八月十二日 日曜日

「うぅ……ん」
 頭が割れるように痛い。気持ち悪い。
「……はれ?」
 書斎? 何で私、ここにいるんだろう。
 寝惚け眼を擦りながら重い体を起こすと、近くに冬馬が寝ていた。
 そうだ私、昨日先生とお酒呑んだんだ。
 だが幾ら思い返してみても、最後まで思い出せない。最後に残っている記憶は、泣いている自分の頭を優しく撫でてもらったとこで終わっている。
「私、先生と、男の人と初めて同じ部屋で寝ちゃったんだ」
 前にも同じようなことがあったが、それは冬馬がリビングのソファに移動してくれた。だが今日は少し違う。
「……とにかく着替えよう」
 音を立てずに渚は書斎を出た。
 身支度を整えてからリビングの時計に目を遣ると、六時四十分だった。何だかまた食べる気にはなれなかったが、これではいけないと思い、食パン一枚程度の朝食をとる。
「うぅ……、苦しいよぉ」
 牛乳の助けを十二分に借りて何とか食べ終えると、昨日おざなりにしていた掃除などを始めた。
「先生、まだ私のことメイドだって認めてくれているから、一生懸命やらなきゃ」
 だが不思議と肩に力は入らなかった。
 洗濯機を回し終え、脱水した服を干していると、十時半頃に書斎の襖が開いた。
「おはよう」
「おはようございます、先生」
 干す手を止め、渚は冬馬のために麦茶を用意する。
「ありがとう。ところで佐倉さん、昨日は大分呑んでたけど、大丈夫?」
「えっと、まだ頭が痛いです」
「そりゃあんだけ呑めばそうだろうな」
 私、そんなに呑んだの? 怖くて訊けない。
「ま、二日酔いが辛いんだったら、いっぱい水分取れよ。じゃないといつまでも辛いままだぞ」
「はい。ありがとうございます」
 水か……。だから先生、いつも麦茶ばかり飲んでるんだ。
「それで先生、ゴハンはどうします」
「いつも通りの目玉焼きに味噌汁の組み合わせでいいよ」
「わかりました」
 冬馬の注文通り目玉焼きに味噌汁、そしてサラダに白子干しと、いつもの定番メニューの朝食が幾らもしないで完成した。
「ねぇ、佐倉さん。この町にはもう慣れた?」
「そうですね。ここから商店街までは大体。でもちょっといつもと違う道に入ったり遠出したりすると、迷ってしまいます」
「それにしては覚えるの早いよ。俺なんてここに越して一週間は、買い物に出る度に自分の家がどこなのか迷ってたからな」
「そうなんですか?」
「俺、重度の方向音痴なんだよ。ま、外出しないで家にずっといたってのも原因の一つなんだろうけど」
「家にばかりいたらダメですよ」
「わかってるんだけど俺、出無精でね」
「それでも少し運動した方がいいですよ」
「そうだな。あーあ、これでも昔はスポーツマンだったのに」
「えっ?」
 渚の箸がピタリと止まる。
「俺、大学に入るまではかなり運動していたんだぜ。野球にバレーにマラソンと」
「そうなんですか」
 とても信じられない……。
「そんなに驚くなよ」
「でしたら何で?」
「大学に入って書く方に集中したのと、毎日一緒にやる奴がいなくなったからだよ。俺、飽きっぽいから一人じゃダメなんだよ」
「でも書くのって根気がいるんじゃ……」
「書くのは別。でも今も機会があればテニスでもしてみたいけどね」
「テニスですか。いいですね」
 そう言えば私も最近運動してないから、先生と一緒にしようかな?
「だろ? 俺、一度やってみたいんだよ」
「やりましょう、先生」
「お、佐倉さんもする? だったらカワイイアンスコ買わないとな」
「……何でラケットじゃなくそれなんです?」
「そりゃ見たいからだよ」
 もー、先生ったらそればっかりなんだから。
 食事を終えるとすぐに渚は洗い物にとりかかった。食べ残しはないものの、醤油の汚れが気にかかる。
 先生、目玉焼きにお醤油かけ過ぎだよ。
 片付けを終えると渚は寝室に入り、料理の本をバッグから取り出した。
「いつまでもこのままじゃダメだから、今日からレパートリー増やさないと」
 とりあえず健康重視のページを開く。
「牛乳がゆか……」
 美味しくなさそうだな。
「レバーの香味焼き……」
 私、レバー食べられないからパス。
「白身魚の変わりピカタか」
 これは美味しそう。……でも作り方見るととても今の私じゃ無理。
「鶏団子のお味噌汁。これなら大丈夫かも」
 レシピに載っている材料をメモすると渚は寝室を出、書斎の襖を開けた。
「先生、これからお買い物に行きますけど、何か必要なものはありますか?」
「そうだな……」
 冬馬はペンを置き、腕組みする。
「時間と、服の透ける眼鏡と、カワイイ巫女さんが欲しいな」
「どれも売ってませんよ」
「言ってみただけだよ。ま、買い物に行くんだったら俺も行くから、少し待ってて」
「はい」
 五分もしないうちに支度が整うと、戸締まりと火元を確認してからアパートを出た。
 朝のニュースで昨日より幾分か涼しくなると言ってたが、それほど変わらない気がした。確かに風はあるが、肌に粘つく湿気が何とも不快な気分にさせる。
「天気予報の嘘つき」
「仕方ないですよ、予報なんですから」
「ったく、アテにならないんだからよ」
 ぶつぶつと文句を言う冬馬が渚には何故かおかしく思え、少しだけ頬が緩んだ。
「そうそう佐倉さん、夏と言えば何を思い浮かべる?」
「えっと、海とかスイカとか……あ、お祭りも夏にいっぱいありますね」
「まだ他にあるだろ。ほら、大切なやつ」
「あ、カキ氷ですね」
「食べ物じゃないよ」
 え〜、何だろう?
 渚は顎に指を当て、考える。
「あとは……蝉とかヒマワリとかですか?」
「違う」
「台風ですか?」
「それも違う」
「蚊取り線香」
「残念」
「え〜、何です?」
「答は幽霊だよ、ユーレイ」
「ユーレイ……」
 さっと渚の顔から血の気が引く。
「昨日佐倉さんが酔い潰れて寝た後にさ、俺便所に行ったんだよ。そこでドアを開けようとしたらドアノブが全く動かなくてさ」
「それはきっと、何かのはずみで内からカギがかかったんですよ」
「俺も最初はそう思ったよ。でもな、それでも少しは動くだろ? ところがすごい力で押さえられてるみたいに全く動かないんだよ」
「……」
「それで諦めて寝ようとしたら、今度は台所の方から足音が聞こえてきてよ」
「き、気のせいですよ」
「行ったら冷蔵庫が開いていたんだ」
 うぅ〜、もうダメ。
「先生ー、もうやめて下さい」
「もしかして佐倉さん、こういうのダメ?」
「はい。だってユーレイですよ、いない人がいるんですよ。怖いじゃないですか」
「そりゃ俺も怖い」
「ですよね。私、そういうの全然ダメなんで、もうやめて下さいね」
「でも俺の家によく出るんだよ。それに俺、霊感強い方だし」
「先生〜」
 そんなことを話しているとあっと言う間に商店街に着いた。渚はメモを見ながら肉屋と八百屋で必要な食材を買う。
「今日の晩メシは何なの?」
「それは秘密です。楽しみにしていて下さい」
「そうするか」
 商店街を後にすると、特に寄るところも無いのでまっすぐ家路を辿る。先程よりもまた少しばかり暑くなっているが、慣れたためかそれほどには感じない。
「そうそう佐倉さん、佐倉さんは花火好き?」
「ええ、大好きですよ。打ち上げ花火から線香花火まで、何でも好きです」
「だったら今夜、花火見に行くか?」
「あ、そう言えば今夜やるって先生言ってましたね」
「ああ。八時開始らしいから、それまでにはメシ食い終わらないとな」
 だったら少し早目にゴハン作らないと。
「でも佐倉さんだったら本当に線香花火が似合いそうだな」
「えへへ、ありがとうございます。あ、でしたら瑞穂さんは何でしょうね?」
「あいつは……、爆竹かな」
「それは瑞穂さんが可哀想ですよ」
 でも、あながち外れていないかも。
「ま、そんなことはどうでもいい。それより楽しみだなぁ、今夜」
「先生も花火がお好きなんですね」
「好きだよ。何かこう、綺麗なんだけど、どこか儚い感じがね。佐倉さんはどう?」
「私は……」
「うん」
「うさぎさんの方が好きです」
 いつの間にか小学校の近くにまで差しかかっていた。渚は視界の隅にとらえたウサギ小屋にふらふらと引き寄せられる。
「待った!」
 咄嗟に冬馬が渚の腕を掴む。
「あ、何するんですか?」
「引き留めてるんだよ。ほら、帰るぞ」
 うぅ〜、先生はまたそんな意地悪するんだからぁ。
「ちょっとだけですから」
「一事が万事、ちょっとがずっと。ほら、買った物も腐るだろ」
「あぅ〜、うさぎさーん」
「恥ずかしいなぁ、もう」
 力まかせに冬馬に引きずられながら、渚はずっとうさぎの方を見ていた。
 待っててね、うさぎさん。
 帰宅すると我に返った渚は冬馬に一頻り謝った後、急いで食材を冷蔵庫に詰めた。
「先生、お昼ゴハンはどうします」
「何でもいいよって言ったら困るだろうから、朝と同じで」
「わかりました」
 よかった、難しいものじゃなくて。
 時計を見るともう二時過ぎだった。
 おなか空いたから、すぐ作ろう。
 とりあえず朝の残りの味噌汁を温めながら、渚はフライパンに油を引いた。
 目玉焼きが焼き上がった頃、不意に玄関のチャイムが鳴った。
「あ、佐倉さんいいよ、俺が出るから」
 冬馬はソファから立ち上がり、玄関へと急いだ。が、数秒もしないうちにドアを閉めた。
「先生、どなただったんです?」
「新聞の勧誘だよ」
 と、またドアが開かれる。
「ちょっと、何が新聞の勧誘よ!」
「瑞穂さん?」
 姿こそ見えないが、確かに瑞穂の声だった。渚は急いで盛り付けを済ませ、玄関へ赴く。
「あ、渚ちゃん助けて。冬馬が私を追い返そうとするの」
「当然だ。昼間から呑んでられるか。それに俺は今からメシ食うんだよ」
「食べながらでも呑めるじゃない」
「味噌汁にビールが合うか!」
「ねぇー、いいでしょ? ほら、昨日相談に乗ってあげたじゃない」
 そうだ、先生と仲直りできたのも瑞穂さんのおかげなんだ。だったら……。
「先生、折角瑞穂さんもいらっしゃったことですし、少しぐらいなら」
「な、佐倉さん?」
 驚く冬馬に瞳を輝かせた瑞穂が詰め寄る。
「ほら、渚ちゃんもああ言ってることだしさ」
「……わかった、入れよ」
「さっすが冬馬」
 重そうな買い物袋を手に瑞穂が上がり込む。その様子を渚は微笑みながら、冬馬は溜め息をつきながら見ていた。
「とりあえず酒は俺達がメシ食ってからな」
「いいわよ。じゃ、冷蔵庫借りるね」
 買ってきたビールを瑞穂が冷蔵庫に詰める。
「あの、瑞穂さんもゴハン食べます?」
「いや、私は食べてきたから」
「そうですか」
 二人分の食事をテーブルに運び、冬馬と渚が食べ始める。渚の隣に座った瑞穂は何するわけでもなくその様子を眺めている。
「しかし渚ちゃん、料理上手だよね」
「そんなこと無いですよ。まだまだです」
「ま、辛島に比べれば誰でもそうだろうな」
「くぅ〜、腹立つわね」
「悔しかったら、目玉焼きの一つでも作れるようになってから文句を言うんだな」
 えっ、瑞穂さん……?
「ほら、佐倉さんも呆れてるぞ」
 慌てて渚はかぶりを振る。
「私も今、お料理を勉強している最中なので、よろしかったら瑞穂さんも一緒にどうです?」
「……えっと、どうしよっかな?」
「やるだけ自分が悲しくなるだけだぞ、辛島」
「大丈夫ですよ」
「佐倉さんもその辺にしとけよ。不器用女王に料理を覚えさせるのは、サルにブラインドタッチを覚えさせるくらい苦労するぜ」
「もう、うるさいわね。早く食べなさいよ」
 いつもより早いペースで食事を終えると、ようやく瑞穂の出番となった。いそいそと冷蔵庫からビールを取り出し、テーブルに置く。
「あ、私はいいですから」
 瑞穂に差し出されたビールを、渚は胸の前で小さく両手を振って断る。
「ビールがダメだったら、カクテルもあるよ」
「いえ、私はまだお仕事があるので」
「そっか、だったら仕方ないね」
「すみません」
 昨日いっぱい呑んだし、それに今から酔っ払ったら花火見れなくなりそうだよ。
「じゃ、佐倉さんには悪いけど、かんぱい」
 冬馬と瑞穂は缶を突き合わせると、ぐっと傾けた。
「あー、美味い」
「ほら、私が来てよかったでしょ」
「そうだな」
 先生も瑞穂さんもよく呑めるなぁ。
「ところで辛島、お前仕事はしてるのか?」
「愚問ね。私だって作家の端くれ、そこら辺はちゃんとしてるわよ」
「よく言うよ。大方今日だって亜紀さんから逃げて来たくせに」
「う、うるさいわね」
 ……亜紀さんて、誰だろう?
「ところで渚ちゃん、今日花火大会があるの知ってる?」
「はい。先生から教えてもらいました」
「だったら一緒に見に行こう」
「はい、喜んで。いいですよね、先生」
「ああ。こういうのは大人数の方がいい」
 冬馬は二本目へと手を伸ばす。瑞穂も間を置かずしてそれに続く。
「そう言えばさ、長田さんは元気?」
「何だ突然」
「いいから、どうなの?」
「まあ、元気だよ。別に変わった素振りは無いけど、何で?」
 瑞穂は缶を置くと、冬馬の方に乗り出した。
「実はね、亜紀さんと長田さん、ケンカしたみたいなのよ」
「へぇー、あの長田がね。何か一方的に負けそうな気もするけど」
「何でも長田さんが亜紀さんとの約束を忘れてたらしいのよ」
「珍しいな、あの長田が」
 ……盛り上がってるけど、亜紀さんが誰かわからないから、話に入れない。はぁ、何か退屈だな。
「でしょ。それでね」
 不意に電話が鳴り響き、二人の会話を中断させた。立ち上がろうとした冬馬を制して、渚が電話に出る。
「はい、北川です」
「あ……」
 相手は女性のようだった。が、渚が電話に出たからか、言葉を詰まらせている。
「あの、もしもし?」
「ああ、ごめんなさい。アナタ、北川の家に派遣されたメイドの佐倉渚ちゃんでしょ?」
「ええ、そうですけど」
 私のこと知ってるみたいだけど、誰?
「私は堀越亜紀。ところで北川はいる?」
「はい。今替わりますね」
 渚は受話器の口の部分をそっと手で押さえると、冬馬の方へ向き直った。
「先生、亜紀さんからお電話ですよ」
「亜紀さんから?」
 途端に瑞穂の体が強ばった。だが冬馬は逆にその姿を面白そうに横目で見ながら、渚から受話器を受け取った。
「もしもし」
 冬馬に受話器を渡した渚は、ソファに戻る。
 あの人が亜紀さんか。何か、余裕のある大人の女性って感じで、格好よさそう。
 声の感じから姿を想像してみる。
 きっと背が高くて、スタイルよくて……あ、目はキツイかも。
「ええ、はい、いますけど……」
「バカ!」
 冬馬の言葉に瑞穂が囁くように、だが力強くそう言い、冬馬を睨みつける。
「え? 今から来るんですか?」
 それを聞いた瑞穂が慌てて身支度を整えていると、突然玄関のドアが開いた。
「今、来たわよ」
 亜紀は携帯電話を切ると、つかつかと上がり込んできた。
「あ、亜紀さん……」
「この不良娘。昼間から原稿も書かないで呑んでるなんて、大層な身分じゃない?」
「あ、えっと……」
 瑞穂は目を活魚のように泳がせている。
「お前、やっぱりか」
「北川、アンタも瑞穂と一緒になって呑んで。まったく、どうしようもないわね」
「は、はは……」
 先生も瑞穂さんも、タジタジになってる。でも亜紀さんて、思った通りの人だ。
 そんなことを呑気に考えている渚に、亜紀が視線を投げかける。
「アナタが佐倉渚ちゃんね。結構カワイイじゃない」
「亜紀さんですね。初めまして」
「こちらこそ」
 渚の一礼に、亜紀が微笑む。
「さすがメイドね。礼の仕方がなってるわ。でも女としてはまだまだね」
 ……むぅ。
「さて北川、瑞穂を引き取りに来たんだけど、異論はある?」
「別に無いですよ」
「じゃ、そうさせてもらうわ。ほら瑞穂、行くわよ」
「ちょ、ちょっと痛いってば」
「お邪魔したわね」
「冬馬、渚ちゃん、ばいばーい」
 ドアが閉められると、何事も無かったかのような静寂が訪れた。
「……あの人にはかなわん」
「ですね」
 冬馬と渚は顔を見合わせると、一つ笑った。
「さて、片付けるとするか」
「いいですよ先生、私がしますから」
「いや、俺もやるよ。佐倉さんは洗い物の方をやってくれ」
 冬馬は呑みかけのビールを傾ける。
 先生にさせるのは気が引けるけど、ああ言ってくれているのを断るのも……。
「それでは、お願いできますか」
「まかせろ」
 優しく微笑む冬馬に渚も微笑み返すと、食器を台所へと運んだ。
 先生って御主人様なのに、私に気を遣い過ぎだよ。私はメイドなんだから、もっと仕事をまかせて自分の好きなことしていればいいのに。
 スポンジに洗剤をなじませ、茶碗を磨く。
 もっと先生は瑞穂さんに気を遣ったらいいと思うんだけどなぁ。
 洗い物を終えてリビングに戻ると、空き缶などがゴミ袋にまとめられており、テーブルの上は綺麗になっていた。
「どうもすみません、お手数かけてしまって」
「いいって。ここは俺の家なんだから、俺が綺麗にするのは当然だろ」
「でも」
「あんまり気負い過ぎるなよ。ま、それはそうとして、俺はこれからちょっと寝るから、メシになったら起こして」
「はい、わかりました」
 まだ少し残っている缶ビールを手にして、冬馬は書斎に消えた。
 書斎以外の掃除を一頻り終え、冬馬から借りた二冊目の本をきりのよいところまで読み終える頃には、四時半を回っていた。
「ちょっとお散歩でもしてこようかな」
 渚は書斎を一瞥してから家を出た。
「あー、気持ちいい」
 燦々と降り注ぐ陽光が時折流れるそよ風と相成り、体の中から疲れと眠気が消えていく。
「先生も寝てばかりじゃなく、こうしてお散歩すればいいのに」
 胸いっぱいに緑の匂いを吸い込む。
 ……こうしたこと考えられるのも、仲直りできたからなんだよね。先生もそうだけど、瑞穂さんやお姉ちゃんにも……。
「そうだ、お姉ちゃんに電話しよう」
 渚は近くにあった公衆電話の受話器を取ると、会社の電話番号をプッシュした。
 三度目のコールで受付嬢が出た。
「はい、こちら啓神メイド派遣所です」
「佐倉渚ですけど、中村遥さんにお取り次ぎ願えますか?」
「あ、渚? ちょっと待ってて」
 受付嬢が受話器を置いたらしく、またオルゴール調のカノンが流れる。昨日は悲しいだけのそれも、今日はどこか喜びに満ちているような気がした。
「もしもし、渚。あのね、遥は今出てるみたいなんだけど」
「あの、でしたら『私はもう大丈夫です』と伝えておいて下さい」
「わかった。じゃ、がんばるのよ」
「はい」
 通話を終えると渚はテレフォンカードをしまいながら、また歩き出した。
「がんばらなきゃ」
 小さくガッツポーズをしながら渚はきっと前を見た。その途端、
「そうだ、うさぎさんにも報告しなきゃ」
 ふらふらと目の前の小学校へ足を向けた。
「うさぎ、うさぎ」
 軽快なステップを踏みながらウサギ小屋へ近付くと、先客がいた。小学校中学年くらいのその少女は、いつも渚がしているように、一人で飽きもせずうさぎを見詰めている。
 わぁ、あの娘もうさぎさん好きなんだ。
「ねぇ、うさぎさん好きなの?」
 渚が後ろから声をかけると、少女はびくりと肩を震わせながらおずおずと振り返った。
「カワイイよね、うさぎさん」
「あっ……」
「ねぇ、うさぎさんのどこが好きなの?」
 屈託の無い笑顔を渚が向けた途端、少女は逃げ出した。
「えっ、待って……」
 だがすっかりしゃがみ込んでいた渚は、スカートが邪魔をして立ち上がるのが遅れた。しかしそれを差し引いても、少女の足はかなり速かった。
「あぁ〜」
 少女の姿が完全に見えなくなると、渚は肩を落とした。
「うさぎさん好きに悪い人はいないのに……」
 仕方なくもう一度金網の前にしゃがむ。
「あの娘、何かとても悲しい瞳をしてたけど、何かあったのかな……?」
 少女が一瞬自分に向けた瞳には、同年代の子供達には無い色があった。そう、どこか自分に、うさぎに似た色……。渚はそれを思い返しながらうさぎに問いかける。
「ねぇ、うさぎさん。あの娘は誰なの?」
 しかしもちろん答は返ってこない。
「……気になるなぁ。何であの娘、私を見て逃げたんだろう?」
 何がいけなかったのか必死に考えてみても、一向に答は浮かんでこない。
「また、会えるよね。ここに来れば、きっと」
 いつの間にか渚の周りには数人の小学生が集まっていた。
 あの少女が心に引っ掛かっていたからか、それとも今までの学習か耐性ができたのか、とにかく渚は今日、うさぎとの逢瀬をそこそこにして、帰宅することができた。
「ただいまです」
 リビングに冬馬の姿は無かった。
 先生、まだ寝てるのかな。
 ふと時計を見ると、もう五時半だった。
「早くゴハン作らなきゃ。今日は花火大会があるんだし、それに新しいお料理作るから急がないと」
 寝室から料理の本を取ってくると折り目をつけていたページを開き、台所に立った。
 レシピを頼りに何とか新メニューを作ると、次の料理に移ろうと冷蔵庫の前に立つ。
 が、不意に別の考えが頭に浮かんだ。
「そうだ、お風呂沸かそう。昨日入ってないから入らないと、汗臭いよね」
 料理を中断し、渚は風呂場に急いだ。
 二十分程して風呂が沸くと、渚は書斎に入り、電気を点けた。
「うぅ、眩しい」
 もぞもぞと冬馬が体を丸める。
「先生、お風呂が沸きましたよ」
「風呂? メシは?」
「ゴハンはもうすぐできますから、先にお風呂に入って下さい」
「わかった」
 寝惚け眼を擦る冬馬を書斎に残すと、渚はまたすぐに台所に立った。
 冬馬が風呂から上がり、渚も風呂に入るとすぐに夕食となった。新メニューの鶏団子の味噌汁を始めとして冷奴、じゃがいもとベーコンの炒め物、そして海鮮サラダがテーブルの上に並んだ。
「おっ、美味そうだな」
「今日はがんばりましたから。さ、先生、冷めないうちに食べて下さい」
「ああ」
 冬馬は鶏団子の味噌汁から箸をつける。
「これ、美味いな」
「えへへ、ありがとうございます」
 冬馬に続いて渚もそれを食べてみた。
 うん、私にしては美味しくできてる。先生もとっても喜んでくれているし、これからも色んなお料理にチャレンジしてみよう。
「しかし佐倉さんにばかりメシ作らせてると、俺の料理の腕が落ちていくな」
「先生、お料理なさるんですか?」
「するよ。と言っても人に食わせられるのはチャーハンくらいだけどな」
「チャーハンですか」
 私、美味しく作れないんだよなぁ。ゴハンがパラパラにならないし、味付けが丁度よくならないし……。
「ああ。俺のはヘタなラーメン屋のより美味しいぞ」
「でしたら今度、食べてみたいです」
「気が向いたらね」
 食べてみたいな、先生のお料理。
「それよりメシ、早く食おうぜ。あんまりのんびりしてたら、花火見れなくなるぞ」
「あ、そうですね」
 それでもいつもと変わらぬペースで食べ終えると、渚は急いで片付けに入った。
「先生、終わりましたよ」
 エプロンで手を拭きながら渚はソファでテレビを見ている冬馬に近付く。
「そっか。じゃ、行くか」
「あ、もう少しだけ待って下さい。今、着替えてきますから」
「早くしてね」
 渚は寝室に入ると、バッグに中から初日に訪れた時と同じ青いノースリーブのシャツにオフホワイトのスカートを取り出し、それに着替えた。
「お待たせしました」
「私服か。そのシャツ、いい色だね」
「そうですか?」
「うん。俺、青が好きなんだよ」
 えへへ、何か嬉しいな。
「では、行きましょうか」
 電車に乗り、花火大会が開催される河川敷に到着した頃には、七時四十分を少し回っていた。
「すごい人ですね」
「そうだな。ここではぐれると、ちょっと見つけるのが難しいな」
「ですね」
 河川敷は見物客や出店で大変混雑していた。少しでも離れてしまえば人の波に流され、冬馬の言う通り見つけるのは難しくなる。
 自然と冬馬と渚は寄り添いながら見やすい場所を求めて移動する。
「あっ」
「うん?」
 渚の視線の先には色々なキャラクターの袋に包まれたわたあめが所狭しと売られている出店があった。
「何だ、食いたいのか?」
「えっと……」
 欲しいけど、ここで買いに行ったら先生にまた迷惑かけちゃうかも。
「無理するなって。ま、まだ時間があるからちょっと寄るか」
「すみません」
 だが渚は嬉しそうに口元を綻ばせていた。
「すみません、これ下さい」
「はいよ、三百円ね」
 渚がサイフから金を取り出すより早く、冬馬が五百円払った。
「まいど」
 冬馬は店主からわたあめを受け取ると渚に手渡した。
「はい、佐倉さん」
「ありがとうございます。あ、今払いますね」
「いいよ、このくらい」
「でも……」
 悪いよ、幾ら何でも。
「いいから。これは今日のメシが美味くできた、俺からのご褒美だ」
「でも、やっぱり悪いですから払いますよ」
「金は払わず、何も言わず取っておけってば。これは御主人様としての命令だ」
「……はい、ありがとうございます」
 えへへ、先生って優しいな。
 渚はサイフをしまうと、冬馬に微笑んだ。
 見晴らしのよい位置に着くと、冬馬と渚は腰を下ろした。渚は袋からわたあめを取り出すと、冬馬に差し出す。
「先生、どうぞ」
「いや、俺は甘いものは食えないんだ」
「そうなんですか?」
「昔は大好きだったんだけど、十八になった頃ぐらいから食えなくなったんだよ」
 味覚って、変わるんだ。
「だからそれ、一人で食ってくれ」
「はい」
 もふもふと渚はわたあめを口にする。
「しかしメシ食ったのに、よく食えるな」
「甘い物は別腹ですよ」
「……女は幾つ別腹を持ってるんだよ」
「むぅ……」
 私、食いしんぼなのかな。こんなに食べたら、おなかプヨプヨになるかな……?
 渚が唇を尖らせていると、花火の打ち上がる音が夜空に響いた。冬馬も渚も慌ててその方向へ目を向ける。
 赤い大輪の花が、夜空に開いた。
「うわぁ」
 驚く暇も無く、次々と彩り豊かな花火が夜空のキャンパスを飾る。
「綺麗ですね……」
「ああ」
 うっとりとした視線を渚や冬馬のみならず、見物客全員が花火に送る。
「瑞穂さんも来られればよかったですね」
「そうだな。でもあれは自業自得だ」
「でも……あっ」
 一際大きな花火が闇を払う。
「はぁ……」
 渚はうっとりと目を細め、綺麗な花火を冬馬といつまでも眺め続けていた。
 花火大会が終わってアパートに帰ると渚は寝室に、冬馬は書斎に入った。今日は花火を見て疲れたから仕事はもういいと冬馬が渚に言ったからだ。
 連日の疲労が溜まっていた渚にとって少しありがたくもあったがその言葉は、同時にほんの少しだけの寂しさも与えた。
「……何でこんな気持ちになるんだろう」
 暗い寝室の布団の上で、渚はころりと寝返りを打ちながら考えてみた。
 だけど幾ら考えてみても、お世話をしていないからと言う答にしか辿り着かない。
「むぅ〜、でも何か違う気がする」
 その答に納得がいかなくとも、今はそれを答にするしかない。
「……もう眠いから寝よう。いつかきっとわかることだろうし」
 やがて考えることをやめた渚は、静かに瞼を下ろし、眠気に身をまかせた。

 ……ここは、どこだろう。
 気が付くと、私は白い建物の近くにいた。とても大きく見えるその建物はどこか寂しげで、見ている私まで何だか悲しくなる。
「ほら、どうしたの渚。みんなと遊びなさい」
 ……みんな?
 見知らぬお婆さんに背を押されて顔を上げると、ようやく私の目の前にたくさんの子供達がいることに気付いた。
 だけどその子達に見覚えは無い。
「さ、行きなさい」
 もう一度お婆さんが微笑みながら私の背を押す。けど、私はその輪に加わることを拒み続けた。
 楽しそうにボール遊びをしたり、ブランコでクツ投げなどをしている子供達全員、色が無くて怖かったから。だから私もそうなるのが怖くて、輪に入りたくなかった。
「どうして行かないの?」
 そう言って笑顔を向けるお婆さんの顔も、灰色だった。
「みんなと仲良くしないと、ずっと一人のままだよ」
 ずっと一人のまま?
 だったら私は今、一人なの?
 不意に心細くなって、目の前の景色が滲み始めた。辺りの風景はどんどん頬を伝っては消えていく。
「……帰りたいよ」
 自分の言葉に私ははっとなった。
 どこに帰るの?
 私は、どこから来たの?
 だけど溢れる涙は止められず、私は灰色の人々に囲まれながらもずっとそのままでいた。

 ここはどこなの?
 もしかして私も灰色なの? 教えて……。
 冷たく、悲しいだけの記憶……。