八月十三日 月曜日

 カーテン越しの光が充分に明るかった。
「う、ん……はれ?」
 眩しさに身をよじらせると、不意に枕の湿り気に気付いた。慌てて渚は口元に手を遣る。だけどどうやらそれではなさそうだった。
「私、もしかして泣いてた?」
 しかし何故泣いていたのか、さっぱりわからない。夢を見ていたような気もするけれど、そうでもないような気がする。
「とにかく起きなきゃ。今日もがんばって先生のお世話しないと」
 寝惚け眼を擦りながら起き上がると、とりあえず着替え始めた。
 洗顔をし、パン一枚程度の朝食を済ませ、渚は洗濯機を回した。冬馬はまだ起きてこないだろうと思い、朝食の支度は後回しにする。それでも味噌汁だけ作っておくと、脱水を終えるまでの間、渚は冬馬から借りた本の続きを読んだ。
「……難しくて、よくわかんないな」
 サイエンスホラーの用語の難しさに頭を悩ませていると、洗濯機が止まった。本に栞を挟み、すぐに洗濯物を取り出す。
「はぁ、今日もいいお天気」
 洗濯物を持ってベランダに出ると、物干し竿を綺麗に拭いてから干し始めた。パンパンと小気味よい音が、心を軽やかにする。
「ふぅ」
 手の甲で汗を拭い、空を仰ぐ。
「気持ちいい」
 暑いには暑いのだが、こうして働いてかく汗は何とも言えないものがある。時折流れるそよ風が僅かな涼と共に緑の匂いをも運び、ゆったりとした時を感じさせる。
「―─って、いつまでもボーっとしていたら終わらないよ」
 我に返ると、渚は慌てて残りを干した。
 それが一段落着くと、今度は玄関の掃除をすることにした。バケツに水を汲み、雑巾を用意していると、不意に書斎の襖が開いた。
「おはよう」
「おはようございます、先生」
「あのさ、麦茶と新聞ちょうだい」
「はい」
 掃除を中断すると、渚はすぐに言われた通りの物を用意した。
「ありがとう」
 冬馬はゆっくりと麦茶を飲む。
「それにしても昨日の花火はよかったな」
「そうですね。とっても綺麗で私、感動しました。先生、連れて行って下さってどうもありがとうございました」
「いや、お礼なんてしなくてもいいよ。ただ、ちょっと残念だったことがあるけど」
「どうかしたんですか?」
「佐倉さんが浴衣だったらよかったのに」
 えっ、浴衣? 何で?
「私、浴衣は持っていないんですよ」
「そっか、なら仕方ないか」
「何かあるんですか?」
「花火には浴衣、しかも濡れた髪で。それが男のロマンだよ」
「ロマン、ですか……?」
 わかんないよ、そんなロマン。
「そう、ロマン。花火を見ている人々に気付かれないように二人は熱いキスを交わして、そのまま人気の無い場所へ。そして花火が夜空を彩る中、二人は一つに……」
「またエッチなことですか」
「違うよ、ロマンの話だよ」
「……もう、何でもいいです。それより先生、ゴハンはどうします?」
「和食でお願い」
「はい」
 台所に立つと、渚は味噌汁を温め直した。
 何で先生ったら朝からエッチなことばかり言うんだろう。綺麗な花火も、先生にとってはそう見えるのかな?
 でも、もし先生が私に……。
 先程冬馬が話していたシチュエーションに自分を重ねてみる。
「……はぅ」
 わ、私ったら何考えてるのよ。
 真っ赤になってうつむきながら、渚は味噌汁が吹きこぼれるのもそのままにしていた。
「なあ、味噌汁吹きこぼすまで何をそんなに考えていたの?」
「いえ、何でもないです……」
 ばつの悪そうに渚は味噌汁を啜る。
「ま、気を付けてくれよ」
「はい」
 うぅ、私ったら何であんなこと考えちゃったんだろう。
「それより佐倉さん、佐倉さんって小さい頃の写真とかある?」
「いいえ」
「そっか。なら俺と同じだな」
 えっ、先生ももしかして……。
「実は俺、写真って嫌いなんだよね。撮られるのは嫌いじゃないんだけど、残るってのが好きじゃないんだよ。両親もそう言う傾向があったから、小さい頃の写真とかあまり残っていないんだ」
「そうなんですか」
 何だ、そう言うことか……。
「それにほら、観光地に行っても写真ばかり撮る奴とかいるだろ? 俺、ああいうの見ると悲しくなってくるんだよな」
「どうしてですか?」
「だって目の前に広がっている景色とかをレンズ越しでしか見ていないんだぜ。写真は確かにその風景を残してくれるけど、思い出にはならないよ」
「なるほど」
 そっか、そう言う見方もあるんだ。
「佐倉さんもそうなの?」
「まあ、そんなとこですね」
「だったらこの瞬間を記憶しなくちゃな」
「そうですね」
 食事を終えると、渚は片付けにかかった。
「写真、かぁ……」
 よくよく考えてみたら私、写真って一枚も持ってないな。幼い頃はあれだったし、最近も写真撮ることなんて無かったしな。
 でも、いいか。先生の言う通り、この瞬間を記憶する方が大事だよね。
 蛇口を捻り水を止めると、渚は白い布巾を見詰めながら皿を拭いた。
「さてと、今日は何を作ろうかな」
 寝室に入ると渚は料理の本を開いた。だが美味しそうな料理は全て自分の手にあまる。
「うーん、ピーマンの肉詰めかな」
 夕食の献立を決めるとサイフを持ち、渚は書斎の襖を開いた。
「先生、これからお買い物にいってきますね」
「ちょっと待った、俺も行くよ」
 冬馬はペンを置くと、急いで身支度を済ませた。
 朝から続く陽気は昼下がりになっても変わらないどころか、暑さを増している。ほんの少し固い物でアスファルトを押せば、たちどころに形を変えられそうだ。
「こんなに暑いのはきっと、みんなクーラーつけてるからだろうな」
「そうかもしれませんね。でも先生、先生はどうしてクーラーをつけないんです?」
「俺、クーラーって苦手なんだ。あの機械的な冷たさが肌に合わないんだよ」
「私もです」
「そうなんだ。でも扇風機だけだと全然涼しくないから、困ったもんだよ」
「そんな時は扇風機の前に氷を置けば涼しくなりますよ」
「へぇー、そうなんだ。頭いいね」
「お姉ちゃんの受け売りですけどね」
「ふーん。でも俺は別の方法で暑さを忘れられるけどな」
「何です、その方法とは?」
 よかったら私も使わせてもらおうっと。
「それはな、カワイイ女の子に挟まれていると思えば、暑さも心地良さに変わるんだよ」
「……暑いだけです」
「佐倉さんの場合は格好良い男衆に挟まれていると思えば?」
「それでも暑いだけですよ」
「そうかなぁ」
 先生って、幸せな人だぁ。
 商店街に着くとメモを見ながら肉屋や八百屋などを回り、最後に酒屋に入った。
「お、先生にメイドさんじゃねえか」
 店主は二人に気付くなりテレビを消した。
「おじさん、こんにちは」
「はい、こんにちは。で、まさか俺の顔を見に来たわけじゃないだろ?」
「ちゃんと買いに来たんだよ」
「わかってるって。ほれ、いつものやつでいいんだろ?」
「ああ」
「じゃ、二千円だ」
 渚はサイフから二千円を取り出し、店主に渡す。
「まいど。呑み過ぎには気を付けるんだぜ。酒は身を呑み家を呑むって言うからな」
「わかってる」
 酒屋を出た頃には一時半を少し回っていた。
「今日は長田が来るから早く帰らないとな」
「そうだったんですか。では早く帰らないと長田さんを待たせてしまうかもしれませんね」
「うーん、でも大丈夫だろ。約束は二時過ぎだから」
「でも長田さんて真面目そうな方ですよね」
「ああ、あいつは俺と違って仕事熱心な奴だからな」
「先生もお仕事一生懸命がんばっているじゃないですか」
「嬉しいこと言ってくれるな。でも俺はダメだよ。酒呑んでゴロゴロ寝て、気が向いたら仕事しているだけだから」
 自嘲気味に冬馬が笑うも、渚はゆっくりと首を横に振る。
「そんなこと無いですよ」
「そうかな」
 アパートまではもう少し。食材に一升瓶と結構な重さのある買い物袋を、渚は右手左手へと持ち替えながら歩く。
「あっ」
 ふと前に見覚えのある少女がいた。
 あの子、確かうさぎさんのとこにいて逃げた子だ。
「ねぇ、ちょっと待って」
 渚は少女に向かって駆け出す。
「えっ?」
 が、冬馬が渚の腕を掴んだために、幾らも追えなかった。
「おい、どこ行くんだよ」
「どこって……」
 渚に気付いた少女は悲しげな瞳をしたかと思った途端、また逃げ出した。
 ああ……、見えなくなっちゃったよ。
「うさぎのとこなんかに行ったら、長田を待たせちゃうだろうが」
「違うんです、先生」
「ま、何でもいいから帰るぞ」
「……はい」
 渚はがっくりと肩を落としながら冬馬に腕を引かれ、帰宅した。
「あーあ、また話せなかったな」
 冬馬が書斎に入るのを見送ってから、渚は冷蔵庫に食材を入れながら一人ごちた。
「あの子、きっと何かわけありなんだろうな」
 逃げ出す時にちらりと見せた瞳が忘れられない。何か、全てを拒絶するような瞳が。
「……明日は話せるよね」
 溜め息と共に冷蔵庫のドアを閉めた。
 二時半頃、長田が来た。渚は書斎に通してから麦茶を運ぶと、打ち合わせの邪魔にならないようにそそくさと退室した。
「さてと、お掃除お掃除」
 とりあえず中断していた玄関掃除から始める。上がり口をホウキで掃き、その周りを雑巾で拭く。
「わっ、隅の方こんなに汚い」
 真っ黒になった雑巾をバケツの水で洗うと、続きを拭く。そうしてそれがあらかた終わると、今度は台所の掃除へと移った。
 ……何か、先生と長田さんもめてるみたい。
 書斎から聞こえるいつもより大声の打ち合わせに渚も気を揉みつつ、掃除を続けた。
「あれ、お帰りですか」
 一時間も経たないうちに、書斎から長田が出てきた。渚は一旦手を止める。
「ええ。お邪魔しました」
 逃げる様に、そそくさと長田は帰ってしまった。
 長田さん、何であんなに慌ててたんだろ?
「……考えても仕方ないか。きっと先生との問題だから、私には関係無いよね」
 今はそれを考えるより、コンロの油汚れを落とすことの方が大切に思えた。
 それから幾らも経たないうちに先生に呼ばれたので、私は一言かけてから書斎に入った。
「どうしました、先生」
「ああ、ここに座ってくれ」
「はい」
 座布団を渡され、冬馬の横に座る。
「先生、何だかお疲れのようですね」
「わかる?」
「はい。あの、長田さんと揉めていたようですけど、何かあったんですか?」
「ああ。聞いてくれる?」
「私でよろしければ」
 冬馬はタバコに火を点けると、深々と吸い込んでから、煙と共に言葉を吐き出した。
「いやな、今作のラストのことで長田と衝突したんだよ。ほら、今回は今までと違って、ハッピーエンドにするって言っただろ?」
「はい」
「それが編集部には気に食わなかったみたいなんだ」
「どうしてです?」
「なーに、今までの俺の作風と合わないから読者が逃げるって言われたんだ。恐怖だとかバットエンドを望んでいる俺のファンは大勢いるみたいだからな」
 そうなの?
「でも俺だって意地がある。書きたいものを書いてここまで来れたんだから、次もきっとできる筈だ。人を楽しませるために俺は書いているけど、やっぱり俺が一番楽しめるものじゃないとダメなんだ」
「そうですよ。先生は書きたいものを思いのまま書けばいいんですよ」
「でも、それは職業作家としてはもしかしたらダメなのかもしれない。俺が求めている作品は必ずしも読者が求めているわけじゃないだろうし、無理に俺の我を押し通してしまえば、何もかも失ってしまう」
「先生……」
 作家さんて大変なんだなぁ。自分の書きたいことだけ書いても、ダメなんだ。
「だから、正直言って自信は無い。特に今日はハッピーエンドなんて俺がプロになってから書いたことの無いものだから、なおさら」
「大丈夫ですよ、先生なら」
「励ましてくれるのは嬉しいけど、その期待には応えられないかもな」
「弱気になったらダメです。そうなるとできることも、できなくなってしまいます」
「だけど今までとまるっきり反対のラストにしなければいけないからなぁ」
「そんなこと無いと思いますよ」
「どう言うこと?」
 怪訝そうに顔を覗き込まれても、渚はしっかりと冬馬を見詰めている。
「ハッピーエンドもバットエンドも、見方を少し変えれば同じだと私は思います。きっと何でもそうなんだと思いますけど、表裏一体で成り立っているんですよ」
「そうかな?」
「悲しみも試練だと思えば糧になりますし、喜びもずっと続けば虚しさを生みます」
 先生と仲良くなれたのも、きっと……。
「例えば涙がそうだと思うんです」
「涙?」
「はい。涙って大体が悲しい時に流すものですよね。でも嬉し涙ってのもあるじゃないですか。だから涙って二つの気持ちを繋げる鎖だと思うんです」
「鎖、か……」
「だから、えっと、……そう、例えば悲しい時に流した涙も後から絆に変わることもあります。先生の作品で主なテーマとなっている愛も、悲しみがあってこそ成就するものだと私は思うのです」
 途端、冬馬の顔色が曇った。
 あ、やだ、私ったら何言ってるんだろう。先生、呆れてるじゃない。
「あの、すみません。とりとめの無いことをいつまでも話してしまって」
「あ、いや……」
「えっと、結局私が言いたかったのは、先生ならきっと面白い作品を書けると言うことで、だから、あの、えっと……」
 あぅ〜、もう自分でも何言ってるのかわかんなくなってきた。
「佐倉さん」
「は、はい」
「ありがとうな」
 先生に微笑みかけられ、私は自然に口元が綻んだ。
「いえ、とんでもない」
「ま、いいや。それじゃ、俺はこれから少し書くとするよ。多分、二階堂さんから電話がかかってくると思うけど、その時はすぐに読んでくれ」
「わかりました。それではお仕事がんばって下さいね」
「佐倉さんもね」
 書斎を出ると台所の掃除を再開した。
「何言ってんだろうな、私……」
 先生に対してあんな偉そうなこと言って、先生だったらきっと、もうわかってることなのに私ったら。
 気持ちと手の動きも鈍る。
「……でも、本当のことなんだよね」
 先生に怒られてどうしようもなく自分がみじめに思えて流した涙は、冷たかった。でもその冷たさがあったから、先生の温かさがよりはっきりと伝わった。
「……って、お仕事お仕事。折角先生にまだメイドだと思われてるんだから、しっかりやらなきゃ」
 渚はぐっと気合を入れると、シンクの汚れを洗いにかかった。
 一頻り掃除を終えたので一休みしようかと思っていたところへ、突然電話が鳴った。
「はい、北川です」
「ああ、渚か。二階堂だが、北川はいるか?」
「はい、少々お待ち下さい」
 そう言って受話器を置こうとしたところへ、いつの間にか後ろに立っていた先生に肩を叩かれた。
「あ、先生、二階堂さんからです」
「……」
 先生は少し怖い顔をして無言で受話器を受取った。私は邪魔にならないよう、ソファへ座る。
 ……やっぱり、作品のことかなぁ。
 なんて考えていると、急に先生が電話口で怒鳴り始めた。
 な、何だろう?
 やがて荒々しく冬馬が受話器を置くと渚はいても立ってもいられなくなり、電話を前に肩で息をしている冬馬に近付いた。
「……あの、先生」
「ん?」
「私が先生の作品に口出ししたばかりにまた先生にご迷惑をおかけしてしまったんですね」
 先生がいつも通り書いていれば、怒られるなんてことはなかったはずだよ。きっと私が先生に色々言ったからだ……。
「そんなこと無いって」
 呆れたような笑いを浮かべながら、先生は私の頭の上に手を置いた。
「これは俺が決めた道の上での問題だから、佐倉さんが責任を感じる必要は無いよ」
「でも……」
「あのよ、何を勘違いしてるんだ?」
 勘違い?
「これは俺の意志で好きなものを書こうとして、たまたま編集部とぶつかっただけだ。幾ら佐倉さんに何か言われたとしても、俺が気に入らなきゃ書かないって」
「先生……」
 それが嘘か本当なのかわからない。けど、また先生が私なんかに気を遣ってくれていると言うことだけは、わかる。
「ま、俺は一眠りするから、風呂の時間にでもなったら起こしてくれ」
「はい」
 先生が書斎に入った後も、しばらく私はその襖を見詰めていた。
 それから何となくお仕事をしようとしても手につかなくなったので、私は気分転換にと散歩に出掛けた。
 いつもは気持ちいい筈の風も、心を弾ませる筈の蝉の声も今は何故か重い。
「やっぱり、責任感じちゃうな」
 気にするなって先生は言ってくれるけど、私が来たから先生が作風を変えるきっかけになったんだよね。
「……こんな時、メイドの私は無力だなぁ。瑞穂さんならきっと何とかできるのに……」
 とぼとぼ歩いていると、公園に辿り着いた。
 公園には二、三人の子供が砂場で遊んでいるだけで、他に人はいない。渚はとりあえずベンチに腰を下ろすと、溜め息をついた。
「はぁー、幾ら私が考えても仕方ないんだけどさ……」
「悩み多きメイドさんだねぇ」
「えっ?」
 驚いて顔を上げると、目の前には新堂が立っていた。
「隣、座ってもいいかな?」
「あ、どうぞ」
 新堂は渚の隣に座ると、ぬっと渚の顔を覗き込んできた。
「心優しいメイドさんは、悩むことも多くて大変だねぇ。もしよければどうしてそんなに悩んでいるのか、話してくれないかな?」
「あの、何で私が悩んでいるとわかったんですか?」
「ははは、瞳を見ればわかるよ」
 私、わかりやすいのかなぁ。
「それで、一体どうしたんだい?」
「実は……」
 ぽつりぽつりと渚はこれまでのことを包み隠さず話した。新堂はその間、渚の瞳を真剣に見ながら合槌を打っていた。
「つまり、自分のせいで主人が怒られているのに耐えられない。そう言うわけだね」
「はい」
「ふむ……」
 新堂は腕組みをすると空を見上げたまま、何やら考え込んでしまった。
 あぅ、もしかして私、新堂さんも困らせているのかなぁ。
 うぅ〜、迷惑かけっぱなしだよ。
「うーん、そうだねぇ」
 やがて新堂は腕組み解くと、また渚の顔を覗き込んだ。
「結局は気にしないのが一番だけど、そうはいかないよね?」
「はい」
「だったら、渚さんのできる範囲でやれることをやるだけだよね。お世話とか、励ますとかして」
 うーん、やっぱりそれしかないのかなぁ。
「主人の決めたことには意義を唱えず、その道をよりよいものにするためにメイドがいるんじゃないかな」
「あ……」
 そうだよね。先生が決めたことをとやかく言ったり悩んだりする前に、私は先生が進みやすいようにしなきゃいけないんだよ。
「できますかね、私に」
「できるとも。そのためには今よりもっと、主人を好きになることだね」
「先生を、今よりも好きに……」
「主従関係を越えて信頼関係に。ああ、理想の一つだねぇ」
「でも、それには先生も私のことを……」
 まだ踏ん切りのつかない渚に、新堂が微笑みかける。
「渚さんの主人はいい人なんでしょう?」
「はい」
「だったら、誠意を持って接すれば、きっとわかってくれるよ。相手に誠意を持って尽くしたり、いたわったりすることを愛だと言うなら、メイドは愛の結晶だよねぇ」
 私も、そうなれるのかな?
「しかしこの結晶は自分で作り、維持する努力が必要だけど、どうかな?」
「……がんばってみます」
 愛すべき人を愛しなさいとメイド長が常に言っていたのは、こう言うことだったんだ。
「決して、無理をしないように」
「えへへ、ありがとうございます」
 ようやく笑顔を取り戻した渚を見て、新堂も安心したように顔を綻ばせた。
「それでは渚さん、私はそろそろ行きますね」
「あ、はい。どうもありがとうございました」
「いやいや。縁があればまた会いましょう」
 新堂は渚に背を向けながら軽く片手を上げると、どこかへ行ってしまった。
「いい人だなぁ、新堂さん……」
 あんなに重く感じた風が肌に心地よい。
「さ、帰ってから先生に信頼されるように、がんばらなくちゃ」
 愛すべき人を愛しなさい。
 心の中で何度も反芻しながら、渚は冬馬の待つアパートに戻った。
「ただいまです」
 だがリビングに冬馬はいなかった。
「まだ寝てるのかな?」
 時計を見るとそろそろ五時になろうとしている。とりあえず風呂でも沸かそうと、渚は風呂場へ入った。
 三十分程して風呂が沸くと、渚は書斎の襖を静かに開けた。
「先生?」
 案の定、冬馬はまだ寝ていた。渚はそっと近付き、優しく振り起こす。
「先生、先生」
「んあ?」
「お風呂が沸きましたよ」
「ああ、もうそんな時間か」
 上半身を起こし、冬馬は大きく伸びをする。
「……五時半か。あのさ、麦茶持ってきて」
「はい」
 すぐに冷蔵庫へ行き冷たい麦茶を用意して、先生に渡す。
「ありがと。ところで佐倉さん、何かいいことでもあったの?」
「いいえ。そう見えます?」
「あぁ、何かニコニコしてるから」
「えへへ、いつもですよ」
「ふーん。ま、いいや。風呂入るか」
 冬馬も渚も風呂から上がると、すぐに夕食となった。今日はピーマンの肉詰めにホタテのバター焼き、そしてサラダに味噌汁だった。
「おっ、美味い」
「ありがとうございます」
「いやー、ちゃんと勉強してるんだね」
「先生には美味しいゴハンを食べてもらいたいですから」
「嬉しいねぇ、そう言ってくれると。じゃ、俺も何かしてやらないとなんないかな?」
「そんな、とんでもない。私は別に見返りを求めるためにお世話しているわけじゃありませんので」
「立派だ」
 冬馬はしみじみと呟いた。
「いえ、私なんか失敗ばかりしているので、全然そんなこと無いですよ」
「いや、その心意気がすごいよ。俺だったら何か見返りが無いと、何もしないから」
「そうなんですか?」
「ああ。小説を書くのは金のためと、褒められたいため。人に優しくするのは下心のため。佐倉さんを使うのは、嫌なこと全て押し付けて楽したいためなんだから」
 先生は何でそういうこと言うんだろ。誰にも見せたくないような汚い面を何で見せるんだろう。
 ……もしかして、嫌われたいのかな?
「先生……」
 いや、きっと先生はわかって欲しいんだ。最初からありのままの自分を見せて、試しているんだ。
 だって今言った、褒められたいってのは、理解してくれる相手が欲しいってことだよ。
「それでも、いいと思いますよ」
「えっ?」
「本当は私だって、先生に認めてもらいたいとか褒めてもらいたいと思っていますから」
「そうか」
 素っ気無い言葉ではあったが、その中に一抹の喜びがあったことを、渚は理解できた。
 夕食を終えると冬馬は書斎に入り、渚は洗い物にとりかかった。
「先生って本当はとっても正直な人なんだ」
 だからそれを理解してくれる瑞穂さんと、あんなに仲良しなんだ。そして、それがわからない人にはきっと、深い付き合いをしないんだ。
「でも……」
 正直過ぎて、わかんない時もあるよ。
 渚は溜め息をつきながら肩を落とした。
「失礼します」
 片付けを終えると渚は書斎に入った。特に用事があるわけでもなかったが、いつでも用事を言い聞かされても大丈夫なよう、冬馬の少し後ろに座る。
 冬馬も渚を別段気にすること無く、仕事を進めている。もし仕事の邪魔だと言われれば、渚はいつでも退室できる覚悟があった。
 渚はその時が来るまで、静かに冬馬の二本目のヒットとなった『黒の衝撃』を読み耽ることにした。
「佐倉さん、それ面白い?」
「えっ、あ、はい」
 わっ、もう二時だ。
「えっと、こういうサイエンスホラーは読んでいて難しいんですけど、先生らしさがよく出ていて、とても面白いです」
「俺らしい、か……」
 ふっと冬馬の瞳が曇る。
 あ、私また悪いこと言っちゃったかな。
 それきり冬馬は何も言わず、ただ一つだけ溜め息をつきながら酒の入ったコップを寂しげに傾ける。
 うぅ〜、何だろう。何が悪かったの?
「先生、何だかお疲れみたいですね」
「ま、そうかもな。難しいから」
 幾ら気にするなって先生や新堂さんに言われても、やっぱりこんな先生を見たら辛いよ。責任感じちゃうよ。
「……すみません」
「おいおい、何で佐倉さんが謝るんだよ」
「えっと……」
「もしかして、まだ自分のせいで俺がこうなったと思ってるの?」
「……はい」
 冬馬は苦笑いを浮かべると、タバコに火を点けて深々と吸った。
「そうか」
 しばらく先生が何かを考え込んでいたけど、タバコを吸い終わると同時に口を開いた。
「よし、じゃあ明日はどこか遊びに行こう」
「えっ?」
「このままだと俺も佐倉さんも悪い方向にばかり考えが傾きそうだから、明日はパーッと遊びに行こう。小説のことも、メイドの立場も忘れてさ」
「ええっ?」
「嫌だったらやめるけど」
「いえ、とんでもない。すごく嬉しいです」
 先生からのお誘いを断れるわけないよ。
 ただただ胸に嬉しさが込み上がる。冬馬の笑顔につられ、渚も満面に笑みを浮かべた。
「それじゃ、明日は晴れるといいな」
「はい」
「だったらもう寝た方がいいな。明日は昼前にここを出ようと思ってるからさ」
「はい、わかりました。先生もあまり呑み過ぎて、寝坊しないで下さいね」
「はいはい」
「それではおやすみなさい、先生」
 寝室に戻った渚は明日のためにと、すぐに布団に入った。しかし様々な想いが去来し、なかなか眠れない。
「また、迷惑かけちゃったかな」
 真っ暗な視界の先に、先生の顔が浮かんでは消えていく。
「私がしっかりしなきゃいけないのに、また先生が私に優しくしてくれる。メイドの私がこんなんじゃ、ダメなのに」
 言葉とは裏腹に、渚の頬は緩んでいる。
「……でも、やっぱり嬉しいなぁ」
 闇に、明日の想像が映像となる。
「先生、どんなとこに連れて行ってくれるんだろう。私、こうした遊ぶ機会って今まで無かったからなぁ」
 先程読んでいた冬馬の小説にも、恋人同士が喫茶店に入ったり、食事を楽しんだりしているシーンがあった。
 私と先生も、明日はああいう人達みたいになるのかなぁ?
「あっ……」
 不意に自分の想像が闇から消えた。同時に私は重大なことに気付いてしまった。
「……もしかして、明日先生と一緒に出掛けるってことは、デートって言えるのかな?」
 一人言に照れてしまい、渚は耳を真っ赤にしながら布団を抱き締めた。
「はう〜、いいのかなぁ、私で」
 未だかつてデートはおろか、男の人と一緒に何かする経験は全く無かった。だから渚にとって明日はこれ以上無いくらい未知の体験に満ちていた。
「はぁ、デートかぁ……」
 先生と一緒に生活してきても、御主人様とメイドと言う関係があったからこそ、佐倉渚ではなくメイドの佐倉さんとしていられた。
 でも先生からああ言われた途端、私はもう嬉しくてどうしようもなくて、明日が楽しみで仕方なくなっている。
「ふぇ〜」
 渚は布団を抱き締めたまま体を丸める。
「色んなとこで遊んで、外でゴハンを食べて、あ、先生のことだからお酒呑んだりするんだろうな。それから……それから……」
 裸になった自分を一瞬想像し、渚は暗闇の中でころころと転がる。
「あー、もう、何考えてるのよ。幾ら先生でもいきなりそんなことしないよ。……でも、先生だって男の人だし……」
 布団に顔を埋め、何度も頭を振る。
「うぅ〜、もうやめよう。明日はそんなこと無いんだから。ほら、早く寝ないと寝坊しちゃうんだし」
 無理矢理自分自身を納得させようとするが、興奮はなかなか冷めやらない。
 渚は必死に寝ようと目を瞑ったまま、それからしばらく色々な妄想に耽っては、一人で顔を真っ赤にしていた。