八月十五日 水曜日

 目を覚まし時計を見てみると十時半だった。昨日は疲れていた上に酒を入れ、なおかつ蒸し暑くてあまり眠れなかったので、爽やかな目覚めとは言い難かった。
 もう少しだけ寝るかな。
 そう思い布団にくるまるが、一度目覚めてしまったため、気持ちとは裏腹に脳が覚醒していく。仕方なく俺は起きることにした。
「あ、おはようございます先生」
「ああ、おはよう」
 渚はアイロンをかけている手を止め、冬馬の方へ目を移した。
「何だかいつもよりお疲れのようですね」
「ああ。久々に外出したせいか、それとも蒸し暑くて寝苦しかったせいかな」
「確かに寝苦しかったですね」
「佐倉さん、昨日の疲れは残ってないの?」
「はい。全然平気ですよ」
「若いねぇ。いや、二十五で家にばかりいる俺がジジイになっているだけか」
 大きなあくびをしながら冬馬はソファにどっかりと腰を下ろす。渚はアイロンがけを中断すると、冷蔵庫から麦茶を取り出し、冬馬に差し出した。
「あれ、それは?」
 渚の首回りには、銀色の細いチェーンが巻き付いている。数瞬冬馬が何を指しているのかわからなかったが、すぐに思い当たると、渚は少し照れながら胸元に隠れてあるものを取り出した。
「えへへ、昨日先生に買っていただいたお土産ですよ」
 半分だけのハートが陽にあたり、鈍色に輝いている。
「気に入ってもらえたんなら嬉しいよ」
 屈託の無い笑顔が向けられた。
「先生のはどうしたんですか?」
「俺は無くしたら困るから、机の引き出しの中にしまってあるよ。佐倉さんも無くしたりしないようにね」
「はい、気を付けます。あ、先生、ゴハンはどうします?」
「そうだな、少し早いけど食べるか」
「……早いのか遅いのかわかりませんね」
「まあ、な」
 渚は再び胸元にそれをしまうと、台所に立った。冬馬は寝覚めの不快感をすっかり忘れ、新聞を手に取る。
 一面は株の暴落が止まらないと言う記事で占められていた。大変なことなのだろうが、株に手を出していないので、いまいちその重大さと言うものが伝わらない。
 第一、株が暴落したからと言って、この日常にさして変化が起こるわけでもない……だろう。
 そうこうしていると佐倉さんが朝食を運んできた。いつも酒を呑んでから寝るため、朝からは重いものを食べられないと知っているからか、胃に優しい和食だった。
 最近胃薬のお世話になっていないのも、こうした佐倉さんの献立のおかげだろう。
「いやー、味噌汁が美味いなぁ。酒にやられた胃にはこれが一番だよ」
「あんまり呑むと体壊しますよ」
「いやいや、これが呑まないと調子悪くなるもんなんだよ。酒は俺にとって水であり、ガソリンであるからな」
「そうなんですかぁ?」
 思いっきり疑われている。まあ、俺以外にこの気持ちがわかるのは辛島くらいだろう。
「そうだよ。いいか、呑まないとストレスが溜まる。だから爆発しないために呑む。でも呑むと喉が渇く。それを潤すためにまた呑む。それを繰り返していくと、次第に気持ち良くなって、書けるようになると言うわけだ」
「……悪循環ですね」
「そうか? 好循環だと思うんだが」
 何の反省も無い冬馬に渚は心配そうな視線を投げかける。
「先生、呑むのはいいですけど、体壊すまで呑まないで下さいよ」
「わかったわかった。しかし佐倉さんも俺のオフクロと同じこと言うなぁ」
「先生のことが心配なんですよ。先生の健康を保たせるのも、私のお仕事なんですから」
「はーい」
「……」
 戯けて子供のように返事をする冬馬に、渚はそれ以上何も言う気になれなかったのか閉口してしまった。
 食事を終え、書斎に入ろうとしたところを佐倉さんに呼び止められた。何事かと思い、振り返ってみる。
「今お買い物に行くんですけど、先生は何か必要なものとかあります?」
「……酒」
 もう一升瓶の残りが少ないのを思い出したが、さすがに先程ああいうやりとりを交わしたため、頼む声も小さくなってしまう。
「いつもので良いんですね?」
「ああ」
「でも、呑み過ぎないようにして下さいね」
「……ああ」
 何で俺はこんな娘に説教されているんだろ。我ながら情けない。
「他には何かありますか?」
「そうだな……」
 色々と必要なものがある筈なのだが、いざこう訊かれるとすぐに出てこない。
「エロ本」
「はい?」
 何を言ったのかすぐに理解できなかったのだろう、佐倉さんは怪訝な顔をしている。
「だから、エロ本。久々に読みたくなったから、何か適当に買ってきて」
「はい、わかりました」
 にっこりと渚が笑った。
 その顔と声に俺は多少の困惑を覚えたが、よく考えてみれば何てことは無い。いつもの俺の冗談だと思い、カウンターを与えにきたのだろう。
 だが、甘い。
「それじゃ、お願い」
 俺は微塵も動ずること無く、微笑み返した。
「あ、あの……、えっと……」
 すると案の定、佐倉さんはまごつき、げんなりと肩を落とした。
「……すみません、私には買えません」
「できないことは言うもんじゃないよ」
「すみません」
「ま、エロ本ってのは冗談だが、何か必要なものがあるのは本当だ。俺も買い物に行くよ」
「あ、はい」
 俺は身支度を整えるために書斎に入ると、残念そうにしていた佐倉さんの顔を思い出してしまい、一人ほくそ笑んだ。
 夏の陽は今日も全てを溶かすように降り注いでいる。陽炎が見える程に熱されたアスファルトからの照り返しも凄まじく、俺のシャツはもう汗に塗れ始めていた。
「お天気良いですね」
「良過ぎだ。暑くて死んでしまう」
「大丈夫ですよ。でも、確かに風が無いのは辛いですね」
 佐倉さんの言う通り、そよ風すら吹いていない。だが蝉の声は今日もはっきりと響いている。
「こんな暑い中でも、蝉と子供とヒマワリは元気だなぁ」
「そうですね。でも蝉もヒマワリも夏の間しか生きられないので、一生懸命自分を輝かせているんじゃないですか?」
 儚い命を精一杯輝かせているそれらは、一体何を見ているのだろうか?
「佐倉さんは詩人だねぇ」
「えっ、そんなこと無いですよ」
 面映ゆそうに渚は笑った。
 商店街に着くと、とりあえず酒屋に寄り一升瓶を購入する。あり過ぎて困るものではないだろうと三本買おうとしたのだが、佐倉さんに呑み過ぎるからと止められてしまった。
 酒屋を出ると渚が冬馬を見上げ、微笑んだ。
「次は八百屋さんに行きます」
 そうは言ってもこの小さな商店街、酒屋の二軒先が八百屋だった。
「今日の晩メシは何にするの?」
「そうですね……、オムライスにでもしようかと思ってます」
「オムライスか……、久しく食ってないな」
 久しく食っていないのは作るのが難しいからだ。それに手間もかかる。
「私もです。ですから作ってみようかと」
「……作れるの?」
「大丈夫です。ちゃんとお料理の本を読んで勉強しましたから」
 料理は本を読んでも作れるもんじゃないと思うんだけどなぁ。
 自身満々に答える佐倉さんに、俺はそれ以上何も言う気になれなかった。
 夕食の材料を買い終え、帰ろうかとしていた矢先、ふと佐倉さんが足を止めた。
「どうした?」
「先生、あれ」
 視線の先には三、四歳と思しき女の子が泣きじゃくっていた。大方、母親とはぐれたのだろう。
「迷子か。ま、そのうち母親が迎えに来るだろうから……」
 言い終えるより先に、佐倉さんは迷子をあやしていた。
「お母さんはどうしたの?」
「うっ……わかんない」
「それじゃあね、おうちはどこ?」
「わかんない……」
 鼻をぐずらせている迷子を見ていると、次第に苛立ってきた。
 これだからガキは嫌いだ。佐倉さんもこんなガキにかまわなくてもいいのに。
「ねぇ、ママどこなの? ママー」
「大丈夫だから、ね。心配しないで。お姉ちゃんがお母さん見つけてあげるから」
 再び泣き出した迷子の頭を佐倉さんは優しく撫で、何とか落ち着かせようとしている。俺はと言えば、苛立ちが募る一方だ。
 おいおい、最後まで面倒見る気なのかよ。
「ねえ、お名前は何て言うの?」
「うぅ……ぐすっ……さちこ」
「さちこちゃんか。それじゃあ、お母さんのお名前は何て言うの?」
「うっ……ママ」
 ママは名前じゃないだろうが。
「うーん、そしたらさちこちゃん、お母さんとはどこではぐれたのかな?」
「……あっち」
 迷子が指した方向は、冬馬達が来たのとは逆の商店街の入口だった。
「よし、それじゃお姉ちゃんと一緒に、お母さん探しに行こう。いいですよね、先生」
「うっ……あ、ああ」
 断れる状況ではなさそうだったので、渋々俺は頷いてしまった。
 とりあえずそれらしい人物を目にすると、手当たり次第母親かどうか訊ねてみた。
 ……が、全く成果無し。
「ママ、いない」
 泣き出しそうになった迷子を、佐倉さんは慌ててあやす。
「大丈夫だから、ね。もう見つかるから」
「うぅ……」
「お姉ちゃんと先生がついてるから、きっと見つかるよ」
 俺を入れるな。
「うん……あ、ママ」
 突然迷子は佐倉さんの手を擦り抜け、走り出した。
「幸子!」
「ママー」
「どこ行ってたの、心配したんだから」
「うん。このおねえちゃんが……」
 母親は我が子を抱き締めながら、渚と冬馬を交互に見る。
「どうもすみません」
「いえ。良かったね、さちこちゃん」
「うん。おねえちゃんありがとう」
 ようやく迷子は笑顔を取り戻した。
「それじゃ、本当にありがとうございました」
「おねえちゃん、ばいばーい」
 母親は頭を下げ、子供は小さな手を振りながら去って行った。
「良かったですね、お母さんと会えて」
「俺は疲れたよ。しかし佐倉さんて子供好きなんだね」
「はい。先生はどうなんですか?」
「嫌い」
「そうなんですか?」
「ああ。何考えてるかわからんし、すぐ泣くし……。好きになれる要素は一つも無いな」
 子供に限らず、泣かれるとどうして良いかわかんなくなる。だから泣く奴は嫌いだ。
「でもカワイイじゃないですか」
「俺にはわからんよ」
 すっかり一日分の体力を使い果たしてしまった気がした。俺はこれ以上面倒なことが起きないようにと、佐倉さんの瞳にウサギ小屋を映さないようにして急いで帰宅した。
「ぐぁ、家の中も暑い」
「風が無いからですね」
 帰宅するなり俺は書斎に入り、扇風機のスイッチを入れた。だが、送り出される風は涼しくも何ともない。
「先生、ゴハンはどうします?」
 時計を見ると一時半になろうとしている。
「何か冷たいもの」
「冷やし中華でいいですか?」
「頼む」
 けだるそうに答えると、冬馬はぐったりと座椅子に凭れ、昼食ができるまで涼しくもない風にひたすら当たっていた。
「しかしこの暑さ、いつまで続くんだろう?」
 冷やし中華に添えられてあるトマトを頬張りながら、冬馬はうんざりしたように訊ねた。
「まだ当分続きますよ。八月も半ばなんですから」
「だよなぁ。それにしても佐倉さん、そのメイド服が幾ら半袖だからって言っても、結構暑いだろ?」
「そうですね。これ、夏服なんですけれど、やっぱり暑いです」
 渚はパタパタと胸元をはためかせる。
「だったらもっと薄着になったら?」
「えっ、でもこれ以上は無理ですよ」
「水着とか」
「水着って……」
 渚の箸がピタリと止まる。
「水着にエプロン。これぞ日本の夏だよな。あ、浴衣ってのもなかなか良いな」
「私は水着も浴衣も持ってませんから……」
「大丈夫。ちゃんと買ってやるから。どんなのが良いかな……」
「あの、先生……?」
「シースルーなんてどうだ?」
「だから、先生……」
「オブラートでできたやつとか」
「そんなの着れませんよ」
 渚の語調が強くなる。
「似合うと思うんだけどな」
「そんなの褒められても嬉しくないですよ。それに、どんなのであれ水着や浴衣を着て働くことはありませんから」
 チッ、何てこった。
「仕方ない。だったら」
 新案を出すより先に、突然電話が鳴った。冬馬がそれに出ようと片膝を立てたが、その前に渚が受話器を取っていた。
「もしもし、北川ですけど……瑞穂さん?」
「辛島だと?」
 嫌な予感が俺を貫く。
「ええ、はい、いますよ。先生、瑞穂さんからお電話です」
 渋々佐倉さんから受話器を受け取る。
「もしもし」
「あ、冬馬。今からすぐに来て」
「どこに?」
「場所は冬馬の家の近くにある商店街の酒屋。早く来て」
「何で?」
「いいから早く!」
 切羽詰まったような辛島は、俺のことなどおかまいなしに話し続ける。
「おい、だから用件は何なんだよ?」
「ぐずぐずしない! 早く来ればいいのよ」
 電話は一方的に切られてしまった。何事か全く状況を掴めない俺は、しばしそのままの姿勢で固まっていた。
「先生、瑞穂さん何だったんですか?」
「さあ」
 首を捻ることしかできない。
「よくわからんが、何でも急いで酒屋に来てくれとのことらしい」
「そうなんですか……って、先生。早く行かなきゃならないんじゃないんですか?」
 呑気に座って冷やし中華を啜ろうとする冬馬に対し、渚が慌てている。
「メシ食ってから行く」
「でも瑞穂さんが急いでと言ってらっしゃったのでは……」
「うん、言ってたな」
「じゃあ早く……」
「外は暑いし腹も減ってる。それに用件すらまともに伝えられてない。よって行く必要は無しとの判決が俺裁判で下された」
「でも行かなきゃダメですよ」
「……わかってるよ。ったく、辛島の奴め」
 嫌々立ち上がると、俺はメシも途中に急いで支度をし、酒屋へ向かった。
「あ、冬馬」
 酒屋に入るなり安心した辛島の声が飛んできた。辛島は慌てて俺に近寄る。
「何だ、どうしたんだよ一体?」
「えっとね……」
 瑞穂が言いにくそうに口ごもっていると、その横から店主が顔を出した。
「いやな、先生。この娘が酒ビンを割っちまったんだよ」
 そんなことぐらいで俺を呼び出すなよ。
「それは悪いことしたな。で、辛島。そこで何で俺を呼ぶ必要があるんだ?」
「その割っちゃったお酒を弁償するお金を持ち合わせてなかったのよ」
「……幾らするんだ?」
「三千五百円」
「無いのか?」
 辛島がこくりと頷く。
「そのくらいサイフに入れてろ!」
「うっ……ゴメン」
「まあまあ、先生。悪気があってやったわけじゃないんだし」
 怒鳴る冬馬をなだめるように、店主が二人の間に割って入った。
「そうだけどな。でも迷惑かけたから……」
「いいっていいって、金さえ払ってくれるんなら」
「……しっかりしてるな」
「こっちも商売なんでね」
 辛島が割った分だけだと悪いと思ったので、俺はビール二本を買ってから店を後にした。
「ったく、金ぐらい多めに持ってこいよ」
 公園への道すがら、冬馬は苛立ったように吐き捨てた。
「今日はたまたまサイフに無かったのよ。いつもは大丈夫なんだけどさ」
「どうせまた亜紀さんから逃げてたんだろ?」
 瑞穂の顔が強張る。
「やっぱりか。お前、本当に仕事しないでこんなことばかり繰り返してると、クビになっても仕方ないぞ」
「心配してくれてるの?」
「バカ言え」
 公園に着くと、小さな東屋の椅子に腰を下ろし、袋から缶ビールを取り出した。
「しかしこうしてお前に呼び出されたのは何度目だかわからんが、少なくとも大学の時のアレよりはマシだったよ」
「アレってもしかして、私が旅先から電話した時のこと?」
「そう。一人旅のくせにサイフ落としやがってよ、俺に迎えに来てくれって泣きながら電話してきて。あの時は本当にムカツク以上に呆れたよ」
 そのせいで給料日前の俺の生活は更に苦しくなったばかりか、ようやく取ったコンサートチケットを使えずじまいだった。
「良い思い出になったじゃない」
「苦い思い出だ」
 冬馬は缶を傾ける。
「そう? カワイイ女の子と旅ができたから良かったじゃないの」
「そんな女いたかな?」
「ここにいるでしょ」
「どこ?」
 わざとらしく冬馬は辺りを見回す。
「私よ、わ・た・し」
「……どこがカワイイんだよ。それにお前、自分で言ってて恥ずかしくないのか?」
「うるさいわね。それにあの時はおわびに、私の手料理を食べさせてあげたでしょ」
「食えたもんじゃなかったけどな」
 一応全て平らげたのだが、次の日はひどい腹痛に悩まされたものだ。
「ひっどーい。女の子が男に料理を食べさせるのって、すっごい勇気がいるのよ」
「そんなもんなのか?」
「そうよ。男って女は料理が作れて当然だと思ってるでしょ。だからよ」
「ふーん」
 確かに希美も俺に初めて料理を作ってくれた時、「どう?」とか「美味しい?」とか不安げに訊いてきていたな。
「ま、確かに俺もそう思ってるな。でもよく考えてみれば、シェフって男ばかりだよな」
「そうね。私もどっちかと言えば料理は女の人ってイメージがあるし。ま、料理だけじゃなく、専門職になると男の人ばかりよね」
「技術的には男の方がやっぱり上なんだろ。でも女ってのは、それと同じくらい精神的に上だからな」
「そう?」
「ああ、基本的に男はガキだからな。だから過去に縛られたまま歩くんだよ。その点、女は割と早く見切りをつけて先に進めるし」
 そう、俺はまだ希美を忘れられない。
「そっか、そしたら私より冬馬の方が子供ってわけね」
「そんなわけあるか。お前は例外だよ」
「本っ当、ムカツクわねー」
 瑞穂は一気に缶を傾けた。
「さて、そろそろ帰ろっかな」
 辛島の言葉に俺は腕時計に目を落とした。午後三時二十分。俺もそろそろ帰って原稿でも書くとするか。
「そんじゃ、俺もそうするけど。お前、帰りの電車賃は持ってるよな?」
「バカにしないでよね。そのくらいあるわよ」
「ならいい」
 俺は残っていたビールを一気に呑むと、辛島と別れた。陽はまだ強かったが、佐倉さんと買い物に行った時程ではない……ように感じた。
「ただいま」
「あ、おかえりなさい先生」
 掃除機をかけていた渚が手を止めた。
「瑞穂さん、何だったんですか?」
「アイツ、酒屋で酒ビン割ったんだよ。で、弁償する金が無かったから、俺を呼んだんだ」
「大丈夫だったんですか?」
「まあな」
 冬馬は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぐ。
「あ、ゴハンはどうしますか?」
「いや、いい。ビール呑んだら腹膨れたよ」
「ダメですよ、昼間からお酒呑んだら」
「ビール一本なんて酒のうちに入らないよ」
 冬馬は軽く笑いながら書斎に入った。
 麦茶を飲んで口の中に残っていたビールを完全に流してからペンを持つ。僅かでも酒を入れたからか、日中にしては想像力が喚起され、ペンが歩き出す。
 二階堂さんとの勝負は自分との勝負。これに負けると俺は俺でなくなってしまう。
 だが、焦ってはいけない。そうなると俺の得意とする心理描写が甘くなってしまうからだ。
 いつしかアルコールが体から抜け切ったが、それでも冬馬はペンを止めなかった。
「先生、お風呂はどうしますか?」
 襖越しに佐倉さんの声が飛んできた頃には、もう大分陽は傾いていた。
「三十分くらいしたら入る」
「わかりました」
 集中している時の三十分など瞬く間だった。
「先生、お風呂の用意ができましたよ」
 冬馬はきりの良いところまで書くと、風呂に入った。
「くぁー、熱い」
 流れる汗をバスタオルで拭きながら、俺はふらふらと書斎に入った。
 渚が風呂を終え、夕食の支度を済ませるまで、冬馬は扇風機で汗を引かせていた。
 確か夕食はオムライスだって言ってたけど。
「わわっ、あーっ!」
 ……大丈夫か?
 戦場のようになっているであろう台所を思い浮かべながら、冬馬は溜め息をついた。
 夕食は渚の宣言通りオムライスだった。が、玉子は焦げ崩れ、それを見る限りはどうしてもオムライスには見えなかった。
「……すみません、失敗してしまいました」
 申し訳無さそうに渚が頭を下げる。
「気にするなよ、見た目ぐらい。問題は味なんだからさ」
「えっと……」
 佐倉さんが何かを口ごもっているみたいだったが、俺はとりあえず一口食べてみた。
 ……不味い。辛島クラスだ。
 炒め過ぎた野菜に水気の多いケチャップライスが絶妙なハーモニーを伴い、口当たりを悪くさせている。
「どうですか、先生?」
 おずおずと訊ねる佐倉さんを前にしていると、辛島との会話が不意に思い出された。
『女の子が男に料理を食べさせるのって、すっごい勇気がいるのよ』
 うーむ、幾ら何でも不味いとは言えない。
「まあまあかな」
 さすがに美味いとまでは言えなかった。
「よかったー」
 ほっと胸を撫で下ろした渚も、冬馬に続いてオムライスを口に運ぶ。
「……」
 渚のスプーンが止まった。
「……美味しくないですね」
「そうでもないよ」
「すみません」
「おいおい、何で謝るんだよ。俺は感謝してるんだぜ。こうして夏風邪もひかずにいられるのは、佐倉さんがちゃんとメシを作ってくれているからだよ」
 毎年この時期になると決まって風邪をひくものだが、そうならないのは本当に佐倉さんによる体調管理が大きいからに違いない。
「そんなことは無いですよ。でも、そう言えば私も長いこと風邪はひいていません」
「良いことじゃないか。でも俺、長らく医者の世話になっていないと、逆に不安になってくるんだよな」
「そうなんですか?」
「ああ。きっと俺が病院好きだからだろう」
「病院が好きなんて珍しいですね」
「まあな」
 冬馬は麦茶で口の中の不快なオムライスを流す。
「あ、でも看護婦が好きなだけじゃないぞ。検査してもらって健康状態を知るのが好きなんだよ」
 とりあえず釘を刺しておいた。
 夕食を終えて書斎に入ると、さっそく原稿に向かった。酒を呑み、中断前の状態へ頭を戻してからペンを執る。
 勢いがある時は良いのだが、ふとペンが止まると二階堂さんとの約束がプレッシャーとなり、言い知れぬ不安に包まれる。
 どうしよう……。
「失礼します」
 冬馬が頭を抱えていると、渚が入ってきた。渚はそんな冬馬を心配そうに覗き込む。
「先生、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。ちょっと詰まっていてね、どうしようか考えていたんだよ」
「あの、何かお手伝いできるようなことがあれば、どんどん申し付けて下さいね」
「ありがとう。でも今は大丈夫だから」
 俺は酒を一口呑むと、再び原稿用紙と向き直った。
 頭を捻り、酒で集中力を持続させて何とかきりの良いところまで書き終えた頃には、もう午前二時半だった。冬馬は大きく伸びをしながら後ろを振り返る。
 渚は眠そうに眼をこすりながら本を読んでいた。きっと何かあるかもしれないと思い、ずっと待っていたのだろう。冬馬はすまなく思いながら、静かに声をかける。
「佐倉さん」
「は、はい。何ですか?」
 慌てて渚が顔を上げる。
「こっちの方が一段落したから、寝る前に軽く呑まないか?」
「お酒、ですか?」
「あぁ、一人で呑むより一緒に呑んだ方が気が晴れるからな」
「えっと、では少しだけお付き合いしますね」
 渚は中座すると、急いでコップを持ってきた。冬馬はそれに半分程注ぐ。
「あ、あ、注ぎ過ぎです」
「このくらいなら大丈夫だよ」
 俺も継ぎ足し、コップを傾ける。
「うぅー、喉が熱いです」 「最初の一口だけだよ。大体、この前は俺も驚く程のペースで呑んでいたじゃないか」 「またまた、先生ったら。そんなわけないじゃないですかー」  全く信じてもらえない。うーむ、こうなったらいっそビデオカメラでも設置しておいて、後で見せてやろうかな。……と、俺はそんなもの持ってなかったな。
 ふと気が付くと、佐倉さんのコップが空になっていた。同じ量から呑み始めた筈なのに、俺のはまだ大分残っている。
「少しペース早いんじゃ……」
 言い終える前に佐倉さんは継ぎ足していた。そのコップは今にも溢れんばかりだ。
「おい、大丈夫かよ?」
「ぜーんぜん大丈夫ですよー」
 ……大丈夫じゃない。
 俺は水の代わりに酒を呑むが、佐倉さんは水のように酒を呑む。その尋常ではない呑み方には、ある種の畏れすら感じる。
「先生ー、呑んでませんよー。何でですか?」
「いや、呑んでるよ」
「呑んでいませんー。まったく、先生はいつもそうです。何でいつもエッチなことばかり言うんですかー?」
 とろんとした瞳の渚が冬馬に顔を近付ける。
「いや、佐倉さんがカワイイからだよ」
「またそうウソつくー。先生は私のこと子供だと思ってそんなこと言うんですね?」
「いや、そんなことは……」
「ありますよーだ。そりゃ瑞穂さんより胸は小さいですけど、もう女なんですよー」
 渚は一気に半分程呑む。
「先生ってホントいつもそうです。何も知らない純情乙女の私をからかって楽しんでいるんです。私がこーんなに先生を好きなのに、先生は私を子供だと思ってバカにしてるんですよ」
 まったく、タチの悪いからみ酒だ。
「そんなこと無いってば。それじゃ一つ訊くけど、うさぎと俺、どっちが好きだ?」
「えへへ、それはもちろん……」
 はたと渚が考え込む。
「どっちだ?」
「……だから先生は意地悪です。またどっちを答えてもからかう気ですね」
「考え過ぎだ」
「うぅ〜」
 一息で渚はコップを空にする。そしてまた一升瓶に手を伸ばそうとするが、冬馬が急いで止めた。
「ほら、もう寝るぞ」
「あー、寝るだなんて先生のエッチ」
「……」
 俺は大きく溜め息をつきながら、酔って暴れる佐倉さんを何とか寝室へと連れて行った。
 もちろん、手を出すことなど無かった。