八月九日 木曜日

「バカ、こっち見ないでよ!」
 うぅ、何? もう少し寝かせて……。
 瑞穂の声がリビングに響き渡るが、渚は依然夢見心地の中にいた。
「渚ちゃん、起きて。大変よ」
「何ですか〜、瑞穂さん」
 瑞穂に揺り起こされ、渚が重い瞼を開く。
「あれ? 何で瑞穂さんそんな格好してるんです? 風邪ひきますよ」
 う〜、頭痛いよぉ。気持ちも悪いし。
「渚ちゃんもだよ」
「私はそんなにいい体してませんよ〜」
「違う違う。ほら、自分の姿をよく見て」
 自分……ええっ? 何で?
 瑞穂と同じように、渚もあられもない下着姿だった。ソファの側には二人の服が脱ぎ捨ててあるものの、どうしてそうしたのかは謎だった。
「な、何で私、こんな……」
 先生に見られた?
「私もわかんない……」
「……とりあえず着ましょうか」
 服を拾い集めると、渚と瑞穂は具合の悪い顔を突き合わせた。
「冬馬に見られちゃったね」
 ……うぅ、恥ずかしいよぉ。
「でも、このままじゃ何だから、ちょっと冬馬に痛い目見せようよ」
「痛い目って、何です?」
「まぁ、私にまかせて。渚ちゃんは黙って悲しそうにうつむいてるだけでいいから」
「え、あ、……はい」
 不敵な笑みを浮かべる瑞穂の迫力に負け、渚は頷いた。
「あの、瑞穂さん。一つ、いいですか?」
「何?」
「瑞穂さん、本当はどうして私達があんな姿だったのか知っているんじゃ……」
 おずおずと訊ねる渚に、瑞穂が顔を寄せ、耳元でそっと囁いた。
「多分、私達が昨日酔って自分で脱いだんだと思う。でも、ばらしちゃダメよ」
 そうなの? ……うん、そうだよね。先生が無理矢理なんて、酔っていても無いよね。
「わかった?」
 渚は小さく頷いた。
「……冬馬、いいよ」
 低く沈んだ瑞穂の声。その声に導びかれ、申し訳無さそうな冬馬が三人分の麦茶を持って現れた。
「……すみません」
 冬馬から麦茶を受け取ると、渚は瑞穂との約束とは関係なくうつむいたままでしかいられなかった。
 うぅ〜、先生に見られたんだよね?
 瑞穂に比べてボリュームの少ない自分の体がみじめに思え、またそれを男であり主人である冬馬に見られたことが、より一層渚の心を沈ませていた。
「……見たでしょ」
「え、あ、……うん、まあ、な」
 やっぱり見られたんだ。
「昨日のこと、ちゃんと覚えてる?」
「……いや、途中からよく覚えてない」
「それじゃ、冬馬が私と渚ちゃんの服を脱がせたこと、覚えてる?」
 えっ、瑞穂さん何を……。
 うつむいたまま目だけ上げると、先生が力無く首を横に振る姿が映った。
「……いや、それは覚えてない」
 何だか、先生が可哀想。私、御主人様をこうして苦しめていていいの……?
「冬馬、そしたらアンタは私と渚ちゃんを無理矢理抱いたことも……覚えてないわけ?」
 瑞穂さん、それはやり過ぎですよ……。
 ねぇ、昨日何があったの? 私達は一体、何をしたの?
 ……うぅ、思い出せないよぉ。頭が痛いだけで、何も思い出せない。何か楽しかったとは覚えてるんだけど……、誰か教えて。
 上目でもう一度渚が冬馬の方へ目を遣ると、がっくりと肩を落としながらこちらを見ているのが映った。
 うぅ、先生……。
 どうしようもない程の罪悪感が胸を貫く。
 瑞穂さん、ゴメンなさい。私、もうこれ以上先生を苦しめるのには耐えられないよ。
 渚は今にも泣き出しそうな顔を上げると、勢いよくそれを下げた。
「すみません、先生」
「えっ?」
 何が一体すまないのかわからない冬馬は、ぽかんと口を開けて渚を見詰める。
「あー、渚ちゃんばらすの早いよ」
「は? ばらす?」
「でも私、もうこれ以上先生が苦しんでいるのには耐えられません」
 申し訳無さそうに頭を下げる渚に瑞穂は何も言えず、大きな溜め息をついた。
「あーあ、もうちょっと楽しんでいたかったんだけど、まぁ仕方ないか」
「……おい辛島、お前まさか」
「そ、考えてる通りのまさかよ。今までのはぜーんぶ嘘。いやー、しかしものの見事にひっかかってくれるもんだから、おかしくておかしくて。私、やっぱり話を作るセンスがあるんだわ」
「……この野郎」
「何よ、アンタだって私達の下着姿見たじゃないの」
 瑞穂の一言に冬馬は悔しそうに歯噛む。
「だからこれでチャラでいいでしょ」
「……すみません、先生」
 渚がまた頭を深々と下げると、冬馬は諦めたように一つ息を吐いた。
「……わかったよ。ほら、佐倉さんももういいから。実際見ちゃったんだし」
 おずおずと渚が顔を上げる。
「しかし昨日は大分呑んだな。久々に記憶が飛んだよ。頭は痛いし、気持ちも悪い」
「私もよ。ホント、何でこんなに呑んだんだろうね?」
 三人がほぼ同時に目の前のテーブルを見た。テーブルの上は隙間が無いくらい空き缶などで埋め尽くされている。
 これ、本当に私達で呑んだの……?
「渚ちゃんは大丈夫?」
「あ、はい。何とか」
「強いな。もしかしたら佐倉さんは俺や辛島以上なんじゃないの?」
 渚は慌てて胸の前で小さく両手を振る。
「そんなこと無いですよ」
「ま、何にしろ昨日は楽しかったわ」
 瑞穂が一息で麦茶を飲み干すと、すっくと立ち上がった。
「お、帰るのか?」
「うん。おなか空いたし、帰って寝たいしね」
「あの、朝ゴハン作りますから、どうぞ召し上がっていって下さい」
 瑞穂は苦笑を浮かべる。
「いや、いいよ。きっと胃が受け付けないだろうから。しかし渚ちゃん、よくあれだけ呑んだ後に食べる気になれるね」
「食べないと体に悪いですから」
「……すごいわ」
 私、食いしん坊なのかなぁ。
「ま、それじゃ冬馬、渚ちゃん、またね」
「ああ、気を付けて帰れよ」
 パタンとドアが閉まり、瑞穂の気配が消えると、冬馬が気怠そうに伸びをした。
「さーて、片付けるかな。……と言っても、コレを見るとやる気を無くすな」
「あ、いいですよ先生。私が全部やります」
「一人じゃ無理だろ。俺もやるよ」
「でも先生、調子悪そうですよ。ゆっくり休んでいて下さい」
「佐倉さんも顔色悪いよ」
「私は大丈夫ですよ」
 そう言って元気よく立ち上がってみたが、急に目の前が暗くなり、またすぐにソファに沈んだ。
 あぅ〜、気持ち悪いよー。
「ほら、やっぱりダメじゃないか」
 ……ダメなメイドだなんて思われたくない。
「だ、大丈夫ですよ。ほら、立てますし」
 ソファの背に手を添えてようやく立つも、やはり渚の体はフラフラとしている。
「手、離せる?」
「離せますよ。ほら……きゃっ」
 ガッツポーズを作ろうとした途端、渚はバランスを崩し、テーブルへと倒れた。が、間一髪冬馬が渚を受け止めた。
「無理するなよ」
「……すみません」
 うぇー、恥ずかしいよぉ。
 冬馬は渚をソファに戻すと、自分も崩れるように深々と腰を下ろした。
「じゃ、二人で片付けるか。その方が早く終わるだろうし」
「でも……」
「いいから、ほら。さっさとやろうぜ。俺はゴミを片付けるから、佐倉さんは洗い物とかをしてくれ」
「はい。……あの、先生」
 食器を重ねながら渚は上目で冬馬を覗いた。
「ありがとうございます」
 小さく頭を下げると、渚はフラつく足取りで逃げるように台所へと向かった。
 はぁ。私ってダメだな。
 食器を洗いながら渚は溜め息をつく。本来ならば自分が世話をし、気遣う立場でいなければならない筈なのに、主人である冬馬にもそれを負担させている。
 何であんなに呑んじゃったんだろ……。
 場の雰囲気に流され、自分を制御できずに一緒になって騒ぎ、呑み潰れてしまった。そうせざるを得なかったと言うのは簡単だが、それは言い訳に過ぎない。
 私がしっかりしなくちゃいけないのにな。
 長年の教育がしっかり身に付いているものだと思っていた。だが一度こうなると、それがいかに甘い支えだったと思わざるを得ない。
 ……メイドって難しい。
 洗い物を一通り終え、テーブルを綺麗に拭くと、渚は冬馬の向かいに座った。冷たい麦茶が心地よく体に染み込んでいく。
「ようやく落ち着いてきたよ」
「私もです」
「しかし俺もだけど、佐倉さんも呑んだなぁ。昨日は大分酔っ払っていたみたいだし」
「……すみません」
 謝る渚を、冬馬が慌てて制する。
「別に謝る必要なんて無いって。酒の失敗は失敗のうちに入らないんだよ。ま、でも昨日はいいもの見させてもらったけどな」
 顎に手を当て、冬馬が口の端を歪める。
「あの、何ですか。いいものって……?」
「辛島と佐倉さんのキスシーン」
「ええっ?」
 私、そんなことしたの? ……でも、またきっと先生の冗談、だよね。
「酔った辛島が佐倉さんのほっぺにチューしてよ、そりゃすごかったぜ。佐倉さんもまんざらでない様子だったし」
 渚は慌てて両頬を触る。
 瑞穂さんが、私に……?
「その後、『私が先生にしてあげます』って」
 あぅ〜、覚えてないよー。本当に私、そんな恥ずかしいこと言ったの?
「あの、それで私は……」
「残念ながら俺にはしてくれなかったな」
「あ……よかった」
 ほっと渚は胸を撫で下ろす。
「なーんもよくないよ。俺もされたかったな。だったら十倍にして返したのに」
「せ、先生〜」
 何でそんなこと言うの? 私より瑞穂さんの方がいいじゃない。……って、そういうことでもなくて、あー、もう、恥ずかしいなぁ。
「照れるなって」
「先生、まだ大分酔ってますね?」
「俺はもう素面だよ。悪かったね、いつも酔っ払いみたいでよ」
「あ、えっと……」
 ああ、私ったら……。
「ま、俺はアル中作家と思われても仕方ないと思うけど、でも実際そう思われると辛いな」
「いえ、そういうわけではなくて、その……」
「いいんだけどね、別に」
 冬馬は渚から顔を逸らす。
 どうしよう。どうしたらいいの?
 しばしの沈黙。気まずい空気がリビングを支配する。
「あの、先生」
「なーんて、驚いた?」
 意地悪そうに冬馬が渚に笑顔を向けた。
「そんなことで怒りはしないよ。俺は心の広い人間だからな」
 何で、何で先生はそうやって私をからかうの? 私をからかって楽しいの?
「……先生は意地悪です」
「そう。俺は心は広いけど、卑劣な人間なんだよ」
 冬馬は残りの麦茶を飲み干す。
「さて、俺は少し寝るかな。佐倉さんもまだ大分酒が残っているだろうから、あまり無理しないで少し寝た方がいいよ」
「あ、はい。では、おやすみなさい」
「はい、おやすみ」
 冬馬は軽く手を上げながら書斎に消えた。
 一人になった渚は麦茶を飲み干すと、クーラーポットから継ぎ足した。
 先生って意地悪なのか優しいのか、子供なのか大人なのかわかんない。何だか自分から嫌われようとしているみたいだし、そうでないみたいだし……。
 不意に遥が言っていた言葉が思い浮かぶ。
 やっぱり、芸術家タイプの人って気難しい人が多いのかな。みんな、先生みたいな人ばかりなのかなぁ。
 渚は書斎の襖を一瞥する。
 先生って、変わった人だなぁ。全然本当の先生が見えてこないよ。
 コップに口をつけ、ちびちびと麦茶を飲む。そうしながら時計に目を遣ると、もう二時になろうとしていた。
「おなか空いたな」
 さすがに夕食まで待てそうになかったので、悪いと思いつつも冷蔵庫から昨日のラーメンサラダに使った麺の残りを使い、冷やし中華を作った。
「いただきます」
 一口食べたところで、渚の箸が止まった。
 瑞穂さんの言ってた通りだ。胃が受け付けてくれない。うぅ〜、おなか空いてるのに食べられないって、辛いよぉ。
 それでも作ったからには残せない。量は少ないものの大分苦戦しながらようやく食べ終えると、渚はテーブルに突っ伏した。
「うぅ〜、もうダメかも……」
 仄かに冷たいテーブルが気持ちよく、このままずっとこうしていたかった。が、それもメイドと言う立場を考えれば叶わない。
「買い物に行かないと。先生のお酒も無いし、晩ゴハンの材料も買わなきゃ……」
 ようやく起き上がると渚は寝室に入り、着替えを済ませる。それから顔を洗い、幾らか気持ちをも整えると、外へ出た。
 陽はまだ強く、二日酔いの体には特に辛く思えた。アスファルトと緑の焼けたような匂いが立ち込めているものの、風は無い。
「……もうお酒なんて呑まない」
 額に滲む汗を手の甲で拭いながら歩いていると、前から歩いてきたカップルに声をかけられた。
「あの、すみません」
「はい、何でしょう?」
「駅には、どう行ったらいいですかね」
「駅ですか。えっと……」
 あれ? どっちだっけ……。
 渚がふと考え込むと、女の人が男を心配そうな瞳で見上げた。
「大丈夫なの、翔?」
「大丈夫だって。ちゃんと四時には間に合うから心配するなって」
「だってあと二時間無いんだよ」
「ったく、本当に美由紀は心配性だよな」
 ……何か、早く教えないとマズイかな。
「あの、駅でしたらこの道をまっすぐ進んで、突き当たりを右に曲がればすぐですから」
「どうもすみません。助かりました」
 女の方がペコリと頭を下げると、渚もそれに続いて頭を下げた。
 二人共別れると、渚はもう一度二人が消えて行った方向を一瞥した。
 確か、こっちだよね……駅。
 商店街に着くと、八百屋から回り始めた。きっと冬馬も酒で胃がやられているだろうと思い、あまり体に負担のかからなさそうな和食の献立を考える。が、レパートリーはあまりにも少ない。
 お勉強しなくちゃダメだな。
 魚屋を回り、残るは酒屋へと足を向けていると不意に背後から、
「買い物をしている姿もメイドらしいなぁ」
 あの声が聞こえてきた。まさかと思いつつ振り向くと、案の定昨日の男だった。
「あ、あの、どうも」
 一応知らぬ仲ではないので渚は頭を下げた。
「やっぱり買い物は徒歩だよね。自転車や自動車なんてのは邪道だよねぇ」
「はぁ……」
 何なのこの人。怖いよぉ。
「ああ、そうそう。昨日は名前も名乗らず、失礼したね。私は新堂和臣。あなたは?」
「佐倉渚と申します」
「渚さんか……、いい名前だねぇ」
 人懐っこい笑顔を向けられても、やはりまだ渚は身を引いていた。
「時に渚さん、後学のために一つお訊ねするけど、いいかな?」
「あ、はい。何でしょう?」
「あなたにとって主人とは何です?」
「え?」
 私にとっての先生……?
「ああ、質問の仕方が悪かったかな?」
「い、いえ、大丈夫です」
 何だろう? お世話するべき人? 私の全てを捧げる人? ……それともメイドとしての私を確かめさせてくれる人?
 色々考えてみるものの、どれも違うような気がしてくる。自分にとって御主人様とは何かなど今まで疑問にすることも無かったため、巧く言葉が出てこない。
「……多分、私が一番従うべき人です」
 納得したように新堂は何度も頷く。
「では、君にとってメイドとは何だい?」
 今度はそれほど間を置かず、渚が答えた。
「私が、私であるための理由です。そして、御主人様にとっては最も便利であるべき存在だと思っています」
 渚の瞳に迷いは無かった。が、
「では君の意志はどこにあるの? ロボットと君との違いは?」
 この新堂の一言が渚の胸を深々とえぐった。
 私の、意志。ロボットと、私の違い……。
「……」
 暗く深い迷いの海へと沈む渚に気付いた新堂は、慌てて頭を下げた。
「ああ、すまない。難しいことを訊いてしまったようだね。うん、これは私の悪い癖だな」
「あ、いえ……」
「ま、私としてはどんなに人間に近いメイドロボットができても、渚さんにしかできないことがあると思うんだよねぇ」
「私にしか、できない……?」
「そう。まぁ、それが何なのかは私にもよくわからないんだけどね」
 新堂はもう一度人懐っこい笑顔を渚に向けると、踵を返した。
「それではお忙しいところ、お時間とらせてしまったようだね。まあ、渚さんは渚さんなんですから、背伸びせずにがんばって」
「はい。それでは」
 新堂は片手を挙げながら去って行った。
 ……何でだろう、あの人と話すと考えさせられる。不気味なんだけど、何だか……。
 うつむいたまま渚は小さく微笑む。
 そうだ、先生のお酒買わないと。それが今、私のやるべきことなんだから。
 渚は酒屋へと入った。
 薄々覚悟はしていたものの、やはり「また買いに来たのかい?」などと呆れ笑い混じりに言われると、肩身が狭くなった。
「……もう疲れたよ」
 重そうに一升瓶を入れた袋を両手に提げながら、家路を辿る。時折鼻を突く草いきれが、渚の心を重くさせた。
 今日は朝から気持ち悪いし、酒屋のおじさんには呆れられるし、……先生に見られたし。
「あー、もう、何なのー」
 やり場の無い怒り、恥ずかしさ、苛立ちなどが込み上がる。が、それも一瞬だった。
「……うさぎさんに会いに行こっと」
 渚の視界の片隅には小学校が映っていた。
 ウサギ小屋の前には数人の小学生がいた。彼らは面倒臭そうにウサギ小屋を掃除したり、エサをあげたりしている。
「ねえねえ、うさぎさんのお世話してるの?」
 渚がおもむろにその中の一人に訊ねる。
「え、あ、うん」
「私も一緒に手伝っていいかな?」
 小学生達は顔を見合わせる。
「別にいいけど。……お姉ちゃん、誰?」
「私はただのうさぎ好きよ」
 それから渚は小学生と一緒にウサギ小屋の掃除を始めた。さすがに人とうさぎの違いはあれども、渚は手際よく作業を進める。が、
「うさぎさんふかふかー」
 終始うさぎと戯れていたので、ペースは小学生とほぼ同じだった。
 五分もかからずに掃除が終わると、渚は金網の前にしゃがみ込んだ。小学生達も、その周りに集まる。
「お姉ちゃん、ありがとう」
「ううん、いいの。私はうさぎさんと一緒にいたかっただけだから」
「……本当にうさぎ好きなんだね」
「うん。とってもカワイイもん」
 それに私と似てる気がするし……。
「でも、うさぎって臭いから……」
「それも好きになれば大丈夫。私は全部含めて大好き」
「そんなもんなのかな?」
「うん。あぅ〜、カワイイなー、もう」
 首を捻ったり、顔を見合わせたりする小学生達をよそに、渚は金網の隙間に指を入れ、何とか舐めてもらおうとしている。
「あぅ〜、もっとこっち来て」
「……佐倉さん、何してるの?」
 その声に驚いた小学生達が振り返ると、半ば呆れた顔をしながら腕組みしている冬馬がいた。だが渚の耳にその声は届かない。
「うさぎ、うさぎ」
「佐倉さん」
 冬馬に肩を叩かれ、ようやく渚が気付く。
「あ、先生?」
「何してるんだよ、帰るぞ」
 また先生ったらそんなこと言うんだから。
「まだダメです」
「ダメじゃない」
 先生こそエッチなこと言うのはダメだよ。もー、何で邪魔するの?
「ほら、立てよ。恥ずかしいなぁ」
 ぐいと冬馬は渚の腕を引っ張る。
「痛いです、先生」
 こういうことする先生も、嫌い。
「いいから行くぞ」
「あぅ〜、やだよー」
 怒りに顔を歪める冬馬に荒々しく引っ張られ、渚は家まで連れ戻された。
「……先生、あの、すみません」
 帰宅するなり渚はソファに座りながらタバコをふかしている冬馬に、深々と頭を下げた。
「また先生に御迷惑をおかけしたばかりか、お手数をかけてしまい……」
「汗かいたから風呂にしてくれ」
 いかにも不機嫌そうに冬馬がタバコを揉み消す。その仕草に、渚はまた小さくなる。
「はい。あの、本当に」
「もういいから早くしてくれよ」
 渚は冬馬の顔を結局直視することができず、風呂場へと急いだ。
 また、やっちゃった……。
 湯槽にお湯を入れながら、渚は暗く沈んだ瞳をしながらしゃがんでいた。
 私、何やってんだろ。自分をしっかり保って先生のお世話をしなきゃなんないって誓った筈なのに、新堂さんに私なりの覚悟を伝えたばかりなのに、何でこうなっちゃうの……。
 不意に視界がふわりと揺れた。
 冬馬が風呂に入っている間、渚は寝室で静かにヘマトフィリアを読んでいた。まだ五時少し過ぎなので夕食の支度をするには早かったのと、自分の仕事以外の何かに集中して、先程の自分を忘れたかった。
 ……やっぱり信じられない。何であの先生が、こんなお話を書けるんだろう。
 全てを読み終えた渚が、じっと表紙を見詰める。
 先生はいつもこんなことを考えてるの?
 恋人を欲するあまり殺してしまう主人公。そんな作中の人物に、渚は冬馬を重ねる。
 でも、違うよね。私ったら何考えてるんだろう。先生はただのお酒好きで、エッチな人じゃない。何だかんだ言っても、先生に悩みって無さそうだし。
「佐倉さん、上がったよ」
「あ、はい」
 渚は本を置くと、風呂の支度を始めた。
 風呂から上がると、すぐに夕食を作った。夕食はまだ難しいものは作れなかったので、昨日と同じような簡単な和食だった。
「焼き魚か」
「はい。あの、お嫌いですか?」
「いや、そう言うわけじゃないけど」
 だが何か浮かない顔で箸を進める冬馬を、渚は嬉しそうに覗き込んだ。
「あの、お気に召さないことがあるんでしたら、どうぞ言って下さい」
「大したことじゃないんだけどさ」
「はい」
「もっとバリエーションに富んだメシも食ってみたいなーって思っただけだよ」
 ……うっ、やっぱり言われちゃったかぁ。
「すみません。私、お料理は得意ではないので、その、あまり難しいのは作れないんです」
 あぁー、納得したように頷かないで。
「でも、これからがんばってお料理覚えますので、それまでは、あの……」
 頭を下げる渚を、冬馬は制する。
「焦んなくてもいいよ。がんばるのは大切なことだけど、焦ってやると結果は出ないよ」
「ありがとうございます」
 やっぱり先生って、優しい人なんだ。
「ところで佐倉さん、俺が寝てる間に買い物に行ってたみたいだけど、道覚えたんだ」
「はい、何とか」
「記憶力いいんだね」
「いえ、そうでもないですよ。ただ、所々に目印があったんで、それを頼りにしたんです」
 うさぎさんの匂いとか。
「ふーん。でもきっと目印の一つであるだろう小学校には、気を取られないようにね」
「……はい」
 うぅ、見抜かれている。
 食事を終えると冬馬は書斎に入り、渚は食べ終えた食器を洗っていた。
 先生ってゴハン、綺麗に食べるなぁ。私の作ったゴハンが美味しいからなんだろうな。
 皿を拭きながら自分の考えに苦笑する。
 なーんて、そんなわけないか。きっと残さないように心がけているんだろうな。私もそうだし、そういう人、結構いるみたいだし。
 食器を全て洗い終えると、渚は掃除機をかけ始めた。
 一通りリビングが綺麗になると、次はその間に回していた洗濯機から洗濯物を取り出し、窓際に置かれてある物干し台にかける。
「佐倉さん、ちょっと来てくれる?」
「あ、はい。少し待っていて下さい」
 書斎からの冬馬の呼びかけに、渚は急いで残りの洗濯物を干した。
「失礼します」
 襖を開けて一歩進むと、机に向かっていた冬馬が渚の方へ顔を向けた。
「そこら辺に座ってもらえるかな。あ、足は崩していいから」
「すみません」
 冬馬から座布団を受け取り、渚はその上に座った。そうして冬馬を見詰める。
「それで先生、どうしました?」
「ちょっと詰まってね。女性の心理ってのがいまいち掴めないんだ。それでこれから幾つか訊ねるから、正直に答えてくれないかな?」
「はい。かまいませんよ」
 こういう姿勢は作家さんらしいな。
「じゃ、さっそくだけど脱いで」
 ……やっぱり先生はエッチだ。
「何で脱がなければいけないんですか?」
「次回作はちょっと趣向を変えて、孤独だが資産家の青年実業家の許に新米メイドが派遣されるって話にしようと思うんだ。で、主人に求められてメイドがどうしても脱がなきゃなんないってシーンなんだけど」
「脱ぎませんよ」
 冬馬の言葉を遮るように渚は言い放った。
「……早いな」
「そればかりはお役に立てません」
 幾ら何でも脱げないよ。
「……ま、いっか。下着姿は見たわけだし」
 うぅ〜、恥ずかしいよぉ。
「先生、お願いですから忘れて下さい」
「じゃ、脱いで」
 それじゃ意味無いじゃない。
「……先生」
 非難する眦には今にも涙が滲みそうだ。
「はいはい。冗談だよ、その設定は」
「今朝のこと、忘れて下さいね」
「そりゃ無理だ」
「先生〜」
 渚の哀願も耳に入れない様子で、冬馬は居住まいを正し、真剣な瞳で渚を見据えた。
「さて、本題に入ろうか」
「……はい」
 お願いだから忘れて、先生。
「と、その前に貸した本は読んでくれてる?」
「はい。ヘマトフィリアは読み終えました」
「……正直どうだった?」
「怖かったと言うのが一番強く感じました。すごく細かく丁寧に書かれているのにもかかわらず、すいすいと読めたんですけど……」
「けど?」
「結局は誰も助からないので、悲しくなりました」
 だが冬馬はその答に満足そうに頷く。
「あの、もしかして次もこんな感じですか?」
「そうだな、そうしようかとは思ってるよ。それが俺の持ち味だと思ってるし、読者もそれを望んでいるからな」
 そうなんだ。でも……。
「あの、次回作で救いとかは無いんですか?」
「特に考えてないな。ま、ちょっとしたものは入れるかもしれないけどね」
 冬馬はタバコに火を点けた。
「さて、そろそろ本当に本題に入ろう。実は次は避けられぬ運命に身を置いた女性の話なんだけど、佐倉さんは運命とかって信じる?」
「割と信じる方ですね」
「だったら何か起こっても、ああこれは運命なんだって思うの?」
「いえ、必ずしもそうは思いませんけど、でも大きな事件とかがあれば、そう思ってしまいますね」
 私がここに来て、先生と会ったように……。
「なるほど。だったら大きな事件に巻き込まれて最も愛しい人と別れなければならないとしたら、どうする?」
 私にとって最も愛しい人。それは誰?
 しばし考え込む渚に、慌てて冬馬が言葉を付け足す。
「例えば恋人とか、両親とか」
 恋人も、親も、私にはわかんないよ。
「……よくわからないです。きっと、とても悲しくて仕方ないと思うんですけど……」
「運命に従いそう?」
 渚は小さく頷いた。
「うん、ありがとう。参考になったよ」
「そうですか? あの、大したこと言えなかったと思うんですけど」
 不安げな渚に冬馬が微笑みかける。
「充分役に立ったよ。ああ、もしかしたらまた何か訊くかもしれないから、適当に本でも読んで楽にしてていいよ」
「はい。わかりました」
 渚は冬馬の邪魔にならないように壁際まで下がると、静かに冬馬の背を見詰めていた。
 書いてる時の先生って、格好いいなぁ。
 いつ何か申し付けられるかと心待ちにしていたが、いつまで経っても冬馬は何も言ってこなかった。
 次第に渚の瞼が重そうに沈む。いけないと思いつつも渚はそれに逆らえず、ゆっくりと夢の中へ落ちて行った。

「……ぎさ、……渚」
 誰? 私を呼ぶのは。
 ゆっくりと目を開けると、そこには一人の女性が私を覗き込んでいた。ぼんやりとして表情はよくわからないけど、優しくて暖かい感じがする。
「ほーら渚、うさぎさんだよー」
 目の前に小さめのうさぎさんの人形が差し出された。その人は指でうさぎさんの手足を動かし、私の手に触れさせる。
 柔らかいけど、しっかりとした人形の手足。そして時折触れる、その人の指。とても暖かく、暖か過ぎて思わず涙が溢れる。
「あ、泣かない泣かない。ほーら、泣いたらうさぎさんも遊んでくれないって」
 うさぎさんの人形と共にその人に頭を撫でられると、不思議と心が穏やかになる。
「やあ、渚はまだ起きてるのかい?」
 どこからか現れた男性も私を覗き込んだ。さっきの人と同じように顔はぼんやりとしてよくわからないけど、この人も優しい匂いがする。
「ええ、起きてるわよ。ほら」
 二人が微笑みながら私を覗く。何だろう、嫌だなんて気持ちにならない。それどころか、もっと……。
「でも、そろそろ寝ないとね」
 ……やだよ。もっと、もっと一緒に……。
「おやすみ、渚」

 懐かしい感じ、聞き覚えのある声。
 この人達は誰なの? 教えて。
 遠い、ずっと遠い記憶……。