八月十日 金曜日

 あれ? 何で?
 起きると同時に二つの驚きが私を襲った。一つは何故か泣いていたらしいこと。もう一つは布団がかけられていたこと。
 これ、先生のお布団、だよね……。
 寝惚け眼を擦り、辺りを見回す。すると、徐々に現状が掴めてきた。
 私、いつの間にかここで寝ちゃったんだ。
 だが幾ら見回してみても冬馬の姿は無い。
「先生、どこ?」
 ゆっくりと体を起こし、書斎を出た。
 ……先生。
 冬馬はソファで寝ていた。布団もかけず、ソファの上で静かに寝息を立てている。
 私なんかに気を遣ってくれたんだ……。
 ふっと渚は微笑むと、すぐに自分にかけられてあった布団を冬馬にかけた。
「先生のためにも、がんばって美味しいゴハン作らなきゃ」
 ……でも、何作ろう。昨日先生は違うもの作ってって言ってたしな。
 台所の前で悩むが、答は出ない。
 ……先生が起きてから作ろう。
 台所を離れると、渚はアイロン台を立て、リビングでアイロンがけを始めた。
 掃除と同じくらい、アイロンがけは得意であり、好きな仕事の一つだった。しわしわの服が新品になっていくような感覚が、やっていて楽しく思えるのだ。
 アイロンがけを終えると、次に寝室の掃除、そして窓拭きへと仕事を移した。
 今日も暑いな。
 窓を拭きながら額に滲み始めた汗を手の甲で拭っていると、冬馬が呻きながら目覚めた。
「……暑い」
「おはようございます、先生」
 だが冬馬はいつになく不機嫌そうだ。
「このクソ暑いのに布団なんかかけるなよ」
「すみません。あの、すぐに麦茶をお持ちしますね」
 慌てて渚は冷蔵庫へ急いだ。
 差し出された冷たい麦茶を一口飲んだ冬馬は、ようやくいつもの顔に戻っていた。
「……さっきはゴメンな」
「いいえ、先生が謝ることはありませんよ。私が至らなかっただけです」
「いやいや。あのまま寝てたら腹冷やすとこだったよ」
 冬馬はゆっくりと麦茶を飲む。
「しかし暑いな。俺みたいなジジイには耐え難いものがあるよ」
「私も辛いです。何でも今日も三十七℃を越えるみたいですし」
「夏は俺を殺す気だな」
 先生ったら、真剣に言ってる。
「そうそう、佐倉さん」
「はい。何ですか?」
 ゴハンかな。私、おなか空いたから、もう食べたいよ。
「佐倉さんて割といい体してるんだね」
「えっ?」
 な、何言ってるの?
「いやぁ、夢の中で佐倉さんが全裸で俺に迫ってきてね」
「そんな夢、見ないで下さい」
「よかったなぁ」
「思い返さないで下さい」
「何だよ、俺の妄想権を侵害する気か?」
「恥ずかしいですから、思っていても言わないで下さいよ〜」
 も〜、朝からやめてよ。
「……そっか。じゃあもう言わないよ」
 冬馬はじっと渚を見詰める。
「先生〜、じっと見るのもダメです」
「注文が多いな」
 渚は一つ溜め息をついた。
「あの、先生。ゴハンはどうします?」
「メシか。そうだな……今日はミートソースでも作ってもらおうかな」
 ミートソース?
「あの、でも買っていませんよ」
「台所の引き出しの中にある筈だ。粉チーズは冷蔵庫の中」
「わかりました」
 ペコリと頭を下げると渚は台所に立った。
 ……スパゲッティはアルデンテが命だった筈だけど、アルデンテって何だっけ?
 ともかく麺を茹でるためのお湯を沸かした。
 十五分後、何とかそれらしいものができた。渚はおずおずとそれを冬馬の前に差し出す。
「じゃ、いただきます」
「いただきます」
 失敗は特に無いと思うけど……。
 心配する渚とは裏腹に、冬馬は黙々と食べ続けている。
「あの、どうですか?」
「美味いよ。ほら、冷めないうちに食べなよ」
「はい」
 よかった、美味しくできてる。
 空腹だったことを差し引いても、割とよい出来だった。
「先生って、随分ゆっくり食べるんですね」
 冬馬の方が少し多く盛ってあったが、それでも皿にはまだ半分程残っている。一方渚の皿はもう残り少ない。
「いや、ゆっくりじゃないと食えないんだ」
「そうなんですか」
「ああ。毎日酒呑んでるから胃がボロボロなんだろ、入っていかないんだ」
 先生、毎日二日酔いのあんな感じなの?
「辛いでしょうね」
「ま、慣れたよ」
「でも、いっぱい噛んでゆっくり食べるのは、体にいいんですよ」
「そうらしいね」
 食事を終えると冬馬はしばらく新聞を読んでから書斎に入り、渚は後片付けをしていた。
「……はぁ」
 何だか疲れが溜まっている。実労働によるものか、それとも気疲れなのか今一つ判然としないが、とにかく体が重い。
「何でだろう?」
 問いかけても返してくれる者はいない。
「がんばらなきゃいけないのにな」
 渚は最後の一皿を拭いた。
 洗濯機を回している最中は特に何かしようと思わなかったので、ぼんやりとソファに座りながらゴシップ専門の番組を観ていた。
「何で母親が自分の子供を殺すんだろう?」
 母親による幼児虐待に胸を痛め、
「あ、別れたんだ」
 芸能人の離婚に驚き、
「綺麗だなぁ」
 とある豪邸のシャンデリアに感嘆していると、いつの間にか洗濯機が止まっているのに気付いた。
 洗濯物を外に干し終え、暑さにやられた体を潤すように麦茶を飲みながら料理の本を読んで勉強していると、不意に電話が鳴った。
「はい、北川ですけど、どちら様でしょうか?」
「二階堂だが、君が佐倉渚かい?」
 電話越しに響くその声はとても威圧的な感じがしたけど、同時にどこか愛嬌を感じさせるような言い方だった。
「はい、そうですけど。あの、二階堂宗司さんですよね?」
「そうだ」
 この人が、私を先生の許へ送った人なんだ。
「ところでどうだ、そこで働いてみて」
「えっ?」
 何か唐突って言うか、単刀直入に話す人だなぁ。……ところで先生に用事じゃないの?
「北川にコキ使われて大変だろ?」
「そんなこと無いですよ。先生はとてもいい人で、私にもよくしてくれています。それに私はお世話するのが好きなので、大変だなんて思っていません」
「そうかそうか」
「あの、一つよろしいですか?」
「何だ?」
「私を先生に紹介して下さったのは二階堂さんですけど、どうして私だったんですか?」
「……」
「会社には私よりもずっとよいメイドがいるのに、何で……」
 依頼を受けたその日の夜、私はメイド長の許へ行った。どうして私に仕事を与えたのか、何故本来ならばまだ人にお仕えできる年齢に達していない私なのか、と。
 困惑していた私に、あの時言われた言葉が、『あなたでなければ務まらないと、依頼人である二階堂氏から直々に言われたからです』だった。
 私でなければ務まらないとは一体何なの?
 二階堂さんは私を知っているの?
 親も、家も何も無い私を……。
「……北川のためだ」
 何なの、答になってないよ。
「先生のためとは、一体何なんです?」
「あいつはああ見えても、深い悲しみの中で生きている奴なんだよ」
 先生が?
 とても信じられない言葉だった。あの明るくて、優しくて、大酒呑みでエッチな先生が深い悲しみの中で生きているだなんて……。
「だから、よりよい作品を書いてもらうために、それを紛らわせられる人間が欲しかった。それが渚だったってわけだ」
「えっ?」
 今、私のこと渚って呼んだ?
 男に人に、それも顔も見たことの無い人にそう呼ばれるなんて思ってもいなかった。
 でも、少し考えれば何てこと無いのかもしれない。呼び方なんて人によって違う。たまたま二階堂さんはそう呼ぶだけなんだろう。
 だけど、不思議な感じがした。
「ああ、それより北川はいるか? いるなら仕事の話がしたいんだ」
「あ、はい。少々お待ち下さい」
 受話器をそっと置くと、渚は書斎の襖を静かに開けた。
「先生、二階堂さんからお電話です」
「わかった。今行く」
 冬馬がペンを置き、書斎を出て受話器を手にすると、自分がいてはきっと話づらいこともあるだろうかと思い、渚は寝室に入った。
「先生が、深い悲しみを背負っているなんてとても信じられないよ」
 だがもしそうなら、これまで以上に自分が元気を与えなければならない。そのためにはミスの無いよう、お世話しなければならない。
 渚はぎゅっとスカートを掴んだ。
「でも、本当に何で私だったの?」
 そんな先生を紛らわせるためと言われても、どうして私なのかがよくわからない。どうして他の人だとダメなんだろう。
「もう、答になってないよ……」
 自然と溜め息が漏れた。
 幾らかして寝室の襖が開かれた。
「佐倉さん、俺はこれから寝るんで、七時くらいに起こしてくれ」
「わかりました。それではおやすみなさい」
 襖が閉められると、冬馬が書斎に入る音が聞こえた。
「私もがんばらなきゃ」
 一つ頷くと、渚は立ち上がった。
 掃除、洗濯など一通りの家事を終えると、渚はソファで料理の本を読み始めた。
「何を作ったら先生は喜んでくれるんだろ?」
 自分から細々と訊くのには気が引けた。そうしてしまうと一人では何もできないメイドだと思われてしまいそうな気がした。
 だがこうして考えていても答など見つからない。それどころか迷いばかりが先行する。
「……お散歩にでも行こう」
 本を閉じると溜め息をつきながら立ち上がり、書斎を一瞥した。
 戸締まりを確認し、ゆっくりとアパートの階段を降りる。外はかなり暑かったが、今は逆にそれが心地よく感じた。
「今日もいい天気」
 ゆっくりと辺りの風景を眺めながらそぞろ歩いていると、先の方に見覚えのある女性の姿が見えた。
「こんにちは、瑞穂さん」
「あ、渚ちゃん、こんにちは。何してるの?」
「お散歩です。瑞穂さんはどうしているんですか?」
「私も散歩。そしたら一緒にそこら辺をぶらぶらしない?」
「いいですよ」
 渚と瑞穂はとりあえず商店街の方へと足を向けた。
 この辺りはほとんどが住宅街なので、町を包むものは流行の音楽などではなく、子供や蝉の声である。ゆったりとした時間を感じられるのも、まだまだ残る自然のおかげだろう。
「ねぇ、渚ちゃん」
「何ですか?」
「正直な話、冬馬ってどう?」
「とてもよい御主人様ですよ」
 その言葉に瑞穂が苦笑を浮かべる。
「もっと正直に話そうよ。ほら、色々苦労してる面とかあるでしょ?」
「えっと……」
「セクハラとかされてない?」
「それは無いですよ。でも、エッチなことはよく言われますね」
「やっぱり」
 同情するように瑞穂は渚の肩を叩いた。
「瑞穂さんも言われるんですか?」
「今はそうでもないけど、昔はね」
「先生って昔からそうなんですか?」
「ま、基本的には今と何も変わってないわね。毎日お酒呑んでいたみたいだし、サークルの女の子には下ネタ言ってたし、人付き合いはそれ程好きじゃなかったみたいだし」
 確かに今の先生とあまり変わってない。
「後はそうね、出無精で凝り性、授業のサボリ王ってとこかな」
「……あの、いいとこは無いんですか?」
「冬馬のいいとこ……」
 瑞穂は腕組みをしたが、すぐにそれを解き、落としかけた視線を渚に戻した。
「責任感が強いのと、世話好きってとこかな」
「そうなんですか」
「うん。仕事は無理してでもきっちりこなしていたし、私を含めて後輩とかにゴハンとかお酒とかおごってたしね」
 自分が仕える主人が褒められると、何だか自分も褒められているような気がして、渚は気恥ずかしそうに微笑んだ。
「でも、怖い面もあるんだよ」
「何です?」
 ふっと渚の顔から笑みが消えた。
「冬馬って大抵何を言われても戯けて流すんだけど、自分の小説をバカにされたり軽く見られたりするとメチャクチャ怒るのよ」
「そ、そうなんですか?」
「一度だけその冬馬を見たことがあるのよ。あれは確か私が大学二年の頃だったかな、外で冬馬と呑んでた時に偶然意気投合した女の人がいたんだよね。その人が普段小説を書いているって言った冬馬に向かって『どうせヘンな小説ばかり書いてるんでしょ』って言った途端、冬馬がすごい剣幕で怒ったんだよね」
「それで、どうなったんです?」
「その人はさっさと帰って、私は冬馬をなだめるのに必死だったわよ。ま、お酒が入っていたとか、あの人が悪いってのもあるけど、それ以上に自分の大切にしているものを侮辱されたってのが一番大きかったんだろうね」
「……」
「そんなに脅えなくっても大丈夫よ。冬馬は筋の通った意見に対しては素直に聞くんだし、普段はそんなこと無いから」
「気を付けます」
 私が知らない先生。それを怖いと思う一方、見てもみたいとも思う。そしてそれを知っている瑞穂さんが少し羨ましい……。
 商店街に着くと渚と瑞穂はウインドーショッピングを楽しんだ。小さな店しかないので、商品自体それ程の種類は無かったものの、渚はほんの僅かな間、メイドではなく普通の少女として立ち回れた。
「いやー、やっぱり見てると欲しくなるね」
「えへへ、そうですね」
「私が言うのも何だけど、渚ちゃんはもっとオシャレを楽しんだ方がいいよ」
「オシャレ、ですか」
「そう。適度なオシャレってのは、心の余裕になるんだよ」
 そうなんだ。そしたら私も少し考えてみようかな。
「あ、私はそろそろ帰ろうかな」
「はい。それではお気を付けて」
「それじゃ渚ちゃん、今日は楽しかったよ」
 瑞穂は手を振りながら駅の方へ消えた。
「さて、私も帰ろっかな」
 渚は夏の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、冬馬の待つアパートへと歩き出した。
 出たときと同じようにのんびりと辺りの風景を楽しみながら歩いていると、一陣の風が渚を包んだ。
「あ……」
 うさぎさんの匂いだ。
 ふらふらと渚は小学校へと歩を進めたが、すぐに立ち止まった。
 ダメだよ、行ったらまた遅くなる。そしたら先生、きっと怒るに決まってるよ。
 だが一度感じたものは、なかなか忘れられない。それどころか、忘れようとする程に、意識してしまいどうしようもなくなる。
 うぅ〜、行ったらダメだよ。先生のお世話しなきゃならないんだから……。
 思いとは裏腹に足が小学校へ向かう。
 あぅ〜、切ないよぉ。でも、先生のためにがんばるって決めたんだから。今は寝ている先生が起きた時のためにゴハンを作ら……。
 ふと渚の理性の動きが止まった。
 そっか、先生寝てるんだよね。だったら遅くならない程度だったら、いいよね。
 渚は一目散にウサギ小屋へと走った。
「えへへ、会いに来たよ」
 金網の前にしゃがみ込むと、渚は満面の笑みを浮かべて手を振った。
「あ、うさぎのお姉ちゃんだ」
 渚を見るなり、校庭で遊んでいた小学生数人が駆け寄って来た。だが渚はそれには全く気を留めず、ひたすらうさぎに熱い眼差しを送り続けている。
「ねぇねぇ、うさぎさんもオシャレに気を使ってるんだよね? だからそのもこもこの体に白とか茶色とか入ってるんだよね?」
 それを聞き、何人かがクスクスと笑う。
「瑞穂さんにも言われたけど、私はもっとオシャレした方がいいのかなぁ?」
 同年代の友人が一人もおらず、かつ幼い頃から会社で過ごしてきた渚に取って、身形を着飾ることにはほとんど覚えが無かった。
 だからどこをどうしたらオシャレなのか今一つわからないし、仮にそうしたとしても自分に似合うとは思えなかった。
「……難しいね。私、わかんないよ」
 しばらくそうしていると、小学生の一人が渚の顔を覗き込んできた。
「そろそろ晩ゴハンだから、私帰るね」
 それを合図に「僕も」「私も」と渚に背を向けた。
「お姉ちゃんは帰んなくてもいいの?」
「うん。もう少しだけここにいる」
「それじゃ、ばいばーい」
 すっかり周りに人がいなくなっても、渚はウサギ小屋の前から離れようとはしなかった。
「私、わかんないことだらけだよ。先生のことも、普通の女の子ってことも、派遣されたことも、自分のことも……」
 大きな溜め息をつくと、一匹のうさぎが近寄って来た。
「うさぎさんだけだよ、わかってくれるのは」
 陽も沈み、辺りが大分暗くなってきた頃、不意に渚は肩を叩かれ、驚いて振り返った。冬馬かと思ったが、そこに立っていたのは四十過ぎの男性だった。
「そろそろ門閉めるから、あんたも早く帰りなよ」
「え、……あっ」
 備え付けの時計に目を移すと、もう七時過ぎだった。
 私、またやっちゃった。
 渚は男性に頭を下げると、急いでアパートへと駆け出した。
 ドアを開けるのがひどくためらわれたが、開けないわけにはいかない。冬馬がまだ寝ていることを願いつつ、渚は二度三度深呼吸してからドアノブに手をかけた。
「……遅い」
 リビングでテレビを見ていた冬馬が苛立ちをあらわに、渚の方へ顔を向けた。
「すみません、先生」
 深々と渚は頭を下げる。
「暇な時は自由にしていても文句は言わないけど、こういうことされると困るな」
「申し訳ありません……」
「メイドとして来てるんだから、もっと自覚を持ってくれよ」
 その一言が渚の胸に深々と突き刺さった。
 メイドなのに、私はメイドらしからぬことばかりやって、先生に迷惑かけてばかりいる。だったら私は一体何なの……?
「……ま、早くメシ作ってくれ。腹減った」
「はい。すぐにお作りします」
 渚はもう一度頭を下げてから台所に立った。
 今日こそ新しい料理に挑戦しようと思っていたのだが、この状況ではそれもできない。仕方なく渚はいつも通り、焼き魚をメインにした和食にした。
「すみません、先生」
「もう謝らなくてもいいよ」
「いえ、そうではなくて。お料理、新しいの作れなくて……」
「それもいいよ。こうしてメシが食えるだけでも、俺は感謝してるんだから」
 冬馬は渚に優しく微笑みかける。
「それより佐倉さん、一つ訊きたいんだけど」
「はい、何ですか?」
「今日もきっとうさぎを見てたんだろ?」
「はい。すみませんでした……」
 小さくなる渚を慌てて冬馬が制する。
「だからもういいってば」
「はい。あの、ところでそれがどうしたんですか?」
「佐倉さんてうさぎ大好きなんだろ? で、何でそんなに好きなのかなって」
 私と、うさぎさん……。
「えっと、巧く言えないんですけど、ただ好きなだけじゃないんです。何て言うか、私の大切な一部と言う感じがするんです」
 私の記憶の奥にうさぎさんが見えるけど、どうして好きになったのか、大切に思えるのかと言う記憶が遠過ぎて見えない……。
「ふーん、そうなんだ」
「はい。どこか遠くに忘れてきた大切なものを見つけたような気がして、うさぎさんを見るとついつい我を忘れてしまうんです」
 悪い癖だとわかってるんだけどなぁ。
「先生は何かそう言うのありますか?」
「そうだな。特にこれと言って無いけど……」
 冬馬は口に運ぼうとした箸を下ろした。
「裸の若い姉ちゃんが艶っぽいポーズで俺を誘ってきたら、そうなるかもな」
「先生……」
「男なら誰しも、だ」
 もー、私のはそんなんじゃないんだから。
 夕食を終え、書斎に入ろうとした冬馬が、襖に手をかけたところで、思い出したように渚の方へ振り返った。
「あのさ、コーヒー作ってくれないか。そこにあるインスタントのやつでいいから」
「わかりました」
 冬馬が書斎に消えると、渚は片付けを後回しに、お湯を沸かし始めた。
 ……がんばらなきゃならないって思ってるのに、何でできないんだろう。やることはたくさんあるのに、何もできていない……。
 想いが空回りにしかならない。そんな自分に苛立ちが募る。
「はぁ、何だか疲れちゃった」
 コーヒーができると、渚は書斎に入った。
「お、ありがと。机の上に置いてくれ」
「はい」
 言われた通りに机に置こうとした途端、
「あっ」
 つい足が滑り、原稿の上に派手にコーヒーをこぼしてしまった。
「何やってんだよ、この野郎!」
 穏やかだった冬馬が一変し、凄まじい見幕で渚を怒鳴りつけた。
「す、すみません。今、拭く物持ってきます」
「早くしろ!」
 頭の中が真っ白になったまま、渚は台所へ急いだ。そうして適当な布巾を持ってくる。
「あの、すぐに拭きますので」
「触るな!」
 今にも泣き出しそうな顔で身を竦ませている渚から、冬馬は布巾をひったくる。
 幾ら拭いても原稿はコーヒーの染みでもう文字が見えなくなってしまった。それでも何とかしようと、冬馬は丁寧に拭き続ける。
「あ、あの……」
「くそっ!」
 冬馬は布巾を襖に投げ付けた。
「すみません、すみません先生」
 ぼろぼろと渚の瞳から涙が溢れる。
「もう今日はいい。それ持って出てけ」
 必死に怒りを堪えながら冬馬は憮然と言い放つ。
「先生……」
「早く出てけって言ってんだろ!」
「は、はい」
 渚は布巾を拾うと、頭を下げながら書斎を出た。その拍子に涙が二粒三粒こぼれ落ち、畳を濡らした。
 布巾をテーブルに置くと渚は寝室に入り、電気も点けずに布団にうつぶした。
 どうしよう、どうしよう。私、やってはいけないこと、やっちゃったよ……。
 暗い視界が、更に暗く滲む。
 瑞穂さんに言われてたのに、言われてたのに私は先生の一番大事なものを……。
「私が、私が見たいなんて思ったからだ。私の知らない先生を見たいなんて思ったから、こんなことになったんだ……」
 悔やんでも悔やみきれない失敗。泣いても泣いても一向に消えない罪悪感。それらが先程の冬馬と相成り、渚を暗く深い悲しみの中へと落としていく。
 がんばることもできず、ちゃんとお世話することもできず、先生に迷惑ばかりかけている私は、一体何のためにここにいるの?
 私は何しにここに来てるの?
「こんなの、メイドじゃないよ……」
 一つ、
「メイドじゃなかったら、私は何なの?」
 また一つ、
「私、からっぽだよ……」
 自分の言葉と共に溢れる冷たく重い涙が、胸をえぐり続けていた。