帰ってこないと思っていました」
「……佐倉さん?」
 突然のことに俺は呆然と立ち尽くすのが精一杯だった。何故佐倉さんが泣いているのか、何故そう思われていたのかさっぱり理解できない。
 渚は冬馬の胸に顔を埋めたまま離れようとせず、しっかりと冬馬の背を抱き締める。
「すみません、突然。でも私、先生がここにいてくれていることが嬉しくて……」
 俺の胸元が汗ではない何かで濡れていく。それが何なのかはすぐにわかるのだが、一体何故そうなるのかは依然わからない。
「今まで先生にご迷惑ばかりかけてきました。お世話のことから、作品のことまで。でも先生はそんな私をいつでも優しく許してくれました。事故に遭った時だって、こんな私を親身になって心配してくれました」
 背に回された腕に力が込もる。
「私、人からこんなに優しくされたの初めてだったから、とても嬉しかった。先生の優しさが、とても温かかった」
 濡れた胸元が熱い。漠然としていた気持ちがはっきりとしたものへ変わっていく。俺の中で密かに息づいていた想いが、一言一言と紡がれる度に大きくなる。
 渚は冬馬を見上げた。泣き濡れたその顔はぐしゃぐしゃだ。
「でも、最近の先生は私を見るととても辛そうにしています。そんな先生を見ていると私、いつの間にか先生の重荷になっていたんだと、そう思うと、だんだん何も知らなかった私がみじめに思えてきて……」
「……」
 言葉も出なかった。あの笑顔の下で、こんなにも辛い想いを抱えながら微塵も見せず、俺に接していてくれたんだ。なのに何も知らなかった俺は、その笑顔に甘えてばかりいた。
「私の中で先生が大きくなっていくと同時に、私はどうして良いのかわからなくなっていきました。自分の気持ちに素直になろうとしても、どれが本当の自分なのか……」
 本当の自分、本当の気持ち。身近にあって、ひどく疎遠なもの。誰もが求めているもの。
「先生が今日、瑞穂さんに会いに行った時、少しだけ本当の自分が見えたような気がしました。だけど、それは決して認めてはいけない自分。先生を……好きな私」
 辛そうに言葉を紡ぐ佐倉さんを見ていると、言い知れぬ罪悪感のようなものが俺を刺し貫くのを感じた。
 確かに佐倉さんの優しさが俺にとって重荷だとは感じていた。あまつさえ、その存在をも疎ましく思っていた。
 だがそれは俺がその優しさから逃げていたからそうしていただけだ。いつその優しさに裏切られるのか、傷付けられてしまうのか、それが怖くて俺は目を向けられなかったんだ。
「私、ただのメイドだから、誰かにお仕えしていれば良いだけの存在だから。そんなこと思ったらいけない。そんなこと思っていたら、また先生にご迷惑をかけてしまう。だから、もうこれ以上先生を苦しませてはいけない。そう思い、いけないとは知りつつも、出て行こうとしたら、これを思い出してしまい……」
 胸元に視線を落とすと、渚の瞳からぽろぽろと涙が割れたハートに滴った。
「これを見ていたら私、どうしたら良いのかわかんなくなって、それで……」
「佐倉さん、俺は……」
 溢れる想いは言葉にならない。冬馬は泣きじゃくる渚を見詰めるが、すぐに視線を外す。
「先生はきっと帰ってくる、そう信じていました。信じていましたけど、一人になってしまうとどうしても昔を思い出してしまい……」
「昔?」
 冬馬は眉根を寄せた。
「はい。私、孤児だったんです。幼い頃に、─―もう記憶に残っていない両親が、私を孤児院に置いていったんです」
 渚は涙を拭った。
「その頃の生活はもうほとんど記憶に残っていませんが、寂しかったというのだけは今も残っています。物心ついた時から人と接することがとても怖かったんです。どうすれば良いのか、わからなかったんです」
 過去を思い出したのだろう、渚の瞳にまたじわりと涙が滲む。
「五歳の時、今のとこに引き取られたんです。そこで私は、色々なことを学びました。今の私がいるのも、たくさんの人が優しくしてくれたからです」
 ショックだった。佐倉さんの言葉が耳に響く度、俺の頭は真っ白になっていった。
 俺なんかとは比べものにならない程に辛い過去を背負っている佐倉さんは、それでも今の今までそれを見せずに、俺に元気を分け与えてきてくれた。自分が一番必要である筈のそれを、必死に他人に与え続けていた。
「でも、幾ら優しくされても、誰かを心から愛すると言うことは知り得ませんでした」
 堰を切ったように渚の瞳から涙が溢れる。
「こんな私だから、もうずっと得られないものだと思って、これからもそうして生きていこうと……」
 瞳を瞑ると、更に涙がこぼれた。
「何で、何でそう思うんだよ」
「だって、私はメイドですから。だから見返りなんて、期待なんてしちゃいけないんです」
 沈みがかっていた視線を、渚は再び冬馬に戻す。
「でも先生とお会いして、そんな私が消えていきました。私、先生に優しくされる度に嬉しくて、心が温かくなっていって……。だから先生に冷たくされると、私どうして良いかわかんなくなってしまって……」
 佐倉さん……。
 胸が甘く疼く。だが言葉は出ない。
「……すみません、こんな話しちゃって。忘れて下さい。あ、先生、晩ゴハンは食べてきたんですか? まだでしたらすぐ作りますよ」
 涙を拭い、強いていつもの笑顔を作ると、渚は冬馬から離れて台所へ向かおうとした。
 この温もりを逃すと、もう二度と手に入らないような気がした。逃してはならない。その想いが考えるより先に、佐倉さんを後ろから抱き締めさせた。
「先生?」
「……ごめん」
 ようやく出た言葉がそれだった。
「謝らないで下さい。そんなこと言われると、先生を好きだと言う気持ちを捨て切れなくなってしまうじゃないですか。御主人様とメイドと言う関係を保てなくなるじゃないですか」
 抱き締めた腕に一粒二粒と涙が落ちる。小さな肩が震えている。
 そんなもの、もういらないよ。
「捨てる必要なんて無い。それに、苦しいのなら無理する必要も無い。佐倉さんは、素直に生きていれば良い」
「でも……」
 もう自分の気持ちに迷いはなかった。そう、俺も無理せず、ありのままの自分で生きていける筈だ。
 冬馬は渚を抱く腕に力を込める。
「いいんだ、もう。少なくとも俺はもう、佐倉さんがそれだけの存在だとは思ってないよ」
「ダメですよ、先生。そんなこと言ったら」
 渚はうつむいたまま小さくかぶりを振る。
「いや、言わせてくれ」
 鼓動は高まっていたが、不思議と頭は静まり返っていた。世界の全てが二人へと収束し、想いが爆発する。
「俺は、佐倉さんが好きだ。メイドではなく、一人の女として好きだ」
「先生……」
 小さな手が俺の腕を掴む。
「俺は怖かったんだ。優しくされる度、それを返せるのだろうかと。好きになる程、俺の前から消えてしまうのではないかと。だから俺は傷付くのを恐れ、逃げていた。そしてそんな自分を認めるのが嫌で、常に自分に言い訳をしては納得していたんだ」
 希美の死の時からそうだった。俺は現実を受け入れるのが怖くて、常に目を背けていた。あるがままに物事を見ようとしていなかった。
「でもそれが佐倉さんを傷付けていたなんて知らなかった。俺は……」
「……もういいですよ、先生」
 優しく静かな渚の呟き。だがそれは、強い響きをも伴っていた。
「先生が過去にどう思っていようと、何をしていようと、私は今先生に好きだと言われたことが嬉しいんです」
 背を向けているため表情は見えないのだが、どんな顔をしているかははっきりとわかる。
「私も、先生のことが好きです。立場なんて関係無く、一人の男性として好きです。今は、それで良いじゃないですか」
 今だけじゃない、これからもだ。
「……佐倉さん」
 渚はゆっくりと振り返ると、冬馬と見詰め合う。
「今だけ、今だけでいいですから、渚って呼んで下さい」
「わかった、渚」
 柔らかな唇は少しだけ震えていた。冬馬は優しく抱き締めながら、渚の心をも溶かすようなキスを重ねる。
 滑らせる程にあらわになっていく渚の肌。カーテンの隙間から僅かに射し込む月光が、それをより一層美しく際立てる。
「恥ずかしいから、あまり見ないで下さい」
 そんな渚の言葉も、今はただ甘いだけだ。
 交わす言葉に意味は無く、ただ温もりのみが互いの心を伝え合う。そして心が触れ合う度、体が熱くなっていく。
 切なさとは別の色合いが吐息に混じり、咽びながら渚は肢体をくねらせる。その動きはまるで冬馬から逃げようとしているようにも見えるし、小さな体で必死に受け入れようとしているようにも見える。
「……怖いんです」
 心だけでなく体も一つになろうとした直前、渚が僅かに怯えるような瞳を向けてきた。それが何を意味するのかは訊かずともすぐにわかり、俺は渚の髪を撫でてやりながら何度か唇を重ねた。
 渚の顔が歪む程に、背中に鋭角的な痛みが走った。しかし決して苦痛だけではない何かが、渚の瞳から涙を溢れさせる。俺はそれを丁寧に指で拭う。
 愛しさが胸の奥から込み上がる。本当に大切に思える相手が、こんなにも近くにいる。何物にも替え難い存在が、この腕の中にいる。 胸が波打ち、唇が開く。言葉にならない想いが互いに刻まれていく。夢ではない確かな絆が二人を結び付ける。
 ネックレスが渚の胸の上で激しく踊った。
 行為を終えると、冬馬と渚は裸のまま同じ布団に入っていた。大分汗をかいていたが、それでも二人は気にすること無く顔を見合わせては幸せそうに微笑んでいる。
「そのネックレス、ずっとしたままだったな」
 冬馬は渚のネックレスをすくい取ると、月明かりにかざした。
「はい。私の大切なものですから。これと先生のとで一つなんで、これには私の半分と先生の半分が詰まっているんです」
 鈍色に輝く割れたハート。二つで一つとなる思い出の品。机の奥で眠らせてはいけない確かな絆の証。
「そうか。それじゃ、俺も明日からつけるとするかな」
「えへへ、これでようやくおそろいですね 」
「ああ、そうだな」
 嬉しそうに笑う渚を見ていると、俺の心まで温かくなっていく。俺はきっと正しい道を選んだのだろう。後は後悔しないようにするだけだ。
 もう、この幸せを手放したりはしない。
「先生、大好きです」
「俺もだ、渚」
 冬馬と渚はもう一度優しく唇を重ねた。