エピローグ

 あれから三年が経った。しかもその間は、変わることの無い日常が続いていた。
 何度も冬馬のアパートへ行こうとしたが、そうしてしまうともう戻れなくなりそうで、結局一度も行かずじまいだった。心の弱さを規則と言う名の体のよい言い訳にしていた。
 同じように仕事もできずじまい。あの夏から幾度となく政代に派遣を依頼されたが、それを受け入れられることは一度も無かった。 本当はいけないことなのだが、渚の顔を見れば政代も強く言えなかった。普段は何ともないのだが、瞳の奥はいつも深い憂いを滲ませていた。
 しかし政代も渚を遊ばせておくわけにはいかず、事務員を命じていた。その決定に渚が反対するわけも無く、与えられた仕事をただ黙々とこなしていた。
 誰もが渚はもうダメだと思っていた。そして渚自身ももうダメだと思っていた。立ち直りつつあるとは言え、それは表層でのこと。深層では決して癒えることの無い傷を背負い続けていた。
 だがその傷は色褪せることの無い冬馬との記憶。渚は自分がダメになるとわかっていてもその傷を舐めることをやめず、いつも一人になっては思い返していた。
 しかし時は無情にも記憶を風化させていく。幾ら傷を深めようとしてもそれは無理で、次第に色は落ち、形骸化していく。それでも渚は冬馬を想い、自身をその夢の中へ馳せては記憶を繋ぎ留めようとしていた。
 最も冬馬を意識させたのはネックレスもそうだったが、やはりあの夏に冬馬が著した『蜻蛉』であった。本になると渚はすぐ買い、そうしてあの日に読んだままの文章に強烈な懐かしさを覚え、涙した。
 色々冬馬の著書を買い求めた。そしてその全てを精読した。そのどれもが宝物であり、また強い絆となっていた。
 終わり無き想いに心を馳せ、そうしていつまでも生きて行くものだと思っていた。
 少なくとも今日までは。
「渚、渚はいますか」
「はい」
 数回のノックの後、政代が部屋に入ってきた。渚は蜻蛉に栞を挟みベッドから立ち上がると、政代の前に歩み寄った。
「何ですか?」
「渚、あなたに派遣の依頼が入りました」
「メイド長、私はもう……」
「いいから最後まで聞きなさい。実はですね、二階堂氏からお達しがあったそうです」
「えっ?」
 渚は耳を疑った。久々に聞く名前。だけどその人が一体今更何の用だろう。
「先程お電話が入ったのです。何でも北川氏の小説が完成していないから、もう一度出向いてくれと」
「先生の小説が、完成していない?」
 そんなバカな。だってあの日に見せてもらった原稿はちゃんと本になって、ここにある。なのに完成していないって、どういうこと?
「ええ。ですから二階堂氏は途中で渚をここに戻したのは契約違反だと、そうおっしゃっているのです」
「……」
 完成したからここに戻ったのに、そうでないなんてわけわかんないよ。
「そ、それでメイド長、私は一体どうすればよいのですか?」
 政代はそれを聞き、頬を緩めた。
「決まっているでしょう。もう一度北川氏の許へ行きなさい」
「はい」
 信じられない。何がどうなっているのかわかんないけど私、もう一度先生に会えるんだ。先生のメイドになれるんだ。
 思わず涙が溢れた。
 朝早い通達だったので支度は午前中に済ませ、午後から行くことになった。渚はあの日と同じ格好をしながら遥と食事を済ませると、最後の確認を行った。
「これでよし。さあ、行こう」
 出発前の挨拶にと、渚は政代の部屋を訪れた。政代は書類の整理をしていたが、渚に気付くなり顔を向けた。
「それではこれから行きますね」
「しっかりお世話するのですよ」
「はい」
 一礼し、部屋を出ようと背を向けた途端、
「あ、渚」
 政代に呼び止められた。
「何です?」
「……何かあったら、戻ってもいいのですよ。今回はそう伝えられてもいるのですから」
「はい、わかりました」
「では、いってらっしゃい」
 少し寂しそうな政代の笑顔が気になったが、それよりも冬馬にまた会える喜びで渚の胸はいっぱいだった。
 電車を乗り継ぎ、思い出の駅に降り立った頃にはもう三時を回っていた。
「懐かしい……」
 三年前と変わらぬ町並、懐かしい匂い、空気。その全てが止まっていた渚の時をゆっくりと動かす。
 アパートへ近付く程に胸が高鳴り、歩く足が震えた。何度か恐怖に似たものが胸を突く。その度に立ち止まっては深呼吸し、また前に歩いた。
「……着いた」
 アパートのドアの前に立つと、渚は何度もここが冬馬の家だと確認した。そして確認が済むと一つ大きく息を吐き、震える手でチャイムを鳴らした。
 再会の言葉は決まっていた。初めて会った時と同じ言葉にしよう。そう何度も思い、心の中で繰り返していた。
「……あれ?」
 幾ら待ってもドアは開かない。寝ているのかと思い、もう一度押す。
 だが幾ら待っても、何度押してもドアは開かない。次第に堪えきれなくなり、ドアノブに手をかけると、鍵がかかっていた。
「外出でもしてるのかな」
 仕方ないので、しばらく待つことにした。
「……遅いなぁ」
 時計を見るともう四時だった。幾ら待てども冬馬は帰ってこない。
「もしかして、先生引っ越したのかな?」
 可能性はゼロではなかった。政代にその確認は取っていないし、ここが冬馬の家だと信じて立っているのも、三年前の記憶を頼りにしているだけだ。
「先生……」
 心細い。本当にどこにいるの。こんなにも会いたいのに、折角こうして来たのに会えないなんて、ひどいよ。
 とにかくもう待っていられなかった。三年も待ったのだ。これ以上ここにいられない。渚は政代に連絡しに、公衆電話へと向かった。
「あっ……」
 うさぎさんの匂いがする。
 一陣の風に誘われ、渚は導かれるように小学校へと歩いた。
 金網の前にしゃがみ込むと、熱い眼差しを送った。よく見ればうさぎも代替わりして、新顔が目につく。
「えへへ、こんにちは」
 だがすぐに馴染めた。渚は雑草を引き抜き、近くのうさぎに食べさせる。
「うぅ〜、カワイイなぁ 」
 不意に背後に気配を感じさせた。
「渚お姉ちゃん?」
「美帆ちゃん?」
 振り向く間も無く美帆が渚の隣にしゃがみ込んだ。背も大きくなり、顔立ちも幾分か整った美帆が、渚を覗き込む。
「久しぶりだね。どこ行ってたの?」
「お仕事の関係でちょっと、会社に戻ってたんだよ」
「会社? お姉ちゃん働いてたんだ」
「うん。で、また戻ってきたの」
「そうなんだ。じゃあまた一緒にうさぎを見られるんだ」
「うん」
 それからうさぎを見ながら色々なことを話した。聞けば美帆も小学校六年生。あれから友達も増え、家庭も円満になっているらしい。
「よかったね、美帆ちゃん」
「うん。でも心配したんだよ、渚お姉ちゃん突然いなくなって」
「ごめんね。もう、大丈夫だから」
「わかってる」
 と、いきなり背後から腕を掴まれた。
 わわっ、誰? 何?
 驚いて振り返ると、冬馬が微笑んでいた。
「いつまでこんなとこにいるんだ?」
「先、生……」
 少しやつれたような、だけどあの日と変わらない先生。やっと会えた、ようやく会えた。
「ほら、帰るぞ。晩メシの支度をしなきゃならないだろうからな」
「はい」
 嬉しくて、たまらなくて、涙が溢れてきた。
「もう、ずっと私は先生のメイドです」
「あぁ、話は聞いたよ。さあ、帰ろうか。どうにも腹減ってさ。今日は美味いもの食わせてくれるんだろ?」
「はい、もちろんです」
 渚は立ち上がり、冬馬と抱き合った。
 先生、私の先生。もう絶対に離れないんだから。ずっと一緒なんだから……。

 永遠に紡ぐべき物語
 長く眠っていた想いも時も
 今またゆっくりと動き出した……。