プロローグ

 蝉の声が今日もそこかしこから響いている。うだるような暑さの中で扇風機も必死に首を振っているが、依然シャツはじっとりと汗ばんだままだ。網戸から僅かに流れ込む風が時折思い出したかのように風鈴を鳴らすが、涼を感じるにはまだ程遠い。
 ふとペンを原稿用紙の上に置くと、そのまま座椅子に深く凭れた。考えることから頭を解放するが、そのせいで今度は余計に暑さを意識してしまう。仕方なく重い腰を上げると、台所へ向かった。
 冷蔵庫からガラス瓶に入った麦茶を取り出し、コップに注がずそのまま喉に流し込んだ。そうして幾らか熱くなった体と頭を落ち着かせると、また書斎へと戻る。
 これで今日何度目かの往復かわからない。が、面倒臭いと思いつつも、ある種の気分転換にはなっていたので、嫌かと言われれば必ずしもそうではなかった。
 再び原稿用紙に向かってみるが、やはり何も思い浮かばない。窓の外へ目を遣ると、憎たらしいくらいの青空が広がっていた。
 ただ、こうしてぼんやりと青い空を眺めていると哀しい気持ちだけが溢れてくる。八月の太陽は人々の心を燃え上がらせるのと同時に、忘れかけた傷を思い出させる効果があるようだ。
 忘れかけていた女性の顔が空に浮かぶ。が、それも一瞬のことで、すぐに消えていった。
 しかしその傷は消えない。こうして時折疼いては、心を苛む。ただ、作家となり、自ずと人付き合いが減ったせいでこれ以上傷を重ねずに済むようになったのは、一応の幸いなのかもしれない。
 だが、今年の夏は今までとは何か違う夏になりそうな予感がする。そう、あの太陽が何かを必死に告げるように、今も熱く熱くこの身を照らしていた。