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  八月十六日 木曜日

「ぐあ、暑い」
 今日もどうやら天気が良いらしい。直射日光を浴びていなくとも、充分に暑かった。
 寝惚け眼で時計を見てみると、どうやら十一時になろうとしているところだった。俺は眼鏡をかけると、胸元をはためかせながら書斎を出た。
「おはよう」
「あ、おはようございます先生」
 洗濯機を回していた渚が冬馬に気付くと、ふらふらと近付いてきた。
「佐倉さん、調子悪そうだね」
「はい。何だか頭が痛く、体がだるいんです。風邪でもひいたんでしょうかね?」
「いや、ただの呑み過ぎだろ」
 昨日の佐倉さんは思い出すだけで恐ろしい。
「えっ、私、呑みました?」
「ああ。すっごく呑んでたよ」
「うーん、そう言われれば確かに呑んだような気が……」
 渚は重そうに頭を捻る。
「……やっぱり呑みましたね」
「で、どこまで覚えてる?」
「えっと……、一杯目を呑んだとこまでです。それからぽーっとしてきて、何だか気持ち良くなってきて……」
「そこから先は覚えていないと」
 ばつの悪そうに渚はこくりと頷く。
「あの、ご迷惑をかけたのならすみません。それで、もしよろしければ昨日私が何をしたのか教えていただけませんか?」
「知らない方が良いと思うけど」
 その言葉に佐倉さんの顔が強張る。
「あ、あの、それでもかまいません」
 俺は覚悟を決めてもらうようにわざと大きく息を吐いてから、ゆっくりと口を開いた。
「昨日佐倉さんは酔っ払って俺にからんできたんだよ。『先生はどうしてそんなにエッチなんですか?』とか『私がこんなに先生のことを好きなのに、先生は私のこと子供扱いしてる』とか言ってな」
「うっ……、本当ですか?」
「ああ、本当だよ。でも昨日はずっと嘘つき呼ばわりされてたけどな」
「……うぅ」
 がくりと渚がうなだれる。
「ま、酒の失礼は失礼のうちに入らないって言ってるだろ。俺も気にしてないしさ」
「本っ当にすみません」
「いや、別に謝らなくてもいいよ。無理に呑ませた俺も悪いんだから」
「でも……」
「いいから。ほら、それよりメシの用意でもしてくれよ」
「はい」
 佐倉さんは頭を下げながら、ふらふらと台所に立った。俺は冷蔵庫から取り出した麦茶を飲みながら、新聞を開く。
 一面はまた消費税が上がるかもしれないと言うものだった。確かに財政が逼迫しているのはわかるのだが、何もこうした解決策を打ち出すのは納得いかない。
 まったく、世の中暗いニュースばかりだ。
 そうこうしていると佐倉さんが朝食を運んできた。一日の始めの食事はあまり食べられないと知ってるため、今日も胃に優しい和食。
「先生、何か嬉しそうですね」
「ん、そう見える?」
「はい」
「うーん、そりゃきっとメシが美味いからだろうな」
 冬馬は味噌汁を啜る。
「ありがとうございます」
「いやいや、そりゃ俺の台詞だ。日々小さな幸せはあるけど、こうしてメシが食えるのは大きな幸せだよ」
「先生にとって小さな幸せって何ですか?」
 褒められた照れ隠しのように、渚が視線を少し下げながら訊ねる。
「そうだな、例えばデジタル時計で十一時十一分十一秒になった瞬間とか、占いで一位になった時とか色々な」
「確かに大きくないですね」
「佐倉さんはそういうのある?」
「えっと、私はお買い物をした時に小銭が全部無くなった時ですね」
「ああ、サイフの中の小銭を全て使い切って会計を終えた時ね」
「はい。後はおまけしてもらった時ですね」
「それは普通の幸せだよ」
「そうかもしれませんね」
 食事を終えると、冬馬は書斎に入り、原稿に向かった。今日から本格的に昼間も進めないと、期日に間に合いそうにない。
 書き始めてからほどなくすると、背後の襖が開いた。
「これからお買い物に行きますけど、何か必要なものとかありますか?」
「いや、特に無い」
「そうですか。それでは行ってきますね」
「はい、行ってらっしゃい」
 渚は襖を閉めると、家を出た。
「……何だか久々に一人になった気がするな。佐倉さんが入院した時以来か」
 風鈴の音が冬馬に解放感を告げる。それに触発され、色々な考えが頭を巡る。久々にパソコンゲームでもしようかというものから、こっそり佐倉さんの下着を覗いてこようかというものまで、実にとりとめがない。
「……いや、真面目に書くか」
 名残惜しそうに煩悩を彼方へと追いやると、原稿用紙に目を落とした。
 しかし夜型人間となっているためか、昼間は巧く頭が回ってくれない。ペンを走らせようとしても、夜の十分の一程度の速度のため、せいぜいほふく前進が良いところだ。
 一時間もしないうちにいい加減書くのが苦痛になり始め、一旦寝ようかと横になった時、唐突に玄関のチャイムが鳴り響いた。
「ったく、誰だよ」
 面倒臭そうに立ち上がると、冬馬は玄関へと向かった。
 ドアを開けるとそこには辛島が立っていた。今日は買い物袋を手に提げていないものの、面倒臭い客には違いない。
「やっほー、遊びに来たよ」
 辛島は今日も元気良く笑っている。
「遊びに来たよ、じゃねぇよ。何だよ一体。俺は忙しいんだよ」
「ま、そうだろうね。亜紀さんから聞いたわよ。何でも二階堂さんとケンカしたそうじゃないの」
 憎たらしい程にニヤけながら瑞穂が冬馬を見上げている。
「わかってるんなら邪魔すんなよ」
「邪魔なんてしないわよ。ただ冬馬が疲れているだろうと思って、気をほぐしてあげようとしているだけ」
「それが邪魔だって言ってるんだ。それにまた遊んでいると、亜紀さんに怒られるぞ」
「だーいじょうぶよ。あの人だってそんなに暇じゃないだろうし、それに弓だっていつも弦を張りっぱなしだとダメになるって昔から言うでしょ」
「お前はもう少し張り詰めてろ」
「まあまあ、堅いことは言いっこなしよ」
 辛島ぐらい肩肘張らず、奔放に生きてたらどんなに楽なことだろうか……。
「あのなぁ、俺は今かなりヤバイんだよ。下手したらクビになるかもしれないんだから」
「マジで?」
 意外な事実に瑞穂は目を丸くした。
「マジだよ。次の作品が今まで以上に売れなかったら、俺は即クビになるんだよ」
「うそー。えっ、何? 売り上げって単行本じゃないよね?」
「多分、雑誌の売り上げだろうな」
「えー、二階堂さんも結構ヒドイことするね」
 コイツに同情されるなんて珍しいが、まあ状況が状況なだけに当たり前か。
「そうかもな。だけど、俺は書きたいものを書くんだ。それでも人気は取れると思う」
「もし取れなかったら?」
「それまでの作家だったってことだろ」
 自嘲気味に笑う冬馬を、瑞穂は心配そうに見詰めている。瑞穂とは割と長い付き合いの冬馬も、この瞳は過去に一度しか見たことが無い。そう、希美の死を話した時だ。
「おいおい、そんな瞳するなよ。縁起でもない。大体、まだクビって決まったわけじゃないんだから」
「なーんだ」
「へっ?」
 思いもよらなかった瑞穂の言葉に、冬馬は我が耳を疑った。
「そっか、そうだよね。まだ冬馬がクビになったわけじゃないんだもんね。あーあ、折角これで私がトップになれると思ってたのに」
 ……何てヤツだ。
「お前、一回マジで泣かされたいらしいな」
「あ、あはは、冗談よ。もーう、冬馬ったらいつから冗談の通じないつまんない人間になっちゃったの?」
「いーや、さっきのお前の眼は冗談なんかじゃなかったぞ」
 眉間にしわを寄せる冬馬に、瑞穂は少し後退りながら笑ってごまかす。
「まあまあ。でも本当にかなり深刻そうね」
「だからそう言ってるだろ」
 冬馬の言葉を咀嚼するように何かを考えているかと思った途端、瑞穂が大きく頷いた。
「よし、わかった。ここは私が一肌脱いで、冬馬の相談相手になってあげよう」
 中に入ろうとする瑞穂を冬馬は体で止める。
「あーん、入れてよー」
「うるさい。俺は本当に忙しいんだから早く帰れ」
「……うー、どうしてもダメ?」
「ダメ」
 頑として耳を貸さない冬馬を前に、瑞穂は少し頭を捻った後、ぱっと顔を明るくした。
「それじゃ、明日呑みに行こう」
「何言ってるんだ?」
「呑みに行こうって言ってるのよ」
「だーかーらー、忙しいって言ってるだろ」
「うん、確かに言ってるし、私もそれはよーくわかった」
「それなら」
 冬馬が二の句を継ぐ前に、瑞穂が先に口を開いた。
「だから、今日はやめとくけど、明日呑もうって言ってるの」
「……あのなぁ」
 ここまで勝手に無茶苦茶なことを言えるのは日本でも辛島くらいのものだろう。本っ当、ここまで素直に生きられるのが羨ましい。
「ね、いいでしょ?」
「……わかった。で、どこで呑むんだ」
 結局首を縦に振りでもしないと帰らないだろうと判断した冬馬は、渋々ながらも瑞穂のわがままを聞き入れた。
「やったー、さすが話せる。えっとね、そしたら夕方六時にいつもの呑み屋の前で」
「わかった、六時だな」
「いやー、冬馬、アンタ絶対にクビになんかならないわ。これからもずーっと第一線で活躍できるよ」
「……調子の良いヤツ」
「本当ね」
「ひゃっ!」
 瑞穂が驚いて振り返った先には亜紀が薄笑いを浮かべながら立っていた。
「あ、亜紀さん、どーしてここに? 何で私がここにいると……」
「アンタの行動ぐらい全てお見通しよ。ったく、大して仕事もしないくせに遊び回るのだけは一人前なんだから」
「女としても一人前ですよーだ」
「はっ、笑わせてくれるじゃないの。酒の味も男の味もロクに知らないくせに」
「くぁー、腹立つわねー」
 怒りに震える瑞穂を無視し、亜紀の瞳は冬馬を映す。
「それより北川、アンタ大変なんでしょ。下手したらクビになるって時に、いつまでもこんな小ザルと遊んでいていいの?」
「いや、まぁ……」
 元はと言えば辛島のせいなのだが。
「そんなに遊びたいんだったら、終わってからでもいいでしょ。あ、でも書いてる時の方が遊びたくなるか」
「まぁ辛島までとはいかなくとも、多少は」
「そう。それじゃ、私と少し遊ぶ? 色々と溜まっていたら書けないでしょ」
 亜紀の瞳が妖しく光る。いっそその誘いに乗ろうかと思ったが、どうせこの人のことだ、俺をからかっているだけだろう。
「ちょっとちょっと、私に遊ぶなと言っておいて、何言ってるのよ。それに小ザルって何よ、小ザルってのは!」
「性も知らず、セックスもしてあげられないアンタのことよ」
「何言ってるのよ、昼間っから」
「まあまあ亜紀さんに辛島、その辺で」
 冬馬の制止に、亜紀は我に返る。
「ああ、ゴメン。私としたことがついつい。それじゃ、この小ザルは引き取らせてもらうけど、それでいいわね?」
「お願いします。あ、サインかハンコは?」
「別にいいわ。それじゃ」
「ちょっと、私は宅配便じゃないわよー」
 そのまま瑞穂は亜紀に引きずられるようにして消えていった。
「ったく、困ったもんだ」
「あのー、どうかしたんですか?」
 瑞穂達とすれ違いに渚が帰ってきた。あの二人を見たのだろう、事態を飲み込めずに不思議そうな瞳を冬馬に向けている。
「いや、邪魔者が来ていただけだ。さ、中に入ろうか」
「はい。ただいまです」
 佐倉さんを入れると、俺はいそいそと書斎に入った。明日の辛島との約束がある以上、今日中に明日の分まで書かねばならない。
 しかし一日分の設定仕事量は自分の限界ギリギリのため、考える程に気が重くなってきた。
 ……やるしかないよな。
 大きく溜め息をついてから、冬馬はペンを握り直した。
 まだ酒を呑んでいないのだが、それでも専心し始めればほとんどの意識は紙の中へと没入していく。コンポから流れる音楽も、耳に響きこそすれ、脳へは入らない。
「先生、先生ー」
 どこか遠くの方から佐倉さんの声が飛んできた。が、集中力を切らせたくないので無視。
「先生ー、失礼しますよ。……あ、こんなに暗いと眼を悪くしますよ」
 背後の襖が開かれ、佐倉さんの声に強制的に現実へと引き戻される。言われてみれば確かに陽が落ちているため、部屋が暗い。
「電気点けてくれないかな」
 渚が電灯の紐を引っ張ると、途端に部屋が明るくなった。
「それで、どうかしたの?」
「ゴハンができましたよ」
 襖が開け放たれているせいで、リビングの方から良い匂いが流れてきている。今夜はカレーライスのようだ。
「ああ、悪いけどここに持ってきてくれないかな。少しでいいから」
「えっ? 向こうで食べないんですか?」
「今日は忙しいから。あ、それとコーヒーも持ってきてもらえるかな」
「あ、はい。わかりました」
 僅かに瞳を曇らせながら、渚は台所へと向かった。
 確かにカレーは好きだし、一人よりは二人で食事をするのも好きだ。だが明日を考えると、それすらも捨てなければ危うい事態に陥るだろう。
 ややもしないうちに、カレーとコーヒーが運ばれてきた。
「すまんな。あ、そうだ、今日はもう書斎に来なくてもいいから、後は自由にしていてもいいよ」
「あ、はい」
 運ばれてきた食事にもすぐに手をつけず、再び冬馬は渚に背を向けた。その背中に寂しげな眼差しを送りながら、渚は立ち上がった。「それでは先生、あまりご無理をしないよう、がんばって下さいね」
「……」
 何も応えない冬馬にペコリと頭を下げると、渚は書斎を後にした。
 背後に気配が無いのは懐かしくもあり、寂しくもある。だが集中してしまえばどちらにせよ関係無い。
 しかし、今一つ集中できないでいた。前はこれが当然だったのに、何故だろうか?
 ……慣れか?
 佐倉さんが来てからというもの、今まで全ての生活リズムが崩れてしまった。特に人恋しさと言うか、孤独感を強く意識してしまう。
 俺も弱くなったな。
 自嘲気味に笑いながら冬馬はコップを傾け、気合を入れる。
「でも、やるしかないんだよな」
 冬馬は意識の全てを目の前の原稿用紙に集束させていった。
 空腹に集中力が奪われた時には、もう十一時になっていた。ペンを置き、休憩も兼ねてかなり遅い夕食をいただくことにする。
「んっ……」
 当然ながらカレーはすでに冷えきっていた。味は悪くないのだろうが、いかんせん冷たいため、大したカレーには思えない。
 コーヒーはもっとひどかった。淹れてから三時間も放っておくと、化学反応を起こして泥水に変わるのかもしれない。本気でそう思えた。
 徹夜で仕事をする時には眠らないようにとよくコーヒーを飲むのだが、これは別の意味で眠気が吹っ飛んでしまうような代物だった。
 しかしこうしてしまったのは自分の責任だ。佐倉さんに非は無い。そう片付けながら何とか食べ終えると、口直しに酒を呑んでから再び書き始めた。
 外では霧雨が世界を黒に染め上げていた。外気はすぐさまそれを熱し、不快極まりない蒸し暑さへと移ろわせる。
 じっとりと背中が汗ばむ。昼間の射貫くような日差しとは違い、真綿で締め上げられるような暑さが全身を包む。
 だが、それだけではない何かが心に靄をかけていた。名状し難いそれは、心だけではとどまらず、体をも支配していく。吐く息がひどく熱く感じる。
 その夜は、とても熱かった。