八月八日 水曜日

 体に染み付いた習慣からか、渚が目を覚ましたのは六時半だった。だがついつい読み耽ってしまったせいで、いつもより寝ていない。おかげで辛い目覚めとなった。
「うぅ〜、眠いよぉ」
 布団が気持ちいい。だがいつまでもそう甘えていられないのは知っている。渚は重い体を起こすと、顔を洗いに寝室を出た。
「はぁ」
 顔を洗い終え、幾分かサッパリすると、メイド服に着替えた。どんなに疲れていても、これを着ると気が引き締まる。
「さ、朝ゴハン作らなきゃ」
 台所に立つと、味噌汁から作り始める。ゴハンの方は昨日準備をしておいたので問題は無い。
「えっと、どんなのがいいかな」
 だが選べる程食材に余裕は無い。とりあえず豆腐と油揚げを入れる。
「今日、お買い物に行かなきゃ」
 味噌汁の用意も済ませた頃には七時半になろうとしていたが、まだ冬馬が起きてくる気配は無かった。
 先生って起きるの遅いのかな。ま、お仕事大変みたいだし、仕方ないか。
 先に食べるのも何だか気が引けたので、渚はソファに座り、小さな音量でテレビを見始めた。
 だが一通り見終えても、まだ冬馬が起きてくる様子は無かった。
 先生遅いなぁ。私、おなか空いちゃったよ。
 時計に目を移すと十時少し過ぎだった。
 先生を起こしそうだからお掃除もお洗濯もできないし。……はぁ、暇だな。
「あ、そうだ。先生に本借りたんだった」
 思い出したように寝室に入り、続きを読み始める。あまり厚い本ではないのと昨日大分読んだのもあり、あと半分くらいだった。
 怖いことには変わりないのだが、それに負けないくらいの面白さがあるので、ついつい読まされる。特に細かな心理描写が、渚の心を鷲掴みにしていた。
「……佐倉さん?」
 不意に冬馬に呼ばれたような気がしたので、渚はリビングに出た。が、そこに冬馬の姿は無い。
 書斎かな?
 渚が静かに襖を開けると、そこにはまだ眠そうな冬馬が布団の上に座っていた。
「はい。先生、おはようございます」
 渚は一歩進むと、そこに正座した。だが、冬馬はそれきり口を閉ざしている。
 先生、まだ眠いのかな?
「あの、どうしました先生?」
「あ、いや、別に何でもないんだ。ただもう起きてるかと思って、声かけただけだ」
「はい、もう六時頃には起きていましたよ。先生は昨日、随分遅くまでがんばっていらっしゃったみたいですね」
「いや、昨日は二時くらいまでしかやらなかったから、そうでもない方だな。あ、俺は夜型だから、これくらいが起きる時間なんだ」
「そうなんですか」
 冬馬は大きく頷く。
「ところで随分早くから起きてたみたいだが、今まで何してたの?」
「朝ゴハンの支度をした後、先生からお借りした『ヘマトフィリア』を読んでいました」
「どこまで読んだ?」
 途端に冬馬の瞳が子供のように輝く。
「まだ途中なんですけど、それでもすっごく怖くて。でもお話に引き込まれたので、とても面白く読ませていただいてます」
「はは、……ありがとう」
 先生、照れてる。何かカワイイな。
「でもそんなんだったらクーラーもいらなくて済むかな?」
「えへへ、そうですね。でも、扇風機は欲しいですね」
「佐倉さんも言うねぇ。でも扇風機は一台しかないから、団扇か麦茶で涼を補ってくれ。あ、そうそう、麦茶持ってきてくれない?」
「はい、わかりました」
 渚はすぐに麦茶を持ってくると、冬馬に差し出した。冬馬はそれを味わうようにゆっくりと飲む。
「ふー。やっと一息ついた」
「暑いですから、麦茶も美味しいですよね」
「ああ」
 コップを置くと冬馬はじっと渚を見詰める。
 何だろう?
「どうかしましたか?」
「いや、そのリボンなんだけどさ」
「これがどうかしましたか?」
 渚は髪を束ねているリボンに手をやる。
「それ、一色だけなの?」
「いえ、色んな種類がありますけど、やっぱりこの色が好きなもので」
「なるほどね。それじゃ下着も同じかな?」
 ……先生は何で朝からこんなことに頭が働くんだろう。
「違いますよ」
「ま、どうなのかは見ないとわからないよな。でも、ブラとパンティーに色は統一して欲しい。たまに別々なんて愚か者もいるし」
 男の人って、みんなこうなのかな?
「えっと、それはそれとして。先生、ゴハンはどうします?」
 時計を見てみると、もう十一半時になろうとしている。渚自身、もうおなかが空いてどうしようもなくなってきていた。
「そんじゃ、食うかな」
「はい。ではお味噌汁温め直しますね」
 渚は台所へ急いだ。
 少し早い昼食ははさほど時間もかからずに完成した。と言うのは目玉焼きを作ったり、サラダを盛り付けるくらいだったからだ。
「どうですか先生?」
 多分失敗は無いと思うけど、先生のお口に合うかな。
 渚は冬馬が味噌汁を口に運ぶのをじっと見詰めている。
「いや、美味いよ。別にそんなに心配する必要なんて無いんじゃない?」
「本当ですか?」
「ああ。ほら、そんなこといいから佐倉さんも食べなよ」
「はい。いただきます」
 美味しく思えるのは、きっと先生にああ言われたからなんだろうな。あ、おなか空いてるってものあるかな。
「でも嬉しいです。私、お料理は得意じゃないので。でも先生にそう言ってもらえると、自信がつきます」
「自分のやることには自信を持たなきゃダメだよ。ま、それが変な方向に行ってもダメだけどな」
「そうですね」
 渚につられ、冬馬の頬もふっと緩む。
「しかしいいもんだよな、こうして誰かと一緒にメシ食うのは。一人暮らしの上にこんな生活してると、なかなか無いからな」
「そうですね。私も一人で食べるよりは大勢で食べる方が好きです。同じ物を食べても、何故か美味しさが違いますし」
 うん、やっぱり先生が起きてくるまで待っててよかった。先に食べていたら私も先生とこんなに美味しく食べられなかったよね。
「ま、しばらくはこうしてメシが食えるんだ。これだけでも佐倉さんには感謝しないとな」
 えへへ、じゃあもっとがんばって、先生をもっともっと喜ばせないと。
 渚は照れ隠しに味噌汁を啜る。
「あの先生、今日は何か御予定はあるんですか?」
「今日?」
 冬馬はカレンダーに目を移す。それに倣い、渚もカレンダーの今日の日付を見てみると、赤ペンで『長田』と記されていた。
「今日は長田が来るな」
「先生、長田さんとは誰なんですか? もし差し支え無ければ教えていただけますか」
「長田ってのは俺の担当編集者だよ。俺より年上なんだけど、気の弱い奴でね。いっつもオドオドしてるんだよ。今日はそいつとの打ち合わせがあるんだ。ま、打ち合わせと言っても、大したことは話さないんだけどね」
 何かすごい。ドラマみたい。
「それでその長田さんと言う方は、いつ頃にいらっしゃるんですか?」
「二時頃、だったかな」
「でしたら早く食べた方がいいかもしれませんね」
「残りはサラダだけだから、急ぐって程でもないけどね」
 食事を終えると冬馬はソファで新聞を読み始め、渚は洗い物にとりかかった。
 長田さんか。これからよく顔を合わせるだろうから、仲良くなりたいなぁ。
 皿を拭きつつ、ふと渚の頬が緩む。
 でも、さっきの先生の言葉、嬉しかったな。私と一緒にゴハンを食べられるのに感謝しなきゃいけないって……ねぇ。
 とりあえず先生に認められたのかな?
 思わずはしゃぎたくなる程の嬉しさが込み上がってきたが、それを何とか堪える。
 ダメだよ、もう。そんな一緒にゴハン食べるくらいで喜んでたら。私にはまだまだやることがあるんだから。
 洗い物を終えるとエプロンで手を拭きつつ、冬馬に近付いた。
「あの、先生。これからお買い物に行きたいんですけど……」
「いいよ。ついでに酒買ってきて」
 あぅ、そう言うことじゃないのに……。
「えっと、この辺りに来るのは初めてなので、よろしければ先生、この町を案内して下さいませんか?」
「そうなんだ。じゃあ、散歩がてら一緒に行こうか」
「ありがとうございます」
 渚はペコリと頭を下げる。
「それじゃ、支度が整い次第行くか」
「はい」
 冬馬は立ち上がり、書斎に入ろうとした。が、襖に手をかけようとしたところで渚の方を振り返った。
「そうそう、買い物に行くんだったら金を渡さないとならないよな」
「あ、大丈夫です」
「何で?」
「とりあえず会社の方で渡されているので。それでも足りなくなった場合は、先生の方で負担と言う形になります」
「なるほどね」
 納得したように何度も頷きながら、冬馬は書斎に入った。渚もそれを見送ると、寝室に入り、支度を始めた。
 五分もかからずに支度を終えると、冬馬と渚はアパートを出た。
 今日も天気がよく、アスファルトの先が陽炎が立っている。日差しを遮る雲が少なく、背にはもううっすらと汗が滲み始めているのは渚も冬馬も一緒だった。
「暑い、暑過ぎる」
「そうですね。テレビでも言ってましたけど、この夏は猛暑みたいですよ」
「かんべんしてくれよ……」
 がっくりと冬馬が肩を落とす。
「なぁ、やっぱりもう少し涼しくなってからにしないか?」
「でももうお外に出ちゃいましたし、それに、夏が暑いのは仕方ありませんよ」
「わかってるんだけどね。ま、なるべく一回で覚えてくれよ」
「はい」
 目印となるようなものをチェックしながら、渚は冬馬と歩く。元々道を覚えるのがそれほど得意ではない上、暑さが頭を鈍らせる。
 うぅ〜、暑いよぉ。ここ、どこ?
「ねぇ、佐倉さん」
「はい」
「夏の思い出って、何かある?」
「そうですね。お姉ちゃんとお祭りに行ったことですね」
 お願い先生、話しかけないで。
「えっ、佐倉さんてお姉さんいるんだ」
 あっ、しまった。
「いえ、あの、お姉ちゃんて言うのは私より少し上の遥さんと言う方で、一緒にメイドをしているんです。年も近く、同じ部屋で生活していたので、ついお姉ちゃんと」
「ふーん。仲良いんだ」
「ええ。私のことを妹のように可愛がって、よくしてくれているんです」
 お姉ちゃん、今頃何してるんだろ。
「で、お祭り一緒に行ったんだ」
「はい。花火を見ながら出店で買ったリンゴ飴とか、お好み焼きとか、チョコバナナとか、とにかくいっぱい食べました」
「花よりダンゴ。食ってばかりだね」
「えへへ、ついつい……」
 出店で買って食べるのって、何であんなに美味しいんだろう?
「だったら十二日にある花火大会に連れて行っても、佐倉さんだったら食ってばっかなんだろうな」
「そ、そんなこと無いですよ」
「約束できる?」
「……うぅ、先生の意地悪」
 そうこうしているうちに商店街に着いた。
「ここですか。意外と近いんですね」
「ま、歩いて十分ってとこだからな」
 でも道、覚えてないよ。どうしよう。
「ちっちゃい商店街なんだよね。ほら、向こう側までそんなに無いだろ」
 確かに冬馬の言う通り、端から端まで二百メートル強ぐらいなので、決して大きな商店街とは言えなかった。
「じゃ、酒屋から行こうか」
 アーケードをくぐり、冬馬に導かれるようにして酒屋に入った。
「おお、先生じゃねぇか」
 年の頃五十と言った感じの店主が、冬馬を見るなり嬉しそうに近付いてきた。が、渚に気付くと足を止め、冬馬と交互に見る。
「先生の知り合いかい、この娘。まさか妹さんとか言わないよな」
「言わないよ」
 冬馬が渚を一瞥する。
「この娘は昨日俺のとこに派遣されて来た、メイドだよ」
「メイド?」
 店主はぽかんと口を開けたかと思うと、困ったような顔を冬馬に向けた。
「メイドって何だい、先生?」
「お手伝いさんのことですよ」
「ああ、お手伝いさんね。なるほどね」
「佐倉渚と申します。よろしくお願いします」
 渚が笑顔で一礼すると、店主もようやく渚に笑顔を向けた。
「でも先生、何で急にお手伝いさんなんか雇ったんだい?」
「いや、俺もよくわからないんだけど、何でもボーナスだとか言って、会社の方から派遣されたみたいなんだ」
「ふーん。まあ、でもこんな若いのにお手伝いさんなんて、感心だねぇ」
「いえ、そんなこと無いですよ」
「ま、そう言うわけで、これから佐倉さんが俺の代わりに買いに来るだろうから、よろしくしてやってくれ」
「いいけど、メイドさんは未成年かい?」
「はい、そうですけど」
 それを聞くと途端に店主の顔が渋くなった。
「あのよ先生、ウチもそうだけど未成年には酒は売れないんだよ」
「あっ」
「この店を親父から継いで二十年近くになるんだが、今になってお上に怒られるなんてことはしたくないからな」
「なあ、何とかならないのか?」
 冬馬は手を合わせ、店主に拝み込む。
「うーん、でもなぁ……」
「私からもお願いします」
 渚も頭を下げる。すると店主は大声で笑い出した。
「なんてな。大丈夫だよ、先生。こんなことで大のお得意様を捨てたりなんかしないよ」
 おじさんと先生、もしかして似てる?
「ったく、人が悪いんだから」
 ……先生もだよ。
「で、先生。今日はそれだけなのかい?」
「もちろん買うよ。いつもの『高清水』な」
 酒屋を出ると次に八百屋に、その次に肉屋魚屋へと行き、一通りの食材を揃えると商店街を後にした。小さな商店街だからか温かみがあるものの、メイド服を着ている渚には多少なりとも奇異な眼を向けていた。
「あのさ、あまり気にするなよ」
「何がです?」
「いや、だから……珍しい格好してるなって思われてることだよ」
 先生、気にしてくれてたんだ。
「大丈夫ですよ。きっとみなさん最初だから驚いてるだけで、そのうち慣れてくれますよ。でも、ありがとうございます、先生」
 緑のムッとした熱気を伴った風が二人の横を通り抜ける。
 早く帰らないとお魚とか痛んじゃうな。
「しっかし暑いな。こう暑いと酒もすぐにダメになるから、早く呑まないとな」
「あまり呑み過ぎたらダメですよ。でも先生は本当にお酒がお好きなんですね」
「まあ、二十年以上呑んでるくらいだからな」
 えっ、子供の時から呑んでるの?
「佐倉さんはそう言うのある?」
「私は……」
 先生みたいにそこまで好きなのって、何かあったかな……ぁ……。
 不意に渚が立ち止まり、ある一点を見詰めた。冬馬は訝しげに渚の顔を覗き込む。
「どうした?」
「……うさぎ」
 うさぎさんの匂いがする。
「ああ、うさぎね。そう言やほら、あそこの小学校でも何匹か飼ってるみたいだよ」
 いるんだ、うさぎさんが……。
「えへへ、ちょっと行ってきますね」
「好きなんだ」
「はい!」
 渚は力強く頷くと、すがるような瞳で冬馬を覗き込む。
「……そんじゃ、少しだけ見るか?」
「ありがとうございます、先生」
 言うが早いか、渚は一目散に走り出した。虚をつかれた冬馬は数瞬呆然としていたが、
「あ、おい待てよ」
 慌てて道を駆け抜けた。
 夏休みに入っているとは言え、小学校の校庭には色々な遊びに興じる子供達が十数人程度いる。だがその片隅にあるウサギ小屋の前には、渚一人しかいなかった。
「えへへ、うさぎさんだー」
 渚は金網越しにうさぎに手を振る。
「佐倉さん、急に走るなよ」
 追い着いた冬馬が肩で息をしながら憮然と言い放つも、渚の耳には届かない。
「うさぎー、うさぎー」
 あう〜、カワイイよー。
「ねぇ、もっとこっち来て」
「……佐倉さん?」
「なでなでさせてよ〜」
「佐倉さん、もういいだろ。帰るぞ」
 何言ってるの、先生?
「もう、カワイイなぁ」
「ほら、帰るぞ」
 冬馬は渚を無理矢理立たせる。
「あ、先生。何するんですか?」
「帰るんだ」
「ダメです。まだうさぎさんと会ったばかりじゃないですか」
 そうだよ、なのに帰るだなんて。
「メシだって腐るだろ」
「いいですよ、そんなの。うさぎさんの方が大事です」
 もう、先生なんてキライ。
「帰るんだ」
 冬馬は力まかせに渚をウサギ小屋から引きずり離しにかかる。
「あぅ〜、うさぎさーん」
「うるさい」
「うぅ〜、ばいばーい」
 騒ぎを聞きつけた小学生達が何事かと冬馬と渚を見ていたが、二人供それに気付きはしなかった。
 帰宅すると冬馬は呻きながらソファに倒れた。我に返った渚は立つ瀬も無く、冬馬の側で小さくなっている。
「……あの、すみません先生」
「……暑い中、何で俺があんなことしなきゃならないんだろうな」
「あの、本当に……」
「重いし、暴れて大変だったしさ」
「……すみません」
「なぁ、何でうさぎでああなるんだよ」
 露骨に不機嫌な顔を冬馬が渚に向ける。
「あの、あれは私の悪い癖でして、うさぎを見るとどうしても、その……」
「ふーん……麦茶」
「は、はい。ただいま」
 渚はすぐに冷蔵庫から麦茶を取り出すと、冬馬に差し出した。
「ったく、もうこれっきりにして欲しいよ」
 冬馬は麦茶を一気に飲み干すと、面倒臭そうに書斎に消えた。
 一人になった渚はソファに座ると、がくりとうなだれ、溜め息をついた。
 もう、私のバカ。本当に何やってんのよ。先生をお世話しなきゃいけないのに、逆に先生に迷惑かけたりして。
 両手で顔を覆い、また溜め息が出る。
 先生、怒らせちゃった……。
 先程の冬馬の顔が、声が浮かぶ。
 どうしよう、私、どうしたらいいんだろう。
 暗い視界がほんの少しだけ揺れた。
 二時少し過ぎに突然玄関のチャイムが鳴り響いた。渚は軽く頬を叩くと、強いて笑顔を作りながら玄関へと向かった。
 自分でドアを開けるよりも一瞬早くドアが開いたので、渚はそのまま前につんのめった。
「こんにち……うわっ」
「きゃっ」
 転びそうになったところを、すんでのところで受け止められた。
「あ、大丈夫ですか?」
「え、はい。すみません。あの、長田さんですよね?」
 うわぁ、背が高いな。先生より大きいよ。でも、悪いけど先生の言ってた通り本当に気が弱そう。
「はい、そうです。えっと、佐倉さんですよね? 先生はいますか?」
「あ、書斎にいますから、どうぞ」
「それではお邪魔しますよ」
 長田は渚を戻すと、書斎に入った。
 また私ったら恥ずかしいとこ見せちゃった。……もう、今日はサイアクだよ。
 渚は冬馬と長田に麦茶を渡すと、早々に書斎を出た。長居する必要も無かったし、それ以上に今は冬馬と顔を合わすのが辛かった。
「……お掃除でもしようかな」
 じっとしているのは性に合わないと自分に言い聞かせ、渚はバケツに水を汲み始めた。
 テーブルを拭き、窓も拭き終わろうかと言う頃、長田が書斎から出てきた。
「あ、それじゃお邪魔しました」
「いえ、何もおかまいできなくて」
 長田はもう一度頭を下げると外へ消えた。
 長田さんもいい人そうだな。先生もそう。……私がこんなんじゃダメだよね。
「佐倉さん、ちょっと」
「はい」
 雑巾を絞る手を止め、渚は書斎に入った。
「どうしました、先生?」
「少し寝るから、七時くらいに起こしてくれ。それから晩メシ食べるから」
「はい、わかりました。それではおやすみなさい、先生」
 渚は一礼しながら書斎を出ると、再び雑巾に手をかけた。
 よかった。先生、さっきより怒ってないみたいだった。……でも、しっかりしないとね。
 窓を拭き終えると、渚は一休みにと寝室でヘマトフィリアを読み始めた。
 しばらく没頭し、佳境の寸前で読む手を止めると、渚は天を仰いで一つ息を吐いた。
「……お散歩でもしてこようかな」
 いつまでも先生に訊いてばかりだと役立たずだと思われるし、それに歩いていれば少しは気分もよくなるだろうし。
「よし、ちょっとだけ出よう」
 勢いよく立ち上がると、渚は冬馬を起こさないように静かに寝室を出た。
「いってきますね、先生」
 小さく書斎に囁いてから外に出た。
 外はまだまだ暑く、時折蝉の声と共に暖かい風が頬を撫でる。だが決して不快ではなく、むしろ散歩には丁度よかった。
 商店街とは逆の方へ足を向け、アパートの周辺をゆっくりと歩く。一つ角を曲がればもう別世界のようで、私はちょっとした冒険気分を味わっていた。
「へぇー、こんなとこにもお店があるんだ」
 少し古ぼけた感じの喫茶店、小さな児童公園にヒマワリをたくさん植えているお家。見るもの全てが目新しく、私はゆっくりとそれらを眺めながら道を増やしていた。
 そろそろ帰ろうかな。
 足を止め、引き返そうかとした途端、
「いやぁ、メイドはいいなぁ」
 不意に後ろからそんな声がした。
 えっ、何? 私のこと……だよね。
 慌てて振り返ると、そこには人のよさそうな中年の男性がいた。背が高く、がっしりした体型のその人は、ニコニコしながら私を見詰めている。
「あの、何か?」
「ああ、驚かせてしまったようだね。これは悪いことをした。でもこんな町でメイドを見るなんて思っていなくてね。で、時にあなたメイドだよね?」
「え、ええ。そうですけど」
 な、何? 誰なの?
「でも、何か違うんだなぁ」
 男の一種不気味な迫力に気圧され、渚は逃げることもできないでいた。
「主人のために献身的に働くメイドは、男の憧れなんだよね。でも、憧れだからこそ暗い姿は見たくないんだよなぁ」
 あっ……。
「失敗して、もし怒られても、元気でいるのもメイドの役目の一つ。もちろん反省はしなければならないけどね」
 元気でいるのも、メイドの役目……。
「そうですね。でもやっぱり御主人様を不快にさせてしまうと、どうしていいか……」
「気にし過ぎると、相手の重荷になるだけ。大切にしているものを傷付けないと、大抵は怒っていても大丈夫なものだよ」
 先生の大切にしているもの。それは一体何なんだろう……?
「自分を惑わすも、奮い立たせるも、結局は自分の心一つ。自然なのが一番だな」
 不思議な人だな。見透かされているみたいなんだけど、嫌じゃない。
「ああ、そろそろ行かなくては。それでは失礼しました、若いメイドさん」
 男が渚の脇を通り過ぎようとしたので、慌てて渚が我に返った。
「あの」
「縁があればまた会うでしょうな」
 男は何事も無かったかのように立ち去った。渚は男が消えた後も、しばらく立ち尽くして先程の言葉を反芻していた。
 私が気にし過ぎていたのかな。……ううん、そんなこと無い。でも、あの人の言うようにもっと楽に先生と接することができる筈だよ。
 帰ったら、先生に美味しいゴハンを作ろう。
 家路を辿る足取りは、幾らか軽くなった。
 帰宅しても冬馬が起きている気配は無かった。渚は静かに寝室へ入ると、バッグの中から料理の本を取り出した。
「何を作ったら先生喜ぶかな」
 急に難しいものは作れないとわかっている。だけど、それでも何か美味しいものを作ってあげたかった。
「……うーん、どれも難しそう」
 ラムチョップのレモンソースかけなど見るからに美味しそうなのだが、作り方を見るととてもじゃないが作れそうにはなかった。
 大体、オムレツも作れないんだよね、私。
「うぅー、こんなことだったらもっとお料理の時間にがんばっておけばよかった」
 溜め息をつきながら本に突っ伏していると、不意に玄関のチャイムが鳴った。
 誰だろう?
 だが考えたところで誰だかわかる筈も無い。とにかく渚は玄関へと急いだ。
「はい」
「えっ、あれ?」
 ドアを開けると訪問者らしき女性が渚を見るなり、大きくうろたえた。そして渚と表札とを何度も見比べる。
「えっと、ここ、北川ですよね?」
「はい、そうですが」
 あ、私がいるからわからないのかな。
「あの、冬馬はいます?」
「はい。少々お待ち下さい」
 渚はすぐに書斎に入ると、寝ている冬馬を揺り起こし始めた。
「先生、先生、お客さんですよ」
「んぁ? 何だって?」
「お客さんです。先生はいますかって?」
「客ぅ?」
 まだ眠いのか、不機嫌そうに眼を擦りながら先生は書斎を出て行った。私も少し遅れてそれに続く。
「いよー、冬馬。眠そうだね?」
「何だ、辛島かよ。起きて損した」
「何よ、その言い草は。折角こうして来てあげたってのにさ」
 先生の恋人なのかな?
「頼んだ覚えは無いぞ。それに俺はお前なんかにかまってる暇は無いんだよ」
「何よそれ。あ、暇が無いわけはもしかしてあの娘? ねぇ冬馬、あの娘誰なの?」
 辛島と呼ばれた女性に見詰められた渚は、一歩前に出るとペコリと頭を下げた。
「私はここでしばらくの間、北川先生をお世話することとなった、佐倉渚と申します」
「お世話?」
「ああ。佐倉さんはメイドなんだ」
「メイド……」
 しばし呆然としていたものの、
「あ、えっと、私は辛島瑞穂。冬馬とは大学からの付き合いで、私が二年後輩なの。一応私も冬馬と同じ会社で小説家をやってるの。渚ちゃんだったよね、これからよろしく」
 瑞穂はすぐに笑顔で挨拶した。
「こちらこそよろしくお願いします」
「で、冬馬。どうして急にメイドなんて雇ったの? アンタ、いつからそんなに偉くなったのよ」
「いや、俺もよくわかんないんだけど、急に二階堂さんがボーナスだとか言って派遣してきたんだ。でもいいぞ、メイドってのはよ。何もしなくても部屋は綺麗になるし、メシはできる。いつも呑み散らかすだけの誰かさんとは大違いだ」
 せ、先生。褒め過ぎですよ……。
 照れて少し顔を下に向ける渚とは違って、瑞穂の顔は怒りで真っ赤になっている。
「くぁー、ムカツクわね。そんなこと言うんだったらコレ、呑ませないんだから」
 瑞穂は両手に提げていた買い物袋を冬馬の目の前に突き出した。その中にはたくさんの酒や肴やらが詰まっている。
「いらんいらん、帰れ。今日はお前と呑む気はしない」
 だが冬馬は瑞穂を追い払うように手を振る。
「ちょっと、それはないんじゃない。折角買ってきたってのにさ。コレ、重かったんだよ」
「それはお前が勝手にやったことだ」
「何でそんなつれないこと言うのよ。あっ、もしかして私から渚ちゃんに乗り換えたの?」
「は?」
「あーあ、所詮私のことは遊びだったのね」
 そうなの? 先生と瑞穂さんてそうなの?
「お、おい。何言ってるんだよ」
「お前だけだよって言ってくれたから私も体を許したのに……」
「先生、瑞穂さんが可哀想です」
「違う、違うって。全部嘘だよ」
 冬馬は慌ててかぶりを振る。
「冬馬はこれからあの日の私と同じように、渚ちゃんを……。だから一緒に呑みたくないなんて言うんだ」
「あー、わかったわかった。入れよ」
 途端に瑞穂の顔がぱっと晴れる。
「やったー。さっすが冬馬」
「ったく、いい加減にしろよな」
 ……嘘、だったの?
 呆然とする渚の横を冬馬が通り抜けた。
「さ、渚ちゃん。パーッと楽しもう」
「あ、はい」
 瑞穂は渚の肩を抱き、一緒にリビングへと入った。
 瑞穂はソファの前のテーブルに荷物を置くと、さっそく中から酒などを取り出し始めた。
「いっぱい買ってきたな」
「いっぱい呑むんでしょ?」
「まあ、こうなったからにはな」
 信じられない。こんなに呑むの?
「あの、私、何か作ってきますね」
「あ、私も手伝うよ」
「いえ、いいですよ。瑞穂さん、あれだけの量の荷物を持ってきたんですから、お疲れでしょうし」
「そうね。うん、だったら私はこっちで呑む準備しておくから」
「お願いします」
 渚は一礼すると台所に立った。
 瑞穂さん、面白い人だなぁ。先生ともすごく仲良いみたいだし。やっぱり恋人同士なんだろうな。
 冷蔵庫を開き、自分でも作れそうな料理を考えてみる。が、今日は冷やし中華にしようと思っていたので、ラーメンサラダぐらいしか作れそうにない。
 はぁ、あんなにお酒あるんだから、きっと私も呑まされるんだろうな。
 気乗りしないまま盛り付けをしていると、リビングの方から何やら先生と瑞穂さんが言い争いをしているのが聞こえてきた。
「冬馬ったら女っ気が無いから、渚ちゃんを毒牙にかけようとしてるんでしょ?」
「何言ってんだ、お前は。ったく、自分こそ男がいなくて悶々としてるからって」
「アンタ、それが女の子に対する言葉?」
「誰が女だ、誰が?」
 そろそろ行かなきゃマズイかな。
「あの、できましたよ」
 渚が料理を運んで来ると、冬馬も瑞穂も言い争いをやめ、料理を注視した。
「うわー、美味しそー」
「でもお口に合うかどうか」
「大丈夫、心配なんてする必要無いよ」
 渚は料理をテーブルの上に置くと、ソファではなく台所に近い床に座った。
「渚ちゃん、そんなとこに座ったら足痛いよ。ほら、こっち来て座ろ」
「あ、はい。では失礼して」
 瑞穂に誘われ、渚はその隣にちょこんと腰を下ろす。
「さ、渚ちゃんも何か適当に呑み物取って」
「あ、でも私、お酒は……」
「カシスソーダなんて呑みやすくていいよ」
「すみません。ありがとうございます」
 どうしよう、呑めないよ。でも呑まないとダメなんだろうな。
「それじゃ、佐倉さんにかんぱーい」
 三人がそれぞれ缶を突き合わせると、渚も意を決して一口呑んでみた。
 あ、ジュースみたい。ビールとは全然違う。
「はぁー、暑い日はビールが美味しー」
「まったくだ。佐倉さんはそれ、どう?」
「呑みやすくて美味しいです」
「んー、これ美味しい」
 気が付くと瑞穂はさっそくラーメンサラダに箸を伸ばしていた。
「お前、食うの早いよ」
「だっておなか空いてたんだもん。それに美味しいんだよ、コレ」
「ほう。どれ」
 続いて冬馬も食べてみる。
「うん、美味い」
「ありがとうございます」
 えへへ、嬉しいな。
「ねえねえ、渚ちゃんの会社ってどんなとこなの?」
「会社ですか?」
「そう。私、いまいちメイドってどんなもので、どんな教育を受けているのかって知らないからさ、もしよかったら教えてくれる?」
「かまいませんよ」
 渚は一口呑んでから話し始めた。
「えっとですね、まずメイドの原則としては御主人様に絶対服従ですね」
「えっ、だったら冬馬がスケベなこと言っても、それに従うの?」
「はい。でも、その辺りはメイドの裁量と、御主人様との信頼関係によってですね。幾ら何でも無茶な命令は聞けませんし、場合によっては契約破棄の上に賠償請求と言うこともできるんです」
「怖いなぁ」
「でも大丈夫ですよ、先生なら」
 缶に口をつけたまま瑞穂が首を横に振る。
「細かい規定はいっぱいあるんですけど、大体は御主人様に尽くすためのものです。だからメイドになるには家事などの能力もそうですけど、覚悟が大事なんです」
「すごい。私には絶対無理だわ」
「そして最低三年の教育を受けた後、晴れて御主人様にお仕えできるんです」
「えっ、ちょっと待って。渚ちゃんて何歳?」
「私ですか? 十七ですけど」
「えぇー。だったら十四の時からその会社に入って、メイドの教育受けてるの?」
 渚は事もなげに頷いてみせる。
「はい。でも私はもっと前からいるんです」
「……学校は?」
「それはちゃんとしてますよ」
 ……ゴメンなさい、先生。
「あ、先生。もう無いみたいですけど」
「あ、ああ」
 渚が冬馬に缶ビールを渡すと、冬馬はそれを軽く傾けた。
 瑞穂の買ってきた酒が無くなった頃には、もう九時になろうとしていた。
「もう無いのか。ったく辛島、もっと買ってこいよな」
「何よ、最初は呑む気無かったくせに」
「仕方ない。俺の日本酒でも呑むか」
 立ち上がろうとした冬馬を、渚が慌てて止める。
「あ、先生。私が持ってきますよ」
「悪いね」
 渚は書斎から今日買ったばかりの一升瓶を持ってくると、台所からコップを二つ出した。
「あれ、一つ足り無いぞ」
「私はいいですよ」
「ほらほら、渚ちゃんも呑もうよ。結構呑みやすいし、少しだけでいいからさ」
 うぅ〜、確か日本酒ってビールより強いんだよね? そんなの呑めないよ。
「おい、辛島。もう酔ってんのか? あまり無理に呑ませようとするなよ」
「違うわよ。ただ私は、もっと渚ちゃんと親しくなりたいだけよ」
 だったら、呑まないとダメかな。私が呑まないと場が白けそうだし。
「それでは私もいただかせてもらいますね」
 渚が立ち上がると、冬馬は心配そうな瞳を向けた。
「別にいいんだぞ」
「大丈夫です。私ももっと先生や瑞穂さんと仲良くなりたいだけですから」
 渚がコップを持って戻ってくると、すぐに三つのコップが満たされた。三人は改めて乾杯の音頭を取ると、軽く傾ける。
「ふーっ、美味しー」
「まったくだ。どう、佐倉さん?」
「喉が熱いです〜」
 何で先生も瑞穂さんも平気で呑めるの?
「すぐ慣れるよ。最初は私もそうだったし」
 そう言いながら瑞穂はコップを傾ける。
「ゆっくり呑めよ」
「はい」
 また口をつける。だがやはり熱いだけにしか感じられず、渚は顔を顰めた。
「渚ちゃんカワイイ」
「何だ、そう言う趣味があったのか?」
「違うわよ。まったく渚ちゃんも可哀想よね。こんな万年発情男の世話しなきゃならないんだから」
「いえいえ、そんなことは無いですよ。まだお会いして日も浅いですけど、私なんかにも優しくしてくれますよ」
「やっぱり見る人はちゃんと見てるんだな」
 冬馬は勝ち誇ったような笑みを浮かべつつ、瑞穂へ眼を向けた。だが瑞穂は別段動じず、逆に憐れみを込めた眼差しを冬馬へ送り返す。
「お世辞だって気付かないのって悲しいわね」
「腹立つなぁ」
 えへへ、やっぱり仲良いんだぁ。
「まあまあ、先生。あ、瑞穂さん、もう無いじゃないですか」
 渚は瑞穂のコップに継ぎ足す。
「ありがと。でもそう言う渚ちゃんも、もう無いじゃない」
 今度は瑞穂が渚のを満たしていく。
「あ、あ、注ぎ過ぎです」
「大丈夫よ、そのくらい。ね、冬馬」
「ま、呑めそうだから大丈夫だろ」
 あぅ〜、先生まで。……でもなんだか呑めそうな気もしてきたし、いいかな。
「そう言えば先生はホラーとかを書いていますけど、瑞穂さんはどんなのを書いているんですか?」
「私は恋愛小説とかかな。他にはSFホラーとか……ま、色々」
「瑞穂さんすごいです。あの、もしよろしければ今度読ませていただきますね」
「渚ちゃんは本当にいい娘ね。うん、だったら今度持ってきてあげるから」
「ありがとうございます」
 あ、でもその前に先生の読まないと。
「くぅ〜、こんなカワイイ娘が冬馬にメイドだなんて、もったいねいわね」
「どう言う意味だ?」
「どう言う意味も何も、言葉通りよ。アンタ、そんなこともわかんないの?」
「お前は可愛くないな。少しは佐倉さんを見習えよ」
 渚は恥ずかしそうに、だが嬉しそうに頬を緩めながらコップに口をつける。
「へぇー、やっぱり冬馬は渚ちゃんのこと、そう言うふうに見てたんだ」
 み、瑞穂さん〜。
「そりゃ多少はな」
「でも無理よ。だってこんなにカワイイんだったら、きっと彼氏がいるわよ」
「えっ、あの、そんな人いませんよ。だって私、男の人とお話ししたこともほとんどありませんから……」
 恥ずかしそうにうつむく渚を、冬馬と瑞穂は目を丸くして覗いた。
「うそー、こんなにカワイイのに?」
「そりゃ意外だ」
「あの、でも本当ですよ」
 うぅ〜、何で二人共そんなこと言うの? 私より瑞穂さんの方がずっと綺麗じゃない。
「でもよかったね、冬馬。これで少しはチャンスがあるんじゃない?」
 チャンスって何〜?
「お前は人の心配するより自分の心配しろよ。大体二十三にもなって男の一人もいないんじゃこっちが悲しくなってくるよ」
「余計なお世話よ!」
 ふと時計を見てみると、もう十一時だった。あんなにあった日本酒も、もう残り少ない。
「そろそろ買い出しに行かなきゃなんないのかな?」
「大丈夫。こんな時のために、だ」
 そう言うと冬馬はおもむろに台所に行き、どこからともなく新しい一升瓶を取り出してきた。
「先生すごいですー」
「はっはっは、見直したか」
「冬馬もたまには役に立つのね」
「お前は一言多いんだよ。ま、そんなこと言う奴には呑ませないだけだし」
「あ、冗談よ。もう、やっぱり冬馬って素敵」
「調子のいい奴……」
 何はともあれ三人のコップが満たされると、各々顔を見合わせては幸せそうに微笑んだ。
「しかし佐倉さんも呑むねぇ」
「そんなこと無いですよー。でも、お酒って美味しいんですね。先生の気持ちが少しわかりました」
「ダメダメ、そんな気持ちわかっちゃ」
「瑞穂さんは先生のこと嫌いなんですか?」
「いや、あの、そう言うことじゃなくてね。ほら、何て言うのかな……」
 もー、瑞穂さんも素直じゃないんだから。
「ほらほら、佐倉さん。あんなのはいいから、呑もうぜ」
「はい」
 冬馬と渚がコップを重ねると、瑞穂もそこに割って入ってきた。
「何だよお前は」
「渚ちゃんを一人占めしようったって、そうはいかないわよ」
「えへへ、瑞穂さん好き〜」
「私もー。渚ちゃんカワイイし」
「そんなこと無いですよ。瑞穂さんの方が、ずーっと綺麗ですし、スタイルもこーんなにいいじゃないですか」
「またー。そう言ってるとキスしちゃうよ」
 瑞穂は渚に抱き着き、うっとりとした顔を寄せる。渚はそれを拒むものの、まんざらではない様子で笑みを浮かべている。
「おい、その矛先を俺に向けろよ。女同士でなんてダメだ」
「何よ、冬馬。邪魔しないでよ」
「えへへ、瑞穂さん、先生にしてあげた方がいいですよ。でしたら先生、喜びますよ」
「ダーメ。渚ちゃんだからいいの。冬馬なんかじゃ、もったいないわ」
「それじゃ、私が先生にしてあげます」
「嬉しいねぇ」
「その前に私がもらうわよ」
 瑞穂は渚を引き寄せると、頬にキスした。
「あん、瑞穂さんたら」
 でも気持ちいいなぁ。私もしようかな?
 三人の酒宴とはよそに、月は静かに傾いていた。