八月七日 火曜日

 初仕事を紹介されてから三日が経った。長くもあり、あっと言う間だった気もするが、とにかく今日がやってきた。
「渚、いいかしら」
 朝食を済ませ、持ち物を再確認していると政代が部屋に入ってきた。
「これが紹介状です。無くさないように気を付けて下さいね」
 それを受け取り、中を見てみる。
「あの、ここに書かれている二階堂宗司さんとは一体誰ですか?」
 普通は依頼人がそのまま主人になることが多い。今回の主人は冬馬だと聞かされていた渚は、少しばかり動揺した。
「それは依頼人よ。何でも今回の件は北川氏本人には伝えていないらしいの」
「何でです?」
「それは私にはわからないわ。でも、そんなことは渚が心配する問題ではありませんよ」
「はい、そうですね」
 そう、私はお世話することだけ考えればいいのよ。
 渚は紹介状をバッグの中に大事にしまうと、もう一度政代の瞳を見た。
「それでは、いってきます」
「あ、ちょっと待ちなさい」
 バッグに手をかけた渚を政代が呼び止める。
「はい、何でしょう?」
「……もう、お昼も近いからここで食べていきなさい」
「……はい」
 メイド長としてではなく、育ての母としての優しさを感じ、渚はバッグから手を離した。
 昼食はいつものように寮の食堂で遥と一緒に採ることにした。
「ねぇ、渚」
「ん、何?」
「初仕事前はどんな気分?」
 遥は味噌汁から口を離すとそう訊ねてきた。
「どんな気分って……」
 正直、どう言えばよいのか渚自身わからなかった。嬉しいのか、不安なのか、それともまた別の気持ちなのか。
「よくわかんないけど、ドキドキしてる」
「ふふ、渚らしいわね」
「お姉ちゃんは初めての時、どうだったの?」
「私? 私はね……」
 ふっと遥の瞳が遠くを見た。が、それもほんの一瞬だった。すぐにいつもの顔に戻る。
「大変だったわよ。なにもかもが初めてだからね。今まで自信を持ってできたことも全然ダメ。失敗の連続だったわ」
「そ、そうなの?」
「でもね、その時の御主人様が優しい人だったから何とかやり遂げられた。ついてたのよ、私は」
「へぇー、羨ましい。私も優しい御主人様だといいな」
「なかなかいないよ、そんな優しい人なんて。大体はワガママな御主人様ばかり。渚の今回の御主人様は確か小説家だっけ?」
「うん、そうだけど」
「それなら特に気難しいわよ、きっと。芸術家タイプなんて、みんなそう」
「……お姉ちゃん、行く前から不安にさせないでよ〜」
 そんな渚を遥がさも楽しげに笑いながら、昼食の時間は過ぎていった。
 渚は部屋に戻るともう一度荷物を確認した。
「えっと、服と下着は大丈夫。洗顔とかの用意も大丈夫。もしものためのお薬も持ったし、紹介状や地図も持った。それに……」
 一通り確認を終えると渚はポンとバッグを叩き、鏡の前で身だしなみを整えた。
「うん、大丈夫」
 渚はボストンバッグを手にすると、今まで慣れ親しんだ部屋を新たな気持ちで後にした。
「では、いってきます」
「はい、がんばるのですよ」
 政代に挨拶をすると、渚は会社を出た。
 暑い日差しが肌を射る。アスファルトの照り返しも激しい今日だが、渚はそれすらも新しい門出を祝ってくれているように思えた。
 御主人様が優しい人だったら、いいな。
 ふと渚は空を見上げた。陽光が痛い程眩しく、目を開けていられない。
 ……でも、ちゃんとお世話できるかな。
 一抹の希望、不安を胸に抱き、渚は電車に揺られてまだ見ぬ主人に想いを馳せた。
 電車を乗り継ぎ、地図を頼りにようやく冬馬の待つアパートの前に着いた頃には、もう二時を回っていた。
 ここかぁ。
 目の前にそびえる比較的新しそうなアパートを地図で確認すると、渚は一段一段感慨深く踏み締めながら上る。
 そして目的の部屋の前に立つと、大きく息を吐いてからチャイムを押した。
 数瞬だが永遠とも思える間。そしてゆっくりとドアが開く。
「あの、どちら様でしょうか?」
 出てきたのは背の高い、眼鏡をかけた男性。優しげな瞳が幾らかの訝しさを伴って渚に注がれる。
 ……この人が御主人様なんだ。
 渚は胸が詰まりそうな想いを、これまで何度も練習した言葉と共に吐き出した。
「私、啓神メイド派遣所からこの度二階堂宗司さんの紹介でここに派遣されることとなった、佐倉渚と申します。これからしばらくの間北川先生をお世話することになりましたので、どうぞよろしくお願いします」
「は?」
 満足そうな渚とは対照的に、冬馬は困惑しきっている。
「えっと……」
 あ、やっぱり突然のことだから何だかわからないみたい。えっと……、あ、そうそう、紹介状渡さなきゃ。
 渚はバッグから紹介状を取り出す。
「これが紹介状です」
 冬馬がそれを受け取り、読み始める。が、それでも相変わらずの表情でいるので、渚は気が気ではなかった。
 ようやく冬馬がそれを全て読み終えたらしかったが、まだ今一つ釈然としない表情を浮かべていた。
 どうしよう。私、追い返されるのかな。
 だが不安を顔に出す訳にはいかない。渚は笑顔のまま冬馬を見詰める。
「あ、えっと、じゃあここでちょっと待っていて」
「はい」
 冬馬はそう言って、返しかけた踵をまた渚の方へ戻した。
「とりあえず上がって。それで、そこのソファに座って待っていてもらえるかな」
「はい」
 冬馬に通され渚はソファに座ると、電話をかける冬馬を見守った。
 思っていた通り、優しそうな御主人様みたい。……何とか大丈夫そうかも。
 冬馬が電話で二階堂と言い合っている最中、渚は部屋の中を見回していた。
 割と広めの室内は、思っていたよりも片付いていた。男の人の一人暮らしなのにこうなのは、きっと綺麗好きか、恋人でもいるのだろう。などと余計なことにまで頭が働く。
 そんなことを考えていると、電話を終えた冬馬が渚に向き直った。
「えっと……、まぁ、そう言うわけなんだね。一応話はわかったよ。ま、これからよろしく頼むよ」
 ……よかった。私、お世話できるんだ。
「こちらこそよろしくお願いします。私、先生がお仕事に専念できるよう、一生懸命がんばります」
「あ、あぁ」
 それから会話が途切れ、少し気まずい沈黙が場を支配する。何とか話でもして空気を変えようと思うのだが、何をどう話せばいいのかわからず、結局押し黙ったままになる。
 不意に冬馬が立ち上がった。
「えっと、それじゃこれから家の中を案内するよ。と言ってもそんな大層なもんじゃないけどね」
「お願いします」
 3LDKのアパートなので、説明はものの五分で終わった。必要最小限の物しかないのも、一役買っていた。
「で、ここがこれから佐倉さんの部屋になるから」
「でも、ここは」
 見たところ寝室みたいだけど……。
「ああ、心配しなくていいよ。俺は書斎で寝るから。後で服とかも移すからタンスも使えるようにするし」
「すみません、ありがとうございます」
「ま、気兼ねせず使ってくれよ。そんじゃ、一息つくか」
 渚は荷物を置くと、冬馬に続いてリビングに戻った。そしてソファに座り、冬馬に差し出された麦茶を啜る。
 まだ見ぬ未来への不安が、ほんの少しだけほだされていくような感じがした。
「そうそう、まだちゃんとした自己紹介もしていなかったな。えっと、俺は北川冬馬。一応小説家の端くれとして生きている二十五歳。あ、俺の本とか読んだことある?」
「いえ、すみません……」
 はぁー、ちゃんと読んでおけばよかった。……私のバカ。
「あ、いや、別に謝ること無いよ。俺なんてまだ駆け出しなんだしさ」
「本当にすみません。でも、これからお時間があれば必ず読ませていただきます」
「はは、ありがとう。でも何か照れるなぁ」
 冬馬は頭を掻きながら小さくうつむいた。
「ま、俺に関してはとりあえずこんなとこかな。まだ色々話さなきゃならないんだろうが、どうもこういうのは苦手でね」
「それじゃ、次は私の番ですね」
 渚は居住まいを正すと、冬馬を見据えた。
「えっと、私はこの度啓神メイド派遣所から二階堂宗司さんの紹介でこれから北川先生をお世話することとなった、佐倉渚と申します。……って、これさっきも言いましたね」
 渚は照れ笑いを浮かべる。
「やっぱり、こう改まって自己紹介すると変に緊張しちゃいますね」
「まあな。ところで佐倉さんはいつまでここで働く予定なの?」
「正式な期限は伝えられていないので、とりあえずは無期限ってことになりますね」
「そっか。じゃあなおのこと、早目に緊張しないようにならないとな」
 そっか、そうだよね。早く先生と仲良くならないと……。
「えへへ、そうですね。あの、でしたら私のことは『佐倉さん』ではなく、『渚』って呼び捨てでもかまいませんから」
 だが冬馬は少し困ったように眉根を寄せる。
「いや、やっぱりそれは俺の方が恥ずかしいから、『佐倉さん』で呼ばせてもらうよ。あ、どうしてもって言うんなら、そうするけど」
「えっ、いえ、先生の呼びやすい方で結構ですから」
 私ったら、何言ってるんだろう。
 途端に恥ずかしさが込み上げてきた渚はそんな自分の心を切り替えるよう、別の話題に移した。
「あの、先生は何かお好きなものとかありますか?」
「そうだな……、強いて言えば酒かな」
「お酒ですか」
「ああ。他の何よりも酒が好きだね。って言うか、酒を呑まなかったら書けないくらいだ」
 ……アル中? 大丈夫かなぁ。
「そうなんですか」
「ま、でも昼間からは呑まないけどね。そう言う佐倉さんはどうなの?」
「私はお世話することですね」
「お世話?」
「はい。私、お世話して喜んでもらうのが好きなんです」
「そりゃ偉いな。俺にはできないよ」
 偉い? 私が?
「そんなこと無いですよ。私からしてみれば、先生の方がずっとすごいです」
「何で?」
「だって先生は大勢の人々を感動させたりできるんですよ。それはとても素晴らしいことです」
「感動、ねぇ」
 冬馬は複雑そうに口の端を歪める。
「ま、何にしろ、お互い好きでやってることなんだ。それが何であれ、少なくとも自分を幸せにできているんならいいんじゃないの?」
「えへへ、そうですね」
 気が付くと二人のコップは空になっていた。冬馬もそれに気付いたらしく立ち上がろうとしたが、先に渚が制した。
「あ、私がやりますから」
「あ、ああ。じゃあ、お願い」
 渚は台所へ行き、冷蔵庫からガラスのクーラーポットに入った麦茶を取り出し、コップに注ぐ。
 来る前からそうしないようにって決めていたのに、やっぱりダメだな。緊張しちゃう。
 でも、私がこんなんだったら、先生はもっと緊張しちゃうよね。そうしないようにするのも私の、メイドの役目だよね。
 麦茶を注ぎ終えると、渚はリビングに戻り、冬馬にそれを差し出した。冬馬はそれを一息で半分程飲むと、大きく息を吐いた。
「ところでメイドって一体どんなことをしてくれるんだ?」
「えっと、基本的には何でもしますよ」
「何でも?」
 よほど意外だったのか、冬馬の声は裏返り目が大きく開かれる。
「家事全般?」
「はい。苦手なものもありますけど」
「買い物も?」
「はい。いつでも行きますよ」
「小説の意見とかも聞かせてくれるの?」
「はい。私なんかの意見でよろしければ」
「そっか……」
 感心したように冬馬は腕組みする。
「じゃ、さっそくだけどさ」
「はい。何でしょう」
 何だろう、最初のお仕事は……。
「脱いで」
「えっ?」
 な、何を言い出すの?
「何でもしてくれるんだろ、ほら」
「え、えっと、あの、それは……」
 何なの? ……やだ、どうして、どうしてそんなこと言うの?
「ほら、早く」
「……」
 どうしよう。私、脱がなきゃいけないの?
「なーんてね」
「え?」
 ぱっと冬馬の顔が明るくなり、戯けたような笑みをたてている。
「冗談だよ、冗談。そんなことさせないって」
「あ……」
 よかった。……でも、もうやめて欲しいな。
「ま、悪かったね。うん、できる範囲でがんばってくれればそれでいいよ。俺もあんまり無茶なことはさせないから」
「は、はい。一生懸命がんばります」
 ようやく優しい顔に戻った冬馬を確認すると、渚の心も幾分か晴れた。
 そうだよ、折角の初仕事なんだからつまんないことで怒ってちゃダメだよね。きっとあれは先生なりに私の緊張をほぐそうと……。
 ふと先生の顔を見ると、何だか元気無さそうだった。何か考え事でもしているのか、時折溜め息をついている。
「あの、どうかしましたか?」
「ん、あ、いや、何でもない」
 ……そうかな?
 冬馬は麦茶を一口飲むと、思い詰めたような顔から一転して、優しげな微笑を浮かべた。
「さて、それじゃさっそく仕事でもしてもらおうかな。と言っても……」
 割と小綺麗ではあるものの、やはり渚からしてみれば乱雑だと思ってしまう。
 でも、これなら半日あれば大体片付くかな。
「えっと、それではお台所から片付けますね。あ、その前に着替えますので、少しお時間をいただきますね」
「ああ。じゃあ俺はそれをじっくり見させてもらおうかな」
「えっ、ダメですよ……」
 先生って、エッチなこと好きなのかな? でも、何で初対面の私にこんなこと言うの? 幾ら何でも……。
「冗談だってば、もう」
「あ……」
 何かこういうの慣れないから、疲れるなぁ。
「では、失礼して」
 立ち上がり、寝室の襖に手をかけてから渚がもう一度冬馬の方を振り返る。
「あの、覗いちゃダメですよ」
「わかってるって」
 渚は寝室の中に入った。
 バッグの中から着慣れたメイド服を取り出し、着替え始める。
 気を遣ってくれているんだろうけど、ああエッチなこと言われるのはちょっと……。
 どんな人が御主人様になってもいいように、一応の覚悟は決めてきたつもりだった。けど、それは結局都合のよい架空の相手でしかなかった。こうして本物の御主人様を相手にしていると、どうしても戸惑ってばかり。
 お姉ちゃんの言ってた通りだ。
 メイド服に袖を通すと急に不安に包まれる。
 ……でも、やるしかないんだよね。
 エプロンと共に決意も引き締めると、渚は一つ息を吐いてから寝室を出た。
「えっと、どうですか?」
 初めて会社以外の人に見せたメイド服姿の私。先生はどんなこと言ってくれるんだろう。
「何だかそれ、地味だね。俺、もっとメイド服って派手なものだと思っていたよ」
 ……地味? そうなの……かなぁ。
「そうですか? えっと、先生はどんなものだと思っていましたか?」
「ん、いや、例えばもっとフリルが大きかったりとか」
「えへへ、でしたらカワイイですね。でも、それだとお仕事しづらいので、きっとこうなったんだと思います」
「なるほど」
 冬馬は納得したらしく、一つ頷く。
「ま、がんばってくれよ」
「はい、ありがとうございます。ではさっそく、お台所を片付けますね」
 渚は台所に立つと、まだ手付かずの食器に手を伸ばした。
 ようやく私、お仕えできるメイドになったんだ。
 夢にまで見たこの日、この瞬間。幼い頃から毎日訓練してきたのも、全ては今日のため。おかげで人並みの遊びや青春と言うものを知らないままだが、それでも私の胸は喜びで満たされていた。
 洗い物を全て片付けると、次は洗濯だった。
「先生、どれをお洗濯してよろしいんです?」
 衣類の移動のため書斎と寝室を往復している冬馬が足を止め、辺りを見渡す。
「全部やっちゃっていいよ」
「わかりました」
 渚は洗濯籠に溜まっている洗濯物を洗濯機に入れると、スイッチを押して始動した。そしてそれが終わるまでの間、リビングに掃除機をかけ始める。
 洗い物や掃除は好きな方なので、幾ら量が多くてもそんなに苦にはならなかった。汚れが落ちてまた新品同様にピカピカになるのを見ると、心まで綺麗になるような感じがする。その感覚が渚にはたまらなかった。
 一通りリビングが綺麗になると、渚は書斎の襖を開けた。中では冬馬が座椅子に座ってタバコを吸っている。
「先生、後で書斎もお掃除しますね」
「いや、ここはいい」
「どうしてです?」
「ここは小説に関する資料とかがあちこちに置いてあるからな、勝手に動かされたらわかんなくなるんだ」
 そう言われても渚には雑然となっているようにしか見えなかったが、冬馬がしなくてもいいと言うのならば、渚は何もできない。
「まあ、ここは俺が片付けるから」
「わかりました。その他の場所はしてもいいんですね?」
「ああ、頼む」
 書斎の襖を閉めると丁度洗濯機が止まったらしく、渚はまたそっちの方へ戻った。
 あらかた片付け終えた頃にはもう六時になっていた。冷蔵庫にあるものは勝手に使ってもいいと言われていたので、渚は夕食の準備にとりかかる。
 どうしよう。私、お料理はあまり得意じゃないから、先生を満足させられるようなもの作れるかなぁ。
 だが作らないわけにはいかない。幸い冷蔵庫には一通りの食材が揃っているので、調理はできる。
 何とかなるよね、きっと。
 汗が一筋、渚の背を伝った。
 夕食は焼き魚に味噌汁、そしてサラダと言った簡単なものではあったが、渚にしてみればそれでも幾らかの苦戦を強いられた。だが、そのかいあってか、味は悪くない。
「いやー、本当に一通りのことはできるんだね。部屋も驚く程綺麗になったし、メシも美味いしさ」
 冬馬の言う通り、部屋全体がこざっぱりとなっている。まるで引っ越しをしたばかりの部屋に家具を置いたような感じが、雰囲気として伝わってくる。
「えへへ、ありがとうございます。でも本当にそんな大したことはしてませんよ。元々、先生がちゃんとしていらしたからですよ」
「そんなこと無いよ。佐倉さんがやらなかったら、ちょっとこうはいかないな」
 嬉しい。御主人様にお世話して喜ばれるのって、こんなに気持ちいいものだったんだ。
 謙遜しつつも、渚はしっかりと喜びを感じ、それを素直に笑顔で表していた。
「でも本当、すごいな。俺にはできないよ」
「私も一応はメイドですから、こういうのが専門なわけで」
「俺には負けられない、と?」
「あ、えっと……」
 やだ、私、何言ってんだろ。
「はは、いいんだよ。負けられちゃ困るし。ま、俺も佐倉さんに小説の方で負けないよう、がんばらないとな」
「それは心配しなくても大丈夫ですよ。私、芸術とかの才能ってありませんし、それに小説なんて書けませんから」
「いやいや、意外に隠された才能があったりしてな」
「だといいんですけどね」
 照れ隠しのように渚は味噌汁を啜る。
「あの、先生は動物とかはお好きですか?」
「動物?」
「はい。私は結構色々なのが好きなんですよ。イヌとかネコとか……あ、ウサギも好きです。先生はどんなのがお好きですか?」
「俺は動物自体あまり好きじゃないな」
「そうなんですか?」
「ああ。小さい頃野良犬に追っかけられてね。それ以来あまり好きになれなくなったんだ」
 自嘲気味に話してはいるものの、どこか苦々しそうな冬馬の様子に、渚は焦りを感じていた。
 どうしよう。先生、もしかして気を悪くしたかな。……そう、かもしれないよね。動物が嫌いだって言ってるのに、動物の話しちゃったんだから。
「あの、でもきっとそれは先生にじゃれようとしただけですよ」
「ま、今となったらそうかなと思うけど、あの時は怖かったな。今でも時々夢に見るし」
「えっと……」
 うぅ〜、私のバカ。
 夕食を終えると冬馬は執筆のために書斎に入った。渚は食器を台所へ運ぶと、さっそく洗い物にとりかかった。
「はぁー、自信無くしちゃうな」
 茶碗を洗いながら渚は溜め息をついた。
 家事の方は自分でも及第点を与えられる出来だったように思えたが、会話のやりとりなどに関しては全くダメだった。
 本当なら先生の気持ちをよい方向へ持って行かなきゃならないのに……。
 責任が重荷へと変わる。渚は洗い物を全て片付け終えると、寝室に入った。
「どうしたら先生と仲良くなれるんだろう?」 壁に凭れ、渚は天を仰ぐ。
「……焦っても何にもならないってわかってるんだけど、でも……」
 溜め息が力無く漏れる。
 啓神メイド派遣所と言う小さな世界しか知らない渚にとって、今日は何もかもが発見の連続だった。
 が、同時に不安と緊張の連続でもある。初仕事と言うこともそうなのだが、それ以上に渚を固くさせているのは、この状況だった。
 私、こうして男の人と話すの初めてなのに、これから住み込みだなんて、やっていけるのかな?
「佐倉さーん、ちょっといいかな?」
「はい」
 何だろう。
 不安を抱きつつ、渚は書斎の襖を開けた。
「どうしました、先生?」
「いや、ちょっと小説が行き詰まってね。で、もしよかったら意見でも聞かせてもらおうかなと思ったんだ」
 座椅子に凭れ、冬馬は顔だけ向けている。
「でも私なんかの意見でよろしいんですか? あの、お役に立てそうなことは言えないと思いますけど」
「心配しなくていいよ。あ、そこら辺に適当に座ってくれ」
 言われて渚は冬馬の側に正座する。
「あ、楽にしていいよ。疲れるだろう」
「すみません。では、失礼して」
 渚が足を崩したのを見計らってから、冬馬はタバコを手にした。
「タバコは大丈夫?」
「はい。あの、先生、それはお酒ですか?」
 渚は冬馬の手元にあるコップと一升瓶とを交互に見る。
「そう、これが無いと書けないからな」
 本当にお酒呑んで書いてるんだ。でも、それで大丈夫なのかな。
「あ、それでえっと、私は何を言えばよろしいんですか?」
「そうだな、俺はホラーとかサスペンスを主に書いているんだけど、その中で濡れ場を入れることが多いんだよね」
「はぁ」
 ……濡れ場って何だろう?
「で、脱いで」
「えっ?」
 な、何でそうなるの?
「だから、ある少女が仕方なく男に抱かれるシーンを書かなきゃいけないんだけど、いまいち感じが掴めなくてね」
「あ、あの……」
 視線を定められず、渚が少し身を引く。
「意見を聞かせてくれと、先生そう言いましたよね?」
「ああ。だから脱いだ後にどう思ったのか聞かせて欲しいんだ」
「あ……」
 冗談だよね。きっとまた、先生の冗談だよね。……でも何で真剣な瞳をしてるの?
「……佐倉さん」
「……は、はい」
 重い響きを持つ冬馬の言葉が、否応無しに渚の胸を締め付ける。
「びっくりした?」
 ぱっと冬馬の顔が弾ける。と同時に渚の胸に安堵よりも大きな怒りが込み上がってきた。
「先生……」
「悪い。冗談だってば、もう。すぐ怒ってばかりだと、つまらない人間になるぞ」
「……先生は意地悪です」
 冬馬はタバコに火を点けると、溜め息と共に吐き出した。
「さて、じゃ、本題に入るか。佐倉さんは本は読んだりする?」
「えっと、読むのは好きなんですけど、あまり数は多くないですね。でも、ホラーとかは怖いので、正直あまり読んだこと無いんです。先生はそういう作家さんですよね」
「ああ。そういうのばかり書いてるよ。他のジャンルも機会があれば書こうと思ってるが、なかなか実行には移せないんだ」
 冬馬は酒の入ったコップを傾ける。
「で、今回もそう言う路線で行こうと思ってるんだが、いいアイデアが浮かばなくてね。何でもいいから、何かないかなぁ」
「えっと……」
 そう言われても何をどう言ったらよいのかさっぱりわからない。そもそもホラーやサスペンスの面白さを今一つ知らないのだ。渚はただ眉根を寄せるだけで精一杯だった。
「すみません。先生の作品を読んだことが無いので、何をどう言えばよいのか……」
「ああ、悪かった」
「あの、それでもしよろしければ先生の作品を拝見させていただけませんか。でしたら私も何か言えるかもしれません。あと、それとは別に先生の作品を読んでみたいんです」
「ああ、いいよ」
 冬馬は立ち上がると、本棚から二冊の本を取り出し、渚に手渡した。
「えっと、こっちがデビュー作で、これが最初のヒット作となったやつ」
「ありがとうございます」
 頭を下げながら、渚はそれを大事そうに膝の上に置く。
「そうそう、佐倉さんはお酒呑める? もし大丈夫だったら、ちょっと呑まない?」
「いえ、すみませんが今日は遠慮させていただきます」
 前にお姉ちゃんに薦められてビール呑んだけど、苦いだけで何も美味しくなかったから、先生には悪いけど付き合えないなぁ。
「あ、別に謝らなくてもいいよ。今日は色々と疲れてるだろうから」
「すみません」
 折角先生が誘ってくれたんだから、少し付き合えばよかったかな。
「ま、今日はもう寝た方がいいよ。俺はもう少し書いてから寝るから」
「はい。それではおやすみなさい先生。お仕事がんばって下さいね」
「ああ、おやすみ」
 渚は書斎を後にすると、寝室に入った。
 パジャマに着替え、そろそろ寝ようかと思ったが、折角借りた本だ。少しだけ読もうかと電気を消す手を止め、布団に寝転がりながらデビュー作の方を開いた。
「ヘマトフィリアか……」
 タイトルの意味はさっぱりわからない。が、きっと何か意味のある言葉なのだろうと考え、読み進めていく。
 ……先生って、やっぱりすごい。何か、目の前で起こってるみたい。
 ふと、本を読む手が止まる。
 私、何やってるんだろ。先生はこんなにすごい作品を書いて多くの人々に認められてるって言うのに、私は……。
 先生が私に気を遣ってくれてるのがよくわかる。エッチなことも、何だかんだ言って緊張が消えていったし。……でも、私はそんな先生の優しさに対して何を返せたの?
 ふっと渚の表情が曇る。
「お酒、一緒に呑めばよかったかな」
 窓の外へ目を遣るが、今日は月が雲に隠れていた。
 ……考えても仕方ないよね。私は私のやれることをやるだけ。いっぺんに全部やろうとするのは私の悪い癖だよ。
「さ、明日もがんばろう」
 もう日付も変わろうとしている。明日も朝早くからすることがたくさんある。が、
「もうちょっと読んでから寝ようかな」
 また本に目を戻すと、続きを読み始めた。
 ……うわぁ。
 ほんの少しのつもりが話に引き込まれ、渚は明日も早いと知りつつも、ついつい夜更かしをして読んでしまった。