オルフェウスの斧

狂人の結晶に戻る

 オルフェウスは優しい男だった。生来彼は誰かを傷付ける事などできなかったし、また相手から何かされても黙って耐える事しかできなかった。平和な時代ならともかく、今は戦乱の世、彼のような男は無能者と罵られる事も多々。
 そんな彼が軍に属し、一兵士としているのはひとえに貧困のためだった。彼に兄弟はおらず、父も数年前に病死、母は存命だが体の弱い人なので満足に暮らしていけるほどの稼ぎは見込めない。オルフェウスもそんな現実をよく知っていたので若くして色々な場所で働いたのだが、口下手で不器用のために長く続けられずにいた。
 ある日、兵士募集のおふれが出た。もうこれしかないと彼は参加を決意したのだけど、彼を少しでも知っている者は止めておけと忠告した。オルフェウスが誰かを殺す事なんてできないのだから、と。
 けれど彼は死地に追い込まれれば、きっと自分だってできる。それに恩賞は彼の家の経済状況からすれば充分なものだったから、やらないわけにはいかないと。彼にとっての武器は五体満足な体と、人並みはある腕力。たったそれだけだったが、彼にとってそれだけが唯一信じられる武器だった。
 軍に入り、オルフェウスは何度か戦争を体験し、死地に身を置いた。だがそれは単にいたというだけで、参加ではなかった。彼は大方の予想通り、人を殺せなかった。彼に刃を向ける者がいても、彼は手にした武器を振る事ができなかった。今日まで生き残れたのは運、ただそれだけである。周囲の者が敵を倒し戦果を挙げたり、明日への礎となっていったりする中で、オルフェウスだけは何もできず、何の評価も得られないでいた。
 無能者のオルフェウス、メシでも作ってろ。
 女々しいオルフェウス、武器でも磨いてろ。
 彼と共に行動し、支えていた仲間達ですら次第にそう言うようになり、折角決意して志願したここでさえ、つまはじき者になっていた。今では彼がいつ死ぬか、いつ辞めるのか賭けの対象にすらなっているくらいだ。
 そんな折、オルフェウス達の所属する部隊が将軍によって集められた。陽も傾きかけ、そろそろ大地が赤く染まろうかという頃、将軍は五百人ほどの兵士に力強く、それでいて落ち着いた声で語りかける。
「我が軍は強く、気高く、何事をも為せる。そうしたものは諸君らの活躍によるものであり、私は常に諸君らに助けてもらっていると言えよう。私が考え、諸君らが実行する。どちらかが欠けても、成り立たないのだ」
 朗々と響き渉るその声に、オルフェウスも眼に力が入る。
「私は一つの策を用意した。上手くいけばこの戦いを早期に我が軍の勝利をもって終わらせられるだろう。それは祖国の喜びであり、希望、即ち諸君らにとっての幸せとなるだろう。だからこそ、私は諸君らの力を欲する」
 一息つき、将軍が皆の顔を見渡す。
「よいか、あの川の下流に敵がいる。先日の大雨で川は大きくなったが、思ったほどの被害は無いようだ。何故か。きっと上流で木か岩かわからないが、何かが流れをせき止めているに違いない。だからそれを取り除けば、きっと洪水となり大損害を与え、この戦いにおいて大きく我が軍の有利となるだろう。もっともこの作戦は極秘裏にやってもらわねばならないのと、実行するにあたり危険も大きく伴う。ただし、絶対に成功してもらいたい」
 最後の一言がより強い語気になり、思わず五百人程の兵士が息を飲んだ。
「だが、それを成し遂げた勇者は大いなる褒賞を与える事を約束しよう。人数は三名か、多くて五名。あまり多いと気付かれ、失敗する恐れがあるためだ。では心の定まった者は部隊長に申しておけ。以上」
 将軍が深紅のマントをひるがえし、その姿が見えなくなったと同時に周囲はいっせいにざわつき出した。それを制するように今度は部隊長が前に出て三度強く手を叩くと、低くしゃがれた声で参加する者を促した。
 そこで真っ先に手を挙げたのは、何とあのオルフェウスだった。これには周囲はおろか部隊長も驚き、そしてすぐ嘲笑の波が場を支配した。曰く、何もできないお前にできるものかと。しかしオルフェウスは毅然とした眼差しを崩さず、静かに口を開いた。
「確かに私は人を殺せませんし、傷付ける事すらも難しい。ですが、木や岩ならばできます。力は幸い人並み程度にはありますし、それに私もここにいる以上、何かしたいんです。できるかできないかなんて預言者ではないのでわかりませんが、ただやり遂げようとする意志は間違いなくあります」
 オルフェウスの言葉、姿勢、迫力に異を唱える者はいなかった。それまで歯牙にもかけなかったり蔑んでいた者でさえ、軽々しくできるわけがないと言えずにいた。それだけの覚悟が確かにそこにはあった。
 彼の他に選出されたのは腕力では群を抜いているローラン、そして手先の器用なアビスだった。他にも立候補や推薦なんかも幾つかあったけど、結局はその三人に落ち着いた。
 少しばかり豪華な食事が三人に振舞われた。誰もがその食事の意味を知っていたし、だからこそ三人もその食事を今まで以上に味わって食べた。誰とも口をきかず、黙々とその食事を口に運んでは静かに目を閉じ、負けないようゆっくりと噛み締めていた。
 夜の闇が全てを覆い、雲間に隠れる頼り無い月明かりだけがようやく隣り合った顔を認識できるほどになった頃、三人は動き出した。対岸からなるべく目に付かないよう、少し迂回してでも木々の後ろを走り、それが無い場所では月が雲に隠れると同時になるべく足音を立てずに駆け抜けた。
 そうしてようやく将軍が指定した場所に着くと、これから行うべき仕事の大変さに三人は思わず息を飲んだ。川の大半を塞いでいる大岩は予想以上に大きく、オルフェウスの倍以上の高さがあり、幅は彼が両手を広げて三人分はあるだろう。奥行きもそうして二人分くらいはあるかもしれない。そんな巨物を前に三人はぽかんと口を開けていたが、やがてローランが生唾を飲み込むなり笑った。
「とりあえず、押してみようか。少しでもずらせられればこれだけの水量だ、この大岩も動いて洪水も起こせるだろう」
 けれど、それはびくともしなかった。三人、とりわけ丸太のような腕を持つローランが顔を真っ赤にして、筋肉を張り裂けんばかりに膨らませても、どうにもならなかった。
「じゃあ、引っ張ってみたらどうだろうか。そこらにあるツタを集めてくれれば、すぐにロープを作れる。川の流れも手伝い、引っ張る方が楽にできるだろう」
 そう提案したアビスに二人は反対せず、すぐそれを集め始めた。各自自前の斧や短剣でツタを集めると、アビスがすごい速さでより合わせていく。そしてそれが一本の長く頑丈なロープになると、大岩に引っかけた。
 だが、幾ら引っ張ってもやはりびくともしなかった。ミチミチとロープが、腕がきしみ、足が滑る。それでも止めるわけにはいかず、この体などどうなってもいいとばかりに引いていると、バツンとロープが切れた。三人は二、三歩後ろによろめき、尻餅をつく。
「ちくしょう、どうすればいい」
 うなだれるローランにオルフェウスもアビスも何も言えなかった。これほど大きな岩、三人で動かせるものなのだろうか。そんな弱気が言い出すともなく漂い始めた頃、オルフェウスが立ち上がった。
「押しても引いても無理なら、割ろう」
「割るって、これをか?」
 乾いた笑いがローランから出るが、オルフェウスはいたって真面目な顔を崩さずに頷く。
「そう。ただ、幾らなんでもこれをバラバラになんてできない。でも、この下の方を少しでも壊せたら、この岩だってバランスを崩して転がり、洪水を起こせるんじゃないかな」
「……なるほど、確かにこの岩の下を壊せばどうにかなりそうだ。下の方にも少しばかり隙間があるから、上手く壊せばいけるんじゃないか」
「ともかく、もう時間が無い。それに賭けるしかないな」
 三人は覚悟を決めるとそれぞれの斧を手にし、大岩の下部を叩き始めた。水しぶきが跳ね、本当に極僅かしか削れない。それでももうこれしかないと、三人はあらん限りの力で斧を振るう。
「おい誰だ、そこにいるのは」
 その声に驚き、手を止めそちらを向けば、対岸の百メートルほど先に二つ三つの松明が闇に揺らめいていた。敵だ。さっと三人は身を固くし、息を飲むけれど既に彼らの存在は知られてしまっている。三人はゆっくりとすぐには見付からない場所へと体を隠す。
「これはやり過ごせないな」
「あぁ。おまけに見た感じ、五人か六人はいるだろう。ただでは済まないだろうな」
「でも、逃げるわけにはいかない」
「そうだ、オルフェウス。だから、ここは俺とアビスがあいつらを倒す」
 ローランの言葉にオルフェウスが目を丸くし、大きく口を開こうとしたが、間一髪でアビスが彼の口に手を当てた。
「危ねぇな。いいか、オルフェウス。俺は手先が器用だからこのロープであいつらの松明を落とす。ローランがその隙に斧で頭を叩き割るって作戦よ」
「でも、だったら俺は」
「切り札だよ。万が一、俺達がやられたり、相打ちになったりした時、一体誰が任務をこなすんだい。お前しかいないんだよ。俺達じゃ、こんな大岩を壊せそうにない。悪いな、結局のところ俺達はお前に一番の面倒事をやらせたいんだよ。なぁ、アビス」
「そうだ、だからしっかりやれよ。なぁに、こっちが片付いたら手伝ってやるから、安心して待ってろよ」
「だけど……」
 渋るオルフェウスの前髪をローランが荒々しく掴んだ。
「グダグダうるせぇな。戦うにあたって、人も殺せないお前なんていらねぇんだよ」
「そう、だからこそそこでじっとしていろ。凡人は英雄の活躍を黙って見ていればいいんだよ」
 そう言うなり、ローランとアビスの二人はするすると大岩を伝い、対岸へと渡った。オルフェウスは彼らに言われたよう、見えない場所に体を隠し、耳をそばだてる。
 敵襲、殺してやる、何だお前ら、などと怒号が響き、またすぐに悲鳴と絶叫。切り裂き、倒れる音。時間にして五分か十分くらいだったろうが、その後の永遠ともいえる静寂により時の感覚はすっかり失われてしまった。
 しんとした夜の森、オルフェウスは小さく二人の名を呼んだが返ってきたのは風による草木のざわめきのみだった。三度そうしても何も変わらなかったので、オルフェウスはついに頭を抱え、膝に顔を埋めた。
 だがすぐ、彼は立ち上がった。ぐいと手の甲で目元をぬぐうと、力強く斧を握り、大岩に叩きつけ始める。もう音なんて気にしない。どうせ見付かった時点で終わりだし、何より音を立てないようにしていたのでは一晩など到底無理で、何年かかるかわからない。
 叩きつけては弾き飛ばされ、弾き飛ばされては立ち向かう。力一杯振るう腕は既に震えが走っており、掌など皮がめくれて柄が血に塗れている。踏ん張る足も力が入らなくなってきているのか、時折ゆるやかな川の流れに足を取られ、転んだりもしている。けれども彼は何度も立ち上がり、常に全力で斧を振るい続けた。
 激しく大岩と斧がぶつかり合った。大岩の破片が飛び散るが、両手を斧にもっていっているオルフェウスにとって目を細めるのがやっとの防御。しかし運命のいたずらか、彼の右目に大岩と共に欠けて飛んだ斧の破片が刺さった。さすがのオルフェウスも思わず目を覆い、うずくまる。うめくオルフェウス、しかしすぐにそれは笑いに変わった。
「あぁ、やっと俺も……我が軍の一員になれたのかもな。何をしても無能で、命どころか傷付く事を恐れて何もできずにいた。俺より勇気があり、有能な奴は先に死に、こんな俺が今まで生き恥をさらしてきたけど、ようやくこんな俺も役立っているんだって思える。生きて、何かしているんだ」
 そして、彼は右目に刺さった破片をつまみ、投げ捨てる。
「でも、これじゃ戻れない。まだだ、俺の仕事はまだ終わっていない。これを終えるまで、一員なんて馬鹿な事を言っちゃいけない」
 右目が潰れたオルフェウスはそれでも斧を振るう。やがてそんな力も無くなると、今度は胸の前に斧を水平に持ち、文字通り身を投げ出して大岩に打ちつける。それは今まで以上に体にダメージを与えるが、彼にとってそんな事はどうでもよかった。ただ思うのはこの大岩をどうにかする事、そして軍の勝利のみだった。
「ぐえっ」
 やがて彼は吐血した。体当たりは内臓に深刻なダメージを与え続けていたが、それでも我慢し続けていた。だがそれも限界を迎え、吐血と同時にオルフェウスは大岩にすがるようにして崩れた。軍のため、勝利のため、友のためと色々な支えがあったが、最も大きかったのは自分の存在意義のため。けれどその支えすらも、膝は笑い腕も上がらず、疲労と痛みでとうに動かない体では折れかかっている。もう動かない、もう無理だ、一体これ以上何ができる。そんな考えばかりがオルフェウスの頭を駆け巡る。
「いいや、まだ動く。いつだって、もう無理と思っていても、あと一回くらいは大丈夫なもんだ。今回だって」
 大きく息を吐き、よろけながらも再びオルフェウスは胸の前に斧をかまえる。その斧も、もうほとんど刃が欠けていた。
「うおおおおあああああぁ」
 燃えカスのようなその体のどこにそんな力があったのかわからないくらい、オルフェウスは叫び、そして彗星のような勢いをもって斧と共に大岩に体当たりした。それこそ彼の人生において本気の一撃、全身全霊を込めたもので、食いしばる奥歯もミシリとヒビが入り、幾つかは砕けた。
 だが、無情にも彼は弾き飛ばされた。斧は醜く砕けて潰れ、もう杖にすらならない。オルフェウスは大の字になり川の中に倒れていたが、意識を失う前に何とか這い上がり、大岩にしがみついた。
「ちくしょう、駄目か、駄目だったのかよ。俺の人生、こんなもんかよ。岩一つどうにもできず、みんなの期待も裏切って無様に寝転がって……はははっ、もう……なぁ」
 力無く笑い、オルフェウスは添えるように大岩を叩いた。
 ピシッ。
 最初は空耳や幻聴だと思った。けれどそれは無視できないほど大きな亀裂音となり、姿となり、亀裂から破片が落ち、やがて水がその隙間から漏れ出した。
「……なんだ、できたのか」
 その亀裂はあっという間に広がり、大量の水が大岩を割った。オルフェウスの眼前に押し寄せる大岩の破片と水。最早逃げる力など彼には無かった。そんな状況で彼は……笑っていた。無邪気に、心から嬉しそうに笑っていた。
 そして全てを押し潰すよう、怒涛の勢いで水は下流へと流れて行った。
 こうしてカエサルはガリア戦役の一つである、アラル川の戦いに勝利した。その後の戦いにおいて士気高く、連戦連勝であったのはこの初戦の勝利が大きいのは言うまでもないだろう。
 三人の墓は無い。ただ、軍において彼らの高潔な魂は確かに刻まれ、その後の歴史においても一石を投じたのは確かな事柄である。