八月二十三日 木曜日

 暑さと雀の囀りに起こされたのは七時半頃だった。渚は再び下がりそうになった瞼を、何度か擦る。
 まだ眠いけど、起きなきゃ。
 布団から出ようと体を動かした途端、不意に後ろから抱き着かれた。
「先生?」
 返ってきたのは寝息だった。
「先生……」
 こうされていると安心する。けど……、
「暑いよ〜」
 渚は必死に冬馬の腕から逃れる。右腕左腕と順々に外し、ようやく解放された時には、すっかり汗だくになっていた。
「……シャワーでも浴びよう」
「シャワー?」
 むくりと半分寝ぼけた冬馬が起き上がり、渚を見る。
「あ、おはようございます、先生」
「おはよう。でもまだ眠い……」
「では、おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
 すぐにまた冬馬は眠ってしまった。渚は少し笑うと書斎を出て、シャワーを浴びた。
「さっぱりしたー」
 シャワーを終えると渚は髪を乾かしながら、寝室で荷物の整理を始めた。冬馬の仕事ぶりからすると今日明日にはここを出なければならない。荷物の整理を進めていると、やはり寂しさが胸に込み上がってきたが、もう幾らか心の整理もついている。涙は出ない。
 リボンで髪を束ねると、台所に立った。今日も味噌汁の支度から一日が始まる。今日の具は豆腐にネギに油揚げ。
 それが終わるとパン一枚程度の軽い朝食。一人で食べていると何だか機械的に思えたが、食べないわけにはいかない。ぼんやりと蝉の声を聞きながら渚は食事を終えた。
「よし、がんばろう」
 立ち上がるとすぐに掃除を始めた。小物の埃を除去し、窓を拭き、ベランダを磨く。それからテーブルを拭き、玄関を掃き、靴磨き。少しでも自分がいた証を残したいけれど、掃除をする程にそれは失われていく。そんな感傷が胸をちくりと刺した。
「何かもっと、思い出が欲しいよ」
 このままでは自分がここにいた夏が、日常に埋没してしまう。平凡な生活が続いているため、ともすれば忘れられてしまう。
「でも、今からだともう遅いかも……」
 テレビを拭く手が、ぱたりと止まった。
 十時頃、書斎から冬馬が出てきた。
「おはよう」
「おはようございます、先生」
「今日も暑いな。寝汗がひどかったよ」
「先生が私に抱き着いたからですよ」
「それは昨日だろ。裸で抱き合っても」
「違いますよ、先生」
「違わないだろ。昨日は二人で汗かいただろ」
「それはそうですけど、私が言ってるのは、今日のお話です」
「今日はまだ何もしてないだろ」
 先生、覚えてないんだ。
「しましたよ。先生、寝ぼけて起きようとした私に抱き着いてきたんですよ」
「本当に?」
「本当ですよ。だから私も汗、いっぱいかいちゃったんですよ」
「そうなんだ。でも全然覚えてないや」
「別にいいですけどね。それより先生、ゴハンはどうします?」
「お茶漬けと味噌汁。すぐ食って手直しに入りたいから、それだけでいい」
「わかりました」
 すぐに渚は台所に立った。
 簡単な朝食なので、支度はすぐに終わった。
「先生、手直しはどのくらいあるんですか?」
「結構あるけど、がんばれば今日中には終わるよ」
「そうなんですか。でも、それだと今日は一緒にお散歩できなさそうですね」
「ああ、ゴメン。忙しいから仕方ないって言うと言い訳にしかならないけど、そうなんだ。ま、明日にしようぜ」
 私に明日は無いんだよ……。
「ええ、そうですね」
 渚は無理に笑顔を作った。
「しかし渚も朝からがんばってたみたいだね」
「これが私のお仕事ですから。それに先生を喜ばせたいので」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか」
「えへへ」
 食事を終えると冬馬は執筆に、渚は洗い物にとりかかった。
「お散歩、無理か……」
 折角思い出の一つにしようと思ってたのに。
「でも、仕方ないよね。先生はお仕事忙しいんだから」
 全てを話せばきっとお散歩してくれるんだろうな。でも、もしかしたらお仕事自体やめちゃうかもしれない。そんなのダメだよ。私が先生の重荷になるみたいで、やだよ。
 洗い物を片付けると、渚は洗濯機を動かし始めた。その間、リビングに掃除機をかける。
「……」
 洗濯機が止まると洗濯物を取り出し、それをベランダの物干し竿に干し始める。今日の天気なら、すぐに乾くに違いない。
「……むぅ」
 全て干し終えると今度はトイレ掃除に移る。床を拭き、便器を隅々まで綺麗にする。
「……何か」
 それが終わると寝室に入り、また掃除。タンスの裏に溜まったゴミを掻き出し、換気をして、掃除機をかける。
「……辛いよぉ」
 スイッチを切ると、渚は布団に倒れるようにして凭れた。
「気持ちの整理は大分ついたと思ってたのに、やっぱり何か……辛いな。胸が苦しいよ」
 胸元からネックレスを取り出し、見詰める。
「メイドとして働けた喜びと、先生と別れる悲しみ。どっちが大きいんだろう……?」
 そんなもの比べたって意味無いじゃない。わかってるのに考えちゃう。ダメだなぁ。
「はぁ……」
 何かもっと先生を感じていたいよ。もっと先生との思い出、欲しいよ。
「……あっ」
 突然渚の頭に天啓のようにあの会話が思い出された。
「チャーハン。先生の作ったチャーハンを食べてみたい」
 喜々として立ち上がろうとしたが、すぐに別の考えが雨雲のように湧いた。
「でも、先生忙しいのにそんなこと頼めない。食べたいけど、ワガママが過ぎるよ。でも、やっぱり食べたい……」
 うぅ〜、私はどうしたらいいの?
 エプロンを握り、うつむく。考えても考えても、答は出ない。
「困ったよ。どうすればいいの。って、もちろんメイドとしては先生を第一に考えなきゃいけないんだけど、私としては……」
 食べたい、うん、そうだよ。今日でここにいられるのが最後なんだから、先生には悪いけど食べさせてもらおう。
 ふと時計を見ると、もう十二時だった。
「失礼します」
 書斎に入ると、冬馬が手を止め渚を見た。
「メシか?」
「はい。でも、何にするか決まらなくて……」
「何だ、そうなのか」
「すみません」
 先生、ごめんなさい。
「そうだな、何にするかな……」
 腕組みし、冬馬は考え込む。
「あの、先生。もしよろしければ私、先生の作ったチャーハンを食べてみたいです」
「チャーハン?」
「はい。前に瑞穂さんがおっしゃってましたよね、先生の作るチャーハンは美味しいと。ですから私、一度食べてみたくて」
「チャーハンか……」
 うっ、やっぱりダメなのかな。
「いいよ、作ってやる」
「ありがとうございます」
 渚は深々と頭を下げた。
 十分もしないうちに、冬馬特製チャーハンができあがった。見た目から美味しそうで、渚の胸は高鳴った。
「さ、冷めないうちに食ってくれ」
「はい。いただきます」
 一口食べてみる。
「どう?」
「美味しいです。本当に。先生、すごいです。お料理上手なんですね」
「これだけはな。他は作れないけど」
「でも得意なお料理があるの、羨ましいです。私、お料理は苦手なんで、そう言うの一つぐらい欲しいです」
「渚は何でも作れるだろ」
「そんなこと無いですよ」
「そんなことあるって。だって渚が来てから色んなメシ食わせてもらってるし。結構勉強したんだろ?」
「はい。でも私が作ったお料理は、先生が作って下さったチャーハンには全然かないません」
「ま、俺だってこれはかなり研究したからな」
 半分程食べて、渚の手が止まった。
「どうした、もう腹一杯か?」
「いえ、そう言うわけじゃありません」
 渚の瞳に涙が滲む。
「先生が私なんかのために作って下さったことが嬉しくて……」
 嬉しくて、それが逆に私のワガママが悪く思え、辛い。先生のお仕事の邪魔してしまった私は、一体何してるんだろう。幾ら食べたかったチャーハンでも、本当は我慢しなきゃダメだったのに……。
 ぽろぽろと渚の頬を涙が伝う。
「おいおい、泣くなよ」
「すみません。でも本当に美味しくて、嬉しくて。私なんかのために先生が一生懸命に作って下さって……」
 涙が止まらない。泣き顔を先生に見せたくないのに、止まらないよ。
「すみません、ワガママ言ってしまって」
「いや、渚のワガママを聞いて作ったわけじゃないよ。これは俺が食いたかったから作っただけだ。だから泣くなよ」
「はい。すみません……」
「もういいから、ほら、食おうぜ。チャーハンは冷めたら不味くなる」
「はい……」
 そう言ってくれる先生の優しさが暖かくて、暖か過ぎて辛くて、私はしばらく涙を止められなかった。
 食事を終えると、冬馬はまた執筆のために書斎に入った。渚は洗い物にとりかかる。
 泣かないって決めてたのにな。
「恥ずかしいよ。何で私、こうなんだろう」
 溜め息は水音にかき消された。
 洗い物を終えると洗濯物を取り込み、アイロンをかける。それが終わると互いの布団を干し、シーツなども洗う。
「さて、お買い物にでも行ってこようかな」
 サイフを持ち、書斎の襖を開けようとしたが、直前でやめた。
 先生、集中しているだろうから今は声かけない方がいいよね。
 一緒に出掛けたかったけど、襖の隙間から覗く先生の背に鬼気迫るものがあったので、私は一人で外へ出た。
 心地よい緑の匂いが胸に染みる。これで先生がいればなんて不埒な考えが頭をかすめたけど、仕方ない。今は私も先生もお仕事に精を出す時間なのだ。
 一人で歩くこの道も、すっかり馴染み深くなった。商店街までなら目を瞑っていても、辿り着けそうだ。
 なんてことを考えていると商店街に着いた。
 各商店を回り、夕食の食材を買う。今晩は完成を祝って少し豪華なものにしよう。そう無理に心を弾ませながら、渚は買い物をする。
 酒屋を出ると、渚は天を仰いだ。
「やだなぁ……」
 顔を下ろすと溜め息が出た。何が嫌なのか自分でもはっきりとわかるが、もうそれは単なる甘えでしかない。駄々っ子と一緒だ。
「私って子供。まだうじうじと悩んじゃう」
 もう少し大人になったら悲しみを抱いても歩けるようになるのかな。泣かないで笑って別れられるのかな。
「強くなりたいなぁ」
 足元にある小石を蹴飛ばすと、どこかへ転がって行き、見えなくなった。
 帰宅する前に、小学校へ立ち寄った。渚は誰もいないウサギ小屋の前にしゃがむ。
「うさぎさーん、こんにちはー」
 一匹のうさぎが渚の方へ寄る。
「聞いてよ、うさぎさん。実はね、私、明日にはここを去らなきゃならないの」
 うさぎは何も応えず、小鼻を鳴らしている。
「折角うさぎさん達とも仲良くなれたのにさ、寂しいよ。私、また一人になっちゃうよ」
 渚が雑草を差し出すと、うさぎはすぐさまそれに食いつく。
「ううん、会社には色々優しくしてくれる人がいるのはわかってる。でも、その誰もが違うの。誰の替わりなんてのは、どこにもいないの。もちろん、先生の替わりなんて……」
 ぽろりと一粒涙が頬を伝う。
「あ、あれ、おかしいな。泣く筈なかったのに、どうしてだろう。えへへ、おかしいよね」
 袖で涙を拭い、もう一度うさぎを見る。
「きっと今日で最後。ここでのほとんどが最後。だからうさぎさん、元気でね。モコやミミも元気で。……チーも、みんなを見守っていてね」
 立ち上がり、振り返ると美帆が駆け寄ってくるのが見えた。
「渚おねーちゃん」
「美帆ちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
 美帆は息を切らせながら渚を見上げる。
「もう帰っちゃうの?」
「うん。ごめんね」
「ねぇ、じゃあ明日は一緒に遊べるよね」
「んー、わかんない。約束はできないな」
「えぇー、そんなぁ……」
「ごめんね」
 渚は胸の前で小さく手を合わせる。
「仕方ないか。また今度だね」
「そうだね。美帆ちゃん」
「なーに?」
「うさぎさんを、よろしくね」
「うん」
 渚と美帆は手を振り合いながら別れた。
「美帆ちゃん、元気でね」
 風に流されるような呟きを、ウサギ小屋に駆け寄る美帆に渚は送った。
 帰宅途中の道すがら、不意に新堂が現れた。
「やあ、また会いましたね」
「どうも、こんにちは」
 二人は会釈を交わす。
「昨日が今生の別れのように感じたのにこうしてまた会えるとは、感激だなぁ」
「私も嬉しいです」
 ふっと渚の視線が下がる。
「でも、きっと今日が本当に最後だと思います。今日中にでも先生の小説が完成するので、明日朝にでもここを去らなければなりません」
「なるほど。それで、気持ちの整理はついたのかなぁ?」
「……やっぱりまだ少し、辛いです」
「そうだろう、そうだろう」
 新堂は何度も頷く。
「人間どんな別れも心に傷が残る。それが特に親しい者ならば、なおさら。渚さんの歳ではそれも無理のないことだよ」
「私の歳では、ですか」
「いや、失敬。別に軽んじたわけじゃない」
「わかっています。でも、私はまだまだ弱い子供です。言い訳にはしませんが、等身大の私なんてそんなものです」
「素晴らしい考えだねぇ」
 ふっと新堂の顔が緩む。
「いえ、そんなことありません。本当は今も泣き出しそうに辛いです。この町で出会った愛すべき人達と、別れたくありません……」
「渚さん」
 渚の顔を新堂が覗き込む。
「今日の涙が、明日も同じ涙だとは限らない。私はそう、信じてるよ」
「新堂さん……」
 新堂は体を伸ばすとゆっくりと歩き出した。
「待って下さい」
「何だい?」
「最後に一つだけ教えて下さい。何でこんな私なんかに優しくして下さったんです?」
 新堂はややしばらく考えた挙句、
「私にもし娘がいたのなら、きっと渚さんくらいの歳になっているだろうから……娘のように思えたんですよ。それでは、また会えればいいですねぇ」
 そう言ってどこかへ去って行った。渚はその背に一礼すると、空を見上げた。
 私って本当に果報者なんだな。
 帰宅すると渚は食材を冷蔵庫に詰めてから、寝室に入った。
「疲れちゃった……」
 ぺたんと腰を下ろし、溜め息をつく。そよ風がカーテンを微かに震わせ、髪を撫でる。渚はそっとネックレスを取り出し、握り締めながら心で泣いた。誰にも気付かれないよう、自分でも気付かないよう、ひっそりと。
「渚、ちょっと来てくれ」
「はい」
 書斎からの声に渚はすぐに応じた。
「どうしました、先生?」
「ようやく手直しが終わったから、読者第一号になってもらいたくてね」
「第一号ですか」
 うわぁ、私が先生の初めてになれるんだ。
「ああ。だからちょっと、いや、かなり読みにくいとは思うけど読んで、感想を聞かせてくれ。お世辞とかおべっかはいらない。素直な意見を聞かせてくれ」
「わかりました」
 原稿を受け取るとさっそく渚は読み始めた。
 内容はとある大学生が街で昔の知り合いと出会い、そこから徐々に恋愛関係へと発展していくも、彼女の家が二人を引き離すと言う恋愛物だった。単なる恋愛に終始せず、色々考えさせられるテーマが様々な要素と絡んでおり、とても読みごたえのある作品だった。
「……どう?」
「……」
 ちょっと待って先生、いいとこなんだから。
 読み進める程にすっかり話に没入した渚の表情が次々と変わる。
 そして最後まで読み終えると、渚は大きく息を吐いてから冬馬に原稿を返した。
「どうだった?」
「すっごく面白かったです、先生」
 嬉しかった。自分の仕えている人がこんなにも素晴らしい物語を作れるのだと言うことが、心から嬉しかった。
「今までの先生の文体がしっかりと表されている上に、最後にはちゃんとハッピーエンドで終わっていて。ラストに至る過程とか、あの、色々と……」
 あぅ〜、伝えたいことがたくさんあるのに言葉にできないよ。
「えっと、二人が幸せになったかと思うと、それを邪魔する父親の怖さが、その……」
 ふと、切なくなった。
「何て言うか巧く言葉にできないんですけど」
 替わりに、涙が一筋頬を伝った。
「とにかく、よかったです」
「そっか、そんなによかったか」
「はい」
 涙を拭い、渚は無理に笑顔を作る。
「いやー、嬉しいな。そこまで感動してくれると励みになるよ。よし、さっそく長田に来てもらうとするか」
 冬馬は電話をかけに書斎を出た。渚もそれに続き、ソファに腰を下ろす。
 しばらくして長田が来た。冬馬は長田と共に書斎へ入る。渚は二人のために麦茶を用意すると打ち合わせの邪魔にならないように早々と書斎を出ると、またソファに座った。
 きっと大丈夫だよね。先生のあれは、とってもいいものなんだから。
 打ち合わせが終わるまで、渚は祈っていた。
「それじゃ、失礼しました」
 長田が書斎から出ると、渚は玄関まで見送りがてら、長田に訊いた。
「あの、どうでした」
「いや、いい作品ですよ。これならクビを切られずに済むどころか、売れますよ」
「本当ですか?」
「ええ。僕が保証します」
 長田は得意そうに微笑んだ。
「それではどうも、ありがとうございました」
「ええ。では失礼しました」
 ドアが閉められると、渚は笑顔のまま書斎に入った。もちろん冬馬の完成を二人で祝うためだ。
 だが書斎では冬馬が力無くうなだれていた。
「先生?」
「ん、どうした?」
「それは私の台詞です。どうしたんですか、折角完成したと言うのに」
「……不安でね」
 そういう冬馬の顔は疲れきっていた。
「何をそんな不安に思うんです?」
「アレが売れるかどうかだよ」
「長田さんが大丈夫だとおっしゃっていましたよ」
「どうだかねぇ」
 もー、あんなにいい作品なのに、どうしてそんなに不安に思うことがあるの?
「お外、いいお天気ですね」
 渚は窓の外に目を遣る。
「お散歩でもしましょうか。少しは晴れやかな気分になれますよ」
「そうだな」
 冬馬は重そうに腰を上げた。
 涼しい風が肌に優しい。日差しも柔らかく、それほど暑さを感じさせない。緑の匂いが気分を落ち着かせる。渚と冬馬はゆったりとした時を感じながら歩いていた。
「先生」
 先に口を開いたのは渚だった。
「自信を持って下さいね。私、あれは本当にいい作品だと思います。そして、先生が迷い悩む作品ではないとも私は思います。だから、元気出して下さい」
「わかってる。俺だってそう思う。信じたいけど、どうしても不安になるんだよ。精一杯書いたものがどこかでけなされる。それが堪らないんだ」
「先生……」
「こんなこと考えてもどうしようもないともわかる。でも、考えちゃうんだ。俺は他人から作品をけなされるのが、堪らないんだ」
「大事に思っている証拠ですよ」
「そうだな。……少し話したらすっきりしたよ。ありがとうな、渚」
「いえ、何もできずに……」
 そっと冬馬が渚の手を握る。渚は一瞬驚いたものの、すぐに握り返しながら冬馬を見上げた。
「先生……」
 何も言わず照れ臭そうに微笑む先生が妙に可愛く、安心できた。ああ、こうして先生を感じていられる。手を繋いでいるだけで暖かさが伝わる。胸の中心から体が浮き上がり、自然と頬が綻ぶ。
 私は不意に恥ずかしくなり、照れ笑いを浮かべながらうつむいてしまった。
 その辺を一周して散歩は終わった。時刻は五時半。渚はすぐに風呂の支度を始めた。
 二人共風呂から上がると、すぐに夕食の運びとなった。渚のがんばりがよく現れており、見るからに食事は豪華だった。
「すごいな、今日は」
「先生の完成を祝ってですから」
「ありがとうな」
 冬馬は刺身を口に運ぶ。
「何かこう言うメシ食ってると、ようやく終わったんだなって思えるよ」
「先生、がんばりましたからね」
「でも俺一人じゃ完成しなかったよ」
「色々な人が、色々な想いを与えて下さったからですね」
「そうだな。でも一番大きいのは渚のだよ」
「そ、そんなこと言っちゃダメです」
「何で?」
「恥ずかしいですよ」
 渚は味噌汁を啜る。
「はは、まぁそれはそれとして。いや、こうして本当に美味く思えるのは久しぶりだ」
「そうですね」
「明日からもこうしたメシ、食いたいな」
 明日。明日にはもう私は……。
「ええ」
「なーに暗い顔してるんだよ」
 冬馬が軽く涙を小突く。
「折角俺の元気が出てきたってのに、何を暗く沈んだ顔してるんだよ」
「すみません」
「ほら、また。ダメだろ」
「えへへ、すみません」
「ったく、何考えてたんだか」
 冬馬は何事も無かったかのように一口酒を呑む。
「ま、メシ食い終わって片付けも終わったら、書斎に来てくれ。コップも持ってな」
「わかりました」
 食事が終わると冬馬は一足先に書斎に入り、渚は洗い物にとりかかった。
「明日か……」
 そろそろ先生に伝えないと。もう限界だよね。でも……。
「言いたくないよ、そんな言葉」
 渚は水を止め、皿を拭く。
「……絶対、泣かないんだから。何があってもちゃんとしてるんだから」
 割れたハートが悲しみで電灯を反射した。
「失礼します」
「おう、こっちに座って」
 冬馬の側に座ると渚のコップが満たされた。
「あ、そんなに注がなくてもいいです」
「祝いの席だから少しくらいいいだろ?」
「はぅ〜」
「じゃ、完成を祝ってかんぱーい」
 コップが重なると、二人は一口呑んだ。
「今、本当に終わった気がするよ」
「お疲れ様です」
「ま、これでしばらくは休みが作れる。だからさ、渚」
 冬馬は子供のように無邪気な笑顔を向ける。
「明日にでもどこか行こうか?」
「先生……」
「どこがいい? 海か? 山か? それともまた遊園地とかテーマパークがいいかな?」
「……」
 辛いよ。先生の顔を見るのも、嬉しそうな話を聞くのも。
「渚はどこに行きたい?」
「私は先生とずっと一緒ならば、どこでもいいです。先生のお側に、いたいです」
「おお、俺もだ。じゃ、明日は二人でゆっくり家でゴロゴロしてるか」
「……それも、できないんです」
「まあ、家事があるからな」
「違うんです」
 渚はコップを置き、冬馬を見詰める。
「私、もうここにはいられないんです」
「えっ?」
「私、今日が最後なんです。先生のお世話をできるの、最後なんです」
 楽しそうだった冬馬の顔が一転して強ばる。急激に訪れた沈黙。だが渚は淡々としていた。
「な、何で黙ってたんだよ。そんな大事なこと……」
「前から、決まっていたんです。私がお世話できるのは先生の小説が完成するまでだと」
「そんな……。幾ら何でも急だよ」
「すみません。でも、これは絶対なんです。だから私、明日にでもここを出て行かなければならないんです」
 一言一言が重い。言葉を紡ぐのが、苦しい。
「……」
 冬馬は顔を顰めながらうつむいている。
「……なあ、何とかならないのかよ」
「どうにもならないんです。全ては上からの決定なので。もし背いてしまうと、会社の名折れに繋がってしまいます」
「どんなに俺が頭を下げてもか?」
「はい」
「ありったけの金を積んでもか?」
「はい」
「力づくで引き止めてもか?」
「……すみません」
 先生がこんなに私を必要と想ってくれてる。嬉しくて、とても嬉しくて、その嬉しさが今は苦しみにしかならない。
「……もう一度、契約し直してもか?」
「はい。原則としてメイドは同じ御主人様の所へは行けないんです」
「原則だろ? 例外はあるんだろ?」
「無理ですよ。例外も上からのお達しがあってこそですから。もし破ってしまうと、会社の信用問題にかかわります」
 そんな言葉、掟、嫌だよ。でも、でも……。
「どうしても会社が大事なのか?」
「……はい」
 それを訊いた冬馬が勢いよく机を叩いた。
「何だよ、そんなに会社が大事なのかよ。渚にとって俺は、そんなちっぽけなものなのか。どうでもいいようなものなのかよ」
「……先生」
 そんなこと、言わないでよ。
 じわりと渚の瞳に涙が滲んだが、何とかそれを堪える。
「俺は渚が一番大切なのに、最高のメイドだと思っているのに……」
「……私だって、私だって先生を一番大切な人だと思っています。最高の御主人様だと思っています」
 キッと冬馬を見詰める渚の瞳からは幾筋もの涙が溢れていた。
「私だって本当は離れたくないです。もっと先生のお側にいて、お世話して、お喋りして、色んなとこ行って、笑い合いたいです。でもできないんです。叶わないんです。私だって辛いんです」
「渚……」
「だけど会社は裏切れないんです。身寄りの無かった私を拾ってくれ、ここまで育てて下さったのは会社なんです。だから、だから私、どんなに先生が好きでも、ダメなんです」
「……」
「先生と出会い、こうして想い合えるようになれたと言うのに……。私、離れたくないよ。やだよ。お別れするのなんて」
 割れたハートが涙に濡れる。冷たい。
「もっと、もっと先生と一緒に、いたいよ」
「俺もだ」
 渚は冬馬の胸元に飛び込んだ。冬馬の胸元が、割れたハートがしとどに濡れる。
「先生が暖かいよ。こうして感じられるのが今日で最後なんて、やだよ。でもそれは無理だから、先生」
 渚が泣き濡れた頬のまま見上げる。
「せめて、いっぱい感じさせて下さい」
「ああ」
 キスは切ない涙の味がした。どちらのともつかない涙。だけど二人はそんなことおかまいなしに、唇を求め合う。
 悲しみが胸に広がる。肌が触れ合い、愛を囁く度に、最後が鮮明になっていく。だけど、愛しい。この上なく先生が愛しい。
 そして嬉しい。こんなにも愛しくて大切な人に愛されているのが。優しく私を包み込み、全てをかけてくれているのが。だけど、そのどれよりも切なさが強い。
 先生の指が私を熱くさせる。私は恥ずかしいよりももっと先生を感じたく、抱きついた。
 ああ、これが最後だなんて思えない。明日も明後日も、ずっとこうしていられるように思える。でも、それはできないんだ。
 肌と肌が触れ合う度に想いが伝わり、だけどそれだけでは伝えられないこともいっぱいあって、私は知らないうちに泣いていた。
「渚、泣くなよ。今だけは、そうしよう」
 そういう先生も、ともすれば泣きそうな瞳をしていた。私は先生に涙をすくってもらうと、精一杯の笑顔を返した。何だか初めての時よりも、涙が重い。
 一つになると、言葉にできない熱い想いが胸に込み上がった。体が震える。抱き締められると、それが強くなる。切なさよりずっと、愛しさが私を痺れさせる。
 甘く白い衝動が私を包む。まだ終わりにはしたくない。けれど、どうしようもない。
 最後の瞬間、私は力一杯先生を抱き締めた。先生も抱き締め返してくれた。そしてそのまま、唇を求めあった。
 二人のハートが合わさったのも気付かないまま、私たちは溶け合うように絡み合った。
 どんな愛があって、どんな愛の言葉があるのか、多すぎてよくわからない。だから私は一つの言葉しかしらない。でも、それで充分だと思う。
「先生、愛しています」
「俺もだよ、渚」
 人によっては陳腐かもしれないけど、私はこれしか知らない。何と思われようが、これでいい。だってこれが私なんだから。
「まだ、まだ離さないで下さい。まだ先生を感じさせて下さい。まだ先生だけのメイドでいさせて下さい」
「ああ。渚は俺だけのメイドだ。他の誰のものでもない……」
「先生……」
「渚……」
 すっと冬馬の瞼が落ちる。
 やだよ、まだダメだよ、先生。
 泣きそうな顔で眠りに落ちた冬馬の顔を見ると、涙が一筋頬を伝っているのに気付いた。
「泣いちゃダメだよ、先生」
 渚はそれを指先ですくう。
「あれっ? あれっ?」
 だが冬馬の頬はすくう程に濡れる。
「先生、ダメだよ泣いちゃ。私、そんな先生見たくないよ……」
 景色が滲む。幾らすくっても涙は消えない。ぽたぽたと冬馬の頬を、涙は濡らし続ける。
「先生……」
 かなわなくなり、渚は冬馬に抱き付いた。その拍子に、今度は胸元が濡れた。
「こんなに、こんなに好きなのに──」
 涙は、涙でしかなかった。