八月二十四日 金曜日

 時は無情の歩みを重ね、平等な朝を迎える。悲しみも、喜びも無しに。彼方から顔を出した太陽は柔らかな陽光で世界を照らす。現在五時十分。
 朝日がカーテンの隙間から書斎を僅かに照らす。しかし書斎には冬馬一人だった。
 渚はもう寝室へ戻り、身支度を整えていた。髪を束ね、私服を着、バッグに全てをしまい、大きく息を吐いた。
「これでよしっと」
 カーテンの開け放たれた窓を見てみる。見慣れた風景。それも今日でお別れとなると、何だか目頭が熱くなりかけたが、今日は涙を見せないと誓い、大きく頭を振った。
「……行こう」
 バッグを持ち、渚は書斎を出た。
 もう一度見納めとばかりにぐるりとリビングを見回す。一ヶ月足らずの生活であったが、どれも愛着を覚える。渚は小さく首を振るとバッグを置き、書斎に入った。
 冬馬はまだ寝ていた。耳を澄ませば微かな寝息さえ聞こえる。渚はそっと冬馬の側に座ると、小さく微笑んだ。
「先生、今までお世話になりました」
 幼子に対してのような優しい呼びかけに、渚自身の心が揺れた。が、すぐに元に戻す。
「私、ここに来て色々なことを学びました。そしてその全てが宝物です。一番大きな宝物、それは人を好きになることでした」
 一瞬の沈黙。しかしすぐにまた冬馬を見詰める。
「先生と出会えて、本当によかった。心からそう思えます。でなければ私、一生人を愛することを知らないままでした。感謝してるんですよ、先生」
 胸が高鳴る。熱い。
「これから私は色々な人に会うでしょう。優しい人、厳しい人。だけど、先生が一番です。先生のことはずっと忘れません。これからもずっと、私の一番です」
 渚はふっと天井を見上げた。そして一つ息を吐くと、また冬馬の方へと目を戻した。
「……私、もう行きますね。これ以上ここにいるとまた先生にご迷惑かけてしまいそうで。それに……ううん、何でもないです」
 渚はそっと冬馬に顔を近付け、
「ずっと愛しています。だけど、これが最後です、先生」
 唇を重ねた。その拍子に冬馬の頬が濡れる。
 数瞬のキスが永遠に思えた。切なさが込み上がり、涙が止まらない。泣かないと決めていたのに、どうしようもない。
「さよなら、先生」
 渚は微笑みを浮かべると、書斎を後にした。そしてバッグを手に一礼すると、外へ出た。
 ひんやりと澄んだ朝の空気は肺に心地よい。渚は頬に残る涙を拭うと、天に笑いかけた。
「これで私の最初も終わりか……」
 思い返せば色々あった。
 初めて出会った日の戸惑いと緊張。
 怒られた日の悲しみ。
 仲直りした日の安堵。
 デートした日の喜び。
   一人苦しんだ日の不安。
 想いが実った日の愛しさ。
 そして今日の切なさ。
 全てが胸を締め付ける。そして様々な感情に伴い、思い出が過って行く。
「うっ……」
 ダメだよ、泣いちゃ。もう泣かないんだから、笑ってこの町を出るって決めたんだから。
「うっ、くぅ……」
 でも、でも止まらないよ。想いが溢れて、ダメだよ……。
 胸元からネックレスを取り出し握り締める。
「──!」
 さよならなんて、嫌いだよ。
 場所も人目もはばからず、渚はうずくまり泣いた。止めようともせず、ただ涙を流した。
「先生──」
 少し早い秋風が胸を掠め、夏の匂いを残して消えた。

「ただいま戻りました」
 会社に戻った渚は、すぐに政代に会った。政代は一瞬いたわるような眼差しを送ったが、すぐにメイド長としての顔に戻った。
「報告書は後で渡します。書けますね?」
「はい。大丈夫です」
「よろしい。ではもう部屋に戻りなさい」
 一礼すると、渚は寮に戻った。
 部屋には遥がいた。何だか久しぶりに見る遥の顔に渚は安堵を覚えた。
「おかえり、渚。どうだった?」
 渚はバッグを置くと、遥に向き直る。
「今はよく、わからない。嬉しかったことも、今は寂しいの」
「ふーん。ねぇ、御主人様はどうだった?」
「いい人だったよ。とっても……」
「恋仲になったりとか?」
「……うん」
 寂しそうに頷く渚とは対照的に、遥はにやけながら渚の顔を覗く。
「へぇー、やるじゃない。渚がそんなことになるとはねぇ」
「……」
 辛そうにしている渚に、遥も次第にからかうことをやめ、そっと渚の側に座った。
「元気出しなよ。そんな渚、らしくないよ」
「うん。わかってるけど……」
「私も渚の気持ちはわかるよ。けどね、そうしてばかりいても何もならないよ」
「……うん」
 そうだよ、何もならないよこんな私。先生だってきっと、きっと……。
 先生。
「うっ……」
「渚?」
「大丈夫だよ。大丈夫だから、ちょっとだけ一人にさせて」
「わかった」
 遥が部屋を出ると、渚は泣き崩れた。
 どうにも、できなかった。