八月十八日 土曜日

 昨日呑み過ぎたせいか、それとも色々なことを考えていたせいか、目覚めは最悪だった。
 時計を見てみるとまだ十時前だったが、それでもたっぷり八時間以上は寝ている筈だ。なのにこんなに調子が悪いとは……。きっと昨日の酒が変なとこにでも入ったのだろう。
 起き上がると二日酔いに頭が揺れた。だが水でも飲めば治まるだろう。疼く頭を手で押さえながら、俺は書斎を出た。
「あ、先生、おはようございます」
「おはよう」
 リビングでは渚がテレビを観ていた。洗濯機が回る音がすることから、どうやらそれが終わるまでの間、休憩を挟んでいるのだろう。
 渚は書斎から出てきた顔色のすぐれない冬馬に気付くと、すっくと立ち上がった。
「先生、大丈夫ですか? 何だか顔色が良くありませんよ」
「ああ、呑み過ぎたせいだろ。悪いけど麦茶持ってきてくれないかな」
「はい」
 ソファに座り、佐倉さんから差し出された麦茶を噛むようにゆっくり飲むと、幾分か楽になったような気がした。
「ふー、少しすっきりした」
「大丈夫ですか?」
「ああ。麦茶飲んだら楽になったよ。そしてそれと同時に」
 冬馬は意味深に口元を歪める。
「どうかしたんですか?」
「佐倉さんを抱きたくなった」
「な、何を言ってるんですか? 朝ですよ?いえ、それよりも何でそんな……」
「理由なんて無い」
 冬馬の異様な迫力に気圧され、渚が一歩二歩と後退る。
「あ、あの、先生……、嘘ですよね?」
 ゆっくりと冬馬が腰を浮かせる。
「前に言ったろ、抱きたくなったら言うと」
「せ、先生……」
 ドスの効いた声が渚を追い詰める。
「さて、まずは……」
「あ……」
 渚の怯えた瞳がじわりと滲む。
「なーんてな」
 ふっと冬馬は笑いながら腰を落ち着かせた。
「冗談だ、冗談。ちょっとからかいたくなっただけだ」
「……うぅ〜」
 よほど怖かったのか、佐倉さんはその場から動こうとせずに俺を睨んでいる。
 少し悪ノリし過ぎたか。
「ゴメン、悪かったよ」
「……もう、こういうこと言うのやめて下さいね。先生のこと、嫌いになりますよ」
「ああ、わかったよ」
 渚は袖で目元を拭う。
「じゃあ、許してあげます」
 ようやく元の佐倉さんに戻ると、俺は胸を撫で下ろした。
 こんなこと言って泣かせてるようじゃ、俺もよっぽどやられているんだなぁ……。
「それで、ゴハンはどうします?」
 腹は減っているのだが、正直言って食欲が無いので入らないだろう。だが、何か食べないとまた佐倉さんに小言を言われそうだ。
「……お茶漬けでいい。ご飯は例によって少しでいいから。あ、あと味噌汁もな」
「わかりました。でもお茶漬けばかりだと、体壊しますよ」
「ああ。昼はちゃんと食べるよ」
 渚が台所に立つのを見送ると、冬馬は新聞を広げた。
 今日の一面は少年による殺人事件だった。現場は割と家から近い。帰りがけによく刺されなかったもんだ。しかし最近のガキはどうしてこう思考回路が短絡なのだろう。少し考えりゃ後でエライことになるとわからないんだろうか。
 そんなことを考えていると、佐倉さんがお茶漬けを持ってきた。もう少し新聞を読んでいたかったが、時間を置くとまた昨日みたいな事態に陥ってしまうのは目に見えている。俺は新聞を置くと、すぐに箸を手にした。
 量が少ないこともあって、お茶漬けはすぐに冬馬の腹の中におさまった。
「おかわりはどうです?」
「いや、今これ以上食うと昼に食えなくなるから、もういいよ」
 冬馬は残っていた麦茶を飲み干す。
「もう、お酒は抜けましたか?」
「完全にとまではいかないけど、大分な」
「そうですか。ところで昨日は随分呑んでいたみたいですけど、瑞穂さんとですか?」
 佐倉さんの言葉に、今一時忘れていた昨日の辛島が思い出される。
「ああ。そのせいで呑み過ぎたんだろ」
 その俺より呑んでいた辛島は昨日俺に何と言っていた? 愛してくれだのと言っていたじゃないか。
「そしたら今頃、瑞穂さんも二日酔いなんでしょうね」
「そうだろうな」
 今頃辛島はどうしているだろうか? 昨日俺に言った言葉を反芻しているのだろうか? それとも全く覚えていないとか?
「でも先生も瑞穂さんも、本当にお酒が大好きですよね」
 いや、酔っていたとは言え、好きな相手に積年の想いを告白したんだ。覚えていない筈は無いだろう。
「まあな。なくてはならないものだからかな、ついつい必要以上に欲しくなるんだ」
 そう、辛島にとって俺はなくてはならない存在にまで膨らんでしまったのだろう。辛島が俺にどんな幻想を抱いているとしても、アイツは俺を必要としている。こんな俺ですら必要とされているんだ。
 ならばその気持ちに応えてやるべきなのだろうか?
「でも呑み過ぎはダメですからね」
 しかし、辛島が抱いている幻想の俺と、現実の俺とでは昨日の話を聞いた限りでも、相当なギャップがあるように思える。
 もし俺と一緒になってから辛島が本当の俺を知ってしまったら、それこそ必要以上にアイツを傷付けることになりかねないのでは?
「ああ、気をつけるよ」
「……何だか先生、やっぱりまだ本調子じゃないみたいですね」
 考えごとをしていたために自ずと顔に翳を浮き上がらせていたのだろう。今まで表情豊かに話していた佐倉さんがそんな俺に気付いたらしく、一転させて心配そうに顔を覗き込んできた。
「うん、まあ、やっぱりまだ酒が残っているみたいだな」
 冬馬は軽く左右に頭を振ってみせる。
「俺は書斎に入るけど、昼メシの時間にでもなったら呼んでくれ」
「わかりました」
 書斎に入ると俺は机に向かい、原稿用紙に目を落とした。少し前から読み返し、頭を中断する以前に戻してからペンを持つ。
 しかし辛島のことが脳裏にチラつき、いまいち集中できない。これじゃいけないと思い、紙の世界へ没入しようとしても辛島が俺を現実へと引き戻す。
 そんなことを幾度か繰り返しながら書き進めていたが、やはりと言うか当然と言うか、辛うじて一時間で二枚書けた程度だった。
「あー、書けねぇ」
 ペンを原稿用紙の上に放り投げると、冬馬は座椅子に凭れかかり、ぼんやりと空を眺めてみた。
 空は今日も憎たらしい程に青く、俺を嘲笑っているかのようだ。誰かが青空の前では人はちっぽけな存在だなどと言っていたが、もしかすると人は青空の前にちっぽけにさせられているのではないだろうか。
 そんな考えも、涼しげな風鈴の音にかき消された。
「辛島のヤツ、二日酔いだけじゃなく、こんな大問題までお持ち帰りにさせるとは……」
 冬馬は苦笑いを浮かべると、ペンを握り直し、再び原稿用紙の上に走らせ始めた。
「先生ー、ゴハンですよ」
 気が付くともう十二時だった。冬馬は大して進んでいない原稿を憎々しげに一瞥すると、書斎を出た。
 昼食は冷麦だった。二人前なのだろうが、やたら多く見えるのは、氷が入っているせいだろうか。ともかく冬馬はネギとおろし生姜を入れてから啜り始めた。
「そういや今年になって初めての冷麦だ」
「私もです。先生は冷麦嫌いですか?」
「いや、割と好きだよ。でもご飯と違って、すぐに食い飽きちゃうんだよな」
「そうですね。あ、赤いのもらってもいいですか?」
「かまわないよ。俺は緑の食うから」
 冬馬と渚はそれぞれ色付き麺を取る。
「そういえばさっきテレビで観たんですけど、今のロボットってすごいですね」
「ああ。何だったか名前は忘れたけど、あの人間みたいに動くヤツだろ」
「はい。ちゃんと言葉も理解できて、その通りに動けるなんて、どんどん人間に近付いてきてますよね」
 本当に漫画のようなロボットが登場するのも夢物語ではなくなってきたのかもしれない。科学の進歩というのは恐ろしい。
「そうだな。確かあと三十年もすれば、人間とほとんど変わらないロボットができるって話らしいからな。そしたらメイドってのも、ロボットがやるようになるんじゃないかな?」
「ええっ、それは困ります」
 渚は箸を止めた。
「何で? だって佐倉さんだって楽できるじゃない」
「でも、一生懸命働いて先生を喜ばせられなくなるのは辛いです」
 三十年後も俺のメイドでいる気か?
「私、働くのが好きですし、それで先生が喜んでくれるのも好きです。先生だって朝起きて小説が完成していたりでもしたら、物足り無いですよね?」
「確かにそうかもな。いつもそうなれば良いなとは思ってるけど、実際そうなったら達成感は無いだろうからなぁ」
「辛いからこそ、終われば楽しいんですよ」
「まったくだ。人間働かなくなったら面白味も無くなるからな。そういった意味じゃ、楽は必ずしも幸せには結び付かないよな」
「ですよねー」
 昼食を終え、書斎に入ろうとしたところを佐倉さんに呼び止められた。
「これからお買い物に行くんですが、先生は何か必要なものとかありますか?」
「酒買ってきて。あとは特に無いから」
「はい、わかりました」
 書斎に入ると机の前に座り、とりあえずタバコに火をつけた。紫煙をくゆらせながら冬馬はぼんやりと原稿に目を落す。
 書かなければならないのはもちろんなのだが、やはり昨日の出来事が尾を引いている。集中しようにも、あの顔が、言葉が胸をつく。
 それと同時にこのまま書けないままではクビになってしまう、今までの全てが失われてしまう。そんな危惧感が暗天の雲のように広がって行く。
 あぁ、考えることが多過ぎる。やらねばならないことが多過ぎる。このままだとどうかなりそうだ。
「……寝るか」
 寝れば一時でも忘れられるだろう。そんな期待を抱きながらタバコを揉み消すと、俺は横になった。

「はぁ〜、温かい」
 運ばれてきたコーヒーカップを両手で挟み、俺と希美はすっかり冷たくなった体を暖めていた。
「すっかり冷えちゃったな。ちょっと外で話し過ぎたな」
「うん、そうだね」
 季節を忘れて散歩しながらのウィンドーショッピングに興じ過ぎてしまった。これで風邪でもひいたらクリスマスが台無しになってしまう。
 希美の言っていた喫茶店は清潔で明るく、なかなか雰囲気がよかった。周りを軽く見てみても、主に若い男女が多いことがよくわかる。
「ねぇねぇ、耳真っ赤になってない?」
「なってるよ」
「痛いもん」
 幾らか暖まった手で希美はすっかり赤くなった耳を包み込む。
「そりゃ、それだけ赤いと痛いだろうよ。ほら、コーヒーでも飲めよ」
「うん……熱っ!」
 コーヒーを啜ったかと思うが早いか、希美は途端に顔を顰め、カップから口を離した。
「おいおい、大丈夫かよ」
「うん。あー、熱かった〜」
 希美はカップを置き、余程熱かったのだろう、滲ませている涙を何度も指先で拭い取る。
「熱かったり寒かったりと、忙しいな」
「だって、しょうがないじゃない」
 拭い終えた希美は今度はゆっくりとカップに口を近付け、冷ましながら啜る。
「しかし、珍しいもの見たよ」
「何が?」
 訝しげに希美は顔を上げ、見詰めてきた。
「お前の涙だよ。滅多に見ないからさ」
 前に見たのがいつだったか思い出せないくらい、希美の涙は見ていない。怪我をしても、ケンカをしても、希美は泣かない。
「だって泣かないようにしてるもん」
「そりゃ偉いな」
「あー、冬馬ったら、また私のこと子供扱いしてる」
「してないって」
「してるよ。も〜、冬馬が泣く奴は嫌いだって言ったから、そうしてるのに」
「覚えてたのか?」
 前に一度、希美にそう言ったのは覚えている。ドラマだか映画を見ていて何気なく交わした会話の一つ。それを希美はしっかり覚え、守っていたとは今までわからなかった。
「覚えてるよ。それに私自身、泣くのは好きじゃないから」
「でも女の涙は綺麗だから、たまに見たくなるんだよ」
 俺はコーヒーを啜ると、冗談めかして微笑んだ。
「矛盾してるなぁ。それにそんなこと無いよ」
「そうか?」
「そうだよ。だって涙ってのは心の迷いを流してくれるんだから、ゆらゆら揺れて不透明じゃない」
「……難しいこと言うなぁ」
「格好良かった?」
 得意満面に微笑みつつも、どこか照れた感じの希美を見ていると何だかコーヒー以上に胸が熱くなってきて、思わず俺は照れ隠しにコーヒーカップに口付けた。
「いいから。コーヒー冷めるぞ」
「そうだね」
 コーヒーよりも温かかった言葉。
 それよりも胸に響いた希美の笑顔。
 黄昏へと消えて行く僅かな時間……。

 リビングから物音が聞こえる。どうやら佐倉さんが帰ってきているらしい。寝惚け眼を擦りながら眼鏡をかけると、俺は大きく伸びをして、そのまま机に突っ伏した。
「寝れば忘れても、起きれば一緒か……」
 意識が覚醒してくると、脳が現実を取り戻す。そうしてやはり寝る前の状態に戻って行く。不意に瑞穂の顔が思い浮かんだ。
 辛島、今頃何してるんだろう?
 ところがそれも、不意の渚の声に破られた。
「先生、長田さんが見えましたよ」
「それじゃ、ここに通してくれ」
 ほどなくして長田が書斎に入ってきた。
「調子はどうですか、先生」
「よく言うよ。大して期待もしてないくせに」
「そんなことありませんよ」
 長田は慌ててかぶりを振る。さすがに汗は飛ばなかったが、コロンの匂いが冬馬の鼻孔をくすぐった。
「先生がクビにでもなったら、それこそ大損害なんですから」
「でも今までと同じくらいの人気だったら即クビにされるからなぁ」
「だから、そうならないようにして下さいよ」
「わかってるって。誰も好き好んでクビになろうとなんてしてないよ。それに二階堂さんにああ言った手前、納得させられるものを書かないと格好悪いし」
「それじゃ、さっそく先生がピエロにならないための作品を見せてもらえますか?」
 長田に促され、冬馬は机の上に置いてある原稿とノートを手渡した。
「何枚あるんですか?」
「百三十枚。それで中盤までだな」
「へぇー、結構良いペースじゃないですか。でも先生も大変ですね。元々コレ、連載用の作品の予定ですよね?」
「まあな。でも一作品にまとめて載せないと、二階堂さんとの勝負がつかないどころか、負けちまうだろ」
「そうですね。でもそしたら今回は雑誌自体が厚くなりますね」
「ま、そこら辺は大目に見てくれ」
 長田が原稿とプロットに目を通し始めると、冬馬はその様子を食い入るように見詰めた。
 途中までとは言え、それまでの評価は与えられる。その出来いかんにより、下手すると自信を失うどころか、また書き直さなくてはならなくなってしまう。
 沈黙が書斎を支配する。作家として認められてから何度も長田にこの静寂をもたらされたが、いつまで経ってもその間の居心地の悪さには辟易してしまう。
 冬馬がせわしなく視線をさまよわせたり、タバコを吸っているうちに、長田は読み終えたらしく、原稿から冬馬に目を移した。
「どうだ?」
「……そうですねぇ」
 長田はまた原稿に目を落とし、口を閉ざす。何とも歯切れの悪い男だ。
「……ダメなのか?」
「……」
「おい、長田。黙ってたらわからないだろ」
 沈黙に耐えきれなくなった冬馬が、怒ったように強い語調で訊いてみた。その迫力に気圧された長田が、意地悪く笑いながら顔を上げる。
「冗談ですよ、先生。そんなに怒らなくても良いじゃないですか」
「お前の冗談はタチが悪いんだよ。で、どうなんだ、お前から見て」
「ええ、良いと思いますよ」
 あっけらかんと長田は言ってのけた。
「全体的にいつもの先生のタッチと変わりませんからね、読者も急激な変化に戸惑うと言ことも無いでしょう。それにストーリーの内容も構成も問題無いどころか、良い方だと思いますよ。これなら編集長も納得してくれる出来ですよ」
「本当か?」
 意外な好評価に冬馬は素直に驚き、喜んだ。
「ええ。ただ、一つだけ何か言うとするなら、もう一つ何か面白い要素があった方が盛り上がって良いと思うんですけど……」
「面白い要素ねぇ」
 と言われても困ってしまう。そんなものわかったら俺はもっと売れてるからだ。だが、それを何とかしないことにはきっと勝負に負けてしまうだろう。
「あ、いや、これでも充分良いんですよ。僕もそれが何なのかと訊かれても、はっきりとしたことは言えませんし」
「いや、その通りだ。俺も何か足り無いと思っているんだが、その何かがまだ掴めないんだ。ただ、それが主人公の心を動かす要因となるものだというのはわかるんだけど……」
 それきり冬馬と長田は考え込んでしまった。
 風も流れず、ただ蝉の声ばかりが書斎に入ってくる。こうして黙って考えていても汗しか出てこなく、何とも不快である。
「あ、それじゃ僕はそろそろ行きますね」
 先に口を開いたのは長田だった。わざとらしく時計に目を落とし、せわしなさそうに立ち上がる。ずるい奴だなどと思ったものの、引き留めても何もならない。さっさと帰した方が精神衛生上良いだろう。
「ああ、二階堂さんによろしく伝えといてくれよ」
「わかってますって。それじゃ先生もがんばって下さいね」
 それだけ残し、長田は帰っていった。
 一人残された冬馬は座椅子に深々と凭れかかると、大きく嘆息した。だがそれは長田の言葉に手ごたえを感じたと言うよりも、未だ見えぬ課題への混迷であった。
 どうしたもんかなぁ。
 あてどもなくぼんやりと空を眺めていると、またも玄関のチャイムが鳴った。
「先生ー、亜紀さんが見えましたよ」
 亜紀さんが? 一体何の用だ?
 書斎を出て玄関に向かうと、そこには確かに亜紀が立っていた。亜紀は冬馬の顔を見るなり、妖しく微笑む。
「どうしたんですか?」
「ねぇ北川、ちょっと時間もらえる? 付き合ってもらいたいの」
 書けないのなら、気分転換に外に出るのも良いかもしれない。
「別にいいですけど」
「それじゃ渚ちゃん、北川を借りていくから」
「あ、はい」
「じゃあ行こうか」
 亜紀はさっさと玄関から出ようとする。
「ちょっと待って下さいよ、今サイフ取ってきますから」
 急いで書斎からサイフを取ってくると、冬馬は亜紀に連れられて外へ出た。
 真夏の太陽が今日もスタミナ切れを起こさずに燦々と降り注いでいる。間違って転んだりでもしたら、ヤケドでもしてしまいそうだ。
「どこ行くんですか?」
「どこってわけじゃないけど、ちょっと話をしたくてね」
「家じゃダメだったんですか?」
 亜紀は少し答えにくそうに眉根を寄せる。
「ちょっとね。渚ちゃんもいたことだし」
 佐倉さんがいるから話せないこととは一体何だろう。いつもはあけすけなく話す亜紀さんなのに……。
「……まあ、それなら話はあそこでゆっくり聞くとしますよ」
 冬馬と亜紀は家からそれほど離れていない喫茶店に入った。
 他に客はほとんどいなかった。まあ、あまり立地条件も良くないし、店自体良く言えばシック、正直にに言えば古ぼけているので当然かもしれない。俺と亜紀さんは奥の方に座り、アイスコーヒーを注文した。
 アイスコーヒーが届けられ、店員が離れたのを見計らい、冬馬が一つ息を吐いた。
「で、話って何ですか?」
 亜紀は少し喉を潤してから、真摯な表情で冬馬を見詰めた。
「ねぇ北川、瑞穂のことどう思う?」
「へっ?」
 あまりにも唐突な亜紀の言葉に、冬馬は一驚したまま声も出なかった。
「ああ、ゴメン。ちょっと唐突過ぎたわね。でも北川の気持ちを聞かせて欲しいのよ」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。何で亜紀さんが突然そんなこと訊くんですか?」
「だって瑞穂は北川のことが好きなんだから。だったらお互いのためにも、とっとと結論を出した方が良いに決まってるじゃない」
「なっ……」
 何故そのことをこの人は知っている?
「北川、昨日瑞穂と何かあったんでしょ?」
 この人はどこまで知っているんだ?
「どうしてそう思います?」
「あら、そんなのすぐわかるわよ。あの娘が前々から北川のことを好きなことぐらいとっくに気付いていたし、今日になって何だか物思いに耽っているようだったしね。あの瑞穂の瞳を見たら、誰だって昨日何かあったんだと思うわよ」
 やっぱり辛島は昨日のことを……。
「で、何があったの?」
「さすがですね」
「お世辞なんていらないわよ。聞きたいのは昨日の真相と北川の気持ちだけ」
 ……かなわないなぁ。
「わかりましたよ」
 昨日の瑞穂とのことを、冬馬は覚えている限り全て包み隠さず亜紀に話した。
「へぇー、あの瑞穂がね。それで北川はその気持ちにどう応えてやるわけ?」
「それがまだ自分の気持ちが掴めないんです。確かに辛島は悪い奴じゃないんですけれど、急にそういう間柄になるのは……」
「なに青臭いガキみたいなこと言ってんのよ」
 亜紀は呆れたように冬馬の迷いを一笑に付した。
「いい、恋愛なんて所詮道具なのよ。使い方次第でどっちにも転ぶもんなんだから、好きなだけ自分に都合良く利用した者の勝ちよ。言うなればセックスのためだけに使ったって、誰も北川を責めないわよ」
「だけど……」
「北川、もしもそれができないんだったら、さっさと瑞穂を振っちゃいな。だらだらと返事を先延ばしにするのは、何よりも残酷よ」
 亜紀さんの言ってることは痛い程良くわかる。俺も昔、好きな女に愛の告白をした時に、その返事を何日も待たされたことがあった。
 あの時はすぐに返事をしてくれない相手を少なからず恨み、日が経つにつれ結果はどうあれとにかく気持ちを聞かせて欲しいと切に願っていた。
 結局その女には振られたのだが、どんな形でも返事をもらえた時には安堵を覚えたものだった。まあ、その後には当然言いようの無い悲しみに苛まれたのだが。
 だから辛島に対しても気が無いのだったら、いっそのこと終わりを告げた方が良いのだろう。ヘタに同情を重ねてしまうのは優しさではなく、残酷を与えるばかりなのだから。
 だが気が無いかと言われればそうでもない。しかし一緒になるかと言われても、何故だか逡巡してしまう。
「亜紀さんの言ってることはきっと正しいんでしょう。俺も、そう思いますから。だけど、俺はまだ選べないんです。自分の気持ちがまだ掴めないんです。甘い話かもしれませんが、アイツと一緒になりたいと思ってもいますし、そうなってはいけないとも思っているんです」
「……そう。でもね北川、一つだけ言っておくけど、迷うってことは結局どちらを選んでも、その後の自分はそう変わらないものよ。渚ちゃんであれ、瑞穂であれ、その他の女であれ、選んだ道に後悔はつきものなの。だけどね、その道に後悔だけはしちゃいけない。それが道を選んだ北川の業なんだから」
 選んだ道に後悔してはいけない。その通りだ。
 だが、もし何も選ばなければどうなる?
「……亜紀さんはもし俺だったら、どうしますか?」
「そんなの、アンタじゃないからわかんないわよ。でもまぁ、私の立場からすれば瑞穂を選んで欲しいわね」
「どうしてそう思うんです?」
「簡単なことよ、瑞穂が書けなくなったら担当編集者として困るから。それにね、あの娘も少しは色を覚えてくれれば、もっと面白いものを書いてくれそうじゃない?」
 亜紀は面白そうに口の端を歪める。
 亜紀さんからしてみればこの問題も編集者としての利害問題の一つなのだろう。しかし俺はそこまで割り切って考えられない。傷付いた自分と重ねて考えてしまうため、残酷だとわかっていてもなお同情を寄せてしまう。
「それで、今ので何か答を出すようなきっかけになったの?」
「俺は……」
 冬馬は膝に目を落とす。
「まだ、わからない。答は……出せません」
「そう。ま、よく考えることね。でも、小さなとこばかり見ていたら、大きなものが見えなくなっちゃうわよ」
「……」
 大きなもの? それは俺にとって一体何だと言うのだ?
 亜紀の言葉一つ一つが冬馬を闇の中へと沈めていく。際限無く増えていく疑問に、冬馬の顔はすっかり紙のように白くなっていた。
「それじゃ、今日は忙しいのに連れ出したりして悪かったわね。私はもう行くから、お金ここに置いとくからね」
 冬馬の前に千円札を置くと、亜紀はさっさと退店してしまった。
「……希美、俺はどうすれば良い」
 しばらくしてほとんど口をつけていない二つのアイスコーヒーを残したまま、冬馬は病人のようにふらふらと店を後にした。
 視界がひどく狭く、暗い。体は重くて仕方ないのだが、足元がおぼつかない。
 俺は一体どうすれば良いんだ?
 先程からずっとそればかりが頭を渦巻いている。
 今、俺が大切にすべき女性は誰だ?
 蝉の声がやけに頭に響いていた。
「ただいま」
 帰宅すると、渚が駆け寄ってきた。
「あ、おかえりなさい先生。──どうしたんですか? 真っ青ですよ」
 渚は驚き、不安そうに冬馬の白い顔を覗き込んだ。
「だろうな。自分でもそう思うよ」
「大丈夫ですか、先生。横になった方が良いですよ。あ、それともお医者さんに診てもらいますか?」
「いや、少し寝たら治るだろうからいい」
 心配する渚の脇を擦り抜け、冬馬は書斎に入るなりごろりと横になった。
 俺は誰に何を求めているんだ?
 俺は何をすれば良いんだ?
 きっと答えは簡単なもので、手を伸ばせばすぐにでも得られるのだろう。ただ、それを手にすることができないのは―─いや、手にしたくないのは、きっと自分が弱いからだ。自分に自信が持てないから、いつまでも逃げ回り、ひいては相手を傷付けてしまう。
 辛島、俺もお前と何も変わらないんだよ。
 ゆっくりと目を閉じる。蝉の声も、喧騒も遠くへ消えていく。全てが闇へと移ろう最中、希美の微笑みが不意に浮かんだ。

「もう十時半かぁ、結構遊んだね」
 喫茶店を出てから俺達は何するわけでもなく適当に時間を潰していた。そうして気付けば辺りはすっかり暗く、寒くなっていた。
「そうだな、明日はクリスマスイブだってのにな」
「今日も楽しかったけど、明日はもっと楽しくなればいいね」
「まかせとけって」
「随分な自信だけど、何か考えてるの?」
 興味津々な顔で希美が冬馬を覗き込む。だが冬馬は意味深に笑うばかり。
「明日になればわかるよ」
「それはそうだよ。でも、ちょっとくらい教えてよ」
「楽しみはその時まで取っておくものだよ」
「最初にこういう気持ちにさせたのは冬馬の方なのに〜」
 拗ねた瞳を冬馬に向けたかと思いきや、すぐに希美は微笑んだ。
「じゃあ、明日は期待しちゃうからね」
「あ、あまり過剰に期待しないでくれよ」
 一陣の冷たい風が俺達の間を通り抜けた。
「う〜、寒い」
「そうだな。……って、あっ」
「雪だ」
 見上げると空からチラチラと雪が舞い降りてきていた。風に流され頼り無く落ちてくる雪の一片に手を差し出すと、僅かな冷たさを残してすぐに消えた。
「どうりで寒いわけだね」
「あぁ。しかも降るのがちょっと早い」
「明日も降るといいね」
「そうだな」
 自ずと寄り添い、そっと繋ぐ手は仄かに冷たかったけれども、それでよかった。
「ところで冬馬、約束覚えてる?」
「約束?」
 不意に言われたもので、俺は少し面食らったようになってしまった。
「覚えてないの? もー、明日プレゼント交換しようねって、この前言ったでしょ」
「あぁ、それなら大丈夫だよ。ちゃんとアロエヨーグルト一年分買っておいたから。好きだろ?」
「好きだけど、腐っちゃうよ」
「一気に食えよ」
「おなか壊しちゃうよ」
「なーんて、そんなわけ無いだろ。本物は明日渡すから」
「うふふ、楽しみにしてるからね」
 互いに微笑み合うと、どちらから言うとも無しに手が離れた。
「じゃ、今日は風邪ひかないようにしろよ」
「うん。じゃあ、また明日」
 手を振り合いながら俺達はそれぞれの道を歩き始めた。チラチラ降る雪の彼方に消える希美の姿が幻想的であり、どこかこの雪のように儚げに映った。
「クリスマスプレゼント、か……」
 冷たくなった手をズボンのポケットに入れる。
「明日が楽しみだな」
 俺はポケットの中に入れていたアパートの鍵を握り締めた。
 ずっと前から決めていたプレゼント。
 ずっと前から言おうと思っていた言葉。
「一緒に住もう……」
 だけど、待ち望んでいた明日は来なかった……。

 目を覚ますともう日も落ちかかっていた。一眠りしたためか幾分元気になったような気がしたが、本当に気のせいかもしれない。とにかくここにいても辛いだけなので、書斎を出ることにした。
 渚は台所で夕食の支度をしていた。冬馬が起きたのに気付くと、心配そうな面持ちで、パタパタと駆け寄ってきた。
「先生、もう大丈夫なんですか?」
「ああ、もう大丈夫だ。一眠りしたら大分楽になったよ。それより台所離れてていいの?」
「あ、そうでした」
 佐倉さんは慌てて台所へと戻った。その背中を見ていると、安堵と同時に心に蠱が蠢くような疼きを覚えた。
 夕食はコロッケにサラダに味噌汁、そして冷奴だった。コロッケは手作りなだけあって少し油っぽい気もしたが、揚げ物初挑戦と言うことを考慮すれば、充分及第点を与えられる出来だった。
「そういえば先生っていつも手書きですけど、ワープロやパソコンは使わないんですか?」
「うん、使わないな。ワープロもパソコンも使えるけど、好きじゃない」
「そうなんですか」
「ああ。ペンを持って原稿用紙に向かうと、不思議と手が勝手に動いてくれるんだ。でもワープロやパソコンだと、逆に全く動かないどころか何も思い浮かばないんだよ」
「へぇー、何だか昔の小説家みたいですね」
「ま、アナログ人間ってことだ。でもそれ以上に手で書くってことは俺の中で重要なんだ」
 俺はコロッケの油を味噌汁で嚥下する。
「書くってのは、文字を刻むとも言うんだ。そして文字を刻む時、同時に想いも刻んでいるんだよ。俺はその感覚が好きだから、少々時間がかかっても手で書くんだ」
「でしたら先生の小説には先生の色々な想いが詰まっているんですね」
「そういうことになるな」
 自分で言ってて恥ずかしくなってきたので、俺は醤油をたっぷりとかけた冷奴を食べた。
「でもその気持ち私もわかります。手紙とか手書きでもらうと嬉しいですよね」
「そうそう。手で書いたやつは世界で唯一のものだからな。印刷された年賀状とかもらっても、何だか味気無いと思うのはそのせいなんだろ」
「なるほど」
 夕食を終えると冬馬は書斎に入った。
 酒を呑みつつ原稿を進めていても、何故だかペンが重く感じた。そのせいか作品全体のテンションも落ちていき、登場人物の心情も迷いばかりが先行してしまう。
 ……困った。辛島と亜紀さんの言葉がこうも重く俺にのしかかってくるとは。
 解決策は一つしか思い浮かばなかった。たとえそれが後に更なる混迷を生じさせるとしても、今はこの現状から逃れたい。
「佐倉さん、ちょっと来てもらえるかな?」
 呼ぶとすぐに渚が現れた。
「どうしました、先生?」
「いや、ちょっと詰まってね。できれば意見なりを聞かせて欲しいんだが」
「かまいませんよ。私なんかの意見でよろしければ、いつでも。でも何だかこういうの久しぶりですね」
「そうだな」
 嬉しそうに笑う佐倉さんを見ていると、ほんの少しだけ心が晴れたような気がした。
「それで、私は何を言えばよろしいんです?」
「そうだな、例えばもし佐倉さんが好きな人に振られてすぐに別の男に優しくされたとしたら、どうする?」
「えっと……」
 渚は困ったような顔をしながら考え込む。
「よく、わかりません。傷付いた時に優しくされるとすごく嬉しいんでしょうけど、でもそれですぐにその人を愛せるかと言われたら、ちょっとできないと思います」
「それじゃ、その好きな人とはもう二度と逢えないとしたら?」
 またも考え込むものの、今度は先程より間を置かずして口を開いた。
「……それでも、その人を越えるまでは誰かを好きになれないと思います」
「そうか。うん、ありがとう。助かったよ」
「お役に立てて光栄です」
 冬馬に褒められ、渚はぱっと顔を明らめた。
「それじゃ、もし仕事とか無いんだったら、悪いけどここにいてもらえるかな。また何かあったら訊くかもしれないからさ」
「はい、喜んで」
「あ、そこにある本、自由に読んでてもいいから」
「はい、ありがとうございます」
 渚が少し退がると、冬馬は今のを参考に、ペンを走らせた。
 それから大分時間が経った。ペンを動かす手も痛くなってきたので一段落つけると、俺は一服しようと思いタバコに手を伸ばした。
 だがタバコはすでに空になっていた。ふと後ろを振り返ってみると、いつの間にか佐倉さんはすやすやと眠っている。
 自分勝手に佐倉さんを使わないようにって、誓ってた筈だったんだがなぁ。
 己のふがいなさに呆れつつ冬馬は渚に布団をかけると、気分転換も兼ねてタバコを買いに出掛けた。
 もうすぐ日も昇るであろう頃の外の空気はとても新鮮だった。俺は自動販売機でタバコを買うと、ゆっくりと家路を辿る。
 家路までの僅かな道すがら、書くと言うことから離れたせいか、不意に辛島や亜紀さんの言葉が鮮烈な色を伴ってよみがえってきた。
 俺を必要とし、愛して欲しいと望む辛島。それを利用し、没入できなくばすぐに壊せと言う亜紀さん。自分の意志を投げ出したわけじゃないが、亜紀さんの言う通りにするのが最良なのかもしれない。
 ……だが何故、迷うんだ。
『その人を越えるまでは誰かを好きになれないと思います』
 何気無く思い出された言葉に冬馬は今まで抱いていた心の靄が一気に消えていくのを感じ、まだ人気の無い町に高らかな笑い声を響かせた。
 確かに、俺は希美を越える女を見出していない。だから辛島の告白も、素直に受け止められないでいるんだ。誰も希美の代わりになれないと知っていても、俺は比べてしまっている。まだ始まらない恋を、燃え盛っていた頃の愛と。
 ふと笑い声が途絶えると、冬馬の目の前は更に暗くなった。
 ……やはり俺には人を愛する資格なんて無いのかもしれない。比べてしまうことも含め、こんな俺だからこそ、誰かを愛すればきっと相手を傷付けてしまう。それに、そんなことを考えてしまうことで、もう自分を傷付けたくもない。
 空を見上げてみると、青黒い色彩の中に希美の顔が浮かんできた。そしてあの頃の傷も、鮮明な色彩を伴って……。

 希美が死んでからの俺は、もしかしたら俺でなくなってしまったのかもしれない。何をするにも以前のようにできなく、何が起ころうにも以前のように振る舞えなくなっていた。
 多分、希美の死と同時に、俺の半分も死んでしまったのではないだろうか。そう真剣に考えたりもした。俺は希美に、希美は俺にそれぞれ己の半身を渡した。だから希美の死は、俺をも殺したのではないかと。
 そういう理屈なら、希美の半身が俺の中で生き続けていることになるだろう。しかし、そう都合良くできていないのが、この世界のルールと言うやつなのだろう。
 事実、時が経つにつれ俺に中の希美は薄れていった。人々が言うように時が経てば確かに瞬間に受けた多大な傷は癒えていったが、同時に希美も消えていった。
 俺の中で希美を繋ぎ止めるものが傷であったからこそ、その傷を癒さなければいつでも会えた。だが時の移ろいと言うものは、その唯一の方法すらも許してはくれなかった。
 忘れなければ新しいものを入れられないのだろう。人はそうして進んでいくものなのだ。しかし、本当にそうならば過去は一体何だと言うのだ。いつか訪れる未来のために用意する土台? 布石?
 もしそうならば、希美の死もそこに組み込まれる石の一つだと言うのか。
 それが真実だとしても、俺はそれを決して認めたくなかった。もしそれを認めてしまうと、希美も俺も消えてしまいそうな気がした。
 だから俺の中で希美を何人も越えられない存在にまで高めた。そうすれば希美は過去にならずに済む。常に俺と同じ歩みをすることができると考えた。
 それ故、希美以来誰かを好きになることも、誰かの愛を受け入れることも決してなかった。親しくなることはあっても、絶対に……。
 それでも時の流れと共に荷物は増えていく。その重さに耐えられなくなりそうな時も何度かあった。しかし、一番大きな荷物だけは今も捨てられないでいる。たとえその重さに潰されようとも、俺は最後まで背負い続けるだろう。それが希美にしてあげられる、唯一の愛なのだろうから。

 帰宅し、再び机に向かうと、とりあえず俺はタバコに火を点けた。気分転換の外出の筈がいつの間にか昔を思い出してしまい、何だか出る前より疲れた気がする。冬馬はそれを紫煙に乗せて吐き出した。
「んっ、……先生」
 不意に渚に呼ばれた冬馬は、慌てて後ろを振り返った。だが渚はすやすやと眠っている。
「……寝言か」
 再び机に向かおうとした途端、またも佐倉さんの寝言が俺の耳に入った。
「先生、私……一人になんて、もう……」
 後半は何と言っているのか全く聞き取れなかった。だが、その頬を伝う一筋の涙が残りの意味を伝えてくれた。
「……」
 佐倉さんにせよ辛島にせよ、誰かに必要とされていること自体は俺も嬉しく思っていた。そしてどちらも好ましく思える相手であるからこそ、そんな二人を愛しくも思う。
 だが、そこに恋愛感情が入ると厄介になる。今の寝言でさえも、愛しく思う以上に辛い。二人共、俺の虚像を見ているに過ぎないのだ。
「俺は……」
 冬馬の中でまた一つ荷物が増えた。