八月十四日 火曜日

 雀の声に起こされた頃は六時半だった。
「うぅ〜、まだ眠いよぉ」
 昨日遅くまで一人勝手に忘想を膨らませていたせいで、大して眠ってはいない。だから今日はいつにも増して朝が辛かった。
「でも今日だけはちゃんとしないと」
 ぺちぺちと頬を叩くと、渚は布団から跳ね起き、カーテンを開けた。燦々と照る太陽が寝惚けた体に気持ちよく、今日が絶好の外出日和だとわかり、自然と笑みがこぼれた。
「よし、支度しなくちゃ」
 顔を洗い、私服に着替える。私服は一着しか持ってきていないのでここに来た時と同じ、ノースリーブの青いシャツにオフホワイトのスカート。そして朝食を作らなければならないので、エプロンを着けて台所に立つ。
「……えへへ。先生、どこに連れて行ってくれるんだろう」
 包丁を動かしながらも頬が緩む。今朝から、いや、昨日からずっとこうだ。何をしても、期待が膨らんで仕方ない。
 どうしてもメイドと言う覚悟は今日、浮かばない。ただ一人の女となり、渚は心を弾ませて料理をしていた。
「先生、まだ起きてこないな」
 朝食の支度が終わり、時計に目を遣るとそろそろ七時半になろうとしている。普段なら当然まだ冬馬を起こそうともしないのだが、今日は昼前に出ると行っていたのでそろそろ起こさないといけないかもしれない。
「うーん、でも早いかな?」
 八時に起こしても今日一日を充分に楽しめるだろう。だが渚はもういてもたってもいられなくなり、静かに書斎の襖を開けた。
「先生」
 そっと呟き、辺りを見回す。案の定、冬馬はまだ気持ちよさそうに眠っていた。
「先生、先生」
 ゆさゆさと渚は冬馬を揺する。
「んんん……」
 突然冬馬が渚を抱き寄せた。
「わわっ、先生」
 あぅ、動けないよ。
 冬馬の胸に顔を埋められた渚は、強い力のため引きはがせない。
「先生、起きて下さい」
「んー……」
 だが冬馬の起きる素振りは無い。
 うぅ〜、恥ずかしいよー。それに熱いよぉ。
 しかし恥ずかしさの中に、どこか不快ではない感情が渚の胸に込み上がってきていた。
「先生ー、頼むから起きて下さいー」
「んあ?」
 ゆっくりと冬馬が目を開ける。
「……うわぁ!」
 慌てて冬馬が渚を解放する。ようやく離れられた渚は顔を赤くしながら、おずおずと冬馬の顔を見た。
「おはようございます、先生」
「あ、ああ、おはよう。ところで何で……?」
「起こそうとしたら先生に急に抱きつかれてしまい……」
 はぅ〜、まだドキドキしてるよ。
「あ、ゴメン」
「いえ、いいです」
「……じゃ、もう一回やり直し」
「ふぇ?」
「だからもう一回抱き締めさせて。いい匂いしたから、もう一度感じたいな」
 もー、どうして朝からそういうこと言うの。とっても恥ずかしかったのに。
「ダメです」
「えー?」
「さ、それは置いといて。先生、ゴハンの用意がもうできていますから、食べましょう」
「逃げるなよ」
「……ゴハンです」
 渚は逃げるように書斎から立ち去った。
 冬馬が顔を洗い終え、一通り支度を整えると、すぐに食事となった。
「さて、今日はどこに行こうかな」
「えへへ、楽しみです」
「佐倉さんは何か希望とかない?」
「希望ですか?」
 そう言われても私、遊びに行ったこととか無いから、わかんないよ。
「ああ。ほら、海とか映画館とか美術館とか色々あるだろ」
「……うーん、先生におまかせします」
「本当に何もないの? 別に今日はメイドとして考えなくてもいいから、遠慮するなよ」
「はい。でも私、そう言うところへ行ったことが無いものですから、どこへ行けば楽しいのかよくわからないんです」
「そうなの?」
「ですから先生が連れて行ってくれるところは、きっとどこでも楽しいんだと思います」
「……プレッシャーかかるなぁ」
「あ、えっと、そんなつもりじゃ……」
 私ったら連れていってもらう側だからって、甘え過ぎてるのかなぁ。やっぱりどこか行きたいところを言えばよかったのかなぁ。
 でも本当にどこが楽しいのかわかんないし、それにどこへ行きたいって言ったら、何だかあつかましいし……。
「佐倉さん?」
「は、はい」
 うつむきかけていた顔を慌てて上げる。
「元気無いけど大丈夫?」
「大丈夫ですよ。ちょっと考えごとしていただけですから」
「考えごと?」
 怪訝そうな瞳を冬馬は渚に向ける。
「あ、大したことではないんです。今日のお出掛けを楽しみにしていたものですから」
「ふーん」
 何事も無かったかのように冬馬は味噌汁を啜る。
「あ、じゃあ今日はあそこに行こうかな」
「えっ、どこです?」
 渚の胸が高鳴り、じっと冬馬を見詰める。
「夜になると綺麗にライトアップされて」
 うーん、どこだろう?
「泳ぐとこがあったりして」
 プール? 水着持ってないよ……。
「美味しいお酒があって」
 やっぱりお酒呑むんだ。
「全面鏡部屋の」
 へっ? 何それ?
「高級ラブホテル」
「……」
「……ダメ?」
「ダメです」
 折角どこに連れて行ってくれるのか楽しみに聞いてたのに……。
「冗談だって。行かないよ、そんなとこには。本当はもう決めてあるんだから」
「あ、そうなんですか。よかったー、先生はやっぱりちゃんと決めていたんですね」
「みくびっちゃ困る」
「すみません、先生」
 にっこり笑いながら渚は頭を下げた。
 食事を終え、アパートを出る頃には九時になっていた。
 天気は快晴、時折涼風が吹く今日は絶好の外出日和。心弾んで仕方ない渚は足取りも軽やかだが、冬馬の方は先程から「暑い」ばかり連呼している。
「先生、そろそろどこに行くのか教えて下さいよー」
「行けばわかる、着けば楽しめるさ」
「うぅ〜、エッチなとこじゃないですよね?」
「違うよ。ま、最初は電車に乗るから」
「遠いんですか?」
「少しね。だってこの町じゃ遊ぶとこなんて無いからな」
 駅に着くと電車に乗った。車内はそれほど混んでいなかったため、楽に座れた。
「あの、高見台で降りるんですよね?」
「そうだよ」
「私、そこには行ったこと無いんですよ。それで、もしよろしければどんな街か教えて下さいますか?」
「まあ、にぎやかな街だよ。でも雑然としているってわけじゃない。割と綺麗なとこだよ」
「楽しみです」
 一時間程で高見台に着いた。そこから今度はバスに乗る。
「結構遠いんですね」
「そうだな。でも二十分くらいで着くよ」
「二十分ですか……」
 うぅ、早く着かないかなぁ。
 頻りに窓の外や時計に目を落とす渚に、冬馬が目を細めた。
「佐倉さん、そんなに待ち遠しいんだ」
「えっ?」
「だってさっきから何だかソワソワしてるし」
「すみません」
 はしゃぎ過ぎかなぁ。
「いや、別に謝ることじゃないよ。むしろ、そうやって楽しみにしていてくれる方が俺としても嬉しいし」
「あっ……」
「それに今日はパーっと遊ぶんだ。そのくらいで丁度いいんだよ」
「そうですよね」
 バスは駅前の開けたビル街から次第にのどかな北部へと進む。窓から流れ込む山からの新鮮な緑の匂いが、渚の心をくすぐった。
 トンネルを抜けると、のどかな山間の風景の中に、立派な遊園地が広がっていた。
「わあっ、すごい……」
「ここが目的地の高見台ハイランドだ。さ、降りるぞ」
「はい」
 受付でチケットを買ってから、ゲートをくぐると、にぎやかな音楽と彩り豊かな建物が溢れ返っていた。
「はぁー、すごいです」
 呆然と、しかし瞳を輝かせながら渚は辺りを見回した。
「ここに来るのは初めて?」
「はい。と言うか私、遊園地に来たの初めてなんですよ」
「そうなんだ」
「先生はここに来たことあるんですか?」
「前に一回だけね」
「そうなんですか。それではあの、よろしければ御案内願えますか?」
「もちろん」
 園内は大変な盛況で、特にカップルや親子連れが目立った。ちらほらと目に付く風船をたくさん手にしたピエロの周りには、大勢の子供達が群がっている。
「すごいですね」
「ああ。ところで佐倉さん、苦手な乗り物とかある?」
「いえ、特に無いと思います。それに私、どれも初めてなので、できるなら全部乗ってみたいです」
「そうか。じゃ、ここの名物ジェットコースターにでも乗ってみる?」
「はい」
 世界最長最速を売りにした名物コースターの前は長い行列ができていた。今からだと三十分待ちになる。
「どうする?」
「うーん、……待ちましょう、先生」
「そうだな」
 列の最後尾に並んで立つ。前には少しずつしか進めないが、後ろはあっと言う間に増えていく。
「……すごそうですね」
 凄まじいスピードで回転したり落ちたりする度、若い女性達の絶叫が谺する。そして、それを乗り終えた人々はみな一様に、足元をフラつかせながらそこを後にする。
「まあな」
「先生はこれに乗ったことは?」
「あるよ」
「どんな感じなんです?」
「……乗ればわかる」
 冬馬の口元が微妙に歪む。
「それは、そうですけど……」
「ま、あえてどんなものか言うなら、天国が見える感じかな」
「よくわからないですけど、とにかく乗ればわかりますよね?」
「ああ」
 ようやく順番が回ってきた。渚は一番前の席に座る。
「佐倉さん、そこ……」
「さあ、先生。早く座って下さいよ」
「……ああ」
 安全ベルトが下りると、コースターは動き始めた。カタン、カタンと言う独特の音が、否応無しに緊張感を高める。
「何で、一番前だったの?」
「一番空いてましたから。何か、いけませんでしたか?」
「いや、そう言うわけじゃないけど」
 はっきりしない冬馬の物言いに、渚は小首を傾げる。
「……耐えられるかなぁ」
 カタン、と最頂部まで上りきった音が妙に耳に響いた。
 わっ、すごい。……高い。
 考える間もなく、コースターはレールを滑り落ちていく。
「―─!」
 コースターが終点に到着すると、安全ベルトが上がった。
「佐倉さん、大丈夫?」
「……はぅ〜」
 涙目のまま渚は呆然と前を見詰めている。が、その焦点は合っていない。
 ……私、生きてるんだ。
「ほら、佐倉さん。降りるよ」
「あ、はい」
 だが腰が抜けてしまった渚は、コースターから離れると二、三歩進んだ途端、ぺたりと地面にへたり込んでしまった。
「大丈夫?」
 さっと差し出された先生の手に、悪いと思いながらもつかまらせてもらった。
「……すみません」
 手摺りにつかまりながら何とかタラップを降りると、私と先生は近くにあったベンチに腰を下ろした。
「どうだった?」
「怖かったですよ、本当に。死ぬかと思いましたよー」
「そりゃそうだ。俺だって怖かったしな」
「うぅ〜、まだドキドキしてます」
 渚は落ち着かせるように胸に手を当てる。
「しかし佐倉さん、すごい声だったな」
 ……恥ずかしいよ〜。
「それで、天国は見れたかい?」
「トラウマになりそうな程、見ました」
 幾らか落ち着いてから、また園内を歩き始めた。辺りを見回しながら、渚は次の乗り物を探す。
「先生、あれは何ですか?」
 渚が視線を向けた先にはフリーフォールがあった。
「まあ、絶叫マシンの一つだな」
 だがそこからは先程のような絶叫は聞こえてこない。
 あれなら、大丈夫だよね。すぐ終わるし、それに叫んでないってことは、そんなに怖くないんだろうな。
「先生、次はあれにしましょう」
「……佐倉さん、すごいね」
「何がです?」
「……ま、いいや。それじゃ乗ってみる?」
「はい」
 そこはそれほど混んでいなかった。だが順番を待つ人々、乗り終えた人々の顔は先程のジェットコースターと同じ様相を呈していた。
 何でみんな青い顔してるんだろう?
「まさか……」
 恐ろしい考えにようやく到達した途端、順番が回ってきた。
「先生、もしかしてこれ……」
「何?」
「叫ばないんじゃなく、叫べないのでは?」
「ピンポーン、大正解」
「えぇ〜」
 だがもう遅かった。二人を乗せた鉄製の檻は容赦なく高みへと昇る。
「結構、高いですね」
「ああ。見晴らしがいいだろ?」
「はい」
「だが、それももう終わる」
「えっ……」
 ガクンと別のレールにシフトしたかと思った瞬間、景色が揺れた。
「……」
「だ、大丈夫?」
 フリーフォールを乗り終えると、冬馬も渚もフラフラになりながらまたベンチに座った。
「……ふぇ〜」
 渚の瞳にじわりと涙が滲む。
「怖かったです〜。もう二度と乗りません」
「そうだな」
「先生〜、次はゆっくりしたアトラクションにしましょうね」
「ああ。俺もそうしたい」
「うぅ〜」
 渚は手の甲で涙を拭い続けた。
 ようやく立ち直ると、園内の中央部へ足を向けた。ここには室内系のアトラクションが軒を連ねている。
「お、オバケ屋敷か」
「えっ?」
「入る?」
「い、いえ。やめておきます」
「そうか」
 何気無い一言も、何故か寂しそうに渚には聞こえた。
「あの、先生」
「何?」
「やっぱり、入ってみます」
「どうしたんだ、急に?」
「ここまで来たからには、やっぱりどんな物でも見ておかないと損ですよね」
「そうだな。じゃあ、入るか」
 列に並んでいると、前に少しずつ進む度に不安が募ってきた。
 オバケとかユーレイってダメなんだよなぁ。
「しかし佐倉さん、怖い物好きなんだね」
「そんなこと無いですよ」
 でも作り物だから大丈夫だよね。
 渚の頭に夜店で売られているオバケのお面が浮かんでいた。
 五分後、二人は中に足を踏み入れた。外の熱気が嘘のように館内は涼しく、また暗い。先に行った人々の姿は見えないが、叫び声だけははっきりと聞こえる。
「涼しくて気持ちいいな」
「そ、そうですね」
「いやー、しかし凝った内装だよな。ほら、そこにある生首なんて本物そっくりだ」
「……すごいですね」
 うぅ〜、ここまで作り込まなくても。
 最初の角を曲がろうとした途端、不意に水中から死体が飛び出した。
「ひゃあ」
「うわっ」
 死体は奇妙な笑い声を上げながら、再び水中に沈む。
「びっくりしたー」
 そういう先生の顔は私に合わせた演技ではなく、本当に驚いているように見える。
「先生、ここに来たことあるんですよね?」
「ああ。だけど改装前のことだから、どこに何があるのかわからないよ」
「改装?」
「ああ。俺がここに来たのは五年くらい前。そしてここが改装されたのは昨年」
「でしたら先生も初めてみたいなものですね」
「そう」
 あ、だから先生さっきからきょろきょろしてたんだ。
 少しだけ心の余裕が生まれた渚は、次々と現れる仕掛けに対して楽しむことができた。
 最後の角を曲がると出口と表示された扉が見えた。
「もう終わりか。案外大したことなかったな」
「ええ」
 出口に向かって歩いていると、不意に後ろで何か割れる音がした。
「何だ?」
 振り返ってみたが何も無い。
「何だったんでしょうね」
「さあ」
 二人して首を傾げながら出口へと歩き出そうとした途端、目の前に突然ひどい火傷を負った男の顔が現れた。
「ひぃやぁぁぁ……」
「うわぁ。……って、ホログラフィか。あー、びっくりした」
 ふっと男の顔が消える。
「……佐倉さん」
「はぅ〜……」
 渚は冬馬の腕にしがみつきながら、力無く首を横に振り続けていた。
 館内を出ると凄まじい熱気に包まれた。
「あんなのずるいです」
「ははは、ずるくないよ。意外性があるからこういうのは楽しいんだ」
「それはそうですけど……」
「それに抱き着かれたりするから、意外性は楽しいんだ」
「あ、すみません」
 迷惑かけちゃったよー。
「おいおい、頭なんて下げなくていいよ」
「でも……」
「ほら、次は何に乗ろうか」
「怖くないものにしましょうよ」
「怖くないものねぇ……」
 次の乗り物を探し、園内を散策する。
 うーん、何にしようかな。メリーゴーランドは恥ずかしいし、あのクルクル回るブランコはスカート浮いちゃいそうだし……。
「あ、先生あれにしましょうよ」
「コーヒーカップか。いいよ」
 丁度客の入れ替えと相成り、並ばずに座ることができた。
「先生、このハンドルは何ですか?」
「これを回すとカップも回るんだよ」
「へぇー」
 試しに一回左回りに回してみる。
「わっ、本当だ」
 もう一回。
「うわぁ、スピードが上がりましたよ」
 これ、面白いなぁ。
 更にもう一回。
「回る回るー」
 次は右回転。
「すごいですねー」
 風景がマーブルのように溶け合わさるのがとても綺麗で、楽しくて、私はつい調子に乗ってハンドルを回し続けた。
 やがて停止のベルが鳴り、カップも止まる。
「うぅ、気持ち悪いですー」
「俺もだ。回し過ぎだよ」
「すみません〜」
 頭も目も足もグラグラにしながら私達は次へと向かった。
「次は何にしましょう」
「メシにするか。もう昼だし」
「そうですね」
 もう十二時か。何か、時間が経つの早いな。
 案内板を見てみると、東口の方にレストランがあったので、二人はそこへ向かう。
 昼時だけあり、店内はひどく混んでいた。
「どうする?」
「そうですね……」
 待ち時間長そうだなぁ。これじゃ、先生と遊ぶ時間なくなっちゃうよ。
「お天気よいので、外で食べましょうか」
「そうしようか」
 レストランを出て近くの屋台で焼きソバなどを買い、オープンスペースに密集しているテーブルの一つを陣取る。パラソルのおかげで、直射日光を浴びずに済んだ。
「もう少し早いか遅いかだと、入れたかもな」
「そうですね。でも、こういうのもいいです」
「そう言ってくれると助かるよ」
「どうしてです?」
「折角来たのにこんなメシ食わせちゃ悪いかなって」
「気を遣い過ぎですよ。こんな私なんかにそんな。私はここに連れて来てもらっただけで感謝しているんですから」
「そう?」
「そうですよ」
 もっと肩の力を抜けばいいのに。……でも、そう思われるのって何か、嬉しいな。こんな私なんかのために、色々考えてくれるなんて。
「ところでどうだ、初めての遊園地は」
「とっても楽しいですよ。……怖いものばかりですけど」
「フリーフォールは俺のせいじゃないぞ」
「……」
 もう絶対あれには乗らないんだから。
「ま、次はここのもう一つの名物コースターにでも乗るか」
「……さっきみたいなのはイヤですよ」
「大丈夫。次のは面白いから」
「その言葉、信じますからね」
 一頻り食事を終えると、そこへ向かった。
 コースターの前はやはり長い行列ができているものの、先程のよりは待たずに済むようだった。
「十分待ちくらいかな」
「食べたばかりなので丁度いいですよ」
「そうだな」
 コースターが移動する度に絶叫が谺する。だが先程のコースターに比べ、どこか楽しげな色合いが強いように思える。
「何だか本当に面白そうですね」
「信じてなかったな」
「えへへ、すみません」
 順番が回ってきた。一番前は怖いと学習したため、渚と冬馬は中程に座る。
「このカタン、カタンって音、緊張しますね」
 頂上へとコースターが向かう途中、渚が顔を強ばらせながら呟いた。
「ああ。俺は苦手だよ」
「先生もですか?」
「まあな。この音が聞こえなくなった途端、急激に落ちるし。俺、逃げ場の無いものは、何でもダメなんだ」
「なるほど」
 やがてコースターは最頂部から一気に落下していく。
「―─!」
 終点に着くと、安全ベルトが上がった。
「佐倉さん、大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
 渚は元気よく立ち上がると、満面に笑みを浮かべながら冬馬とコースターから降りた。
「楽しかったです、とっても。特に水中トンネルの中がとても綺麗でした」
「そうだな。程よいスピードだったし」
「ええ。あと、地中から出る時に花火が上がるのもすごかったです」
「そんなに喜んでくれると、連れて来たかいがあるよ」
「えへへ。さ、次は何にしましょう」
「何にするかなぁ……」
 ゆっくりと園内を見回しながら歩く。こうして先生とお散歩しているだけでも、私は充分楽しく、また不思議と心が穏やかになれた。
 園内中央に戻ると不意に渚の足が止まった。
「どうした?」
「……」
 うさぎさんのぬいぐるみだー。
 渚の視線の先には、ミニゲームコーナーに景品として置かれている白いうさぎのぬいぐるみがあった。
「本っ当に好きなんだねぇ」
「はい。あの、先生」
 すっと渚がサイフを取り出す。
「いいよ。やってみな」
「ありがとうございます」
 ゲームはガラス筒の中に舞うクジを引くと言う、至極単純なもので、一回三百円。渚は係員に三百円渡すと、筒の中から一枚のクジを掴んだ。
「……七番」
「ハズレだな」
 うぅ〜、悔しい。
「先生、もう一度お願いします」
「いいよ」
 気合を入れ、もう一度挑戦。
「……また七番」
 むぅ、一番が出ない。
「佐倉さん、クジ運が無いね」
「……では、これで最後にします」
 今度こそ、今度こそ……。
「……三番」
「はい、三番はペアハートネックレスです」
 はぅ〜、またハズレだよ。
「ようやく何か当たったな」
「……はい」
 うさぎさーん。
 ようやく手に入れた景品。だが……。
「これ、どうしましょう」
「どうしましょうって、何が?」
 渚は銀色に光る一組のネックレスを困ったように見詰め、時折くるくると回す。
「……」
 私、二つもいらないし、かと言って先生にあげるのも何だか恥ずかしい。……だけど、今日の記念になるから、捨てられないよ。
「じゃあさ、片方くれないかな?」
「えっ?」
 下がっていた視線を元に戻すと、先生が微笑んでいた。
「二つもいらないんだろ? だったら一つ、くれないかな?」
「あ、はい。どうぞ」
 先生に片方渡し、早速着けてみる。
「えへへ、何だか恥ずかしいですね」
「今日の記念ってことで、いいんじゃない」
「そうですね」
 お互いの胸元で輝く割れたハートが何故か心軽やかにさせ、私と先生は笑い合った。
 それから色々なアトラクションを楽しみ、遊び疲れて遊園地を出る頃には五時半を回ろうとしていた。
 次第に遠去かるバスの窓から差し込む陽に、私は今日の出来事を一生忘れないように割れたハートをそっとかざしながら、流れる景色をずっと眺め続けていた。
 やがてバスは駅に着き、今度は電車に乗る。帰宅する人の群れのせいですぐには座れなかったが、三駅程過ぎた辺りで、何とか座れた。
「あっ、雨だ」
 先生の声で窓に目を向けると、車窓が僅かに濡れ始めていた。まだ霧雨みたいだけど、もしかしたら着く頃には本降りになるかもしれない。
「雨、強くならなければいいですね」
「そうだな」
 最寄りの駅に着いても、雨は霧雨のままだった。だが空は暗く淀んでいるため、いつどうなるかはわからない。
「このくらいの雨だったら大丈夫だけど、どうなるかなぁ?」
「大丈夫じゃないですか?」
「ま、そうだけど。でも佐倉さん、濡れるだろうから傘でもそこで買ってくるよ」
 すっと行きかけた冬馬の袖を渚が掴む。
「私なら大丈夫です」
「そう? なら早く帰って風呂でも入るか」
「はい」
 じっとりと粘つくような霧雨に、立ち込める濡れたアスファルトの匂い。だけど私は、心のどこかでそんな状況を楽しんでいた。
「ちょっと、強くなってきましたね」
「ああ。でももうすぐだ」
「帰ったらすぐにお風呂とゴハンの用意しますね」
 突然冬馬が呆れたように笑い出した。
「どうしました?」
「いや、やっぱり心からメイドなんだなって」
「えっ?」
「ほら、昨日言っただろ。今日は仕事を忘れて遊ぼうって。だけど佐倉さんはこうしてメイドとして俺を気遣ってくれている」
「いけませんか?」
「いや、それで充分嬉しいよ」
 メイドか。お世話して当たり前、気遣って当たり前の存在。それが私。
「……でも、そうでなくてもきっと」
 私は先生にそう言っていたと思います。
「ん、何か言った?」
「いえ、何でもありません」
 帰宅すると渚は冬馬にタオルを差し出した。
「ありがとう」
「いえ。ではすぐにお風呂沸かしますね」
「ああ。体温めて疲れ取らないとな。俺もうクタクタでさ」
「ずっとお仕事ばかりしていたら、体力落ちますよ」
「ジジイ化が進む生活変えられぬ、なんてね」
「ダメですよ、そんな生活は」
 二人共風呂を終えると、すぐに夕食の運びとなった。今日は食材を買いに出掛けられなかったため、有り合わせの夕食。
「しかし楽しかったなぁ」
「そうですね。本当にありがとうございます」
「いやいや、俺の方こそ」
「こんなに楽しいんでしたら、瑞穂さんも誘えばよかったですね」
「そうだな。今度もし行けたら、三人で行こうか」
「はい。是非お願いします」
 楽しみだなぁ。
「いやー、でも本当に楽しんでくれたみたいでホッとしたよ」
「何でです?」
「佐倉さん、気に入らないんじゃないかって、ずっと考えていたんだよ」
「先生は気を遣い過ぎですよ」
「わかってるんだけど、どうもね。まったく辛島が羨ましいよ」
「瑞穂さんは奔放な人ですよね」
「首輪の無い獣と一緒だ。食う、寝る、遊ぶがアイツの生活リズムだからな」
「言い過ぎですよ」
「いいんだ。辛島だから」
 先生と瑞穂さん、仲良しだからそう言えるんだろうな。
 食事を終えると冬馬は書斎に入り、渚は洗い物にとりかかった。
「……うさぎさんのぬいぐるみ、欲しかったのになぁ」
 だが胸元に光るネックレスを見てみると、もしかするとそれよりはよかったかもしれないと思えてきた。
 洗い物を片付けると、渚は書斎に入った。取り立てて何もすることは無いのだが、もう日課となってしまっている。
 やっぱり先生はプロの作家さんだ。あんなに疲れていると言ってたのに、ちゃんとお仕事してる。
 一心不乱にペンを走らせている冬馬の背を見ながら、渚は改めてそう感じていた。
 しばらくして冬馬が手を止め、渚の方へと振り返った。
「佐倉さん、ちょっといいかな」
「はい、何でしょう」
「プロット、とりあえず完成したから見て感想言ってくれないかな。あ、これはメイドの立場抜きにして正直に言ってくれ」
「わかりました。では、拝見させてもらいますね」
 渚は冬馬から綿密に練られたプロットの書かれたノートを受け取り、目を通し始める。
 へぇー、やっぱりこうしてちゃんと計画を立てて書かれてるんだ。
 テーマ、キャラクターの設定、見せ場、そして簡略化されたストーリーが書かれているそれは、もう一つの物語として読める程度のものだった。
 幾ら時間が経ったのだろうかわからないくらい没頭して、全て読み終えた。そっとノートを返し、先生を見てみると、先生は不安そうな面持ちで私の方を見ていた。
「どうだった?」
「すっごくよかったですよ」
「本当に?」
 パッと冬馬の顔が晴れた。
「はい。特にラストでヒロインが自分の意志で運命を受け入れる姿に感動しましたし、それに永遠とも思えた別れの後、奇跡的に再開したりと、あの、巧く言えませんけど、とにかくこれはよい作品になりそうです」
「悪いとことかは?」
「……えーと、特にこれと言って無かったと思います」
「そうか。そう言ってくれると力が出るよ」
 ようやく先生が安心したように微笑むのにつられ、私も自分が認められたみたいに嬉しくなり、微笑んだ。
「それじゃ、今日はこの辺にしておいて」
 冬馬はすっと一升瓶を差し出す。
「ちょっと付き合わない?」
「いいですよ。少し待っていて下さい」
 渚は中座すると、台所からコップを取ってきた。冬馬はそれに八分目まで注ぐ。
「先生、こんなに呑めませんよ」
「いいからいいから、ほれ、かんぱい」
 コップを重ね、一口呑む。
「先生〜、喉が熱いです〜」
 口の中から喉を伝い、体中がかあっと熱くなっていくのがはっきりとわかる。
「すぐ慣れるから大丈夫だよ」
「そうなんですか?」
「呑めばわかる」
 では、ともう一口呑んでみるが、熱さのために味がよくわからない。
「熱いだけですよ」
「本当にそう?」
 もう一口。やはり熱い。が、今度は何となく舌に甘みが広がったように感じた。
「はい」
「でも佐倉さん、俺よりペース早いよ」
「そんなこと無いですよ」
 また一口。今度ははっきりと味がした。
「あ、お酒って美味しいんですね」
「……もう酒の味がわかるとは、恐るべし」
「何か言いました?」
「いや、何も」
 更に一口。今度は何だか楽しくなってきた。
「あ、もうなくなっちゃいましたよ」
「どれ」
 冬馬が注ぐと、渚はぐっとコップを傾けた。
「だからペース早いってば」
「私が早いんでなく、先生が遅いだけですー。ほら、先生もぐぐっと呑んでお仕事忘れて、ぱーっといきましょう」
「……」
 むぅ、何で先生は少しずつしか呑まないの。こうなったら。
「うわっ、佐倉さん?」
 渚は冬馬のコップに酒を注ぎ続ける。
「ほら先生、呑まないと溢れちゃいますよ」
「わかった、わかったからストーップ!」
 えへへ、楽しいー。
「うわっ、こぼれたからちょっと待てってば」
 だが、もう渚の耳には届かなかった。