八月十七日 金曜日

 今日もいつもと同じように陽は昇り、大地を目映いばかりに輝かせる。朝の七時にもなればもう昼間とさほど変わりはしない。
 ただ、いつもと違うのはまだ冬馬が一睡もしていないという点だった。
 もう酒を呑むのをやめ、代わりに麦茶を飲んでいるのだが、それでも疲労、空腹、眠気が日の出と共にずっと冬馬を苛んでいた。
 何度もそれらに負け、眠ろうかと思った。だが、そうしようとすると不思議なことに、まだ体が動きそうな気がして、結局こうしてずるずると起きてはペンと頭を動かしていた。
 だが、やはりペースは格段に落ちていた。それでも今の冬馬を支えているものは、瑞穂との約束よりも、二階堂を見返してやろうと言う執念の方が大きかった。
 ふとリビングから足音が聞こえてきた。どうやら佐倉さんが起きたらしい。俺は這いずるようにして書斎を出ると、顔を洗い終え、再び寝室に戻ろうとしているパジャマ姿の佐倉さんを呼び止めた。
「佐倉さん、ちょっといいかな」
「えっ、先生もしかして今まで起きていたんですか?」
 目を丸くして渚は憔悴した冬馬を見る。
「ああ。だから腹減ってね。もしカレーでも残っていたら、少しでいいから温めてくれないかな?」
「あ、はい。すぐに用意しますね」
 渚はそのまま台所へと向かった。
 十分もしないうちに、佐倉さんがカレーを持って書斎に入ってきた。あんなに空腹だったのに、今はその匂いだけで食欲が満たされていく。
「先生、ひどくお疲れのようですよ。一度寝た方がよろしいんじゃないですか?」
「……そうだな、これ食ったらそうするよ」
 渚は心配そうな瞳をしながら書斎を出た。
「ま、一回寝るか。これ以上起きてても書けないだろうし、一晩で五十枚も書けば充分だろう」
 冬馬は持ってきてもらったカレーを二口三口食べた。温かい分、昨日のよりは美味しいのだが、いかんせん疲れきっているため、胃にかかる負担が凄まじい。これ以上はとても食べられそうにはない。
 口の中のカレーを麦茶で洗い流すと、冬馬はすぐ横になった。今まで頭を働かせていたため、そうやすやすとは眠れないのではと言う懸念は、根こそぎ夢の中へとさらわれた。
 目を覚ましたのは一時過ぎだった。幾ら寝ても浅い眠りしかできないせいだろうか、いまいち本調子に戻らない。特にひどく頭が重かったので、だらだらとしばらく布団に入ってはいたものの、幾らそうしていても眠れそうになかった。
 仕方なく冬馬は食べ残したカレーを持って、書斎を出た。
 リビングでは佐倉さんが掃除機をかけていた。静かな音のものなのだが、やはり浅い眠りを覚ますには充分だったらしい。
「あ、先生。もしかして起こしてしまいましたか?」
 冬馬に気付いた渚は一旦掃除機を止める。
「いや、そんなことは無いよ」
 眠い目を瞬かせながら冬馬は食べ残したカレーを台所に置き、冷蔵庫から麦茶を取り出した。
「先生、ちゃんと食べないと体に悪いですよ」
「いや、何口か食ったら急に眠くなってね」
「お体、大丈夫なんですか?」
「うん、多少疲れてるけど大丈夫だ」
 だが顔色が悪いのが自分でもわかる。
「無理は禁物ですよ」
「わかってる」
「それで、お昼はどうするんですか?」
「ああ、茶碗に半分くらいの量のご飯でお茶漬けでも作ってくれ。俺は書斎にいるから、できたら持ってきてくれないか」
「それだけでよろしいんですか?」
「ああ。それだけでいい」
 冬馬は麦茶の入ったコップを手に、重い足取りで書斎に入っていった。
「さてと、できるまで少し進めるとするか」
 俺は一息吐くとぐるりと右肩を回し、ペンを執った。
「先生、できましたよ」
 ほどなくして背後の襖が開いた。どうやら佐倉さんが注文通りのお茶漬けを作ってきてくれたらしい。
「ああ、ありがとう」
「あの、麦茶……どうですか?」
 渚はコップが空になっているのに気付くと、麦茶を注ごうとした。
「いや、今はいい」
「……」
 差し出されたお茶漬けを一瞥したかと思うとまたすぐに原稿用紙に向かう冬馬を、何とか会話でもしてリラックスさせようとするが、相変わらず冬馬はそれを気に留めず、ひたすらペンを走らせている。
「あの、何か果物でもお持ちしましょうか? お茶漬けだけだと栄養が偏りますよ」
「いいや、それも今はいい」
「それじゃ、何かお手伝いすることとかありますか?」
 冬馬は大きな溜め息をついた。
「悪いけど少し黙っててもらえるかな」
「あ……」
 刺すような冬馬の言葉に渚はそれ以上何も言えなくなり、視線を膝に落とした。
 ゆっくりと時が流れる。いつもならこうして黙って時を過ごせる渚も、どこか居心地が悪そうに視線を落ち着かせない。
 茶碗から立ち上る湯気が勢いを静めた頃、渚が立ち上がった。
「それでは失礼しますけど、お茶漬け、冷めないうちに食べた方が良いですよ」
「……」
 冬馬は返事もせず、黙々と書き続けている。渚がついた小さな溜め息は、冬馬の耳に届く前に扇風機から送られる風に流された。
 ペンを持つ手の痛みと空腹感に我に返ると、冬馬はきりの良いところまで書いてから一休みすることにした。
 時計を見るともう四時半にさしかかろうとしている。書き上げた原稿の量を確認してみると、もうこれで辛島と呑みに行っても差し支えはなさそうだ。
 これで万事安心かと思った矢先、ふと恐ろしい事実に思い当たった。
 お茶漬けだ。
 今まですっかり忘れていた。きっと目も当てられないようなことになっているだろう。
 おそるおそる側に置いてある茶碗に目を移すと、それはもうすでにお茶漬けではなかった。ただ、汁気を吸い切ったばかりか、もう乾き始めているぶよぶよのご飯が盛ってあるばかりだった。
「……食わないと、幾ら何でも作ってくれた佐倉さんに悪いよな」
 意を決して一口食べてみたが、想像以上のものだった。味がほとんどしないばかりか、口当たりが悪過ぎる。
「……最近まともにメシを楽しんでない気がするな」
 それでも何とか食べ終えると、冬馬は書斎を出た。
 リビングに渚の姿は無かった。きっと寝室にでもいるのだろうと思い、食器を下げてから冬馬は寝室の襖に手をかけた。
 が、開ける直前にこの前の着替えのことが不意に思い出されたので、手を襖から離すと、とりあえず声をかけてみた。
「佐倉さん、いる?」
「はい」
 少ししてから襖が開いた。少し瞼を重そうにしているところから、仮眠でも取っていたのだろう。
「どうしました、先生」
「五時過ぎに外に出るけど、遅くなるかもしれないから先に寝ててもいいよ」
「わかりました」
 用件を伝え終え、これから身支度を整えようかと渚に背を向けかけた途端、冬馬は思い出したように渚に向き直った。
「あ、それとお茶漬けありがとうな。美味しかったよ」
「あ、ありがとうございます」
 冬馬が優しく微笑むと、渚はやっと安心したようにはにかんだ。
 それから顔を洗ったり着替えをした後で一服していると、すぐに五時になった。少し早いかなとも思ったが、遅れるよりかはマシかと考え、家を出た。
 約束の店の前にはまだ辛島の姿は無かった。まあ、十五分も早く着いてしまったのだから仕方ない。俺は胸ポケットからタバコを取り出すと、火を点けた。
「……遅い」
 約束の時間になっても瑞穂の姿は見えない。人に待たされるのが何よりも嫌いな冬馬にしてみれば、五分前に着いていて当然と考えていた。が、現実はこうだ。
「ま、辛島だからな」
 俺はまたタバコに火を点けた。
 五分経過。だがまだ瑞穂の姿は見えない。
「あのヤロー」
 憎々しげに吐き捨てながら、チラチラと腕時計に目を落とす。だが時間は同じ調子で進む。待たされている時ほど、時間を長く意識することは無い。
 結局、約束の時間より十分遅れて瑞穂がやっと現れた。瑞穂は足元に転がっている幾本もの吸い殻に気付くと、ばつの悪い顔をした。
「ごめーん、ちょっと一本電車を逃しちゃったんだよね」
「呼んどいて遅れるなんて、結構いい根性してるんじゃないか?」
「あはは。まあまあ、冬馬。ほら、入ろ」
 瑞穂に引っ張られるように、冬馬は店内に入った。
 店内はお洒落とは言い難く、どちらかと言えば場末の酒場のような様相を呈していた。だが客の入りは八割程度と盛況で、冬馬も瑞穂も常連客の一人だった。二人はカウンターの隅に腰を落ち着けると、とりあえずビールを注文した。
「どう、冬馬。ちゃんと書いてる?」
 乾杯を交わし、一口呑んだ後に瑞穂が口の周りについたビールの泡を手の甲で拭う。
「まあ、な。今日のために昨日今日と必死に書いたからな、それなりに進んでいるよ」
「さっすがー」
「そう言うお前はどうなんだ? 相変わらず仕事から逃げ、遊び歩いては亜紀さんに怒られてるのか?」
「何言ってんのよ、私だってやる時はやるんだから」
「ほう、珍しい」
 冬馬はぐいっとジョッキを傾ける。
「んで、次はどんなの書いているんだ?」
「そんなの完成するまで秘密よ。そう言う冬馬はどうなのさ」
「お前が言わないんだったら、俺が言う必要も無いだろ」
「あ、ずるーい」
「ずるくない」
 すねたような眼差しを冬馬に向けたかと思うと、瑞穂は一気にジョッキを傾けた。
「あ、すみませーん、ビール一つ」
「俺は冷や二合」
 あっと言う間にジョッキが空になると、すぐさま冬馬も瑞穂も追加した。
「呑むわねー。そんなに呑んでたら渚ちゃんも大変なんじゃないの?」
「家じゃそんなに呑まないよ。仕事もしてるしな。それにお前が来た時ぐらいじゃないと、あんなに呑まないって」
「ふーん、てっきり酔った勢いでヘンなことしてるんじゃないかって思ってたんだけどね」
「あのなぁ」
 その前に佐倉さんが暴走するから、そんなこともできないって。そう言いかけたが、言うと面倒臭くなるだろうからやめた。
 呆れたように溜め息をつくと、俺は冷酒を呑んだ。安酒だが、こういう場では不思議と喉を通る。
「そうそう冬馬、もし二階堂さんとの勝負に負けたらどうするつもりなの?」
「一からやり直すよ。フリーとしてね」
 さらりと言い切った冬馬に、瑞穂が身を乗り出した。
「一からって、今までの全部捨てるの?」
「……何だよ、縁起でもないことばっかり訊きやがって。大丈夫だって、そんなことには絶対ならないから」
「自信あるの?」
 訝しそうに更に顔を寄せる瑞穂に、冬馬はにんまりと不敵に笑ってみせた。
「自信がなきゃこんなことしないよ。あ、すみません、冷や二合追加で」
「あ、私も。あとそれと枝豆と串焼きの盛り合わせね」
 注文したものが届くと、冬馬は枝豆を頬張り、瑞穂は焼き鳥にかぶりついた。
「それで、一体その自信はどこから出てきたのよ。やっぱり渚ちゃん?」
「……うーん、何だろうな。やっぱり佐倉さんが来てから何かが変わったとは思うよ。でもな、それだけじゃない」
「じゃあ何?」
 冬馬は冷酒を呑むと、視線を落とした。
「……希美を思い出したんだ」
「希美さんて、あの希美さんだよね」
 瑞穂がすまなさそうに目を落としたのに気付いた冬馬は、慌てて顔を明るくし、瑞穂の頭を小突いた。
「なーにらしくない顔してるんだよ。人の話は最後まで聞けよな。確かに俺は希美を思い出したけど、同時にその頃の俺をも思い出したんだよ」
「その頃の冬馬?」
「ああ。人の目を気にせず、好きなものをただひたすら書いていた頃の俺をだ。あの頃は今みたく何かに縛られず好き勝手なことを書いていただけあって、伸び伸びとしていたよ。まあ、その分稚拙さは目立つけどな」
 何も怖くなかったあの頃。いつも希美が支えとなってくれていたあの頃、俺は評価など気にせず、自由に書いていた。そして純粋に、書くことが好きでたまらなかった。
「そうか、そしたら冬馬は退行したってわけね」
「ひどい言い方するなぁ」
 冬馬は苦笑いを浮かべながら、焼き鳥に手を伸ばす。
「でも良いんじゃないの、初心に返るってことはさ」
「まあ、今回に関してはそれを実行するリスクはでかいけどな」
「それでもそうしなくちゃマズイんでしょ?」
「そうだ。でも難しいよ」
 俺は沈みがちになりそうな心を振り払うように、冷酒を呑む。
「辛島はそういうこと無いか?」
「うーん、私はまだ無いわね。あ、冷や二合お願いしまーす」
「お前、呑み過ぎじゃないか?」
 酒の強い瑞穂だが、こと日本酒に関しては冬馬に及びもつかない。なのに今日の瑞穂は冬馬と同じ、いや、それよりも早いペースで呑んでいる。
「いいじゃない別に。私だってたまにはお酒に溺れたい日もあるのよ」
 瑞穂は届いた冷酒を勢い良く呑むと、虚ろな眼差しを冬馬に注いだ。
「ったく、明日どーなっても知らないからな」
「いいのよ明日なんて。それとも冬馬、アンタ明日のことなんて考えて呑んでるの?」
 瑞穂はまた冷酒を呑む。
「まあ、原稿書かなきゃヤバイからな」
「だーいじょうぶよ、冬馬なら。冬馬なら私と違って巧いんだし」
「珍しいな、お前の口からそんな言葉が聞けるなんて」
 軽口を叩くも、瑞穂の耳には届いていないみたいだった。瑞穂は冷酒を呑むと、独り言のように呟いた。
「冬馬は、私と違って強いんだから……」
 いつもの辛島じゃない。そう思いながら俺は枝豆を頬張った後、冷酒を呑んだ。
「そんなこと無いよ。俺はお前が思ってる程、強くはない」
「ううん、冬馬は充分強いよ。だって私なら二階堂さんとかにそんなこと言われたら、絶対に書けないもん。それに冬馬は私の憧れなんだから、そんなこと言わないでよ」
「辛島?」
 何を言ってるんだ? 本当にコイツはあの辛島か?
 残っていた冷酒を一気に空けると、瑞穂はカウンターに崩れながらも冬馬を見詰めた。
「私、本当はプレッシャーにすごく弱いの。二階堂さんに次回作のことを言われる度に、ううん、亜紀さんに原稿を見せる時だって、本当は逃げ出したいくらい怖いのよ」
 面倒臭い酒の席になりそうだなと思うのと同時に、いつもとは違った辛島の一面に心を揺さぶられ始めてもいた。
「そりゃ俺だって同じだよ。誰かに見せる時、いつ自信を持って書いた作品がけなされるんじゃないかと常にビクビクしてるよ」
「でも冬馬はそこから逃げないでちゃんと書いているじゃない。……私は、いつも亜紀さんから、自分から逃げてばかり。昔からいつもそうしてきた」
 俺だって、お前と変わらないよ。
 そう言おうとしたが、言葉にはできなかった。もし言葉にしてしまうと、辛島が俺に抱いている幻想と言う名の支えを失わせるだけにしかならないだろうから。
「私がこの世界に入ったのも、冬馬みたくなりたかったから。希美さんの死に負けないで必死に取り組む冬馬を見て、私もそうなりたいと思ったの。でも、私は冬馬にはなれない」
「まあ、俺みたくなったら辛いだけだぞ。小さな事柄で大きく自分を傷付けてしまうんだから。それに」
 あの頃から今もずっと俺は希美の死にとらわれ続けている。そう続けるより先に、辛島が言葉を繋いだ。
「でも、冬馬はそんな自分をしっかりと受け止めてる。私は、自分が傷付く前にいつも逃げ出しちゃうから、そういう自分を知らない。だからきっと、みんなと違って大切なものが欠けているんだよ……」
 辛島の言葉を否定するのは簡単だ。だが俺はそんな辛島に何と言ってやれば良い?
 慰め? 励まし? それとも……。
 いいや、どれも違う。結局俺は辛島に何もしてやれない。苦しんでいる目の前の女一人に、気の利いた言葉一つすらかけてやれない。
「だから私は、人を愛することも人に愛されることからも逃げてきた。自分の裸の心をさらけ出して、傷付くのが怖いの。自分だけが裸になって笑われるのが怖いの」
 いつしか辛島の瞳にはじんわりと涙が浮かび上がってきていた。それは店内の照明に彩られ、辛島をひどく愛しくさせる。
「辛島、本当にお前が心を裸にしたら、きっと相手もそれに応えてくれるよ」
「冬馬だけだよ、そんな優しいこと言ってくれるのは」
「そんなこと無いよ。もっとたくさん俺より良いこと言う奴なんているって」
「ううん。冬馬だけだよ、私の裸の心を受け止めてくれるのは。冬馬だけだよ、私を助けてくれるのは」
 瑞穂の頬を一粒二粒と涙が滑り落ちていく。
「冬馬、私を愛して。私、冬馬になら本当に裸になれる……」
 その言葉に世界の全てが止まる。喧騒も、店内に流れる音楽も、人々の動きも、そして時間も。その中で俺と辛島の心だけが静かに動いていた。
 おそらく、いやきっとこれが辛島の裸の心なのだろう。傷付くことを何よりも恐れ、普段は大きな殻の中で小さく震えている本当の辛島瑞穂。その心を今、自分から逃げずに俺にさらしてくれている。
 ……だが今は、今はまだすぐにその心を受け止めてやれない。今はまだ、この気持ちに応えてやる自分が見つからない。
「……辛島、とりあえず出ようか」
 冬馬は瑞穂の涙を拭い、立たせると、抱きかかえるようにして退店した。
「ごめんね、冬馬」
「ん? 何がだ?」
 外に出て、駅前までのタクシー乗り場への道すがら、冬馬につかまりながら歩く瑞穂が急にそんなことを呟いた。
「急にあんなこと言われても困るよね。私、冬馬に甘え過ぎてた」
「そうでもないだろ。やっと本当のお前を知ったんだ。迷惑だなんて思ってないよ」
「でも、私はまた冬馬の重荷になった……」
 瑞穂は暗く沈んでいく。
「そんなこと無いって。ほら、もういい加減自分を傷付けるなよ。もういいからさ」
「よくないわよ。だって……」
 強い語調でキッと冬馬を見上げる瑞穂。だがそれもすぐに勢いを無くす。
 その先は言葉にならなかったが、それでも俺の心にはしっかりと届いた。ただ、今はそれに応える術を知らない。
 五分程して駅前に着いた。冬馬が瑞穂をやっとの思いでタクシーに乗せると、瑞穂はタクシーの中でいつものように不敵に笑った。
「じゃあ今日はありがとね。今度は私がおごるからさ、また呑もうね」
 それだけを残すと、辛島を乗せたタクシーは走り去っていった。ふと時間が気になり、腕時計に目を落とす。
 午後十時四十五分。終電ではないが、次に来る電車に万が一乗り遅れると面倒なので、俺は少し走った。
 帰宅する頃には日付も変わっていた。冬馬はゆっくりとアパートの階段を上りながら自宅に目を遣ると、意外にもまだ明かりが灯っているのに気付いた。
 ドアを開けるとパタパタと渚が出迎えた。
「おかえりなさい、先生」
「あれ、まだ寝てなかったの? 先に寝ててもいいって言ったよね」
「はい。でも本を読んでいたらいつの間にかこんな時間になっちゃったんです。ところで先生、大分呑んできたんですか?」
「ん? そんなに匂うか?」
 自分の息やシャツの匂いを嗅いでみるが、いまいちわからない。だがそう言われるということは、きっとかなりのものなのだろう。
「はい、少し。あ、先生、何か飲みますか?」
「麦茶でもくれ」
 家に着いて安心したせいか、急に酔いが回ってきた気がする。それに伴い眠気も襲ってきて、頭は朦朧とし、目がかすむ。
 幾ら麦茶を飲んでみたところで、状態は一向に好転しそうにはなかった。それどころか胃が逆転しそうだ。
「先生、大丈夫ですか?」
「ん、ああ、大丈夫だ」
「まだ飲みますか?」
「いや、もういい。それより佐倉さん」
「はい、何ですか?」
 佐倉さんは誰かにありのままの心をさらけ出せるかい?
 そう言おうとしたが、佐倉さんの顔を、瞳を見ていると、不意に抱いた疑問があまりにも下らなく思え、言葉にはできなくなった。
「……いや、何でもない」
「そうですか。でも何かあったら遠慮なくおっしゃって下さいね」
「ああ、ありがとうな。それじゃ、おやすみ」
「はい。おやすみなさい、先生」
 ふらつく足取りで冬馬は書斎に入った。
 今日は机に向かう気力すら無かった。幾ら普段呑みながら書いているとは言え、こうまで酔っているとペンすら持てない。着替えることすらおっくうになった冬馬は部屋の明かりを消すと、そのまま横になった。
 呑み過ぎたせいだろうか、すぐに眠れるものだと思っていたのだが、不思議なことに辛島の顔と言葉が次々と浮かんでくる。
「……愛してくれ、か。まさか辛島が俺をそんな風に見ていたとはな」
 今まで生意気だけど可愛げのある親友だとばかり思っていた辛島にそう言われるとは、夢にも思っていなかった。
 だが、今まで全くそういう対象として見ていなかったかと言われれば、そんなことも無かった。少なからず、恋愛感情に近い好意を抱いていた時期もあったからだ。
 辛島かぁ。まあ、確かに悪くはない。それどころか良い方だ。辛島と一緒になれば、互いに切磋琢磨し合えるだろうし、毎日も楽しいだろう。それに、希美を忘れさせてくれる女にも充分なりえる。
 冬馬はごろりと寝返りをうつ。
 だが、かと言って急にそんな対象として見れるわけないじゃないか。そりゃ、女として好意を抱いた時もあった。それにアイツを好きになっても、拒絶される心配は無い。とりあえずは傷を重ねずに済む。
 だけど……。
 何故かその道を選ぶことをひどく躊躇してしまう。本来ならばこういうチャンスは滅多に無いため、尻尾を振りながらすぐにでも飛びつくことだろう。しかし何故だか今はそれができない。
 希美か?
 確かに今もそれにとらわれているところは大きい。遠い過去の思い出にしてしまうのを、ひどく嫌っている自分がいるのは事実だ。
 だが、それだけでは説明がつかないような気もしていた。
 ……佐倉さんか?
 不意に佐倉さんの顔が瞼の裏に浮かんだ。
 もしかして、いつの間にか俺の中で佐倉さんの存在が大きなものとなってしまっているのか? たった十日かそこらで、俺は佐倉さんに惹かれ始めているのか? だから素直に辛島を選べないでいるのか?
 とめどない疑問が、迷いが冬馬の頭をあてどもなく駆け巡る。
 でもそれはきっと女としてではなく、メイドという便利な存在に対して惹かれているんだろう。確かに今、佐倉さんがいなくなりでもしたら、また面倒な生活に逆戻りしてしまうからな。
 しかしそう考えるんだったら辛島にすぐ飛びつけば良いじゃないか。何を俺は迷っているんだ?
 だが、今辛島を愛しく思っているのはもしかしたら同情によるものなのかもしれない。可哀想だと思っているから、俺はそれを恋愛感情だと勘違いしているだけなのかも。
 眠気とアルコールが脳内を蹂躙し、次第に考えがまとまらなくなっていく。冬馬は出口の無い迷宮に入っていくのを感じながら、眠りに落ちていった。